「ねえ、私のこと好き?」私はシドに聞いた。
「そんなの当たり前でしょ」シドはそう答えた。
 7月末の公園はまだ夕方6時を過ぎても明るく、蒸し暑かった。溶けるようなオレンジが不可思議に街を包み、公園もそれに吸い込まれそうなくらい眩しかった。私とシドはベンチに座り、機械的にあふれている噴水を眺めていた。

「俺の名前、変だろ?」シドはそう言った。
「変じゃないよ」
「オヤジ、物好きなんだよ。ゴリゴリの日本人なのにさ、無理して外国人っぽい名前つけようとして、シド。志に登るで志登」シドはそう言って立ち上がり、歩き始めた。
「あ、待って」慌てて私も立ち上がり、シドの後を追った。
「もし、俺が明日死んでもいいようにこれやろう」シドはハーフパンツのポケットから水風船を取り出した。
「何その言い出し方、ダサいね」私は笑ってそう言った。
「こういうのは、ダサいセリフから始まるからいいんだよ」シドはそう言って、蛇口の前まで行った。この時間の公園は、ジョギングしている数名の大人と私達、そして、日陰のテーブル付きベンチで持ち寄ったゲーム機で何かを対戦している数人の小学生だけだった。

 シドは蛇口で黄色の水風船を膨らませ、風船を縛ったあと、私に投げつけた。一気に白のワンピースの胸元が濡れた。シドは爆笑していた。
「あ、ズルい」私はそう言って、シドの方に駆け寄った。
「つぎ、私の番」私はそう言ったあと、シドが途中まで膨らましていた水風船を蛇口から取り、それをきつく縛り、シドめがけて投げた。そしたら、シドが「ヤバッ」と大きな声を出した。シドを見ると右太ももが黒くなり、グレーと黒のハーフパンツになっていた。

 私達がべちゃべちゃになった頃、日が沈みきっていた。戦いが終わり、自販機でコーラを2つ買い、ベンチで乾杯した。
「ヤバい。べちゃべちゃだよ。親にどうやって説明すればいいの?」私はそう言った。
「俺から説明しとくよ」
「しない癖にそんなこと言わないで」
「だけど、だいぶ乾いたな。さっきより」
「そうだけどさ。――はずかしいよ」
「どうせ、歩いて帰るから大丈夫でしょ。地下鉄乗るわけじゃないし」
「勝手に決めないでよ」私は少しため息をついたあと、
「楽しかった」と言った。
「バカにできないな。水風船」シドは満足げにコーラを一口飲んでいたので、私も自然につられてコーラを一口飲んだ。
「――なあ、日奈子」
「なに?」私は思わず息を飲んだ。
「俺たち、最高に息が合うな」
「――うん。ばっちりね」私がそう言ったあと、私の口はシドの唇に塞がれた。


 書店はあらゆる匂いが立ち込めている。紙とインクの匂いが大半で、残りは併設しているカフェからのコーヒーの匂いが混じり合っている。大学を卒業し、新卒採用でこの会社に入社した。そうして、私は地域限定社員で札幌店に配属された。私はカフェが併設しているこの大きな書店で医学書と理工書を担当している。
 仕事に追われ、4年が過ぎようとしていた。私は27歳になっていた。毎日クタクタになりながらシフト通り出勤し、1日10時間は当たり前のように働いた。できるだけ体調を崩したくなかったから、私は自炊を頑張った。夜ご飯は栄養バランスがとれるしっかりしたものを作るように心がけ、そのおかずを次の日の昼のお弁当にするようにした。その甲斐あって、料理はそれなりに得意になった。仕事でこんなに疲れているのに私は不眠症だ。ひどい時は睡眠薬も効かず、1時間の睡眠で仕事に行くこともあった。
 
 この夏の札幌は絶望するほど暑かった。外に出ても蒸していて、家に帰ってもクーラーがないから、暑すぎる毎日が続いていた。体力ギリの不眠症には辛い。毎日、お店でクーラーにあたれるだけマシだと思った。

