友達を作るためとか、一人でいないためとかいう人もいるけれど、私はその考えも理解できなかった。“友達が欲しいから”、“一人が嫌だから“、そんな風に自分の欲を埋めるために友達を作るなんて、その相手に申し訳なくて仕方がないと思ってしまうのだ。
 小学生の時、先生が言った。“みんな同じように仲良くしなさい”と。それを馬鹿正直に鵜呑みにした私は、その通りにした。だから、親友なんて、いなかった。誰とでも仲良く。誰とでも同じように。特別親しい存在である親友は、その言葉に反する存在だ。でも、先生の言う事だからきっとみんなも同じように考えている。そう信じて疑わなかった。だから私は小学生や中学生の友人関係に、“グループ”や“カースト”があるなんてちっとも気がつかなかった。ただの能天気だったのかもしれない。誰にでも同じように話しかけていたし、誰とでも同じように遊んでいた。誰かを特別扱いなんてしなかった。けれど皆は違った。皆にはそれぞれ、特別な存在があった。いつも一緒にいる子達、いつも一緒に話す子達、そういう“いつもの子”が誰にでもあったのだ。でも私には、いなかった。
 大抵の場合、クラス替えや水面下の争いで友人関係は変化するらしい。それでも大抵の子には人間関係での居場所があった。私にも居場所がなかったわけではない。ただ、私は渡り鳥のような存在で、どこかの木に止まり続けることはなかった。のらりくらりとあちこちを移動する私を、引き留める人もいなかった。その人たちには、既に完成した輪があったから。だから誰から特別嫌われるわけでもなく、誰から特別、好かれるわけでもなかった。