その声が枯れるまで、僕は君を映すと決めた

 10 デート、みたいなもの

「ったく……」

 去ってしまった夏を惜しむように空が泣いている八日金曜の放課後。傘は持ってきたものの、下は普通の靴で来てしまったので、独り言で不満を漏らす。

 ネイビーの傘を揺らしながら1階の廊下を歩いてシューズロッカーに行くと、ちょうど帰ろうと靴を履いている吉住慶と会った。

「よっ、アルト」
「慶、今帰り?」
「うん。たまには一緒に帰ろうぜ」

 ワックスをつけた短髪をいじりながら笑う慶に、「おう」と頷いて急いで靴を履く。

 小学校・中学校も一緒の学区だったので、ここから駅まで歩くのも、電車で降りる駅も、降りた後にファーストフード店がある交差点まで歩く帰路も全く一緒だった。

「イヤな雨だよな、降らないって言ってたのに。晴れてほしいよ」
「だよな。晴れてほしいぜ」

 シトシトと地面を濡らす雨の中、俺が愚痴ると、慶も同調した。俺の左肩の位置にある、曲線の急な慶の青い傘が歩くたびに揺れ傾き、俺の肩にワイシャツの肩に水滴をトトトッと落としそうになる。

「はあ、アルトさ、こんなときにテレポートが使えたらなあって思わない? 歩かないで乗る電車のホームまですぐ移動できるのに」
「……お前さ、テレポートするなら直接家帰ればいいじゃん」
「ダメだよ、そんな遠くまでの瞬間移動はズルいだろ! 日本テレポート協会が黙ってない」
「どういう法律と団体なんだそれは」

 くだらないやり取りを続けてにやりと笑う。普段頻繁に話してるわけじゃないのにこうしてすぐにお互いの調子が合うのは、小学校からの幼馴染ならではだろう。

「季南さん、だっけ? YourTube、順調なのか?」

 聞きあぐねていたかのように、彼はゆっくりと傘を持ち上げて、俺に視線を向けた。

「ああ、うん。千鈴が色々企画考えてくるから、ネタには困らないでやってるしな」
「おっ、名前呼びしてる。あっやしいんだ!」
「バカ、そんなんじゃないっての」

 目を思いっきり見開いて、好奇心たっぷりの表情で慶は俺の腕を肘でつついた後、「順調なら良かった」と安堵の溜息をつく。気にかけてもらっているのが心苦しくもあり、嬉しくもあった。

「……なあ」

 リラックスした今の状態で話題に出した方が良いと思い、慶に呼びかける。彼は上しかリムのないメガネの右端を雨粒で濡らしながらも、いつも通り「なんでも聞くぞ」というトーンで「ん?」と真正面を見ながら答えた。

「もし、もしだよ。よくあるドラマみたいに、仲の良い子が不治の病になったとしたら、もうそんなに長くないとしたら、どうする?」
 唐突で突飛な質問に、慶は目を丸くする。「何だよ、急にどうしたんだよ!」などと茶化されるかと思ったけど、彼は傘を持っていない右手であごを押さえ、少し考え込んでから「そうだなあ……」と俺に向き直った。

「ベタかもしれないけど、俺だったらその人と思い出を作るかな。忘れないように」
「そうだよな。向こうのこと忘れないようにしたいもんな」
「ううん、違う」
 前髪を濡らしたピッと払いながら、慶は俺の返事を打ち消す。

「こっちじゃなくて、相手が忘れないように。自分の体と心をギリギリまで使い切ったって、後悔なく思ってもらえるように、一緒に思い出を作るんだよ」
「……そっか。ありがとな」
「何だよ、変なヤツだな」

 慶の言葉がストンと腹落ちする。お礼を伝えると、照れ隠しなのか「相談料」と言って右手のひらを俺に向けた。

 不意に千鈴の顔が浮かんだ。生死に関わるわけじゃないけど、治らない病、声を失う病。
 千鈴の声は、動画で残る。だから彼女にも、楽しいことを話して、たくさん演じたと、記憶に残るような日々を過ごしてほしいと願う。

「んで、次はいつ撮影なんだ?」
「あ……週明けだな」

 明日、と言いかけてやめた。週末にも撮っていると話したら、さっきの冷やかしがまた加速しそうだったから。

「そっかそっか。やっば、雨強くなってきた。家帰る頃には靴がグショグショだな」

 アルファルトにぶつかるように勢いを増した雨音とふくれ気味に嘆く慶の声を聞きながら、俺はもう一度「早く晴れてほしいぜ」と呟く。
 明日の撮影場所はいつものレンタルスペースではなく、カラフル・パラディーゾだから。

 ***

 十月九日、土曜、朝七時前。部屋にあるタンスと小さいクローゼットを三往復して、着ていく洋服を決めた。

「変じゃない……よな」

 姿見に映る、いつもより気合いを入れた服装。普段つけないワックスをちょっとだけつけて髪を遊ばせてみた自分に言い聞かせる独り言。
 今日はいよいよ、千鈴とテーマパークで撮影する日だ。

「行ってきます」
 両親にどこに行くんだと詮索されないうちに玄関を飛び出す。いつも背負ってるリュックの代わりに肩から提げているバッグが楽しげに揺れる。
 道路は乾いていて、昨夜十時まで降っていた雨の痕跡はない。天候も気を利かせてくれたらしく、気温も寒すぎず、雲もほとんどない快晴だった。

 動画自体は三日前の水曜にも撮ったので今日が五本目の動画。でも、会議室で撮るのとは全然違う。
 だって、これって、その、デートみたいなものじゃないか。高校に入ってから女子と二人で出かけたことがあっただろうか。多分、初めてだと思う。

「うしっ!」
 気合いが声の塊になる。久しぶりすぎて緊張と興奮が同時に押し寄せ、駅に向かって走る速度はどんどん速くなっていった。

『降りた。ホームで待ってる』
『分かった! 私も今駅に向かってる!』

 チャットを送って、ベンチに座って待つ。目的地はここから電車で五十分。直接現地集合でもいいけど、どうせなら行きに撮影のことも話そうということで、彼女の最寄り駅で降りて合流することになっていた。

 スマホに目を向けるが、SNSもネットの記事も「彼女がやってくるのを見逃したくないな」と思うと大して頭に入ってこない。結局、連絡が来たらいつでも気付けるようにスマホを手に握りしめ、上の改札階から繋がっているエスカレーターをずっと見つめる。

 やがて、一人のよく見知った女子がカンカンとそのエスカレーターを駆け下りてきた。

「やっほー、お待たせ」
 結構走ってきたのか、千鈴は屈伸するような姿勢で膝に手を当てて肩で息をする。

「そんな無理に急がなくてもいいのに」
「いやいや……どうせなら開園前から行ってたいし!」

 快速間に合うでしょ、と電光掲示板を見上げた彼女は、平日の教室と変わらない笑顔を見せた。

 ホームに並んで電車を待ちながら、ちらと横を見て千鈴の服装をチェックする。
真ん中に英語がプリントされた長袖の白Tシャツに小花柄のネイビーのロングスカート、その上からベージュのダッフルコート。コートの袖はキュッと絞れるようになっているのがオシャレだ。

「有斗君もダッフルコートだ、お揃いだね」
「まあ俺のは普通の袖だけどな」
 着ているグレーのコートの袖をパシパシ叩く千鈴。「トグルって手袋してても留められるのがいいよね」なんて話をしているうちに電車が来て、彼女に続いて乗り込んだ。

「どのくらいで乗り換え?」
「三十分くらいだな」

 ちょうど二席空いていたので、隣同士で座る。車内には親子連れやカップルが多く、何組かは俺達と同じ場所に向かうんだろうと想像できた。

「あ、見て、入試の問題ある! えっと、五個の球が入っていて……」

 塾の広告に載っていた中学入試の算数の問題を一緒に見る。問題を読んでいると、横の彼女の顔がだんだん渋くなってきた。

「……何これ、難しすぎない? こんなの算数じゃなくて数学でしょ……」
「千鈴、数学苦手なんだっけ?」
「いや、公式の応用とかなら別に問題ないけど、こういうシンプルに『数字力』みたいなのは苦手かな……有斗君、あれ分かる?」
 脳内で少し考える。頭の中で球に数字を振り、ガラガラと動かす。

「問一は簡単だよな。偶数と五をかけたら十の倍数になるだろ? どっちかの箱には必ず偶数の球が入るんだから、そっちは十の倍数になって三点入るってことだ」

 きょとんとしていた彼女は、やがて新たな定理を思いついたの如く目を輝かせた。

「確かに! 有斗君すごい! 天才!」
「おだてるなおだてるな、何も出ないぞ。んなことよりさ、あの漫画持ってる?」
「ちょっと待って、問二以降は?」
「面倒なことはやらない主義だぜ。あの漫画、面白いぞ」
「『完全犯罪のカノジョ』でしょ? 面白いよね!」

 漫画の広告、車内動画のグルメ情報とミニクイズ、軽くケンカしながら駅を降りたカップル、そして千鈴が今年見に行ったミュージカル。話題は次々に移り、途切れることはない。

 実は電車に乗る前は、少しだけ不安もあった。普段は「YourTube」を共通の話題として話している俺達が、普通に話すことができるだろうか。クラスメイトの話を引っ張りだしても話題が尽きてしまって、お互い気まずいままスマホを眺めるだけになったらどうしようかと考えていた。

 でも実際はそんなことはなくて。快活な千鈴の性格にも助けられて、乗っている時間が短いと思うほどに、幾らでも話せる。彼女の好きな音楽、漫画、テレビ、お菓子、ゲーム、家での過ごし方、寝る時間、片付けが苦手なこと、次々と新しい千鈴の一面を知っていくにつれ、綺麗な果実の皮をゆっくり剥いているようなドキドキ感を覚えた。

 そして心の中で幸福を膨らませた俺は、ふと我に返ってゆっくりと深呼吸する。目の前の彼女は、俺を男子として見ているんじゃなくて、動画の撮影・編集担当として見ている。他に編集できるヤツがいたら、そいつが今の俺に代わっていただけた。そう思っておけば傷付かないし、万が一男子として見ていてくれたからといって、きっと何がどうなるわけでもない。


「到着!」

 一回乗り換えを挟んで最寄り駅に着くと、千鈴はいそいそと広い改札を出て「わあ!」と興奮の声を漏らした。目的地はここから歩ける距離にあり、この構内にもたくさんの看板が出ている。大勢の人の流れに沿うように駅を出て、ペデストリアンデッキを進んでいく。

「カラパラ、めっちゃ久しぶりなんだよね。有斗君は?」
「俺もだな。二年ぶりくらい」

 どんなアトラクションがあったっけ、と二人で記憶を探りながら、遠くに見える観覧車を目印に歩いていった。

 カラフル・パラディーゾはまだ出来て十五年くらいの比較的新しい屋外テーマパーク。絶叫系のコースターから、ただ鳥が上下に動くだけの子ども向けの乗り物まで、バランスよくアトラクションがある。敷地はやや狭いけど都心からアクセスの良い場所なので、親子で休日に遊びに来たり、カップルで程よい遠出のデートをしたりするのにはちょうどいい場所だった。

「パスポートは……あそこか」

 駆け足で先に売り場に並び、千鈴が後から隣に合流した。開園より結構前に着いたので、そんなに並ばずに入園できそうだ。
 料金は……ふむふむ、男女ペアだとカップル割があるんだな。ここは男子らしくスマートにきめたい。

「はい、次の方、どうぞ」
「えっと、カ、カップル割を一つ、あ、一組」
「はい、カップル割ですね」
 緊張で思いっきり噛んだ。大失敗。くそう、千鈴の前で、ちょっと恥ずかしい。

「はい、千鈴、パスポート」
「ありがと! 開園までもう少しだね」

 その場で二十分弱待っていると、遂にゲート前の大きな時計が九時を指す。アナウンスの後に開園となった。ドッと寄せる人の波に押されながら、ゲートをくぐって園内へ入る。レストランとギフトショップが並ぶ通りを抜けると、幾つものアトラクションが俺達を迎えてくれた。

「よし、まずは何から乗ろっか!」
「ちーすーずーさん、お目当てのショーの確認と撮影が先だぜ」
「あ、そうだった。普通に遊びに来たつもりになってた!」

 間違えたのがおかしくて堪らないというように、彼女は吹き出す。そして入口のゲートでもらった紙のマップを見ながら、目指す場所を指差した。

「ここ! ここのレストランの横のステージだよ。えっと、初回は……十時半だね。その前に撮影もしたいし、良い席で待ちたいからもう行こ!」
「おわっ」

 俺の腕を引っ張って走り始める千鈴。ぽっかりと浮かんでいる二つの徒雲(あだぐも)が、忙しなく動く俺達を見物するようにゆったりと風に揺れていた。

「ここかあ。ふふっ、ステージ楽しみだな」

 ログハウスのような見た目のレストランの横に、数人が乗って簡単なショーができそうなステージが組まれている。まだ開始まで一時間以上あり、陣取って待っている人はいなかった。

「千鈴の好きな女優さんがパラディーとかに混ざってショーするのか? ヒーローショーみたいな感じ?」

 パンフレットに乗っていたショーの案内を見ながら訊いてみる。パラディーはこの園、カラフル・パラディーゾのメインキャラクターだ。

「ううん、そこまで子ども向けじゃないみたい。何人か俳優さん出てきてちゃんとラブストーリーの演技するんだって。で、その途中でパラディーが出てくるみたいな」
「なんかすごいシュールだなそれ……」

 だよね、と彼女は口に手を当てて笑う。ショーの案内のページに載っている写真の女性が、千鈴の好きな若手女優らしい。テレビでは見たことがないので、舞台中心に活動しているのだろう。

「あ、ねえねえ、有斗君。あれ、SNSで見た期間限定のドリンクだよ。ちょっと気になるな」
「よし、これで撮影頑張れるなら俺が買ってやろう」
「え、ホント? 有斗君、ありがと!」

 エラそうな芝居をすると、彼女もまた演技がかって両手の指を絡めて組み、歓呼した。こういうシーンで男子の気が大きくなるというのは本当らしい。財布の残金など確認せず、カッコつけてしまう。

「お待たせしました、タピオカザクロスカッシュになります」
「有斗君、ホントに嬉しい! ありがとね!」

 千鈴はスキップのように跳ねて歩きながら一口だけストローで啜っている。透明なプラスチックの容器に入ったそれは、深い赤色の液体にタピオカがゴロゴロと沈んでいて、炭酸の泡が中で小さく浮かんでは弾けている。色鮮やかで組合せも面白いので、SNSで人気になるのも納得の商品だった。

「じゃあ千鈴、先に演劇ガールの撮影する?」
「うん、先に『これから行ってきます』って感じで撮って、ショー観た後にもう一回感想を撮ればいいよね?」
「ああ、ショーは撮れないからな」

 ショーを観た後に、観てないことにして前半部分を撮ってもいいんだろうけど、「ありのままの自分を届けたい」と言っていた彼女はそんなことはしないだろう。

「……あれ?」
 ふと、何かを探すのかように、千鈴がキョロキョロと辺りを見回す。

「そういえば、撮る場所ってどうしよう?」
「あっ、確かに……」

 外の撮影も過去に何回かやってきたのに、肝心なところを見落としていた。彼女の横で歩きながらスマホで撮るならまだしも、ある程度距離を取ってカメラを回し「こんにちは! 演劇ガールです!」なんて挨拶をしていたら、間違いなくギャラリーが寄ってきてしまう。衆目を集めることは、俺も彼女も望んでいないことだった。

「どこでやるかなあ。あのベンチ……は目立つよな。アトラクションの裏とかでこっそり撮れる場所があれば……」
「いや、なんかそれはそれで、ちょっと恥ずかしい……」

 顔をイチゴみたいな赤に染める千鈴。人目につかないところで男女二人で撮影しているのを想像した俺は、「ちゃんとした場所がいいよな!」と慌てて打ち消した。

「そうしたら、レストランで座って撮るか。ちょっとBGMとかうるさいかもしれないけど、それも外の撮影の醍醐味ってことで」
「レストランもちょっと人目がなあ…………あ、ねえ、有斗君、あれは?」

 彼女が斜め上、遮るもののない高い空を指差す。その先にあったのは、虹色カラーのゴンドラが幾つも回っている、大きな観覧車だった。

「なるほど、乗りながら撮影ってことか」
「揺れる、かな?」

 黙って考え込んでいた俺に、千鈴が不安そうに聞いてきたので「あ、いや、やってみようぜ」と慌てて返す。正直、撮影ができそうかどうかよりも、「女子と2人っきりで観覧車に乗る」ということで頭がいっぱいになっていた。
「私、カラパラの観覧車乗るの初めてだから楽しみ!」
「そっか、俺もだ」

 同調してみたものの、俺の場合はカラパラに限らず、これまで女子と観覧車に乗った覚えがない。どうやら人生初らしい、と頭が理解すると、隣の千鈴に聞こえそうなくらい、鼓動が加速していった。

「結構並ぶねえ」
 スマホでカラパラのサイトを調べながら、体を右に傾けて列の先を覗く千鈴の呟きを聞く。

「絶叫系除いたら一番人気のアトラクションらしいからな。それより一周一八分だってさ。ちゃんと話すこと考えておけよ」
「げっ、短い! カラパラの思い出とか話そうと思ってたのに」

 ちょっとずつ列を進めながら、彼女は下を向いてぶつぶつと練習し始める。至って真剣な表情だけど、漏れ聞こえる声が「お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです!」なんて内容で、そのギャップが面白かった。

「次の方、どうぞ。頭上に注意しながらお入りください」

 スタッフのお姉さんに案内され、バッグから出したカメラと三脚を腕に抱えて赤のゴンドラに乗る。向かい合って二人ずつ、四人は座れそうな大きめのゴンドラ。風もそこまで激しくないので、揺れも少ない。

 うん、これなら撮れそうだ。すぐに三脚とカメラをセッティングして、向かいの彼女にレンズを合わせた。撮影モードになると、さっきまでの緊張も解ける。この瞬間は「撮影者」と「YourTuber」の関係でいられる。

「有斗君、撮れそう?」
「大丈夫。そっちは?」
「ん、いける」
 最小限の会話。それは、お互い撮影に慣れてきた証でもあった。

「基本はいつもみたいに回しっぱなしにしてるけど、途中でちょっとカメラ動かして外の景色映すからね。じゃあ演劇ガール、張り切っていきましょう! 五秒前! 四,三……」
「皆さんこんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日はなんと初めての屋外ロケです! カラフル・パラディーゾ、通称カラパラにやってきました!」

 わー、と自分で盛り上げながら小さく拍手をする。他の人の動画も見て研究しているのだろう。大分喋り方が板についてきた。

「早速脱線しちゃうんですけど、まずはさっき買った、ここでしか飲めない炭酸ジュースを飲んでみたいと思います。期間限定、ザクロタピュヨカ……有斗君ごめん!」
「カット! ち・す・ず・さーん!」

