遡ること昨日の夜、お風呂から上がってスマホを見ると一女からLINEが来ていて、確認すると『今、電話で話せる?』とだけ来ていた。夏帆はどうしたんだろうと一女に電話をかけた。
「もしもし一女ちゃん?」
『夏帆ちゃん……ごめんねこんな夜遅くに』
一女の声は以前よりも陰りのあるものだった、いつの頃からか彼女は笑わなくなって声も暗くなってしまった。
一女の好きなアニメの話をしようにも、今ではラノベや漫画原作のアニメでさえキャラクターたちがマスクをしてソーシャルディスタンスを取っていて、巷やSNSでは「ポリコレに屈した」とか「消毒された」とかで炎上し続け、夏帆も一女も白けて見なくなってしまった。
「ううん、気にしないで……学校じゃ話せないこと、あるしね」
『そうだね、結局終わらないまま……息苦しいまま三年生になっちゃうね』
「うん入学してから体育祭や文化祭は縮小したり中止したり……修学旅行、行きたかったわね……沖縄」
『うん、一緒に美ら海水族館行きたかった、一緒に沖縄の海泳ぎたかった、親にコロナだからってバイト禁止されなければな……夏帆ちゃんと二人でこっそり行けたのに』
一女の家は母親が在宅ワークで一方的にコロナ対策と称して門限を早い時間に決め、バイトも禁止してるという。一女は高校入ったらバイトしてそのお金で長期休みは夏帆や友達と旅行に行こう言っていた矢先にだ。
「あたしも、バイト禁止されちゃった……濃厚接触者になるからって」
『そうだよね、夏帆の親……医療従事者だから家が裕福でも親ガチャ大外れだよね! 私も大外れよ!』
一女の口調が明らかにおかしい、前ならそんなこと言わなかったのに! 気の抜けていた夏帆は目の色と口調が緊迫に満ちたものに変える。
「一女ちゃん、何かあったの? 大丈夫?」
『大丈夫じゃないよ……親に話しても聞いてくれないし否定してきて、もう三年前から我慢ばっかりで嫌になっちゃった……もうマスクしたくない、あんな気持ち悪い光景なんかもう見たくない!』
一女の声が震え始める、今にも泣き出しそうで夏帆は今すぐ駆け付けてやりたかった。
『高校生活楽しみにしてたのに全部取り上げられたってお父さんやお母さんに話したらさ……なんて言ったと思う? まだ受験勉強が残ってるって、辛くても笑おうって、どんな神経してるの!? 馬鹿じゃないの!? 私が高校受験で辛い思いしたの知ってる癖に!! 全然聞いてくれないのよ!!』
どんどんヒステリックになって一女に夏帆は戦慄し、電話の声からは虚しい笑い声さえも混ざる。
『しかもさ……SNSで気持ち呟くとね……ざまあみろとかさぁ……自己責任だとか、恵まれない人もいるとか、ウクライナの人たちに比べれば遥かに恵まれてるから甘えるなとか……偉そうにアニメアイコンの人が言うのよ……きっと人の不幸が楽しくて楽しくてしょうがない……人生なにもかも上手くいってないおじさんたちがネチネチと偉そうに説教してくるのよ! 女子高生相手にこんなこと言ってみっともないと思わないの……ははははは……みんな私たちの声なんか聞いてくれない……あっはははははっはは……』
一女は虚しく高笑いした声が、次第にヒステリックな嗚咽に変わる。
『ああ……もう嫌! こんな日々耐えられない! 今は我慢って! 来年はって! もう三年になるのよ!! 先生も親も、みんな言うのよ! 今我慢すれば夢を叶えられるって、もう私と夏帆ちゃんの夢は永遠に叶わないのよ!』
そう、一女の言う通り夏帆の夢は高校入ったら青春アニメみたいに素敵な友達や彼氏を作って放課後は街でわいわいして休日は一緒に遊んで、一緒に文化祭や体育祭、修学旅行を楽しんで、沢山笑ったり、泣いたり、遊んだりして眩しくて、爽やかで、甘酸っぱい青春したかった。
『明けない夜はない、止まない雨はない、去らない冬はない、出口のないトンネルはない、そんな上っ面だけの綺麗事なんかもう聞きたくない! もう嫌……こんな夢……夢なら覚めて……覚めてよぉっ!! ……こんな怖くて苦しくて辛い夢もう嫌だよぉ……助けてよぉ……ねぇ……助けてよぉ……』
一女は電話越しに声を上げて泣き、夏帆もいつの間にか唇を噛んで泣いてた。
一女に何もできない悔しさ、一女を追い詰めた大人そのものへの怒り、そして憎悪はコロナそのものへの憎悪を遥かに上回ってボロボロと涙を溢して啜り泣く。
どうしてこうなったの? どうしてこんな惨めな思いしなきゃいけないの? どうしてあたしたちが身も心も削り尽くして我慢し続けなきゃいけないの? 我慢するために生まれたの? あと何回惨めな思いすればいいの?
何も言えず一頻りに夏帆は啜り泣き、一女は電話越しに泣き叫んでいた。
やがて泣き顔でぐしゃぐしゃになった夏帆は涙が枯れ、永遠とも言える沈黙が続いた後に、一女は静かにお礼を言う。
『ナギちゃん……話し聞いてくれて……ありがとう』
「一女ちゃん、何も力になれなくて……ごめんね」
『ううん、気にしないで……私、ナギちゃんと友達になれてよかった……』
「あたしもよ一女ちゃん、もう寝るね」
『うん……おやすみなさい』
「おやすみ……一女ちゃん」
電話が切れる、繋がりが切れてしまってそれが最期の会話だった。
今にして思えば、お別れを言ってるような口調だったと夏帆は思い知り、呟く。
「……一女ちゃん、多分……最期にあたしの声を聞きたかったんだと思います」
「……峰岸さんの最期の言葉……親御さんにお伝えます、聞かせてくれませんか?」
赤城先生も教え子を亡くした悲しみを精一杯押し殺した口調だ、夏帆は唇を震えさせる。
「言ったら……葬儀に参列させてくれますか?」
夏帆の言葉に赤城先生はゆっくりと少しの間目を伏せ、それを長く感じてると全てを左右する重大な決断を下す国家元首のようにゆっくりと目を見開く。
「峰岸さんの親御さんに交渉します……峰岸さんと誰よりも仲が良かった草薙さんを、クラスの代表として参列させたいと、今日一日待ってくれますか?」
「はい……お願いします」
夏帆は実感が沸かないまま頷くと、教室に戻って遅れて一時間目の授業に出た。
放課後になると赤城先生は親族から了承してもらったと伝えられ、クラスの代表として夏帆は翌日の通夜や告別式に参列することになった。その間、夏帆は悲しみに打ちのめされる一女の両親になんて伝えようかと考える気もせず通夜、告別式を経て火葬を終える。
その間に夏帆が涙を流すことなんて一度もなかった、ただどうしてあんなに明るくて、優しい一女が死ななきゃいけなかったのか? それで頭がいっぱいだった。
葬儀が一通り終わり、参列者が多くいる中で赤城先生がご両親に参列させてくれたことへの感謝を伝えていた。
「――まだ……草薙さんが立ち直るのは当分後の話しになりそうです」
赤城先生は振り向いて夏帆を一瞥すると、一女の両親が憔悴し切った微笑みで歩み寄ると母親が一礼して感謝の言葉を述べる。
「草薙さん、生前は一女のこと良くしてくれて本当にありがとう……一女も来てくれてきっと喜んでるわ」
その瞬間、ハッと我に返った気がして停滞していた夏帆の心が動き出した。
何? このドロドロと渦巻くような感じは? そう感じてる間に娘を失ったショックで年齢以上に老け込んだ父親が、憔悴し切った声で言う。
「一女も草薙さんに出会えて幸せだったよ」
喜んでる? 幸せだった? それなら最初から命を絶ったりしない、心臓に火が点いた気がしてそれが何かわからなかった。夏帆に両親の言葉が理解できず、言葉が出なかった。
「赤城先生から聞きました、前夜に電話してたって……一女はなんて言ってました?」
母親は縋るような眼差しで訊く、それがどうして無神経に聞こえるんだろう? 高温に加熱された灼熱の心臓からマグマのような血液が全身を巡る。
「娘の、最期の言葉を教えてくれないかい?」
父親は屈んで俯く夏帆の顔を覗き込もうとする、夏帆は溢れそうになる何かの衝動を必死に抑え込みながら顔を上げ、震わせながら逆に訊いた。
「……一女ちゃんの言葉に、耳を傾けましたか?」
夏帆の言葉に沈黙した空気が流れる、両親はまるで訊かれたくないことを訊かれてしまったかのような表情になり、赤城先生は何かをグッと堪えてるようだった。
「……一女ちゃんと向き合いましたか?」
夏帆は問い詰め、込み上げてくる感情を抑えながら最期の会話を思い出しながら口にする。
「一女ちゃんは最期まで……苦しんで……悲しんで……大声で泣いてました……先生や親、誰に……相談しても、頭から否定してばかりで誰一人耳を傾けてくれなかったって」
「そ……そう……だったのね」
一女の母親は憔悴してるが同時に後ろめたさを感じてるようで、夏帆はそれを見逃さなかった。
「……どうして聞いてくれなかったんですか?」
「それに関しては私も家内も悪かったと思ってる、みんなコロナで大変だったんだ」
一女の父親はおろおろして明らかに動揺してるが、見苦しい言い訳にしか聞こえなかった。
「みんな大変だった? あたしも一女ちゃんも、夢を全部奪われて……苦しめられて、その一言で全部……有耶無耶にしてしまうんですね!」
夏帆の声が徐々に刺々しくなり、一女の母親は困惑しながら夏帆を宥めようとする。
「有耶無耶だなんてそんな、それでも一女はあなたと友達になれてよかったわ」
母親の一言で、夏帆は今自分が抱いてる感情を心の底から理解した。
高純度のどす黒い、目に映るもの全てを焼き尽くす程の憎悪と憤怒だ。
その瞬間、夏帆の全身の血液が激しく沸騰して抑えていたものが決壊してゆっくりとマスクを外し、あらゆる負の感情が凝縮された能面のようになった素顔を露にした瞬間、般若のような形相になった。
「ふざけるな……一女ちゃんの気持ちを勝手に決めつけて……ふざけるなぁっ!!」
夏帆の怒声が響くと参列者の視線が一ヶ所に集中するが、それに構わず血涙を流さんばかりに泣き叫ぶ。
「一女ちゃんは苦しみ抜いて、あんたちを恨んで、憎んで、そして死んだのよ!! あんたたちが殺したのも同然よ!! だからあんたたちを許さない!! これから長く生きて死んだ後も永遠に苦しめ!! それが嫌なら友達を! 一女ちゃんを返して!!」
「草薙さん! 落ち着いて!」
赤城先生は困惑しながら夏帆を止めようとするが、構わず叫ぶ。
「あんたたちはそのまま一女ちゃんの分まで抱えきれない苦しみと後悔に押し潰されながら生きていけ!! あたしと一女ちゃんの、たった一度の夢を奪った報いよ!! あんたたちのこと、永遠に恨んで憎んでやる!!」
夏帆はそう吐き捨てると赤城先生の制止を振り切って逃げるように火葬場を飛び出した。
外は雨にも関わらず夏帆は全身がずぶ濡れになり、水溜まりに足を突っ込んでも構わず、涙を流しながら走る。
どうして? どうして一女ちゃんはこんな悲しい思いを抱えて理不尽な死に方しないといけないの!?
