これが聖職者としてあるべき姿かと問われれば、間違いなくノーだ。母校での教育実習はもう終盤になるが、毎晩担当教諭の鮫ノ原先生のマンションを訪れている。
 シャワーを借りると、脱衣所にはいつも上品で可愛らしい洋服が畳んで置いてある。たとえば、薄紅色のブラウスにフレアスカートだったり、マーガレットの模様をあしらったロングワンピースだったりするが、いずれも上質な生地で肌触りがとても良い。
 普段はドライヤーなんてかけないが、丁寧に髪を乾かしてから化粧をする。
「似合いますか」
「とても似合っていますよ」
憂いを帯びた美しい瞳と見つめ合うだけで時が止まる。
「鮫ノ原先生……」
ベッドルームで呼ぶその響きは背徳的だった。
「センセイ……」
学校では見せない表情の鮫ノ原先生に呼ばれ、腰に腕を回した。立ったまま抱きしめ合う。それだけだ。それ以上のことはしない。それでも、この夜が永遠に続いてほしいと今日も願う。

 朝になると、秘密の関係が誰にも知られないように時間をずらして出勤する。
鮫ノ原先生は生徒にはすこぶる優しいが、教育実習生には毎年厳しいらしい。これを恩師の錦先生から事前に聞いていなければきっと心が折れていた。
「犬ヶ森先生は教師に向いていませんね」
出会って初日にそう言い放った人間に、恋をするだなんてどうかしている。それでも、好きになってしまったのだから仕方がない。異性慣れしていないことは否めないが、鮫ノ原先生の生徒を見つめる優しい眼差しがあまりに美しかった。
 一流国立大学卒で父親は数年前に上場した鳥取のベンチャー企業サメノハラ電機の若き創業者。授業は分かりやすく、生徒からの人望は厚い。丁寧な口調と真摯な態度から、保護者からの信頼も絶大なものだ。大して偏差値の高くない自称進学校にはもったいないほどのカリスマ教師だ。
 人として、教師としての尊敬心と、淡い恋心の境界線は非常に曖昧だが、とにかく鮫ノ原先生の全てに心を奪われた。
「君はなぜ教師になりたいのですか?」
全てを見透かすような冷たい目で見つめられて質問をされた。その目にすら被虐心に火がついて心拍数が上がるのだから本当にどうしようもなかった。
「学校が楽しかったからです」
 学校にしか居場所がなかったことをオブラートに包んで伝えるとこうなる。
 なまじ実家が裕福だと、多少家庭環境が複雑でも弱音を吐けば甘えだと言われてしまうのが怖かった。実母にそっくりらしい顔立ちのせいで父の後妻に良く思われていない。七歳年下の異母弟には実母に捨てられた子だと見下されている。実母は離婚後しばらくして亡くなったらしいと随分経ってから聞かされた。
 父も別れた女の子供より跡取りの弟の方が大事なようで、除け者にされた。それでも、中高大と私立に通わせてもらい、大学院まで入れてもらえたのだから贅沢は言えなかった。世間から見れば「自由にさせてくれるいい親御さん」なのだから。

 愛されなくてもせめて嫌われないように人の顔色をうかがうことは生きていくうえでの必須スキルだった。お気楽な道化を演じていれば、のびのびした校風の中では何とかやってこられた。
 アルバイトは長続きしなかった。親との関係もまともに築けないのに、知らない大人とうまくいくわけがなかった。学部の頃に就活も考えたが、空っぽな自分をつきつけられて病んだだけだった。
「教師という職業を舐めていませんか?」
もしかしたら、こうして誰かに叱ってほしかったのかもしれない。
「ありがとうございます、頑張ります」

 精神年齢が体に追い付いていないと言われればそれまでだが、中学生からは友達のように慕われた。「犬っち」というあだ名をもらい、校庭でサッカーやバレーボールをしてコミュニケーションをとらせてもらっている。