 商品名を思いっきり噛んだ彼女に、すかさずツッコミを入れる。「ごめんね!」と思いっきり両手を合わせて謝る彼女、「最初からいくよー!」と仕切り直す俺。時間がない中でも、この空間はなんだか楽しくて、二人ではしゃぎながら撮影を続けた。



 11 こんな風に始まる恋が

「というわけで、これから剣崎(けんざき)(しおり)さんが出ているショーを見てきたいと思います。その前に、栞さんのこれまでの舞台の中で一番好きな台詞を演じてみますね! 観覧車の中なので動きまではできないですけど……『ハイド&シークァーサー』より」

 作品名を口にして、彼女は目を閉じる。すうっと深呼吸して目を開くと、その表情は希望に満ち満ちたエネルギー溢れるものになった。

『自分に嫌気がさして、閉じこもってたの。でも、そのままだと世界って本当に何も変わらないから。ううん、違う。世界は変わらないから、自分を変えなきゃいけない。だから私は、たくさん自分に強く当たった分、今度は世界に体当たりできる自分になるの』

 言い終えると、また彼女は深呼吸して元に戻り、「いかがでしたか?」と言って作品の解説に入る。やはり演技というのはすごい。色んな人格を宿すことができる。でも、普段の彼女と演技の彼女が違い過ぎて、それは即ち、彼女が台詞の通りにポジティブに振り切れていないことを示してした。

「では、ショーを観てから感想動画撮りますね。まずは一旦ここまで、演劇ガールでした!」

 地上間近の観覧車の中。彼女が数秒間手を振るのを待ってから「オッケーです」と録画を止める。

「千鈴お疲れ」
「有斗君もお疲れ」

 三脚とカメラを急いで片付ける。バッグのチャックを閉めて一息ついていると、横のドアがガコンと開いた。

「はーい、ありがとうございましたー!」
 さっきのお姉さんが出迎えてくれる。あっという間の一周一八分だった。

「いやあ、本気出したら短時間でもできるもんだな。画面揺れもそんなになかったと思う」
「『多少ブレがあります』って注意つけておけばいいもんね。それにしても観覧車……あーっ!」
 突然叫び出した千鈴。続いてガックリと肩を落とす。

「どした?」
「全然外の景色見られなかった! せっかくだったのに!」
「……ぶはっ! 確かに!」
 そんな余裕なんて一ミリもなかったもんな。

「もう、笑いごとじゃないよ! 初めて男子と乗った観覧車なのに!」
「お、マジか。俺もだよ、初めて女子と乗った」
「二人で呑気に撮影なんかしてる場合じゃなかったよー!」
「でも観覧車で撮影するの提案したの誰だっけ?」
「私だけどさー!」

 千鈴は溜息をつく。彼女も乗ったことがなかったというのがちょっと驚きで、でもそんな「異性と初めて観覧車」という青春を二人とも動画の撮影で塗り潰してしまったのが面白くて、目が合った彼女と一緒に苦笑いした。

「よし、まずはショーを観よう。千鈴、終わった後は近くで撮るか?」
「うん、感想は短くていいと思うし、早く感動を伝えたいからどこかあんまり人目に付かないところでパッと撮りたいな」

 そのままステージの前で場所取りをして、ショーを観る。彼女の話していた通り、基本的にはコメディありのラブストーリーがメインのお芝居で、歌やダンスがない分、俺も気恥ずかしさを感じることなく観劇できた。途中で「キャラクターに変えられた人間」という設定でパラディー達が出てきたのも、なかなか面白い設定だった。

「ねえ、有斗君、さっきの見た? 今の栞さんの諦めたときの言い方、すっごく上手だったよね! 後ろの人にはほとんど見えないのに、ちゃんと表情作ってるのもプロだなあ!」

 千鈴はと言えば、すっかりこのショー、否、栞さんに夢中になっている。二十代前半くらいの若い女優さんだけど、確かに引き込まれるようなオーラを放っていて、舞台に引っ張りだこだという千鈴の解説も頷けた。

 ちなみにその後奥まった休憩スペースで木製ベンチに座りながら撮った感想動画の彼女のテンションは凄まじく、「すごい」と「カッコいい」をそれぞれ七回ずつは繰り返していたと思う。ともあれ、これで今日の撮影は無事に終了、まだお昼前の十一時半だ。

「有斗君、これからどうする?」
「んー、帰って編集かな」
「えっ?」

 冗談で言った一言に、びっくりするくらいの反射神経でこちらを振り向く。茶髪の髪がフッと揺れて、隠れていた左耳が露わになった。

「んなわけないだろ。せっかく来たんだし、お金がもったいない。次何乗るか決めようぜ。」
「……だよね! もう、有斗君いじわるだなあ」
「先にお昼の場所決めようぜ」

 お金がもったいないなんて下世話な建前を口にしたのは、素直になれなかったから。せっかく来たから二人でもう少し遊びたいなんて、真正面からは言えそうになかった。

 そして、まるでデートみたいな数時間が始まる。


「有斗君、絶叫系は大丈夫?」
「ああ、うん。問題ないぜ」
「じゃあまずはアレだね!」


「……ちょっと有斗君、大丈夫? ベンチで休む?」
「うぐ、気持ち悪……まさかあんなに急角度で落ちるなんて……」
「まったく、絶叫大好きYourTuberだったら失格だよ」
「そんなのにはならないよ……」

 ***

「次はどうする?」
「私、あれ……乗りたいかも」
「メリーゴーラウンドか!」
「高校生で変かな?」
「誰が見てるわけでもないし、いいんじゃない? 良かったら撮らせてよ、動画で一瞬使ったりしたら面白そうだ」
「ええっ、なんか恥ずかしい!」

 ***

「楽しかった! 次は……メリーゴーラウンドときたら、やっぱりコーヒーカップだよね。知ってた? カラパラのは自分達で回るスピード調整できるんだよ」
「へえ、そうなんだ。俺の三半規管に挑む気だな」

「それそれそれそれー! 回せ回せー!」
「ぎゃああああああああああ! 千鈴、ストップ、ストップストップ!」

 ***

「あ、パラディーだ! 踊ってる、可愛い!」
「さっきのショーでも思ったけど、着ぐるみにしては動きが俊敏だよな」
「ね、ね、スタッフの人に写真撮ってもらおうよ」
「じゃあ二人で挟もう。千鈴はそっちね」

 ***

 元気な千鈴についていく形でアトラクションを回り、一緒にビッグサイズのハンバーガーを食べる。お土産ショップのパラディー帽子を被って遊び、またアトラクションに乗る。

 まるでデートみたいな過ごし方だな、と思っていたけど、多分そうじゃない。
これは、デートそのものだった。

「あーもう夕方だね」

 一七時近くなり、園内に西日が射しこむ。陽光が彼女の左半身を照らし、頬をオレンジ色に照らした。

「そろそろ帰らないと」
「じゃあ最後に何か乗る?」

 んー、とあごに指を当てながら辺りを見渡していた千鈴は、動きを止めて口角を上げる。

「あれ!」
 彼女が指したのは、観覧車だった。

「朝はちゃんと景色見られなかったからさ。いいかな?」
「もちろん。よし、並ぼう」

 午前中はカメラを準備しながら並んだ観覧車に、今度は何も用意せずに向かう。撮影ではなく、外を眺めるために、景色を目に焼き付けるために、ゴンドラに乗りこんだ。

「うっ……わあ……」
「すごいな……」

 昇っていくゴンドラの中で窓に顔を近づけて、二人揃って言葉を失う。沈みかけの太陽、その光に包まれるビルと街、夜の支度を始めた紫色の上空。ただただ鮮やかな色に包まれた世界は、綺麗とか、美しいとか、そういう言葉すらちゃちに思えた。

「有斗君、今日、ありがとね」
「ああ、うん。俺も楽しかったから」

 眼下に広がる、雄大な絵画のような風景に見蕩れていると、横の彼女は子どもがガラスに絵を描く時のように、はあっと大きく息を吹きかけた。

「声が出なくなるまでに来たいなって思ってたから。だから嬉しいの」
 その言葉に、心は鉛が入ったかと思うほどズシリと重くなる。何と返事してあげればいいのか、たくさんの言葉が脳内を巡るうちに、人生経験の少ない自分に彼女を導くようなことは言えないのだと気付かされる。

「……色んなところに行こうよ」
「え?」
 やがて口から出てきたのは、慰めでも激励でもなく、提案だった。

「前に動画の中で演技してたじゃん。『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの』って。体もらったんだしさ、使い切ろうぜ。あ、もちろん……声が出なくなっても色んなところには行けるんだけど、その、喉が大丈夫なうちの方がきっと千鈴も、もっと楽しいというか……」

 最後の方はしどろもどろになってしまった。ダラダラと長く、カッコ悪い返事だけど、伝わっただろうか。

「……ありがと。なんか、うん、もちろん『演劇ガール』で声のあるときの私の姿を動画で残すのが一番やりたいことなんだけど、他のところにも行きたいな」

 そう返事をした千鈴は、俺の方を見て優しい笑みを見せた。

「有斗君、優しいね」

 その表情に、体はバカ正直に反応して、鼓動が高鳴る。目を瞑るのも惜しくて、瞬きが極端に少なくなる。

 熱を持った体でしかし、頭だけは悲しいほどに冷静で、いつものようにもう一人の自分が脳内に現れる。諦めと嘲りを混ぜたような目つきで、「君は幸せな学校生活なんて送っていいの?」と呟きを漏らし、体の内側に響く。
 だから、俺の返事は至極そっけないものになった。

「……優しくなんかないよ」

 あれだけ彼女の顔を見ていたかったのに、こうして病気にもめげずに必至に生きている彼女を目の当たりにすると、自分がとても惨めに思えて、逃げるように視線を逸らしてしまう。

「何の役にも立たない動画作って。役に立たないどころか人を傷つける動画だよ。分別(ふんべつ)もつかないで、そんな人として最低なことを去年までやってたんだよ。俺は優しくなんかないし、優しい言葉をかけてもらっていい人間じゃないんだ。今手伝ってるのだって、罪滅ぼしみたいなものでさ」

 わざと自分を傷つけるようなことを口にする。言葉にしてみて、改めて自分の幼稚さに嫌気が差して、自嘲気味に眉を上げる。反省しているとはいえ、頼まれたとはいえ、俺が動画なんて作っていいのかとやっぱり考えてしまう。

 そして、虚勢も張れないボロボロの心の中で、「千鈴にどう思われるだろう」という不安が居座っていた。

 彼女も何も言わずに、時折ガコンガコンと音がするゴンドラは静寂に包まれる。暗がりが少しずつ広がる空、観覧車はまだ上昇を続けている。早く終わってほしい。気まずくて、長い間一緒にはいられない。


 更に時間が経って観覧車がてっぺんまで来たとき、千鈴が俺の方を見ているのが気配で分かった。

「……罪滅ぼしなんて思わなくていいよ。有斗君はやっぱり優しいもん」
どんな非難も罵倒も覚悟しよう、と考えていた俺に彼女が投げかけたのは、予想とは違う肯定の言葉だった。
「そんなこと……」

「人を傷つける動画を作っちゃってたかもしれないけどさ、そこから一年半くらいずっと後悔して、反省してる。反省の期間がどのくらいの長さならいいかなんて分からない。でもね、少なくとも私は、有斗君が今こうして私を手伝ってくれてることで救われてるよ」
「いや、救うなんて大袈裟なものじゃな――」
「ううん、救ってくれてるよ」

 俺の言葉を遮って、彼女がこちらにグッと顔を寄せた。重心が傾き、観覧車がぐらりと揺れる。

「声が出なくなる私の今の声を残してくれてる。私はこんな声でこんな話し方だったんだよって、みんなに紹介できる動画がもう四本も出来上がってるの。それがすごく嬉しい。有斗君たちが標的にしちゃった人数に対して自分一人じゃ釣り合わないと思うけど……それでもね、辛い思い出があることを知らなくて無理やりお願いしたのに、引き受けてくれて本当に感謝してるんだ。そういうところ、すごく優しくて素敵だと思う。ありがとうね」
「……こっちこそ」
 もう、一言返すだけで精いっぱいだった。


 彼女の一言で、俺のささくれ立っていた心は温泉にでも浸かったかのように落ち着いた。潤って溢れてきた水分が、上へ上へと昇り、目から零れそうになる。

 許されることじゃないと分かっていた。ずっとずっと責め続けていた。でもきっと、心のどこかで俺は、「大丈夫だよ」と誰かに言ってほしかったのだと思う。それで何もかもが許されるわけじゃないと知りつつも、苦しみを理解してくれる人を待っていた。

 言葉ってすごい。俺達が相手を刺すために使っていたその道具で、二年ぶりくらいに気持ちが安らいでいる。
 千鈴がいて良かったと、千鈴を撮る役が俺で良かったと、そんな風に思える。
ずっと蓋をしていたその感情の正体を、もう無視することはできなかった。


「はい、ありがとうございました!」

 地上に着き、こっちの事情を知らないお姉さんが、元気にガコッと入口を開けてくれた。
 沈みかけの夕日。もう少ししたら光は消え、空は暗く暗く、夜で塗りつぶされるのだろう。

「じゃあ帰るか」
「うん、帰ろ」
 ゲートに向かって歩き出す。引き留めるように、向かい風が吹いた。

「寒くなってきたな」
「ね、冬本番って感じ」
 手袋持ってきてたかな、と脳内でバッグの中を確認する。目線を下に落としたので、左を歩く彼女の右手が空いていることに気付いた。

 予定外のことを急に口にしたら、うまく伝えられない気がする。
 だから、言葉には頼らないようにして、手を近づけたい。

「…………っ」
 そんな風に想いを伝えて良いのか、動かしそうになった腕を止めた。

 いいのか。俺がこんなことをしていいのだろうか。拒絶されたら? 変な目で見られたら? もう動画には関わらないでと言われたら?

 勝率の低い賭けに、不安ばかりが募る。

 でも、それでも。

 この二年間、ずっと自分は、自分を否定することで過ごしてきた。あんなことをした自分が幸せになっていいはずがないと思っていた。もう何も要らないと、要らないから許してほしいと、そうやって世界と繋がるドアを閉じて生きてきた。

 さっきの千鈴の演技を思い出す。

『そのままだと世界って本当に何も変わらないから。ううん、違う。世界は変わらないから、自分を変えなきゃいけない。だから私は、たくさん自分に強く当たった分、今度は世界に体当たりできる自分になるの』

 もし違う世界を見たいと望むのなら、何かを変えないといけない。どこかで踏み出さないといけない。もし踏み出すなら、勇気を出すなら、その相手は季南千鈴が良かった。


 スッと、左手で彼女の手を柔らかく握った。振りほどいてもいいよ、と逃げ道を残すように。
 温もりが伝わってくる。千鈴の体温を感じる。

「…………あっ」

 千鈴は驚いたようにこっちを見た。俺は目を合わせるのが恥ずかしくて、まっすぐ前を見る。
 彼女は、手を振りほどかなかった。優しく握り返してくれた。

「まだちゃんと喋って二週間ちょっとしか経ってないのにな」
 俺がそう言うと、彼女は「関係ないよ」とゆっくり首を振る。

「時間なんて別にいいじゃん。お互い、秘密を握った仲だしね」
「……だな」

 そうだな。関係ないよな。こんなふうに始まる恋が、あったっていい。
 胸の中にあるのは、短い中でもゆっくり、確かに募っていった想いだから。

「千鈴」
「うん?」
「好き、だと思う」

 結局口にしてしまった。飾りも捻りもない、たった一言の気持ち。彼女と一緒にいたいという、ただそれだけ。

 数秒目が合った後、彼女は空いている左手を自分の頬に当て、「ふふっ」と幸せそうな声をあげた。

「私も。有斗く……有斗のこと、好きだなって思うよ」
「……そっか」

 熱が逃げないように、指と指を絡めて、しっかり手を繋ぐ。

 十月九日。こうして俺達は、恋人になった。
 12 放課後、ドアの内側で

 週明け、十月十一日、月曜。全員が土日たっぷりエネルギーを充電したのか、十分間しかない二限の休み時間もクラス内は騒がしい。

「え、それ木澤の彼女? 見して見して!」
「マジで、めっちゃ美人じゃん!」

 他のヤツらと一緒に、友人のスマホに群がる。全員が顔と同じくらいスタイルを褒めて、「男子高生」が炸裂していた。

「千鈴、そのヘアゴム可愛いね!」
「えへへ、でしょ? モールのセールで買ったんだよね」

 よく通る、聞き馴染んだ声に気を引かれ、ちらと女子グループの方を見る。少し伸びた後ろ髪を、千鈴がハート付きのヘアゴムで縛っていた。彼女は時たま、あんな感じで結んでいる。

 土曜のカラパラのデートの後、夜も千鈴と通話した。親が近くにいないか気配を読み取りつつ、万が一、ドアを開けようとしても大丈夫なように鍵をかけてのおしゃべり。緊張したけど、それはそれで面白かった。

 そして、日曜夜も話した。特段喋りたいトピックがあるわけじゃないけど、喋りたい相手だから喋る。撮ってみたい演劇ガールの企画、新商品のお菓子、クラスの女子の噂、観たい映画、多すぎる英語の宿題。共通項が多いから話題には事欠かないし、もっともっと彼女を知りたくて、どんなことでも話したかった。千の鈴と書く名前の字の通り、鈴を奏でるように綺麗な彼女の声は電話越しでもとても素敵に聞こえた。

「季南、それ可愛いじゃん」
「お、田淵、ありがと。男子にも褒められるとはね」

 ふらふら歩いていた田淵が、千鈴に話しかける。割とイケメンだし、男女問わず普通に話せるので友達も多い。

「よく見ると季南の髪、綺麗だよね。色もいいし艶もある」
「はいはい、それ以上褒めても何にも出ないぞ」

 田淵が「マジだって」と言いながら彼女の髪に触れる。その瞬間、俺はグループの輪から抜けて、今まさに通りかかったかのように近づいた。

「おい田淵、女子の髪触るのはセクハラだぞ」
「いやいや有斗、髪はセーフだろ」
「ふっふっふ、それを決めるのは季南だぜ。さあ季南、嫌がるんだ!」
「わーセクハラー! ハラスメントですよー!」
「訴えられてるー!」

 一笑い取ってから、俺がさっきいた場所まで田淵を引っ張っていく。

「あっちで木澤の彼女の写真見てたんだよ」
「木澤の! すげー興味ある!」
 無事に遠ざけられて良かった。どう考えても嫉妬だったんだけど、モヤモヤしっぱなしでこの後も過ごすよりだいぶマシだった。


「有斗、お待たせ」
「おう」

 放課後、俺達が打合せするための集会室。いつも通り机を動かして話せる場所を作っていると、千鈴がドアをカラカラと引いて入ってきた。
 一つの長机に向かい合って座る。少し前までは二つくっつけて正方形に近い形にしていたけど、これが今の、俺達の距離。

「どうした? 何か楽しそうだな」
「んー? そう? そうかな?」
 秘密を早く喋りたい子どものように、彼女は両手を口に当てて揺れている。

「さっき、田淵が私のこと触ったから止めに来たんでしょ」
「……なんかやだった」
 図星だったので、ちょっとそっぽを向く。機嫌が悪くなったわけじゃない。思い出して気恥ずかしくなっただけ。

