翌日の昼下がり、尊はお通しの材料を買うために部屋を出た。階段を降り、真輝の部屋の窓を見上げると、もう出かけたあとらしく、青いカーテンがきっちり閉められていた。
 一体、どこに行ったんだろう。そう首を傾げながら歩き出したとき、お凜さんの部屋の窓に人影が映った。

「うわぁ」

 思わず感嘆の声を漏らす。窓辺でお凜さんがバイオリンを弾いていたのだ。かすかに漏れる音はどこか切ないメロディを紡いでいる。

 思わず歩み寄ると、ふとお凜さんと目があった。
 邪魔だっただろうかと戸惑う尊に、お凜さんが手招きする。おずおずと歩み寄った彼に、お凜さんは玄関から顔を出して話しかけた。

「尊、これから開店準備かい?」

「あ、はい」

「真輝は?」

「もう出たんじゃないですか?」

「店はどうするって?」

「上杉って人がヘルプで来るみたいです」

 そんなやりとりをすると、彼女が「ふむ」と唸って、俺をじっと見た。

「どこに行くか言っていたかい?」

「いいえ」

 すると、お凜さんが意を決したようにこう言った。

「入りな」

 彼女は何故か少し機嫌を悪くしたようだった。
 尊は首を傾げながらも、言われるままにお凜さんの部屋に入っていった。
 お凜さんの部屋は2LDKだったが、彼が通されたのはバイオリン教室として使っている一室だった。アップライトピアノと譜面台が二つ、小さなソファとテーブル、そして楽譜がびっしり詰まった本棚がある。そしてテーブルの上には先ほどまで彼女が弾いていたバイオリンが置いてあった。
 深い色をしたバイオリンは素人の尊が見ても古そうだった。飴のように艶を帯び、なめらかな曲線が美しい。

「フェアじゃないね」

 お凜さんが出し抜けに言うので、尊は呆気にとられてバイオリンから彼女に視線を移した。

「あんたに店番を頼んでおきながら理由も言わないなんて、ずるいじゃないか」

「でも、言いたくないなら俺は構いません」

「まぁ、そこが尊のいいところなんだろうけど、真輝は甘えてるよ。一緒に店をやる以上はいずれ耳に入ることなんだから」

 お凜さんはピアノの椅子に腰を下ろす。

「まだ感傷的なのかね」

「どういう意味ですか?」

 きょとんとしていると、彼女がこう続ける。

「お盆ともなると思い出すんだろうかって意味だよ」

 尊はその言葉で、今がお盆だと思い出す。

「もしかして……」

「そう、今日は先代の墓参りに行っているはずだよ」

 お凜さんが口元に寂しげな影を浮かべている。

「お凜さんも今日用事があるって言ってましたけど、もしかしてこれから墓参りですか?」

 彼女は「ちょっと待ってな」と笑うと、部屋から出て行く。しばらくすると、手に一本のボトルを持って戻ってきた。テーブルに静かに置かれたボトルには筆記体の文字がある。

「ブッカーズというバーボンだ。真輝のじいさんが好きだった酒だよ」

 そして、彼女はまたピアノの椅子にゆっくり腰を下ろした。

「あたしはお盆と命日には、いつもこの酒を飲むんだ。彼の好きだった飲み方で、彼の好きだった曲をこうして弾きながら」

「それがさっきの曲ですか?」

「あぁ。チャイコフスキーの『感傷的なワルツ』だ」

「聴かせてもらえますか」

「これで飯を食ってるあたしに、ただで弾けというのかい? 真輝に内緒で一杯くれるっていうなら、聴かせてもいいがね」

 その言いぐさに思わず笑ってしまうと、お凜さんまで笑みを漏らした。

「まぁ、いいさ。なんだか尊なら構わない気がする」

 彼女はバイオリンと弓を手に取った。バイオリンを構えたお凜さんは和音を鳴らして調弦すると、すっと一呼吸いれる。そして辺りにメロディが流れ始めた。
 その音色を聴くうちに、自然と口が開いて、見惚れてしまう。バイオリンを演奏するところを間近で見るのは初めてだし、なによりビブラートが生み出す叙情的な響きが胸を狭くした。
 尊にとってワルツとは明るいイメージだった。それなのに、この曲はどこまでもセンチメンタルだった。まるで夕暮れにふと心許なさを感じるような、そんな気持ちになる。メロディが美しすぎるせいだろうか。それとも、お凜さんが曲にこめた想いがそうさせるのだろうか。
 演奏を終えたとき、尊は惜しみない拍手を送った。感動のあまり言葉が出ない。拍手でしか感動を伝えられないのは情けない気がしたが、本当に何を言っていいのかわからなかったのだ。
 お凜さんはちょっと照れた様子で、バイオリンを置く。

「ワルツっていうとね、三拍子でズンチャッチャと明るいイメージがあるが、こういうのもあるんだよ」

「本当ですね。切ない曲ですね」

「蓮太郎さんが大好きだったんだ」

「レンタロウ?」

「真輝の死んだじいさん。琥珀亭の先代だ」