19 始まりの場所へ

「なあ、有斗。昨日の『令嬢とガトリング』見た?」
「見た! 作画やばかったよな」
「分かる! しかも最後まさか弟が出てくるなんてね! 伏線回収が完璧じゃん」

 放課後、教室で話していると他の男子も数名集まってきて、そのままアニメ談義が始まる。今日から十二月に入って期末テストを間近に控えているものの、それが終わればクリスマスや冬休みが待っているからか、なんだか緊張感は薄い。

「そう言えば、有斗に教えてもらったパズルのアプリ、めっちゃ面白かった!」
「あ、やってみた? 左脳と右脳両方使う感じで面白いよな。時間無制限でじっくり考えられるのもポイント高い」

 こういう時、雑談は良い。他のことに気を回さなくて済む。教室で話している彼女に、意識を向けないで済む。


 あれから一週間、千鈴とは連絡を取っていない。最後のチャットは、あの言い合いの日の夕方、駅に着く前に送った「そろそろ着くぞ。今日もよろしく!」という俺からの連絡。ごめんねの一言くらい送ろうかと何度も考えたけど、既読がつかなかったり、ついても返信がなかったりして、拒絶されていることが分かってしまうのが怖くて、結局何もできていない。ついついSNSの画面を見るたび、「それ以上は踏み込んでこないで」と言われてるような気がして、電源ボタンを急いで押して液晶を暗くする。

 クラスでも会話はないし、目が合ってもどっちかが逸らす。たまたま話すことになりそうなときは、俺がうまく他の男子を使ってその場を離れる。そうやって、お互いに接触を避けている。クラスで暴露していなくて良かった。みんなに腫れ物に触るように扱われるのも気が引けるし、万が一仲直り大作戦なんて計画されたら余計に事態が悪化してしまうかもしれない。

「あ、この動画知ってる? アメリカ人が日本人の折り紙真似してるヤツ」
「有斗こういうの絶対好きだと思う! 最後めちゃくちゃになるから!」
「お、どれどれ、見せて見せて」

 動画の話題に胸がチクリと痛みながらも、一緒にスマホを覗く。今どういうステータスなのかも分からない二人の関係に悩みすぎないために、こうして余所(よそ)見を繰り返す。

「ねえ、北沢。チーちゃんと何かあった?」

 帰り支度をしていると、三橋から声をかけられた。心配そうな彼女に、力のない表情で振り向く。

「なんか、前は教室でも話してたけど、最近全然じゃん」
「ううん、なんでもないよ、大丈夫」

 女子は鋭い。ちょっとした関係の変化も見抜く。そして俺がこんな風にやんわり否定することも、きっと予想がついていただろう。

「……ならいいけど。無理しないでね」

 そう言って廊下に出ていく彼女に「ありがとな」とお礼の言葉を投げる。心配された通り、無理をしないと笑顔を作るのも難しかった。


「ただいま」

 放課後、レンタルスペースにも集会室にも行かず、まっすぐ帰宅する。ブレザーだけハンガーに掛けた後、Yシャツと制服ズボンのままベッドに倒れ込み、布団に顔を押し付けながらスマホでYourTubeを開いた。

『皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 最近チャンネル登録が五十人になって、すっごく嬉しいです』

 前回の動画を見返す。クラスでも聞くことの少なくなった千鈴の声は、少し掠れるところもあったけど、相変わらずよく通る、演劇向きの良い声だった。

 そういえば、彼女は病気のことはクラスで公表するんだろうか。喉の調子が悪い、で押し通して、手術してから報告するんだろうか。千鈴のことだ、なるべく隠し通したいだろうな。

 ほら、こうやって、ここにいなくなって、俺が何をしてたって、いつも俺の頭を占領してくる。

『ようこそ病院城へ、今まで舞台を見たことない人にもオススメです。地味にポイント高いところとして、セットが二階席にいる人にもしっかり見えるように組まれてるってところですね。たまにあるんですよ、一階じゃないとよく見えないっていうセット。常に金欠の学生は二階席のことも多いんで、これは結構良かったです』

