僕の朝はパソコンを起動するところからはじまる。

 そこでやるのは、寝る前に描いたラフ画や塗りのチェック、完成したイラストをツイッターにアップするなどの軽作業だ。

 特にチェックは毎朝の重要な作業のひとつでもある。

 一晩寝かせることで新たに気づく部分は多いし、下塗りの塗り残しがあると後で面倒なことになるので頭が冴えている朝にやることにしている。

 そういうわけで、いつも朝6時に起きて7時までイラストをやって、そこから朝食を作ってササッと食べる。

 その後、着替えをして洗濯機を回して、8時に家を出て憂鬱になる登校イベントに参加する……というのが毎朝のルーティンだ。

 どうして僕が朝食を作ったり洗濯機を回したりするのかと言うと、一緒に住んでいる姉の(りん)とそういう約束をしたからだ。

 僕は今、実家の西東京を離れ、姉とふたり、都内で暮らしている。

 どうして姉と? と思う人も多いだろう。

 姉が住むマンションが学校から近かった、というのがもっともらしい理由だけど、一番の理由は別のところにある。

「……これでよし、っと」

 しっかりと「猫田もぐら」のタグが入っているか確認して、パソコンの画面に表示されているツイートするのボタンをクリックした。

 わずかな沈黙の後、ツイッターのタイムラインに、僕が描いた猫耳少女のイラストが表示される。

 昨日仕上げたVtuber「猫田もぐら」の二次創作イラストだ。

 ピンクのロングヘアー&猫耳の清楚な美少女。

 目尻が少し下がってちょっとほんわかとした雰囲気があるのは、彼女の性格をうまく表現しているデザインだと思う。

 うん、本当に可愛い。

 可愛いものを見るとパワーが湧いてくる。朝にもぐらちゃんの可愛さを吸収する「朝もぐ」は、日本国民の義務にするべきだと強く思う。

 そんなふうに彼女の可愛さを吸収してからパソコンを落とし、リビングへと向かった。

 姉が借りているマンションは無駄に広い。

 多分、家族で住むための部屋なんだと思う。部屋数は多いし、なによりキッチンがでかい。

 今日の朝ごはんは、ツナマヨエッグのトーストにするつもりだ。

 食パンの上にツナマヨであえたスーパーの千切りキャベツをのせて、半熟卵を落とす。

 それをふたり分用意して、トースターに入れようとしたところで携帯が鳴った。

 どうやら、さっきアップしたもぐらちゃんのイラストに「らぶりつ」がきたらしい。いいねとリツイートのダブル評価をしてくれたのは、「フレールマニア」さんだった。

 いつも僕のイラストに最初に反応してくれる、数少ない僕のファンのひとりだ。

「……ん〜、今日も愛弟のラブみを感じるわ」

 フレールマニアさんに心の中で感謝の意を伝えていると、姉がリビングに姿を現した。

 昨日と同じ、ノーブラキャミソール&パンツという超絶だらしない格好で。

 キャミソールの片方がずり落ちて、今にも胸が見えそうになっている。

 それを虚無の心で見る僕。

 弟の僕が言うのもアレだけど、姉は確実に美人の部類に入ると思う。スタイルは良いし、顔の造形も整っている。

 だけど、残念なことにそのすべてがこのだらしなさで相殺されている。

 そう。姉はだらしないのだ。

 それも普段の生活に影響が出る壊滅的なレベルで。

 僕が一緒に住みはじめて少しはマシになったけど、以前は想像を絶する酷さだった。洗濯物は一ヶ月近く放置されていたし、ベッドの上にまでゴミが散乱していた。

 おまけに「最後に口に物を入れたのは2日前」というのが普通で、部屋には冷蔵庫すらなかった。

 お金は持ってるのだから家政婦的な人を雇えばいいのにと思うけど、姉曰く、「そういう人を雇う作業も面倒臭い」らしい。

 だから両親は進学を機に僕を姉の元に送り込んだ、というわけだ。

 なんで僕が姉の介護をしないとけないんだと思うことはあるけれど、プロのイラストレーターである姉の神がかったイラストを間近で見ることができるのは、正直うれしい。

 まぁ、こんなふうにキモい下着姿を見させられるのは、家事をやること以上に苦痛極まりないけど。

 そんなだらしない格好の姉が実に残念そうに眉根を寄せる。

「あ〜……でも裸エプロンじゃないのは減点だな〜」

「弟の裸エプロンなんて誰が喜ぶんだよ」

「え? あたしだけど? サトりんの裸エプロンだなんてショタみ強いし、それだけでご飯3杯はいける自信、あります」

「やめろキモい」

 格好もキモいし、発言もキモい。

 というか、そのキャミソール、何日着てるんだよ。

「ずっと同じ格好してるけど、風呂入ったの?」

「は? 愚問すぎるんだけど。ちゃんと一昨日入ったし」

「毎日入れ」

「え、やだ。でも、サトリんが一緒に入ってくれるなら考えてもいいかな?」

「誰が入るか。あと、いつも言ってるけど、いくら家族とはいえ少しは恥じらいを持ってよ。その……下着とかさ」