その問いに答えてくれる人はいない。
一女を喪った悲しみと救えなかった悔しさ、自分の不甲斐なさと自分自身への怒り、そして一女を死に追いやった全てのものへの憎しみが夏帆の全身に激しく巡り、回る。
雨の中をローファーで走ると足を勢いよく滑らせ、そのまま激しくアスファルトの地面に叩きつけられ、全身に鈍い激痛が走ってしばらくそのまま俯せになったままになる。
「うっ……痛い……痛いよぉ……一女ちゃん……痛いよぉ……」
両肘と両膝を激しく打って擦りむいたうえに頬がズキズキと痛む、夏帆は啜り泣きながら痛む体を引き摺って歩く、途中道行く人とすれ違って声をかけられたが無視しながら家に帰り着くと、早出勤務から帰ってきた母親が玄関まで駆け寄ってくる。
「お帰りなさい夏帆、赤城先生から――どうしたのその傷!?」
「……なんでもない」
「なんでもないわけないじゃない! こんなにずぶ濡れになって怪我までして、破傷風になったら大変よ! 体拭いて上げるからリビングで座って待ってなさい!」
母親は急患が来たかのように手早く家に置いてある救急箱を取ってリビングで怪我の手当てを受ける。両肘両膝に包帯が巻かれたり、絆創膏が貼られ、頬にも擦過傷ができたようでそこにも大きめの絆創膏が貼られた。
「赤城先生から連絡があったわ、火葬場を飛び出したんだってね……一女ちゃんを喪って辛いのはわかるわ……だけどね、人間どんなに辛くても、苦しくても、悲しくても、生きていかなきゃいけないのよ」
瞳から光を失った夏帆に母親の言葉は届かないが、最後の一文だけは頭に焼き付いた気がした。
どんなに辛くても、苦しくても、悲しくても、生きていかなきゃいけない? 簡単に言わないでよ!
服をピンク色の部屋着に着替えてホットはちみつレモンを飲んで温まり、自室に入ると最初に目に入ったのは部屋に置いてある縦長の全身鏡で、夏帆は思わず目を見開いた。
ほんの一瞬だった。
写ったのは部屋着姿で頬に絆創膏を貼り、瞳から光を失ってやつれた自分ではなく、知らないどこかの学校の制服――胸元の赤いリボンの夏服姿で表情も眼差しも光輝いていた。
「えっ? 今の……あたし?」
瞬きにも満たないほんの一瞬だったが、脳裏に焼き付いて鮮明に見えていた。
その瞬間から、夏帆は不思議な違和感を感じた。
あれ? おかしい、あたしはあたしなのにまるで何かが違う……現実にいるのに現実じゃない違和感、だが夏帆はその考えを振り払った。
疲れてるのよ。一眠りしよう、そうすれば夢から覚める一女ちゃんがいなくなって……夏帆はこれ以上考えるのをやめて布団に潜り込んだ。
ところが朝、目が覚めてもその違和感は拭えず普通に登校しても、まるでここは自分の通う学校じゃない気がするどころか、町田の自宅マンションも自分の家ではない気がして人を観察するのも仕事である医者の父と、看護師の母親から勘づかれるのも時間がかからなかった。
違和感を感じ始めて数日後、母親と二人だけの夕食に食べ始めてから母に指摘される。
「夏帆、あなた大丈夫?」
「えっ? な、何?」
夏帆は今話してる相手が血の繋がった母親であるにも関わらず、赤の他人のように感じていつの間にか他人行儀な話し方をしていた。
「最近変よ……まるで心ここにあらずって顔をしてたり、話してる時もまるで他人みたいに振る舞うのよ……一女ちゃんのことまだ受け入れられないのはわかるけど」
母親が本気で心配してるのはわかるが、夏帆はあの日以来目に写るもの全てがどうでもよくなってしまったのだ。
「もう……一女ちゃんと一緒に夢を叶えられないから」
「夏帆の夢って何? どんな仕事に就きたいの?」
「言いたくないわよ、言ったところでどうせそんなの夢じゃないって言われるから」
夏帆は最近、親と話す時に他人行儀で口調が刺々しくなっているのを肌で感じていた。
「そ、そう……ごめんね」
「そういうお母さんの夢って何?」
逆に訊くと母親は少し表情と口調を柔らかくしながら答える。
「そうね……あたしの夢は夏帆が立派な大人になって欲しいことかな?」
「立派な大人……それじゃ、あたしはお母さんが思い描いてる立派な大人とは違うのになるわ」
高校卒業したら家を出よう、就職か進学は今から考えればいい、とにかく両親との繋がりは断ち切って母親が抱いてる夢を、土足でグチャグチャに踏み潰してやろうと夏帆は決意した。
違和感が日増しに大きくなっていて三ヶ月経つ、その間に風のたよりで聞いた話では一女の両親が大喧嘩の末に離婚したという、夏帆にはもうどうでもいいと思っていた放課後のこと。
高校最後の夏休みが始まる前の梅雨の時期、その日は曇り空でいつものように学校が終わり、一人で家に帰るため廊下を歩くと男子生徒二人組とすれ違う瞬間、会話の一部を耳にした。
「ああもうマスクしなくていい世界に行きたい」
「異世界転生って奴?」
「いや、コロナが流行らずウクライナで戦争が起きてない並行世界かな」
「異世界転生というより並行世界転生?」
「それも悪くないが……間を取って限りなく現実に近い異世界ってのは?」
「軌道エレベーターとかマスドライバーとかありそうな?」
「いいねそれ! SFアニメみたい!」
遠ざかっていく男子生徒二人の声にハッとした立ち止まった瞬間、夏帆は立ち尽くす。
数ヵ月間分ぶ厚い雲で覆われた心の隙間から僅かな光が射す、そして誰かが嗚咽を漏らしながら自分を呼んでいた。
――草薙さん……お願い、目を覚まして……まだ……君のこと好きだって言ってないのに
あたしを呼んでるのは誰? 夏帆はそれが誰かをよく知ってる、思い出せないだけだ。
心に覆われた厚い雲の隙間から射す光が、徐々に増えていき明るくなっていく。
優しくて、可愛らしくて、強くて、だけど悩みを抱えてる男の子、顔や声に名前、そして抱えている悩みも思い出せないけどこれだけはハッキリ言える。
夏帆に恋をしていてそして夏帆も恋をしてること、そして数ヵ月間抱えていた違和感の正体。
あたしは……この世界の人間じゃない!
違和感の正体を心から理解した、今いるどこまでもぶ厚い雲に覆われて色褪せた灰色の世界にいるべきではなく、眩い快晴の空が広がるカラフルな世界。
軌道エレベーターが聳え立ち、お互いに手を触れ合い、素顔が見える美しい世界。
その瞬間、夏帆の覆われた厚い雲は消え去って眩い陽の光に満たされる。
夏帆の冷えきっていた心が温もりに満たされ、やがて心と身体の隅々まで行き渡って澄み切った温かい涙が頬を伝い、そして何をするべきかは明白だった。
帰らなきゃ……みんなが待ってるあの世界に! 俯いてばかりだった夏帆は顔を上げる。
でもどうやって? どうやって帰ればいい?
――草薙さん、僕の声が聞こえる? みんなでアマテラスオープンフェスティバルに行こう……草薙さんも一緒じゃないと……駄目なんだよ!
ここじゃない違う世界に自分の帰りを待ってくれる人がいる、夏帆は温かい涙を流しながら聞こえた方向に向けて踵を反し、歩き出す。
「聞こえるよ……もっと……君の声を聞かせて」
夏帆は聞こえた声に向けて呟くと、また声がした。
――草薙さん、クラスのみんなが……心配してるよ、喜代彦君も中野さんも磯貝さんも……特に潮海さんなんか……夏帆ちゃんは幸せになるために生まれて来たんだって
幸せになるために生まれてきた。そうよ! その通りだわ、そしてあたしも幸せを与えるんだ!