 在学中にもあったミスコンの伝統はいまだに続いているらしい。クラス代表の子が友達数人と放課後、衣装を吟味していた。全てクラス代表に選ばれた子が友達数人と放課後、衣装を吟味していた。全てのきっかけは、その現場に居合わせた結果、妙なことになってしまったことだった。

「犬っち顔可愛いし、これ似合うんじゃね?」
深夜アニメのキャラのコスプレ衣装と、薬局で買いそろえたメイク道具を持った生徒たちの悪ノリに巻き込まれてしまった。
「いやいや、二十四にもなってそれはきついって!」
「犬っち童顔だし全然いけるって!」
押しに弱いのはいつものことで、結局ピンク色のロングヘアのウィッグをかぶり、現実には見たことのないような色相のセーラー服を着た。
「いや、だめでしょ、こんなので外歩いたら捕まっちゃうよ」
「えー、犬っち可愛い!全然あり!」
ガラガラと教室のドアが開いて、鮫ノ原先生が入って来た。よりにもよって一番見られたくない相手と目が合ってしまった。顔から火が出るとはまさにこのことだ。
「鮫ちゃーん、犬っち可愛くない?」
「違うんです、鮫ノ原先生!」
何も違わないのだが、いい年をして恥ずかしくないんですかと軽蔑されるのが怖くて弁解を試みた。鮫ノ原先生はポーカーフェイスを崩して心底驚いたような顔をしていた。しかし、直後に言われたのはあまりにも意外な言葉だった。
「あまり犬ヶ森先生を困らせてはいけませんよ。それと、いいんじゃないですか、似合っていると思いますよ」
生徒たちは沸き立ったが、しばらく放心状態になった。初めて褒められた。

 その日、親睦会と称した飲み会が行われた。鮫ノ原先生の隣に座っているだけで心臓が高鳴った。顔色一つ変えずに強いお酒を飲む整った横顔にたたただ見惚れていた。もう顔も覚えていない母親譲りらしい下戸体質でなければ、お酒の勢いに任せて気の利いた一言くらいは言えるかもしれないのにと悔やみながらウーロン茶を啜った。
「ヒカル」
帰り道、たまたま他の先生と別れたタイミングで、唐突に耳元で囁かれた。脳をわしづかみにされ、心臓をゆさぶられるような感覚が襲った。
その声に脳を鷲掴みにされた。
「うちに来ませんか」
お酒を一滴も飲んでいないのに、一瞬で酔いが回った。オトナのレンアイどころかプラトニックの経験すらなかったのに、あまりに刺激的な誘いだった。
 鮫ノ原先生は家までの道のりで、初めて自分の話をしてくれた。教師になろうと思った理由は小中学校の時の恩師が素晴らしい人だったからだそうだ。

 勇気を出して先生の部屋に入ったその夜から、着せ替え人形にされる日々が続いている。着替える前は「ヒカル」と呼んでくれるのに、着替えた後は「センセイ」としか呼んでくれないことが不思議だった。
「センセイ、いい匂いがする……」
でも、抱擁を交わしながらそんなことを言われれば、全身の血液が沸騰して余計なことは全部頭から蒸発した。自惚れかもしれないが、二人きりの時にだけ呼んでくれる「センセイ」の響きはとても特別な気がした。生徒に対する慈愛とも、教師に対してどこか壁を作ったような態度もなく、素の鮫ノ原先生なのではないかと勝手に思った。

