試合は連戦連勝、時々強豪校に接戦の末、ギリ負けるくらいまで成長した。
 周囲はとにかく実力をあげていた。ところが舞香だけはなぜか凡ミスが続いた。
一年生の間で「イキった先輩が思ってたより大したことなかった感」の雰囲気が漂った。

 舞香が一方的に押し付けた部活方針や練習メニューはある意味、静かに歓迎されたものの、部員たちが舞香を支持することはなかった。これは、先輩のフォローやアシストのおかげで活躍した試合を、自分の功績と信じて疑わなかった舞香の心理と同じ原理だった。成長したのは自分が努力したから、と言わんばかりの態度だ。現に練習をサボった部員は下手のままだった。努力の差は如実に表れていた。

 ここで評価が高まったのは、部活を辞めてしまわないように積極的に一年生のケアに回ったキャプテンである上原由依だった。みんなから慕われる人望派のキャプテンと、実力主義の疎ましい副キャプテンの構図が鮮やかに浮かび上がっていた。
 しかも、その実力主義の副キャプテンとやらが自分で掲げた方針に一番忠実なくせに凡ミスを連発している。しかもチビときている。よくよく考えてみれば、好戦的なだけで体幹はそんなに強くない。ただバスケに慣れてるだけ。……あれ? ラクに潰せるかも。
 この静かな高揚が一年生を飽くなき努力へと駆り立てた。

 舞香はミスの連発が止まらなかった。パスを出した先に仲間がいない。3Pシュートが入らない。レイアップは弾かれる。ディフェンスはたやすく抜かれる。司令塔としての役割だけが元気だった。なぜなんだろうと自問自答を繰り返すうちに、底の見えない不安に陥った。
 よく周囲を観察した。身長だ。でも、それだけのことでこの10年の努力が帳消しになるのだろうか? いや、そんなはずはない。そんなのは認めない。受け入れられない。同学年はすでに頭一つ分、舞香より身長は高く、一年生の中でも舞香の身長は低めの部類だった。

 次第に頭角を表してきた一年生の中で、舞香にとってもっとも嫉妬に駆られる存在がいた。
 森沢だ。中一にしてすでに身長は160センチに届くところ。小1から小6まで剣道をやっていて体が強く度胸もある。舞香の厳しい口調にもなんら動じる気配はない。
 舞香を嫉妬させたのは、森沢の飲み込みの早さでもなく、冷静でタフなメンタルでもない。その長身だった。
 無意識のうちに森沢との接触を避けている自分に気がついた。きっと、白黒つくからだ。どっちが上か下か。自分の才能はうぬぼれだったのかどうか。
 それは何気ない日常の練習の最中に起きた。