上に続く階段を一歩一歩昇る。そうだ! あたしはあの世界に帰らないといけない! みんなが待ってるのよ! そして夏帆は自分に恋した少年の名を震えながら口にする。
「優君……」
そして立ち入り禁止のロープを越えて屋上に続く階段を昇り切り、鍵がかかってないことを祈りながら扉を開けると、眩い一面の青空が広がって天まで高く伸びる塔――軌道エレベーターアマテラスが聳え立っていた。
見えたのはほんの一瞬で、次の瞬間には目を閉じても眩しくて暖かい光に包まれて意識が遠くなった。
次に気が付いた時に見えたのは真っ白な天井だった、夏帆は全身がやけに重く感じた。
視線を上下左右に動かすと窓に面した病室だということがわかる、口元の違和感を感じて重くなった腕を動かし、手に触れると人工呼吸器のマスクだった。
夏帆は躊躇うことなくゆっくり外すと、息苦しさから解放されたかのように鼻から肺、そして体の隅々まで酸素を取り込んで掠れた声で呟く。
「ここは……どこ?」
病院なのは間違いない、夏帆は全てを思い出していた。
高校最後の夏休み前、学校の屋上から飛び降りて自殺したことを。
死んであの世界に転生したのか、一命を取り留めたのかはわからないが、幸い意識を失ってそんなに経ってないらしく辛うじて体は動くが重い……一週間寝たきりだと筋力は一〇~一五%低下すると医者の父が言ってたのを思い出す。
夏帆はゆっくりと上体を起こし、両足をベッドから下ろす。
ベッドからいきなり体を起こすと起立性低血圧を起こすから、時間をかけて体の状態も調べると腕や足、頭に包帯を巻かれてるのがわかったが、幸いそんなに痛くない。
「大丈夫……動ける……」
夏帆は震えながらゆっくりと両足の裏を床に着けてそこに体重をかけ、ベッドの柵に掴まって立ち上がる。枕元の台に目をやるとデジタル時計を見ると午前一〇時過ぎ、日付はあの日から一週間は経っていた。
夏帆は点滴をぶら下げてるスタンドを杖代わりにして一歩一歩窓へと近づき、自分を鼓舞する。
「お……重い……けど……確かめなきゃ」
左腕は点滴の注射針が刺さってるからから迂闊に動かせない、夏帆は重い足取りを踏みしめて右手でカーテンを掴み「せーの」引き千切るつもりの勢いで開けた。
その瞬間、部屋に目が眩む程の眩しい陽光が射して夏帆は目を細めて右手で両目を覆う、やがて目が光に慣れてくるとそっと手を降ろして窓枠に手を置き、外の景色を瞳に焼き付ける。
窓の外に広がるのは港湾施設に面した敷島湾の海、そしてその向こうには宇宙と海を繋ぐ軌道エレベーターアマテラスが聳え立っていた。
「よかった……帰って来れたんだ」
安堵すると同時に巡回にやってきた看護師が部屋に入ってくるなり、慌てて駆け寄ってくる。
「草薙さん! 目を覚ましたんですね!」
夏帆は安堵のあまり力が抜けてその場で倒れそうになったところを、間一髪で看護師抱き止められ、支えられる。
「しっかり! いきなり起き上がるなんて危ないわ! 先生を呼んでくるからベッドで待っててね」
「あの……ここは? どこですか?」
「敷島市立総合病院よ、あなたは軌道エレベーターで交通事故に遭って一週間昏睡してたのよ……目が覚めたばかりだから、安静にしててね」
「はい……すいません」
夏帆は安堵して看護師に介助されながらベッドに戻ると、リクライニングベッドだったので備え付けのリモコンで上半身を上げ、医者が来るまでの間に窓の外を眺めていた。
夏帆はこの世界に帰って来れたことに改めて安堵し、自然と微笑みながら温かい涙が頬を伝った。
よかった、全部悪い夢だったんだ……ミミナちゃん、凪沙ちゃん、香奈枝ちゃん、山森君、そして優君のいる世界が……あたしの世界なんだ。
第六章、あの世界にさようなら
医者の先生の話しによればアマテラスアースポートシティで事故に遭い、この敷島市立総合病院に搬送されて約一週間昏睡状態だった。無人警備車両に跳ねられる寸前に庇った水無月優は軽傷で済んで、思わず安堵したが心配だった。
あの優しくて責任感の強い優君のことだ、きっと自分を責めてるに違いない。
そしてお昼になると汐ノ坂から両親が駆け付けてきた。
病室に入るなり血相を変えた父親が白衣姿のまま駆け寄ってきた。
「夏帆! 大丈夫だったか!?」
「夏帆……よかった……あなたったら……本当に無茶をして」
看護師の母親もナース服姿のまま安堵に満ちた表情で夏帆を抱き締め、嗚咽する。
「よかった……よかった……あなたがこのまま目覚めなかったらどうしようかと」
「お母さん……お父さん……ごめんなさい」
夏帆はあの世界にいる両親にも向けて謝る。理不尽に夢を奪われ、友達を亡くした苦しみを味わったと同時に自分より先に子供が死んで行く絶望をあの世界の両親に与えたのだ、父親は微笑みながら首を横に振る。
「いいんだ、夏帆が目を覚ましてくれた……それだけでいい」
「そうよ夏帆……何か欲しいものとかある?」
母親に訊かれると夏帆は少し考える、とりあえず一週間昏睡状態だったからお風呂に入りたいけど……みんなに会いたい――スマホで連絡すれば来てくれるだろうし、考えた末に夏帆の頭に過る。
それは前世で引き離され、最後を看取ることができなかったキジ猫のツナギだ。
「そうね……猫……飼いたいわね」
「猫? 猫か……俺はいいと思うけど、どうする母さん?」
いきなり難題を突きつけられたかのように父親は困った顔になると、母親も困ったように微笑む。
「そうね……どんな子がいいの? ベンガル? 黒猫?」
「どんな子でもいいわよ……元気な子ならね」
夏帆は自分がこの世界に再び草薙夏帆として生まれてくることができたように、ツナギもこの世界に生まれてきたらきっと素敵なことだろうと思いながら告げた。
あの日以降、水無月優の瞳に映る世界は灰色に色褪せてしまった。
自分のせいで夏帆は生死の境を彷徨っている、もう意識が戻らないんじゃないかと思うと食事も殆ど喉を通らなかった。
――優、こういう時こそ温かくて美味しいものを食べてしっかり寝ろ、でなきゃ心と一緒に体も悪くなってしまう。
父親の言うように人間の生きる活力である食事が喉を通らなければ、当然日課である放課後の古武道の稽古やアルバイトにも身が入らず、特に古武道の稽古では殆ど食べてなかったせいで倒れてしまった。
――水無月君、しばらく休みなさい……稽古中に取り返しのつかない怪我をする前にね。
師範に諭されてしばらく稽古も休み、叔父からもしばらくアルバイトを休むように言われた。
――優、今のお前にバイトは駄目だ……銃なんか持ったらそれで自分を撃ち抜きそうだ。
それで一週間以上を過ごした火曜日の日、クラスメイトたちの同情の視線を浴びながらこの日の授業も上の空で午前中が終わり、いつものように教室で一人でお弁当の味も感じないまま胃に送る作業を終える。
心配した様子の喜代彦が優の席まで歩み寄って声をかける。
「今日はちゃんと食べたんだな優」
「……うん、ただ噛んで飲み込むだけだから」
優はそれっきり何も言わない、夏帆が事故に遭ってからは屋上庭園で女の子たちと食べずにいた。
屋上庭園でスマホでSNSを見てると、凪沙に無理矢理会話の輪に引き摺りこまれてお喋りしながら過ごすが、今はスマホを見る気もしなかった。
喜代彦は前の空席から椅子を借りて逆向きに座り、両腕を背もたれに乗せる。
「優、香奈枝も、磯貝さんも、潮海さんも、みんな心を強く持ってるんだ……お前が強く持たなくてどうするんだ?」
「僕は僕だよ……みんながみんな……強いわけじゃない」
「そりゃそうだけどさ、放課後みんなでお見舞いに行こうって香奈枝が言ってたぞ」
お見舞いに誘われると、いつもなら行くと即答で頷くが行っても目が覚めないままになるかもしれない。先週もバイトと稽古を休み始めてからは毎日放課後すぐに電車で一時間近くかけて面会時間ギリギリまで滞在して帰る日々を過ごしていた。
「お見舞い、今日は――」
行かないと口にしようとした時、教室の外から慌ただしく走る足音が聞こえて扉が勢い良く乱暴に開くと、クラスメイトたちの視線が集中する。
視線の先にはミミナが息を切らして汗で髪を乱し、叫ぶように伝えた。
「水無月君! 山森君! 夏帆ちゃんが――」
ミミナは一呼吸置くその一瞬、クラスメイトの視線が集中してるにも構わず告げた。
「――目を覚ましたわ!」
目を……覚ました? 草薙さんが……目を覚ました!?
教室がざわつくその瞬間、優の瞳に映る灰色に色褪せた世界が一気にカラフルな美しい輝きを取り戻し、反射的に席から立ち上がってミミナを見つめる。
優の瞳から光が戻る。もう一度草薙さんと会って話しができる、笑顔を見ることができる、一緒に遊びに行ける、オープンフェスティバルに誘える、何よりも……好きだって気持ちを伝えられる!
「草薙さん……」
優は今すぐ会いに行きたいという衝動でいっぱいになり、一歩踏み出すとそれに待ったをかけるかのように予鈴のチャイムが鳴ると二の足を踏むが、喜代彦も立ち上がってポンと優の背中を叩く。
「行け、優。俺の方から言っておくから、だから迷うな……走れ、水無月優」
芽生えそうになった迷いや躊躇いを振り払うのに十分過ぎる言葉だった、優の眼差しは決意に満ちたものに変わった。
「ありがとう、喜代彦」
「気にするな」
喜代彦は頼もしく微笑む、優は友に感謝しながらスマホと財布だけを持って躊躇いや迷いを置き去りにして教室を飛び出し、生徒の殆どが授業のため教室に入ったのか静かな廊下を全速力で走る。
「コラッ! そこの二年生! 教室に戻りなさい!」
制止したのは生徒指導でカッターボート部顧問の先生だ。
「すいません早退します!」
優は構わず昇降口でスニーカーに履き替えて暑い太陽が照りつける外に出ると、俯いていた顔が前を向いていて校門へと走る。
「はぁ……はぁ……はぁ……草薙さん――」
今行くから! そのまま汐電汐ノ坂高校前駅に向かって坂道を駆け降りる。
全身から汗が吹き出して既に心臓や肺、筋肉が悲鳴を上げるが古武道の稽古に比べればどうってことないしシューティングレンジのタクティカルトレーニングで重い装備を身に付け、重い銃を持って走り回ることに比べれば遥かに身軽で楽だ。
「はぁ……はぁ……はぁ………まだまだだな……俺」
だけど優はもっと鍛えなきゃと痛感しながらも、自然と微笑みが溢れる。幼い頃から鍛練の大切さを説き、自分を鍛えてくれた父に心から感謝した。
山森喜代彦は微笑みながら教室の窓の外を見下ろす。あいつ、男の顔になったな。
知り合ったばかりの頃は大人しくて暗い印象だったけど、草薙夏帆が転校してきてから変わった――いや、本当の自分を見せるようになったと言うべきか?
校門を出て消えていった優の背中を見送ると授業のため、席に着こうとした瞬間だった。
「山森君!」
ミミナの凛とした声が教室に響くと再び生徒たちの視線が集中する、彼女の目は真っ直ぐ喜代彦を貫かんばかりに見つめて言い放つ。
「こんなことしてる暇あるの? 私たちも行くよ!」
「行くって……もしかして」
「当たり前よ! 授業と友達、どっちが大事なの!?」
ミミナに強く諭される、どっちも大事だがそんなのは優柔不断な奴の答えできっと聞きたくないだろう、香奈枝や凪沙だってそうだろう。喜代彦は溜め息吐いて微笑み、頷いた。
「そうだな、追いかけるか」
喜代彦は自分の机から鞄を取り、ついでに優の席からも置いてった鞄も取って教室を出ようとすると授業のため教室に入ってきた担任の赤城先生と鉢合わせした。
「山森君、潮海さん? どこへ?」
「すいません、草薙さんが目を覚ましたので俺と水無月君と潮海さんは早退します!」
喜代彦がそれだけ言うと返事を聞く間もなく廊下に出て昇降口に急ぐと、香奈枝と凪沙が待っており、凪沙は待ちきれない様子で急かす。
「急いで急いで二人とも! 水無月君行っちゃうよ!」
「いや凪沙、多分もう優は汐電に乗ってると思うよ」
香奈枝の方は比較的落ち着いた様子だ。
「大丈夫! 校門に迎えの車を呼んでるから!」
流石は電鉄グループ会長のご令嬢だ。喜代彦はミミナをアニメに出てくるお嬢様キャラみたいだと思ってたが、草薙夏帆が転校してきてからはおしとやかなお転婆娘だと考えを改めていた。
「さっすがミミナ! 行き先は夏帆の病院ね!」
凪沙の心から明るい笑顔を久しぶりに見た気がする、校門まで走ると待機していた黒い高級車の後部に乗って座り、助手席に座ったミミナが使用人の運転手に告げる。
「森川さん、敷島市立総合病院まで!」
「はい、かしこまりました。皆さんシートベルトをお締め下さい」
運転手の森川さんに言われるまでもなく進行方向右から喜代彦、凪沙、香奈枝がシートベルトを締めると病院に向けて出発した。
終点南敷島中央駅汐電を降りると優は扉が開くと同時に走り出し、一度改札口を抜けて敷島電鉄に乗り換えると運良く快速急行に乗って出発、敷島電鉄敷島駅に到着すると市営地下鉄に乗り換える。
地下鉄を降りて地上に続く長い階段を全速力で駆け上がった瞬間、外は厚い雲に覆われていて優はスコールが降ると確信して外に出た瞬間、全開にしたシャワーのように一気に降り始める。
構うな! 短時間で止む! ここから病院まですぐだ! 一分でも一秒でも早く草薙さんに会いたいんだ! 雨水に濡れたコンクリートの地面を踏み締めると何度も滑って転びそうになる、横断歩道の青信号が点滅しても構わず走り抜け、優は叫んだ。
「草薙さん!」
一キロ以上を全力疾走して全身のあらゆる器官が悲鳴を上げるほど酷使する。
辛い! 苦しい! だけど足を止めるな! 草薙さんに会いたいんだろ!? だったら走れ!!