 この関係も教育実習が終わったらなかったことになってしまうことがとても怖い。こんなにも先生に心酔しているのに。
「鮫ノ原先生、下の名前で呼んでもいいですか」
「呼んで……、何度でも」
理性の糸が切れて、先生をベッドに押し倒した。
「マリナさん……!」
僕はカツラを脱ぎ捨てた。鮫ノ原先生は僕をいい匂いだと言ったが、僕は鮫ノ原先生の香水の香りが好きだ。ずっと隣にいたくなるような香りをしている。赤い花柄のワンピースを脱ごうとすると、先生はかつてないほどに冷たい目で僕を一瞥した。
「男の貴方には興味がないの」
氷水を浴びせられたような気分だった。
「離れてよ、気持ち悪い」
ほんの数秒前まで告白をしようとしていたのに、口をパクパクすることしかできなかった。僕は組み敷いた先生の腕を離した。
「出ていきなさい」
「あの、ごめんなさい……」
「出ていきなさいと言ったのが聞こえませんでしたか?警察を呼びますよ」
言い訳一つ許されなかった。荷物をまとめて、転がるように逃げ出した。マンションの廊下にへたりこんで、壁にもたれかかる。
 自分だけが浮かれていたのだろうか。
「わけわかんねえ……」
一筋の涙が頬を伝った。

 翌朝、冷静になるととんでもないことをしでかしたことに気づいた。下手したら暴行未遂で逮捕されるかもしれない。でも、どうせ鮫ノ原先生に嫌われた以上この先の人生に希望なんてない。
 女装した僕にだけ用があったということは、男性恐怖症か何かだったのだろうか。だとしたら、僕はますます最低だ。でも、男性恐怖症の女性が男子校を選んで教師になるとは考えにくい。それに、身持ちの固そうな彼女が男を家に上げるなんて……。
「犬っちー、恋の病かあ?」
思い悩んでいると、二年A組出席番号二番の渡辺君が僕の背中を小突いた。
「はあ?何言ってるんだよ」
図星をつかれて焦る僕を渡辺君は笑った。
「犬っち、鮫ちゃんのこと好きだろ」
「何を言い出すんだよ、何のことか分からないよ」
「いや、バレてないと思ってる方が驚きだよ。犬っち分かりやすいし。鮫ちゃん鋭いから鮫ちゃんも絶対気づいてるよ。いつも生徒にコクられそうになる前に牽制してるし。俺がそうだし。俺も家がゴタゴタしてた時、すごく親身になってくれた鮫ちゃんに恋しちゃったんだよね。今は普通に先生として好きだけど。鮫ちゃんがいなかったら、引きこもりになってたかも」
バレバレも何も、昨日玉砕したばかりだ。
「ただ犬っちってどう考えても鮫ちゃんの好みじゃないからなあ。ドンマイ。フラれたらA組のみんなで慰めパーティーしてやるよ」
「好み?」
キーワードを思わず復唱してしまった。
「鮫ちゃんって昔、錦先生と付き合ってたんだよ」

 錦先生は親子ほど年が離れている。筋骨隆々、堀の深い顔立ちで、豪快なスポーツマン。いい父親になりそうなのに、あの年で独身なのは無精髭のせいだろうか。貧相な体と女顔のせいで学生時代はミスコンと称した女装コンテストに出場させられた自分とは正反対だ。メイクのやり方を覚えたことがあんな形で役に立つとはその頃は夢にも思わなかったけれど。

 放課後、錦先生に呼び出された。見るからに元気がなかったから心配されてしまったようだ。鮫ノ原先生はあんなことがあっても、おくびにも出さず僕に接していたというのに。
「鮫ノ原先生と付き合ってたって本当ですか?」
「誰から聞いた?芦沢か?渡辺か?それとも戸田か?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど……」
錦先生は情報源の生徒を探った後、ため息をついた。
「悪いこと言わないから、アイツはやめとけ」
俺の気持ちは錦先生にもバレていたようで、穴があったら入りたい。
「言っておくが、嫉妬じゃないぞ。マリナ……鮫ノ原先生の教育実習の時から面倒見てて、二年くらい付き合ったけど、全然踏み込めなかったよ。幸せになってほしいけど、犬ヶ森の手には負えないだろ」