 画面を見ながら、あれこれ考えを膨らませていく。目線は画面に固定しつつも、映像も音もあまり入ってこなかった。

 このまま彼女とは終わりだろうか。こうやって自然消滅するカップルもたくさんいるだろうけど、クラスが同じ分、ちょっとやりづらいな。

 でも、それでいいのかもしれない。声を失くした彼女とどうやって付き合っていけばいいのか、まだちゃんと想像しきれていない。デートはどうする? カラオケ以外に行けないところはあるだろうか? こっちは口で、向こうは文字で話す? はぐれても電話できないから、チャットかな? それなら集合場所に迷ってときも一緒だな。ライブとかいっても一緒に歌えないのは向こうが嫌がるかな?

 あるかどうかも分からない未来を想像して、少し溜息を漏らす。

 もうカフェでおしゃべりもできない、電話もできない。それでも彼女と付き合っていくのだろうか。単に情が移っているだけじゃないだろうか。向こうだって、俺といたらうまくコミュニケーションできずにもどかしい思いをするんじゃないだろうか。

 お互い違う生活スタイルになる。お互い違う人生がある。寂しいけど、離れていくのも自然な流れな気もする。病気をきっかけに別れるなんて、きっとよくあることだ。

 それに、ほら。やっぱり、あれだけ人を傷つけてきた自分が幸せを掴み取ろうなんて、やっぱりおこがましいことなのかもしれない。俺には動画を作る資格も、幸せを感じる資格もない。いつも通り、脳内のもう一人の自分が「結局最後はこうなるんだよ」と嘲る。
 仕方ない、仕方ないんだ。自分に言い聞かせる。それは、後で深く傷つかないための細い細い予防線だった。


『ということでこの舞台、一月まではやるらしいので、ぜひ観てみてください! ちなみに井川十春さんはとても好きな俳優さんなんですけど、特に見てもらいたいのは三年前の映画の……』

 動画を見返す。彼女が、楽しそうに演劇について話している。

「ふうう……」

 ふと泣きそうになったのを、わざとらしいほど大きな深呼吸で堪(こら)える。もっともっと一緒に映像を撮りたかったけど、それももう出来ないだろう。笑ってカメラを回していた日々を思い出してはまた涙がこみ上げ、俺は布団で顔を拭って大きく息を吸いながら、視線をスマホに戻した。

『声、ステキですね!』

 動画にコメントが付いていた。そのままスルーしてもよかったのに、なんだかモヤモヤしてしまって、どうにもならなくなって、俺もコメントを投稿する。

『声ももちろんステキだけど、話も上手だし、いつも明るく楽しそうにやってるのが好きです』

 そのまま液晶の電源を落とし、考えることを止(と)めて、夕飯前の仮眠に就いた。

 ***

「……ぷはっ」

 十二月二日、木曜日。何も予定のない放課後が、随分つまらなく思える。桜上水駅に向かう途中、奥まった曲がり角にある自販機に立ち寄り、安くなっていた「ストロングソーダ・梅」を買った。動画の中でこれを飲んでる途中に咽(むせ)たな、なんて思い出しながら、早く帰る理由もなく、さりとてここに長居する理由もなく、口に含んだ炭酸の刺激を感じながら無為に時間を潰す。

「さて、と……」
 駅までの通りに戻ろうとしたその時。

「アルト。何してるんだ?」
 今のタイミングではあまり会いたくなかった慶と鉢合わせた。

「……いや、あのさ――」
「最近さ、元気ないじゃん」

 千鈴のことをどこまで話すか、迷いながら切り出した直後に、慶が口を開く。メガネの奥に見える利発そうな目は、全てお見通しだよ、と言わんばかりにまっすぐに俺を見ていた。

