「マリア姉、あたしはこの子のことちゃんと愛せるかな?」
「マリ姉ちゃん、リリもいつか男の人のこと愛せるようになるかな?」

 児童養護施設・みかづきホームで働き始めて8年。一昨年ここを巣立った咲乃と梨々花が久しぶりに訪れた。彼女たちは今年度成人した。相談があると先日アポを受けたので買ってきたノンカフェインの紅茶を淹れた。湯気が揺らめく中、二人はそれぞれの不安を口にした。

 咲乃は先月結婚した。現在妊娠5ヶ月。結婚相手は、就職先の先輩。一度私も会ったことがあるが、温厚そうな人だった。梨々花は近くのアパレル店で働いている。

社会人として既に働いている梨々花だが、私たちの前ではいまだに一人称が自分の名前だ。甘え下手な梨々花も私たにはそれほどに心を開いてくれている。

咲乃は実の親から虐待を受け、5歳の時にみかづきホームで保護された。梨々花も同じく5歳の時に母親の再婚相手から虐待を受け、咲乃とほぼ同時期に保護された。同い年の二人は双子のように育った。

 愛着形成に不安のある彼女たち。実の親からの愛を知らずに育った少女たちが通る道。行き止まりで立ち尽くす彼女たちに、私は道を示したい。

「愛せるよ」

窓の外では桜のつぼみが芽吹きつつあった。これがきっと、私が最後にあなたたちにできること。私の話が、どの程度二人の救いになるかは知らないけれど、あの夜の話をしようと思う。

「少し昔の話をしましょうか」


 物心ついたときから親に暴力を振るわれていた。両親はともにアルコール依存症だった。劣悪な環境で育ったせいか、動物的な勘があったのかもしれない。自分と近い性質を持った人間をかぎ分ける嗅覚がやたらとあった。

 あの子は親からの愛に飢えている、あの子は大人に対して怯えている、あの子は人生を諦めている。わざわざ口に出さないが、重い荷物を抱えた人間はなんとなく分かった。中でも、海兎(カイト)はひときわ暗い目をしていた。

 海兎は海兎で私に似たものを感じていたようだった。私たちはお互いの境遇を打ち明け合った。海兎も父親から虐待を受けているという。打ち解けた私たちは、恋仲になった。大人びているように見えた海兎は私の前でだけは感情を出してくれた。

「茉莉亞がいないと生きていけない」

海兎は口癖のように時折つぶやいた。愛を知らずに育った私たちの不器用な愛は、青い果実のように未熟だった。誰にも見られない場所で、好きだと言い合うだけの幼い恋だった。

「私も、海兎がいないと生きていけない」

 中学3年生の夏休み。虐待が幾度となく露呈しそうになったため、暴力を振るわれることは減ったが、いわゆるネグレクトはひどくなった。両親の金遣いが荒くなり、家にはお金がなかった。給食がない期間を食べ繋ぐためにお金が必要だった。

「最近さ、親が夜出かけて帰ってこないからガールズバーで年ごまかして働いてる」
「マジで?」
「いくらお化粧したって、どう見てもハタチは無理があるのにさ、店長が見て見ぬふりしてくれてるんだよね。そのぶんお客さんのセクハラも見て見ぬふりだけどね。若い方がおじさんにウケがいいみたいで。おじさんたちもみんな分かってるけど、知らないふりしてる。大人って汚いけどさ、それを利用してる私も大概だよね」

ヘラヘラと自嘲した。私たちはこの世界にうんざりしていた。

「なあ、逃げないか?二人で」
「無理だよ。見つかったら、もっとひどい目に合う」
「俺が守る。一度くらい、茉莉亞のこと守らせて」

海兎が私の目をまっすぐ見つめて言った。私がうなずくと、海兎に抱きしめられた。海兎の長袖のシャツが私の肌にこすれた。この腕に全てをゆだねたいと思った。私の残りの人生は海兎にあげる。

 秋が来て、冬が来て、中学の卒業式を迎えた。そして3月20日、奇しくも14歳最後の日に私たちは駆け落ちをした。持って行った方が良いかどうかの確認のために見せた学生証と保険証の生年月日欄を見た海兎が気づいて、初めて私も気づいた。