 夜、服を返却するという名目で鮫ノ原先生の家に謝罪しに行った。
「ごめんなさい、二度と昨日みたいなことはしません。だから、捨てないでください」
口を突いて出たのはあまりに情けない言葉だった。
「入りなさい」
ドアが開いて、僕は許された。いつもと同じように先生の服を着てメイクをした後、ロングヘアのカツラをかぶれば、僕は女の人になる。
「やっぱり、センセイだ……」
僕にしか見せない眼差しを向けられれば、そこに恋愛感情がなくても舞い上がってしまう。
「センセイ、私、ちゃんといい先生できてますか?」
「鮫ノ原先生は誰よりもいい先生ですよ」
僕の答えは本心だが、本来であれば僕が教えを乞う立場なのに昼間と立場が逆転している。ロマンティックなやりとりではないが、彼女が他人に対して作っている巨大な壁の向こうにいる本当の彼女に僕だけが触れられていると錯覚する。
 鮫ノ原先生が寝るまで化粧は落とさないことが暗黙の了解だった。午前三時、先生がすっかり寝静まってから洗顔し、先生の寝顔を見つめる。こんなに無防備な寝顔を見せてくれるのに、どうして男の僕は拒絶されるのだろう。どうして学校ではあんなに冷たいのだろう。僕は鮫ノ原先生が分からない。
 それでも、この寝顔が愛おしくて、僕は「きらきら星」のメロディにのせて子守唄を歌う。
「羊が二匹 並んで眠る
柵を飛び越え 疲れて眠る
羊が二匹 おやすみなさい」
先生の目から一筋の涙が伝った。