 部員の誰もが止められない森沢のドリブルを、舞香は睨みつけていた。オフェンスの森沢がいよいよ眼前に迫ってくる。
 舞香のポジションはポイントガードだ。森沢の攻めに対して先頭について対処する。
 ベテラン舞香とルーキー森沢の一対一が始まる。
 ディフェンスとして舞香が立ち塞がった。自分の選択肢は二つ。森沢に下手なシュートを打たせるための基本のディフェンスに徹するか、格の違いを見せつけるためにボールを奪い取るディフェンスにでるか。その答えは考える前から明らかだ。
 ……ボールを奪い取ってやる。
 かかとをわずかにうかせて俊敏性を高める。右腕をぶらりと垂らし指先を森沢の膝の方へ向ける。
 オフェンスが相手を抜き去るときは、たいてい右手のドリブルから左手のドリブル(またはその逆)に切り替える時だ。この時、ボールは「横にVの字」の軌道を描く。だから舞香はVの字の"鋭角"を狙う。つまり"ボールが地に着く瞬間"だ。なぜなら、すでにボールは手から離れてオフェンスのコントロール下にはなく、ファウルを取られる可能性も低いからだ。
 左のアウトサイドから右に切り込んで森沢はシュートを狙うだろう。舞香はそう思った。森沢の利き手は右手。"格上のディフェンス"に切り込むなら利き手でボールに小回り利かせて突破したい、はず。
 案の定、森沢は舞香と対峙すると右手から左手へ切り替える動きを見せた。ここだ、と舞香は右手を伸ばすと同時に右足も出した。
 しかし空を切った。ボールが消えたのだ。舞香は踏み出した足に急いでブレーキをかける。動きが鈍った。
 森沢が見せたのは、舞香の想定した「横のVの字」ではなく、「前後のVの字」だった。森沢は瞬時の動きでボールを背中に回したため、舞香にはボールが消えて見えた。すでにリングの方向へと走り出しているボールを森沢は手懐けた。
 森沢がこの技を使えることは想定外だった。でも俊敏性では負けない。ディフェンスは一回やって終わりじゃない。必死に食らいついた。
 唯一の救いは森沢のドリブルにはかろうじて甘いところがあった点だ。慣れない切り返しのプレーによってわずかに減速したのだ。すぐに舞香は追いついた。次の森沢の展開を読んだ。ゴールまで近い。2Pシュートか? いや、レイアップだ。
 二人はゴール下までべったりくっついて疾走した。舞香は意地になった結果、森沢のドリブルをスライドステップで進路を阻んでしまった。この時、舞香は自分のディフェンスがファールに該当する自覚があった。
……ぶつかる。
 森沢の凄まじいドリブルは、舞香の存在をコートの外へと弾くも、勢いは止まることなく、鮮やかなレイアップを決めた。
激しく転倒した舞香を横目に森沢は「ビッグプレー」を決めた。
 【バスケットカウント】相手からファールを受けながらもシュートを決めると、そのシュートの得点に加えてフリースローの機会が与えられる。つまり森沢のレイアップシュート二点とその後のフリースローを決めれば、もう一点加算され、合計三点が与えられる。
 舞香は転倒しながらも"格上のオフェンス"鮮やかなレイアップシュートを見ていた。しつこいディフェンスをものともせず、お手本のようなレイアップを見せつけた。本試合ならこの後フリースローの機会が与えられる。きっと森沢はきっちりシュートを決める。森沢がフリースローを外すのは練習でも試合でも、あまり見たことがない。本番に強いタイプだ。
 それに比べて地べたに横たわっている自分は一体なんなんだろう。ファールまがいのプレー、失敗に終わったディフェンス、あたり負けした肉体。

 ……完全、敗北。

 ネットから落ちたバウンドの音が、コートの床にへばりついて離れない耳を通じて、鼓膜を痛く響かせると、涙がこぼれた。
 突然、兄がバスケを辞めた日の記憶が浮かんだ。
 ……あぁ、今になってわかったよ。
 なぜ、あなたがバスケを辞めたのか。



 兄の翔太が高校生だった頃、小学生の舞香に複雑な思いを抱いていた。どうやら妹は中学生になってもバスケをやりたいという……。
 妹には自分と同じ境遇にあってほしくなかった。だけれども妹にバスケを勧めたのは自分だし、その妹は今日も熱心にバスケの練習に明け暮れて努力している。そんな妹にこれから直面する不条理をわざわざ語ってなんになる? 好きなことに懸命に努力する妹にわざわざ水を差してどうする? 「スポーツは体格がものを言う。特にバスケは高身長が圧倒的に有利。チビにプロは無理。大学ですら厳しい。だからバスケは遊び程度に、ほどほどに頑張れ」なんて言う方が兄としての優しさなのだろうか。
 NBAの動画を何回も見たり、プロバスケ選手らのプレー中の写真集を何度も眺めたり、バスケの教本をしつこく熟読したり、負けたりミスすると本気で悔しがって泣く妹に、やはりそんな言葉はふさわしくない。
 でも何か方法はあるはず……。舞香に映画、漫画、音楽、人気YouTuberなど、それとなく勧めた。その中にバスケの類のものは入念に排除されていた。中学で新しく夢中になれる何かに出会って欲しかった。

 舞香にとって、正直、鬱陶しかった。バスケに夢中になってるのにテニスだのバトミントンだの卓球だのどうでもいい。人気俳優らによる実写化で話題の漫画だのバズったYouTube動画だのどうでもいい。
 ……でも今思えば、あれは兄・翔太なりの優しさだったんだ。その優しさの中に苦しさがあったんだ。
 翔太はバスケの練習や試合で負ったケガを家族や友達にひけらかして笑うところがあった。スリ傷や打撲を見せていかにド派手なプレーをやったかを舞香に聞かせた。舞香はその生々しい傷と翔太の盛りに盛った武勇伝を、苦笑しながら聞いていた。
 しかし気がつけばいつからか翔太はケガを語らなくなった。むしろ、隠すようになった。きっと恥ずかしくなってきたのだろう。ケガのもとになる下手なプレーがだんだん笑えないほど深刻なものになったのだろう。自分のバスケ人生がじわじわと否定されていく感覚になったんだ。