「廊下でも全然こっちに気付かないし、虚ろな目付きのときもあるからさ。何かあった?」
「……いや、ああ、うん」

 そこまで読まれていると否定しきれなくて、言葉を濁しながらなんとなく頷く。

「前に話した……友達の大事な人が病気でさ……これから先は今までみたいな関係ではいられなそうで……それに不安になってるうちに、お互いのストレスが爆発しちゃったっていう感じかな」

 たくさんボカして話したけど、慶はそれだけで概ねの経緯を把握したようで、得心したように腕を組んだ。

「そういうわけだからさ。もう関係もここまでかなって」
「……ふうん」

 いつの間にか「友達の話」はどっかにいってしまったので、完全に俺の話だと分かられただろう。

 彼は溜息とともに相槌を打つ。呆れただろうか。それはそうだろう。こんなこと、くよくよ悩んでても仕方ないのに。

「区切りつけないでズルズルいくのも良くないよな。俺からちゃんと――」
「なんでだ?」

 慶が口にしたのは、たった一言の質問だった。

「なあアルト、なんで別れるんだよ」
「え……いや、だって、うまく付き合っていけるか分からないし、向こうだって愛想つかしてるかもしれないし――」

 ドンッ

 最後まで言うことはできなかった。俺より数センチだけ背の低い彼に、胸倉を掴まれたから。

「何だよそれ。『分からない』だの『かもしれない』だの、そんなどうでもいい理由で別れる気なのかよ」
「どうでもいいって……」
「どうでもいいだろ、そんなの!」

 自販機の後ろから照らす西日が鮮やかに彼を照らす。怒りにも近い表情で、俺をキッと睨んでいた。

「アルトはどう思ってるんだよ! お前は不安とか相手の顔色だけ見て付き合ってるのかよ!」

 胸を揺さぶられる。こんなに怒られることなんてほとんどないからこそ、慶が本気で俺に伝えようとしてくれているのがよく分かった。

「結局うまく続かないとしても、愛想つかされてるとしても! そんな理由ゴミ箱にぶち込んで! お前はどうしたいんだよ!」

 自分はどうしたいか。こんなに単純な質問があるだろうか。

 そして、急に怒鳴られて余計な雑念が消えた俺の頭の中には、同じくらい単純な回答だけがぽつりと浮かんだ。

「……一緒にいたい」

 季南千鈴と、もう少し、同じ時間を過ごしたい。いくら他の答えを探しても、頭の中にはそれしかなかった。

「まだまだ、一緒にいたい」
 それを聞いた慶は目を丸くする。そしてキュッと眉を上げ「いいじゃん」と微笑んだ。

「やりたいように動いてみればいいと思うよ。後悔しないようにさ」
 ずっと我慢していたことを口に出したら、想像以上に迷いが晴れた。自分のやらなきゃいけないことが、一週間ぶりにちゃんと見えた気がする。

「うん、なんかスッキリした。やる気出てきた」
「それなら良かった。Flame、なんだろ? 今度は正しく燃えてやれよ」
 冗談めかして笑う慶につられて、俺も「だな」と胸をドンドンッと叩いた。

「悪い、慶。俺ちょっと学校戻るわ」
「え? まだ向こうがいるとか?」
「いや、分からないけど、行くところがあってさ」
「ん、そっか」
 彼は満足げな表情を浮かべ、首を伸ばして学校の方を見遣る。

「うまくいくように、オレは祈ってるからな!」
「おう。ホントにいつもありがとな!」

 挨拶をして、学校に向かって走り出す。振り返ると、慶は腕を伸ばして、ずっと手を振ってくれていた。

 ***

「失礼します」

 引き返してきた学校の階段を駆け上がり、北校舎三階へ。わざわざ挨拶をして、集会室に入る。

 学校に戻る途中、千鈴にチャットを送った。

『謝るのが遅くなっちゃったけど、この前はごめんなさい』

 言い訳もしない、仲直りしたいとも書かない、一番伝えたいことだけを摘み取っただけの謝罪。人を傷つけてばかりの自分だけど、それでもちゃんと、まっすぐに謝れる自分でいたい。

