初めてのキスは高校一年生だった。
なにもわからないぼくは導かれるまま、まだ陽も昇り立ての早朝の教室で、薫と唇を合わせた。
薫に告白したのは、あいつに彼女ができたからだった。
あいつとは、ただの友だちだった。
背が低くて、細めで、幼げな顔立ちのあいつに彼女ができたのは五月の終わり頃。ぼくが薫に告白したのは六月の頭頃だった。
「彼女できたんよね」
あいつにそう告げられた時、ぼくは胸の奥にうごめく黒い感情に気がついた。でも気がついただけでそれが何かはわからなくて、ぼくはそれを身近な友達に彼女ができたことに対する焦り、ということで納得した。
焦りの対処法、それはぼくも彼女を作ることだ、と浅はかなぼくは当時一番親しい間柄の女子だった薫に告白した。
その決断に、一切の疑問の余地はなかった。
ぼくのエゴだらけの告白に、薫は頷いた。
薫は大人で、ぼくは子どもだった。
色恋も、色欲も知らなかったぼくは薫にあらゆることを教わった。唇を合わせる間は鼻で呼吸をすることを教えてくれたのも薫だった。
その一つ一つをこなすうちに、黒い感情は安心感と達成感でかき消された。
好きだと言われたら、好きだと言い返した。
あいつが彼女と別れたのは八月の終わり頃。ぼくが薫に別れを告げたのはその一週間後だった。
電話の向こうで薫は理由を教えてと言った。
だけどぼくは理由を言えないまま、学校でも薫を避けるようにして別れた。
ぼくにもわからなかった。
どうしてぼくは、薫とキスより先に進みたいと思えないのか。
互いに独り身同士に戻り、以前のようにぼくとあいつは一緒に登下校をするようになった。でも、なにかが違っていた。
それに気づいたきっかけや、明確なタイミングがあったわけではない。
一緒に遊んで、喧嘩して、寝て、笑って過ごす日々の中。
あいつと過ごす時間の楽しさと、あいつがいない部屋で過ごす夜の寂しさの中で、ぼくはあいつへの想いに気がついた。
ぼくが好きな相手は最初からあいつだった。
気がつくまでは平気だったのに、気がついてしまってからは苦しくて仕方がなかった。
親にも友だちも言えなくて、秘密にすればするほど胸の内で思いは歪に膨れ上がった。
その頃から二、三ヶ月に一度はなにもできない日があった。息苦しくなって、幼馴染の手を握って泣いて、家の襖に穴を開けた。
それでもぼくは我慢できずに、高校二年生の夏に好きだと伝えた。
「好きなんだよ。友達とかじゃない方で。……性的な意味で」
キモい告白だった。でも、精一杯だった。
あいつから告白の返事はもらえなかったが、その後の高校生活もぼくはあいつと一緒に過ごした。
一緒に登校して、一緒に昼ご飯を食べて、一緒に下校した。
長く伸びた二人の影が重なる細い道を見て、この時間こそがぼくの告白に対するあいつの答えのような気がした。
あいつはこんなぼくのことを友だちとして認めてくれている。だったらぼくも、友だちとしてあいつのそばにいよう。
そんな風にぼくはあいつの隣を歩いた。
高校を卒業して半年後、あいつから連絡が来た。
「ユニバに行きたい」
「うち泊まりに来るの?」
「うん」
「やった」
心踊りながら数日を過ごし、当日はあいつが食べたいと言ったクリームシチューを鍋いっぱいに作って待った。
大きなキャリケースを引きながら新大阪駅から出てきたあいつは髪を茶色に染め、耳には黒いピアスをしていた。
変わったあいつと、高校生の頃のように同じ布団で寝て、眠ったあいつの手をそっと握って。
翌日。
ユニバーサルスタジオジャパンで遊んで、帰りに寄った居酒屋で、タバコをふかしながらあいつは言った。
「正直言うと、気持ち悪かった」
あいつがタバコを吸うことを知らなかった。聞けば、高校生の頃からたまに吸っていたという。
言葉を失うぼくに、あいつはさらに言う。
「告白されたのとか、キモかった」
ぼくはパソコンを閉じ、うぅ、と呻き声をあげる。