 鈍行列車に揺られて、たどりついた隣県のホテルは想像以上に高級そうで気後れした。財布を出そうとする私を制止して、海兎が全額を出してくれた。

「女に金出させる男は最低だって、先輩が言ってた」
「なおさら、こんな豪華なところ申し訳ないんだけど」
「気にすんなって」

海兎は優しく笑った。広い部屋に、大きなダブルベッド。ふかふかのベッドがあまりにも気持ちよさそうで、私は思いっきりダイブした。

「最高なんですけど!」
「それはよかった」

寝転がる私を見て、海兎が茶化した。

「メイク落とさないで寝落ちしたら、肌荒れしてババアになるぞ」
「ちゃんとお風呂くらい入りますよっ」

 時々不安定になる海兎も、普段は面倒見が良い。私に軽口で注意する口調は、まるで世間一般で言う兄のようだ。もし、私たちが兄妹だったら助け合えたのだろうか。

 私がくつろいでいる間に、海兎はお風呂にお湯を張り始めてくれたようだ。私は、メイクを落とした。子どもが夜の街を歩いていると警察に通報されてしまうので、ガールズバーで働いていた頃と同じように精一杯大人に見えるように擬態していた。メイクをすることも着飾ることも好きだけれど、やすらげる部屋では失われた少女時代を取り戻したくて子どもでいたい気持ちが強かった。普段よりも手早くメイクを落とした。

「お風呂広いねー」

海兎の隣でなら、無邪気に生きられる気がした。抑圧されていた反動かもしれないが、感じたことを考える前に口に出していた。わくわくするくらい広いバスタブで、長旅の汗を流した。


「疲れただろ?もう寝る?」

窓辺で夜の街を見下ろす私に海兎が問いかけた。

「逆に頭冴えちゃって眠れないや」
「じゃあ、オールすっか。ゲームか何か持ってこられりゃ良かったんだけどな。せめて漫画くらいはって思ったけど、こんなんしかなかった。面白いかは分からないけど暇つぶしにはなるだろ」

海兎に文庫本を手渡される。タイトルには『アラビアン・ナイト』と書いてある。

「どうしたの、これ?」
「図書館にいらない本廃棄してるエリアがあって、ご自由にお持ちくださいって書いてあったから適当に持ってきた」

目をそらしながら答えた海兎は、水道でくんできたコップの水を飲んだ。私は『アラビアン・ナイト』のページをめくり始める。

 アナログ時計の針の音が時々聞こえた。『アラビアン・ナイト』は作中作が多くて話が複雑ではあるけれど、面白かった。ベッド際のアラームが突然鳴り出した。

「あ、日付変わった。茉莉亞、おめでとう」

誕生日を祝われたのは生まれて初めてで、照れくさかった。

「あ、ありがとう」

 海兎が私に差し出したのは、可愛いウサギのぬいぐるみだった。それ自体もとても嬉しかったけれど、私が昔言ったことを覚えていてくれたことも嬉しかった。小学生の時にクラスの子が親にデディベアをもらったと言っていて、それが羨ましかったと海兎に話したことがある。

「オルゴールになってんだよ。それ」

ウサギのぬいぐるみの背中についたゼンマイを回すと、子守唄のようなメロディが流れた。

「すっごーい!ありがとう!私、生きてきた中で今が一番幸せ」
「それは良かった」

海兎が再び寝転んで天井を仰いだ。

「もう寝るの?」
「いや、茉莉亞が起きてる間は起きてる」
「ええ、なんか悪いよ。私も寝る。おやすみ」

ウサギのぬいぐるみを抱きしめたまま、私も寝転ぶ。海兎の顔がほんの数センチそばにある。

「やっぱり、茉莉亞はすっぴんの方が可愛いな」
「そうかなぁ」
「可愛い。茉莉亞は誰にも似てなくて、世界で一番綺麗だ」

赤面する私を、海兎が優しい目で見つめる。おやすみ、なんて言っても結局眠れなくて私たちはずっとしゃべっていた。

「でも、私汚いよ」
「傷だらけなのはお互い様だろ?茉莉亞は元が綺麗だから気にすることないって」

夏でも長袖を着て隠していた海兎の右腕には火傷の痕、左腕にはたくさんの刃物の痕がある。私も、服で隠れるところは古傷が多い。

「そういう意味じゃなくて、ほら、私水商売してたから」
「だから、気にすることないって。俺も、茉莉亞には言えないような方法で金貯めたから」
「過去は過去だよ」

その言葉は海兎に対するものだったのか、自分に言い聞かせたものだったのか、今でもよく分からない。ただ、あの頃は綺麗事では生きていけなかった。

「全部捨てて、生きていこうよ。私、海兎と家族になりたい」
「茉莉亞の理想の家族ってどんなの?」
「帰って来てただいまって言ったら、おかえりって返事が返ってきて、夜に安心して眠れたらそれでいいかなって。小さな家でも、お金持ちになれなくてもいい」

