ぼくは原付が好きだった。
どれだけ近くに用事があっても原付を使った。
知り合いの車屋さんから中古で譲り受けた銀色ボディのホンダのトゥデイ。4万円。破格の値段だ。
ぼくは原付に仮面ライダーアマゾンの愛用車と同じ、ジャングラーと名付けた。エンジンの掛かりが悪い時は優しく車体を撫でた。ガソリンを満タンにした後はヘッドライトの下部分を優しくこすって「お腹いっぱいか」と話しかけた。
ぼくはそれほど、原付が好きだった。
ゆっくりと、それでいて心地よい乗り心地と速度が好きだった。
その日も、ぼくは原付に乗っていた。
信号機が赤に変わり、前の車のブレーキランプが光る。それを見て、ぼくは当たり前のようにブレーキのグリップを握る。
しかし原付は全く減速しなかった。
前日の雨で道が濡れ手おり、タイヤがスリップしたのがわかった。
瞬間、前の車をぶつからないようにハンドルを傾け、原付もろともぼくは道路脇の生垣に突っ込んだ。
細かい枝に頬をくすぐられながら顔を上げると、前の車の運転手が降りてきた。車に当ててしまったか、とぼくは慌てて姿勢を正す。
「にいちゃん大丈夫? びっくりした。なんかえらい音がして振り返ったらおらんからさぁ」
おじさんのコメントに気が抜けて、大丈夫ですと笑っていたが程なくして全身がズキズキと痛むことに気がついた。
おじさんを見送り、街灯の下で全身を見回すが幸い出血はなかったが左腕が上がらなかった。
ぼくは化物に引っかかれたような傷がついた原付にまたがり、右腕で左腕を無理やり持ち上げてハンドルの上に置き、再度エンジンをかける。
そこから一時間と少し。
橋を越え、照明が妖しく照らす港へとついた。ここが今日の撮影現場。ぼくは臨時のスタッフとして呼ばれていた。
身体を労りながら原付をゆっくりと降りると、撮影機材が積まれた大型車の近くにいたひかりが手を降る。
「きてくれたんだ! ありがと!」
「おつかれー」
衣装部のひかりは映像学科ではなく、他の学科の生徒だが同郷の友人である助監督の同級生に頼まれ、現場に参加している数少ない女子だった。
ひかりとは出会った当初アニメなどの趣味が合うことからよく話をしていたが、撮影が始まる直前には主にひかりの恋愛相談を受けるようになっていた。
ひかりは当時、撮影助手の男の子が好きだったが、それでも同じ学科の男の子に言い寄られると断れず、枕を交わしてしまったと、懺悔室で神父に告白するように、ぼくに対し深夜二時に電話をかけてきたことがある。
それ以来、微妙に距離をとっていた。
ひかりはぼくにとって、羨ましいほどに女だった。
適当に互いの近況報告を済まし、ぼくはさらに現場の奥へと身体を引き摺りながら進む。
「おっす」
「よ」
ぼくは撮影機材を運ぶ彼を見つけ、先ほどの事故のことを話すと彼は大いに笑った。
「なんでそんな状態で来るんだよ」
けらけらとに笑う彼。こんな状態で現場に来た理由、それはもちろん彼に会うためだ。
現場なんてどうでもいい。スタッフとしての責任感もない。ただ、こんな状態のぼくを彼なら絶対に笑ってくれると思ったからだ。
二人で笑っていると、近くで女優さんが特殊メイクを受けているのを見つけた。
今日は逃走劇の最中、銃で撃たれるシーンの撮影だ。
女優さんの白い足には銃創と滴る血が生々しく描かれている。
ぼくはズボンをめくり上げ、擦りむいた脛を見せる。強い打撲のため出血はなく、じんわりと組織液がにじみ出ているぼくの傷。
「こっちの方がリアルだね」
特殊メイクをしていた女の子が女優さんの足を指差してつぶやく。確かにそうだなと、みんなで笑った。
撮影は翌朝まで続き、潮風と汗で体がべたつくのが気持ち悪くて、眠たいながらにシャワーを浴びる。
服を脱ぐと左の太ももに見たことがないほど大きな黒い痣ができており、また一人で笑った。
チャイムがなり、扉を開けると彼がいた。
うっすらと曇り、はっきりとしない空だった。
今日は泊まりに来たわけではない。ぼくが以前深夜テンションで買った研究者のような白衣を借りたいというメッセージが数日前に来ていた。
ぼくは紙袋に入れた白衣を手渡す。
「最近どう? 撮影」