 その日、舞香はミニバスから帰宅すると、リビングから兄と母が喧嘩してる声が聞こえた。カバンを下ろす間もなく音の方へ足を進めると、泣き崩れてる母と何かをせっせと捨てる兄がいた。あまりの光景に立ち尽くす他なかった。
 兄の足元には、ビリビリに破かれた賞状、折れたトロフィーなどが転がっていた。
 なんで? 何が起きたの? と思ったが兄の無言の怒りを見ると、すぐに状況を聞けそうになかった。
 母がすすり泣いている。もともと小柄だった背中がより縮んでいるように見えた。
 兄はなんのためらいもなくバッシュやスポーツウェアなどを生ゴミと一緒のゴミ箱に眠らせた。段ボールのふちから突き出たトロフィーの先端は、棺桶からはみ出た生首のように冷めている。
 舞香に一瞥もくれず自室へと移動した。妹の不審に怯えた視線に気がつけば何か語ってくれるのではないかと思って、静かに後をついていった。兄の部屋はほとんど空っぽだった。大量に何かを買い込んだ紙袋が二つ並んでいた。バスケボールや教本やNBA写真集が部屋の隅に置かれている。机の上には何枚かの写真があった。
 兄がミニバスで優勝した時の写真。舞香がバスケを始めて間もない頃だ。
 兄が中一でレギュラー取って初めて勝った試合。そばで妹がガッツポーズしてる。
 兄が中学三年で全国ベスト4の記録を残した写真。悔し泣きする妹と笑う兄。
 兄がバスケ強豪の高校に入学した頃の写真。
 ……しかし写真はそこで止まっていた。
 無言のまま二人の思い出の写真を舞香に渡した。
 兄はこちらに顔を見せることもなく言った。
「次に進むためだよ。俺な大学に行くんだ。新しいこと始めるために。だから古いものはもう捨てないとって思ってさ」
 バスケ関連の本や雑誌で埋まっていた本棚は、受験勉強の参考書に置き換わっていった。
 まだ高二の夏前だった。部活を辞めるには不自然な時期だ。
 そして、ミニバス帰りの舞香に背を向けて言った。
「舞香。ごめんな……俺、ダメだったわ……」
 その時の表情を決して見せようとはしなかったけれど、震える肩や背中で言葉以上の悲しみや無念さが痛いほど伝わった。
 バスケへの熱量はかつての兄には負けてない。だからこそ、きっと、いつか兄と同じ境遇に陥ることを知ってたんだ。バスケなんて楽しければいいじゃんなどとはとても割り切れない兄妹だから。
 自宅にいたらバスケに夢中の妹がいる。それはかつての自分と重なるのだろう。正直、鬱陶しくて苦しいに違いない。でも妹の邪魔はしたくない。だから東京に住んでいながら、わざわざ地方の公立大学を受験し、格安の学生寮がついてる大学に進学したんだ。これまで勉強してるところなんて見たことがなかったというのに。兄は高校卒業と同時に家を出ていった。
 挫折、諦め、そして自分への配慮。
 ……あの頃の兄の心境を思うと泣けてきた。



「新木先輩、すいません。だ、大丈夫ですか」
 部員達は騒然とした。時が止まったように動きは制止され、ボールのバウンドの音だけが聞こえた。
「ほら練習しろ! お前ら!」
 顧問の田口が大声を上げた。
 部員たちは横目で事のゆくえを追いつつ練習を再開した。

 田口は静かに口を開いた。
「森沢」
「は、はい!」
「何も謝ることはない。今のは新木のミス。ディフェンスファールだ。お前はきっちりオフェンスの役割を果たしただけだ」
「あ、いや、でも……」
「練習に戻れ!」
「は、はい……」

 ……体はどこも痛くないっていうのに、メソメソ泣いている。これは甘えだ。舞香も続いて練習を再開しようとした。
 すると田口が呼び止めた。
「新木、少しは休め。今の転倒は、練習不足じゃなくて、疲労からくるものだ」
 振り向くことなく声を絞り出した。
「下手くそで足手まといの部員にそんな甘い言葉は入りませんよ」
「何言ってんだ。お前はよくやってるよ。誰よりも努力家じゃないか」
「先生……あたしの努力を褒めないでください。成長ともなってない努力家なんて……惨めなだけです」