ベッドの近くのランプに照らされた海兎の顔は綺麗で、実年齢よりも大人びて見えた。

「子どもは海兎に似てたらいいなぁ」
「クソみたいな毒親に育てられた俺たちがまともな親になれんのかな」
「分からない、けど」

未来は誰にも分からない。だからこそ、この夜が永遠に続いて欲しい。それでも、時は無情に流れる。そして、私の本能は海兎を明日も明後日もこれから先も求め続けるのだと思った。

「海兎との赤ちゃんなら欲しい、って思う」

私は海兎の手を握った。

「女の子だったら百合とか桜とか花の名前つけたいな。男の子だったら、海兎から1文字取りたいね」
「そうだな」

海兎が目を閉じた。私は海兎の唇にキスをした。愛しいという感情は、海兎に出会って知った。

 いつ眠りに落ちたのかは覚えていない。目が覚めると、隣に海兎がいなくてパニックになった。無我夢中で海兎の名前を呼びながら、バスルームに行くとそこに海兎がいた。海兎は手首から血を流していた。

「昔の傷、開いちゃったの?救急車、呼ばなきゃ・・・・・・」
「やめろっ!余計なコトすんなよ!」

海兎が私の腕を強い力で掴んだ。

「俺たちは逃亡中なんだよ!連れ戻されたいのかよ!」
「痛い・・・・・・離して・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

私の声を聞いて、海兎が青ざめた顔で手を離した。

「ごめん!茉莉亞ごめん・・・・・・本当にごめん・・・・・・」
「大丈夫だよ。それより、止血しないと」

バスルームには剃刀が落ちていた。応急手当をしたあと、海兎が言った。

「自分でやった」
「なんで・・・・・・」
「もう嫌だ。お前重いんだよ。踏み込んでくるなよ」

しゃがみこんだ海兎がうつむいている。私が海兎に手を伸ばすと、その手は振り払われた。

「触るな。俺に近寄るな」
「なんで・・・・・・」
「別れよう」

海兎の一言は、親に生まなきゃ良かったと言われたときよりも私の心に突き刺さった。

「なんで、一緒に生きていこうって言ったじゃん」

私は膝から崩れ落ちて泣いた。

「もう好きじゃなくなった。せっかくクソ親父から離れられたんだから、女遊びして自由に生きていきたいんだよ、俺。茉莉亞も顔はいいんだから、金持ちのいい男見つけろって」
「嘘だったの?今まで好きだって言ってくれたのも、全部嘘だったの?」
「男ってそういうもんだろ。美人には優しくしておくもんなんだよ。ここまで連れてきてやったんだし、お前にもメリットあったじゃん。だから、お互いのことはなかったことにして生きていこうぜ」
「海兎はそれでいいの?」
「当たり前だろ。どうせ抱くなら、傷とかない女の方がいいし」

海兎の乱暴な口調と暴言は知らない男の人の声のように聞こえた。顔を上げて知らない男の人になってしまった声の主を見る。

「じゃあ、なんで泣いてるの?」

海兎の目からは一筋の涙が流れている。

「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「うるせえな、お前マジ黙れよ。俺に殺されたいのかよ」
「海兎になら殺されたって後悔しない!」

私は、海兎の左腕をさすった。

「頼むからやめて・・・・・・俺に茉莉亞を傷つけさせないで・・・・・・」

弱々しい声で海兎が言った。

「俺の親父とおふくろって、年離れてんの。親父が、未成年のおふくろを誑かして誘拐同然に囲って、できたのが俺って訳」

以前、海兎がぽろっと言ったことがあった。海兎の母親は17歳で海兎を出産したらしい。私とは正反対のタイプだとよく強調していた。

「親父は昔から俺のこと嫌ってたけど、おふくろは物心ついたくらいの頃は、子守唄歌ってくれたり寝る前に物語聞かせてくれたこともあった。シンドバッドとかアリババとか」

 海兎は嘘をつくとき、目をそらす。『アラビアン・ナイト』を適当に図書館の廃棄コーナーから持ってきたといったとき、目をそらしていたのは持ってきた場所が嘘なのだと思っていた。たとえ海兎が万引き犯でも殺人犯でもそれでも地獄に落ちるときは一緒だと思っていた。でも、嘘だったのは「あらすじは知らないけれど適当に持ってきた」の部分の方だった。無意識に、過去の愛に縋っていた。

