那智が新しく挿れてきてくれたミルクティーを一口飲むと、少しだけ落ち着いた。
 
「——それじゃ、明日にはもう引越すんだ?」

 明日にはこの町を出て行くことを、私はようやく那智に話した。那智は少し驚いていたものの、冷静だった。

「……うん」

「そっか……。それは急だな……」

「ごめん。やり残したこと、全部できなくて……」

 そう言うと、那智は微笑んでみせた。

「いいって。それに、ほとんどできただろ? 残ったのは修学旅行くらいか」

「……だね」

 修学旅行だけは、どう頑張っても時間的に無理があった。きっと無理だろうなって、わかってた。

「それじゃ、そろそろ行こうか」

 テーブルの上に置いていたスマホをズボンのポケットに仕舞い、那智は帰り支度を始める。

「行くって、どこに?」

 那智はニヤリと笑った。

「文化祭の続きに決まってるだろ?」
 
 カラオケ店から出て駅に向かい、電車で一駅。そこは、那智が小中学生時代を過ごしたという町だった。
 ずいぶんと年季の入ったアーケード街を、那智は迷わず進んでいく。昔ながらの商店がひしめくその場所は、古いながらも活気がある。
 
「子供の頃、よく来てたんだ。近所の友達とかと」

「楽しそう。なんかお祭りみたい」

 私の言葉に、那智は頷いた。

「だろ? 小銭握りしめてさ、しょっちゅう何か食ってたな」

 那智はたこ焼き屋の前で足を止めた。

「食ってかない? ここの、美味いんだ」
 
 店先に顔を出すやいなや、たこ焼きを焼いていたおばさんが那智を見て声を上げた。

「ヒロちゃん? ヒロちゃんじゃない! まあーすっかり男前になっちゃって!」

「おばちゃん、久しぶり」

「もう、ちっとも顔見せないんだから! お母さんは元気?」

「ああ、うん」

「そりゃ良かった。——あら、そちらのお嬢さんは、ひょっとして彼女さん?」

 突然私に視線が向いて、驚いてしまう。

「えっ、いやその私は……」

「そ。俺の彼女のリオ。可愛いだろ?」

 那智はそう言って、当たり前のように私の肩を抱いた。恥ずかしくて顔から火が出そうになる。

「あのヒロちゃんがねえ……。あたしも歳を取るはずだ!」

 おばさんは楽しそうにカラカラと笑いながら、手際良くたこ焼きを焼いていく。サービスだよ、と言って多めに入れてくれた。
 
 たこ焼き屋を出ると、那智は私の手を繋いで歩き始めた。何か言おうかと思ったけれど、繋いだその手があまりにも自然で——まるで初めからずっと繋いでいたかのようで——何も言えなかった。那智の手は私のよりもずっと大きくて、あたたかくて、心地良かった。
 商店街を抜けた先にあった児童公園のベンチに並んで腰掛ける。間に置かれたたこ焼きは、美味しそうな匂いと湯気をこれでもかと放っている。
 
「いただきます」

 那智がたこ焼きを一つ、頬張った。私も、いただきます、と言って一つ食べる。ソースがたっぷり乗ったたこ焼きは、中身がふわふわしていてとても美味しい。

「美味しい……!」

「だろ? 結局ここのが一番美味いって気付いたんだ」

 那智はそう言って笑った。

「素敵な所で育ったんだね、那智は」

「まあな」

 それなのに、やっぱり故郷はポルトガルだと思っているんだろうか。
 
「——俺は、物心ついた時からずっとこの町にいてさ」

 那智が話し始める。

「狭い町だから、みんなが俺のことを知ってるんだ。『あの子は貰われた子だから』なんて噂も、みんな知ってた」

「……うん」

「俺は、それが嫌だった。どこにいても、可哀想な目で見られる。本当の母親はろくでもない女だったなんて噂も、近所の大人から盗み聞いたんだ」

 私は、彼にかける言葉が見つからず、黙ってしまう。

「俺は信じなかったよ。だってそうだろ? 俺が僅かに覚えてる母親は、ろくでもない女なんかじゃなくて、世界で一番優しい人だったんだから。でも両親に聞いたら、母親は外国人に騙されて何もかも失って、挙句の果てに子供を置いて一人で死んだような女なんだって。だから早く忘れろ、って。それからはもう、本当の両親やポルトガルの話をするのをやめたよ」

「……どうして、私には話してくれたの?」

 そう聞くと、那智は頭を掻いた。

「リオは信じてくれそうな気がしたから」

 二人の間に置かれたたこ焼きから、湯気が昇っていく。

「俺はこの町を出たい。ポルトガルへ行って、父親に会って、本当のことを聞きたいんだ」

 その言葉は力強くて、那智が本気だということは十分すぎるくらい伝わった。

「リオ。一緒に来てくれないか? ポルトガルに」

 私の答えは、とうに決まっている。

「行く。絶対一緒に行く」

「やった! じゃあ、その時まで『修学旅行』は取っておくな」
 
 いつか、那智の故郷へ一緒に行く。リスボンの街を、那智と手を繋いで歩く。
 そんな未来が待ち遠しい。生まれて初めて、私はそんなふうに思えた。