「撮影自体は普通」
「そっか」
彼が来て二秒で用件が済んでしまい、ぼくは他に話すことはないかと考える。
「またうち泊まりこないの」
「もうないと思う」
わかっていた応えに、ぼくはなんでもないように頷く。
あの日から彼は何度かうちに泊まりに来ていた。うちに来るたびに、ぼくは寝そべる彼に横から不恰好に抱きつくだけだった。
しかし撮影のスケジュール上、もう彼の家が現場になることはない。つまりうちに泊まることもない。
他になにかないか、と考えるも外に出ない生活を送るぼくにトピックはなかった。
すると、そういえばさ、と彼は思い出したように言う。
「昨日ひかりの家に泊まった」
「は?」
彼曰く、昨日は早めに撮影が終わり、数人でひかりの家で酒を飲み、そのまま泊まることになったらしい。みんなが床に雑魚寝をする中、彼とひかりは身体を寄せ合い寝たという。
数ヶ月前の、かつての女遊びの体験談を語るとき同様、彼はスキャンダラスな口ぶりだった。
が、ぼくはムカついた。
「あっそ。で?」
「別に、それだけだけど」
なに? という顔の彼にぼくはさらに苛立つ。
「なんでそれをぼくにいうの」
「いやなんでキレてんの」
「別にキレてないけど」
完全にキレていた。
だけど自分でも理由はわからなかった。自分の感情がわからなかった。
「じゃあ借りてくわ」
「うん」
彼は釈然としない顔のまま、扉を閉める。
ぼくはすぐに鍵をかけ、部屋へと戻りベッドに沈む。
なんだこれ。なんでこんなに苦しいんだ。
でも、この苦しさをぼくは知っていた。
そこから、ぼくのこの苛立ちの正体も、苦しさの原因にも気づくまでに時間はかからなかった。
くたびれた緑のクッションを見つめ、ぼくは改めて認識する。
ぼくは、彼のことが好きになっていた。
思い返しても、いつからかわからない。確かにあった友情が、いつからか恋心へと変わっていた。
『正直いって、気持ち悪かった』
パソコンには、あいつの言葉が表示されていて、とっさにパソコンを閉じた。
ぼくは、その日から小説を書くのをやめた。
どれだけ近くに用事があっても原付を使った。
知り合いの車屋さんから中古で譲り受けた銀色ボディのホンダのトゥデイ。4万円。破格の値段だ。
ぼくは原付に仮面ライダーアマゾンの愛用車と同じ、ジャングラーと名付けた。エンジンの掛かりが悪い時は優しく車体を撫でた。ガソリンを満タンにした後はヘッドライトの下部分を優しくこすって「お腹いっぱいか」と話しかけた。
ぼくはそれほど、原付が好きだった。
ゆっくりと、それでいて心地よい乗り心地と速度が好きだった。
その日も、ぼくは原付に乗っていた。
信号機が赤に変わり、前の車のブレーキランプが光る。それを見て、ぼくは当たり前のようにブレーキのグリップを握る。
しかし原付は全く減速しなかった。
前日の雨で道が濡れ手おり、タイヤがスリップしたのがわかった。
瞬間、前の車をぶつからないようにハンドルを傾け、原付もろともぼくは道路脇の生垣に突っ込んだ。
細かい枝に頬をくすぐられながら顔を上げると、前の車の運転手が降りてきた。車に当ててしまったか、とぼくは慌てて姿勢を正す。
「にいちゃん大丈夫? びっくりした。なんかえらい音がして振り返ったらおらんからさぁ」
おじさんのコメントに気が抜けて、大丈夫ですと笑っていたが程なくして全身がズキズキと痛むことに気がついた。
おじさんを見送り、街灯の下で全身を見回すが幸い出血はなかったが左腕が上がらなかった。
ぼくは化物に引っかかれたような傷がついた原付にまたがり、右腕で左腕を無理やり持ち上げてハンドルの上に置き、再度エンジンをかける。
そこから一時間と少し。
橋を越え、照明が妖しく照らす港へとついた。ここが今日の撮影現場。ぼくは臨時のスタッフとして呼ばれていた。
身体を労りながら原付をゆっくりと降りると、撮影機材が積まれた大型車の近くにいたひかりが手を降る。
「きてくれたんだ! ありがと!」
「おつかれー」
衣装部のひかりは映像学科ではなく、他の学科の生徒だが同郷の友人である助監督の同級生に頼まれ、現場に参加している数少ない女子だった。