 顧問の田口にとって新木舞香の存在は部員の中でもっとも頭を悩ます存在だった。練習をサボる部員、部活に来なくなる部員、部活を辞める部員への指導や対応の方がよっぽど簡単だった。それは毎年の通常業務だからだ。
 新木はストイックすぎる。最後の夏の大会で5歳から始めたバスケ歴が10年という節目を迎える。今よりも成長していたい。これまでの止まっていた記録を更新したい。自分の力で結果を残したい。その目標がすぐ目の前まできている。保護者面談で知った兄の事情も加わって、いろんな要因が絡んで新木がいびつな努力中毒者になっていることが、長年の経験者の目から見て明らかだった。
 田口には夏の結果が目に見えていた。新木をだせば結果は惨敗。新木を出さなかったら都ベスト8の記録更新は狙える。バスケはチーム戦。ベテラン選手の個人スキルよりも、チームとしてのルーキーらの伸び代の方がはるかに期待できる。それがもっとも勝利に貢献する。

 そもそも新木の役割と自分の役割がバッティングしている。嫌われ役を用意してチームの結束力を高めるならば、その役割は顧問が率先して努めなければならない。なのに、一番嫌われてるのが舞香で二番目に顧問ときている。顧問として田口は、孤立したストイックな部員に、いまさら厳しい言葉をかけようなんて思わない。むしろ肯定する方に行くのが自然だろう。
 しかし、新木にとって顧問の存在は自分を甘やかす存在で、他の部員にとってはベテラン贔屓しているように見えるのだ。

 田口は43歳の男だ。新木の年頃の女子がどれほど繊細でどれほど頑丈なのか、皆目見当もつかない。このバスケには不向きな小柄の少女に「バスケは高身長が有利だ。これは間違いない。高校、大学に進むにつれてより顕著になるだろう」と厳しい現実をぶつけてみたところで、どれほどの意味があるのかわからない。
 このまま無責任に夢や希望を語って努力させて、ひとりの中学生が挫折してしまう可能性を思うやり切れない。スポーツへの失望、自分への失望、人生への失望を感じて、潰れてしまうのではないか、もう立ち直れないのではないかと不安がよぎる。
 バスケしかしらない。一つの尺度しか知らない。今日より明日の成長。すべての努力は勝利のため。未来の結果のために今の自分を徹底的に消費する。こういう歪んだ体育会系は昭和に蔓延し、平成になっても根深く尾を引いた。壊れる寸前までやる過剰さ。
 その末路は、たいてい不遇な結果や報われない努力に心が折れ、スポーツそのものから撤退だ。怪我とともに。

 だからこそ、結果よりもプロセスの大事さを教えたい。けれど今目の前にいる中二のバスケ少女は成長と結果を欲している。このストイックなベテラン中学生になんと声をかけていいかわからなかった。



 部活が終わり、職員室へ戻ったところ、すぐ後ろに新木がいた。みんなが更衣室へ向かうところ、一人でこっちへ向かったのだろう。汗に濡れた髪や火照った頬などは、職員室の生ぬるい暖房がまったく似合わない。

「先生、あたしに足りないものって何でしょうか」
 新木は真剣な眼差しで問いかけた。

「一年の時から夏の大会に出て場数を踏んで、その経験を活かして自分の成長だけでなく、チームとしのプレー技術もあがってる。これはまぎれもなく新木のおかけだ。ほんと、よく頑張ってるよ。何も言うことはない」

「先生……もう自分にはそんなにも、伸び代がありませんか? 遠慮なくハッキリ言ってもらえると助かります」

 もはや、これまでと思い田口はありのままに語る決心をした。自分の本音と現実を言おう。聞き逃すことを期待して一気にまくしたてた。

「チームの結束力はこれ以上ないくらい高まってる。新木を除いてな。夏までの伸び代や今のチームワークを考えたら、残念ながら、新木の出る幕はない。結局、バスケはチーム戦なんだよ。もう君のシュートをアシストしてくれたりミスをフォローをしてくれる先輩はいない。過去の活躍は努力と技術の賜物だったんけどその活躍は先輩ありきだったんだ。そこにもう少し早く気がついてればなあ、と思わなくもない。……だけどな俺が望んでるのはレギュラー獲得だとか、他のチームに勝つだとか、大会で実績残すとか、そんなことじゃない。努力だ。たとえ報われなかったとしても望みが薄かったとしても、努力するその姿勢だ。どんな困難にもめげずに努力してる姿勢さえ貫けば、"バスケ以外"にも役に立つだろう。先生がもっとも評価してるのは新木のそういうところだ。だから……」