 仕事の日は『占い』と書かれた看板の横を通り過ぎる。なぜ、こんなに忙しく、なぜこんなに消耗して生活しなくちゃいけないのか、一回見てもらいたいくらいだ。占いで変えられるなら私の人生、変えてほしい。とその看板を見るたびそう思う。
 そんな生活だから、休日はぐったりしている。休日の前の日は睡眠薬が上手く効いてくれて、ぐっすりと昼まで眠ることができる。毎日ヒールで歩き回っている足の裏は当たり前のように痛いし、ふくらはぎは石のように固くなっている。だから、昼過ぎに起きてすることは、浴槽を洗い、風呂に入ることだ。
 バスタブに溜めたお湯に浸かると、一週間分の毒素が抜けていく感じがした。必ず、カラフルな入浴剤を入れて、色鮮やかで、いい香りのお湯の中に身を任せている。だから、休日になったら、自分をリセットして、なんとか理性を保つために必ずお風呂に入って、何も考えないようにしている。


「最高だね。おめでとう」私は桜子にそう言った。
「ありがとう」桜子はノンカフェインコーヒーが入ったカップを手に取り、一口飲んだ。
「でもさ、まだ、実感わかない」桜子はそう言った。
「そうなんだ。そういうものなのかな」
「そうかも。本当は二人でゆっくり結婚生活を楽しみたかったけどさ、そうはいかないみたい」
「だけどさ、絶対、楽しくなるよね。子供いるとさ。それなりに大変なことも多いと思うけど、思い出がたくさんできるのが約束されてるよ」
「そうかもね」
「男の子と女の子、どっちだろうね」
「ねー。どっちも楽しそうだなって思っちゃう。そういえば、男の子だったら野球させたいって言ってたな」
「え、彼、野球好きなんだっけ?」
「うん。CS契約して、仕事から帰ってきたら、毎日、野球中継見てるくらい好きだよ」
「結構、好きだね。あ、そういえば、野球一緒に観に行くって言ってたもんね」
「うん。最初、私もあんまり詳しくなかったけど、気がついたら、ルールもわかるようになってた。洗脳されたよ。旦那に」
「ウケる」
「だからね、夜帰ってもさ、テレビのチャンネル権、私にないの。チームの移動日とオフシーズン以外」
「そっか、大変だね」
「うん。たまにね」桜子はそう言ったあと、ノンカフェインコーヒーを口にした。

「仕事はどうするの?」
「辞めようかなって思ってる。今の状態でも結構仕事キツいしさ、両立なんて無理だよ」
「育休明けにでも仕事は再開できるんでしょ?」
「そうだけどさ、無理だって。担任やってるのだって結構キツイしさ。高校生相手だから、小中よりはマシだと思うけど、私はこの仕事、子育てしながらやっていける自信ないわ」
「珍しく弱気だね」私はアイスのカフェラテを手に取り、ストローで一口吸った。
「慎重派だからね。そりゃあさ、育児が仕事みたいにがむしゃらに頑張ればなんとかやり過ごせることなら強気だけど、わからないよね。育児って。無理、無理。――それよりもさ、日奈子はどうなの。最近は」桜子は椅子に座り直しながら、そう言った。
「さっぱりだよ。というより、私はもう、恋愛すること無いって」
「もう、いいんじゃない?日奈子、もう十分だよ」
「いいの。もう、私は」
「私はさ、日奈子にも幸せになってほしいの。本当に」
「ありがとう。でもいいの私は」そう言って、私は濡れたプラスチックカップを手に取り、太いストローに口づけた。


 バスタブに浸かっている。火照った身体を見ると私の身体はとても貧相だ。おまけ程度の乳房に子供のように細い腕。痩せ型の見本を絵に描いたような貧相な身体だ。
 桜子が妊娠したことを思い出した。周りは当たり前のように幸せになっていく。そんなの当たり前だ。生きている限り、幸せを追い求めないと幸せは簡単に掴むことなんてできない。桜子は当たり前のように自分で幸せを作っているに過ぎないんだ。
 
 私はすでにあらゆることがある時点から止まってしまったと思った。あと3年で30歳になるけど、私にとって大切なものはほとんど何もない。それは砂浜で自分の名前を木の枝で描き、名前が波でさらわれるのを待っているようなものだ。私だけ置いていかれているような気持ちになった。頭の中を空っぽにすることを努力したけど、今日はなぜか上手くいかない。つらい思いがどんどん大きくなり、胸が熱くなるのを感じた。私はよくわからなくなり、ただ、辛くて涙が止まらくなった。