「うへへ、有斗はかわいいなあ」

 俺の頭をポンポンする千鈴。自分が随分子どもっぽく感じられてしまって、拗ねるようにそっぽを向いて「うっさい」と呟く。

「ありがとね、嬉しかった。はい、どうぞ」

 彼女の方を見ると、少し斜めを向いて、髪を触(さわ)れるようにしてくれている。何度かその髪を撫でると、むふーっと満足気に目をキュッと瞑って笑った。

 何だか今日は振り回されてばっかりだ。でもそれも、悪い気はしなかったり。

「よし、じゃあ次に撮る企画決めるぞ」
「はい、有斗先生! 私、考えてきました!」
 ピッと挙手する千鈴。小学一年生のように真っ直ぐ挙げているのが面白い。

「家で舞台の映像を見ながら食べるのにぴったりなお菓子を探すってどうかな? ほら、ポテトチップスとかだと手が汚れるし、おせんべいだと音がうるさいでしょ? あとは重いお芝居だと、甘ったるいチョコはなんとなく合わないとかさ」
「おっ、それ面白いな。当日タブレットとかで映像見ながら試してみるってことか」
「そうそう。色んな種類のお菓子を買っておいてね。で、途中でもちろん作品解説も入れて、興味ある人はどうぞって」

「甘いのとしょっぱいの、両方の部門で選手権だな。予算(かさ)みそうなら、駄菓子限定とかにしてもいいかも。俺の好きな酢漬けイカとか音も出ないし優勝候補だな」
「あ、それもいいね、みんなマネしやすいし! 私、大好きだから笛ラムネは外せないね」
「なんで観劇に一番うるさそうなの持ってくるんだよ」

 ツッコミを入れながら、そして好きな駄菓子の話へと脱線する。脱線から企画が思いがけない面白い方向に転がっていく……なんてことはほとんどないんだけど、楽しいのでなかなか()められなくて、あっという間に五分、十分と過ぎていく。そしてどっちかが「違う違う、企画!」と軌道修正して、またふとしたタイミングで別の話題に移る。それを繰り返し、二人で笑いながら、企画を詰めていった。

「そうしたら、明後日の水曜に撮影でいいか?」
「うん、大丈夫。あとさ、有斗」

 千鈴は少し言い淀んだ後、表情を窺うように上目遣いで俺の方を見えた。

「安い編集ソフト買ってみたんだよね。だから今回はそれで編集してほしいんだけど……」
「え、買ったの? 別に俺がやるのに」
「ほら、横で操作見ながらたまに手伝ったりしてさ、いざという時に私もできるようになっておかないとじゃん。有斗がインフルエンザに(かか)ったりしたら全部自分で作らないとだし」
「縁起でもない予想するなよ」

 言いながら、中学のときにインフルエンザの高熱で一週間休んだことを思い出した。同時に、それが一月末の大流行シーズンであったことも。彼女は一月に手術と言っていたけど、具体的な日付は聞いていない。万が一そんな時期に俺が倒れたとして、彼女は自分の話してる姿を撮れるのだろうか。イヤな想像が一気に渦を巻き、俺は振り払うように頭をブンブンと動かした。

「ほら、このソフト買ったんだよ。編集画面とか、なんとなく有斗が使ってるものと似てたから」

 彼女はスマホで撮った「デジタルスタジオ」と書かれた大きい箱の写真を見せてくれた。俺が持っているソフトと同じように、中に入っているディスクでパソコンにインストールするのだろう。

「急に無理言っちゃってごめんね。パソコン持ってくるから、一緒に画面見ながら操作の確認できたらいいなって」
「おう、いいよ。撮影終わったらやろうぜ」
「ありがと!」

 最後に撮影場所のレンタルスペースを予約して、今日の打合せは終了。机も戻したし、あとは先生達に見られないように出て行くだけだ。

「ふふっ、YourTubeばっかりやってるとデートできないね」
「ん、あ、そうだな」

 ドアを開けて外に顔を出し、先生がいないか確認しながらデートの話をする千鈴。俺と目が合わない状態で言ったのは、大した問題と思ってないからなのか、照れてるのを隠すためなのか。後者ならいいな、なんてつい考えてしまう。

「じゃあ千鈴、電気消すぞ」
「外、誰もいないよ、だいじょう――」

 入口横の電気を消した俺と、振り向いた千鈴。ドアの前で、思いっきり近距離で目が合う。

 顔が変わったわけじゃないのに、ものすごく可愛く見える。少し前は別の顔がタイプだった気がするけど、彼女はあっという間に上書きしてしまったらしい。実際は二秒くらいのはずだけど、十数秒に感じられるくらい、じっと見つめていた。

 脈がどんどん速まる。自分が自分じゃないみたいに、熱を帯びてフワフワした気分になる。


 視線を彼女から逃さないまま、ガラガラと、ゆっくりドアをしめる。それは、誰にも見られないようにする配慮でもあり、彼女への無言の問いでもあった。

 千鈴は何も言わない。ずっと俺に目を合わせている。

「二人っきりですな、千鈴さん」
「そうですな、有斗さん」

 照れをごまかすように茶化したのを真似た彼女に、顔を近づける。ドアに後頭部を当てて痛くならないよう、綺麗な茶色の髪を手で押さえながら、俺達は静かにキスをした。



 13 夜のオムライス

 集会室でのナイショの一件の翌日、十月十二日の火曜日。自販機に行こうと廊下を歩きながら、スマホを開く。撮影がない日でも、昼休みにはこうしてついついチェックしてしまう。千鈴から何か来てたらと思うと、電源を入れながら嫌が応にも期待が高まり、廊下を弾む足取りで軽快に歩いていく。

「締まりのない顔してるなあ、アルト」
「おわっ、慶か!」
 彼が急に声をかけてきたことに驚き、思わずバッと後ろに跳んでしまった。

「何だよ急に」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたんだよ、なんか浮かれてる感じだぞ?」

 不意に彼は、何か思いついたかのように眉をクッと上げ、続いて意地悪げな笑みを浮かべて右肘で俺を小突いた。

「まさか季南ってヤツと付き合い始めたとか?」
「あ……」

 図星で反応に困ったまま口を開けていると、慶の表情がみるみる驚きに代わり、俺と同じように口をパカッと開く。

「え、マジで?」
「……絶対言うなよ」

 彼は「もちろん」とコクンと頷いた。慶のこういうところは、中学の頃から信頼できる。

「おめでとうな。アルトの彼女は……中学二年のユミぽん以来じゃないか? あ、違うか、三年のときに二ヶ月だけユカと付き合ってたか」
「やーめーろ、過去を全部検索するな」

 これだから付き合いが長いってのは困りものだ。

「……ってことで、その帰りに付き合ったんだよ」
「ふうん、この週末にそんなことがあったのか」

 校舎二階、よく慶と話す、西側の屋外渡り廊下で、これまでの経緯を話す。自分の過去を曝け出したこと、それを受け止めてくれたことも、俺の過去の過ちを知っている彼には包み隠さず打ち明けられた。もちろん、千鈴の病気のことだけは秘密のまま。

「うん、そっか、うん」

 渡り廊下から教室の廊下に戻りながら何度か相槌を打った後、彼は柔らかい笑顔を湛える。

「良かったな。ちゃんとそういうところまで話してるなら、うまくやっていけると思うよ」

 購買部の向かいにある自販機でコーラを買った慶は、「めでたい!」といってその缶を俺の胸元に突き出した。

「お祝いの品だ! 安いけど!」
「……いつもありがとな」
 ひんやりと冷たいペットボトルを受け取ってお礼を言うと、彼は「昔からの仲だろ」と言って歯を零し、手を振って教室に戻っていった。

 プシュッと音を立ててキャップを開け、ぐびっと炭酸を流し込む。いつもはもっと甘ったるいのに、今日は何だかスッキリした味に感じられて、爽やかな気分になった。


「ねえ、北沢」

 続いて教室で声をかけてきたのは三橋だった。

「チーちゃんと何かあった?」
「えっ……」

 咄嗟の質問に、さらりと否定しなければいけないところを思わず正直なリアクションをしてしまう。

「な、なんで?」
「んー? いや、ワタシ達と話してるときも、よく北沢のこと見てるなって」
彼女の仕草の真似なのか、首をサッと動かして横を見るフリをすると、ポニーテールがポンッと跳ねた。やっぱり女子は鋭い。
「いや、えっと……」
「まあ答えなくていいよ」

 答えに窮していると、三橋は「なんとなく分かるから」と言いたげに首を振る。

「楽しそうで良かったな、と思ってさ。なんか、夏の練習のときすっごく塞ぎ込んでてね。それで文化祭終わったら、家の都合で部活休むなんて話になって。たぶん別の理由なんじゃないかなって、ちょっと心配してたんだよ」

 親友だから全部打ち明ける、ということではない。親友だからこそ、心配をかけまいと黙って、休みにしたのだろう。

 夏に手術の話が決まったと言っていた。その時期の彼女の落胆はどれほど大きかったのだろう。そして、俺や他のクラスメイトが気付かないほどそれを隠していたことも、彼女の気遣いが感じられた。

「チーちゃんのことよろしくね」
「……ああ、任せとけ」

 短く、でも力強く言うと、三橋は嬉しそうに俺の肩をポンと叩いて、「何の話―?」千鈴達がいるグループに戻っていった。

 ***

「やっほ、有斗!」
「走るな走るな、転ぶぞ」

 改札を出てすぐ、コンビニの前で待っていると、制服の千鈴が走ってきた。週の真ん中、十三日の水曜日。今日は撮影の日だ。

 学校の最寄り駅、桜上水から新宿経由でから乗り換え一回で三十分ほど電車に乗って、五反田駅に着いた。制服姿で一緒に電車に乗ると見つかって噂になりやすいので、これまでと同様、時間をズラして乗ってここまで来た。実際に付き合っているのでバレても特に問題はないんだけど、「内緒の関係って良いよね」と彼女が楽しげにしているので、しばらくは秘密の交際のままになりそうだ。

「私、五反田って初めて降りたよ」
「俺も。高校生だとそんなに用事ないよな」

 高級住宅街と副都心のちょうど間に位置するこの駅周辺には、幾つもの会社と大きな私立大のキャンパスの一つがあるらしい。駅ビルに買い物に来ている親子以外は、スーツの人と私服の学生ばかりが目に留まった。

「有斗、今日のレンタルスペース、安かったんだっけ?」
「ああ、三周年記念かなんかで、先着五名は一時間百円だった」
「すごい! いいところ見つけたね!」

 古めかしい居酒屋を何軒も通り過ぎ、目的地のマンションへ。やや歓楽街に近い場所で、高校生男女が行くには少し勇気がいる場所にある。終わって出るときは足早に駅の方まで戻ろうと決めて、エントランスに入った。

「わー、シンプル! ただの部屋って感じ!」

 部屋に入ると、真っ白な壁に洒落っ気のない大きな机が一つ、椅子が六つ。簡単な打合せができるようになっている、ただただ座って話すしかできない部屋だった。

「よし、今回はポスター持ってきたからな。これ貼って飾っていくぞ」
「それは有斗に任せる。私はカメラやるね」
「いや、斜めになったらカッコ悪いだろ、一緒に貼ってくれ」
「んもう、彼女使いが荒いなあ」

 口を尖らせている千鈴はしかし、どこか嬉しそうにポスターの片側を持つ。なんだか先月の文化祭の準備でも、こうやって色紙を二人で持った覚えがある。あの時はまだ、友達ですらない、ただのクラスメイトだったな。

「ねえ、有斗」
「ん?」
「文化祭の準備、思い出さない?」
 千鈴は楽しそうに聞く。こういうところの波長が合うのは嬉しい。

「金の折り紙で飾り付けしたヤツな」
「あ、そうそう! 私もそれ思い出したの!」
「千鈴、折り紙クシャってしちゃってな」
「あーれーはー結衣ちゃんの渡し方が悪かったんだよう!」

 セロテープを切りながら、彼女はブンブンと手を振って否定した。
 まだ一ヶ月前のこと。でも、随分前のことに感じられる。今はもう、呼び方も関係性も大きく変わっていた。

「準備完了! 有斗、カメラのセッティングやっていい?」
「うん、千鈴に任せるよ。俺は三脚やる」
 こうしてまた、彼女を映していく。彼女の声がまた一つ、映像になっていく。

 ***

「ふむふむ、このボタンで動画を切るのね。で、要らない部分を削除して、前の動画を繋げる……できた!」
「な? 動画を繋ぐだけなら結構簡単だろ?」

 五反田から少しだけ目黒方面に歩いて行った場所にある、大学生で賑わうチェーン店のカフェ。私服から着替え直した彼女と制服同士で横並びになり、編集の作業を進める。

 いつもと少し違うのは、開いているのが千鈴のノートパソコンだということ。彼女が新しく買った編集ソフトを見ながら隣で教えている。画面の構成は少し異なるものの、基本的な操作はそんなに変わらなかった。

「うん、普通に切り貼りするだけなら私もできる気がする」
「難しいのは繋ぎ方だな。暗転するとか次の映像にフワッと移り変わるとかね。あと、音とかテロップもコツがいるから少しずつ覚えていけばいいよ。色んな動画見てると、『こういうテロップの出し方いいな』とか参考になると思う」
「先生、困ったら教えてくださいね」
「うむ、何でも聞きなさい」

 両指を絡める形で手を組んでお願いする千鈴と、ふんぞり返る俺。数秒顔を見合わせて、どちらからともなくプッと吹き出す。こういう何でもない一コマがいちいち楽しくて、もっともっと作業していたくなる。

「じゃあここから先は俺がやるよ」

 千鈴のパソコンを借りて作業を進めていく。彼女は俺の操作を興味深そうに見ながら、いつも通りBGMやテロップの色などを選んでくれた。一緒に作っていくのももちろんだけど、撮った映像が少しずつ綺麗な「作品」になっていくのが本当に面白くて、動画を作り始めた頃に感じていた楽しさを久しぶりに噛み締めていた。

「よし、アップ完了!」
「有斗、ありがと!」

 投稿を無事に終え、カフェを出て駅に向かって歩く。まもなく十九時、ラグビーボールのような楕円の月が、街の喧騒もどこ吹く風、夜をしっとりと照らす。
 帰ったら二十時か、さすがにお腹減ったな——

「ねえ、有斗。もし時間あるなら、ご飯食べてかない?」
「え、あ、ご飯?」

 親に連絡するか、今日のおかず何て言ってたかな。そんなことを考える前に、口が「行こうぜ」と言っていた。
 千鈴と夜ご飯。後で怒られたとしても、家のことは完全に後回しだった。

「ホント? やったあ!」
 彼女はサプライズでプレゼントをもらった子どもみたいに真っ直ぐに喜ぶ。そして、俺の腕に両手を絡めてきた。

「夜デートだ!」
「……だな」

 どこの店に行くか、色々話し合ったはずなんだけど、舞い上がったのか緊張しすぎたのか、記憶が曖昧。気が付いたらオムライスの専門店に入って、二人でメニューを選んでいた。

「俺はオムハヤシにするかな」
「んん……私は……ホワイトシチューのオムライス……いや、オムハヤシも捨てがたい……ううん、でも……」
 メニューを強く握って唸っている千鈴に声をかける。

「半分こするか?」
 途端にバッと顔を上げて、目を輝かせる。

「いいの? じゃあホワイトシチュー!」
「オッケー。セットでジュースも付けようぜ。何にする?」
「ううん、ジンジャーエールにしようかな。炭酸強めのヤツね!」
「それは店に言ってくれ」

 千鈴と一緒に長い時間を過ごせることがただただ幸せで、彼女の病気のこともしばし忘れて、この瞬間を慈しむ。

「ねえねえ有斗、今週の土曜日なんだけどね」
「ん? 十六日か?」
 オムハヤシのソースをスプーンでかき集めていると、千鈴がポツリと日付を口にした。

「一日空いてるんだよね」
 それなら撮影するか、と聞こうとすると、彼女は顎に手を当てて斜め上を向き、嘆息してみせる。

「あーあ、誰か誘ってくれないかなあ」
 それは、甘えたな演技が光る、彼女らしいアピール。うん、いいさ、俺も乗っかってやるぜ。

「千鈴さ、今週土曜日、空いてるならどっか行かないか? 動画撮影抜きでさ」
 途端に彼女は、いつものようにむふーっと口元を緩め、「んっ!」と頷いた。

「どこ行きたいんだ? 安い席が空いてればお芝居でも見に行くか? 好きなのやってるか分からないけど」
「ううん、そういうんじゃなくていい」

 明るい茶色の前髪をスッと横に払いながら、普通のがいいな、と彼女は続ける。千鈴の視線に合わせて窓の外を見遣ると、大学生らしきカップルが歩いている。女子の方は、有名な雑貨屋のロゴの入った、ポーチ大の小さな袋を嬉しそうに揺らしていた。

「普通に映画見て、ハンバーガー食べて、ウィンドウショッピングしてさ。そういうのやりたい。有斗となら、きっとそれだけで楽しいから」

 彼女の言葉は本当に呪文みたいで。ただの音声なのに、いつも編集している波形のデータなのに、俺の体を熱くさせ、胸の中の鐘を軽やかにリンゴンと鳴らす。

 俺がどれだけ嬉しいか、彼女に伝える(すべ)はあるだろうか。すぐには思いつかないから、代わりにスマホを取り出して、「俺も、きっと楽しいと思うよ」の気持ちを画面で伝える。

「映画、見たいのある?」
「あ、ここ新しい映画館だよね? うーん、『君と星空の下で』ちょっと気になってたんだよなあ」

 髪が触れ合う間合いで小さい画面を覗き込み、見たい作品を探す。それは本当に普通の、高校二年生の青春だった。



 14 幸せな点呼

「悪い、遅れた!」

 地下鉄池袋駅の地下改札を出てすぐに左方向へ。比較的人が少ない円柱状の柱に背中を預けながら音楽を聴いていた千鈴は、パッとイヤホンを外す。

「んーん、私も今来たところ」
 言ってみたかったんだよね、と彼女は歯を見せて笑う。そして、目線を少しだけ上げて小さく叫び声をあげた。

「髪、ちょっと立ててる!」
「たまにはな」
 すました顔で答えたけど、思うようにキマらず、鏡に黒髪を映しながら一五分くらい格闘した結果、電車を一本逃したのは秘密だ。

「まずは映画だね。有斗、案内よろしくね!」
「おうよ、任せろ」
 彼女の数歩先を歩き、地上に上がる階段を昇り始めた。


 出かけると決めてからは木曜・金曜が信じられないスピードで過ぎていき、十月一六日の土曜日はあっという間にやってきた。過ごしやすい気温、雲一つない秋晴れの、絶好のデート日和。

 天候の恩恵に預かっているのは俺達だけじゃない。路線が幾つも交わるこの大きな駅の周りは、親子連れ、カップル、男子グループと、様々な人達でごった返している。大通りは歩行者天国になっていて、家電量販店やファミレスの入口はわいわいと賑わっていた。

