扉を開けると淀んだ空気が体にまとわりつくのがわかった。数日しか部屋を開けていないのに埃の匂いがする。
 けれど窓を開ける気力もなく、むしろそのジメッとした感触が落ち着いた。
 盆の間、実家に帰省していた。
 実家はぼくにとって、落ち着く場所ではなかった。
 家族仲が特段悪いわけでもなく、家から遠く離れた駅まで車で迎えにもきてくれる。けれど、常に緊張していた。
 車を運転する母は真っ直ぐに前を見ながら聞いてくる。
「彼女できた?」
 瞬間、心臓がグッと締まり痛む。
 田舎には「普通」があった。そんな田舎で長年暮らす両親にも普通がこびりついていた。
「誰々がこんなことをしていた。ありえない」
「誰々があんなことを言っていた。普通じゃない」
 そんな会話が食事中に流れてくるのが我が家の普通だった。
 二十歳の男には異性の恋人がいる。それが両親の普通だった。
「うん、いるよ」
「写真見せてよ」
「はい」
 ぼくはこうなることを見越して、事前に後輩の女の子に事情を説明し、彼女として写真を見せる許可をもらっていた。
 母は後輩の写真を見ると、可愛いじゃん、と満足そうに笑った。ぼくは胸をなでおろすが、先ほどとは違う種類の痛みが消えなかった。
 それと、あいつとよく一緒に帰った通学路に行ってみた。
 青々と生い茂った川縁の雑草が、太陽が焦がすアスファルトが、記憶の中のそれと一致する。
 ぼくがあいつに告白したのも、ここだったな、と通学路に立ち、そこから見える景色の中にあいつの姿を重ねた。
 ひたいから汗が滑り落ちる。
 小説の続きを書くのか、決めようとここにきた。けれど答えは出なかった。
 とにかく暑かった。

 部屋に戻ってしばらくクーラーの人工的な涼しさに身を委ねていると突然、彼から着信が入った。
 ぼくはつい、電話に出てしまう。
 通話ボタンを押してすぐに彼とはあの日以来話していないことを思い出した。
 要件の検討もつかない。強いて言えば、あの日の文句。もしくはぼくの想いに気がついて……。
 どれにしたって、良い連絡ではないだろうと身構える。
 しかし、予想外に彼の声は弾んでいた。
「ユニバの貸し切りナイトのペアチケットが当たったんやけどさ、一緒行こうや」
「うん……、え?」
 彼曰く、コンビニで開催されていた、くじ引きで当たりを引いた人だけが夜の間、ユニバーサルスタジオジャパンで遊ぶことができる貸し切りナイト、というものを彼が引き当て、ペアチケットが手に入ったらしい。
 ぼくは驚いた。
 彼がくじ引きで当たったことや、貸し切りナイトという楽しそうな催し物があることよりも、彼から誘いを受けたことに。
「ペアチケットって、ぼくでいいの」
「なんで?」
「……いや別に」
 ひかりは? と口から出そうになって慌てて飲み込んだ。
 ユニバーサルスタジオジャパンにはいい思い出がない。それにもともと、人が大勢いる場所は好きじゃなかった。けれど、彼がひかりと遊びに行くことの方が嫌だと思い、ぼくは了承した。
 ぼくは二年ぶりに、あの時とは違う好きな人と、あの頃から変わらない状況で、ユニバーサルスタジオジャパンに行くことになった。

「急いで!」
「もぉ!」
 いつもなら二時間以上並ぶ人気のアトラクションも今なら乗り放題だ、と彼はハリーポッターのジェットコースターや、スパイダーマンの乗り物など目がけて園内をあちこち走り回り、もとより絶叫系が苦手なぼくは胸をさすりながらあとを追う。
「もう無理かな」
 腕時計を見ながらやっと足を止める彼。閉園まで残りわずかとなり、ぼくたちは並んで歩く。
 キラキラと輝く夜の遊園地にため息が出る。
 イギリスの町並みを模したエリアにはぼくたちしかおらず、アトラクションの興奮やショーの感想を口々に言い合った。等間隔に配置されたオレンジの街灯がぼくたちの影を作る。
 すると、遠くに手を繋いで歩く男女の姿が見えた。
 視線を下げ、だらりと下がった彼の手を見る。
 彼と、手を繋ぎたい。
 一瞬だけ過ぎった願いに、ぼくはすぐに蓋をした。
「友達同士で手をつなぐこともあるだろ」
「あれだけハグしたんだから手をつなぐぐらい大丈夫だろ」
 胸の奥から聞こえる囁きも無視する。
 ぼくはこれまで根拠のない、自分の願いを叶えたいがためのポジティブのせいでたくさんの過ちを犯してきた。
 二年前もそうだった。
 好きだと伝えれば、男同士でも、付き合えるのでは、と。
 だからこそ。今回こそ。
 ぼくは自分の手をポケットにしまう。
 ぼくは、彼のことが好きじゃない。ことにする。
 そうすればこのまま、穏やかに、彼と友達を続けられるから。
 そうしてぼくたちは、ゲートをくぐり園を出た。