 風呂から上がり、切りたてのショートボブをドライヤーで適当に乾かした。1周間前に髪は切ったばかりで、髪はとても軽く、スルスルと指の間を抜けていった。桜子は楽しそうだ。それはみんなこの歳になったら、大体同じような感じで楽しんでいる人のほうが多いだろう。恋愛だってそうだ。この歳なら、しっかりと恋愛している人のほうが圧倒的多数だ。――私は好きで、一人を楽しんでいるわけじゃない。私だって、本当は恋愛だってして、結婚だってしたい。だけど、それができない。でも別にいいんだ。
 右手に持っていたドライヤーのスイッチを切った。そして、左手で整ってピンクブラウンのカラーがしっかり入った、毛先を撫でた。頭の固い店長に接客業なのに髪の色が少し明るいんじゃないかと言われた。アパレルだったら、どちらかというと地味な方の色なのに、本屋はこの髪の色もダメなのかと思った。いや、店長の言いがかりだろう。書店員は黒髪乙女がいいとか、わけわからないことを固定概念として持っているに違いない。社内でもその店長の評判は悪い。北海道に左遷されて札幌店に来たんじゃないかって噂されているほど、人望がない。
 私はため息をひとつ、ついた。せっかくの休みなのに余計なストレスを思い出してしまった。

 ベッドに寝転んでも辛い気持ちは収まらなかった。シドが死んだ日を思い出した。シドは交通事故で死んだ。何もかも凍りつき、凛とした朝、死んだ。
 シドは学校に行く前に私との待ち合わせ場所で立って待っていた。それは下手くそなビリヤードみたいだった。夜中に降った雪が氷の上に薄くつもっていて、その日の歩道はとてもツルツルしていた。何人かが雪の下にある氷に足を取られ、滑って尻もちをついた跡がいくつもあった。
 それは車道も同じだった。片側2車線の比較的大きな車道も歩道と同じように白い氷の上に雪が薄く降りつもっていた。対向車に急ブレーキがかかった。そして、大きくスリップし、反対車線にはみだした。それを避けようとした乗用車が歩道の方へハンドルを切り、大きくスリップした。その先にシドがいた。それだけのことだ。

 私はその光景を目の前で眺めていた。車がシドを引いたあとの静けさ、白い雪に赤いシドの血が流れていた。私は立ち尽くした。そして、シドの元に駆け寄り、横たわっているシドの前に跪いた。シドの後頭部から血がどんどん流れていた。止血しないとと誰かが言っていた。誰かが119番に電話しているようなやり取りが聞こえた。私は着ていた黄色のダッフルコートを脱ぎ、シドの頭にあてた。それしか止血する方法が思いつかなかった。コートは血を吸ってくれず、黄色い布に血の池が出来上がっていた。
 何度もシドの名前を言ったけど、シドから私の名前は当たり前のように返って来なかった。


 シドが死んでから、私には何も無くなってしまった。しばらくの間、誰になにを言われても温度を感じることができなくなった。シドが死んだのは高校2年生のときだった。クリスマス前でみんな、浮かれている時期だった。シドは私と学校に行くのに私のことを待っていた。いつもの待ち合わせ場所で私を待っていただけだった。そして、そこにたまたま車がシドの方へ突っ込んできた。
 シドは私を待っていて死んだという事実を受け入れることが出来なかった。しかも、その日、私は寝坊して、いつもより10分も遅れてしまった。だから、シドは私が寝坊しなければ、あんな場所にいるはずなかった。なのに、私がその状況を作ってしまったんだ。もし、私が寝坊しなければ、シドは生きていたのかもしれない。私がシドを殺してしまったのかもしれないと今でも思っている。

 そのまま、急かされるように3年生になり、何もない夏を過ごし、それなりに勉強して、札幌のそれなりの大学に進学した。その間もシドは高校2年生のまま、なにも変わらなかった。「もし」なんて存在しないことに散々悩まされた。結局、シドとの思い出は夢だったんだ。
 シドのことを考えるたびに頭の中でぐるぐると思考が回る。よく、死んだ人はずっと自分の胸の中で生きるって言うけど、それは嘘だ。生きてるわけではないし、死んだという事実だけが残る。胸の中でシドが生きているなら、私はとっくに他の人と付き合ったり、結婚したりしている。だけど、そんな状況には絶対にならない。だって、私の胸の中でシドは生きていないから。

 シドが死んでから私はなにもしないことを心がけるようになった。

 仕事なのに、一睡も出来ずに朝を迎えてしまった。シドが死んですでに10年近く月日は流れていた。生活するために書店員になり、よくわからない医学書や理工書をせっせと棚に並べて、疲れるだけの日々だ。ベッドから身体を起こす気力がわかなかった。だから、私は職場に電話をし、ひどい熱があることにして仕事を行くのをやめた。本当はもう、二度と職場になんか行きたくない。なんでこんなしんどいことずっとやり続けているのか全くわからなかった。

