◇◆◇◆
学校にいても氷月の居場所はあってないようなもの。烏賀陽の名に守られているのか、露骨な嫌がらせはされていない。その代わり、いない者のように扱われる。だから氷月も、他の者たちがいないように扱う。それに不満は無い。むしろ、ずっとそのままでいいとさえ思っている。
この世界でただ一人きり。自分の味方は誰もいない。そんな感覚にさえ襲われるが、それが怖いとは思わない。むしろ、それを望んでいる。
「おい、氷月……」
放課後の教室でぼんやりと座っていたら、ふいに名を呼ばれた。もちろん氷月の名を呼んだのは霜月だ。
教室には他に誰もいない。いつの間にか皆帰ってしまった。もしくは、部活動へと向かったのだろう。今日は曇り空なのか、教室もどこか薄暗い。それでも雨さえ降らなければ、サッカー部や陸上部は校庭で練習をするようだ。掛け声がこの薄暗い教室にまで聞こえていた。
「図書室にこないから、どうかしたのかと思った。何、してたんだ?」
教室の入り口に寄り掛かっている霜月は、どこか絵になる男だ。クラスが違うにも関わらず、わざわざこうやって来てくれる。つまり、気の利く男なのだろう。
「いえ、何も……」
そう、氷月は何もしていない。ただこの教室で一人、こうやって座っていただけ。薄闇の中、誰にも気付かれないように。
「迎え。来たみたいだから、帰るぞ」
だけど霜月には気付かれてしまった。
「はい……」
彼は知っているのだろうか。氷月がこのクラスで受けている仕打ちを。いや、仕打ちも何もない。いない者として扱われているのだから。こんな氷月に構っても霜月のプラスにならないことを。
「お前さ……」
「はい」
霜月は何か言いたそうに口を開いたのだが「やっぱ、いいわ」とだけ言って終わる。
氷月は黙って霜月の後ろをついていく。
烏賀陽の屋敷に戻れば、いつもと同じように宿題をこなし、訓練をこなす。そして夕食に遅れないように食堂へ向かい、それが終わればやっと一人の時間となる。風呂は順番で入るため、この屋敷の使用人が、順番がくれば呼びにきてくれる。これだけの兄弟がいて使用人がいれば、風呂も何カ所かあるわけで。
「氷月様、お風呂の準備が整いました」
「はい……」
ここで働く使用人たちはよくできている。他の兄弟から疎まれているとわかっているのに、氷月を氷月として扱ってくれる。
彼女は着替えを抱えて風呂場へと向かった。大きな屋敷だけあって風呂場も豪華だ。檜の香りが漂う檜風呂。
チャポン、チャポンと天井から落ちる水滴が、不規則に湯船の表面に波紋を生む。そうやって檜の香りを楽しみつつ湯船に浸かっている間も、氷月はぴくりとも動かない。ただ薄く静かに息をするだけ。ほんのりと身体が温まってから、ゆっくりと湯船からあがる。それがここに来てから、ここでの風呂の入り方。
バスタオルで身体に残った水滴を拭きとり、着替えを手にしようとしたとき、置いたはずの着替えが無いことに気付く。
はぁ、と氷月は息を吐いた。このようなくだらない嫌がらせは、何も今回が初めてではない。仕方なく氷月はバスタオルを身体に巻き付けて、そのままの恰好で自室へと向かう。無くなった着替えは洗濯置き場におかれていることだろう。その辺の廊下に投げられていないだけましだと思うしかない。
「おい、氷月……」
お風呂から自室へと戻る途中にいつもは誰ともすれ違わない。だけど、なぜかこういういつもと違うときに限っていつもと違うことが起こる。どこかで発生源の確率が狂ってしまったのか。
「お前、なんていう恰好してるんだ?」
霜月に見つかってしまった。どうやら彼は、これから入浴の時間だったようだ。
「あ、え、あ、あの……。着替えを、忘れてしまって……」