「今日は撮影のこと考えなくていいから気が楽!」
「俺もカメラとかパソコンないから身軽だな」
「ホントだ! いいね、そのバッグ」

 カラパラのときとは別の、持ち手が付いたターコイズブルーのバッグ。細身だから物はあまり入らないけど色は気に入っていて、こういう特別な日に使う。

「私のバレッタと一緒の色だね」
「おっ、綺麗だなそれ」

 千鈴がベージュのバッグから出した三角形のバレッタも、同じターコイズ。それを見つつ、俺は彼女の服装をまじまじと見た。

 黒いセーター、グレーにチェック柄のフレアスカート。いつもは被っていない、もこもこの白いファーベレー帽が可愛い。ちゃんとオシャレしてきてくれているのが分かって、それだけで胸がいっぱいになった。

「あ、じゃあこの席でお願いします」
 映画館について真っ直ぐカウンターに行き、二席分のチケットを買う。財布を取り出していると、横から千鈴が「私の分」と千円札を渡してくれた。

「飲み物とかどうする? 炭酸とか買う?」
 俺の提案に、千鈴は「買う!」と親指をピッと立てる。

「あとせっかくだからポップコーンも食べよっかな。有斗も食べる?」
「いいね、食べようぜ」
 列に並んで、モニターを見ながら味とサイズを選ぶ。男友達と来てたら多分買ってない。千鈴とだから、食べたい。

「良い席だね!」
 スクリーンの後方、やや左寄りの真ん中。個人的にはこのくらい後ろの方で見るのが好きだった。「君と星空の下で」は公開されてしばらく経っているからか、かなり空いている。今日の上映も、昼前のこの回とレイトショーだけだった。

「予告編って結構楽しみなんだよね。あれもこれも見たくならない?」
「分かる。行きたいのあったらまた来ようぜ」

 耳打ちするように話していると、館内が暗くなり、予告編が流れる。来年二月公開の作品の次は、来年四月公開の作品の紹介。さすが大ヒット映画の続編、随分前から宣伝を始めている。

 公開される頃には、隣にいる彼女は声を失っているのだろうか。映画館には来れる、一緒に見られるけど、感想をワイワイと話し合うことはできない。ハリボテのポジティブを(まと)っても、想像の及ばない不安がむき出しになって、頭をぐるぐると回る。

「これ、見たいな」

 呟きながら、彼女の手を握った。彼女がいなくなるわけじゃない。冬だって春だって、そばにいる。それが今の自分にとって唯一の救いだった。

「え、何?」
 少しだけ声が聞こえたのか、俺の方に顔を寄せてくる千鈴。

「いや、俺これが――」

 彼女の方を向く。てっきり耳を近づけているのかと思いきや、真っ直ぐにこっちを見ていた。

 目と目が合う。スクリーンの光で、唇が(ほの)かに照らされる。
 前後左右、人がいないことに感謝しながら、暗がりの中で静かに唇を重ねた。

「思ったよりテーマ深かったな」
「うん、すっごく感動した」
「千鈴めちゃくちゃ泣いてたじゃん」

 そうなんだよー、と彼女はハンカチで目尻を押さえる。注射をした後の園児のように、目を真っ赤にしていた。

「私、最近いっつもスマホで映画見てたけど、やっぱり映画館だと違うよね。音もすごいし」
「そうそう、臨場感あるよね」

 お昼のピークを越えている一三時半過ぎ、映画館を出て大通りまで戻る。気温がさらに上がったからか、池袋は映画を観る前より通行人が増えていて、賑わいの中で皆が各々の休日を謳歌していた。

「有斗、ご飯どうする?」
「んっとね、この近くだと候補は……ピザの食べ放題、玄米ヘルシー和食、新しくできたうどん屋とかかな」

 調べてきたお店を伝えると、彼女はふんふんと嬉しげに相槌を打つ。このままだと「どこでもいいよ」という流れになりそうだ。俺はスマホのロックを解除し、とっておきのサイトを見せる。

「あとは……こことか」
「わっ! わっ!」
 そのリアクションで一目瞭然。俺は千鈴にぐいっと腕を引っ張られ、目的地のビルまで案内させられた。


「そろそろ来るかなあ」
「千鈴、それちゃんと残しとけよ? これから口の中大変なことになるから」
「はいはい。有斗、お母さんみたい」

 フライドポテトにマヨネーズとケチャップをたっぷりとつけながら、千鈴は軽く膨れてみせる。

 飲食店が集まるビルの三階。夜はバーになるらしいけど、昼はカフェになっているレストラン。ランチメニューにはパスタやステーキの文字が並ぶ。
 そして、ランチタイム限定の目玉メニューも。

「お待たせしました、ジャンボパフェになります」
「うっわあ、すごい! ヤバい! 大きい! 写真撮りたい!」

 ありったけの誉め言葉を連呼しながら、スマホでパシャパシャと写真を撮る千鈴。

 高さ四十センチ、総重量二キロと紹介されていたジャンボパフェ。下から、コーヒーゼリー、コーンフレーク、チョコソース、フルーツポンチと層状に作られていて、奇を(てら)っていない「パフェの王道」といった作り。大粒いちごにバニラアイス、そしてこれでもかとたっぷり生クリームが盛られた壮観な頂上を眺めるだけでテンションが上がる。

「千鈴、器持って。撮るよ」
「ホント? じゃあお願い!」

 顔の横に器を持ってくる。「冷たい! 早く!」と文句を言いながら、彼女の声はワクワクに満ちていた。その後に「有斗も!」と言われ、俺も持つことに。店員さんに見られるのが、ちょっとだけ恥ずかしい。

「よし、では撮影も終わったところで……バトル開始! いただきます!」
「いただきます! 私生クリームから攻める!」

 取り皿もついてきたけど、崩してお皿に乗せるなんてもったいない。互いにスプーンで上から掬い、ダイレクトに口に運んでいく。クリームに飽きたら、中を掘っていってアイスやフルーツを楽しむ。カラフルなダンジョンを、協力して攻略していった。

「口の中が甘いー!」
「おい千鈴、いちごばっかり食べるな! 酸味は貴重なんだぞ!」
「しばらく有斗はクリーム担当ね、私はコーンフレーク担当」
「なんて甘くないのばっかり担当するんだよ!」
 大騒ぎして、大笑いする。週末のお昼も、千鈴と一緒ならイベントに変わる。

「いいの買えたか?」
「うん、満足!」

 最後の方はお互い「なんでこんな目に……」と愚痴をこぼしながらパフェを攻略した後は、近くのビルに入ってウィンドウショッピング。普段歩くことのない、レディースのフロアを一緒に見て回った。ひそかに憧れていた試着室の「これどう?」もやってみたけど、正直女子のファッションはよく分からなくて、「似合うよ」しか言えなかった。でも、本当に似合ってたんだから仕方ない。

「さてと、次はどうするかな……」

 時間は一五時半。池袋には幾らでも店があるから、お茶してもいいし、雑貨の店や本やを何軒かはしごすることもできる。

「あ、ねえ、せっかくだからあそこ!」
「…………え?」
 千鈴は指差した先にあったのは、チェーンのカラオケ店だった。

「いや、でも、その……」
 普通に歌えるのか、喉に負担かかるんじゃないか、悪化しないのか。色んなことが頭を巡ってしどろもどろになってしまう。

「大丈夫だよ」
 彼女は、俺を諭すような口調になる。強めの風が吹いて、帽子のファーの毛先が細かく揺れた。

「無理はしない。それに……年明けたらどのみち歌えなくなっちゃうから」
「……じゃあ入るか!」
「ん!」

 俺も千鈴も、駆け足で入口に入っていく。
結末の分かり切った、後戻りできない筋書き。それを蒸し返してしんみりしないようにしよう、デートらしく過ごそうという暗黙の了解が、俺達に明るさを取り戻させた。

「じゃあ私からいきます!」
「お、広橋カナデじゃん。キー高っ」
「へっへっへ、歌だと声変わるんだよ~」

 ハイトーンで、それでいて透き通った彼女の声を聞く。次の曲なんか選ばずに、歌っている彼女を目に焼き付け、その声を耳に閉じ込める。

 あと何回見られるかとか、そんな悲観的なものじゃない。ただただ、綺麗だな、好きだな、という無垢な想いで、俺の頭の中に彼女を録画していった。

「よし、次は有斗!」
「じゃあ……これ!」
「あ、いいね、Robot Limitedだ!」

 二番でもう一本のマイクを渡して一緒に歌う。一曲終わるたびに、帰りたくない気持ちが初雪のように積もり、堪らず三十分延長したのだった。


「はー、楽しかった!」
 地下鉄の副都心線に揺られながら、千鈴は吊革を支えに満足そうに伸びをした。一八時を過ぎ、車内は帰る人で混み合っている。「今日は友達と遊ぶので遅くなる」と家に伝えてあるので、彼女を送って帰ることにした。

「千鈴の家の方、結構混むんだな。うちは休日のこの時間なら絶対座れる」
「住宅街だし、路線が一本しかないからねー」

 彼女と俺の家は電車で一時間弱離れているから、簡単に会える距離じゃない。多くの生徒が自転車で通学しているという高校の話を聞くと、今は羨ましくもなる。

「ここで降りまーす」

 彼女に案内され、学芸大学前で下車する。改札を出ると、すぐ目の前にスーパーが出迎えてくれた。

 ここが千鈴が住んでる街か。兄弟はいないと聞いているから、ここで家族3人で暮らし……あれ、ちょっと待って。気軽に「送るよ」なんて言ったけど、両親が生活してるってことだよね? まずい、見つかったらどうしよう……なんて挨拶すればいいんだ? 千鈴とはどういう関係だって説明する? 彼氏って言っていいのか? 友達にする? いや、帰りに送りに来てるのに、さすがに無理があるか……?

「どしたの、有斗? 怖い顔してる」
 覗き込んできた千鈴に、苦笑いで唇を掻きながら答える。

「いや……千鈴のお父さんやお母さんと鉢合わせしたら気まずいなって……」
 一瞬きょとんとした彼女は、ブッと勢いよく吹きだした。

「有斗、心配性だなあ! ないない、この時間なら家にいるよ」
 会いそうなら送りなんて断るし、と言って、俺の左手を掴む。手のひらの体温を確かめ合うように()ったあと、簡単に離れないよう指を絡めた。

「もう冬だねー」

 長く息を吐く千鈴。寒すぎもせず、息も白くならない、まだまだ秋の真ん中、でも、彼女にとっては今年の秋や冬は短すぎるのかもしれない。街灯のない通りで見上げる雲のない空、アンドロメダだけがやけにくっきりと見えた。

「ここのコンビニにいる店員さん、めちゃくちゃせっかちでさ。買ったものすっごい勢いで袋に入れるんだよ。だからサンドイッチとか買うと軽くつぶれてるの!」
「一人でタイムトライアルでもしてるのかな」

 くだらない話が楽しいし、寒くないし、このままずっと一緒に歩いてたいけど、そうもいかない。

「ねえ、有斗。家の前まで来てくれるの?」
「え? あ? うん、そのつもりだけど」

 すると彼女は、近くの人気(ひとけ)のない公園を指差した。

「ありがと。もうすぐ家だからさ。今のうちに挨拶しよ」
「ん」

 ザッザッと砂を蹴って、公園の中に入る。月の柔らかい明かりと街灯に照らさせ、遊具が俺達を見守るように静かに眠っていた。名残惜しくて、包み込むように抱きしめた。

「有斗、今日はありがとね。また行こ?」
「もちろん」

 彼女のおでこに顔を載せる。半径三十センチの、ぬくもりがぶつかる距離の会話。

「千鈴」
「……ふふっ、有斗」

 用もないのに名前を呼んで、意味もないのに呼び返される。それは、世界で一番幸福な点呼。

 そして喋るのもまどろっこしくなって、別に言葉なんて要らなくなって、キスで伝える。

「それじゃ、行こっか」

 そうして公園を出て、手を繋がずに少し歩き始めた、まさにそのタイミングで、一台の自転車が止まった。

「あら、千鈴」
「お、母さん!」
「あ、え、ちょっ」

 動揺した千鈴が素っ頓狂な声を出し、俺は言葉にならない叫びをあげる。自転車から降りた千鈴のお母さんは、カゴにエコバッグを乗せていた。パーマを当てた黒髪を後ろで縛り、厚手のシャツに長めのスカートという格好の彼女は、頬がこけていたものの目元や鼻の形は千鈴によく似ていた。

 あ、危なかった……もう少しタイミングがズレてたら、公園でハグしているのを見られるところだった……。

 いや、そんなことを考えている場合じゃない。ちゃんと挨拶しないと。さっきは「友達で通るか?」なんて思ってたけど、やっぱりきちんと言おう。
「こんばんは。千鈴さんとお付き合いしています、北沢有斗です。よろしくお願いします」

 姿勢を正して一礼すると、お母さんは俺よりも深々と頭を下げたので、少し戸惑ってしまった。。

「千鈴がいつもお世話になってます。本当に……ありがとうございます」
「いえ、そんな、俺は――」
「ちょっとお母さん、大げさ過ぎだって!」

 どう答えようか迷っていた俺の返事を千鈴が遮る。それは、俺にも自分の母親にも気を遣っているようだった。

「北沢君、千鈴のこと、色々遊びに連れて行ってあげてね」
「もう、お母さんってば!」

 二人のやりとりを聞きながら、つい千鈴のお母さんの気持ちになってしまう。
 自分の子どもの声が無くなるというのは、どれだけ辛いのだろう。当たり前にあったものが当たり前でなくなってしまう。自分の父母に置き換えて想像するだけで心に穴が空きそうになるほど寂しいのだ。子どもともなれば、その寂寥感は何倍も大きいのだと思う。

「有斗、じゃあここで。またね」
「おう、またな」

 こうして、初めての動画を撮らないデートは終わった。最後に少しだけしんみりしたけど、千鈴と一緒にいる間はずっと楽しかった。帰り道も、家に帰ってからも、あれこれ思い返して自然と顔が綻んでしまう。

 俺達なら何の問題もない。この先に千鈴のちょっとした困難があっても関係なく、乗り越えていける。

 そう、思っていた。
 15 ただの炭酸で

『あと一駅で渋谷着くぞ』
『分かった、改札出たところで待ってるね』

 線路のカーブに揺られながら、千鈴とスタンプを送り合って遊ぶ。他の人に関係がバレないように、時間をズラしてレンタル会議室のある目的地へ向かっていた。

「よし、行くか」

 スマホをポケットにしまいながら小さく呟いたタイミングで、ちょうど電車がホームに到着する。俺はカメラや三脚のせいでいつもより重さ三割増しのリュックをグッと背負い直し、開いたドアから駆け出して改札に向かった。

「結構久々に来たね、こっちの方」
「始め二回の撮影はここだったもんな」

 渋谷のバスケットボール通りや道玄坂の反対側、オフィスの多い宮益坂へ。しっかりと覚えていたので、大きな通りを一本外れたレンタルスペースまで迷わずに行けた。部屋に入ってすぐ、「私も慣れてきた!」と自信満々で三脚を組み立てる千鈴と一緒に、手早く撮影の準備を進めていく。

 あっという間に十一月に入った一週目、街の木々は徐々に紅葉の準備を始めている。一方で気温もぐんぐん下がっていき、道行く人も気がつけば秋を通り越して冬の装いを始めていた。

 先月投稿した、テレビやタブレットでの観劇に合うお菓子を探すという企画は、再生数が三百を超えてこれまでの動画の中でも一番好評だったし、千鈴もかなり楽しかったらしいので、「合う飲み物を探そう」というテーマで続編を作ることにした。千鈴とは先月下旬にも本屋デートに行き、二人の仲も深まった気がするし、本当に色々なことが順調に進んでいる。

「よし、有斗、入ってきていいよ!」

 着替えを終えたらしい千鈴に呼ばれ、キッチンからリビングへ入った。アイボリーのスウェットに、それより薄いベージュのグレンチェックのパンツ。家での観劇をテーマにしてるからか、かなり部屋着感が強い服装で、彼女自身も随分リラックスしていた。

「あとは後ろを飾って、と」
「あ、壁紙ね」

 以前も使った花柄の小さい壁紙を、画角に入る壁の部分に貼っていく。ちょっとした工夫でも映像は変わるもので、ファインダーの中に映る部屋は随分オシャレになっていた。

 飲み物を飲むときはテーブルを使うけど、挨拶は全身を映した方がいいので椅子に座った真正面からカメラを向ける。

「じゃあ有斗、よろしくね。可愛く撮ってね」
「それはカメラに頼んでくれ」

 軽口を叩きながら、「五秒前! 四、三……」とカウントを入れる、右手の指を全部折りたたむと、彼女はタブレットを片手に、いつもの明るいトーンで話し始めた。

「はい皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 前回の、『家でお芝居を見るときにはどんなお菓子が良いのかな?』が好評だったので、今回は飲み物編をやってみたいと思います。まあお菓子と違って音が出るとか手が汚れるとかはないんですけど、ペットボトルとか紙パックとか瓶とか、形の違うもの用意してるんで、意外と差ができるかな、なんて思ってます」

 言いながら、彼女は椅子の下に置いていたペットボトルの炭酸と紙パックの紅茶を胸の前に当てて見せた。

「まずは今日タブレットで観るお芝居の紹介ですね。今回は演劇集団タロットの『キック・ミー』です。私を蹴って、って意味なんですけど、自分ではうまく言いたいことが言えないヒロインが、突然現れた生き別れの兄を名乗る男性に煽られて、どんどん本当の自分を出していくって作品で……」

 オープニングトークから流れるように本編へ進む。今日は勢いもあるので、何も区切らずにそのまま撮影を続けた。これだけ喋れれば、多少トチってもネタにしてそのまま使える。いつも喋ることをノートに書いて練習している成果なのだろう。

「では、飲み物を試す前に、この劇の一番好きな台詞をやってみたいと思います。生き別れの兄が言う台詞なんですけど、これは途中の間がすっごく難しいので何回か練習しました」

 そして椅子から立ち上がり、体全体を斜めにした。実際のシーンと同じ立ち位置なんだろう。

『自分の期待値なんて下げた方がいいって思っただろ? でも、それがずっと続くとダメなんだよ。最大値が下がっちまうんだ』
 その最後の『だ』を言い終わるか終わらないかのときだった。

「ぐふっ、ぐふっ!」

 千鈴が(むせ)る。カメラに「ちょっとタイム」とばかりにパーにした手を見せ、咳を繰り返した。

「大丈夫か、千鈴」
「うん、平気。ちょっとね」

 ハンカチで口を押さえながら彼女は苦笑いする。残念だけど今のは使えない。もう一度撮り直しだ。

「さっきはごめんね、有斗」
「いや、問題ないよ。じゃあジュース飲んでいくぞ」

 台詞を撮り終え、いよいよタブレットでお芝居を見ながら飲み物を飲み比べてみる。机の前に場所を移動して、カバーをパタパタと折って斜めに立てかけたタブレットと数種類のジュースを並べた状態で、彼女は目を見開いて話を始めた。