「おけまる。……いやん、サトりんのエッチぃ」

「うん、恥じらいを持てっていうのは、そういう意味じゃない」

「あ、ちょい待ち。キヨっちから電話……あ、キヨっちおは〜」

 僕の指摘を華麗に無視して、スマホ片手にソファーに腰を降ろす姉。

 キヨっちというのは、出版社の編集さんだ。

 まだ朝の7時前なのに、編集さんも大変だな。

 こんな生活力皆無のウザい姉の対応をしなくちゃいけないなんて。

 姉は少しだけキヨっちさんと話して、すぐに電話を切った。

 そんな姉に何気なしに尋ねる。

「まだ忙しいんだ?」

「ん、まぁね。キヨっちのほうはさっき終わったけど、他のは締め切り重なっててさ。絶賛デスマーチ中」

 さすが売れっ子イラストレーターだ。

 姉は「RIN」の名前でソシャゲのイラストやラノベの挿絵、キャラクターデザインなどで活躍している神絵師だ。

 姉がイラストを担当したラノベはすべてアニメ化するほど人気があり、何を隠そう、彼女は僕が推しているVtuber猫田もぐらの絵師(ママ)でもある。

「……ママ、か」

 ふと、昨日のことを思い出す。

 成り行きで清野のVtuber活動を手伝うことになったけど、どんなキャラクターにすればいいんだろう。

 清野の好みに合わせて描いたほうが良いのか。

 それとも、僕の好みに合わせて描いてしまって良いのか。

 二次創作イラストは山程描いてきたけど、オリジナルデザインなんてやったことがないので全くわからない。なにかコツ的なものがあるのだろうか。

「あのさ、姉ちゃんがオリジナルのキャラを描くとき、何か注意してることってある?」

 トースターから焼き上がったツナマヨエッグトーストを取り出しつつ、尋ねてみた。

 しばらく何も返答がなかったので、また電話をしているのかと視線を向けたところ、姉が目をまん丸くしていた。

「……え。どしたのサトリん、急に」

「え?」

「イラストのことを聞いてくるなんて、珍しいじゃん」

「あ、いや、何ていうか……ちょっと気になったっていうか」

「もしかして、あたしに興味あり?」

「姉ちゃんには興味はないけど、姉ちゃんがやってる仕事には少し興味ある……かも」

「ふぅん?」

 訝しげに姉が目を細める。

 やばい。これは盛大に怪しまれたかもしれない。

 僕の部屋にあるパソコンやペンタブレットは姉から譲り受けたものだけど、僕がイラストを描いていることはヒミツにしているのだ。

 なにか言い訳をせねば……と焦ったけど、姉は仕方ないといった表情で説明してくれた。

「そうだねぇ。わかりやすいところから言えば、テーマとか要望からイメージを膨らませるってことかな。オリジナルって言っても、着想を得るヒントがないと難しいからね」

「え? 姉ちゃんでもイラスト描くのに難しいとかあるの?」

「そりゃああるよ。いきなり『自由に描いて』って振られても何を描いていいか悩むし、あたしの性癖全開の絵になっちゃうからね。や、それが良いって言う人もいるんだけど、プロの仕事としてそれはやっちゃダメな気がするんだよね。だから着想を得るための情報はとても大事」

 何かに縛られるよりも、自由を許されたほうが悩んでしまう……というのはわかる気がする。

 無限の組み合わせの中からひとつだけ選ぶというのは途方もなさすぎる。

 少し話は逸れるけど、僕は自由を売りにしているオープンワールドゲームが苦手だ。何でもできると言われても、何をすればいいか途方に暮れてしまう。

「着想を得る情報……かぁ」

「そ。荒れ狂う納期の海を無事に渡るためには、情報という羅針盤が必要なのだよ、愛弟子よ」

「……誰が愛弟子だ」

「てか、愛弟子ってやばい表現だよね。弟と子供を愛するってショタじゃん」

「そしてすぐそっちの方向に持ってくな」

「あ、やば。このままだと荒れ狂う波のせいであたしの船が沈没しそうだから仕事に戻るわ」

 姉はパッと立ち上がると足早にリビングを出ていく。

「ちょ、お姉ちゃん。仕事戻るって、朝ご飯はどうするの?」

「そこに置いといて。昼にでも食べるから」

 同時に姉の部屋のドアが閉まる音がした。

 それじゃ昼飯だろ……と心の中でツッコむ。まぁ、別に良いんだけどさ。

「しかし、着想ねぇ……」

 コーヒーをいれながら、考える。

 やっぱり僕の好みで描くよりも、清野をイメージしてデザインしたほうがよさそうだ。

 とはいえ、見た目から受ける清楚イメージをそのままキャラ化しても喜んではくれないだろう。なにせ、清野は清楚キャラを演じるのに疲れているからこそ、Vtuber活動をするのだ。

 大事なのは、清野の素顔。

 清野有朱ラムリーという人間の、本当の姿。

「……」

 ツナマヨエッグトーストにかぶりついて、しばし考える。

「……全然わからん」

 出てきた結論はそれだった。

 だって僕、清野のこと全く知らないし。

 ──あれ? これって、初手から詰んだんじゃね?