 占いの看板を思い出した。占いとしか書かれていないシンプルな看板になぜか引き込まれる雰囲気があった。早番のときは残業してヘトヘトで寄ることができず、遅番のときも残業し、占いのお店の前を通る時には、すでにお店は営業を終えていた。 
 もしかしたら、占いなら、この辛い気持ち、現実を変えることができるかもしれない。と言うよりも、少しは私の気持ちが一時的に晴れてくれたら、それだけで十分だ。どうせ、この現状は変わらないし、つらい日々は続く。だけど、なぜか、今日、行くしかないような気がした。


 占いのお店に行ったのは夕方だった。お昼を食べ、iPhoneを眺めて、昼寝したら行く気になった。だけど、明日の仕事のことを考えるとすでに憂鬱だった。
 お店の前はしんとしていた。扉を押すとベルが弱く鳴った。内装はいたってシンプルな作りだ。きっと前のテナントは事務所だったのだろうと簡単に想像がつくような白い壁と白い天井だ。おしゃれなお店らしい雰囲気を出すために間接照明がいくつも設けられていて、電球色が店内の色になっていた。奥にパーテーションで仕切られたブースがある。パーテーションと入口のスペースには棚が設けられていて、パワーストーンが陳列されていた。
 
 「いらっしゃいませ。今日は相談でしょうか」どこかの青い民族衣装を着たおばさんが出てきた。民族衣装は胸元が開いていて、半袖だった。半袖から出ている二の腕はたるんでいた。おばさんの髪は胸元までかかり、ウェーブがかかっていた。カラーはダークブラウンだ。両目がぱっちりとしていて、二重であることがすぐにわかった。丸顔で、二重。きっと、若いときはかわいい顔立ちだったのだろうと簡単に想像できた。今は、きっと歳相応の見た目だと思った。おばさんは少なくとも50歳は超えているなと私は思った。
「占ってほしいんですけど」
「わかりました。どうぞこちらへ」おばさんがブースの方を振り向き、民族衣装の裾がひらひらと青い弧を描いた。ここで私はようやく民族衣装の名前を思い出した。サリーだ。

 ブースは思ったよりこじんまりしていた。お互いに席についた後、おばさんは慣れたように占いの説明と自分の経歴の説明をし始めた。インド占星術やタロット占いを合せたことをやっていて、誕生日と星の座標を元に運勢を占うらしい。それと合せて、タロットカードを引き、今後どうすればいいのかアドバイスをしてくれるらしい。

 おばさんの説明が終わり、私は生年月日をおばさんに教えた。生まれた時間、出生時間はわかる?と聞かれ、わからないと答えた。少し待っててくださいとおばさんが言った後、一旦、ブースから出ていった。キーボードで何かを打ち込む音しか室内に音はなかった。その後、何かをプリントアウトした音がして、おばさんが帰ってきた。

「今日は、どんなことを相談されたいのですか」おばさんはそう言った。
「恋愛運、見てほしいです。あと、今の職場が合っているかどうか」
「わかりました。これはあなたの天体配置図です。あなたが生まれた日の星の配置ね。特にあなたの気質に影響している惑星はこの丸の中に点がついてるマーク。これ、太陽なんだけど、太陽の場所がここ、双子座にあるでしょ。これがよく、テレビの星座占いでやっている星座の位置なんだよね」
「はい」私は天体配置図をずっと見ていた。図は12等分されたケーキにみえた。星と星をつなぐように赤い線が三角形を作っていた。その赤い三角形に重なるように青い線が重なっていた。
「あとは難しいことだから、話、進めながら説明するね。この図を元に過去と未来の天体配置を計算した図を見たんだけれど、17歳の時、なにか大きな別れみたいなことあったでしょ。この歳だから失恋かな」
「はい、失恋しました」
「やっぱり、そうなんだ。それも結構、そのときに人生観が変わるような失恋だと思うんだけど」
「――死んじゃったんです。彼が」私はそう言ったあと、胸を締め付ける感覚がした。
「それはお気の毒に。辛かったね」
「――辛いです。――今でも思い出すと辛いです」視界が潤み始め、胸が重く痛くなってきた。涙が一粒、右の頬を伝った。すぐに別の涙が左の頬も伝った後、涙が止まらなくなった。
「すみません」締まった喉で私はそう言った。
「いいの。いきなり辛いこと思い出させてしまったね」おばさんは立ち上がり、ティッシュを取ってきて、箱ごと渡してくれた。
「――すみません」そう言って、私はティッシュ箱を受け取り、テーブルに箱を置いた。そのあと、2枚のティッシュをとり、鼻を噛んだ。


