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まだ準備の段階で、対象者の視界に自分の存在を認識させることは、御法度だ。御法度とは、禁止の同義語らしい。
法令により禁止されている事柄。また、一般に禁じられていること。国語辞典にそう書いてあった。
あの日、―――。
僕はどうして萩野雫の視界に入ろうとしたんだろう。 一番注意しなければいけなかったのに。
すれ違うほんの一瞬だけ、ほんの一瞬だけ。僕は彼女の瞳に映りこんだ。そう、わざと、―――。
あっという間に降り積もった真白な世界に、突然姿を見せた純白の天使。ほんのりと頬を染めて、白いコートを着てひょこひょこ歩く姿は、まるで雪うさぎみたいだった。
陽に透けるときらきらと輝くブラウンの髪。幼い頃に絵本で読んだ、白雪姫のような白い肌と艶やかな赤い唇。ふわふわとマシュマロみたいな柔らかな印象の身体つき。
大きな瞳をうるうるさせて、儚さを秘めたような表情で見つめられると……男はみんな守ってあげたくなるのだろう。
だけど、本来の萩野雫は、全く持ってその印象とは違う。わかっていることは、まず金持ちしか相手にしない。今回の宮城がターゲットになったのも、金払いの良さだったのであろう。
ターゲットはほぼ、既婚者だ。しかし今回のように、未婚のターゲットも何人かキープしていて、日によってとっかえひっかえと、同時進行も難なく熟している。
「じゃあね、お家に着いたら電話してね」
男の車が走り去った後の表情なんて、清々しいくらいだ。ブランドのロゴの入ったいくつもの紙袋を手にし、難関な仕事を無事為し終えたかのようにご満悦の表情で家路に向かう姿こそ『萩野雫』の本来の姿。
愛の言葉よりも金。愛なんて不確かなもの、欲していないことくらい明白だ。
僕は、――萩野雫との接触を開始する。
あの日は珍しく朝から晴れていた。青く澄み切った雲ひとつない空には太陽が燦々と輝いている。前日までに降り積もった雪が陽の光に融け出して、濡れた路面を歩いて来た客がコンビニのフロアを濡らしていく。
少し前から働き出した、コンビニエンスストア。萩野雫が男と別れた後に立ち寄る確率75%と、統計的では高い店。何度か応対したが、会計の時にみせる態度はかなりそっけない。きっとコンビニでバイトしている男になんて、興味すら湧かないのだろう。
そろそろ、か、―――。
店内を見渡すと客は1人しかいない。ドリンクコーナーの中央の壁に掛けてある時計を確認し、僕は店長に駐車場の雪かきを申し出た。
5分ほど経った頃だろうか。フォルムからして目立つ赤いコンバーチブルが公園の向こうに停車した。小走りで助手席のドアを開ける運転席の男にエスコートされながら、萩野雫が降りてくる。
ひと言、ふた言、会話して、何度も振り返りながら運転席に乗り込む男をにっこり笑って見つめている。
無駄に大きなエンジンが唸り始めると、ちょこんと首を傾げながら走り去る車に手を振った。
今日も上々の収穫があったらしい。肩に掛けた大きな紙袋を脇で押さえ込む様にして、足場の悪い路面をゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
雪の塊を避けて歩いているせいか、視界が下に向けられ、僕に気付いてはいない。
よし、好都合。
タイミングを見計らって、―――。僕は第二段階の接触を試みた。
「きゃあっ」
気付いた時には、既に遅し。
萩野雫の小さな足が踏み込んだ場所は、シャーベット状の雪が山なりになっていて、あおりを受けた僕のチノパンはその飛沫を派手にかぶってしまった。
「ご、ごめんなさい」
突然現れた僕に心底驚いた表情で、真っ直ぐに見上げた視線からは動揺すら見て取れる。
だけど、それも一瞬。すぐに平静さを取り戻すと、肩に掛けていた紙袋の中からハンドタオルを取り出した。
「すごい汚しちゃった……。ごめんなさいね」
「大丈夫です」
制服からしてコンビニの店員だと判断したのだろう。
「これ使って」
「あ、いや、そんな」
「本当にごめんなさい」
押し付けるようにしてその場を離れると、萩野雫は店内にも入らずそのまま背を向けて歩き出す。
これで汚れたところを拭けということか。500円というまだ値札の貼られたままのハンドタオルだ。どういう経緯で手にしたのかわからないけれど、自分で買ったものではないはずだ。
「……」
こんなハンドタオルなんて、彼女にとっては価値すらないのだろう。さっきの男も同様だ。用が事足りて欲が満たされれば、こうやって簡単に切り捨てられてしまうのかもしれない。
でも、まあ、いい感じだ。次に店に現れた時に、話をするきっかけを萩野雫の方からもたらしてくれたことになる。
第二段階の接触は、首尾よく成功したといっていいだろう。
それから先は簡単だった。店に来るたびに挨拶を交わし、日常会話を取り入れる。僕が外国人だったこともプラスに働いたのだろう。萩野雫の方から声をかけてくれることも増えていった。