ところが朝、目が覚めてもその違和感は拭えず普通に登校しても、まるでここは自分の通う学校じゃない気がするどころか、町田の自宅マンションも自分の家ではない気がして人を観察するのも仕事である医者の父と、看護師の母親から勘づかれるのも時間がかからなかった。
 違和感を感じ始めて数日後、母親と二人だけの夕食に食べ始めてから母に指摘される。
「夏帆、あなた大丈夫?」
「えっ? な、何?」
 夏帆は今話してる相手が血の繋がった母親であるにも関わらず、赤の他人のように感じていつの間にか他人行儀な話し方をしていた。
「最近変よ……まるで心ここにあらずって顔をしてたり、話してる時もまるで他人みたいに振る舞うのよ……一女ちゃんのことまだ受け入れられないのはわかるけど」
 母親が本気で心配してるのはわかるが、夏帆はあの日以来目に写るもの全てがどうでもよくなってしまったのだ。
「もう……一女ちゃんと一緒に夢を叶えられないから」
「夏帆の夢って何? どんな仕事に就きたいの?」
「言いたくないわよ、言ったところでどうせそんなの夢じゃないって言われるから」
 夏帆は最近、親と話す時に他人行儀で口調が刺々しくなっているのを肌で感じていた。
「そ、そう……ごめんね」
「そういうお母さんの夢って何?」
 逆に訊くと母親は少し表情と口調を柔らかくしながら答える。
「そうね……あたしの夢は夏帆が立派な大人になって欲しいことかな?」
「立派な大人……それじゃ、あたしはお母さんが思い描いてる立派な大人とは違うのになるわ」
 高校卒業したら家を出よう、就職か進学は今から考えればいい、とにかく両親との繋がりは断ち切って母親が抱いてる夢を、土足でグチャグチャに踏み潰してやろうと夏帆は決意した。

 違和感が日増しに大きくなっていて三ヶ月経つ、その間に風のたよりで聞いた話では一女の両親が大喧嘩の末に離婚したという、夏帆にはもうどうでもいいと思っていた放課後のこと。
 高校最後の夏休みが始まる前の梅雨の時期、その日は曇り空でいつものように学校が終わり、一人で家に帰るため廊下を歩くと男子生徒二人組とすれ違う瞬間、会話の一部を耳にした。
「ああもうマスクしなくていい世界に行きたい」
「異世界転生って奴?」
「いや、コロナが流行らずウクライナで戦争が起きてない並行世界かな」
「異世界転生というより並行世界転生?」
「それも悪くないが……間を取って限りなく現実に近い異世界ってのは?」
「軌道エレベーターとかマスドライバーとかありそうな?」
「いいねそれ! SFアニメみたい!」
 遠ざかっていく男子生徒二人の声にハッとした立ち止まった瞬間、夏帆は立ち尽くす。
 数ヵ月間分ぶ厚い雲で覆われた心の隙間から僅かな光が射す、そして誰かが嗚咽を漏らしながら自分を呼んでいた。

――草薙さん……お願い、目を覚まして……まだ……君のこと好きだって言ってないのに

 あたしを呼んでるのは誰? 夏帆はそれが誰かをよく知ってる、思い出せないだけだ。
 心に覆われた厚い雲の隙間から射す光が、徐々に増えていき明るくなっていく。
 優しくて、可愛らしくて、強くて、だけど悩みを抱えてる男の子、顔や声に名前、そして抱えている悩みも思い出せないけどこれだけはハッキリ言える。
 夏帆に恋をしていてそして夏帆も恋をしてること、そして数ヵ月間抱えていた違和感の正体。

 あたしは……この世界の人間じゃない!

 違和感の正体を心から理解した、今いるどこまでもぶ厚い雲に覆われて色褪せた灰色の世界にいるべきではなく、(まばゆ)い快晴の空が広がるカラフルな世界。
 軌道エレベーターが聳え立ち、お互いに手を触れ合い、素顔が見える美しい世界。
 その瞬間、夏帆の覆われた厚い雲は消え去って眩い陽の光に満たされる。
 夏帆の冷えきっていた心が温もりに満たされ、やがて心と身体の隅々まで行き渡って澄み切った温かい涙が頬を伝い、そして何をするべきかは明白だった。
 帰らなきゃ……みんなが待ってるあの世界に! 俯いてばかりだった夏帆は顔を上げる。
 でもどうやって? どうやって帰ればいい?

――草薙さん、僕の声が聞こえる? みんなでアマテラスオープンフェスティバルに行こう……草薙さんも一緒じゃないと……駄目なんだよ!