『わざと嫌なことを言って、辛い気持ちにさせちゃってごめんなさい』

 誰もいないと、彼女は来ないと分かっていても、この集会室に来たかった。彼女との関係が戻るまで、ここでホワイトボードやカラーコーンに埋もれながら、自分を見つめ直したかった。

 白いカーテンを捲って外を見る。グラウンドと反対側のこっちの窓からは、駐輪場と道向かいの大きなスーパーしか見えない。近くで部活もやっていない、俺一人だけの空間。

 この場所にいることに特に意味はないかもしれないけど、それでもここに来て、千鈴との関係の修復を願おうと決めたから。

「……宿題やるか」

 運動部が練習を終える時間まで、集会室で英訳のプリントをやり、そのまま帰路についた。



 20 良い魔法使い、悪い魔法使い

「有斗、今日予定ある? ファミレス行かね?」
「あー、どうすっかな……ごめん、パス」
「なんだよ、最近付き合い(わり)いなあ」
「悪いな、ちょっと予定思い出してさ」

 期末テストも終わった十二月九日の木曜日、誘いを断って教室を出る。解放感から遊びに行きたい欲にも駆られたけど、やるべきことは分かっているから、遠回りで気分転換しながら北校舎に向かう。

 一階、中庭を見渡せるようになっている外廊下を渡る。季節に関係なく生えている雑草が震えながら身を寄せ合い、冷たい風が素手に当たって痛みを残した。

「さ、む、い、ね」

 手に息を吹きかけながら独り言。階段を上がって三階廊下を真っ直ぐ歩く。


 慶と話した日から、今日でちょうど一週間。放課後の日課のように集会室に向かう。行ったって何が起こるわけでもないのに、千鈴は来ないのに。彼女を傷つけてしまった(みそぎ)のように、あの部屋に行く。彼女からチャットの返事は来ない。彼女がいない光景を、溝を作ってしまった罪悪感をもう少し噛み締めて、また何度でも彼女に謝ろう。

 そして、そんな風にカッコつけてみても、頭の片隅には「思い続けていればいつか通じるかも」なんて呆れるほど幼稚な願いが巣食っていた。

 北校舎三階、西端の集会室。俺と千鈴の始まりの場所。

 ガラッ

「失礼しま――」

 ドアを開けると、ヒュウッと風が吹いた。窓が開き、白い遮光カーテンが揺れている。

「ひさしぶり」
「……おう」

 風ではためくカーテンから顔を覗かせたのは、季南千鈴だった。


 チョコレートカラーのセミロング、スッキリと目鼻立ちの通った顔、柔らかい笑顔。二週間ぶりに千鈴をちゃんと見て、細胞が蘇生するかのように、鼓動が激しくなる。

「どう、したんだ?」

 思わず質問した俺に、彼女は「んーん」となんでもないように答えた。

「なんとなく、有斗いるかなって思ってさ」

 彼女は相変わらず魔法使いで、言葉と声で俺の体温を操作する。
千鈴が来てくれた。嬉しい。嬉しい。何を話そう。謝ったら許してもらえるかな。またやり直せるかな。緊張が解けない中で、脳内のコンピュータは一気に計算を始め、オーバーヒート気味になる。

「有斗さ、動画見てくれてありがとね」

 窓に寄りかかったまま、こちらをサッと振り返り、千鈴は首を傾けてクスクスと笑う。いつも教室で見ているはずの彼女の顔が、今日は特別綺麗に見える。

「え、あ、なんで」
「コメントくれたじゃん。名前『Alto』になってたよ」
「あっ、しまっ……」

 ほぼ無意識で投稿してしまったから、自分のアカウントにログインしていたことを完全に忘れていた。「楽しそうにやってるのが好きです」なんて書いてるのを見られたかと思うと、かなり恥ずかしい。