病院に到着してロビーに入ると、驚きの顔を見せる職員や他の面会者の視線に構わず、夏帆のいる病室へと向かう。エレベーターは待ってる時間を考えれば階段の方が早いと優は駆け上がる。
六階の辿り着くと窓の外のスコールは止んでいた。
優は夏帆が入院してるフロアに入ると肺や心臓、筋肉に酸素を行き渡らせて息を整える。
汗臭いかも? タオル持ってこればよかったと思いながら今度は別の意味で心臓の鼓動が速まり、ドキドキさせながら一歩一歩踏みしめながら個室の前に立った。
この中に目を覚ました草薙さんが……優は一歩一歩踏み締めて入った。
その先にはベッドの上で上半身をギャッジアップして窓の外、視線の先には軌道エレベーターアマテラスに向けている夏帆の横顔と、黒い髪が見えて心の底から安堵する。
よかった……草薙さん、本当に目を覚ましたんだ。
だが、同時に抱え込んでいた罪悪感と自責の念に足取りが徐々に重くなる、すると微かな足音と気配に気付いたのか夏帆は振り向いて優と目が合い、そして見つめ合う。
「あっ……」
夏帆は静かに驚いた眼差しでほんの一瞬の間だけ時間が止まると、次の瞬間にはゆっくりと澄み切った笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい水無月君、目が覚めたばかりでまだ動けないから……窓、開けてくれる?」
まるで何事もなかったかのように夏帆は頼み事をすると、優は「うん」と窓際に立って窓の鍵を外して開けた途端、南国の潮風が穏やかに吹き付ける。
振り向くと夏帆は黒髪を靡かせて気持ちよさそうに微笑み、優を見つめている。
「ありがとう、学校は大丈夫なの?」
「そ……早退するって……言ってきたから」
優は何を話せばいいかわからず、傍に置いてあった手近な丸椅子に座ると夏帆は訊いた。
「ミミナちゃんは大丈夫だった? あたしのこと凄く心配してたでしょ?」
「うん、一番心配してたけど一番心を強く持ってたよ」
「強いねミミナちゃん……多分あたしたちの中で一番気が――ううん、心が強いと思うよ」
「磯貝さんも……中野さんも……喜代彦も……みんな違った強さを持ってたよ――」
言葉が出なくて俯く、あの時自分が早く気付いていれば、こんなことにならなかったかもしれないと目が覚めた時の一刻も早く会いたいという気持ちは、どこへ行ってしまったんだろう。
「――なのに……僕は……」
「いいのよ、水無月君は何も悪くないわ……二度も――ううん、今度も助けてくれたから」
「今度も?」
優は思わずゆっくり顔を上げると、夏帆は母性さえ感じる温かな笑みでポンポンと膝を何度もゆっくり叩いて招く。
「水無月君、こっちにおいで」
優は恐る恐る躊躇いながら身を寄せると、夏帆は身を乗り出して両腕を伸ばし、優の背中に回して抱き寄せられ、気付いた時には優は夏帆の胸の中で心臓の鼓動と柔らかな乳房の温もりを直に感じ取り、思わず困惑する。
「く……草薙さん?」
「眠っている間にね、暗い夢の中で水無月君の声が聞こえたの……それでこれは夢なんだって気付いて目が覚めることができたの。だからあたしを、辛くて、苦しくて、怖い夢から救ってくれて……ありがとう、優君」
夏帆にギュッと強く抱き締められて優は長い長い一週間もの間、ずっと抱え込んでいたモノからようやく解放されて夏帆との繋がりを実感し、両目から今まで心に溜め込んでいた自責の念や罪悪感を洗い流すように抑えきれない涙が溢れてきた。
「草薙さん……僕……」
「泣いていいのよ……優君は強い子だってよく知ってるから」
「……うん……うう……」
優は頷き、夏帆の胸の中で大粒の涙を流して泣いた。温かい……最後に泣いたのはいつだろう? 兵予学校に落ちた時も、草薙さんが事故に遭った時も泣かなかった……その分まで優は泣いた。
優君ってこんなに泣くんだと、夏帆は慈しむ眼差しで見下ろす。
思う存分泣いた優はやがて、泣き疲れて膝枕にしたまま目蓋が重くなってそのまま眠ってしまいそうで、夏帆は可愛いとそっと優の頭に手を撫でる。
「潮風が気持ちいいね……優君」
「うん……温かい、ずっとこうしていたいな」
今の優はまるで母親の膝元で安心しきった小さな子供みたいに思わず笑う。
「ふふふ……甘えん坊さんね」
「膝枕してもらうの……いつ以来かな? ねぇ……草薙さん」
「うん?」
「草薙さんのことさ……」
優が何かを言おうと口を動かそうとした瞬間、一斉に雪崩れ込んできた。
「夏帆ぉぉぉぉぉっ!! 目が覚めたかぁぁぁぁ!!」
切羽詰まった顔で凪沙が真っ先に殴り込みするかのように病室に入ってきた。
「ちょっと凪沙ちゃん、病院では静かに! ええっ!?」
ミミナの凛とした声が響くと彼女は二人を見た瞬間、歓声とも悲鳴とも言える短い声を上げて両目を見開いて顔を赤熱させ、口許を両手で覆う。
「お待たせ優、道路が渋滞して――」
次に入ってきた喜代彦と目が合ってしまって病室内の空気が一瞬で凍り付き、状況を認識した他の二人も長く感じる一瞬の間に香奈枝が最後に入ってきた。
「みんなどうしたの? 固まって……」
香奈枝が部屋を見渡し、優は動きたくても動けないようで夏帆は顔を真っ赤にしてると凪沙は改まった表情で「オホン」と咳き込んで踵を返す。
「夏帆、水無月君、日を改めてまた来るからごゆっくり」
「そ、そうね……今見たことは秘密にしておきましょう」
ミミナは滅多に見られない貴重なシーンを間近で見られ、興奮を抑えたくても抑えきれないのか、裏返った声になりながら反転すると香奈枝は構わずニヤニヤしながらスマホで写真を撮ろうと構える。
「あらあら目が覚めて早々お熱いじゃない、この分なら大丈夫そうね」
「香奈枝」
喜代彦は制止する口調になってカメラのレンズを手で遮ると、香奈枝は一瞥して「はいはい」とスマホを下ろすと優は起き上がってみんなにアイコンタクトした瞬間、凪沙は一瞬で泣きベソかいて夏帆に抱きついた。
「夏帆ぉぉぉぉぉっ! よぉぉぉぉがっっだぁぁぁぁぁっ!!」
「凪沙ちゃん、ごめんね心配かけて……ミミナちゃんも香奈枝ちゃんも」
夏帆は凪沙を抱き締めながら二人に微笑むと、ミミナは嬉しさいっぱいで細い人差し指で涙を拭った。
「夏帆ちゃん、目を覚ましてくれてよかった」
「ホントよ退院したらアマテラスオープンフェスティバルに行こう、勿論みんなでね!」
香奈枝の言う通りだと夏帆は頷くと、ふと香奈枝は何かを思い出したかのように夏帆に訊いた。
「そうだ夏帆、覚えてるかな? 臨海学校の時にオープンフェスティバル誘うって……」
「えっ? ああ……あれね――」
夏帆は臨海学校の時、自分の方から優を誘うと言っていたのを思い出すが断言できることがある。
「――あたしの方から優君に誘われちゃった」
「えっ? いつ誘ったの?」
ベッドの端に座ってる優は心当たりがないようだった、だから夏帆は優の片手を両手で包むように握って見つめ、みんなに目を行き渡らせる。
「あたしが眠ってる時にね、夢の中で聞こえたの……みんなでアマテラスオープンフェスティバルに行こうって……だからあたしも、みんなと一緒に行きたい!」
夏帆の言葉にみんなは勿論と言わんばかりに頷く。
「そうだね……僕もみんなも同じ気持ちだ、草薙さん、目を覚ましてくれて……この世界に帰ってきてくれて、ありがとう」
喜代彦が安堵の眼差しで感謝の気持ちを述べると、香奈枝が冷やかす。
「なんだよ喜代彦! この世界って異世界転生とかじゃあるまいし!」
「異世界転生? それって人生うまくいってないおじさん達が大好きな、前世で悲惨な人生を送った主人公が異世界でチートな力を持ってハーレム作る奴?」
凪沙がさりげなくディスって言うと夏帆は思わずドキッとしてあたしがそうなんだよねと、思わずベッドから跳び上がりそうだった。
目が覚めて二日後の木曜日、しばらくの間入院することになって昨日はみんなや先生、クラスメイトたちがお見舞いに来てくれた。
昏睡から目覚めてからはリハビリが必要らしく、それまでは車椅子らしい。みんなが帰ると退屈に感じていて早く退院して学校行きたいと思っていた時だった。
「失礼します」
知らない男の人の威厳のある声だ、誰だろう? 入ってきたのは真っ白な第二種軍装を一切の乱れなく身を包み、左手には脱いだ軍帽、腰には短剣を身に付けた海軍大佐――親睦会の時に見た水無月優のお父さんだった。
「初めまして、かな? 草薙夏帆さん、水無月優の父です」
「は、初めまして! 草薙夏帆です!」
夏帆は思わず緊張すると彫りの深い威厳のある顔立ちで、以前見た時は凄く厳しくて怖そうな人だと思っていたが、優によく似た眼差しは鋭くも優しげで口調も凛々しくも穏やかだった。
「お怪我の方はもう大丈夫ですか?」
「はい、しばらく入院ですけど大丈夫です」
「よかったです。この度は息子のために危険を顧みず身を挺して下さって、本当にありがとうございました!」
水無月大佐は最敬礼する、軍人である以上に一人の父親として感謝してるのだろう。
「いいえ、水無月君――優君には何度も助けてもらいましたから」
「何度も……優は中学を卒業した後、周りの反対を押し切って敷島の叔父の家に住み着いて……私も優と向き合う機会も殆どなくなってしまいまして……海軍の任務が忙しくてなかなか家に帰れないというのもありますが」
水無月大佐の眼差しと表情は海軍士官ではなく、息子との接し方に悩む一人の不器用な父親のだった。だから夏帆は切り出した。
「あの、優君のことお話ししますね」
すると水無月大佐は嬉しそうに頷いて丸椅子に座る。
「是非、聞かせてくれますか?」
「はい、初めて会ったのは――」
夏帆はまず最初に港湾地区でトラックに轢かれそうになった時、身の危険を顧みずに助けてくれたこと、偶然にも同じ学校でクラスメイトの幼馴染みの友達だったこと、二人になった時に水産高校の生徒に絡まれて守ってくれたことを話した。
それを一通り話すと水無月大佐は鋭い眼差しを穏やかなものにして言う。
「そうだったんですね、私も人のこと言えませんが……全く無茶な真似をしおって……素行の悪い与太者から君を守って喧嘩したこと、全然話してくれないものでしてね……」
「でも、優君はお父さんのこと誇りに思い、尊敬してるって話してました……この前の臨海学校の時、同じ部屋の子達に海軍兵学校の五省を教えてました」
「五省を? 優がクラスメイトの友達に?」
水無月大佐は興味と一緒に密かに嬉しさが入り雑じった眼差しになる。
「はい、山森君から聞いたんですけど、優君お父さんの教えを忠実に守ってみんなにも話していて……だから同時に、自分を責めていたんです」
夏帆は優と星空を見上げたの臨海学校の夜を思い出すと、水無月大佐はその先を訊く。
「……責めていた?」
「はい、兵予学校の受験に失敗して家族みんなの期待――特にお父さんの期待を裏切ってしまったって、いたたまれなくなって敷島に来たって話してました」