「先生……」

「どうした?」

「あたしからバスケを取り上げないでください……」
 鼻をすすり始めた。ところどころ黒くすすけた両手を顔に押しつけて涙を拭った。擦り傷を負った脚や打撲跡のある膝が今にも崩れそう。フォローとして言ったつもりが仇になった。

「あたしにはバスケしかないんです。バスケのためならどんな厳しい試練にも耐えて、絶対、実力上げることを約束するので、あたしの足りないところを教えてください……」

 田口先生はしばらく沈黙した。腕を組んでしばらく熟考の表情を見せた後、口を開いた。

「わかった。夏の最後の大会、お前をレギュラーに選抜する。自分の口から交代を申し出るまで試合に出続けてもらう。ポジションはポイントガードだ。新木の足りないところは俺の見えないところにある。自分で探してこい。もう俺にはそのきっかけと場所を与えることしかできない。そして現実を見てこい。最初で最後の俺からの試練だ」



 時刻は18時をまわった。部活後、舞香は一人くつ箱へと向かった。登下校用のくつを取り出し床に落とすと、ぱんっと音を鳴らし砂ぼこりがわずかにたちのぼった。一緒に帰る友達はいない。他の部員はみんなでマックに行くらしい。賑やかな声を背に校舎から出た。
 正門をくぐり抜けると舞香はすぐさまその視線を察知した。森沢だ。正門のすぐそばの花壇に腰掛け、緊張した面持ちで舞香に視線を送っていた。舞香と目が合うと森沢はすぐに立ち上がり、肩掛けのエナメルのカバンをゆさゆさと揺らしながら、舞香のもとへ駆けよってきた。

 森沢は舞香に深く頭をさげた。
「新木先輩、さっきはすみませんでした」
 
 舞香は冷めた鋭い目を森沢のつむじに向けて言った。
「どういう意味?」

「えっ」

「なんで頭下げるの?」

「えっと……」

「『あなたよりバスケの才能にめぐまれてすみません』ってこと?」

「いや、そんな、違います。新木先輩がその……泣いてしまったので」

「へえ。何であたしが泣いたら謝るの?」

「悲しい気持ちに……させたから」

「じゃあなんであたしが悲しんだと思う?」

 森沢は口ごもった。

「あなたの性格が悪いからとか、あなたが嫌がらしたからとか、そんなんじゃないよ?」

 森沢は黙ったまま、舞香のことを見つめていた。

「泣いたのは、あたしに才能がなかったから」

 森沢の目は急に力んだ。そして舞香に詰め寄った。

「新木先輩、バスケは才能じゃないと思います。"努力"だと思います。先生もそういってました」

 新木は頭ひとつ分大きい森沢の顔を見上げてながら言った。

「あなたはいつからバスケ初めてどれくらいなの?」

「中学から始めたのでもうすぐ一年くらいです」

「あたしは5歳からはじめて今年でバスケ歴は10年。これでも"努力"が足りないかな?」

 すみません、と森沢は小さく謝り続けた。

「本当に申し訳なく思うならさ……」

 森沢は怯えながらも言葉を待ち切れず舞香の口元を見た。

「もうぺこぺこ謝るのはやめてくれないかな? あんたの謝罪、ぜんぶズレてるから」

 舞香のツンっとした言葉を生身で受けるのは辛かった。
 森沢にとって謝罪の言葉は、舞香とのコミュニケーションを取る上でのクッションのような役割を果たしていた。だから、またしても口からこぼれてしまった。

「す、すい……」

 謝罪に代わる言葉を探していたら森沢の目から涙が落ちた。まっすぐな涙だった。しゃもじをこねくりまわすように涙を拭った。
 舞香は森沢の肩を両手でしっかり掴んだ。
「森沢、よく聞いて、森沢!」

