その名を口にしたお凜さんの目に懐かしいものを見るような光が帯び、その口元に寂しげな影を落としていた。

「私はね、もともとは真輝の死んだばあさんの親友だった。音楽学校で一緒だったんだ。彼女はチェロを弾いていたよ。大人しくて優しい人でね、真輝にそっくりだ」

 ぽつりぽつりと、皺の目立つ口から言葉がこぼれる。尊は相槌も打たず、黙ってそれを聞いていた。
 お凜さんは、さっきの曲を弾いて感傷的になっているような気がした。曲に乗せるだけでは追いつかない胸の内を吐き出したいような顔をしていたのだ。

「私は札幌のオーケストラに所属していたが、生まれたこの街を出なかった。ここには琥珀亭があったし、蓮太郎さんが好きだったんだよ」

 ちょっと驚いて彼女を見ると、ふっと眉尻を下げていた。まるで女学生みたいに照れた顔だった。

「遙というのが、死んだ真輝のばあさんの名前だが、私が彼女を琥珀亭に連れて行ったのがきっかけで、蓮太郎さんと遙は結婚し、あたしは別の男と結婚した」

「それじゃ、お凜さんは親友に惚れた男をとられたってことですか」

 思わず呟いてから慌てたが、彼女は豪快に笑い飛ばす。

「まぁ、それでよかったんだよ。おかげであたしはずっと二人と親友でいられたんだ。でも、遙は随分前に病気で先立ってね。四年前の事故で蓮太郎さんも逝ってしまった」

「喫茶店のマスターからそれだけ聞いてます。ひどい事故だったって話ですけど」

「あぁ。信号待ちをしていたところにトラックが車線を越えて突っ込んできてね」

 お凜さんが長いため息をつく。

「あの頃の真輝はひどかった。しばらくはご飯も喉を通らず、店も閉めていた時期もあったよ。でも、きっとまだ立ち直ってはいないんだ」

「そりゃ、突然だったでしょうからね」

 同情をこめて頷くと、お凜さんが首を横に振る。

「真輝はね、色んな人を突然失っている。かけがえのない人ばかりをね。傷は深いんだ」

 そして、お凜さんは尊をじっと見つめた。

「あたしはね、期待しているんだよ。あんたがいてくれることで、真輝がいい方に変わってくれることをね」

「俺が?」

 尊が思わず目を丸くすると、お凜さんはそっと頷く。

「尊という新しい風が吹くことで、琥珀亭の空気も変わればと思っているんだ」

「俺、何をすればいいんでしょう?」

「何も。思うまま、そこにいてやってくれ。本当に変わるなら、自然に変わるだろうから」

 そして、彼女は目を細める。

「暁はあんたを見てどう思うのかねぇ」

 聞き慣れない名にきょとんとしていると、お凜さんが唇を吊り上げた。

「今日、助っ人に来る男だよ。上杉暁。琥珀亭の先代の一番弟子だ」

「一番弟子? お弟子さんがいたんですか」

 お凜さんが腕組みをして口を尖らせた。

「あいつくらいだよ、あたしを『おババ様』なんて呼べるのは。だが、気のいい奴だし、腕は確かだ。真輝では気がつかないところも教えてもらえるだろうから、楽しみにしているといいよ」

 お凜さんに見送られ、尊は部屋を出た。
 玄関の扉を閉める間際、彼女がこう言った。

「尊、頼んだよ」

 それは今夜の留守番のことなのか、それとも別の意味がこめられているのかわからなかったが、「はい」と素直に頷いた。
 真輝と仕事を始めてたった数日だが、尊は何度か彼女の横顔に影を見いだしていた。どこか遠くを見るような、ふっとどこかに消えてしまいそうな顔をするのだ。
 そんな顔をさせる何かを彼女は背負っている。それが、お凜さんのおかげで少し分かった気がした。
 だが、尊は黙って傍にいようと決めた。言いたくなったらいくらでも聞く。言いたくなければ、ただ隣でたたずんで『一人じゃないですよ』と、温もりで伝えたい。むしろ、自分にできることはそれくらいしか浮かばなかった。
 お通しの材料を買うために車を走らせる最中、彼は流れていたラジオを消した。脳裏に浮かぶのは『感傷的なワルツ』の切ないメロディだ。
 きっと、お凜さんはブッカーズを飲みながら、あのどこか寂しいワルツを再び奏でているのだろう。
 お凜さんは話しきれないほどの想いを、まだ心の底に沈めている気がした。あのワルツに乗せて吐き出すしか術がないというのが、切ない。
 みんな、何かを抱えながら生きている。尊はしみじみと、そう思った。