夏帆は話しよかったのだろうかと思ってると、水無月大佐は懐かしそうに思い出を話す。
「そうだったんですね、実は私も昔……普通の高校に行きたくて兵予学校の面接官にそれを見抜かれて不合格になったんです。血は……争えないか、まあ無理もありません、兵予学校は体力は勿論中学校でも成績トップな成績優秀スポーツ万能な子でもなかなか難しいですものから」
成績優秀スポーツ万能の子という言葉に夏帆は何となく喜代彦を思い出す、普通の高校に行きたかったのは優も同じだった。夏帆は優と出会ってから今日までのことを思い返しながら話す。
「でも、それであたしは優君に出会えた。とても優しくて、強くて、笑顔が眩しい……優君は本当に素敵な男の子です」
そう言うと水無月大佐は夏帆を何かを見抜いたかのように見つめると、やがて微笑む。
「夏帆さんこそ、あなたは本当に素敵なお嬢さんです……もっと聞かせくれますか? 優のことを」
「はい」
夏帆は転校してから今日までのこと時間を忘れて話した、やがて一時間ぐらい話すと水無月大佐の顔はすっかり穏やかで優しい父親の顔になっていた。
「優は……妻に似て大人しくて争い事を好まない子でしたが、こんなにも強くなっていたんですね……さて、私もそろそろ基地に戻らないといけませんので……また明日、お伺いしますね」
「あの! 明日も来られるなら――」
夏帆は一つ、水無月大佐に提案した。
翌日の放課後、優は夏帆からLINEで散歩の許可を貰ったから車椅子を押して欲しいというメッセージが来ていた、優は快諾してすぐに敷島市内に向かう。
到着すると、すぐに散歩の用意をして辛うじて動ける夏帆は少し申し訳なさそうに言う。
「ごめんね、急に呼び出して頼んで」
「気にしないで、部屋に籠ってばかりじゃカビが生えるからね」
優は慣れない手付きで車椅子を用意すると夏帆はベッドから車椅子に移る、水色のパジャマの上にサマーカーディガンを着て麦藁帽子を被ると、優は訊いた。
「お父さんやお母さんじゃなくてよかったの?」
「診療所の仕事も忙しいからね……三笠公園までお願いしていい?」
「うん、勿論」
優は慣れない車椅子を押して病院を出ると、結構凸凹するんだなと思いながら車椅子を押して歩く、交通量の多い幹線道路を渡ると街路樹の下を通って敷島湾に面して静かな緑溢れる三笠公園に入る、芝生に囲まれて舗装された道を歩きながら優は訊いた。
「どこへ行く、軌道エレベーターが見える所?」
「うん、そこの道を真っ直ぐ行って桟橋の方に」
夏帆の視線の先には敷島湾に面した開けた場所で、海に向かい合う形で横並びにいくつものベンチが設置されてる。
優は芝生に挟まれた広い道を出ると潮風を夏帆と一緒に受けながら左に曲がって歩くと、軌道エレベーターアマテラスより更に向こうの空と海の果てを見ている白い制服の海軍士官が、凛とした姿勢で立っていた。
父……さん? 優にはすぐにわかった。
車椅子を押して歩く足が重くなっていき、やがてすぐ傍まで来ると父親の水無月定道が海の方を見たまま独り言のように言う。
「いい潮風だな優……この風はいつも、安らぎと希望を与えてくれる」
「……父さん」
優は思わず車椅子を止めると、父は車椅子を押してる優の方を向いた。
「待っていたぞ、優」
「どうして……ここに?」
優が思わず口にすると、夏帆は凛とした声で明かす。
「あたしが呼んだの」
「草薙さんが?」
「うん、昨日お父さんが見舞いに来てくれてね。いろいろお話ししたの」
夏帆はそう言って父の方を向くと、父も歩み寄る。
「優、昨日夏帆さんからいろいろと話しを聞かせて貰ったよ」
「うん」
優は思わず目を逸らす。父さんの期待に応えられなかったのに僕は父さんを求めている、なんて図々しいんだろうと思ってると、夏帆の芯の通った声が響く。
「優君――」
車椅子に座ってる夏帆は振り向き、優に背中を押す母親のように優しい眼差しを見せる。
「――目を逸らさないで……」
「草薙さん?」
「お父さんと……向き合ってみよう」
夏帆に諭された優は目を逸らすのをやめて頷き、歩み寄って父と向き合う。
「……父さん」
「優……夏帆さんから聞いたよ。父さんの教え、きちんと守っているんだな」
「うん、でも父さんの期待に応えられなかった……兵予学校には行けなかった」
優は両手の拳を握り締める、本当は普通の高校に行きたかったことやそれを面接官に見抜かれていたことも、話さないといけないと唇を噛むと父は軽く一息吐いた。
「それは父さんも同じだ」
「えっ? 同じ?」
優は思わず訊くと父は頷く。
「話すのは初めてだな、父さんはお前くらいの頃……本当は普通の高校に行きたかった、それを面接官に見抜かれてしまってね……お前は違ったのかもな」
父は悔恨の眼差しになって見つめられると、優は胸の内を明かした。
「父さん……実は俺もそうなんだ! 俺も本当は普通の学校に行きたかった! だけどそんなこと言ったら……父さんを裏切ってしまうんじゃないかって! でも、結局……兵予学校に行けず……父さんを裏切ってしまった」
もう父さんとの繋がりは持てないのかもしれない、そう思いながら父を見つめてると彼は歩み寄ってきてポンと肩に手を乗せる。
「私は気にしていなかったが……やはりお前は違ったな、兵予学校に行けなかったこと、私が思ってる以上に自分を責めていたことを……優……苦しかったことに気付かなくて、本当にすまなかった」
父の表情と眼差しは後悔と自責の念が籠っていた、優は首を横に振る。
「父さんは悪くないよ……兵予学校には行けなかったけど……俺……毎日が楽しくて、充実していて……草薙さんが転校してきてから本当の自分としてみんなとの繋がりを持つことができたんだ! 俺……敷島に来て本当によかった!」
これは断言できる、優は真っ直ぐ見つめると父は今まで見たことないほどの穏やかで優しい微笑みを見せて肩に乗せていた手を降ろした。
「安心したよ優、お前が高校卒業して海軍兵学校に行こうが大学に行こうが、どこかの会社に就職しようが……真っ当に生きてる限り、お前は私の自慢の息子だ」
家柄なんか気にせずお前は自由に生きろ、父さんにそう言って貰えた気がして、とても嬉しくて思わず微笑みを返した。
「うん……俺、父さんにとって恥ずかしくない立派な男になるよ!」
「優、もし生きる道に迷ったら海軍に来い――」
父は敷島湾の方を向いて二・三歩進み、茜色に染まった空と海の向こう側を見るかのように遠い目になる。
「――このどこまでも広がる空と海が、お前を導いてくれる」
どこまでも広がる空と海が、だけど優は思わず笑う。
「それ、海軍じゃなくてもよくない?」
「そうだな、だが……この広い空と海が私の生きる道を示してくれたのは本当だ」
父は微笑み空を見上げる。父は海軍兵学校卒業後に艦上戦闘機の搭乗員になり、空母航空団司令になっても多忙を極める中の今でも腕を磨くため、F/A18戦闘機を乗り回してるという。
どこかで聞いた話だが、海軍の空母艦載機の搭乗員は海の男であると同時に空の男であると話を聞いたことある、父さんはまさにそれだった。
「澎湃寄する海原の~大波砕け~散るところ~」
父とのわだかまりが解けた優は清々しそうな表情で車椅子を押しながら凛々しい声で歌う、吹き付ける潮風を感じながら夏帆は微笑みながら水無月大佐に訊く。
「優君が歌ってる曲って、海軍の軍歌ですか?」
「ええ、海軍兵学校の校歌ではないんですが、事実上の校歌です。私が休暇でたまに部下や兵学校時代の同期や先輩後輩を連れて家に遊びに行き、酒に酔った時に必ず歌って、幼い優もよく一緒に歌ってましたよ」
水無月大佐は懐かしそうに微笑みながら話すと、優も話しに加わる。
「子守唄は父さんの軍歌だったんだ、今でも軍艦マーチとか海行かばとか、歌詞を見ないで歌えるよ」
「優君やっぱり海軍の子ね、そりゃカッター部からも勧誘されるわけだよ」
夏帆はクスリと微笑むと、水無月大佐が興味を示す。
「カッター部? カッターボートだな、優はカッター部に入らないのかい?」
「入れないし入りたくないよ、放課後アルバイトや古武道の稽古、週末にはタクトレもあるんだから……それに入ったら朝から晩まで週末は勿論夏休みまで休日返上で練習、まさに現代の月月火水木金金だよ」
「優が忙しいなら仕方ない、勉学に励み、鍛練を積んでるのなら何も言わん」
水無月大佐は少し残念そうに溜め息吐く、優君のお父さんって厳しそうに見えて案外甘かったりしてと思っていた時だった。三笠公園を一通り回って来た道を戻って海沿いを歩くと、見覚えのある二人組の女の子が周囲を見回しながら歩いてる。
「えっ? 嘘……まさか」
屈んで目を凝らして見るが間違いない、一目でわかった。
「美由ちゃん……それに――」
一人はキャスケット帽を被り、紺色のショートボブで両耳の上にトレードマークとも言える二対の赤い髪留め。猫のような愛らしくも凛々しい目鼻立ちに、キュッと結んだ桃色の唇が目を引く女の子――真島美由だ。
「――妙ちゃんも」
もう一人は幼顔に小柄な体格、栗色の長い髪で小学校高学年にしか見えず、見た目も性格も仔犬のように明るく誰とも仲良くする人懐っこい性格で、いつも美由と一緒に行動していた女の子――井坂妙子だ。
夏帆は座っていると気付いて貰えない気がした。
「優君、止めて!」
「どうしたの草薙さ――ってどうしたの!?」
強く言う夏帆に優は車椅子を止めると、ブレーキをかけて車椅子から立ち上がった。
今見つけてもらえなかったら二度と会えなくなる気がしたのだ。
一週間昏睡していただけで一歩一歩踏み締める足と、それ以上に体が重く感じる。リハビリの先生によればすぐ歩けるようだが、車椅子にしておいて正解だった。
鉛でできた靴を履いてるかと思うほど重い足取りで精一杯叫ぶ。
「美由ちゃん! 妙ちゃん!」
二人の女の子は声に反応してこっちを向いた! 遠くて表情はよく見えないけど、周囲を見回しながら歩いてることからなんとなく自分を探してるのは間違いない、だから力の限り叫んだ。
「あたしは……ここよぉっ!」
その瞬間的、二人の女の子が感極まって泣きそうな顔で駆け寄って来る、ああ間違いない……美由ちゃんと妙ちゃんだ。夏帆は確信した瞬間、膝が曲がって崩れ落ちる。
「夏帆ちゃん! いきなり立っちゃ駄目よ!」
気付いた妙子が叫びながら走り寄る、妙子と美由の動きがスローモーションに引き伸ばされて両膝を付く。
「二人共……会いに来てくれたの?」
一緒に両膝付いて視線を同じ高さにした美由が安堵と嬉しさに満ちた笑みで頷く。
「うん……目が覚めたって訊いたから……来ちゃった」
「いても立ってもいられなかったのよ、美由ちゃんったら昨日今すぐ会いに行こうって」
