「思い出されましたか?」
 ピエロは窓のない壁を見つめていた。

「うん……少しだけ……でも、あの日、海峡で何が起こったの? な、何か、恐ろしいことが起こった気がする……」
 ピエロは私の目を見つめた。
 私もピエロを見つめ返したが、彼の両目のただの暗い穴で、そこから何かを知ることは出来ない。

「人間が都合のいいように記憶を改竄するという事は本当だったのですね」
「どういう意味?」
 ピエロは何も言わず、机から下りた。

「今は語る暇がありません。とにかく、あなたはこの施設から逃げてください」
「逃げるって、どうやって?」
「私が活路を開きます」
「でも、私、逃げてどうするの? 東京に知り合いなんていないよ。それに……それに先輩だって、もしかしたら、あの〝光り〟で……」
「先輩、先輩ですか……。いいでしょう、あなたに一つ、いい情報を教えます。あなたの先輩は生きています」
「せ、先輩が……本当なの?」
「ええ、確かに……。あなたはこの施設を出たあと、猫を探しなさい」
「猫?」
「会えば分かります。では、始めましょう」
 ピエロは指を鳴らした。
 その瞬間、頑丈な壁に大きな穴があいた。
「では、よしなに。お嬢様」


 私はピエロのおかげで簡単に施設から逃げ出せた。
 久しぶりに感じた陽射しは、とても気持ちが良かった。

 私は渋谷に来ていた。
 テレビでしか見たことのない人ごみにもまれて、意味もなく歩き続けた。

 次第に、お腹から聞こえる『ぐうぐう』という音は激しくなってきて、私は今にも倒れそうになった。
 私は道端に座り込んで、休憩することにした。
 田舎育ちの私には都会の空気がとても重くて、苦しかった。
 それに、あまりの人の多さに、立っているだけで吐きそうになった。


 私がボーっと、座り込んでいると、一匹の小さな青い子猫が現れた。
「お姉ちゃん、おなか、すいてるの?」
 耳元で可愛らしい子供の声が聞こえた。
 でも、辺りには誰もいない。いるのは私と子猫だけ。
「ねえねえ、おなか、すいてるんでしょ?」
「ね、猫が喋ってる……」

「ボク、ペータン。ハーク様の部下だよ。ハーク様がいつも困っている人を見つけたら、助けてあげなさいっていうんだ。特に、ボク達のような仲間、魔族をね」
「魔族?」
「そうそう、お姉ちゃんも仲間だよね」
「私が……仲間?」
「いいから、ついて来なよ。ハーク様に会わせてあげるかさ」
 私は人間の言葉を話せる不思議な猫について行った。


 ピエロの言っていた猫とはこの子のことだろうか?
 しばらく歩き続けて、着いた所はごく普通のファーストフードの店だった。
 青い子猫、ペータンは自動ドアをぬけ、店の中へと入っていった。
 私も戸惑いながら、ついて行く。

 ペータンはカウンターの前に来ると、カウンターの上へと飛び乗った。
「よう、ペータン。ハーク様に用か?」
「うん、仲間、仲間!」
 店員は私とペータンをカウンターの奥へと案内してくれた。
 奥には大きな冷蔵庫があった。
 店員が「よいしょ」と言って、ドアを開く。
 冷蔵庫の中に冷凍食品はなかった。代わりに狭い小さな部屋がある。

「エレベーター?」
 冷蔵庫はカモフラージュのようだ。
 なんで、隠す必要があるんだろう……。
 まるで、映画で見たマフィアの隠れ家みたい。

「ペータン、粗相のないようにな」
 そう言って、店員はカウンターに戻っていった。
 私とペータンはエレベーターに乗り込んだ。
 中にはボタンがたくさんあって、私がどれを押していいのか迷っていると、ペータンが教えてくれた。
 私はペータンの言った通りにボタンを押していく。

 エレベーターはパスワードを入れないと動かない仕組みになっているようだ。
 ガクンとエレベーターが揺れて、動き出す。
 かなりのスピードで降下しているため、私は立っている事が出来ず、床に膝をついてしまった。
 やっとのことで、エレベーターが止まって、エレベーターを降りると、廊下には武装した警備員が二人立っていた。
 そこで、私達は制止される。

「パスを確認……って、ペータンか。ハーク様ならモニタールームにいるよ」
「うん、ありがと。今度、サンマ持ってきてあげるね」
「マジかよ。ついでに、シャケも持って来てくれよ」

 奇妙な会話を交わす警備員の頭には、猫のような縦耳が二つ。
 ほっぺには左右に横に伸びた長髭が生えていた。
 警備員に言われたとおり、長い廊下を抜け、モニタールームに入ると、そこは機械だらけの大きな部屋だった。
 地下とはいえ、とても小さなファーストフード店の敷地のものとは思えない。

 部屋は全体が大きなモニターで囲まれており、中心には指示席がある。
 その構造は戦艦のブリッジを思わせる。
 十人以上もの人間……ではなく、先ほどの警備員と同じく猫人間が、複数のモニターとにらめっこをしていた。
 モニターには東京のありとあらゆる場所が映し出されていて、常に監視を怠らない緊張感が伝わってきた。

「ハーク様、困っている仲間を連れてきたよ」
「うむ、ごくろうじゃったな」
 指示席に座るハークは振り返ろうとせず、モニターを見つめている。
 かなり背の低い人なのか、椅子からそのうしろ姿は見えない。

「あの……ここはどこですか?」
「ここは東京都内……いや、日本全国が見渡せる巨大監視施設。そして、ハーリー社改め、ハーリー族の日本支部じゃ」
「え?」
「物分りの悪い子じゃな」
 ハークはやっと、椅子から下りて私の方を見た。
 私は目を疑った。

 目の前に立っているのは白い軍服を着た小さな猫だった。と言っても、ペータンと違って二足歩行ができるようだ。
 そして、無様にも二頭身である。
 その姿はぬいぐるみに等しい。

「わしがハーリー族、族長。ハーク・フォゼフィールドじゃ」