あの時の光景が、匂いが、あいつの酒で赤らんだ顔が鮮明に思い浮かぶ。
ぼくは緑色のくたびれたクッションに顔を埋める。このクッションは、もともとあいつが使っていたものだった。
大阪へ引っ越すという日に、ぼくは親に無理を言ってあいつの家により、別れを惜しんでクッションをもらった。
一人暮らしの部屋で、このクッションに顔を埋め、あいつの匂いを嗅いで過ごした。
もうあいつの匂いはしない。
好きだけど、この想いは叶わなくて。
告白したけど、あいつはぼくと友だちでいてくれて。
付き合えないけど、ぼくたちはずっとそばにいて。
ぼくは、ぼくたちの関係を誰かに話す時、それこそ先輩に打ち明けた時だって、どこか尊いもののように扱っていた。
そうやって、あいつからのメッセージを見て見ぬ振りをしていた。
身体に触れられるのを異常に嫌がるあいつも、泊まりの際に絶対にぼくに背を向けて眠ることも、食べてきた、とお皿一杯のクリームシチューを半分以上残したことも、ぼくは無視していた。
あいつはどれだけ嫌な思いをしただろう。
ぼくがあいつを好きだなんて言わなければ。
今更どうしようもできないことを、思い出しては悔やんで、悲しんで。なんども打ちのめされながら、過去を、感情を、文字に起こした。
少し書いては抜け殻のように布団に横たわり、しばらくしてからまた書いた。パソコンの横には先輩から勧められた本を置いていた。たまに読んで、また書いた。
その私小説のように素敵な文章は書けないし、結局フラれて終わるよくある話だけど、ぼくの人生を、本を読んで、こんな奴よりはマシだって思って、どこかの誰かに生きて欲しい。
こんな人生でも、誰かの救いになって欲しい。
そうやって報われたいと思った。
自分を救いたいと思った。
薫やあいつを傷つけておきながら、報われたい、救いたいと思うなんて、やはり自分勝手なやつだと、ぼくはまたクッションに顔を埋める。
なにもわからないぼくは導かれるまま、まだ陽も昇り立ての早朝の教室で、薫と唇を合わせた。
薫に告白したのは、あいつに彼女ができたからだった。
あいつとは、ただの友だちだった。
背が低くて、細めで、幼げな顔立ちのあいつに彼女ができたのは五月の終わり頃。ぼくが薫に告白したのは六月の頭頃だった。
「彼女できたんよね」
あいつにそう告げられた時、ぼくは胸の奥にうごめく黒い感情に気がついた。でも気がついただけでそれが何かはわからなくて、ぼくはそれを身近な友達に彼女ができたことに対する焦り、ということで納得した。
焦りの対処法、それはぼくも彼女を作ることだ、と浅はかなぼくは当時一番親しい間柄の女子だった薫に告白した。
その決断に、一切の疑問の余地はなかった。
ぼくのエゴだらけの告白に、薫は頷いた。
薫は大人で、ぼくは子どもだった。
色恋も、色欲も知らなかったぼくは薫にあらゆることを教わった。唇を合わせる間は鼻で呼吸をすることを教えてくれたのも薫だった。
その一つ一つをこなすうちに、黒い感情は安心感と達成感でかき消された。
好きだと言われたら、好きだと言い返した。
あいつが彼女と別れたのは八月の終わり頃。ぼくが薫に別れを告げたのはその一週間後だった。
電話の向こうで薫は理由を教えてと言った。
だけどぼくは理由を言えないまま、学校でも薫を避けるようにして別れた。
ぼくにもわからなかった。
どうしてぼくは、薫とキスより先に進みたいと思えないのか。
互いに独り身同士に戻り、以前のようにぼくとあいつは一緒に登下校をするようになった。でも、なにかが違っていた。
それに気づいたきっかけや、明確なタイミングがあったわけではない。
一緒に遊んで、喧嘩して、寝て、笑って過ごす日々の中。
あいつと過ごす時間の楽しさと、あいつがいない部屋で過ごす夜の寂しさの中で、ぼくはあいつへの想いに気がついた。