「はい……」

「これまで通りプレーして。レギュラー獲ること、試合に勝つことだけ考えて。……あんたはバスケに向いてるんだから」

 森沢は何度も腰を折りながら絞り出すように言った。
「あ、ありがとうございます、新木先輩……」

「……泣きたいのはこっちだよ」
 舞香は自分のおデコの高さにあった森沢の肩をぽんっと叩いてその場を去った。



 後輩たちはその光景を固唾をのんで見ていた。舞香が遠ざかると、森沢のもとへ駆けつけた。
「大丈夫? 何かひどいこと言われたんじゃないの?」
「いや、違うの。私がぜんぶ悪くて」
「気にしなくていいよ。あの人、無駄に厳しいから」
「自分のプレーが上手くいかないのを後輩のせいにしてるんでしょ」
「だから、キャプテンに選ばれなかったの気づいてないんじゃない? あの人いるだけで息がつまるっていうか、雰囲気悪くなるよね」
 小さくなっていく舞香の背中を一年生はうとましそうに見続けた。



 夏。三年生最後の大会はあっというまに始まり、同日、終わった。
 舞香は、脱水症状と転倒による膝の負傷により、即、救急車で搬送された。退院後にバスケ部に顔出しすることは一度もなく、卒業を迎えた。

 高校は推薦入試で受かった。内申書には「女子バスケ部の副キャプテンとしてリーダーシップを存分に発揮しチームをまとめ上げた」と記載された。「一年生と二年生の頃のベスト16」という実績と「バスケ歴10年」の文言がいやに輝いていた。

 卒業するまで舞香を悩ませたのは、他人からの陰口なのか自分の被害妄想か定かではない言霊が、耳鳴りのように突如現れては消えていく、幻聴だった。

『あの三年入れるくらいなら二年の森沢入れたほうがよかったんじゃね?』

『あの子、顧問のお気に入りだったからしょうがないよ』

『人よりバスケ歴が長いだけで優遇されてもね。上手い人が可哀想だよ』

『10年? 糞ベテランじゃん』

『転倒してばっか。ファール狙いなのかな。マジでダサい』

『ボール触れないくせにいっぱしの司令塔気取りかよ』

『見て、またずっこけたよ。あぁ、泣いちゃって』

『初戦、敗退。最後の夏の大会でこのザマ。思い出に残るだろうね、トラウマとして。おつかれさん』

『もうバスケやめた方がいいよ。背が低いってマジでバスケ向いてないから』



 だから努力は嫌い。大っ嫌い。
 努力は毒だ。努力は酒だ。努力は薬物だ。
 人に努力をむやみに勧める奴は本当の努力の怖さを知らないんだ。
 向いてもいないことに半端に夢を見させる。
 夢から覚めて、何も残らない。

 今日も努力に励む子供たちは美しい。
 無邪気に努力を信奉して戯れる。
 しかし真に受けちゃあいけません。
 程よい努力、程よい夢中、程よい諦め。
 それが肝心です。
 ……みんなどうしてそんな器用に生きられるんだろう。

 自分の両手にあったもの、両腕で抱きしめていたもの、体全体でしがみついてたものが、ある日突然消える。その悔しさ、悲しさ、怖さをさらっと受け流せるのはなんでだろう。みんなが強いのか、自分が弱いのか、わからない。部活の挫折あるあるだよね、で笑って回収。到底できそうにない。

 もちろん、わかってる。スポーツごときに全人生かけて没頭してた自分が馬鹿だった。全人生というわりに全国レベルでさえないバスケの実力。地区予選敗退レベル。

 笑えるのが身長だよなあ。才能はたいてい目に見えないけど、身長は明らかじゃん。こんな鮮やかに視界に入る「非・才能」を見落としてバスケに没頭してたとか、ほんと泣けるほど笑える。

 10年費やして培った筋力やら体力やらもてあまし、ことあるごとにうずきだし、たびたび奇行に走らせる。何かにぶつかって止まりたい。だけど、他人も自分も、お互い器用に避けていく。幽霊の如き疾走。一体このスキル、どこに向かってんだろ。高校生活、ずっとこのままヘンテコなことして、終わるのだろうか。



 走ってたら疲れた。もう何も考えられない。やっと頭は空っぽになる。煮えたぎった衝動はいつのまにかどしゃぶりの雨の中で冷めていた。
 その時だ! 奇行の言い訳が思いついた。
 ……これでひとまず学校に戻れるに違いない。

『忘れる努力。そのおつかいに行ってきたんだ。雨の中、ひとっ走りね』
 
 気がついたらゴミゴミしていた商店街をとっくに駆け抜けていた。
 すでに雨上がりだった。静けさの漂う小道に入ったらひんやりした空気に触れた。
 ほてった頬のニキビがいち早く感じ取った。
 きっと近くに川がある。緑の斜面。土手が見えた。
 さて、小銭をひろいに行こうか。