「それでは早速、ペットボトルの炭酸『ストロングソーダ・梅』から試してみたいと思います!」

 プシュッとペットボトルのフタを開け、どこか怖がるように、彼女はペットボトルをゆっくりと傾けていく。
 しかし。

「……んふっ、ぐふっ!」

 彼女はまた激しく咽る。こっちを見ないまま、手のひらでストップを伝えてくる。

「いやいや、そんなにNGシーン作らなくても――」

 冗談を言いかけ、そこで言葉を止める。一つの疑問が、頭を(かす)めた。

 おかしい。これまで撮影しているときにこんなに咽たことはなかった。炭酸が強くて咽た? あんなにゆっくり飲んでたのに? そもそもなんであんなにおそるおそる飲んでたんだ? そして、仮に炭酸で咽たのだとしても、さっきのお芝居の再現のときに咽たのは説明がつかない。別に理由があるはずだ。

 炭酸のせいではないとしたら。風邪? 体調が悪い? いや、ひょっとしたら体調じゃなくて……

 曖昧だったネガティブな仮説が、次第に輪郭を帯びていく。

「喉、悪くなってるのか」

 俺の問いに、彼女は微かに笑って、小さく首を縦に振る。その表情には、辛さを吐き出すSOSではなく、「やっぱり隠せないよね」という諦めのような想いが込められていた。


「なんか、喉が痛くてさ」

 撮影を一旦中断して、余っている椅子を持ってきて机で千鈴と向かい合う。気楽なトーンで話す彼女の「痛い」はしかし、軽いものではなさそうだった。

「台詞言ってたときもちょっと違和感あって咽ちゃったんだけどさ。なんか、普段から喉の奥がウッてなることが増えてて。今飲んだ炭酸も結構刺激が強くて痛くなってゲホゲホしちゃった。我慢しようと思ったんだけど」
「別に我慢するところじゃないって」

 ツッコミのように返事したものの、内心とてもザワザワしていた。炭酸が痛いと感じたことなんか、俺は今まで一度もない。彼女がどれだけ悪化しているのか、この症状は治るのか、想像がつかずに不安だけが風船のように膨らんでいく。

「とりあえずアレを……」

 気分を落ち着かせるようにハッと短く息を吐いた彼女は、机に置いていたバッグからアクア色のケースを取り出した。大きさも形状もメジャーのようなそのケースのフタをパカリと開けると、開けた部分に口を付け、息を吸い込む。種類は違うけど、中学の時に気管支が弱いクラスメイトが使っていたのと同じ、吸入するタイプの粉末薬だった。

 その姿を見て、ぞわりと鳥肌が立つ。心の一部がぐにゃりと凹んだ気になる。「千鈴の具合が悪いこと」を真正面から理解してしまったから。

 千鈴はあまりにも日々変わらず元気で、九月末から見た目には何の変化もなくて。だからこそ、こうして彼女が病んでいる姿を見ると、大きすぎるギャップに脆くも動揺してしまう。

「なあ、大丈夫か? 今日は撮影やめても――」
「やめないよ」

 全部言い終わる前に、彼女はこっちを向き、俺の提案を打ち消す。その黒々とした瞳は、強い覚悟を宿していた。

「痛みには波があるから、もう少ししたら治まると思う。そしたら有斗、もう一回撮ってよ」
「別にそこまでしないでもいいんだぞ? また時間なら作るからさ」
「それじゃイヤなの」
 そう言って、千鈴は撫でるように右手で自分の頭を押さえた。

「ワガママだって分かってるんだけどね。もともと時間作れる日が週に二日あったとしてさ、あと何本撮れるんだろうって考えるようになったんだ。一回パスしたら、それだけ撮れる本数が減っちゃうんだよね。だから、今できるなら、今やりたいなって。ほら、さっきも台詞で言ったじゃない? 『これくらいしかできないだろう』って自分の期待値を下げちゃうと、きっと最大値も下がっちゃうから」

 YourTubeの企画やトークについてまとめているノートを机に出して開き、ゆっくりページを捲る。やや俺も見えるような位置に置かれていたのに気づいたのか、不意に彼女は「恥ずかしいから見ないで」と、そのノートを持ち上げて胸元に引き寄せた。

「強いんだな、ホントに」
「私が?」

 全く予想外のことを言われたのか、驚いたように眉を上げている。

「クラスでもいっつも明るいしさ。みんな千鈴が病気なんて絶対に気付いてないと思う。こんなに大変なのに、落ち込んだりしないで振る舞えるのはすごいよ。それに動画のことだって、こうやって『残したい』って決意してちゃんと続けられるの、千鈴は強い人なんだなって思う」
「……そんなことないよ」

 千鈴はぽつりとそう呟いた後、俺の言葉と自分の返事を咀嚼するように、小さく何度も頷く。

 俺はさっきのノートにちらと見えた彼女の殴り書きを思い出していた。話す内容らしきものをまとめた横に、罫線を無視して斜めに「喉が苦しい」と書かれていた。あの文字を見たとき、どうしようもなく胸がギュッと締め付けられたのだ。

 あんな風にノートに書いてまで動画を頑張っている彼女が、なぜ自分が強くないと思うのか。話を聞きたかったけど、それ以上踏み込まれたくなさそうな表情をしていたので押し黙った。いつか理由を教えてもらいたい。もっと彼女のことを知りたい、そしてできるなら彼女の力になりたいという想いが心の中でぐるぐると渦を巻く。一ヶ月半前はただ動画を手伝ってあげるだけのつもりだったのに、気付けば彼女のことがとても愛おしくなっていた。

「どうしてもって言うなら動画撮影も編集もやるけどさ。でも、もともと千鈴が言ってた『声を残したい』って意味ではもう結構投稿したし、喉に大きな負担かけるようなことはさせられないから。絶対無理はするなよ」
「ん、分かってる。ありがと」

 座ったまま頭を下げて、彼女はポケットに入れていたのど飴を舐め始めた。時折「あ、あ」と小さく声を出して、喉の状態を見ている。

 それを見て俺は、彼女が、季南千鈴が、近いうちに本当に声を失ってしまうのだと、否応なく理解させられた。



 16 世界中に

「ふう……」

 十一月五日、金曜日の十二時過ぎ。一階の中庭にあるベンチに座って、花のない雑草の景色だけを視界に入れながら嘆息する。昼休みは始まったばかりで、生徒はほとんどいない。まだ教室でお昼を食べているのだろう。千鈴も、女子の友達と一緒に食べていたな。

 この前、薬を吸入していた千鈴のことを思い出す。想像が悪い方にばかり転んでしまい、リラックスするためにご飯の前にここにやってきた。

「よっ、アルト」
「慶、どした?」
「ん、渡り廊下で下眺めてたら見えたからさ」
 声をかけてきた吉住慶が、隣のベンチに腰掛けて、グッと伸びをした。

「そうだ、中三のときに同クラだった淳史(あつし)さ、来年の春に関西の方に引っ越すらしいぞ」
「マジか。送別会しないとな」
「誰かに幹事お願いしよう」

 俺がぽつんとここにいることを心配して来てくれたに違いない。様子を窺うように、雑談を投げかける。

「季南さんの動画投稿、順調?」
「ん、まあな」
「そっか、良かった」

 今この話題を深掘りする気にはなれなくて、適当にはぐらかして、「あ、そういえば聞いたぞ」と続ける。

「慶も山辺さんと放課後一緒にいたらしいじゃん」
「山辺さん、知ってるのか」

 一年のときに同じクラスだったと教えると、慶は細く溜息をついた。

「ちょっとファミレスで相談乗っただけだよ。山辺君さんのところ、お父さん病気で入院してて大変みたいでさ。ほら、うちも父親入院したことあったから、それでな」
「病気……」

 あまりにもピッタリすぎるタイミングで出てきた単語を、思わず繰り返してしまった。俺の反応に、慶は目を見開いて顔を覗き込む。俺が病気だと勘違いされたのではないか、と瞬間的にパニックになってしまい、慌てて手を大げさに振り、「いや、俺じゃなくて!」と結果的に墓穴を掘ってしまう。

「アルト、俺じゃないってどういうことだ……?」
「いや、その……友達から聞いた話で!」

 これ以上、この話を誤魔化し切るのは難しいので、友達の話で押し通す。かなり頭のキレるヤツだけど、どうかバレませんように。

「友達の大事な人が病気でさ。命に関わるものじゃないんだけど、本人が不安がってて……友達がさ、『相手にどうやって接したらいいかな』って困ってるんだよね……」
 かなり無理のある話、信じてもらえないかもしれない。

 緊張で心音が大きくなる。唾を飲む音が喉の奥から聞こえる。

「……なるほどね」
 そこまで聞いた慶は、シルバーのメガネを両手で外して、空に書いた自分の考えを読むかのように上を見上げる。

「オレだったらどうするかなあ。相手と一緒に暗くなっても多分良いことないし、かと言ってひたすら励まし続けるのも、相手がしんどくなっちゃうかもしれないしな。だから……そばにいるかな」
「そばにいる? それだけ?」

 あまりにも単純な答えに訊き返すと、彼は「そう」と頷きながら短い前髪をサッと撫でた。

「前にいて導いたり引っ張ったりするんじゃないよ? マラソンとか駅伝の監督に近いのかな。走ってる人の横にいて、『その調子だ』って褒めたり、ペース落ちてきたら『頑張れ』って励ましたり。そうやって、並走してあげるのがいいんじゃないかなって思う」
「なるほどな」

 前で案内するわけでもなく、後ろからひっそり支えるわけでもなく、横にいてあげる。確かに、それが千鈴との理想の関係かもしれない。

「ありがとな。うん、俺もそれが良い気がする。友達に伝えとくよ。よし、お昼食べてくるかな」
「解決しながら良かった。オレも教室戻るよ」
 立ち上がった俺に、彼は「そうだ、アルト」と声をかけた。

「ん? どした」
「その友達に伝えてくれよ。困ったらまたここで話聞くよ、って」

 思わず顔が強張り、その後苦笑いしてしまう。やっぱり、慶のことは騙せない。でも、それでもこうしてちゃんと話に乗ってくれたことが、本当に嬉しかった。

「おう、伝えておくよ。多分、喜ぶと思う」
「それなら何より」

 俺に背を向けて手をヒラヒラさせながら、慶は中庭から渡り廊下に行き、教室のある南校舎に向かって歩いていった。

 ***

「んっと、ああいうのは何のコーナーにあるんだ」

 本棚をゆっくりと巡りながら独り言。司書さんがいるカウンターには木製の立方体を組み合わせるタイプのカレンダーで、「十一月六日土曜 返却 十一月二十日」と表示されている。

 いつも借りたい本は高校の図書室で借りるし、ちょっと雑談が聞こえた方が(はかど)るタイプらしく勉強も家やファミレスでやるので、図書館に来ることはあまりない。今日は本を、彼女の病気に関係する本を探しに来ていた。

 慶からアドバイスを貰ったように千鈴と並んでそばにいるためには、病気を不安がるだけじゃなくて、俺自身もきちんと向き合う必要がある。

 千鈴から聞いた話をもとにネットで調べてみたけど、同じような症状の病気はやっぱり咽頭がんしか出てこなかった。彼女の言う通り、本当に珍しい難病なんだろう。であれば、治療法は調べられないし、病院と医者に任せるしかない。「これを食べれば治る」なんていう民間療法のサイトも幾つか見つけたけど、なんだか胡散臭くて勧められなかった。

 とすれば、俺にできるのは、彼女が声を失くした後の話だ。喋れなくなった人がどんな風にコミュニケーションを取るのか。そこが分かれば、彼女も少し安心するかもしれない。おそらく介護・福祉の書棚に行けば、探しているものに近い書籍があるんじゃないだろうか。

「……あった!」

 障がい、というカテゴリーの棚を見つける。千鈴が障がいなんて、と考えると複雑な気分になった。

 まずは手話の本。なるほど、耳の聞こえない人のためのもの、というイメージが強かったけど、確かに話せない人にとっても手で喋れるのは便利かもしれない。

 次に見つけたのは、筆談。書き方のポイントや冗長にならないための言葉の置き換え、筆談するのに便利な文房具やアプリ。スムーズに会話するためには、幾つかコツがあるみたいだ。

「他には……ん?」

 指を水平に動かしてタイトルを確認しながら棚を上から順に見ていくと、「この一冊で丸わかり! 食道発声法」という本が目に留まった。ザッと見ただけだと仕組みはよく分からないけど、要は体の器官である食道の一部を利用して話せるようになる、ということらしい。

 うん、いいな。これだけあれば、千鈴も喜んでくれるだろうか。たとえ声を失くしても、クラスメイトとも家族とも、もちろん俺とも、ちゃんとコミュニケーションが取れる。その希望があれば、彼女も今よりもっと前を向けるかもしれない。

 俺は意気揚々と本を両手で抱え、自動貸し出し機に向かって足早に歩いて行った。

 ***

「さて、千鈴!」

 自信に満ちた声で彼女の名前を呼んだのは、土曜に本を借りてから四日経った、十日水曜だった。前回と同じように、たまに咳込んで休憩を取りながら、演劇ガールの九本目の撮影を終えた直後。もっと短い時間で終わることは分かっていたけど、敢えて二時間予約したレンタルスペースで、彼女は何の用か分からず、ポカンとしてこっちを見ている。

 十一月ももう中旬に差し掛かろうとしている。SNSからはハロウィーンの話題がすっかり消え、クリスマスのネタも出始めた中で、いつの間にか彼女と動画を作り始めてから一ヶ月半が経っていた。

「どしたの、有斗?」

 返事の代わりに、俺はリングファイルを出した。中を開くと、色鮮やかなルーズリーフが出迎える。時間に余裕をもって少し長めに予約しておいて良かった。ゆっくり説明できる。

「千鈴の話聞いてさ。ちょっと考えたんだよね。声が出なくなった後にどうするかって。一応俺なりに、手話とか筆談とか調べてみたんだ。あと食道発声法も!」

 千鈴に話す暇も与えず、ページを捲る。カラーコピーした本の一ページ、普段の授業より真剣にまとめたノート、ポイントが分かるように貼ったシール。日月火と時間を使ってまとめた、俺の力作だった。

「な、どれか一種類じゃなくてもさ、こういうのを幾つか組合わせていけば、みんなともコミュニケーション取れるんじゃないかな。筆談って簡単だと思ってたけど、結構コツがあるんだな。俺初めて知ったよ」
「……ありがと」

 彼女は一言、ポツリとお礼を呟く。その言い方はしかし、心からの感謝ではなく、無碍(むげ)に否定することをためらうような、気遣いのトーンだった。

「でも、うん、この辺りは、間に合ってるかな」
「……ま、そうだよな。お医者さんとかにも言われてると思うし」
 彼女の反応に、少しだけドライに返した。

 自分で自分を俯瞰で見て、「嫌な返事してるな」と思う。こうなる可能性もあると分かっていたけど、日曜から頑張って作ったものが受け入れてもらえないのは、やっぱり苛立ちが募る。

 真顔でそんなことを考えていた俺に、彼女はゆっくりと頭を下げる。

「それもそうなんだけど……ごめんね、有斗。多分、ちょっと違ってて」
「違うって?」

 ぶっきらぼうに聞いてしまう。すぐには穏やかな口調に戻せなくて、自分で自分が嫌になる。

「手術の後も、やりとりは出来るよ、きっと。それこそ筆談で、ノートに字書いたっていいんだし。でもね、そうじゃないの。声がなくなるのが怖いの」

 その言葉に、俺は思考が固まる。俺が言っていたことと同じじゃないか、と思って数秒後、とんでもない思い違いをしていることに気付いて「あ……」と弱々しい声を出した。

「声がなくなるのが怖いの、すごく怖いの。出なくなるのが、声が出せなくなるのが、怖いの」

 寒さを我慢するかのように両腕で自分を包み、千鈴は口を開いた。怖い怖いと同じ単語を繰り返すその姿は、さながら動画編集で一つのシーンを切り取って、繰り返し再生したかのよう。冷静でないことは、俺にもすぐ分かった。

「もう自分の声が出せない。今こうやって話してる声が消えちゃうの。誰にも届かない、自分の耳でも聴けない。食道発声も調べたよ。でも、『こういう方法で音が出る』ってだけだった。今の私の声じゃない。だから、どうやったってもう、どうにもならないんだなって」
「ごめん! ごめんな、千鈴!」

 座っていた椅子を倒すように勢いよく立ち上がり、誠心誠意頭を下げる。わざとらしくなければ、土下座したっていいと思ったくらいだった。

 俺はバカだ。手話だの筆談だの、勝手に解決法を見つけた気になって、「これで喜んでくれるに違いない」なんて期待を押し付けて、悦に浸ってノートをまとめて。

 医者じゃないから、なんて考えて自分にできることを探した結果、千鈴の感じている不安と悲しみを見誤った。こんなこと、彼女の立場になって想像してみたらすぐに分かったはずなのに。

 コミュニケーションなんか幾らでも取れる。友人なら、指差すだけで伝わることだってある。大事なのはそんなことじゃない。

 日々話している、誰かに伝えようとしている、ふと歌っている、大好きなお芝居をしている、その声を失うことが何より怖いのに、俺はそれを埋める方法ばかり考えていた。


「ねえ、有斗。ちょっと前に私のこと、強いって言ってくれたよね?」
「ん、ああ」
「あれさ、ちょっと嬉しかったんだよね。そう見えてるなら、私が周りにはちゃんと気を遣えてるってことかのかなって。本当は、私はそんなに強くないから」

 椅子に座り直した俺に、彼女は微笑みかける。でもそれは、今まで見た中で一番悲しい笑顔だった。

「いっつもね、怯えてるんだよ。喋れなくなる夢もよく見る。体は弱ってないし、頭はまともに働いてるから、手術の日に向かってカウントダウンを進めてるみたいに生きてる。全然強くないんだ」
「そっか……」

 相槌を打つことしかないできない。それでも、彼女の吐き出す濁った想いを、受け止めたい。

「余命僅かな高校生の小説とか幾つか読んだけどさ、みんなすごいね、病気のことなんか表に出さないで、気丈に振る舞ってて。私はああはなれないんだ」

 饒舌に、彼女は話し続けた。演劇ガールで大好きな台詞を話しているときより流暢で、でもあれよりずっとずっと暗い、端々に鉛の球が付いているかのような言葉。

「前にさ、私のノート見たときあったでしょ? あの時に、私が殴り書きしてたの見えた?」
「ああ。喉が苦しい、って書いてあった」
 彼女は頷いて、僅かばかり咳込んだ。

「あれね、わざと見せたんだ。有斗に知っててほしくてさ。みんなに秘密にしてるから、世界中で親の他に一人くらい、私がこんなにしんどい思いしてるって分かってほしくて。だからわざと見えるように開いたの」