ひかりとは出会った当初アニメなどの趣味が合うことからよく話をしていたが、撮影が始まる直前には主にひかりの恋愛相談を受けるようになっていた。
ひかりは当時、撮影助手の男の子が好きだったが、それでも同じ学科の男の子に言い寄られると断れず、枕を交わしてしまったと、懺悔室で神父に告白するように、ぼくに対し深夜二時に電話をかけてきたことがある。
それ以来、微妙に距離をとっていた。
ひかりはぼくにとって、羨ましいほどに女だった。
適当に互いの近況報告を済まし、ぼくはさらに現場の奥へと身体を引き摺りながら進む。
「おっす」
「よ」
ぼくは撮影機材を運ぶ彼を見つけ、先ほどの事故のことを話すと彼は大いに笑った。
「なんでそんな状態で来るんだよ」
けらけらとに笑う彼。こんな状態で現場に来た理由、それはもちろん彼に会うためだ。
現場なんてどうでもいい。スタッフとしての責任感もない。ただ、こんな状態のぼくを彼なら絶対に笑ってくれると思ったからだ。
二人で笑っていると、近くで女優さんが特殊メイクを受けているのを見つけた。
今日は逃走劇の最中、銃で撃たれるシーンの撮影だ。
女優さんの白い足には銃創と滴る血が生々しく描かれている。
ぼくはズボンをめくり上げ、擦りむいた脛を見せる。強い打撲のため出血はなく、じんわりと組織液がにじみ出ているぼくの傷。
「こっちの方がリアルだね」
特殊メイクをしていた女の子が女優さんの足を指差してつぶやく。確かにそうだなと、みんなで笑った。
撮影は翌朝まで続き、潮風と汗で体がべたつくのが気持ち悪くて、眠たいながらにシャワーを浴びる。
服を脱ぐと左の太ももに見たことがないほど大きな黒い痣ができており、また一人で笑った。
チャイムがなり、扉を開けると彼がいた。
うっすらと曇り、はっきりとしない空だった。
今日は泊まりに来たわけではない。ぼくが以前深夜テンションで買った研究者のような白衣を借りたいというメッセージが数日前に来ていた。
ぼくは紙袋に入れた白衣を手渡す。
「最近どう? 撮影」
「撮影自体は普通」
「そっか」
彼が来て二秒で用件が済んでしまい、ぼくは他に話すことはないかと考える。
「またうち泊まりこないの」
「もうないと思う」
わかっていた応えに、ぼくはなんでもないように頷く。
あの日から彼は何度かうちに泊まりに来ていた。うちに来るたびに、ぼくは寝そべる彼に横から不恰好に抱きつくだけだった。
しかし撮影のスケジュール上、もう彼の家が現場になることはない。つまりうちに泊まることもない。
他になにかないか、と考えるも外に出ない生活を送るぼくにトピックはなかった。
すると、そういえばさ、と彼は思い出したように言う。
「昨日ひかりの家に泊まった」
「は?」
彼曰く、昨日は早めに撮影が終わり、数人でひかりの家で酒を飲み、そのまま泊まることになったらしい。みんなが床に雑魚寝をする中、彼とひかりは身体を寄せ合い寝たという。
数ヶ月前の、かつての女遊びの体験談を語るとき同様、彼はスキャンダラスな口ぶりだった。
が、ぼくはムカついた。
「あっそ。で?」
「別に、それだけだけど」
なに? という顔の彼にぼくはさらに苛立つ。
「なんでそれをぼくにいうの」
「いやなんでキレてんの」
「別にキレてないけど」
完全にキレていた。
だけど自分でも理由はわからなかった。自分の感情がわからなかった。
「じゃあ借りてくわ」
「うん」
彼は釈然としない顔のまま、扉を閉める。
ぼくはすぐに鍵をかけ、部屋へと戻りベッドに沈む。
なんだこれ。なんでこんなに苦しいんだ。
でも、この苦しさをぼくは知っていた。
そこから、ぼくのこの苛立ちの正体も、苦しさの原因にも気づくまでに時間はかからなかった。
くたびれた緑のクッションを見つめ、ぼくは改めて認識する。
ぼくは、彼のことが好きになっていた。
思い返しても、いつからかわからない。確かにあった友情が、いつからか恋心へと変わっていた。
『正直いって、気持ち悪かった』
パソコンには、あいつの言葉が表示されていて、とっさにパソコンを閉じた。
ぼくは、その日から小説を書くのをやめた。