「ふふっ、嬉しかったよ」

 コスモスみたいに穏やかな笑顔を咲かせ、千鈴は再び窓の外を顔を向けた。
会話が途切れる。どう声をかけようか迷う。でもやっぱり、謝るところからだよな。

「千鈴、この前はごめ――」
「私こそごめんね」

 カーテンを開けながら、彼女が俺の言葉を遮った。カラカラと、窓を閉める。

「有斗が気遣って、何も言わないで色々我慢してくれてるって分かってたのに、それに甘えちゃって。ちょっとバタバタしてて、返事も全然できなかったし……」
「いや、もともとは俺が悪いんだ。千鈴の方がしんどいのに、つい頭に血が昇ってひどいこと言っちゃったからさ。だから……ごめんなさい」

 良かった。ちゃんと謝れた。心残りが消え、あとはちゃんとやり直せるように話し合うだけ。
 そう、思っていたのに。

「喉、また悪化しちゃってるみたいでさ」

 こっちを見ないままの彼女が、少し掠れた声で話す。まるで昨日テレビで見たバラエティーの話をするような、普通のトーン。

「え……それ、は……動画のせい――」
「絶対有斗はそういうと思った」
 クスクスと笑い声が聞こえる。

「動画は関係ないよ。進行が早いとか薬がちょっと合わないとか、そういう理由」

 悪化してるんだ……やっぱりクラスで打ち明けることになるんだろうか。手術まであと一ヶ月くらい。冬休みに入るし、それならあんまり騒ぎ立てられずに…………ちょっと待って。

 あと一ヶ月? 悪くなっているのに、「あと一ヶ月」のままなのか……?

 一つの可能性が脳を()ぎる。あまりに(つら)い、思いつきたくもなかった仮説。

 そして、彼女はやっぱり魔法使いで、それを現実にしてしまう。

「手術、早まったんだ。今月の下旬になったの」
「下旬って……」

 今日は十日。あと二週間もしないうちに下旬になる。単純な日付の計算ばかりが頭を埋め尽くし、感情を処理しきれない。彼女がバタバタしていたというのも、きっとこの件だったのだろう。

「……早すぎるだろ」
「ね、びっくりしちゃった」

 二人で淡々と話す。これは現実だぞ、と警告するように、遠くからサックスの抜けるような高音が響いた。

 彼女はどんな顔をしているんだろう。見ない方がいいよな。近づかない方がいいよな。そして俺は、それをクールに支えた方がいいよな。泣いたら彼女が余計辛くなるから。

 こっちに向き直らないまま、彼女はふう、と嘆息する。
「クリスマスは無理かなー。一緒に過ごしたかったのに」

 君の言葉は魔力がありすぎて、そうやって言葉一つで俺の感情をぐちゃぐちゃにする。
 まだ付き合っていられることが本当に嬉しくて、こんな状況でも俺とのことを考えてくれていたのが堪らなく幸せで、そして病気のことがどうしようもなく悔しい。

 なんで、どうして。何十回も何百回も思ったけど、なんで千鈴だけがこんな目に遭うんだよ。何したっていうんだよ。

 世界は理不尽の塊で、たった一人救われてほしいなんて小さな願いも叶わなくて、そういう世界が大っ嫌いで、それでも君と俺を引き合わせてくれたこの世界に感謝しなきゃいけない。色んな想いがない交ぜになって、三原色の光が混ざると白く見えるように、頭が真っ白になる。


「ごめんね、そっち向けないで。あんまり見せられない顔してるから」

 茶色い髪を煌々と照らす夕日に溶かしながら、彼女は続けた。

「怖いの。怖くて仕方ないんだ。ホントに……冗談だと思って聞いてほしいんだけどさ、死んじゃいたいな、って考えたりするよ」

 死にたいとか言うな、なんて正論は幾らでも出せるけど、もし俺が千鈴だったら、と思うと引っ込めてしまう。彼女の気持ちを百パーセント理解することはできないけど、自分があと二~三週間で自分の声が出なくなると想像しただけで胸がざわざわする。自分の存在が一部分欠ける、自分が自分じゃなくなる、そんな感覚。