「俺が成長して親父に似てくるとさ、おふくろは露骨に俺に露骨に怯えるようになった。親父は俺だけじゃなくておふくろにもDVしてたし。で、俺にまで反抗されたらどうしようって被害妄想したおふくろは俺のことを逆に恐怖で支配するようになったってわけ。おふくろはもう何年も病んでて、強い睡眠薬手放せない状態。マジで俺、笑えるくらい親父に顔そっくりなんだよ」

暴力を振るってくる以外のことについて、海兎の父親については知らなかった。

「鏡見るたびに、俺も将来は親父みたいになるのかって絶望した。でも、茉莉亞と出会ってちゃんと俺でも人のこと愛せるんだってほっとした。茉莉亞の前でだけは俺はちゃんと人間だった」

軽率に、子どもが海兎に似て欲しいと言ったことを後悔した。私は近くにいるようで、海兎のことを何も知らなかったのかもしれない。

「俺、茉莉亞のこと利用してた。茉莉亞はおふくろに似てないから。茉莉亞に優しい言葉吐いて、紳士的に接して俺は親父とは違うって思いたかった」

それでも、私が海兎の優しさに救われていたのは事実だった。

「でも、何度も夢に見た。茉莉亞のこと殴る夢を見た。茉莉亞のこと無理矢理襲う夢を見た。茉莉亞を殺す夢を見た。そのたびにリストカットした。俺の本質って親父と一緒なんだって常に怖かった」

数え切れないくらいの切り傷を思い出す。どれほど、思い悩んでいたのだろう。

「夢の中で何回も茉莉亞のことを滅茶苦茶にした罪滅ぼしに、茉莉亞の親から守れたらって思った。でも、結局やってることは誘拐で、俺の親父が15年前にやったことと同じだった。俺にはあの汚い血が流れてるんだよ」
「違う!私は、海兎に救われた!海兎が連れ出してくれて嬉しかった!」
「茉莉亞がウサギのぬいぐるみ喜んでるの見て思った。俺、誕生日とか祝われたことないし、もし茉莉亞との間に子どもができて、その子が普通に誕生日とか祝われて普通に生きていくんだとしたら、絶対に嫉妬する。なんで俺だけって思う」

私は海兎の誕生日を知らない。誕生日を祝われたことがなかったから、祝うという発想がなかった。愛し方を知っていたら、未来は変わっていたんだろうか。

「子どもがいなければ、虐待することもないとか、そういう問題じゃない。その分、たくさん茉莉亞を傷つける」

私たちは薄氷の上に立っていた。誰よりも強い絆で結ばれていると思っていたけれど、本当は今にも壊れそうなバランスで成り立っていた無力な愛だった。それでも、私は海兎を失いたくなかった。

「どうしたらいいか、一緒に考えようよ。私は、海兎と一緒にいたい」
「茉莉亞はまだ引き返せるって。茉莉亞はまだ綺麗だから」
「嫌だ、海兎と一緒じゃなきゃ嫌だ、海兎も言ったじゃん、私がいないと生きていけないって。私も海兎がいないと生きていけない」
「それが怖い。茉莉亞が俺の名前必死に呼んでたとき、俺がいないと生きていけないんだなって思った。俺はそういう感情利用する側の人間だから。茉莉亞に暴力振るった時、俺は親父の息子なんだって確信した」

腕を強く掴まれるなんて、暴力のうちに入らないと思った。

「ちょっと俺、いっぱいいっぱいだ。ごめん」

私の存在そのものが、海兎を傷つけていた。

「茉莉亞のこと傷つけるくらいなら、離れたい」

海兎は私の目を見ないで言った。堂々巡りの口論が進むうちに、外が徐々に明るくなっていった。日差しが私たちを我に返らせた。

「これからのこと決める前にチェックアウトするのもあれだし、延泊するか」
「そうだね」

海兎がため息をついた。私たちは少しだけ冷静になれた。泣いて声が枯れている私に、海兎は水をくれた。

「ほら、やっぱり優しい」
喉を潤したので、言わないといけないことがある。親によって呪いをかけられた私たち。呪いを解けるのはお互いしかいない。

「海兎はお父さんとは違うよ。私は海兎に愛をもらった。この先どんなことがあっても、これだけは真実だよ」
「ごめん。俺どうかしてた」

私を抱きしめて、海兎が言った。いつもの口調に安心した私は脱力した。

「延泊手続き、やっておくよ」
「うん、ありがとう。お金大丈夫?」
「気にしないで休んでろよ、俺のせいで色々精神的な負担かけちゃったし」
「寝てる間にどこかに行ったりしたら嫌だよ?」
「絶対どこにも行かないよ」