このような恰好を異性に見られて平然とできるほど、氷月は大人でもないし、子供でもない。
「なわけ、無いよな」
彼女が口にしたことが嘘であることに、霜月はすぐさま気付いたようだ。
「はぁ……。お前、さ。前から聞こうかと思ってんだけど」
そこで彼は深く息を吐き出す。
「そういう嫌がらせ、ずっとされてんのか?」
「え、と、まあ……、はい……、いえ……」
どう答えたらいいかがわからない。
「くっだらねぇ。なんで女ってそういうくだらないこと、してんだろうな。俺から卯月兄に言っておくわ」
「待って。言わないで」
氷月は自分でも驚くくらいの大きな声が出てしまったことに気付いた。
「お前、そんな声、出せるんだな」
どこか嬉しそうに霜月は笑っている。
「わかった。俺にはよくわからないけど、女同士のなんかがあるんだろ? お前さ、これから風呂入るときは、着替えも中に入れた方がいいんじゃないのか? 袋にいれてさ。それなら濡れないし」
霜月の目が泳いでいるのは、どこに視線を定めたらいいかがわからないからだろう。
「うん……。そうする。ありがとう……、霜月兄さん」
「霜月」
「え?」
胸の前でバスタオルを押さえながら、氷月は首を傾げた。
「霜月でいいよ。変に兄さんってつけられた方が気持ち悪い。それに、俺たち、同い年だし。俺も兄貴っていう柄じゃないし」
「あ。はい……。わかりました……」
突然の霜月からの申し出にとぎまぎしてしまった氷月は慌ててその場を去る。何しろこんな格好。ここに長居していたら、他の兄弟たちも来てしまうかもしれない。
そこからは誰にも見つからずに部屋へと戻ることができた。変に緊張してしまったし、あの場で少し立ち止まってしまったから身体が少し冷えてきてしまった。急いで下着を身に着けて、パジャマ代わりのジャージを着る。ここに来てから、嫌なことが多いけれど、今のようにいいこともある。
少なくとも霜月と共にこなしている卯月との訓練では、あのような子供じみた嫌がらせはされない。
氷月は通学用の鞄から図書室から借りた本を取り出した。流行りの異世界ファンタジーものの本だ。途中まで読んである。それを手にしてベッドへと潜り込む。
本の世界は自由で夢に溢れている。異世界に飛ばされてしまった主人公が、チート能力と呼ばれる他の者とが備えていないような強くて且つ希少価値のある能力を持ち、大活躍していくのだ。読んでいるだけで心がスカッとするような物語だ。
だけど現実は違う。鬼遣いと呼ばれる選ばれた人間であっても、残念ながらチートな能力は備わっていない。毎日、体育の授業のように地道に走り込みをしているだけ。これで本当に鬼遣いとして、鬼を封じるということができるのだろうか、とさえ思う。
他の兄弟たちは定期的に鬼封じへと向かっているようだが、まだ中学生である霜月と氷月だけはそれを行った試しがない。卯月が言うには、中学校を卒業してから、つまり義務教育を終えてからとのことのようだが。だからこそ、五歳から鬼遣いとしてここにいる霜月には尊敬の思いしかない。他の兄弟たちは一体いつからここにいるのだろう。
瞼が重くなってきた。ここに来てからは、こうやって寝る前に本を読んでいると、本を読みきる前に眠くなってしまう。毎日の訓練が、氷月の体力を奪っているのだろうか。それとも、あの檜の香りが落ち着かせてくれるのだろうか。もう少し本の続きが気になると思いつつも睡魔に勝てるはずもなく、もう少しもう少しという限界のところにしおりを挟んで、枕元にその本を置いた。リモコンに手を伸ばして電気を消す。
今日も一日が終わった。恐らく、明日も今日と同じような一日が待っているのだろう。ここにいる間、一日が同じことの繰り返しだ。
