「先輩! 頑張って、あと、一周だよ!」
私はストップウォッチを持って、先輩が戻って来るのを待った。
「ひゃ~、疲れた。どうだった?」
「すごい! 五秒も縮みましたよ」
マネージャーである私は先輩一人だけの練習につき合わされていた。
先輩は私に渡されたタオルで汗を拭きながら言った。
「たった、五秒かよ」
「なに、言ってるんですか! 陸上の五秒は、普通の五秒とは訳が違うんですよ」
「でも、俺って長距離だぜ」
「いいの、いいの」
私は景気づけに先輩の背中をバシッと叩いた。
「いってぇ! なに、すんだよ。お前、バカ力だな」
私と先輩は誰もいない高校のグラウンドを出た。
外はもう真っ暗で、道の街灯がともり始めている。
「わりぃ、こんな遅くまでつき合わせちまってさ」
「いいんですよ。それより、秋の駅伝、頑張ってくださいね」
「お、おう!」
先輩はスポーツバックの中に手を入れて、何やらガサゴソとしている。
「なあ、真帆。あ、明日さ、これ、一緒に行かないか?」
先輩が差し出したのは海峡で行なわれる港祭りのチケットだった。
「え、港祭り?」
「うん、花火大会があるんだ」
先輩は顔を赤くして、私と目を合わせずに答えを待っている。
「先輩!」
「え、なに?」
「なに、じゃないですよ! こういうことは相手の目を見て言ってください!」
私が頬を膨らませていると、いきなり先輩が私の両肩を掴んだ。
急だったので、私まで顔が赤くなるのを感じた。
「真帆、明日、俺と花火大会に来てくれ!」
「は、はい、喜んで……」
次の日、私は珍しく朝早くに起きた。
お昼に家の近くにあるソバ屋で軽く昼食を済ませて、友達の家に行った。
そこで友達のお母さんにおろしたての浴衣を着付けてもらった。
友達が「これ、貸してあげる」ってルージュとグロスを差し出した。
私が「口紅なんて似合わないよ」と言ったら、「なに、言ってんの。今どき、小学生だってするって。大丈夫、私が塗ってあげるから…」と説得された。
普段、リップクリームも塗らない私の唇に、薄いピンク色のルージュが塗られていく。
友達が塗っている最中、「先輩、真帆のピンクの唇見てキスするかもよ」と私をからかった。
私はその場では怒ったふりをしたけど、心の中では本当にそうなるかもしれないとドキドキした。
「はい、出来たよ」
友達がニヤニヤ笑いながら、鏡を持ってきてくれた。
「ねっ、かわいいでしょ」
私はピンクの唇を見て、なんだか嬉しくなってきた。
八歳になった誕生日の日、死んだお母さんが「可愛くなるおまじない」と言って、私にルージュを塗ってくれた。
私はそれを思い出しながら、鏡に映った自分の唇にうっとりした。
「あんた、ナルシスト? 自分ばっか見てないで、さっさと先輩、落としてきなよ」
友達はそう言って、私の背中を強く叩いた。
私は友達の家を出たあと、コンビニでインスタントカメラを買ってから、海峡へと向かった。
もう空は夕日で赤くなっていた。私は海峡に近くなってくるにつれて、胸がドキドキしてくるのを感じた。
海峡に着いて、しばらく先輩を待ったが、なかなか先輩は現れない。
先輩が遅いので、私はぶすくれて、屋台でかき氷を買った。
「なによ、自分から誘っておいて!」
私はやけくそになって、冷たいかき氷を一気に食べた。
無理して食べたので頭がすごく痛い。
「いててて……」
私はおでこを手で押さえながら、空を見上げた。
「あれ……」
さっきまで、夕日で赤くなっていた空が、真っ黒な雲で覆われている。
「雨、降るのかな……」
ふと、海峡の方に目をやると、そこには大きな真っ黒な巨人が、こっちを睨んで立っていた。
そして、巨人が地鳴りのするような咆哮をあげると、海峡全体が金色の光りに包まれて、辺りにいた人たちはみんな、叫ぶ暇もなく消えていった。
私も消えてしまうのかな……。
そう思った瞬間、私は白い大きな翼にすっぽりと全身を覆われていた。
いや、守られていたと言うのが正しいのかもしれない。
気づいた時、私はそこだけ抉り取られたような荒地に立っていた。