妙子も嬉しそうに微笑みながら頷く。でもどうして? ここまで来るのに大変だったはずだ。夏帆は突然の再会に受け止めきれなかった。
「……美由ちゃんが?」
「うん、言い出したら聞かないのは相変わらずよ」
妙子は誇らしげに言うと、美由も首を縦に振りながら暴露する。
「妙ちゃんったら夏帆ちゃんが目覚めたって一報が来たら大泣きしたのよ」
「ちょっと美由ちゃん! それ恥ずかしいから言わないでよ!」
妙子は恥ずかしげに頬を赤らめると、美由は夏帆の瞳を真っ直ぐ見つめて笑う。
「ふふふ……やっと……夏帆ちゃんの顔を見れてよかった、写真で見た時に凄くいい顔をしてたから」
「じゃあ……どうしてわざわざ?」
夏帆はずっと胸の奥底に突き刺さってる痛みが強くなるのを感じながら訊くと、美由は凛とした眼差しになる。
「あたしも妙ちゃんも、オンラインやリモートで顔を見たって安心しないわ……離れていても繋がってるなんて言葉、あたし大っ嫌いなの――」
そう夏帆もあの世界で強く感じていた気持ちだ。
「――だって、どんなに強く繋がっても……会いたい時に会えないんじゃ、何の意味もないから!」
その瞬間、ずっと夏帆の胸に引っ掛かっていたものが離れ始める。
そうだよね、どんなに遠く離れていて強く繋がっていても、会いたい時に会えないんじゃ何の意味もないもんね……。
それが離れてやがて消えて行くと、同時にずっと溜め込んでいたものが外へと流れて行く。
「美由ちゃん……妙ちゃん……ごめんね……あたしあの時、二人が手を差し伸べてくれた意味がやっとわかったわ――」
それは涙となって溢れだし、温かく頬を伝って流れ落ちる。
「――あたしね……一年でさよならしちゃうのが……凄く寂しくて、お別れの時が辛くなるのが怖くて……冷たくしちゃったの」
そう、あの時二人が差し伸べてくれた手を払い除ける選択肢だってあったはず、だけど夏帆は少なくとも二人の手を払い除けなかった。美由は温かい笑みで頷く。
「うん……知ってた。夏帆ちゃん本当は寂しがり屋さんだって」
「それに冷たくなんかなかったよ、ただ……ほんの少し怖がってただけ」
妙子はポケットからスマホを取り出して見せると、内地にいた頃の写真を見せる。
その写真は一緒に三人でどこかへ出掛けた一枚で、明らかに隠し撮りしたものだった。
「これって……」
写真の夏帆の横顔は、心から笑っている笑顔だった。妙子は悪戯してやったっという笑みになる。
「えへへへ……こっそり撮っちゃった、夏帆ちゃん笑うと凄く可愛いんだね」
「他にもいっぱいあるよ、そりゃあ数え切れないくらいね」
美由も悪戯っ子のように笑う。ああ、そうかあたしはちゃんとあの時、心から笑ってたんだと夏帆は安堵すると同時に今ここで伝えるべきだと決意する。
「美由ちゃん……妙ちゃん……あの時……手を差し伸べてくれて……友達になってくれて、本当に……ありがとう!」
夏帆は泣きながら満面の笑顔で一番伝えたかったことを言葉にした。
涙を拭って心が一層晴れやかになって顔を上げると、美由が右手を伸ばす。
「立てる? 夏帆ちゃん?」
「あたしたちが支えるから」
妙子が左手を伸ばす、夏帆の心はようやくこの後悔と決別する時だと両手をゆっくり伸ばし、二人の手に触れると繋ぎ、それを支えにして立ち上がった。
――やっと……本当の意味で心を繋ぐことができたんだ。
夏帆は二人の素敵な友達との繋がりを実感してると、優がゆっくりと車椅子を押しながら歩み寄って来ると美由と妙子に一礼した。
「草薙さん、大丈夫?」
「うん、大丈夫よ優君……紹介するね」
夏帆は美由と妙子に介助されながら車椅子に座る。
「内地の友達、真島美由ちゃんと――」
美由は「初めまして」と優と水無月大佐に一礼する。
「――井坂妙子ちゃんよ」
妙子の方はニヤニヤを堪えてる様子で交互に夏帆と優に視線を向ける、優の方は車椅子のハンドルを握ったまま一礼する。
「初めまして、水無月優です」
「優の父です」
水無月大佐も本物の紳士そのものの気品ある一礼を見せると、堪えきれくなったのか妙子はニヤニヤしながら夏帆に迫って訊いた。
「ねぇねぇ夏帆ちゃん、もしかして水無月君と……付き合ってるの?」
「ええっ!? いきなりどうして!?」
「だって……水無月君のこと、名前で呼んでたじゃない!」
妙子に言われて夏帆はやってしまった! と今更気付いた。
「そうなの夏帆ちゃん!?」
美由は裏返った声で訊く、しかもお父さんの前で! 優も思わず頬を赤くして俯くと、水無月大佐は興味津々の眼差しで訊く。
「それは本当なのか優?」
「いや……その……付き合ってるってわけじゃないけど……」
優は愛らしい女の子のように頬を赤らめて目を逸らすし、左手側面を唇に当てる。
「私はいいと思うぞ」
水無月大佐は穏やかな笑みでそう言って夏帆の前に出て片膝着き、見つめる。
「夏帆さん、あなたは本当に気立てのいい素晴らしいお嬢さんです……もしよろしければ、高校か大学を卒業したら――」
水無月大佐は一呼吸置いて、夏帆に告げた。
「――水無月家に、嫁いで来てくれませんか?」
一瞬、なんて言われてるのかわからなかった。
その一瞬が長い時間に引き伸ばされ、嫁いで来てくれないか? ってそれって夏帆は困惑する。
「それって……優君と……」
「はい、水無月家の長男――いいえ、優の妻になってくれませんか?」
止まっていた時間が動き出し、優、美由、妙子、夏帆の四人は声を揃える。
「「「「えええええーっ!?」」」」
「と、父さん! 何言ってるんだよ! もうそういう時代じゃないんだよ!」
優は顔を真っ赤にしながら声を上げると、水無月大佐は立つ。
「わかっているさ、だけど優……こんな素敵なお嬢さんを逃すのは勿体ないと思うぞ」
「わ、わかってるよ……く、草薙さんそろそろ病院に戻らないと看護師さんたちが心配するから! 行こう」
優はそれだけ言うと顔を仄かに赤らめて目を逸らしながら車椅子を押す、その帰りに妙子は明らかに優にも聞こえる声で訊いた。
「ねぇねぇ夏帆ちゃん、水無月君ってどんな子?」
「妙ちゃん、今は訊かないであげて」
返答に困る夏帆の代わりに美由が咎めるが、水無月大佐が豪快に笑って答える。
「はっはっはっはっ! 私の自慢の息子だ、立派な皇国男児のお手本と言っていいぞ」
水無月大佐の言うことには古臭さを感じるが、優君は強くて優しい男の子なのは確かだった。
きっと前世では絶対に出会えないだろうな。
それから数週間後の朝、自分で歩けるようになって退院した夏帆は長い黒髪を編んでエメラルドグリーンの帯を巻き、水色を基調とした赤と白のツツジの花で彩られた浴衣姿になり、下駄を履いて巾着袋を提げて出掛ける。
「それじゃいってきます!」
今日は待ちに待ったアマテラスオープンフェスティバルだ、汐電山海駅でミミナや凪沙と合流して南敷島中央駅に向かって喜代彦と香奈枝と合流、その辺りから敷島市辺りに向かう人で溢れていた。
スマホでネットの生中継を見ながら特別快速の臨時列車で敷島市に行くと、この前優やミミナと三人で出掛けたアースポートシティへと今回は地下鉄で向かう。
既にオープニングセレモニーのテープカットも終えて軌道エレベーターアマテラスも一般客で賑わい、一〇〇〇メートルの展望台や一七〇〇メートルの空中回廊も満員で凡そ四時間待ちらしい。
満員電車並の地下鉄を降りるとスペースライナーに乗り、窓の外を見ると歩道は大勢の人でひしめき合っていて喜代彦は静かに驚きの声を上げる。
「うわぁ……初めて来るけど滅茶苦茶多いんだな」
「なんたってオープンフェスティバルだからね! この前はどうだった?」
テンション高めな香奈枝が訊くとミミナは感慨深そうに答える。
「この前も混んでたけど、今日は別格ね……なにしろお祖父様たちが三〇年の歳月をかけて作った軌道エレベーターだから」
「そうね、この人だかりだとこの前のがスカスカに感じるわ」
夏帆は思わず一女が生前興味を示していた東京ビッグサイトのイベント――コミックマーケット(通称:コミケ)みたいだと思いながら窓の外を見る。優は内地から遊びに来た家族と四人で過ごして、花火の時間が近づいたらに合流するという。
すると凪沙が興味津々の眼差しで顔を出して訊く。
「ねぇねぇ夏帆、水無月君よくお見舞いに来てくれたんだって?」
「えっ? う……うん、来てくれたわ」
夏帆は思わず明後日の方向を向きながら頷く、入院中優は頻繁にお見舞いに来て車椅子押してくれたのは確かだ、すると凪沙は夏帆の浴衣を一瞥するとニヤける。
「夏帆……ツツジの花言葉って知ってる?」
「えっ? ええっ? な、なんのことかなぁ?」
夏帆は全身から汗が噴き出してはぐらかすと、ミミナがこそばゆい声で言う。
「ふふふ……夏帆ちゃん、白いツツジはね、初恋――」
夏帆はドキッとする。
「――そして赤いツツジは……恋の喜びだよ」
ミミナはまるで自分のことのようにキュンキュンしてるようで、夏帆はそれ以上に心臓バクバクだった。
スペースライナーを降りてみんなとアースポートシティの一大イベントを心の底から楽しむ、どこもかしも人・人・人の三拍子でみんな笑顔で瞳を輝かせ、三密とかソーシャルディスタンスなんて頭にないんだろう。
「……よかった、帰ってこれて」
夏帆はあの世界のことを思い出しながら口にすると、オープン記念に皇国空軍の練習機T4で構成されたブルーインパルスと、皇国海軍の練習機T45Jで構成されたホワイトアローズのアクロバットチームがスモークを焚きながら上空を通過する。
思わずみんなで「おおーっ!」と歓声を上げる。みんなで集まって、大声でお喋りして、お互いに触れ合って、ありのままの笑顔を見せて繋がりを感じ合う。
もう、あの世界にはできないことだ。
夏帆は今、自分が暮らす前世から見て限りなく現実に近い異世界に転生できた理由はわからない。
だけどこの瞬間を楽しもう、精一杯。
夕暮れの時間になると軌道エレベーターの真正面にあるコンベンション・センター、アマテラス・セントラルモール前にある広い防災公園の噴水広場にあるベンチで休憩も兼ねて優と待ち合わせする予定で、あと一五分ほどだった。
防災公園の噴水広場で待ち合わせに利用してる人たちは少なく見積もっても一〇〇人以上は確実で、スマホの時計を見る凪沙は不満げに唇を尖らせる。
「遅いなぁ水無月君、遅くても二〇分前には着いておかないとね」
「そうよそうよ、ねぇ喜代彦!」
香奈枝はまるで絶対首を縦に振るように! と言わんばかりに眼光で喜代彦に視線を向けると、彼は棒読み気味だった。
「そ、そう……だね……近くで迷子になってるかも?」
「それなら探してみよう! 夏帆ちゃん、ここのベンチから動かないでね!」
ミミナがそう言って立ち上がると、夏帆はみんなに言う。
「それじゃあ、優君来たら連絡するね!」
「頼んだよ!」
そう言って凪沙は走り去るがみんな同じ方向だ、大丈夫だろうか?