学校にいても氷月の居場所はあってないようなもの。烏賀陽の名に守られているのか、露骨な嫌がらせはされていない。その代わり、いない者のように扱われる。だから氷月も、他の者たちがいないように扱う。それに不満は無い。むしろ、ずっとそのままでいいとさえ思っている。
この世界でただ一人きり。自分の味方は誰もいない。そんな感覚にさえ襲われるが、それが怖いとは思わない。むしろ、それを望んでいる。
「おい、氷月……」
放課後の教室でぼんやりと座っていたら、ふいに名を呼ばれた。もちろん氷月の名を呼んだのは霜月だ。
教室には他に誰もいない。いつの間にか皆帰ってしまった。もしくは、部活動へと向かったのだろう。今日は曇り空なのか、教室もどこか薄暗い。それでも雨さえ降らなければ、サッカー部や陸上部は校庭で練習をするようだ。掛け声がこの薄暗い教室にまで聞こえていた。
「図書室にこないから、どうかしたのかと思った。何、してたんだ?」
教室の入り口に寄り掛かっている霜月は、どこか絵になる男だ。クラスが違うにも関わらず、わざわざこうやって来てくれる。つまり、気の利く男なのだろう。
「いえ、何も……」
そう、氷月は何もしていない。ただこの教室で一人、こうやって座っていただけ。薄闇の中、誰にも気付かれないように。
「迎え。来たみたいだから、帰るぞ」
だけど霜月には気付かれてしまった。
「はい……」
彼は知っているのだろうか。氷月がこのクラスで受けている仕打ちを。いや、仕打ちも何もない。いない者として扱われているのだから。こんな氷月に構っても霜月のプラスにならないことを。
「お前さ……」
「はい」
霜月は何か言いたそうに口を開いたのだが「やっぱ、いいわ」とだけ言って終わる。
氷月は黙って霜月の後ろをついていく。
烏賀陽の屋敷に戻れば、いつもと同じように宿題をこなし、訓練をこなす。そして夕食に遅れないように食堂へ向かい、それが終わればやっと一人の時間となる。風呂は順番で入るため、この屋敷の使用人が、順番がくれば呼びにきてくれる。これだけの兄弟がいて使用人がいれば、風呂も何カ所かあるわけで。
「氷月様、お風呂の準備が整いました」
「はい……」
ここで働く使用人たちはよくできている。他の兄弟から疎まれているとわかっているのに、氷月を氷月として扱ってくれる。
彼女は着替えを抱えて風呂場へと向かった。大きな屋敷だけあって風呂場も豪華だ。檜の香りが漂う檜風呂。
チャポン、チャポンと天井から落ちる水滴が、不規則に湯船の表面に波紋を生む。そうやって檜の香りを楽しみつつ湯船に浸かっている間も、氷月はぴくりとも動かない。ただ薄く静かに息をするだけ。ほんのりと身体が温まってから、ゆっくりと湯船からあがる。それがここに来てから、ここでの風呂の入り方。
バスタオルで身体に残った水滴を拭きとり、着替えを手にしようとしたとき、置いたはずの着替えが無いことに気付く。
はぁ、と氷月は息を吐いた。このようなくだらない嫌がらせは、何も今回が初めてではない。仕方なく氷月はバスタオルを身体に巻き付けて、そのままの恰好で自室へと向かう。無くなった着替えは洗濯置き場におかれていることだろう。その辺の廊下に投げられていないだけましだと思うしかない。
「おい、氷月……」
お風呂から自室へと戻る途中にいつもは誰ともすれ違わない。だけど、なぜかこういういつもと違うときに限っていつもと違うことが起こる。どこかで発生源の確率が狂ってしまったのか。
「お前、なんていう恰好してるんだ?」
霜月に見つかってしまった。どうやら彼は、これから入浴の時間だったようだ。
「あ、え、あ、あの……。着替えを、忘れてしまって……」
