春先の嫌な記憶が蘇って、私は個室の中で立ち尽くし、先輩たちと久保さんが出ていくのを待った。
しかし、先輩の彼氏の話で盛り上がっており、なかなか出るタイミングがない。
「最近さー、マスク詐欺多すぎて困るよね」
「それね。まあ、うちらもマスクのおかげで盛れてるけど」
「あはははっ」
「でも、先輩たちはマスク外しても美人のままですよ」
「久保ちゃんはむしろマスクで顔膨れてるから、ない方が可愛くて逆ギャップでいいよね」
「えっ、顔膨れてます? 上からちゃんとフィットするマスクしようかな〜……。あ、そのアイシャドウ発色最高ですね」
「でしょ??」
お喋りに加えて、メイク直しまで始めたらしい。
これは長丁場になりそうだと、ため息をこぼしたときだった。
「ていうか、あいつ。ウニみたいな名前の」
「福原さんですか? 福原結仁」
自分の名前が出てきて、ぎくっとする。冷水を浴びせられたような心地がして、呼吸が浅くなった。
「ああ、それそれ。あいつさ、絶対顔見せなくない?」
「あー、たしかに。あたしさぁ、どんなもんか見てやろうって思ってたんだけど、全然チャンスなくて飽きたわ。久保ちゃんは同じクラスだし、見たことある?」
「……考えてみたら、私もないかもですね」
「ええー、ガード固っ」
「顔見る機会って、昼ごはんと歯磨きくらいじゃないですか。お昼は前見て食べてるし、歯磨きのときに覗き込むほど興味もなくて」
「なるほどねー」
「興味ないって何気に辛辣」
くすくす笑う声に耳を塞いでしまいたいけれど、自分がいないところでどう噂されているのか知らないのも怖い気がして、手のひらを握りしめる。
「あ……でも、他の子たちより徹底してマスクしてる感じします」
「そうなの?」
「先輩たちと話してて思い出したんですけど、福原さんがごはん食べてる時に声かけたことあって。口元手で隠して、すぐマスクつけてから話し始めたんですよ」
「へぇ〜」
「黙食って言われてても、ちょっとくらい話したりするのは割とあるから、すごいきっちり対策するなーって記憶に残ってました」
「あれじゃない? 親が医療関係とか」
「うーん……たしか、在宅でなんちゃら〜って話してたので、会社員だったと思います」
「じゃあ、ただの感染対策徹底系」
3人でひとしきり笑ったあと、私にぶつかってきたことがある先輩が、ちょっと神妙な調子で切り出した。
「思うんだけど……あいつ、絶対マスク詐欺でしょ」
「わかる。絶対さ、噂されてるほど美人じゃないよね」
「あんなに顔隠すくらいですもんね」
「いっそさ、相馬と付き合った直後に振られてみてほしかったわ」
「あんたが彼氏にやろうとしてるみたいに?」
「いやもう、あれが彼氏は黒歴史になるから忘れて、マジで」
笑い声に混じって、ポーチのジッパーを閉じるような音が聞こえてくる。
ようやくメイク直しが終わったらしい。
やがて、3人の足音と声が遠ざかっていき、トイレ内が静寂に包まれるまで、私は立ち尽くしていた。