夏帆は下駄を履いてる足をブラブラさせながら待ってると前世ではこんな楽しいことなかったと振り返る、ただ優君のクラス担任が赤城先生だったのは驚いた。さすがに前世のことは覚えてなかったが、優君が目に見えて落ち込んでいたと伝えてくれた。
「優君まだかな?」
夏帆は深呼吸しながら宇宙まで続く軌道エレベーターを見上げる。
マスクしないで吸う空気は美味しい、こうやってマスクせずにソーシャルディスタンスや三密も気にせず、建物に入る時もディストピア小説のように体温を監視されず、手指の消毒を促されて手荒れも気にしなくていいんだと思うと、不思議な解放感に満たされる。
「この世界にも……いるのかな?」
夏帆は呟きながら視線を防災公園に戻すと、懐かしい横顔が見えた気がした。
「えっ……まさか……もしかして」
思わず立ち上がってその背中を視線で追う、次の瞬間には人混みの中に消えて二度と会えなくなる気がした。夏帆は躊躇うことなく履き慣れない下駄で足を踏み出す、一瞬だけ顔が見えた気がする。
人違いかもしれない、それでも確かめずにはいられなかった。
浴衣では走れない、できるだけ足取りを速くして声が届く距離まで詰める。
「一女ちゃん……峰岸一女ちゃん!」
夏帆は前世で自ら命を絶った友達の名前を叫ぶ、その背中が立ち止まって振り向くときょとんとした顔をしていた。黒縁眼鏡に童顔だが前世に比べて大人っぽく、髪も長くなっていていた。
この世界の彼女にとって見知らぬ子に声をかけられたので、当然ながら首を傾げながら見つめる。
「えっ? えっと……」
「峰岸……一女ちゃん……だよね?」
「はい……そうですけど、どちら様ですか?」
夏帆は躊躇しながら訊くと、一女が必死に過去の記憶を辿ってるような表情でゆっくりと頷いた瞬間、夏帆は嬉しさのあまりに涙が溢れそうだった。
よかった、一女ちゃん生きてる……この世界でまた会えた! 夏帆は名前を口にする。
「草薙夏帆です」
「草薙……夏帆……ナギちゃん!?」
一女は微かに思い出したかのような素振りを見せて夏帆は胸が高鳴るが、次の瞬間には「ハッ」として謝る。
「あっ、ごめんなさい……思わず出ちゃって私にもわからないの」
「ううん、昔……友達にそう呼ばれていたの」
夏帆はせっかくこの世界で再会した友達に涙を見せまいと微笑み、一女も微笑む。
「不思議ね……なんだか、凄く懐かしい響き……初対面なのに草薙さんとはずっと昔から友達だった気がする……どこかで会ったかな?」
友達だったんだよ、一女ちゃん……一緒に学校に通ってたんだから。
一女が覚えてないのは当然だ。そして夏帆にはあの誰一人理解してくれない苦しみを思い出して欲しくない、だから自分との思い出と引き換えにこの世界でかけがえのない思い出で上書きして欲しいと願う。
「ううん、あたしのこと覚えてなくて当たり前よ……一女ちゃん、お友達できた?」
「うん、放課後にね……街で友達のみんなとワイワイするのが楽しみなの」
無邪気に頷く、それは一女が前世に抱いていた夢の一つだった。
夏帆は頷いて更に訊く。
「彼氏できた?」
「うん! 決してかっこいい人じゃないしクラスでは目立たないけど、素朴で優しくて芯が通ってる人だよ」
一女の好きなタイプの男の子だ、きっと優みたいな子だろう。
「毎日楽しい?」
「勿論! あたし二年生になったばかりだけど高校入ってから毎日が楽しくて、彼氏や友達と一緒に大声で笑って、泣いて、時には怒ったり、喧嘩して……まだまだ夢のような日々が待ってるんだって思うと、ワクワクするの!」
「よかったわね一女ちゃん、夢が叶って」
「ナギちゃんは?」
「あたしはね――」
興味ありげに微笑みながら訊かれると、夏帆の脳裏に敷島に来てあの世界を思い出した日のことが走馬灯のようによぎる。
「――一女ちゃんに負けないくらい楽しい毎日を送ってるわ、ずっと憧れてた青春アニメみたいにね」
「一緒だ! あたしもそうなの! ナギちゃんも彼氏できたの?」
「ううん、でもね……好きな男の子ができたの……これから一緒に花火を見るわ」
「そう、よかった。それじゃあ……そろそろ行くねナギちゃん」
「うん、頑張ってね……一女ちゃん」
「じゃあね」
一女はそう手を振ると足早に人混みの中に消えていった、まるで最初から存在しなかったように。
これでよかったのよ……だって自分と一緒にいたらあの辛い記憶を思い出してしまいそうだから、夏帆は踵を反して歩き出すと、指先が震える。
「……一女ちゃん、さようなら……」
夏帆は別れの言葉を口にした瞬間、ずっと塞き止めいたものが決壊して涙が溢れ始めたが俯くことなく、振り向くことなく、前を向いて足を進めた。
この世界で幸せに生きていくために、夏帆は二度も親友を失った。
夏帆はベンチに座って人目を憚らず溢れ出る涙を流し続けていると、誰かが歩み寄ってきてまるで絵本の王子様のように片膝ついてハンカチを差し出す。
「草薙さん……大丈夫? 何かあったの?」
声の主は水無月優で、くしゃくしゃの顔を上げると夏帆は頷いて信じてくれないことを承知で口を開いた。
「優君……あたしね……ずっと昔に別れた友達に偶然会ったの」
「うん」
「その子はね、もうあたしのことを覚えてなかったの」
「……思い出して……くれなかった?」
優の柔らかい眼差しと口調でゆっくり訊くと、夏帆はハンカチを受け取って涙を拭きながら首を横に振る。
「そうじゃないの……あたしのこと思い出したら……辛い記憶も一緒に思い出しちゃうから……だから……忘れたままでよかったの」
前世の辛い記憶をこの世界に持ち込んではいけない、だけど同時にあの世界の大切なモノも一緒に忘れてしまわないといけなかった。
優はゆっくりと語りかけるように気持ちを代弁する。
「だけど……大切な思い出も一緒に忘れてしまったから、辛いんだよね?」
「うん」
「それならさ、せめてその子のこと覚えておいてあげよう……いつかまた会った時、思い出して辛い記憶と向き合えるようにね……」
「うん、ありがとう……優君」
夏帆は涙を拭う。もう……泣くのはやめよう、あたしに前世の記憶を呼び起こし、恋を与えてくれた男の子のために。
少しの間に優は隣に座ってくれて、一緒に辛い別れを乗り越えてくれた気がした。そして夏帆は前へ進もうと言わんばかりに勢いよく立ち上がって、南国の太陽のように眩しい笑顔になる。
「行こうか優君! ところで凪沙ちゃんやミミナちゃんたちと会わなかった?」
「うん、草薙さん一人だけ?」
優も立ちながら訊くと二人のスマホが同時に通知音が鳴った、見ると一通のLINEメッセージだった。
『二人だけで楽しんでおいで!』
思わず夏帆は優と顔を向け合い、微笑む。
「楽しんでおいでって……」
「うん、楽しんじゃおうか!」
優は愛らしく頬を赤らめ、夏帆も実は心の内では心臓が跳び出しそうになってドギマギする。優も同じ気持ちだろう。
「と言っても……楽しむって……何だろうねあ」
「決まってるじゃない! オープンフェスティバル……っというか――」
夏帆は思わず笑ったその瞬間、最大級の勇気を振り絞って艶やかで晴れやかな笑みと甘い声で告げる。
「――デート!」
「う……うん」
優は頬を赤らめながら目を逸らさず、彼もきっと精一杯の勇気を振り絞って包むように夏帆の手を握る。
「草薙さん、手……離さないでね」
ああやっぱりこの子、あたしに恋をしてると心地良い胸の鼓動を感じながら夏帆は艶やかに、そして無邪気に微笑んで頷いた。
「……うん、優君もね」
そして二人で手を繋いで歩き出す、もう一人じゃないんだと実感しながら花火を見るのに良さそうな場所を探す。
「優君、ミミナちゃんが教えてくれたんだけど、あの辺がよくない?」
「うん、あそこならまだ空いてるね」
夏帆の指差す先にあるのは公園の小高い丘だ、夏帆は優の手を引っ張って緩やかな斜面の階段を登ると、空いてるスペースに腰を下ろした。
やがて日が落ちるとアマテラスがライトアップされ、各所に設置されたモニターやビジョンカーの映像が切り替わって人々の視線が集まり、リニアクライマー第一便の出発式が始まった。
『皆さん、大変長らくお待たせいたしました。ただいまより出発式を執り行います。私、本日司会進行をさせていただきます柴谷でございます。どうぞよろしくお願いいたします――』
モニタービジョンにはインカムを装着した背の高いショートカットの女性が現れ、主催者である敷島電鉄グループ会長でミミナの祖父である潮海一蔵が主催者挨拶を行い、来賓祝辞を経て、与圧服姿の宇宙飛行士四人がにこやかに手を振りながら現れる。
その中には四組担任の米島先生の弟――米島涼の姿もあった、低軌道ステーションに向かうリニアクライマーに全員が乗り込む間、主催者や来賓がテープカットの準備に入る。
『それではテープをお持ちになってご準備ください』
リニアクライマー全員が乗り込んでシートベルトを締めると、いよいよ第一便の出発だ。
『皆様、準備が整ったようです。私が「どうぞ」と申し上げましたら、テープにハサミをお入れください。それでは、アースポートシティ発静止軌道ステーション行きのリニアクライマーが発車します! どうぞ!』