 そうだったのか。だからあのとき、ノートを少し俺寄りに置いてたのか。

「……幻滅した? 季南千鈴はこんなヤツだよ」
「…………しないよ」

 絞り出すように、胸の中で泳いでいた小さな本音を返す。彼女の話を聞いて少しだけ嬉しくなったと、と言ったら彼女は怒るだろうか。ちゃんと怖がっている普通の女子だったと分かったこと、そしてその弱さを俺にだけ見せてくれたことで、心がじんわりと熱を持つ。そして、彼女の心の中が覗けたからこそ、途方もない切なさが溢れていく。

「他の人ならいいのに、って思っちゃうんだよ、私。なんで私なんだろうって。もっといるじゃん、そのくらいの罰が当たっても仕方がない人。私はそこまでひどいこと、してないはずなのになあ」

 こっちに一瞥もくれないまま愚痴のような呟きを吐き捨て、千鈴は大きく溜息をつく。

 ほら、こういう時は彼氏の出番だ。漫画でもドラマでもよく見るだろ? こうやって落ち込んでいる、ヤケになっている彼女に、救いの言葉をかけてあげるんだ。彼女が元気を取り戻せるような、奮起しそうな言葉を。

 違うって、そうじゃないんだよ、違うんだよ。彼氏なんだからちゃんとしろよ。

「ごめんね有斗。なんか、有斗の前では良い子やらなくてもいいなあって思――」

 久しぶりにこっちに視線を向けた千鈴の顔が、みるみるうちに固まっていく。
ほら見ろ、お前のせいだぞ。
 お前が泣いたりしてるから。

「俺も、一緒だから……俺も、他の人ならいいのにって、思ってるから。だから……千鈴だけがイヤなヤツなんじゃないよ」

 ポケットを漁るけどハンカチなんか入ってなくて、ブレザーの袖で目元を拭う。随分とカッコ悪い、だけどそんな理由では涙は止まってくれそうにない。

「ごめんね、有斗。私が変な言い方したから、悲しい想いさせちゃって」
「そんなんじゃなくて!」
 思わず叫んだ。今の俺に、ぐしゃぐしゃな心を隠す余裕はない。

「誤解しててごめんな、って。あと、強いなんて褒めてごめんな。千鈴、別に強くなくていい、今の千鈴のままでいいよ」

 千鈴は黙って首を横に振る。そんな曇った表情、させたくなかったのに。

「反省ばっかりだよ。今までも、もっとちゃんと話聞いてあげれば良かった。あとは……もう少し早く付き合ってれば、これまでにもっとたくさん話聞けたのになって」

 ネットを調べたとき、同じような悩みが書かれた質問箱のページの回答欄に、大人が「みんな多かれ少なかれそういうことはあるから。辛いのは君だけじゃないよ」と答えていた。違うんだよ、他人と比較して辛さの大小なんか決めなくていいんだよ。本人が本当に辛いと思うなら、「本当に辛い」でいいんだよ。

 そして今、千鈴は、本当に辛いのだと思う。

 本当に。なんで、なんで、千鈴はこんなに明るくて元気でずっとお芝居やりたいなんて夢もあるのに、なんでこんなことになるんだよ。ねえ神様、千鈴が何したって言うんだよ。ふざけるなよ。
 脳内で振り上げた拳は、俺自身に向けられている。


『もっといるじゃん。そのくらいの罰が当たっても仕方がない人』

 千鈴の言う通りだ。いっぱいいる。そして俺も、その一人だと気付かされる。

 何人もの他人を不用意に傷つけた。相手が悪いことをしていたのは事実だけど、薪をくべて、煽って、炎上で裁いた気になっていた。やったことの罪を重さに対して、大きすぎる代償を被った人もいるだろう。匿名の人間を私刑(リンチ)した俺達もまた、誰からも見つからない匿名だったのに。

 声がなくなっていいのは俺達みたいなヤツなんだ。千鈴じゃない。
まだ何の覚悟もできてないのに、色んな人への謝罪の気持ちが募って、「代われるものなら代わりたい」なんて言葉ばかりが頭の中を乱雑に巡った。

「……ありがとね。有斗がそうやって思ってくれるの、嬉しいな」
 千鈴は、俺の言葉を噛み締めるようにコクコクと頷く。

「強くなくていいよね……そうだよね……わがまま言ってもいいんだよね……」
 俺と彼女の視線が交わる。まっすぐ俺を見ていた彼女の目が、瞬きする度に赤くなっていく。

「もう一つわがまま言っていいなら……お芝居もっとやりたかったなあ。この声でたくさん台詞言いたかったなあ」

 やがてその目に水が溜まり、次の瞬きでポロリと水滴になって頬を伝った。

 座ったままの彼女に近づき、グッと抱きしめる。千鈴が痛くても構わないつもりで、きつく腕を寄せる。

「悔しい! 私悔しいよ! もっとやりたかったのに!」

 何もかけてあげられる言葉がない。「一緒に頑張ろう」なんて綺麗な台詞はいくつも浮かんだけど、今十分に頑張って生きている彼女には意味のないことだった。
 だから、俺ができることは一つだけ。慶からも教えてもらったことだけ。

「千鈴、そばにいるよ。演劇ガールの動画、たくさん撮ろう。」
「うん……うん!」
 背中に手を回してくれた彼女と、一緒に泣いた。

 一秒でも長く、君の声を残す。

 世界に届いてほしい。「季南千鈴はこんなに素敵な声をしていたんだよ」と、YourTubeの片隅から、世界中に響いてほしかった。
 17 不調の中で

「千鈴、準備できたぞ」
「ん……ありがと」

 恵比寿のレンタルスペースで撮影用の椅子とカメラを準備して、彼女に声をかける。

 以前使った部屋には白い壁紙に花の写真のポスターが飾ってあったけど、ここはモノクロの空の写真が飾られていた。

 千鈴は、撮影のために端に寄せた椅子に座り、クッションのある背もたれに寄りかかって、いつものアクア色のケースから粉薬をゆっくりと吸っている。机の上には、大量ののど飴のゴミがまとまっていた。

「大丈夫か?」
「うん。聞き取りづらくなったらちゃんと有斗の判断で止めてね」
 喉に優しい常温のお茶のペットボトルを持って、撮影位置につく。

 十一月一八日、木曜の放課後。いつも通りの撮影。ただ、九月末に初めて撮った時とは、千鈴の状況はだいぶ変わっている。それも、悪い方に。

 調子が悪いと、彼女は時折ガラガラ声になるようになった。ちょっと風邪かな、というくらいの感じだし、学校では意図的に話すのを減らしているらしく、クラスメイトには気付かれていない。

 ただ、これまで通りカメラを回しっぱなしで撮影していると、興奮したときや長時間話した時に声がおかしくなってしまうことがある。お互いに分かっている変化なので、千鈴からも「あんまり無理しないように気をつけるよ」と言われ、彼女自身も頻繁に喉のケアをしながら臨んでいた。

「それじゃいくぞ」
「ねえ」

 三脚を左手で支えながら録画ボタンを押そうとすると、彼女が遮った。そして写真でも撮るかのように、首と手を動かして何ポーズか取り、キメ顔を見せる。

「どう?」
「……可愛いよ」

 それを聞いてむふーっと満足気に笑う。白のトレーナーに深緑のロングプリーツスカート。ゆったりした服装に似合うリラックスした表情を浮かべ「やろう!」と頷いた。

「五秒前! 四、三……」

 指を折りつつ心の中で一までカウントしてから、手でキューのサインを出す。その瞬間、彼女の表情は照明の光を吸いこんだかのようにパッと明るくなった。

「皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 最近チャンネル登録が五十人になって、すっごく嬉しいです。これからもたくさん、演劇について語っていきますからね!」

 動画を見ている人からしたら何も変わらない、いつもの挨拶。でも撮っている俺はつい、「終わり」を意識してしまう。「これからもたくさん」なんて、来年はどうなるんだろう。声が出なくなったら、このチャンネルも終了になるんだろうか。

 意識が未来に引っ張られ、今が疎かになっていく。無意識に三脚の持ち手に力を入れて下方向に傾きかけたカメラを、慌てて直した。

「今回は、この前母親と観に行ったお芝居について話そうと思います。パンフレットも買ってきたので……じゃん! これですね、井川十春(とはる)さん、花桐信二さん主演の『ようこそ病院城へ』 最近は劇団のお芝居見ることが多かったんですけど、久しぶりに大御所俳優さんの舞台を観ました。今回はこの作品の魅力をたっぷり語っていきたいと思います!」
 思います、のところで、千鈴はカメラに向かって指を差した。

「オッケー、ここでストップ」

 これまでならそのまま語るシーンまで撮影を続けていたけど、結構長く話したので、合図をしてカメラを止める。声も違和感はなかったし、トーク部分はそのまま使えそうだ。

「ちょっと休んで次のシーン撮ろう」
「うん、ありがと。あーあ、休み休み撮るのやだなあ。大好きな作品だったから一気に話したいのに」
「まあガマンしようよ。しんどい思いしながら話しでも楽しくないだろうし」
「分かってるけどさあ。ホントは今日、お気に入りの台詞も言いたかったんだけど、演技がツギハギになるのイヤだから諦めたし」

 口を尖らせる彼女は、のど飴を舐めながらマスクをして、木目の綺麗なダイニングテーブルに突っ伏すようにして休んだ。深呼吸の音が机に当たって大きく聞こえる。

 一月の手術まであと二ヶ月。確実に、彼女は病に蝕(むしば)まれていた。

 二分ほど待ってから、俺はカメラに右手を添えながら左手をパッと挙げた。

「それじゃ撮ります! 五秒前……」
「まずは『ようこそ病院城へ』のストーリーですね。井川さん演じる若い研修医が病院に入ってくるところから物語が始まります。花桐さんはその研修医を預かる外科医のリーダー役を演じてます。基本的には、研修医がひたむきに経験を積むシーンとか、医師を志したきっかけの回想を交えながら、一人前の医師を目指していくんです。正直言うと、ちょっとピュアすぎる印象はありました。医療現場のリアルな姿、というよりは主人公にだけ寄り添った成長物語に近い印象で、序盤は没入しきれなかった部分もあります」

 やや辛口な評価だけど、コメントが細かいし、これまで十本の動画をアップしている彼女なので、信頼感はあるだろう。脳内で編集画面を開くと「ちょっと言い過ぎでは……(笑)」というテロップが浮かんだ。

「結構社会派なテーマも書く脚本家の方だったので、よくドラマでもあるような、病院内の政治とか腐敗みたいな話が、研修医の視点で描かれるのかと思ったんですけど全然違いましたね。でも、でもですよ! その分、人間ドラマとしての内容が素晴らしかったんです!」

 彼女がそうテンション高く叫んだとき、声の違和感に気付いた。多分彼女も感じたであろうその変化。何か喉に貼りついたものを無理やり出すかの如く、しゃがれている。

「患者に対する治療方針をめぐって先輩医師と口論になったり……んん……『もっと患者のために動きましょうよ!』って叫んだり……んふっ……そのドラマ的な部分が良かったです」

 声を整えようと何度か小さく咳払いをしたが、もはやそれで治る様子もなく、声がどんどんガラガラになっていく。彼女がギブアップする前に、俺は「カット」と口にした。

「うー、残念。ノッてたのになあ」

 パチンと指を鳴らして惜しがる千鈴。でもすべり台のように斜めにさがった眉を見れば、若干無理して明るく振る舞っていることはよく分かる。

「どうする? 今の部分から撮り直す?」
「ううん、どうせ直すなら脚本家の話の部分から撮ろうかな。あそこからちょっと喉危なかったしね」

 彼女は「ちょっと休憩するね」と言って、撮影で使わない椅子に座り、粉の薬を吸い始めた。


 こうして薬を使っている彼女を見るのはとても切ない。その頻度が少しずつ増えていくのを目の当たりにし、どうしようもないと知りつつ、なにかできることはないのか、このまま声が出なくなっていくのを見ているだけなのか、と思いを巡らせてしまう。そんなこと、千鈴本人が一番考えているはずなのに。

 いずれクラスでも事情を話すことになるのだろうか。みんなが興味や好奇心の混じった目で見るかも、と想像するだけで、自分勝手な怒りが湧いてくる。

 動画の中で病気のことを話してみたらどうか、とこの前千鈴に聞いた。もし言えば、彼女がちょっとくらい声が(かす)れても、誰も気にしなくなる。むしろ応援してくれる人がいるかもしれない。そんな思いで何の気なしに聞いたけど、彼女は「絶対言わないよ!」と即答だった。

「大した本数あげてないけどさ、これまで見てくれてた人もいるわけじゃん。だから、その人達に余計な心配かけたくないし、綺麗な声のまま見せたいなあって思って。それに、それバラしちゃったら『可哀想だから応援しよう』って目で見てくる人もいるかもしれないでしょ? それはすごくイヤだなって。せっかくたくさんの人にチャンネル登録してもらえるくらいしっかり活動してこれたから、ワガママかもしれないけど、ちゃんと普通の女子高生として見てもらいたいの」

 彼女の言葉を思い出しながら、のど飴を舐めつつノートに喋ることをまとめている様子を見つめる。撮影を順調に進められない中で、それでも必死に前に進もうとしている千鈴を、一番近くで支えたいと思った。

「よし! 有斗、撮影しよう!」
「オッケー、じゃあさっきと同じように座って」
 もう一度カメラを構える。綺麗な声の、君を映す。


「有斗、ありがと。今回もなんとかアップできたね」
「ああ、テンポも良かったし、編集しやすかったよ。千鈴のトークの為せる技だな」
「続けて喋れたら、もっと上手に話せたのになあ」

 編集作業を終えて、カフェの出口のドアをグッと押しながら答えた。投稿を終えた日の夜は達成感に包まれているけど、やっぱり彼女は不満そうだった。

「あーあ、こういう時にはストレス発散でめっちゃ辛いラーメンとか食べたくなる」
「今食べたらまた咽るぞ」
「手術終わったら、んんっ、たくさん食べるんだ」

 当たり前のように手を繋いで、空元気の籠る決意を掠れ声で口にする。その時に飲めても、それを俺に美味しいと肉声で伝えることはできない。その寂しさに、「楽しみだな」と出かかったその言葉を、喉の奥でもみ消す。

「有斗、ん、またね」
「おう、また学校でな」

 改札で手を振って別れる。いつもと同じ挨拶のはずなのに、うまく喋れないもどかしさなのか、千鈴はやや苛立って見えた。



 18 爆発

「あー、ダメだ」
 ガラガラ声だなあ、と言いながら千鈴はノートをバサッと開いた。
 両隣の部屋は部活をやっていないため、その音が静寂の中で大きく響く。

「調子戻れ戻れ」

 真っ白なページに「もどれもどれ」とシャーペンで書き殴る。この前見た「喉が苦しい」と同様、罫線を無視して斜めに書かれたその文字は、彼女の心の叫びそのものだった。

 短い秋が間もなく終わりを告げそうな、十一月二四日、水曜日。木々の葉は次々と地面に落ち、紅葉(こうよう)を愛でる場所は頭上から足元へと変わった。生徒も教師も街行く人も、厚めのコートを出して間もなく来る冬に備えている。

 前回の撮影から一週間、千鈴の容態は相変わらず悪化している。声が掠れる回数も増え、クラスでも「ちょっと風邪で喉やられちゃってね」と誤魔化して話すようになった。

 ただ、俺はといえば、その状況に徐々に慣れつつあった。あまり心配すると、逆に彼女も気が立ってしまうかもしれないと思い、こっちからは極力触れないようにしている。

「それで、どうする、撮影。明日やるか?」
「ううん、明日は病院あるから、金曜日にしようかな」
 病院を理由に断られる。こんなこと、今までなかった。

「……病院明けで大丈夫なのか?」
「大丈夫だって、有斗。今までと変わらないよ」
「だな」

 そんなことはない。病院を理由に撮影をズラすなんて、九月にも十月にもなかったし、撮影に休憩が頻繁に入ることだってなかった。

 もう俺も彼女も、「今までと変わらない」というのが気休めだと知っていて、それでもその言葉に(すが)る。変わらないでいられるなら、本当はそう在りたいから。

 ***

「じゃあ千鈴、撮るよ。五秒前、四、三……」
「はい、皆さん、こんにちは! お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 寒くなってきましたね、風邪ひいてませんか? 寒いときに演劇の練習すると、手がかじかんで細かい表現ができなかったり……ごめん、ストップ」

 目を瞑って、硬い表情で首を振る彼女に、俺は頷きながらボタンを押して録画を止める。眩しいくらいの白い照明に照らされた部屋の外では、このスペースを予約している時間が刻一刻と過ぎていくことを警告するかのように、夕日が赤く燃えていた。

 二六日、金曜の放課後。今日は千鈴が夜に通院があるということで、彼女の家の隣駅、東急東横線の祐天寺駅にあるレンタルスペースで撮影している。しかし、冒頭の挨拶の時点で、喉既に喉の奥に何かが詰まったような声になり、いきなりNGとなった。

「もう一回やるね。ちょっと休む」

 バッグからアクア色の薬ケースを取り出し、吸入口をカチャリと開けて中に入っている粉を吸い込む。制服から着替えた私服は、太ももまであるブラウンのニットセーターに、タイツとムートンブーツで、可愛い格好に薬は不釣り合いだった。これまでは話し始めてしばらくは平気だったのに、今日は特に調子が悪いのかもしれない。

「じゃあもう一回いくぞ。五秒前、四、三……」
「皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです。いやあ、寒くなってきましたね。皆さんは風邪とかひいてま……グフッグフッ!」

 何も飲んでいないのに突然咽る。カメラを止めようとしたものの、右手でカメラを制す彼女はそのまま喋る気のようなので続行した。

「ね、私が体調悪いんじゃないかって話なんですけどね。寒いときに演劇の練習すると、手がかじかんで細かい表現ができなかったり……んんっ……体が縮こまって動きが小さくなってしまったりして、グフッ、大変だったりします。前に見学に行った私立の高校では部室にエアコンがついてて羨ましくなりました……んっ……では今日は滑舌の練習いってみましょう!」

 そこで撮影をストップした。綺麗な声のまま見てもらいたい、と言っていたけど、今回はとうとうそれを諦めたらしい。悔しいだろうけど仕方ない。「いつもの綺麗な声」のテイクを待っていたら、時間がどんどん過ぎてしまう。
千鈴は丸くした右手を口に当てて、しつこい風邪にかかっている人のようにコンコンと咳をしている。そしてアーティストがライブで曲の間に水を飲むような自然さで、すぐに薬を吸い込んだ。

「調子悪い設定にしちゃった。これなら多少声掠れても平気だしね。まあホントに調子悪いんだけどさ」
「……あんまり無理するなよ」

 自虐を付け足す彼女に、そう返すのが精一杯。冗談として片付けたかったんだろうけど、彼女の顔はニコリともしていなかった。
「じゃあ有斗、続き撮ろう」
「……おう」

 こうして、今はもう行っていない演劇部でやっていた早口言葉の紹介に移っていく。体調不良の(てい)で多少の声の違和感はごまかしつつ、あまりにも掠れたり咳がひどかったりした場合にはNGにすることにした。