ぼくが好きな相手は最初からあいつだった。
気がつくまでは平気だったのに、気がついてしまってからは苦しくて仕方がなかった。
親にも友だちも言えなくて、秘密にすればするほど胸の内で思いは歪に膨れ上がった。
その頃から二、三ヶ月に一度はなにもできない日があった。息苦しくなって、幼馴染の手を握って泣いて、家の襖に穴を開けた。
それでもぼくは我慢できずに、高校二年生の夏に好きだと伝えた。
「好きなんだよ。友達とかじゃない方で。……性的な意味で」
キモい告白だった。でも、精一杯だった。
あいつから告白の返事はもらえなかったが、その後の高校生活もぼくはあいつと一緒に過ごした。
一緒に登校して、一緒に昼ご飯を食べて、一緒に下校した。
長く伸びた二人の影が重なる細い道を見て、この時間こそがぼくの告白に対するあいつの答えのような気がした。
あいつはこんなぼくのことを友だちとして認めてくれている。だったらぼくも、友だちとしてあいつのそばにいよう。
そんな風にぼくはあいつの隣を歩いた。
高校を卒業して半年後、あいつから連絡が来た。
「ユニバに行きたい」
「うち泊まりに来るの?」
「うん」
「やった」
心踊りながら数日を過ごし、当日はあいつが食べたいと言ったクリームシチューを鍋いっぱいに作って待った。
大きなキャリケースを引きながら新大阪駅から出てきたあいつは髪を茶色に染め、耳には黒いピアスをしていた。
変わったあいつと、高校生の頃のように同じ布団で寝て、眠ったあいつの手をそっと握って。
翌日。
ユニバーサルスタジオジャパンで遊んで、帰りに寄った居酒屋で、タバコをふかしながらあいつは言った。
「正直言うと、気持ち悪かった」
あいつがタバコを吸うことを知らなかった。聞けば、高校生の頃からたまに吸っていたという。
言葉を失うぼくに、あいつはさらに言う。
「告白されたのとか、キモかった」
ぼくはパソコンを閉じ、うぅ、と呻き声をあげる。
あの時の光景が、匂いが、あいつの酒で赤らんだ顔が鮮明に思い浮かぶ。
ぼくは緑色のくたびれたクッションに顔を埋める。このクッションは、もともとあいつが使っていたものだった。
大阪へ引っ越すという日に、ぼくは親に無理を言ってあいつの家により、別れを惜しんでクッションをもらった。
一人暮らしの部屋で、このクッションに顔を埋め、あいつの匂いを嗅いで過ごした。
もうあいつの匂いはしない。
好きだけど、この想いは叶わなくて。
告白したけど、あいつはぼくと友だちでいてくれて。
付き合えないけど、ぼくたちはずっとそばにいて。
ぼくは、ぼくたちの関係を誰かに話す時、それこそ先輩に打ち明けた時だって、どこか尊いもののように扱っていた。
そうやって、あいつからのメッセージを見て見ぬ振りをしていた。
身体に触れられるのを異常に嫌がるあいつも、泊まりの際に絶対にぼくに背を向けて眠ることも、食べてきた、とお皿一杯のクリームシチューを半分以上残したことも、ぼくは無視していた。
あいつはどれだけ嫌な思いをしただろう。
ぼくがあいつを好きだなんて言わなければ。
今更どうしようもできないことを、思い出しては悔やんで、悲しんで。なんども打ちのめされながら、過去を、感情を、文字に起こした。
少し書いては抜け殻のように布団に横たわり、しばらくしてからまた書いた。パソコンの横には先輩から勧められた本を置いていた。たまに読んで、また書いた。
その私小説のように素敵な文章は書けないし、結局フラれて終わるよくある話だけど、ぼくの人生を、本を読んで、こんな奴よりはマシだって思って、どこかの誰かに生きて欲しい。
こんな人生でも、誰かの救いになって欲しい。
そうやって報われたいと思った。
自分を救いたいと思った。
薫やあいつを傷つけておきながら、報われたい、救いたいと思うなんて、やはり自分勝手なやつだと、ぼくはまたクッションに顔を埋める。