道場に入れば、正装をしていた卯月が背筋を伸ばし、正座をして待っていた。鬼遣いの正装とは、着物のような装束だ。そして烏賀陽一族の鬼遣いが纏う色は白。つまりのところ、白装束。

「宿題は終わったのかな、霜月」
 凛とした声が道場内に響き渡り、それが問いかけた人物は霜月の方だった。

「はっ、卯月兄。そんなのとっくに終わらせてきたわ」

「とっくにと言うわりには、三分の遅刻だ」

「細かい男は嫌われるよ」

「時間を守らない男も嫌われると思うのだが?」

「屁理屈な男も嫌われると思うんだけど?」

 男二人のどうでもいいやり取りを、いつ終わるのだろうかという面持ちで氷月が眺めていたところ。

「氷月。こういうときはさ、つっこんでくれないと終わらないんだけどさ」

 と霜月から言われ、まさかの氷月からのツッコミ待ちであったことに気付く。

「あ、はい……すいません……」
 氷月から出てくる言葉はそればかり。

「霜月。自分の不甲斐なさを氷月のせいにしてはいけないよ」

「してねーし」
 それ以上、末の弟に何を言っても無駄であると思ったのか、卯月はすっと立ち上がった。

「では、そろそろ訓練の方に入ろうかな」

 訓練。それは鬼遣いとしての力を高めるもの、らしい。激しく身体を動かすのではなく、ただじっと座禅を組み、精神を統一させるもの。こんなのが何に役に立つのかと思っている氷月だが、今のところ役に立ったことがないため余計にそう思う。

 だが、霜月は違うようだ。
「は? 鬼の気配、感じるようになるだろ?」とのこと。さらにもう少し訓練を積めば「鬼の姿が見えるようになるんだよ」とのことだ。
 霜月は鬼の気配を感じることができるが、まだ姿を見ることはできないらしい。五歳から鬼遣いとしての訓練を受けている彼であっても姿を見ることができないのであれば、鬼遣いとしてここにやって来て数か月の氷月が、それを見ることができるようになるまで、どのくらいの月日を要するのだろう。

「氷月……」
 肩の上に竹刀が押し当てられた。
「何を、考えているのかな? 気が乱れているよ」
 次にくる衝撃に備えて、氷月は身構えた。その様子を見た卯月は、ふっと鼻で笑う。
「氷月、身体にも力が入っている。もう少し、力を抜きなさい」
 竹刀の先端で肩から背骨をすっと撫でられた。くすぐったくて、「ひゃっ」と変な声が出てしまえば、隣の霜月がくつくつと笑う。

「霜月。君も、気が乱れ始めたようだね」
 竹刀の先端が移動した。先ほどまで氷月の身体に触れていたそれは、今では霜月の肩の上に。

「卯月(にい)。隣で氷月がさ、楽しそうに笑ってたら、そりゃ気も乱れるでしょ」
 霜月は氷月の前では兄貴ぶるのに、この卯月の前では弟して甘えたような態度をとる。それが彼の処世術の一つなのだろうか、と感心してしまうほど。

「統一を始めてから一時間か。そろそろ次の訓練に移ろうか」
 卯月は腕時計に視線を落とした。この道場に時計は無い。

 学校から帰ってきて、一時間は勉強の時間。その次の一時間が鬼遣いとしての精神統一の時間。さらにその後の一時間が体力作り。鬼遣いには、鬼を追いかける持久力と鬼を封じるまでの持続力が必要らしい。最後の一時間が、氷月にとっては苦痛でもあった。とにかく、走る、飛ぶ、それの繰り返し。本当にこんな訓練が役に立つのか、と何度思ったことか。

「そろそろ時間だな。今日はここまでにしよう」

 穏やかな笑みで卯月は言っているが、氷月の心境は穏やかでは無い。あの霜月でさえ。
「つっかれたぁ。相変わらず卯月兄は鬼畜だわ」
 と仰向けに倒れて四肢を投げ出している。
 氷月も膝を抱えて座り、乱れている呼吸を整えようと必死だった。