 そこまでハードルを下げたものの、やはり何回かNGが出る。とはいえ、俺から撮り直そうとはなかなか言い出せず、千鈴が心から残念そうな表情で「もう一回やる」と決めることが多かった。

 撮り直しになると、彼女は小さな舌打ちと大きな溜息を繰り返しながら休憩する。この空間に、これまでのような楽しい雰囲気や明るい笑顔はない。「ごめん、ミスった!」「ドンマイ!」といった弾んだ会話はなく、BGMでも流したいくらいだった。

 動画を投稿することは本来、千鈴が声を残すための手段だった。でも今は違う。彼女はどこか躍起になっていて、動画を出すことそのものが目的になっている。

 思うように進まない撮影。しかも少し前まで、何の問題もなく出来ていた撮影。想定と現実のギャップに不満を募らせる気持ちが、痛いほど伝わってくる。


 そして、感想のシーンで三回目の撮り直しをした時だった。

「なので、この『あいうえお いうえおあ うえおあい えおあいう おあいうえ』と一文字ずつずらしていく練習は……グフッグフッ! ガフッグフッ! 滑舌だけじゃなくて発声にも役立つ……ごめん有斗」

 猛烈に咳込んだ後、喉を枯らせたバンドボーカルのようなしゃがれ声になり、吐き捨てるように彼女は謝罪の言葉を口にした。

「カット。千鈴、ちょっと休んでから――」
「もうイヤ!」

 プツンと、千鈴の何かが切れた。壊れたロボットのように「イヤ! イヤ!」と繰り返す。苛立ちがコップに少しずつ溜まっていたのが、今回のNGでついに溢れ出してしまった、そんな感じだった。

「もう嫌だよ、全然うまくいかない! 毎回撮影も止まってばっかりだし、こんな声じゃ台詞の撮影だってできないじゃん! 時間がないのに! 自分の声なのに! 何にも思うようにならない!」

 ノートをバンバンと机に打ち付ける彼女。よほど悔しいのだろう、目の端に涙が滲んでいる。

「もう時間ないんだよ! 自分の声なのに! 大っ嫌い!」

 俺は必死で頭をフル回転させる。自分の言葉だとうまく想いをうまく伝えられない気がして、漫画や映画の台詞、曲の歌詞を思い出す。良いのがないか探したけど、それでも彼女にかける言葉が見つからない。そもそも発破をかければいいのか、励ませばいいのか、共感すればいいのか、何かちょっとでも間違ったら彼女を傷つけてしまう気がして、うまくまとまらない。「撮るのは今度に延期でもいいよ」なんて優しい言葉も浮かんだものの、余計ムキにさせてしまう気もした。

 せめて、彼女がゆっくり撮影をできるようにしよう。それでも無理なら仕方ない。俺は俺なりに、撮影のサポートをしっかりやらなきゃ。

 机の上にあった連絡先の紙を手に取り、一階の受付に電話をした。

「すみません、三〇五を使っている北沢ですけど、一時間延長で使うことできますか? ……はい、帰りに払います、ありがとうございます」

 電話を切って、千鈴に「延長できたよ」と報告する。

「空いてたからもう一時間使えるってさ。ゆっくりやろうぜ」
しかし、髪を掻きむしっていた彼女は、怒気を宿した目でこちらを見る。
「なに平然としてるの? こっちに気ばっかり遣って」

 落ちかけの夕日が、天から夜を引っ張ってくる。暗くなりつつある部屋で、俺にも入ってはいけないスイッチが入る。

「そりゃあ気遣うだろ。千鈴の撮影だし、ちゃんと撮れる環境用意するのも俺の役目だ」
「そうやってクールにやられるとちょっとイラっとする。もっと私に注意すればいいじゃん。叫んでも仕方ないだろって」
「叫びたいときだってあるだろ。俺が止める権利ないから」
「その言い方、何? 権利とか関係なくない?」

 彼女は、小さく咳をしながら、これまで見せたことのない目つきで俺を睨む。
ほら、ほら。分かっていたのに、自分の言い方が火に油を注いでると知っているのに、抑えることができない。俺の中に知らないうちに積もっていたらしいヘドロのような鬱屈が喉までせり上がって、言葉になるのを止められない。

「……別に延長しただけで、撮れなかったら無理に撮らなくてもいいからさ」
「でも延長しただけでプレッシャーになるじゃん。私喉がこんな調子なのに」
「じゃあ千鈴は延長しない方が良かったのか? 時間切れで撮影終わっても? さっきの状態で『延長した方がいいか?』なんて聞いてもまともに答えられなかっただろ」

 それを聞いた彼女は、グッと顔を下に向けた。大好きだった茶色の髪で顔が隠れる。ギリ、と小さな歯ぎしりが聞こえる。

「なんで……そうやって物分かり良いような顔してんのよ。有斗、こっちのことなんか何にも分からないでしょ!」
「……分かるわけねえだろ!」

 思いっきり拒絶の言葉を投げつけられ、俺も一気に沸点まで達する。

「そりゃ俺だって分かりたいよ! でもどうやったって俺とお前は違うから、分かりっこない! 俺は大きな病気なんてかかったことないから、お前の気持ちなんか理解したくたってしきれないんだよ!」

 これ以上ないほどのドライな正論は、彼女の表情を怒りから哀しみに変えた。

「だよね。違うもんね。分からないよね」

 彼女は辛い気持ちを吐露しただけで、俺は彼女にとって一番楽な形で寄り添いたかっただけで。でも何かがズレてしまって、どこかで歪んでしまって、簡単には戻れない。この口論もどこかで手打ちにしようとしてるのに、感情はいとも簡単に理屈を飛び越える。

「いいよ、もう。放っておいて」
「……んだよそれ。撮影どうすんだよ」
「この状態で撮影? 仮にちゃんと声が出たとしたって、こんな精神状態でうまくいくはずないじゃん。さっきもたくさん怒鳴ったからどうせ声も出ないだろうし。あーあ、ホントに、なんで私がこんな目に遭うんだろ」

 彼女への想いと腹立たしさと、うまく振る舞えない自分自身への嘆きと。数多(あまた)の感情がない交ぜになって、思考はどんどん後ろ向きになり、彼女の言葉の続きを勝手に想像してしまう。絶対に、そんなことは思っていないはずなのに。

「何? なんか言いたいことあるなら言えば?」

 ダメだ、ダメだ。一番苦しいのは千鈴なんだから。「それ」を口にしたら、俺達の間にある溝が完全に浮き彫りになってしまう。言うな、言うな。
 でも、言って楽になりたい自分もいて、それを止めることができなかった。

「千鈴、俺が病気になれば良かったのに、って思ってるんだろ」
「……は?」
「自分なんかじゃなくて、俺みたいに匿名で炎上動画作ったりしてた悪人が代わりに病気になればいいって、思ったりしてんだろ」

 自分で自分を責めたいだけ。そのために、この口論を利用した。

「……有斗、そんな風に思ってたんだ」

 口から出た音は、もう取り消せない。千鈴を信用していたら絶対に出ないはずのこの言葉は、彼女の心を深く(えぐ)ったに違いなかった。

「……もういい」
「…………だよな」

 あの観覧車で、泣きそうになるほど救われたはずなのに、それでも時折、こうして自分を責めてしまう。

 そしてその結果、大事な人を傷つけてしまったことに、また自己嫌悪する。何も成長していない自分が、とてつもなく嫌いになる。

「今日は撮影中止しよう。一緒にいてイライラするなら、距離置いた方がいいだろ」
「……そうだね」
「データは俺のに移しておくよ。すぐ使うか分からないけど」

 仲良くないクラスメイトを手伝うかのような事務的な態度で、ビデオカメラのデータを彼女のパソコンにコピーする。ありがとうの言葉もない。

「……帰ろう」

 一時間分の無駄な延長金を精算し、エントランスを出る。撮影も途中だし編集もしていないからまだ空は夕暮れ。このくらいの暗さなら、送る必要もないだろう。一緒に駅まで行くのも気まずいだけだ。暗黙の了解で、俺は駅と反対側に向かって歩き出した。


 俺が悪い、俺が悪い、俺が悪い。何度も、何度も繰り返す。そばにいたいと、並んで歩きたいと、あんなに願っていたのに。

 振り返ってみたかったけど、向こうに振り返ってもらえなかったら、と思うと不安で、我慢して真っ直ぐ歩き、角を曲がる。「またね」のない挨拶は思った以上に寂しくて、俺は急いでイヤホンを耳に嵌め、スマホで好きな曲を流して静寂を埋めた。
 19 始まりの場所へ

「なあ、有斗。昨日の『令嬢とガトリング』見た?」
「見た! 作画やばかったよな」
「分かる! しかも最後まさか弟が出てくるなんてね! 伏線回収が完璧じゃん」

 放課後、教室で話していると他の男子も数名集まってきて、そのままアニメ談義が始まる。今日から十二月に入って期末テストを間近に控えているものの、それが終わればクリスマスや冬休みが待っているからか、なんだか緊張感は薄い。

「そう言えば、有斗に教えてもらったパズルのアプリ、めっちゃ面白かった!」
「あ、やってみた? 左脳と右脳両方使う感じで面白いよな。時間無制限でじっくり考えられるのもポイント高い」

 こういう時、雑談は良い。他のことに気を回さなくて済む。教室で話している彼女に、意識を向けないで済む。


 あれから一週間、千鈴とは連絡を取っていない。最後のチャットは、あの言い合いの日の夕方、駅に着く前に送った「そろそろ着くぞ。今日もよろしく!」という俺からの連絡。ごめんねの一言くらい送ろうかと何度も考えたけど、既読がつかなかったり、ついても返信がなかったりして、拒絶されていることが分かってしまうのが怖くて、結局何もできていない。ついついSNSの画面を見るたび、「それ以上は踏み込んでこないで」と言われてるような気がして、電源ボタンを急いで押して液晶を暗くする。

 クラスでも会話はないし、目が合ってもどっちかが逸らす。たまたま話すことになりそうなときは、俺がうまく他の男子を使ってその場を離れる。そうやって、お互いに接触を避けている。クラスで暴露していなくて良かった。みんなに腫れ物に触るように扱われるのも気が引けるし、万が一仲直り大作戦なんて計画されたら余計に事態が悪化してしまうかもしれない。

「あ、この動画知ってる? アメリカ人が日本人の折り紙真似してるヤツ」
「有斗こういうの絶対好きだと思う! 最後めちゃくちゃになるから!」
「お、どれどれ、見せて見せて」

 動画の話題に胸がチクリと痛みながらも、一緒にスマホを覗く。今どういうステータスなのかも分からない二人の関係に悩みすぎないために、こうして余所(よそ)見を繰り返す。

「ねえ、北沢。チーちゃんと何かあった?」

 帰り支度をしていると、三橋から声をかけられた。心配そうな彼女に、力のない表情で振り向く。

「なんか、前は教室でも話してたけど、最近全然じゃん」
「ううん、なんでもないよ、大丈夫」

 女子は鋭い。ちょっとした関係の変化も見抜く。そして俺がこんな風にやんわり否定することも、きっと予想がついていただろう。

「……ならいいけど。無理しないでね」

 そう言って廊下に出ていく彼女に「ありがとな」とお礼の言葉を投げる。心配された通り、無理をしないと笑顔を作るのも難しかった。


「ただいま」

 放課後、レンタルスペースにも集会室にも行かず、まっすぐ帰宅する。ブレザーだけハンガーに掛けた後、Yシャツと制服ズボンのままベッドに倒れ込み、布団に顔を押し付けながらスマホでYourTubeを開いた。

『皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 最近チャンネル登録が五十人になって、すっごく嬉しいです』

 前回の動画を見返す。クラスでも聞くことの少なくなった千鈴の声は、少し掠れるところもあったけど、相変わらずよく通る、演劇向きの良い声だった。

 そういえば、彼女は病気のことはクラスで公表するんだろうか。喉の調子が悪い、で押し通して、手術してから報告するんだろうか。千鈴のことだ、なるべく隠し通したいだろうな。

 ほら、こうやって、ここにいなくなって、俺が何をしてたって、いつも俺の頭を占領してくる。

『ようこそ病院城へ、今まで舞台を見たことない人にもオススメです。地味にポイント高いところとして、セットが二階席にいる人にもしっかり見えるように組まれてるってところですね。たまにあるんですよ、一階じゃないとよく見えないっていうセット。常に金欠の学生は二階席のことも多いんで、これは結構良かったです』

 画面を見ながら、あれこれ考えを膨らませていく。目線は画面に固定しつつも、映像も音もあまり入ってこなかった。

 このまま彼女とは終わりだろうか。こうやって自然消滅するカップルもたくさんいるだろうけど、クラスが同じ分、ちょっとやりづらいな。

 でも、それでいいのかもしれない。声を失くした彼女とどうやって付き合っていけばいいのか、まだちゃんと想像しきれていない。デートはどうする? カラオケ以外に行けないところはあるだろうか? こっちは口で、向こうは文字で話す? はぐれても電話できないから、チャットかな? それなら集合場所に迷ってときも一緒だな。ライブとかいっても一緒に歌えないのは向こうが嫌がるかな?

 あるかどうかも分からない未来を想像して、少し溜息を漏らす。

 もうカフェでおしゃべりもできない、電話もできない。それでも彼女と付き合っていくのだろうか。単に情が移っているだけじゃないだろうか。向こうだって、俺といたらうまくコミュニケーションできずにもどかしい思いをするんじゃないだろうか。

 お互い違う生活スタイルになる。お互い違う人生がある。寂しいけど、離れていくのも自然な流れな気もする。病気をきっかけに別れるなんて、きっとよくあることだ。

 それに、ほら。やっぱり、あれだけ人を傷つけてきた自分が幸せを掴み取ろうなんて、やっぱりおこがましいことなのかもしれない。俺には動画を作る資格も、幸せを感じる資格もない。いつも通り、脳内のもう一人の自分が「結局最後はこうなるんだよ」と嘲る。
 仕方ない、仕方ないんだ。自分に言い聞かせる。それは、後で深く傷つかないための細い細い予防線だった。


『ということでこの舞台、一月まではやるらしいので、ぜひ観てみてください! ちなみに井川十春さんはとても好きな俳優さんなんですけど、特に見てもらいたいのは三年前の映画の……』

 動画を見返す。彼女が、楽しそうに演劇について話している。

「ふうう……」

 ふと泣きそうになったのを、わざとらしいほど大きな深呼吸で堪(こら)える。もっともっと一緒に映像を撮りたかったけど、それももう出来ないだろう。笑ってカメラを回していた日々を思い出してはまた涙がこみ上げ、俺は布団で顔を拭って大きく息を吸いながら、視線をスマホに戻した。

『声、ステキですね!』

 動画にコメントが付いていた。そのままスルーしてもよかったのに、なんだかモヤモヤしてしまって、どうにもならなくなって、俺もコメントを投稿する。

『声ももちろんステキだけど、話も上手だし、いつも明るく楽しそうにやってるのが好きです』

 そのまま液晶の電源を落とし、考えることを止(と)めて、夕飯前の仮眠に就いた。

 ***

「……ぷはっ」

 十二月二日、木曜日。何も予定のない放課後が、随分つまらなく思える。桜上水駅に向かう途中、奥まった曲がり角にある自販機に立ち寄り、安くなっていた「ストロングソーダ・梅」を買った。動画の中でこれを飲んでる途中に咽(むせ)たな、なんて思い出しながら、早く帰る理由もなく、さりとてここに長居する理由もなく、口に含んだ炭酸の刺激を感じながら無為に時間を潰す。

「さて、と……」
 駅までの通りに戻ろうとしたその時。

「アルト。何してるんだ?」
 今のタイミングではあまり会いたくなかった慶と鉢合わせた。

「……いや、あのさ――」
「最近さ、元気ないじゃん」

 千鈴のことをどこまで話すか、迷いながら切り出した直後に、慶が口を開く。メガネの奥に見える利発そうな目は、全てお見通しだよ、と言わんばかりにまっすぐに俺を見ていた。

「廊下でも全然こっちに気付かないし、虚ろな目付きのときもあるからさ。何かあった?」
「……いや、ああ、うん」

 そこまで読まれていると否定しきれなくて、言葉を濁しながらなんとなく頷く。

「前に話した……友達の大事な人が病気でさ……これから先は今までみたいな関係ではいられなそうで……それに不安になってるうちに、お互いのストレスが爆発しちゃったっていう感じかな」

 たくさんボカして話したけど、慶はそれだけで概ねの経緯を把握したようで、得心したように腕を組んだ。

「そういうわけだからさ。もう関係もここまでかなって」
「……ふうん」

 いつの間にか「友達の話」はどっかにいってしまったので、完全に俺の話だと分かられただろう。

 彼は溜息とともに相槌を打つ。呆れただろうか。それはそうだろう。こんなこと、くよくよ悩んでても仕方ないのに。

「区切りつけないでズルズルいくのも良くないよな。俺からちゃんと――」
「なんでだ?」

 慶が口にしたのは、たった一言の質問だった。

「なあアルト、なんで別れるんだよ」
「え……いや、だって、うまく付き合っていけるか分からないし、向こうだって愛想つかしてるかもしれないし――」

 ドンッ

 最後まで言うことはできなかった。俺より数センチだけ背の低い彼に、胸倉を掴まれたから。

「何だよそれ。『分からない』だの『かもしれない』だの、そんなどうでもいい理由で別れる気なのかよ」
「どうでもいいって……」
「どうでもいいだろ、そんなの!」

 自販機の後ろから照らす西日が鮮やかに彼を照らす。怒りにも近い表情で、俺をキッと睨んでいた。

「アルトはどう思ってるんだよ! お前は不安とか相手の顔色だけ見て付き合ってるのかよ!」

 胸を揺さぶられる。こんなに怒られることなんてほとんどないからこそ、慶が本気で俺に伝えようとしてくれているのがよく分かった。

「結局うまく続かないとしても、愛想つかされてるとしても! そんな理由ゴミ箱にぶち込んで! お前はどうしたいんだよ!」

 自分はどうしたいか。こんなに単純な質問があるだろうか。

 そして、急に怒鳴られて余計な雑念が消えた俺の頭の中には、同じくらい単純な回答だけがぽつりと浮かんだ。

「……一緒にいたい」

 季南千鈴と、もう少し、同じ時間を過ごしたい。いくら他の答えを探しても、頭の中にはそれしかなかった。

「まだまだ、一緒にいたい」
 それを聞いた慶は目を丸くする。そしてキュッと眉を上げ「いいじゃん」と微笑んだ。

「やりたいように動いてみればいいと思うよ。後悔しないようにさ」
 ずっと我慢していたことを口に出したら、想像以上に迷いが晴れた。自分のやらなきゃいけないことが、一週間ぶりにちゃんと見えた気がする。

「うん、なんかスッキリした。やる気出てきた」
「それなら良かった。Flame、なんだろ? 今度は正しく燃えてやれよ」
 冗談めかして笑う慶につられて、俺も「だな」と胸をドンドンッと叩いた。

「悪い、慶。俺ちょっと学校戻るわ」
「え? まだ向こうがいるとか?」
「いや、分からないけど、行くところがあってさ」
「ん、そっか」
 彼は満足げな表情を浮かべ、首を伸ばして学校の方を見遣る。