「落ち着いた? あなたのためにも続けるね」おばさんは私にそう言った。私は頷いた。そして、鼻をすすった。涙が止まる気配は一向になかった。
「まず、今までの人生観が17歳のときに変わってしまっているの。180度ね。これから先の運勢見ても、その影響は一生続くと思うよ。だから、これってもう、受け入れるしかなさそうなの」
「――受け入れること、まだ時間かかりますか」
「わからない。それはあなた次第よ。だけど、受け入れていくとこの先、運気が好転していくことは確かだと思う。今、タロット引くからちょっとまってね」そう言って、おばさんはテーブルに置いてあったタロットカードを取り出し、カードをテーブルに広げ、カードを混ぜた。そのあと広がったカードを集め、慣れた手付きでカードを切り始めた。そして、カードを5枚並べたあと、カードをじっくり見ていた。

「これね、あなたがどうすれば受け入れられるかを出してみたの。このカード見てほしいんだけど、このカード、世界って言ってね、何事もうまくいくって意味があるの」おばさんはそう言ったあと、裸の女が浮遊している絵柄のカードを私に見せた。私は一体、なにが上手くいくのかよくわからなかった。
「すごい、いいカードなの。このカード出た時は本当に上手くいくよ。ただね、ここに運命の輪ってカードがあるんだけど、これの絵柄が逆を向いているでしょ?気持ちの整理がつかないと、チャンスを逃したりするよって忠告されてるね。他の3枚も忠告の意味といい意味でうまくいくようになるって励ましてくれているね」おばさんがそう言ったあと、また沈黙が流れた。私はいまいち、うまくいく実感がわかなかった。

「天体配置図でもこれから先、あなたの未来は悪くはないみたい。恋愛も新しい出会いが30歳くらいでありそうなんだよね。仕事も今は忙しいけど、来年の6月頃には一旦落ち着くか、環境の変化がありそうなんだよね。今、お仕事はなにされてるの?」
「本屋で働いてます」
「そうなんだ。たぶん、あなたってセンスとか、感覚が敏感だと思うんだよね。そういう星の配置しているから。だから、今の仕事、辛いなって思うときって、単純作業とか、センスを活かせる状況じゃないときだと思うの」
「今の仕事は医学書とか専門書扱ってる担当なので、結構キツいです。本当は向いてないのかもしれない」
「いや、本屋は向いているとは思う。ただ、環境だと思うの。例えば今、すごく忙しすぎるのかもしれない」
「かなり忙しいです」
「そうでしょ。あなたの場合、忙しい場所にいると一時的に自分自身の向き合わなくちゃいけないことから逃げるんだと思うんだよね。忙しいとそれを口実にできるから。そういった意味で言うと、今の環境は合ってるんだと思う。だけど、ふとひとりの時間ができるとポッカリと心に穴が空いたような感覚が襲うんだと思う。そうしていると、健康面でマイナスになりそうなんだよね。だから、このままだったら、あと5年くらい先で大きな病気するかもしれない」
「やっぱり、暗いんですね。未来」私はそう言った。やっぱりどうせ私の人生なんて上手くいかないんだと思った。占いをやったところで、私の人生は普通の日々に忙殺されてやがて終わっていくんだ。愛する人ももう二度といないまま、一人でそっと死んでいくのだろう。

「いや、そんなことないよ。今の環境がそれだけあなたにとってマイナスであるってだけだから。これが過去のこと受け入れていたら、仕事と恋愛、両方とも集中して、好転してたかもしれないし。要は今のあなたは心の準備がまだ出来ていないから、ゆっくりしたほうがいいってこと」おばさんは穏やかな表情をしてそう言った。私だってわかっている。過去を受け入れてさえすれば、シドが死んだことをしっかりと受け入れさえすれば、人生、上手くいくことなんて。だけど、私はシドのことが忘れられない。
「ゆっくりできないです。受け入れられないんです。私。彼が死んだこと」
「厳しいこと言うかもしれないけど、今を生きるには過去に折り合いつけないといけないと思う」
「そんなのわかってます」私は思わずムキになってそう言った。
「そうよね。きっとそうだと思う」おばさんはそう言って、静かに頷いた。
「――私、全然、折り合いつきません。彼のこと、忘れられないんです」
「そうだよね。だからあなたは今、ものすごく困ってるんだろうね」おばさんはそう言ったあと、しばらくの間、沈黙が流れた。