 教育実習最終日、模擬授業は何とか成功した。生徒たちからは寄せ書きをもらった。鮫ノ原先生は当然褒めてはくれない。それでも、今日も鮫ノ原先生が好きだし、明日も好きだ。
 僕達の非日常はもうすぐ終わる。学校生活も、二人だけの夜も。今日もベッドルームで女性の格好をして先生を抱きしめる。今日の先生はいつもより甘えたような声だ。
「ねえ、今日は疲れちゃった。子守唄歌って」
昨日の下手な歌がもしかして聴こえていたのだろうか。
 僕はベッドに腰かけて先生の頭を撫でながら歌った。インターネットで検索しても出てこないよく分からない子守唄だが、僕はこれしか知らない。小学校の友達にも変だと言われた。
「羊が二匹 おやすみなさい」
先生と僕の声が重なった。先生は顔を腕で覆って泣いている。
「貴方もしかして鳥取か北海道の出身だったりする?そんなわけないか……犬ヶ森の御曹司様だものね」
嗚咽交じりの声で先生が呟く。
「子守唄って地域差あるんですかね?僕はこのあたりの幼稚園出身ですよ。大丈夫ですか?気に障りましたか?」
僕は家庭で子守唄を歌ってもらった記憶がない。僕の中では幼稚園で聞いた歌だと自己解決していた。
「別に、ちょっと懐かしい気分になっただけ……」
「あー、ホームシック的な」
「分かったような口きかないで。みんながみんな貴方みたいな幸せな家庭育ちってわけじゃないのよ」
お気楽な道楽息子を演じてきたのは僕自身だ。だから先生の発言に対して怒りは感じなかった。けれども、反射的に反論してしまった。
「僕、家庭環境めちゃくちゃですよ」
親の離婚にまつわるあれこれを気づけば吐き出していた。錦先生に父親の温もりを求めていたことだけは言えなかった。
「僕、家に居場所がなかったんです。だから、学校だけが僕の居場所でした」
あの言い方をするということは、社長令嬢の鮫ノ原先生も家庭に何か思うところがあるのだろう。
「でも、まさか先生も同じだなんて思わなかった」
「同じじゃない。私は、家にも学校にも居場所がなかったから」
先生は溜息をついた。
「もう明日から会わないから言うわ。鮫ノ原社長と私は他人。中学の時に母が結婚したの。私の本当の父親は誰だか分からないんですって」
先生は再婚とは言わなかった。僕が昼間に向けられている厳しい眼差しの何千倍も冷たい目と抑揚のない声。錦先生が、アイツは心の扉を閉ざしていると言っていたことを思い出す。
「学校では同級生からも教師からも水商売の子って後ろ指刺されてた。だから、基本的に教師って人種は今でも嫌い」
僕には想像がつかなかった。教師と言う職業は学校が好きだった子供がなるものだと思いこんでいた。
「学校行きたくないって言ったら、教育支援センターに連れていかれたの。学校と違って給食費がタダだから、アンタがいじめられてくれて助かったってあの女は笑ったの」
不登校の子供のための支援施設。僕にはいい意味でも悪い意味でも縁のない場所だった。不登校になるようなことはなかったが、仮に学校でトラブルがあったとしても父はそんなところにいくなんて犬ヶ森の名前に傷がつくと一蹴しただろう。
「支援センターのセンセイが、私の恩師。センセイみたいになりたかった」
その話題を出した途端、「生徒思いの鮫ノ原先生」の優しい表情になった。
「実のお子さんがいても私を本当の娘みたいに大切にしてくれた。センセイだけが、私のことアンタとか蔑称じゃなくてマリナちゃんって呼んでくれた。マリナちゃんは悪くないよって言ってくれた。絶望しかない人生で、センセイだけが私の光だった。本当に、お星さまみたいな人だった」
いかにセンセイが素敵な人だったかを語り続ける。
「いい人ほどすぐにいなくなってしまうって本当なのね。センセイが勉強を教えてくれたのに私の合格発表前に亡くなってしまったの。通りすがりの子供をトラックから庇ったんですって」
先生はそう言った後、しばらく泣き続けた。
「昨日、夢の中で懐かしい歌を聴いたの」
蚊の鳴くような声で先生が言う。
「支援センターの宿泊行事の時にセンセイが歌ってくれた子守唄。センセイが本当にお母さんだったら、どれだけ幸せだったか……」
僕が歌っていたとはとても言えなかった。先生の耳は僕の声を認識しないし、先生の瞳は僕を映さない。
「僕はセンセイの代用品だったんですか?」
震える声で尋ねる。否定の言葉を心のどこかで望んでいた。
「そうよ。貴方がセンセイに似ていたから。頭の撫で方まで同じだとは思わなかったけれど」
先生は父の愛を求めて錦先生と付き合い、母の愛を求めて僕をここに連れ込んだのだ。先生は僕を利用した。
 しかし、僕を弄んだ先生を責めることはできない。僕たちは同じアダルトチルドレンだから。母に捨てられた僕は、年上の女性である鮫ノ原先生に母の面影を求めたのではないかと問われれば、首を横に振れるだろうか。
「でも、貴方はセンセイと全然違う。貴方は自分が不幸になるのが怖いから教師になろうとしているんでしょう?まともな育ちじゃない人間がまともな教師になれるわけがないわ」
先生は残酷な事実を僕に突きつけた。図星で反論のしようもない。最後の一言は、先生自身に対しても刃を突き立てているかのようにも聞こえた。
「最後にもう一度言うわ。貴方は教師に向いていない。さようなら」

 僕は翌日、家の蔵を漁った。愛された記憶がない僕は、物心つく前に愛されていた可能性を探してアルバムを探した。たとえ覚えていなくても、物的証拠があればまともになれると信じたかった。
 一縷の望みにかけて蔵の荷物を次から次へと引っ張り出しても、弟の名前のアルバムしかなかった。母の写真一枚見つからず、僕は自分のルーツすら分からない。
 父はそんな僕を見て
「お前は何を散らかしているんだ、片付けなさい」
と吐き捨てた。父は僕の名前すらろくに呼ばない。
「僕を産んだ母さんの写真ってないの?」
そんな父が協力してくれるとは思えなかったが、それでも目の前のこの人を頼るしかない自分が悔しい。僕の言葉に父の顔が引きつった。
「もし教育実習でアイツの話をするつもりならやめなさい。犬ヶ森の名に傷がつくし、アイツは免許を持っていただけで実務経験はないんだから」
「どういうこと……?」
教育実習の日程は報告したのに、昨日終わったことをもう忘れられている程度には父は僕への関心が薄い。しかし、そんなことよりも母の話が気になり詳細を聞いた。
母の情報はどうでもいい情報以外ほとんど遮断されてきた。こうして父がポロリと漏らす話でくらいしか母という人間を知ることはできなかった。