テープがカットされた瞬間、盛大なファンファーレが鳴ると同時にリニアクライマーが宇宙に向けて出発、最初はゆっくりと昇りやがて天に向かって徐々に加速し始めると同時に一八五二メートルの塔の下から上の順に色鮮やかな花火が放たれる。
「始まったよ! 草薙さん!」
優は無邪気な表情を輝かせ、甲高い口笛のような音をいくつも響かせながら、夜空に大輪の花をいくつも咲かせる。花火が夜空を輝かせるたびに、夏帆はふとあの世界で得られなかったことを、今この世界で得ていることを改めて実感する。
マスクも着けずに人の素顔や表情が直に見える喜び。
直に手を触れ合い、心を繋ぎ、通わせ合うこと。
直に顔を合わせて、集まって、お喋りして、笑い合うこと。
直に友達と抱き合った時の温もり、優君と手を繋いだ時のときめき。
全てもうあの世界では得られないことだ。
夏帆はオンラインやリモートではなく、夜空に煌めく大輪の花火を直に自分の目で焼き付け、耳に響かせ、感じながらこの世界に転生させてくれた神に祈る。
――神様、どうかお願いします。コロナ禍のあの世界で自ら命を絶った人たちが、あたしのように幸せに暮らせる世界に連れて行ってあげてください。
やがて花火がインターバルに入って辺りが静寂に包まれると、周囲の人たちが家族や友人、恋人とでお喋りを始めると夏帆も優の方を向く。
「優君、花火……優君? どうしたの?」
優の横顔を見ると、彼は顔を真っ赤にして極限までの緊張に必死に耐えながら笑顔で平静を装ってるのがすぐにわかる。
「大丈夫、花火……凄く綺麗だね」
「うん、あたしも優君と一緒に見られて凄く嬉しい」
だから夏帆は背中を押すつもりで微笑む、頑張って優君。
「く、草薙さん……俺さ……」
「うん」
夏帆は見つめながら頷くと、優は緊張を落ち着かせようと呼吸を二~三回深くした瞬間、心を貫くような鋭い眼差しで頬を真っ赤にしながら告げた。
「あの時から、君のことを知りたい、触れたい、繋がりたいって気持ちがなんなのか……ようやくわかった。これは恋なんだって――」
優はそっと胸を右手に当てて気持ちを直に伝える。
「――俺、草薙さんのことが……好きだ!」
覚悟を決めて顔を真っ赤にする優に、夏帆は嬉しさに満ちた笑みになる。
「うん、ずっと前から知ってた。だって……眠ってる時に聞こえてたの」
「そ、そうなんだ……」
優は必死に目を逸らさないように見つめてる。その瞬間、インターバルが終わって甲高い音を響かせながら花火が何発も打ち上げられ、夏帆の答え決まっていた。
「あたしもね、優君のことが……好き!」
優と心を通じ合い、繋いだ瞬間、この夜空に一瞬しか咲かない大輪の花を爆音と共にいくつも一斉に咲かせ、そして儚い命のように消えて行く。
それは人類が宇宙への新たな道を開き、一つの恋を実らせた二人を祝福するかのように。
夏帆は花火の爆音に負けないように大声で叫んだ。
「あたし、これからやってくる楽しいことや、嬉しいこと、優君と一緒に見て、聞いて、感じて行きたい! だから、付き合おうっ!」
「うん、勿論! これからよろしくね草薙さん!」
優は嬉しさで胸いっぱいの笑みだった。
夏帆は夜空にきらめき輝く花火を優と手を繋いで見上げる。恋、友情、青春、様々な形の人との繋がりに満たされた気持ちを、この世界で得たのだ。
宇宙と空という二つの意味が込められた、ソラと海のアマテラスが聳え立つ世界で。
エピローグ
オープンフェスティバルの翌日、夏帆はいつものように登校して山海駅でミミナや凪沙と合流する。
「おはよう凪沙ちゃん、ミミナちゃん!」
「おはよう夏帆ちゃん!」
丁度ミミナや凪沙も来たばかりのようだった。
「おはよう夏帆! 昨日は楽しかったね!」
「うん、花火凄く綺麗だったわ」
夏帆は汐電に乗って昨日のオープンフェスティバルのことを喋りながら登校する。
前世での息苦しく辛い世界にはもう二度と行きたくないし、一女ちゃんが自分のことを覚えてないのは凄く寂しくて悲しいけど、思い出してよかったと思う。
そんな思いに浸ってると凪沙がニヤニヤしながら言い寄ってくる。
「と~こ~ろ~で~昨日は水無月君とどうだったの?」
「コラコラ凪沙ちゃん駄目だよそんなことに訊いちゃ……気になるけど」
ミミナは咎めるが同時に気になるような眼差しだった。
「う、う~んとても楽しかったよ」
夏帆は笑って誤魔化しながらはぐらかす、まさか告白して付き合うなんて今はちょっと言えない。
そう思いながら校門に入ると優と喜代彦を連れた香奈枝と鉢合わせし、駆け寄ってお互いに「おはよう」と挨拶を交わす。
夏帆は昨日のこともあってか口調がぎこちなくなる。
「お、おはよう……優君」
「草薙さんおはよう」
優の方も若干上ずった声になる、昨日から付き合うことになったがこのことは秘密にしておこうと約束したのだが、この分だといつバレてもおかしくない。
「夏帆、優、昨日はどうだったの?」
香奈枝は歩きながらニヤニヤと早速興味津々の眼差しで訊いてくると、夏帆はまた笑って誤魔化してはぐらかす。
「えっ? どうだったって……」
「だって優が機密事項だって喋ってくれないもん」
香奈枝も凪沙と同じく気になるらしく、不満げに唇を尖らせると喜代彦が溜め息吐きながら訊く。
「それならどうして昨日草薙さんと優を二人っきりにしたんだい?」
「そうね……夏帆が転校してきてから優、変わり始めたからよ」
香奈枝はそう言うと、喜代彦は首を横に振る。
「優は変わったというよりも本当の自分を見せるようになった……俺はそう思うね」
夏帆の方も優と出会えたことで変わることができたと微笑み、優に眼差しを向けると彼は照れ臭そうな顔になる。
「変われたかどうかはわからないよ、でも……草薙さんと出会えたおかげで僕は前よりも沢山の人たちと話すようになったし何より……父さんと向き合うことができたんだ!」
やがて優の表情は晴れやかで爽やかな微笑みになる。
夏帆はそっと優と見つめ合い、涼やかに微笑んで頷くと喜代彦はヘッドロックをかける。
「クサイ台詞! でも優、いい顔してるじゃねぇか!」
「そんなことないよ喜代彦、放さないと投げ技かけるよ」
優は満更でもない表情で喜代彦とじゃれ合いながら校舎に入ってまたいつもの、だけどかけがえのない一日が始まる。
「おはようみんな」
みんなに挨拶する香奈枝と教室に入るとアクリルボードに隔たれず、ソーシャルディスタンスやマスク着用という概念を持たずに直に表情を見せ合って笑い合うクラスメイトたち、それが以前より尊く見える。
すると香奈枝が来るのを待っていたのか女子生徒が駆け寄ってくる。
「ねぇねぇ香奈枝聞いて聞いて! 昨日のオープンフェスティバルにさ、空野さんが三組の桐谷君と歩いてたのよ!」
「ちょっと広めないでよ! 偶然会っただけだから!」
追いかけてきた空野零が顔を真っ赤にして弁解し、香奈枝はおちょくる。
「ええでも零、顔真っ赤だよ」
こんなに真っ赤な顔、マスク着けてたらきっと見られないわねと思わず笑みを溢しそうになりながら席に着いて鞄を置き、空いた窓の外から吹き付ける南国の潮風。
広がる空と海を夏帆はほんの一瞬の間、眺める。
――あたしも優君に出会えたことであの世界の記憶を思い出し、変わることができた。
あの時、優君に助けられなかったら色々な後悔を残したままこの世を去っていただろう。
この世界が美しいことも、人との繋がりがこんなにも素晴らしいことも、何より恋を知ることもできなかった。
どうして自殺したあたしがこの世界に転生したのかはわからない、だけど前世の記憶を思い出したことで今まで目に映る当たり前の光景が、かけがえのないものに見えて世界が鮮やかに色づいていた。
夏帆はそれを噛み締めながら一日を過ごし、家に帰る。
「ただいま」
靴を脱ぐと母親が出迎えてくれた。
「お帰りなさい夏帆、そっちの部屋に入ってごらん」
「えっ? もしかして」
夏帆は期待を込めて口にすると母親はすぐに一階和室の襖を開けようと手を伸ばすと、愛らしい仔猫の鳴き声が響く、それも何度も。夏帆は思わず母親に期待の視線を向ける。
「お母さんもしかして!」
「うん、元気な男の子よ」
母親が微笑みながら襖を開ける、数日前に買い揃えて置いた猫用ゲージの中に一匹の仔猫の陰が出して言わんばかりに懸命に鳴いてる。夏帆は両膝着いて覗こうとすると同時に母親がケージを開ける。
「えっ? まさか……嘘」
夏帆は思わず呟き、目を見開いて出てきた仔猫を見つめる。
出てきたのは一匹のキジトラ猫だった。しかも小さいとはいえ前世で会えないまま他界した雄のキジトラ猫で小さいとはいえ、目付きも色も模様も小さい頃のツナギそのものだった。
「ツナギ?」
夏帆は思わず口に出すと、仔猫は嬉しそうに鳴いて駆け寄って来て夏帆の胸に跳び込んできて夏帆はしっかりと抱き止めた。
「ツナギ! 会いに来てくれたのね! ツナギ……あたしのこと、覚えてる?」
仔猫は嬉しそうに何度も鳴いて覚えてるかどうかは本当のことはわからない、だけどわかることが一つだけある。あの世界で天寿を全うしたキジトラ猫のツナギが、再びこの世界に生まれてそして再び夏帆と出会ったのだ。
夏帆はその奇跡と喜びを噛み締め、そして温かい涙が溢れていた。