「二人とも。このくらいの訓練で息を乱していては、鬼を封じることはできないよ」
 同じように動いていたはずなのに、卯月は髪の毛一本乱れていない。
「鬼を封じるときには、気を放ちながらそれを追いかけるようになるからね。もっと、身体には負担がかかるよ」

 床の上でぐったりとしている二人を見下ろしながら、卯月は目を細めた。

「夕飯までまだ三十分は時間があるから、そこで呼吸を整えてから食堂の方に来なさい。着替えも忘れないようにね」

 道場から涼しい表情で出ていく卯月の後姿を、黙って見つめることしかできない二人。

「あぁ。くっそ。あと三十分って、着替えたらすぐじゃないかよ。遅れたら、また睦月(ねえ)からネチネチグチグチ言われんだろ? おい、氷月」

 抱えた膝の間に顎を乗せていた氷月は、霜月の方を黙って見た。

「お前、どんくさいんだから、さっさと部屋に戻るぞ」
 大の字に仰向けになりながら霜月に言われても、説得力が無い。だが彼は、すぐに手足を縮めて、ヘッドスプリングをして身体をバネのように弾くと、見事に立ち上がる。どこにそのような体力が残っていたのだろう。

「おい」
 ぶっきらぼうに霜月が言う。
「ほらよ」
 何が「ほら」なのかと思っていたら、彼が右手を差し出してきた。
「お前。どんくさいうえに体力も無いだろ。それにさっき、足を怪我してたんじゃないのか?」

 細かいところまでよく覚えている男だ。こんなどんくさい義妹のことなど放っておけばいいのに。

「卯月兄に言えば、最後の訓練はもう少し緩くなったはずだぞ? あまり身体を痛めつけたって、それは身にならないからな。卯月兄は、それを知ってるはずだし」

 ほら、と言いながらぐいぐいと右手を差し出してきたので、氷月はその手を取った。取った途端、ぐいっと腕を引っ張られ、立たされる。

「歩けるか? ってさっきまであれだけ走り回ってたんだ。歩けるよな」

「はい……。大丈夫、です」

「膝、赤くなってんじゃん」

 白装束の合わせのはだけたところから、氷月の膝が覗いてしまったようだ。慌てて膝を隠し、帯で合わせの位置を調整する。

「お見苦しいものを……」
 と氷月が呟けば、霜月はにやける。

「相変わらずだな、氷月は。ほら、さっさと部屋に戻って着替えよう。お前、睦月姉から目の敵にされてんじゃん。夕飯の時間に一秒でも遅れてみろよ。絶対に夕飯抜きになるから」
 ははっと霜月は笑っているが、氷月にとっては笑いごとではない。彼の言っていることは事実で、たいてい二日に一回は夕飯抜きを言い渡されている。そんな夜は、ぐぅぐぅ鳴くお腹の虫に水を与えて誤魔化してはみるものの、その虫は鳴きやまない。寝る直前まで鳴いているし、もしかしたら寝ている間も鳴いているのかもしれない。

「はい……」
 力無く返事をしながら、氷月は足を引きずるようにして自室へと向かった。

 氷月はこの食事の時間が苦手でもあった。だが、苦手であってもここに集まらなければ食事にありつくことはできない。一日二回。朝食と夕食と。十二人の兄弟たちが一同に揃うのがこの時間。百人は入れるのではないか、と思える宴会場のような食堂のど真ん中に、長テーブルが二つ並んでいる。そして氷月の席はそのテーブルの末席。そして同じテーブルにつくのは、他の五人の義姉たち。

「あら、氷月。今日は時間を守れたようね」

 食堂に入るなり、必ず睦月はこう声をかけてくる。時間に間に合わなかったときは「時間を守れないような子にあげる食事は無いわ。部屋に戻りなさい」

 今日はなんとか夕食にありつけそうだ。
 氷月は葉月の隣の席。そこにつくなり、葉月にジロリと睨まれる。だが、いちいちそれに反応していたら、葉月を喜ばせるだけ。ここでは意思を持たない人形のように振舞うのが得策。