『他の人ならいいのに、って思っちゃうんだよ、私。なんで私なんだろうって。もっといるじゃん、そのくらいの罰が当たっても仕方がない人』

 彼女の言葉を思い出す。あの時、泣いてしまって、きちんと返事ができなかった。

「千鈴さ、他の人が病気になればいいのに、って前に話してたよな?」
 だから、ちゃんと返事をするなら、今だ。

「俺もそう思うよ。他のヤツがなればいいと思う。俺が代わってあげたい、って言いたいけど、そしたら結局千鈴とは話せなくなっちゃうからイヤだな」

 向こうを向いたままの彼女は、髪を揺らして頷いた。

「千鈴の気持ち、俺なりに分かってるつもりなんだ。命なんか要らないって思う気持ちも分かる。でもさ」

 そこで息を吸う。伝えたい気持ちが溢れる一方で、頭はどんどん冷静になっていった。

「でも、死んだら困るなあ、千鈴とやりたいこと、まだたくさんあるんだよ」

 声を失くした千鈴と過ごすことを考えて、一度は勝手に諦めた。生活が大きく変わってしまう彼女と一緒に歩いていくのは難しいし、彼女もストレスだろう、だなんて都合よく言い訳を作って。そして、自分の過去の罪も理由にして、「ほら、やっぱり幸せになれない」と離れる覚悟をした。

 でも、それはきっと正しくない。

 YourTubeの、彼女の動画に書いたコメントを思い出す。
『声ももちろんステキだけど、話も上手だし、いつも明るく楽しそうにやってるのが好きです』

 演劇のことをあれこれ話してくれる千鈴が好き。いつも楽しそうに接してくれる千鈴が好き。

 彼女の何もかもが変わるような気がしたけど、きっとそんなことはない。ただ声が無くなるだけで、俺と彼女の関係まで変える必要はない。千鈴の良いところをたくさん知ったから、そんな理由だけで離れるのは間違っている、と今なら思える。


「だから、俺のために、死なないでほしい。ワガママだけど」
 少し遠くにいるままの彼女は、「分かってるよ」と小さく頷く。

「ちょっと言ってみたくなっただけ。大丈夫、そんなことしない」
 そして、少しだけ咽たあと、柔らかい声色へと変わった。

「有斗、ありがとね。動画のコメント。ホントに嬉しかった」
「いやいや、声だけ褒めてるコメントあったから、他にも良い所いっぱいあんだろって思ってさ。そりゃ千鈴の声は好きだけど……」

 自分でその言葉を口にして、唐突に現実が襲ってくる。彼女の声。もう、聞けなくなる。心の揺らぎにシンクロして、自分の声も揺れかけているのが分かる。

 さっき、「ただ声が無くなるだけだ」なんて言い聞かせたはずなのに、シーソーのように感情は行き来を繰り返し、また寂しさが戻ってくる。

「もういっこだけ、ワガママ言っていい?」
 彼女が(つら)くなるのは分かってて、彼氏である俺が言ってはダメなことだと分かってて、それでも、抑えきれなかった。

「声なくなるのイヤだなあ」
 泣きながら口にした、ただの世迷言。隠せない本音。

 彼女は、季南千鈴は、もう一度こっちを振り向く。

 精一杯の笑顔で、涙でぐしゃぐしゃだった。

「奇遇だね、私もなの」
 その言葉を聞いて、彼女に向かって駆け出す。力加減も気にせず、抱きしめる。

「千鈴が喋れなくなるの、イヤなんだよ」
「私もイヤだ! 話せなくなるのイヤだ!」
「めちゃくちゃ悲しいんだよ」
「悲しい……ホントに悲しい! イヤなの!」

 二人で抱き合って、大声をあげて泣いた。思い通りにならなくていじけた子どもみたいに、ずっとずっと泣いていた。