「私、自分でも、どうしてこんなに折り合いがつかないのかわからないんです。もう10年前の話ですよ。だけど、ずっと次の相手見つけるのが嫌ってわけじゃないんだけど、上手く出来なくて、彼のことばっかり思い出しちゃうんです。――私、今死んでも全然後悔しないと思います」
「後悔しないの?」
「はい、だって、私にはもうなにもないんです。10年前でときが止まったままなんです。私。私もきっと10年前に寿命で今は余生を生きているような気がするんです。ずっと」
「そう。――余生ね。忘れられないんだ。彼のこと」
「はい。今は本当に辛いし、何のために生きて、何のために働いているのか全くわかりません。だから、今、死んでも別にいいんです」
「――もしかして、近いうちに死ぬ気だった?」
「――はい。毎日そんなことばっかり考えてます。――もう、嫌なんです」私はそう言ったあと、また涙が溢れた。息は自然に荒くなり、鼻の奥は痛かった。もう、すべてがどうでもよく感じた。どうでもいいから何がなんだかわからないし、おばさんの前でこんなに号泣してしまっている自分を慰める気にもならなかった。


「――ちょっと変わったことできるんだけどやってみない?」私はそうおばさんから聞かれ、よく意味を理解できなかった。
「過去に折り合いをつけることができるかもしれない体験なんだけど」
「――体験?」
「うん。彼と会うことができる体験」
「どういうことですか」
「なんて言えばいいんだろう。人間ってその気になれば、タイムスリップできるんだよね」おばさんはビザはバジルソースが合うという、つまらないことを普通に言うようにそう言った。私はどう言葉を返せばいいのか、よくわからず黙ることにした。
「それもそんなに難しくない。うちには補助装置があるの」
「――どういうことですか」
「2日間くらい過去に戻れるってことだよ。実際に何十人もタイムスリップすることができてるの。タイムスリップして、2日目に帰ってくるようになっているの。催眠術の一種みたいな感じかな。イメージとしては」
「そうなんですね」私はそう言ったけど、実際のところ、全くイメージできていなかった。2日間タイムスリップしてどうなるんだろう。シドとたった2日会っただけで何が変わるんだろう。だけど、本当だったら、シドに会いたいと私は思った。
「死ぬ前に彼ともう一度会ってみない?」おばさんはそう言った。

「どう?一回5万円なんだけど」おばさんはそう言った。私はバッグから財布を取り出し、中身を確認した。3万円足りなかった。
「あとでまた来てもいいですか」私がそう尋ねるといつでもいいよとおばさんは答えた。

10
 店を出たあと、しばらく私の頭の中はぼーっとしていた。空っぽになったように何も考えることができなかった。外は蒸し暑く、夏の黄色い夕日が強く射していた。おばさんが言っていることがよくわからなかった。タイムスリップっていきなり言われてもよくわからない。本当にできるのかもわからないし、新手の詐欺にしてはあまりにも雑な詐欺だし、新興宗教の勧誘にしてもあまりにも幼稚に思えた。

 帰りにサッポロファクトリーに寄った。平日昼間のファクトリーは人はまばらだった。エスカレーターを登り、三階からアトリウムを眺めることにした。適当なベンチに座り、アトリウムのイートインでアイスを食べている人や歩いている人たちを眺めた。
 シドとアトリウムを眺めたことを思い出した。そのとき、アトリウムにはクリスマスツリーがあり、しばらく手すりにもたれてツリーを眺めていた。そして、ベンチに座り、シドと手をつなぎクリスマス色に点滅する電球や、結晶の形や丸の形をしたオーナメントを眺めていた。私は酔ったように落ち着いていた。

 あの落ち着きは運命ぶってただけかもしれない。だって、シドはすぐに死ぬんだから。

 タイムスリップして、もしシドに会えたとしても、私はどうするのかわからなかった。タイムスリップしてシドに会って、私は一体何を話すんだろう? 過去に戻って、シドとクリスマスツリーを眺めて、また酔ったように落ち着いた気持ちを味わうだけで終わりなのだろうか。その次の日にシドは死ぬのに。