 ここじゃない違う世界に自分の帰りを待ってくれる人がいる、夏帆は温かい涙を流しながら聞こえた方向に向けて踵を反し、歩き出す。
「聞こえるよ……もっと……君の声を聞かせて」
 夏帆は聞こえた声に向けて呟くと、また声がした。

――草薙さん、クラスのみんなが……心配してるよ、喜代彦君も中野さんも磯貝さんも……特に潮海さんなんか……夏帆ちゃんは幸せになるために生まれて来たんだって

 幸せになるために生まれてきた。そうよ! その通りだわ、そしてあたしも幸せを与えるんだ!
 上に続く階段を一歩一歩昇る。そうだ! あたしはあの世界に帰らないといけない! みんなが待ってるのよ! そして夏帆は自分に恋した少年の名を震えながら口にする。
「優君……」
 そして立ち入り禁止のロープを越えて屋上に続く階段を昇り切り、鍵がかかってないことを祈りながら扉を開けると、眩い一面の青空が広がって天まで高く伸びる塔――軌道エレベーターアマテラスが聳え立っていた。
 見えたのはほんの一瞬で、次の瞬間には目を閉じても眩しくて暖かい光に包まれて意識が遠くなった。

 次に気が付いた時に見えたのは真っ白な天井だった、夏帆は全身がやけに重く感じた。
 視線を上下左右に動かすと窓に面した病室だということがわかる、口元の違和感を感じて重くなった腕を動かし、手に触れると人工呼吸器のマスクだった。
 夏帆は躊躇うことなくゆっくり外すと、息苦しさから解放されたかのように鼻から肺、そして体の隅々まで酸素を取り込んで掠れた声で呟く。
「ここは……どこ?」
 病院なのは間違いない、夏帆は全てを思い出していた。
 高校最後の夏休み前、学校の屋上から飛び降りて自殺したことを。
 死んであの世界に転生したのか、一命を取り留めたのかはわからないが、幸い意識を失ってそんなに経ってないらしく辛うじて体は動くが重い……一週間寝たきりだと筋力は一〇~一五%低下すると医者の父が言ってたのを思い出す。
 夏帆はゆっくりと上体を起こし、両足をベッドから下ろす。
 ベッドからいきなり体を起こすと起立性低血圧を起こすから、時間をかけて体の状態も調べると腕や足、頭に包帯を巻かれてるのがわかったが、幸いそんなに痛くない。
「大丈夫……動ける……」
 夏帆は震えながらゆっくりと両足の裏を床に着けてそこに体重をかけ、ベッドの柵に掴まって立ち上がる。枕元の台に目をやるとデジタル時計を見ると午前一〇時過ぎ、日付はあの日から一週間は経っていた。
 夏帆は点滴をぶら下げてるスタンドを杖代わりにして一歩一歩窓へと近づき、自分を鼓舞する。
「お……重い……けど……確かめなきゃ」
 左腕は点滴の注射針が刺さってるからから迂闊に動かせない、夏帆は重い足取りを踏みしめて右手でカーテンを掴み「せーの」引き千切るつもりの勢いで開けた。
 その瞬間、部屋に目が眩む程の眩しい陽光が射して夏帆は目を細めて右手で両目を覆う、やがて目が光に慣れてくるとそっと手を降ろして窓枠に手を置き、外の景色を瞳に焼き付ける。
 窓の外に広がるのは港湾施設に面した敷島湾の海、そしてその向こうには宇宙(そら)と海を繋ぐ軌道エレベーターアマテラスが聳え立っていた。
「よかった……帰って来れたんだ」
 安堵すると同時に巡回にやってきた看護師が部屋に入ってくるなり、慌てて駆け寄ってくる。
「草薙さん! 目を覚ましたんですね!」
 夏帆は安堵のあまり力が抜けてその場で倒れそうになったところを、間一髪で看護師抱き止められ、支えられる。
「しっかり! いきなり起き上がるなんて危ないわ! 先生を呼んでくるからベッドで待っててね」
「あの……ここは? どこですか?」
「敷島市立総合病院よ、あなたは軌道エレベーターで交通事故に遭って一週間昏睡してたのよ……目が覚めたばかりだから、安静にしててね」
「はい……すいません」
 夏帆は安堵して看護師に介助されながらベッドに戻ると、リクライニングベッドだったので備え付けのリモコンで上半身を上げ、医者が来るまでの間に窓の外を眺めていた。
 夏帆はこの世界に帰って来れたことに改めて安堵し、自然と微笑みながら温かい涙が頬を伝った。

 よかった、全部悪い夢だったんだ……ミミナちゃん、凪沙ちゃん、香奈枝ちゃん、山森君、そして優君のいる世界が……あたしの世界なんだ。