父から話を聞いた翌日、こっそり市役所に行った。

 数日後、先生の家を訪れる。先生は僕と二度と会うつもりはないようだが、それでも押し掛けた。インターホン越しに冷たく「帰りなさい」と言われたが、僕は引き下がらない。
「支援センターの先生、星マユミって名前じゃありませんか?」
僕が核心を突いた瞬間、先生はドアを開けた。僕はそれを肯定と受け取った。
「僕は星マユミの息子です」
戸籍を取り寄せた結果、母の出身は北海道。大学卒業直後に結婚、僕を出産。在学中の婚前妊娠と思われる。僕が三歳の時に離婚し、先生が十五歳の年に鳥取で事故死。父曰く、小学校と中学校の教員免許を所持していたものの就職せず家庭に入ったとのこと。
「祖父母からの手紙で知ったんです、母に捨てられたわけじゃないって」
役所経由で調べ、祖父母に手紙を出してから毎朝、玄関に張り付いて家族より先に手紙を確認した。返事は比較的早く来た。
結婚に反対した手前、会いに行けなかったことへの謝罪と、母の生涯について書かれていた。離婚の際、当時僕は犬ヶ森の跡取りだったので父方の親族は親権を死守して母を追い出した。その後、母は実家に帰らず、鳥取で教育支援センターの職員となった。僕は母がセンセイだと確信した。
「だから、知りたくなったんです。母のことを」
「どうして、センセイに手紙の返事を出さなかったの?」
先生は僕を問い詰めた。
「手紙?」
「貴方に何度も手紙を出したけど読んでくれてるかは分からないって」
先生の言葉に頭の中が一気にぐちゃぐちゃになる。なんとか整理しようとすると呼吸が乱れた。
「父か義母が隠したんだと思います」
最初に湧いてきたのは怒りの感情だった。
「鮫ノ原先生、教えてください。その手紙、何て書いてあったんですか。ねえ、教えてくださいよ!」
僕は思わず先生の肩を掴んだ。
「分からない、ごめんなさい」
「今まで母は僕を捨てた最低な人だと思ってたのに、手紙の返事も出さなかったどころか読みもしなかった最低な息子だったのは僕の方じゃないですか!」
全身の力が抜ける。僕は二度と母に謝れない。
「母さんはもう僕のことなんて忘れていると思っていました。でも、こんなのってないじゃないですか……」
涙が止まらなくなった。胸が痛い。息が苦しい。
「センセイはヒカルを恨んでなんていないし、怒ってもいないよ。幸せでいてくれたらそれでいいって」
錯乱する僕を先生が宥める。
「僕は愛される唯一のチャンスを自分で捨てました。そんな僕が幸せになる資格なんてないんです……」
「ヒカルはちゃんと愛されていたよ」
先生は泣き喚く僕を抱きしめた。先生の綺麗な手が僕の頭を撫でた。僕はこの優しい手つきを知っている。
「ヒカルに伝えられてよかった。先生が貴方を愛していたことを。大丈夫、貴方は悪くない」
 僕は気づいた。僕も先生も母に頭を撫でられたことを覚えていた。僕は幼すぎて頭から記憶が抜け落ちていても、ちゃんと心が覚えていた。子守唄もそうだった。
僕たちが出逢ったのは偶然だとしても、こういう関係になったのは必然だ。お互いに相手を通して天国の母に会っていた。僕たちはちゃんと「母」に愛されていたのだ。
肺が空っぽになるまで泣き叫んだ後、僕は先生に伝えた。
「母に会いに行きたいんです。一緒に来てくれませんか」

