僕が通っている「私立天津(あまつ)高校」は100年の歴史がある学校だが、伝統を大事にしつつも最新の教育機器を多数導入している。

 例えば各教室には大型ディスプレイとネットワーク環境が完備されているし、中央館にある「マルチメディア室」には、超高性能パソコンが設置されている。

 さらに、そのパソコンにはプロが使うようなアプリがインストールされているからすごい。

 画像編集アプリに映像編集アプリ。おまけに音楽制作用のDTMアプリまで。

 そのどれもが個人で使おうとすれば月々数千円はかかってしまうものばかりだ。

 そんなアプリを一体何の授業で使うんだと首をかしげてしまうけれど、「マルチメディア室利用申請書」を提出するだけで自由で使えるのだから、創作者として使わない手はない。

 というわけで僕は、昼休みになるとマルチメディア室にやってきて、趣味のイラスト制作に没頭する日々を送っている。

「……はぁ」

 昼休みのマルチメディア室に、僕の重〜い溜息が浮かんだ。

 パソコンの画面には、描きかけのVtuber「猫田もぐら」の二次創作イラストが表示されている。

 中学校の頃から趣味で描いている二次創作イラストだが、描き始めたきっかけは姉の存在だった。

 5つ年上の姉は、ソシャゲのイラストやラノベの挿絵なんかを描いているプロのイラストレーターなのだ。

 そんな姉に影響され、定期的に大好きなアニメキャラやVtuberのイラストを描いてツイッターにアップしている──のだけれど。

「……はぁ」

 本日、2回目のため息。

 今日はなんだかモチベーションが上がらなかった。

 その原因は明白だ。

 昨日の放課後に続き、今朝も絡んできた清野のせいだ。

 清野《きよの》有朱《ありす》。

 フルネーム、清野有朱ラムリー。

 有朱がミドルネームで、仲のいい友人からは「ラムりん」と呼ばれている学校のアイドル。

 クソ。なにがラムりんだ。

 アニメキャラみたいな名前をしやがって。

 それだけで腹ただしいのに、顔もアニメキャラみたいに可愛いときてる。

 さらに実はアニメ・ゲーム好きのオタクだったなんて……存在が最強すぎるだろ。

「あっ! もぐらたゃだ!」

「……っ!?」

 突然背後から声がして、危うく椅子から転げ落ちそうになってしまった。

 慌てて振り向いた僕の目に写ったのは、ゆるふわウエーブヘアに、おっとりとした目の女子生徒。

「き、清野……さん!?」

 僕の後ろからパソコンを覗き込んでいたのは、清野だった。

 この女、またしても僕の聖域たる昼休みのマルチメディア室に土足で踏み込んできやがったのか。

「もしかして、これが朝に『明日くらいに上げる』って言ってたイラスト!?」

「え、あう、そ、そう……だけど」

「ヤバい! もぐらたゃを描いてたんだ! ブチ上がる! 控えめに言って最高すぎるんですけどっ! きゃたわんでつらみあるっ!」

 きゃわた……? え? なんだって?

「東小薗くんって、やっぱり神絵師じゃん! 可愛すぎてヤバいし、国家権力で取り締まる必要があるくらい大事件! こんな絵が描ける神絵師が近くにいたなんてホントありえない! というか、なんでこんな最高のイラスト描けるの? もしかして本物の神!? 神なの!? ねぇ、どこに課金すればいい!?」

「……」

 大興奮の清野を前に、返す言葉を失ってしまった。

 こんなハイテンション腐女子っぽい清野を見たことがある人間なんて、この世界に
何人いるのだろうか。もしかすると彼女の親友である乗富や三星ですら見たことがないのでは。

 モデルをやっている芸能人の素顔を知っているというのは、なんとなく優越感があるけど……実に猫に小判感がハンパない。

 そういう素顔は陰キャオタクの僕じゃなく、陽キャ男子たちに見せてあげたほうがいいんじゃないでしょうか。

 ──とはいえ、だ。

 正直、僕のイラストを見て、こんなに喜んでくれるのは嬉しい。

 イラストを描くのは好きだけど苦労がないわけじゃないし、描いてて良かったなってしみじみと思う。

「……いやいや、待て待て」

 僕は何をバカ正直に喜んでるんだ。

 相手は僕の聖域に勝手に入ってきた「侵入者」なんだぞ。

 ちょっと可愛くてオタク属性だからって、特別扱いする必要はない。

 こいつは万死に値する怨敵!

 そら、辛辣な言葉で斬りつけて泣かせてやれ!

「あ、あの……何か用……ですか?」

 ──とかかっこよく心の中で言ってはみたものの、口に出してを言えるわけがないので、精一杯視線で威嚇した。

「え?」

 清野はキョトンとした顔をする。

「何って、もちろん東小薗くんが描いてくれる私のVtuberキャラの打ち合わせだけど?」

 今度はこっちがキョトンとする番だった。

 僕がVtuberキャラを描く?