私に背を向けて、フロントに電話を繋ぎながら海兎が答えた。長旅よりも遥かに疲れ果てた私は眠気に負けそうになり、ベッドに寝転んだ。ベッドに腰掛けた海兎が私の目を見て愛をささやいた。
「茉莉亞のこと、幸せにしたい」
「うん、幸せになろう」
「好きだよ、茉莉亞の顔も声も心も全部」
「私も好きだよ」

眠い目をこすりながら、オウム返しのように海兎の言葉を繰り返した。

「愛してる」
「愛してる」
「ずっと、茉莉亞と一緒にいたい」
「ずっと、海兎と一緒にいたい」

視界がぼんやりとしてきた。繋いだ手に、熱い雫が落ちた。海兎は私を確かに見ているのに、私は夢の世界に行きそうだ。それでも、私の声は愛を繰り返す。

「さよなら、茉莉亞」
「さよなら、海兎」

最後の声が、現実だったのか夢だったのかは今でもよく分からない。


 目が覚めると、いつの間にか夕方になっていた。隣に海兎がいなかった。枕元にメモと睡眠薬のシートの残骸が残されていた。

「俺のことは忘れて幸せになってください。大好きです」

あの水にはきっと睡眠薬が入っていて、海兎は私を置いていった。海兎を永遠に失った私は子どものように泣いた。

 まもなく、ホテルのドアを何者かがノックした。ドアを開けると、私は児童相談所の人か警察だかに保護された。匿名の通報があったらしい。同じく匿名の通報によって、私の両親は薬物乱用が発覚し、逮捕されたと聞いた。両親が薬物を買っていた売人は海兎と繋がりがあったこともその時に聞かされた。

 私はみかづきホームという児童養護施設に入ることになった。施設のベッドはあのホテルのベッドに比べると狭かったけれど、地獄のような実家に比べれば居心地はよかった。ただ、隣に海兎はもういない。ウサギのぬいぐるみを抱きしめて眠った。スマホもカメラも持ったことのない私は、海兎の写真も動画も何も持っていない。メールやトークアプリの履歴もない。ウサギのぬいぐるみとメモ一切れだけが、海兎といた証だった。

 その日の夜、布団の中に違和感を覚えて起きると小さな女の子が入り込んでいた。
「ママぁ」
寝ぼけているようだ。確か、この子も最近施設に引き取られたと職員の方が言っていた。どんな毒親でも、子どもは親が恋しい。私も昔はそうだった。

「キミも、さみしいの?」
「うん、リリさみしい」

リリ。そうだ、この子は確か梨々花という名前だった。梨々花は私に母親の面影を求めていた。オルゴールの子守唄をかけながら、梨々花を抱きしめた。私なら、絶対に海兎との間の子どもにこんな思いをさせないのにと梨々花の親へ呪詛を吐いた。

 梨々花は私に懐くようになった。なぜか私をママと呼ぶようになった。それを見ていた梨々花と仲が良かった咲乃も私の後ろをくっついて歩くようになった。咲乃も私をママと呼んで甘えるようになった。咲乃に気を遣った梨々花がたまに私から離れようとすると私は二人をまとめて抱きしめた。もし、海兎との間に娘が出来ていたとしたらこんな感じなのかなと思った。私はある日、誰もいない平らなお腹をさすって海兎を想った。

 施設、行政、NPO法人の尽力によって私は高校に通えることになった。高校生活を送るうちに、梨々花と咲乃はさすがに私をママとは呼ばなくなった。けれども、親としてではなくともこの子たちに恥じないように生きたかった。正しくまっすぐに生きていれば、いつかまた海兎に会えると思った。千夜に渡って、あの夜に戻ってやり直したいと思った。あの夜に戻れるのなら、二度と海兎の手を離したりしないのに。

 太陽の下を堂々と歩けるような生き方がしたかった。お世話になった人たちに応えるために、学校の成績は上位をキープし続けた。特待生制度と奨学金を駆使して児童福祉関連の大学にいけることになった。将来に迷いはなかった。二度と海兎と私のような子どもを出さないために。梨々花と咲乃の未来を守るために。そんな優しい世の中になれば、海兎が迎えに来てくれるかもしれないという淡い願いを抱いた。

