干しっぱなしの洗濯物が夜風にたなびいていた。
 洗濯機がベランダにある。ぼくはいつも洗濯をして、ベランダに干して、そこから必要なものを取る。どうせ着るのに、畳む意味がわからないから。
 ぼくはひんやりと冷たいシャツを着ると、夜そのものを着ているようだと思った。
 着替えを済ませ、スマートフォンの画面をスクロールしていると、一つのツイートが目に入った。
『うわー先越されたー』
 それは助監督の同級生のものだった。これだけでぼくは
察しがついた。
 ひかりに彼氏ができたらしい。
 助監督の同級生は同郷の幼馴染であるひかりとよく「自分の方が先に彼氏、彼女ができる。お前よりはマシだ」と言い合っていた。
 ぼくは嫌な予感がして、そのほかの同級生やひかり、そして彼のアカウントを見回るが特にそれらしい情報はなかった。
 勘違いか、とざわつく心のまま、ぼくは家を出た。

「久しぶりー」
 彼が暮らす家に行くと日に焼けた男たちがちまちまとペンを走らせていた。
 ここはリビングと部屋が三つもある賃貸アパートの一室であり、編集作業や機材の管理なども兼用する通称事務所と呼ばれている場所で、彼は数人の友人とともに暮らしていた。
 ここは夏の間、ヒロインの女の子が住む家だった。陶器の可愛らしい人形や造花など、部屋のあちこちに夏の撮影の名残が点在している。
「あとなにやらないといけないんだっけ」
「ちょっと写させて」
 明日から授業が始まる。
 夏休み最終日、みんな積み上げた課題を消化すべく事務所に集まっていた。
 それぞれがテーブルに向かう中、同じ授業をとっていたぼくと彼はテレビ前に置かれた小さな机にノートを広げる。
 顔は机に向けたまま、ぼくはちらりと目線を彼へと向ける。もともと地黒なのに、夏の間にもっと焼けた彼の腕。うっすらと生えた産毛を見つめ、ぼくは言う。
「あのさ」
「なに?」
 ぼくは緊張で気持ち悪くなりながら、なんでもない感じで彼に聞く。
「もしかしてさ、ひかりと付き合ってる?」
「……いや、付き合ってないけど」
「あぁそっか」
 ぼくは安堵感でいっぱいになりながら、なんでもない感じで呟いた。

 数時間後。
 彼以外の事務所の住民は実家が近く、みんな彼と俺を残して事務所を出て行った。
 静かな部屋の中、ぼくはうんと伸びをする。
「あとどの課題が終わってないっけ」
「あのさ」
「ん?」
 顔を向けると、彼はぼくを見ていた。
「さっき付き合ってないって言ったけど、本当はひかりと付き合ってる」
「え」
 付き合ってないって言ったじゃん、というぼくの言葉よりも先に彼の口が開く。まるでぼくの言うことがわかっていたように。
「まだみんなに言ってないから」
 夏休みは終わるが、撮影はまだ終わっていない。
 同じ組で男女の関係が生まれると周囲や組の空気に影響を及ぼすことを考慮しているらしい。
「……そっか」
 思わず手が止まる。彼の言葉が理解できても、思考がまとまらない。
 そうか。ひかりと付き合うのか。
「あのさ」
「なに」
「前にもこんな感じのことあったやん。怒るというか落ち込むというか」
「あぁ」
「なんで? 俺とひかりが付き合ってなんでそんな感じになるん?」
「なんで、か」
 ぼくは彼から目をそらす。
 正直分かれよ、と思った。
 けどわからないんだよな、普通。
 ぼくが同性を好きになるとをわかっていても、ハグをされていても、一緒に遊びに行っても、彼にはわからない。
 ぼくが、好きになるなんて。
 そこで、ぼくは改めて認識する。
 そうだよ。
 好きだ。
 落ち込むのも、ムカつくのも、好きだからだよ。
 そう言いたくても、言葉にならなかった。他の言葉も全て喉に大きな石がつっかえているようで、声が出ない。
 ただすぅー、っと息が漏れるだけだった。
 これは呪いだと、思った。
 ぼくはあいつに好きだと言ってしまった。そうしてあいつを傷つけて、ぼくも傷ついた。その過ちを繰り返さないように、自分で自分にかけた呪いだ。
 ぼくは、彼に好きだと伝えていいのだろうか。
 迷っている間にどれだけ時間が経っただろう。「えーと」とか「ちょっと待ってね」なんて気遣いの言葉も出なかった。
 だけど彼は、何も言わずにぼくの言葉を待ってくれていた。
 だからぼくは、言いたいと思った。
 傷つけるかもしれない。傷つくかもしれない。
 だけど。
 彼に見守られながら、ぼくは何度も失敗しながら、やっと声を出す。
「……好き、なんよね」
 言葉にした瞬間、栓が壊れたように涙がボロボロとこぼれて止まらなかった。
 急に泣き出したぼくを見て焦った彼はえぇ、と言いながら手を広げる。
「大丈夫? ハグする?」
 なんだよそれ、と思うが、ぼくは情けなく手を広げた。
「え、いいの?」
 なんて言って、ぼくたちは抱き合った。
 彼の肩に顔を乗せ、ぼくの肩に彼の顔が乗る。彼の心音がぼくの胸へと流れてくる。
 ぼくたちは初めてしっかりとハグができた。
「ごめん」
「なんで謝るんだよ」
「だって、男に告られたとか、嫌な思いさせて」
「考えすぎでしょ」
 そう言って、彼は笑う。
 それからしばらく、ハグをしたままだった。

 少し落ち着いてぼくたちは身体を離す。
「ひかりに告白したの?」
「いや、ひかりの方から」
 それはぼくたちがユニバーサルスタジオジャパンで遊んですぐの頃だった。
 だったらもし、あの時。
 夜の遊園地を歩く、彼の背中を思い出す。
「もし、仮にぼくが先に告白しても、変わらなかった?」
 彼は腕を組み、うーんと唸る。
「それでも、ごめんなさいって言ったと思う」
「そっか」
 その答えに、ぼくは満足していた。

 気がつけば日を超えていた。
 課題を終わらせ、帰ろうと立ち上がるとゴミを出すついでに外についてきた。
 ぬらりと街灯に照る原付に鍵を差し込み、ブレーキグリップを握りながらエンジンボタンを押す。ぶうん、と原付が鳴き、ヘッドランプの強い光が彼の腰から下を照らす。
「じゃあ」
 灰色のダサいヘルメッドをかぶり、彼に背を向ける。
「また明日」
 彼の言葉を聞いて、ぼくは走り出す。
 深夜。他に車はない。暗くて、静かな道路に彼の言葉がよく響く。夜の冷たさに、彼の体温がよく沁みる。
 先ほど気がすむまで泣いたはずなのに、またみるみるうちに視界が潤んでくる。
 溺れる視界の中、原付は走る。
 この涙は、恋が叶わなかった悲しみだ。ひかりや彼への悔しさだ。ぼくの人生に対する絶望だ。
 そして、想いが伝えられたことの喜びだった。
 ぼくは笑いながらグリップを強く捻る。
 涙を置き去りにして、原付は走る。