 そんなこと、言ったっけ。

「ほら、今朝、昇降口で話したときに言ってたでしょ? ゼンショがどうとか」

「ゼンショ……あ」

 そこでようやく思い出した。

 清野に天然で「善処」を過大解釈されたことに。

「か、か、描くとは言ってないから! けけけ、検討するって言ったんだよ!」

「……あっ、ごめんね」

 清野はっと何かに気づき、小さく頭を下げた。

 それを見て、僕はホッと胸をなでおろす。

 ああ、良かった。ようやくわかってくれたか。

 これで僕の昼休みの安寧秩序は守られる。

 そう思ったのだが──。

「打ち合わせとか言ったけど、主な目的は東小薗くんの神イラストを生で見て心を浄化したいと思ったからなんだよね。えへへ、バレちゃったかな?」

 バレちゃったかな? じゃねぇよ。人の話を聞け。

 というか、「心の浄化」とかオタクみたいなことを言うんじゃない……と思ったけど、清野はオタクだった。

 未だに信じられないけど。

「はぁ〜……」

 描きかけのもぐらちゃんが映っているモニタを見て、本当に幸せそうに恍惚とした表情をする清野。

「でも、こんな可愛いもぐらたゃを拝めるなんて、みどりの『お昼ごはんの唐揚げおすそ分け攻撃』に負けなくてよかったな〜。幸せの奔流に流されそう。はぅう……最も高い……」

「……」

 つい、その横顔に釘付けになってしまった。

 なんか清野が僕のイラストを見て、エロい顔してる。

 悔しいけど……たまらん。これだけでご飯3杯はいけそうだ。

 しかし──と、そんな清野のエロい横顔を見て改めて思う。

 なんで僕なんだろう?

 どうして何の接点もなかった僕なんかに、Vtuberキャラのイラストをお願いしてきたのだろうか。

 それに──どうして芸能人の清野がVtuberをやる必要なんてあるのか。

 僕はこうなってしまった経緯に思いを馳せる。

 元を辿れば、昨日、僕と清野が日直だったことがすべての始まりだった。

 そのせいで、清野は昼休みに僕がいるマルチメディア室にやってきたのだ。

 日直は特別教室の鍵を管理することになっている。それで清野は、5時限目の化学の授業で使う化学室の鍵を僕が持っていると思って探していたらしい。

 僕はクラスに友人と呼べる相手がいない。だから、昼休みに僕がどこで何をしているのかを知っているクラスメイトは皆無だ。

 それで清野が担任の増山先生に僕の居場所を知らないかと尋ねたところ、マルチメディア室の利用申請書があった……というわけだ。

 本当に最悪だった。

 いつかは誰かに僕がイラストを描いているところを見られるだろうとは覚悟していた。だけど、まさか「君パン」の藤堂かすみ、通称「かすみたん」を描いていたときに見られてしまうなんて。

 君パンは今季の覇権アニメとして名が挙がっているが、その要因のひとつとして挙げられているのが過激描写……つまり「エロ」だ。

 その過激っぷりからテレビではモザイクがかけられていて、モザイク無しバージョンが観られるサブスク型の動画配信サービスにファンが殺到しているらしい。

 そんな過激な君パンの二次創作イラストなのだから、もちろんエロい。

 案の定、マルチメディア室に現れた清野は僕の絵を見た瞬間、氷みたいに固まってしまった。

 あ、これは死んだなと思った。

 このことをきっかけに、乗富をはじめとする陽キャ女子メンたちの中に「東小薗が昼休みにエロい絵を描いてハァハァしていた」なんて噂が広まり、陰湿ないじめを受けることになるんだと確信した。

 だけど──はっと我に返った清野は、予想だにしなかった言葉を口にした。

「ちょっと待って、それ、君パンのかすみたんだよね!? 東小薗くんが描いたの!? 嘘でしょ!? 東小薗くんって、絵が描けるの!?」

 清野が僕の名前を知っていることに驚いたが、それよりもイラストを見てドン引くどころか目を爛々と輝かせていたことにビビった。

「え、え、え!? 待って待って、普通にメチャうまいんだけど! てか、かすみたん!? なんで学校のパソコンにかすみたんがいるの!? 無理無理! 心臓が破裂するレベルで可愛いっ! けしからん! これはけしからん案件ですよ! はわぁああああっ!?」

 テンションが上がりすぎて、もはや悲鳴に近い奇声を発し始める始末。

 一方の僕は、目の前で一体何が起きているのか理解不能だった。

 こういうとき、一般的な陽キャが返すべき言葉の模範解答は「うわっ、こんなとこ
ろでひとりでそんなもの描いてたんだ。キモっ(笑)」じゃないのか。

 何から何までイミフすぎる。

「……ねぇ、東小薗くん」

 とにかく、清野に妙な反応をされて困惑した僕だったが、更に放たれた彼女の言葉でとどめを刺されることになる。

「ちょっとお願いがあるんだけど」

「は? え? お、お願い?」

「うん。あのね、ちゃんとお金は払うからさ……私のママになってくれない?」

「…………はい?」

 つい、素っ頓狂な声で聞き返してしまった。

 しかし、僕はすぐに理解する。

 ああ、これはきっとお金を介する大人の関係(詳しくないけど、多分ママ活的なもの)を申し込まれたのだと。