 高校を卒業して、みかづきホームを巣立つ時、梨々花と咲乃がこの世の終わりのごとく号泣した。夏頃、アルバイトだった職員のお姉さんが留学のために辞めたという連絡が園長から入った。アルバイトの職員という形でみかづきホームに戻ることになった。大学の授業が忙しかったため、毎日行っていたわけではないが、それでも梨々花と咲乃が半狂乱で喜んでくれた。多忙な毎日だったが、片時たりとも海兎を忘れたことはなかった。

 無事資格を取得し、そのままみかづきホームに正社員として就職した。海兎がどこで何をしているか知らないまま7年がすぎた。どこかで笑って生きていて欲しいと毎晩願い続けて、二千夜以上が経っていた。

 海兎と別れて三千夜、梨々花と咲乃は中学3年生になっていた。自分の娘のように思っていた二人はいつのまにか、駆け落ちをしたあの日の私と同い年になっていた。無邪気に笑う二人を見て、私と海兎のあったかもしれないハッピーエンドを夢想した。綺麗に生きていきたかったと時折思った。過去は変えられなくても、海兎が今自分を愛せる生き方が出来ていることを願った。

 四千夜が過ぎた頃、高校生の二人から相談を受けた。咲乃に好きな人が出来た。梨々花に将来の夢が出来た。

「あたしたち、幸せになっていい?」

私は答えた。

「あなたたちを幸せにするために、みかづきホームの大人たちは頑張ってきたの。私はあなたたちに幸せになってほしい」

私とあなたたちは魂の親子。だから、幸せをつかむことを恐れてほしくない。愛する人の手を離さなければ、きっと幸せになれるから。そして、私は四千夜に渡って願い続けた。海兎があの夜のように不確かな未来を恐れなくても生きていける世界でありますように、と。

「あのとき私は間違いなく人生最大の恋をしていた」

話し終わると、梨々花と咲乃が泣いていた。

「そして、あなたたちに出会ってあなたたちを愛した。これから先もずっと私たちは家族だと思ってる。だから、あなたたちは人を愛せるし、幸せになれる。困ったことがあったら、いつでも私のところにおいで。あなたたちには帰る場所があるんだから、明日を恐れないで。これが、母親代わりとしての私の正直な気持ち。」

紅茶はいつの間にか冷めていた。二人は何度もうなずいた。やがて、すっきりしたのか泣き止んだ二人は来たときよりも晴れ晴れとした顔をしていた。

「最後に一度だけ、お願いがあるんだ」
「マリア姉のこと、ママだと思って甘えてもいい?」
「もちろん」

私は咲乃を抱きしめた。

「あたしもママみたいになれるかな」
「なれるよ。咲乃はきっといいお母さんになれるよ」

咲乃を抱きしめて、頭を撫でる私を出会った頃のように遠慮がちに梨々花が見ていた。

「おいで、梨々花」

私が腕を広げると梨々花が抱きついてきた。

「ママぁっ」
「梨々花は誰よりも優しい子だから、大丈夫」

すっかり夕方になり、二人を門の前まで見送った。

「そうだ、これマリ姉ちゃんに誕生日プレゼント!二人でお金貯めて買ったんだよ!」
「もうすぐだったよね。ちょっと早いけどおめでとう!」

別れ際に、二人からプレゼントをもらった。なんてまっすぐに育ったのだろう。梨々花と咲乃が手を繋いで歩いて行く。大丈夫、あなたたちはきっと愛の中で生きていける。遠く小さくなっていく背中に向かってつぶやいた。

 あの夜から15年が経とうとしている。私は生きている。『アラビアン・ナイト』のお姫様シェヘラザードは愛を知らない王様に千夜に渡って物語を読んで、愛を教えた。私はなれたのだろうか。梨々花と咲乃にとってのシェヘラザードに。

 15歳の私はあの日、海兎にとってのシェヘラザードになりたかった。私に愛を教えてくれたあなたに今度は私から愛を教えたかった。私がありのままでいられる場所を見つけられたのはあなたのおかげだった。五千夜に渡って、あなたの幸せを願い続けた果ての果て、私はもうすぐ30歳になる。

 みかづきホームと今住んでいる小さなアパートは私が安らげる場所。この世界で私は幸せに生きている。あなたにとってもそうであるようにと願いながら、私はアパートのドアを開けた。

「ただいま」