 先生と飛行機で北海道に渡り、夜行列車で母の眠る地へと向かう。手には祖父母からの手紙。霊園への地図が同封されていた。
慣れない夜行列車はなかなか眠れない。
「眠れないなら聴く?」
先生がイヤホンを片方貸してくれた。流れていたのはオルゴールのラジオチャンネルだった。眠れない夜によく聴いているらしい。
 しばらくすると、「きらきら星」が流れてきた。その音に、公共の場だというのに涙がこぼれそうになる。きっと先生の頭の中にも同じ声が聞こえているのだろう。

 朝、ようやく霊園へとたどり着く。「星家之墓」と刻まれた墓石を見ると、鼻の奥がツンとした。
 僕を愛してくれた人。僕に温もりをくれた人は目の前で眠っている。
「母さん、僕は貴女に愛されて幸せでした。ありがとう」
僕は昔この人をママと呼んでいたのかお母さんと呼んでいたのか覚えていない。それでも、温もりは確かに僕の中にある。
「センセイ、貴女だけが私の先生で、お母さんでした」
先生は大粒の涙を流しながら、深く頭を下げた。
「一度だけお母さんって呼んでもいいですか……?」
「呼んであげてください、きっと喜ぶと思います。それに、本来呼ぶべき僕が呼べなかったから」
母ならきっと頷いて先生を抱きしめると思ったから、僕は勝手に母の気持ちを代弁した。
「お母さん、お母さん……」
先生は子供のように泣きながら母を呼び続けた。
「お母さん、大好きです」
最後にそう言った先生の顔は涙で化粧も崩れていたけれど、どこかすっきりしたように見えた。

 僕たちは黙って手を繋いで墓をあとにした。このまま本州に帰ったら、僕たちの関係はどうなるのだろう。
 馬鹿げているかもしれないが、僕たちをめぐり合わせてくれたのはきっと母さんだ。だから、この縁を終わりにしてはいけない。僕は勇気を出して先生の手を強く握った。
「姉さんって呼んでもいいですか」
あどけない笑顔で、先生は答えた。
「いいよ、ヒカル」
僕は鮫ノ原マリナに恋をしていた。彼女を聖母として偶像崇拝していたのはほんの数日前のことなのに、遠い昔のことのように感じる。今は等身大の彼女を、同じ母を持つ弟として支えたい。
「姉さんはあの学校に絶対必要な存在だと思う。姉さんに救われた子、いっぱいいると思うよ」
歩きながら言葉を絞り出す。僕たちの母があまりにも偉大過ぎたゆえ、その星の前では霞んでしまうのかもしれない。けれども、鮫ノ原先生だって確かに少なくとも一人の生徒の心を救ったのだ。
「それと、僕あの学校に六年いたけど、先生みんないい人だからさ、もうちょっと心開いてもいいんじゃない?」
僕たちはもう愛を知らない可哀想な子供じゃない。だからもう世間から自分を守るための虚勢はいらない。
「随分と生意気になったわね。善処するわ」
苦笑されたが、その口調は柔らかかった。
「あのさ、姉さん。僕やっぱりあの学校で教師になるよ」
また怒られるかと思ったが、返事は予想の真逆だった。
「いいんじゃない?A組ではヒカルの評判良かったわよ。お姉ちゃんが保証する」
生徒たちから貰った寄せ書きを思い出す。今なら僕は母校以外の場所が怖いからという理由ではなく、前向きな理由で教師を目指せる。
「僕も母さんみたいになれるかな?」
「一緒に頑張りましょう」
僕たちはもう必死になって居場所を探して迷わなくたっていい。愛し方も幸せも知った僕はようやく誰かのために生きていけるのだと思う。
 だから今度は僕が今悩んでいる誰かの居場所になりたい。母が姉さんにとってそうだったように、暗闇に輝く一番星になりたい。

 爽やかな風が僕たちの間を吹き抜けていった。少し離れたところにある木の葉がかすかに舞ったように見える。
「姉さん、あの木まで競走しない?」
子供のような僕の気まぐれに、姉さんはいたずらっぽい微笑みを返す。
「負けないわよ」
ヨーイ、ドンの合図で、僕達は太陽の下を走り出した。