このような恰好を異性に見られて平然とできるほど、氷月は大人でもないし、子供でもない。
「なわけ、無いよな」
彼女が口にしたことが嘘であることに、霜月はすぐさま気付いたようだ。
「はぁ……。お前、さ。前から聞こうかと思ってんだけど」
そこで彼は深く息を吐き出す。
「そういう嫌がらせ、ずっとされてんのか?」
「え、と、まあ……、はい……、いえ……」
どう答えたらいいかがわからない。
「くっだらねぇ。なんで女ってそういうくだらないこと、してんだろうな。俺から卯月兄に言っておくわ」
「待って。言わないで」
氷月は自分でも驚くくらいの大きな声が出てしまったことに気付いた。
「お前、そんな声、出せるんだな」
どこか嬉しそうに霜月は笑っている。
「わかった。俺にはよくわからないけど、女同士のなんかがあるんだろ? お前さ、これから風呂入るときは、着替えも中に入れた方がいいんじゃないのか? 袋にいれてさ。それなら濡れないし」
霜月の目が泳いでいるのは、どこに視線を定めたらいいかがわからないからだろう。
「うん……。そうする。ありがとう……、霜月兄さん」
「霜月」
「え?」
胸の前でバスタオルを押さえながら、氷月は首を傾げた。
「霜月でいいよ。変に兄さんってつけられた方が気持ち悪い。それに、俺たち、同い年だし。俺も兄貴っていう柄じゃないし」
「あ。はい……。わかりました……」
突然の霜月からの申し出にとぎまぎしてしまった氷月は慌ててその場を去る。何しろこんな格好。ここに長居していたら、他の兄弟たちも来てしまうかもしれない。
そこからは誰にも見つからずに部屋へと戻ることができた。変に緊張してしまったし、あの場で少し立ち止まってしまったから身体が少し冷えてきてしまった。急いで下着を身に着けて、パジャマ代わりのジャージを着る。ここに来てから、嫌なことが多いけれど、今のようにいいこともある。
少なくとも霜月と共にこなしている卯月との訓練では、あのような子供じみた嫌がらせはされない。
氷月は通学用の鞄から図書室から借りた本を取り出した。流行りの異世界ファンタジーものの本だ。途中まで読んである。それを手にしてベッドへと潜り込む。
本の世界は自由で夢に溢れている。異世界に飛ばされてしまった主人公が、チート能力と呼ばれる他の者とが備えていないような強くて且つ希少価値のある能力を持ち、大活躍していくのだ。読んでいるだけで心がスカッとするような物語だ。
だけど現実は違う。鬼遣いと呼ばれる選ばれた人間であっても、残念ながらチートな能力は備わっていない。毎日、体育の授業のように地道に走り込みをしているだけ。これで本当に鬼遣いとして、鬼を封じるということができるのだろうか、とさえ思う。
他の兄弟たちは定期的に鬼封じへと向かっているようだが、まだ中学生である霜月と氷月だけはそれを行った試しがない。卯月が言うには、中学校を卒業してから、つまり義務教育を終えてからとのことのようだが。だからこそ、五歳から鬼遣いとしてここにいる霜月には尊敬の思いしかない。他の兄弟たちは一体いつからここにいるのだろう。
瞼が重くなってきた。ここに来てからは、こうやって寝る前に本を読んでいると、本を読みきる前に眠くなってしまう。毎日の訓練が、氷月の体力を奪っているのだろうか。それとも、あの檜の香りが落ち着かせてくれるのだろうか。もう少し本の続きが気になると思いつつも睡魔に勝てるはずもなく、もう少しもう少しという限界のところにしおりを挟んで、枕元にその本を置いた。リモコンに手を伸ばして電気を消す。
今日も一日が終わった。恐らく、明日も今日と同じような一日が待っているのだろう。ここにいる間、一日が同じことの繰り返しだ。