「うまくいくように、オレは祈ってるからな!」
「おう。ホントにいつもありがとな!」

 挨拶をして、学校に向かって走り出す。振り返ると、慶は腕を伸ばして、ずっと手を振ってくれていた。

 ***

「失礼します」

 引き返してきた学校の階段を駆け上がり、北校舎三階へ。わざわざ挨拶をして、集会室に入る。

 学校に戻る途中、千鈴にチャットを送った。

『謝るのが遅くなっちゃったけど、この前はごめんなさい』

 言い訳もしない、仲直りしたいとも書かない、一番伝えたいことだけを摘み取っただけの謝罪。人を傷つけてばかりの自分だけど、それでもちゃんと、まっすぐに謝れる自分でいたい。

『わざと嫌なことを言って、辛い気持ちにさせちゃってごめんなさい』

 誰もいないと、彼女は来ないと分かっていても、この集会室に来たかった。彼女との関係が戻るまで、ここでホワイトボードやカラーコーンに埋もれながら、自分を見つめ直したかった。

 白いカーテンを捲って外を見る。グラウンドと反対側のこっちの窓からは、駐輪場と道向かいの大きなスーパーしか見えない。近くで部活もやっていない、俺一人だけの空間。

 この場所にいることに特に意味はないかもしれないけど、それでもここに来て、千鈴との関係の修復を願おうと決めたから。

「……宿題やるか」

 運動部が練習を終える時間まで、集会室で英訳のプリントをやり、そのまま帰路についた。



 20 良い魔法使い、悪い魔法使い

「有斗、今日予定ある? ファミレス行かね?」
「あー、どうすっかな……ごめん、パス」
「なんだよ、最近付き合い(わり)いなあ」
「悪いな、ちょっと予定思い出してさ」

 期末テストも終わった十二月九日の木曜日、誘いを断って教室を出る。解放感から遊びに行きたい欲にも駆られたけど、やるべきことは分かっているから、遠回りで気分転換しながら北校舎に向かう。

 一階、中庭を見渡せるようになっている外廊下を渡る。季節に関係なく生えている雑草が震えながら身を寄せ合い、冷たい風が素手に当たって痛みを残した。

「さ、む、い、ね」

 手に息を吹きかけながら独り言。階段を上がって三階廊下を真っ直ぐ歩く。


 慶と話した日から、今日でちょうど一週間。放課後の日課のように集会室に向かう。行ったって何が起こるわけでもないのに、千鈴は来ないのに。彼女を傷つけてしまった(みそぎ)のように、あの部屋に行く。彼女からチャットの返事は来ない。彼女がいない光景を、溝を作ってしまった罪悪感をもう少し噛み締めて、また何度でも彼女に謝ろう。

 そして、そんな風にカッコつけてみても、頭の片隅には「思い続けていればいつか通じるかも」なんて呆れるほど幼稚な願いが巣食っていた。

 北校舎三階、西端の集会室。俺と千鈴の始まりの場所。

 ガラッ

「失礼しま――」

 ドアを開けると、ヒュウッと風が吹いた。窓が開き、白い遮光カーテンが揺れている。

「ひさしぶり」
「……おう」

 風ではためくカーテンから顔を覗かせたのは、季南千鈴だった。


 チョコレートカラーのセミロング、スッキリと目鼻立ちの通った顔、柔らかい笑顔。二週間ぶりに千鈴をちゃんと見て、細胞が蘇生するかのように、鼓動が激しくなる。

「どう、したんだ?」

 思わず質問した俺に、彼女は「んーん」となんでもないように答えた。

「なんとなく、有斗いるかなって思ってさ」

 彼女は相変わらず魔法使いで、言葉と声で俺の体温を操作する。
千鈴が来てくれた。嬉しい。嬉しい。何を話そう。謝ったら許してもらえるかな。またやり直せるかな。緊張が解けない中で、脳内のコンピュータは一気に計算を始め、オーバーヒート気味になる。

「有斗さ、動画見てくれてありがとね」

 窓に寄りかかったまま、こちらをサッと振り返り、千鈴は首を傾けてクスクスと笑う。いつも教室で見ているはずの彼女の顔が、今日は特別綺麗に見える。

「え、あ、なんで」
「コメントくれたじゃん。名前『Alto』になってたよ」
「あっ、しまっ……」

 ほぼ無意識で投稿してしまったから、自分のアカウントにログインしていたことを完全に忘れていた。「楽しそうにやってるのが好きです」なんて書いてるのを見られたかと思うと、かなり恥ずかしい。

「ふふっ、嬉しかったよ」

 コスモスみたいに穏やかな笑顔を咲かせ、千鈴は再び窓の外を顔を向けた。
会話が途切れる。どう声をかけようか迷う。でもやっぱり、謝るところからだよな。

「千鈴、この前はごめ――」
「私こそごめんね」

 カーテンを開けながら、彼女が俺の言葉を遮った。カラカラと、窓を閉める。

「有斗が気遣って、何も言わないで色々我慢してくれてるって分かってたのに、それに甘えちゃって。ちょっとバタバタしてて、返事も全然できなかったし……」
「いや、もともとは俺が悪いんだ。千鈴の方がしんどいのに、つい頭に血が昇ってひどいこと言っちゃったからさ。だから……ごめんなさい」

 良かった。ちゃんと謝れた。心残りが消え、あとはちゃんとやり直せるように話し合うだけ。
 そう、思っていたのに。

「喉、また悪化しちゃってるみたいでさ」

 こっちを見ないままの彼女が、少し掠れた声で話す。まるで昨日テレビで見たバラエティーの話をするような、普通のトーン。

「え……それ、は……動画のせい――」
「絶対有斗はそういうと思った」
 クスクスと笑い声が聞こえる。

「動画は関係ないよ。進行が早いとか薬がちょっと合わないとか、そういう理由」

 悪化してるんだ……やっぱりクラスで打ち明けることになるんだろうか。手術まであと一ヶ月くらい。冬休みに入るし、それならあんまり騒ぎ立てられずに…………ちょっと待って。

 あと一ヶ月? 悪くなっているのに、「あと一ヶ月」のままなのか……?

 一つの可能性が脳を()ぎる。あまりに(つら)い、思いつきたくもなかった仮説。

 そして、彼女はやっぱり魔法使いで、それを現実にしてしまう。

「手術、早まったんだ。今月の下旬になったの」
「下旬って……」

 今日は十日。あと二週間もしないうちに下旬になる。単純な日付の計算ばかりが頭を埋め尽くし、感情を処理しきれない。彼女がバタバタしていたというのも、きっとこの件だったのだろう。

「……早すぎるだろ」
「ね、びっくりしちゃった」

 二人で淡々と話す。これは現実だぞ、と警告するように、遠くからサックスの抜けるような高音が響いた。

 彼女はどんな顔をしているんだろう。見ない方がいいよな。近づかない方がいいよな。そして俺は、それをクールに支えた方がいいよな。泣いたら彼女が余計辛くなるから。

 こっちに向き直らないまま、彼女はふう、と嘆息する。
「クリスマスは無理かなー。一緒に過ごしたかったのに」

 君の言葉は魔力がありすぎて、そうやって言葉一つで俺の感情をぐちゃぐちゃにする。
 まだ付き合っていられることが本当に嬉しくて、こんな状況でも俺とのことを考えてくれていたのが堪らなく幸せで、そして病気のことがどうしようもなく悔しい。

 なんで、どうして。何十回も何百回も思ったけど、なんで千鈴だけがこんな目に遭うんだよ。何したっていうんだよ。

 世界は理不尽の塊で、たった一人救われてほしいなんて小さな願いも叶わなくて、そういう世界が大っ嫌いで、それでも君と俺を引き合わせてくれたこの世界に感謝しなきゃいけない。色んな想いがない交ぜになって、三原色の光が混ざると白く見えるように、頭が真っ白になる。


「ごめんね、そっち向けないで。あんまり見せられない顔してるから」

 茶色い髪を煌々と照らす夕日に溶かしながら、彼女は続けた。

「怖いの。怖くて仕方ないんだ。ホントに……冗談だと思って聞いてほしいんだけどさ、死んじゃいたいな、って考えたりするよ」

 死にたいとか言うな、なんて正論は幾らでも出せるけど、もし俺が千鈴だったら、と思うと引っ込めてしまう。彼女の気持ちを百パーセント理解することはできないけど、自分があと二~三週間で自分の声が出なくなると想像しただけで胸がざわざわする。自分の存在が一部分欠ける、自分が自分じゃなくなる、そんな感覚。

『他の人ならいいのに、って思っちゃうんだよ、私。なんで私なんだろうって。もっといるじゃん、そのくらいの罰が当たっても仕方がない人』

 彼女の言葉を思い出す。あの時、泣いてしまって、きちんと返事ができなかった。

「千鈴さ、他の人が病気になればいいのに、って前に話してたよな?」
 だから、ちゃんと返事をするなら、今だ。

「俺もそう思うよ。他のヤツがなればいいと思う。俺が代わってあげたい、って言いたいけど、そしたら結局千鈴とは話せなくなっちゃうからイヤだな」

 向こうを向いたままの彼女は、髪を揺らして頷いた。

「千鈴の気持ち、俺なりに分かってるつもりなんだ。命なんか要らないって思う気持ちも分かる。でもさ」

 そこで息を吸う。伝えたい気持ちが溢れる一方で、頭はどんどん冷静になっていった。

「でも、死んだら困るなあ、千鈴とやりたいこと、まだたくさんあるんだよ」

 声を失くした千鈴と過ごすことを考えて、一度は勝手に諦めた。生活が大きく変わってしまう彼女と一緒に歩いていくのは難しいし、彼女もストレスだろう、だなんて都合よく言い訳を作って。そして、自分の過去の罪も理由にして、「ほら、やっぱり幸せになれない」と離れる覚悟をした。

 でも、それはきっと正しくない。

 YourTubeの、彼女の動画に書いたコメントを思い出す。
『声ももちろんステキだけど、話も上手だし、いつも明るく楽しそうにやってるのが好きです』

 演劇のことをあれこれ話してくれる千鈴が好き。いつも楽しそうに接してくれる千鈴が好き。

 彼女の何もかもが変わるような気がしたけど、きっとそんなことはない。ただ声が無くなるだけで、俺と彼女の関係まで変える必要はない。千鈴の良いところをたくさん知ったから、そんな理由だけで離れるのは間違っている、と今なら思える。


「だから、俺のために、死なないでほしい。ワガママだけど」
 少し遠くにいるままの彼女は、「分かってるよ」と小さく頷く。

「ちょっと言ってみたくなっただけ。大丈夫、そんなことしない」
 そして、少しだけ咽たあと、柔らかい声色へと変わった。

「有斗、ありがとね。動画のコメント。ホントに嬉しかった」
「いやいや、声だけ褒めてるコメントあったから、他にも良い所いっぱいあんだろって思ってさ。そりゃ千鈴の声は好きだけど……」

 自分でその言葉を口にして、唐突に現実が襲ってくる。彼女の声。もう、聞けなくなる。心の揺らぎにシンクロして、自分の声も揺れかけているのが分かる。

 さっき、「ただ声が無くなるだけだ」なんて言い聞かせたはずなのに、シーソーのように感情は行き来を繰り返し、また寂しさが戻ってくる。

「もういっこだけ、ワガママ言っていい?」
 彼女が(つら)くなるのは分かってて、彼氏である俺が言ってはダメなことだと分かってて、それでも、抑えきれなかった。

「声なくなるのイヤだなあ」
 泣きながら口にした、ただの世迷言。隠せない本音。

 彼女は、季南千鈴は、もう一度こっちを振り向く。

 精一杯の笑顔で、涙でぐしゃぐしゃだった。

「奇遇だね、私もなの」
 その言葉を聞いて、彼女に向かって駆け出す。力加減も気にせず、抱きしめる。

「千鈴が喋れなくなるの、イヤなんだよ」
「私もイヤだ! 話せなくなるのイヤだ!」
「めちゃくちゃ悲しいんだよ」
「悲しい……ホントに悲しい! イヤなの!」

 二人で抱き合って、大声をあげて泣いた。思い通りにならなくていじけた子どもみたいに、ずっとずっと泣いていた。
 21 カメラを回して

「千鈴、準備できた?」
「うん、大丈夫。へへ、久しぶりだと緊張するね」

 レンタルスペースで、カメラを構える。椅子に座った彼女は、自信ありげに親指を立てた。

「はい、皆さんこんにちは。今日もお芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです!」
「……よし、いけそうなら続けていいよ」
「クリスマスが近づいてきました! クリスマスの演劇と言えば、ミュージカル『スクルージ』が有名ですね。九二年初演ですけど、チャールズ・ディケンズの小説が原作の映画『クリスマス・キャロル』を元にしています。んんっ、有斗、一旦ストップ」
「カット。オッケー、録画止める」

 我慢してたのを吐き出すように小さく咳込んだ彼女は、両手で口を押さえて「ふしゅー」と深呼吸した。


 仲直りした日から、金曜と土曜を挟んだ、十二日の日曜日。今日は二人とも予定が空いていたので、動画撮影の後にデートをする。動画は一本だけにするつもりだったけど、前回途中で撮影をやめてしまったものが残っていたので、その続きも撮って二本アップすることにした。欲張って朝早くから始めたけど、千鈴は集合のときから「ちょっと早いクリスマスだね!」と意気込んでいる。

 といっても今撮っている場所は、クリスマス当日になってもそこまでカップルで賑わうことのなさそうな、都心から一時間離れた郊外の高尾駅。一つしかない改札から徒歩で十分のところにあるマンションの一室を利用した簡素なレンタルスペースだった。

 咳はしているけど、千鈴の喉の調子は前ほどは悪くない。彼女によると、「どうせすぐに手術だから、それまで症状が軽くなるよう、強めの薬をもらった」らしい。やや心配する俺を他所(よそ)に、彼女は「今日は普通に話せる!」と嬉しくて堪らないというように手で口を押さえて笑っていた。

「見て見て、有斗。今日はこれを飲もうと思って持ってきたの」
「げっ、コーヒーの炭酸って完全に地雷じゃん……」

 得意げに胸を張りながら、彼女は「スパークルコーヒー」と大きくラベルに書かれたペットボトルを好奇心に満ちた目で眺めている。

「ふふん、薬のおかげで強い炭酸も飲んでも痛くなくなったからさ、久しぶりに買っちゃった」
「久しぶりなら美味しいって分かってるヤツ買えば良かったのに」

 確かにそれもそうかも、と言って千鈴は笑う。 ざっくり首元の開いた白のニットセーターに、細い白ストライプの入った黒のロングスカート、以前履いてるときに褒めたムートンブーツ。触り心地が良さそうなセーターはちょっと大きめで、それが可愛さを上乗せしていた。


「それじゃ撮影再開するぞ。五秒前! 四、三……」
「さて、今日は久しぶりに演劇の練習でよく使う早口言葉をやってみたいと思います。『バナナの謎はまだ謎なのだぞ』 結構難しいですよね? ナ行って結構言いづらいので良い練習になります。グフッグフッ!」

 突然咳をする千鈴。でも、本人から合図がないうちは撮影は止めない。彼女がトークを再開するのを待つ。

「バナナが閉ざされた洋館で事件に巻き込まれてるのを想像するとちょっと面白いですよね。ん、有斗、ここまで」
「カット! 大丈夫、今のなら繋げられる」
「ホント! 良かった!」

 撮影の仕方も、これまでと少しだけ変えた。「普段の喋りをそのまま届けたい」というかねてからの千鈴の希望に沿うため、話の途中で調子が悪くなっても、彼女が「ここまでは通して喋りたい」と思う部分まで話してもらうことにした。さっきみたいなトラブルがあっても、編集のときにその部分だけ動画を切る。

 調子が良ければどこまでも話していいし、途中で咽ても千鈴が話したいならキリの良い所までやりきっていい。今の彼女が一番楽なやり方で撮ってあげたかった。

「……ということで、映像で見た舞台『きっと大丈夫、じゃない』の感想でした。ここで恒例の、私が特に印象に残った台詞を演じてみたいと思います」

 千鈴は、これまでと同じようにスッと立ち上がって肩の力を抜く。最近まで喉が痛くてほとんどできていなかった演技ができるようになった嬉しさが、きゅっと上がった眉と口角でよく分かった。

『何にもないよ。私には何もない。でもね、何も無いって知ってた。だから頑張れたんだ。一歩一歩進められたの』

 彼女のよく通る声がレンタルスペースに響き渡る。後ろ向きに聞こえるけど、それは日々懸命に過ごしている彼女らしい言葉だった。

「有斗、ちょっとだけ休憩。喉がイガイガする」
「おう、休もう休もう」

 机に向かい合って座り、休み時間に寝るときのようにお互いぐでーっと突っ伏す。

 彼女が無理せず撮影できるよう、予約は三時間取っておいた。

「暖房あんまり効いてないな」
「そうだね、手が冷たくなってきたよ。ほら」

 伸ばしてきた手を、こちらも腕を伸ばして繋ぐ。ゆっくりハグするかのように、指を絡めて握る。

「ふへへ、あーると」
「……ちーすず」
「あ、照れてる」
「照れてない」

 スマホも見ない、曲も聴かない、外に出ているわけでもなければ撮影もしていない。ただ「二人でいる」だけの時間。それがこんなに幸せなものだなんて、知らなかった。

「あのコーヒー炭酸、一口あげるからね」
「俺はまずブラックが苦手なんだっての」
「大丈夫、私もだから」
「じゃあなんで買ったんだよ」

 バカ話をして、彼女から貰ったのど飴を舐める。調子が戻ったら、ゆっくり撮影再開だ。

 ***

「一本目の動画、できたぞ」
「ホント? 見せて見せて」

 撮影が無事に終わり、駅前に一店だけあったファミレスで編集・投稿作業。やり方を変えたからか、撮影が順調に進んで二時間で終わったので、ちょっと早いお昼を食べながら千鈴のパソコンを借りて、彼女の買った動画用ソフトで編集した。俺のパソコンでやってもいいんだけど、彼女は動画制作の思い出として、作業した編集データも残したいらしい。

「有斗、ここのテロップさ、喋り始める前に表示されてるけどいいの?」
「喋ってる途中でテロップが出ると、急にテロップに視点移すことになるから、見る人にとってはちょっとストレスなんだよね。だったら始めから表示させておいた方が良いと思う」
「ふむふむ、勉強になるなあ」

 いつも使っているノートにペンを走らせる千鈴の横で、二本目の編集に入る。俺もかなり慣れてきたので、切り貼りから効果音入れまでかなりスムーズにでき、二本まとめてアップロードした。

「よし、投稿完了! ということで、ご褒美にこのポテトは俺が頂きます」
「あ! 一番長いやつ!」

 膨れる彼女と「ずるい!」「へへーん」と子どものようなケンカをしながら、残りのポテトを二人で平らげた。

「ふう、ごちそうさまでした。じゃあ、いきますか!」
「だな!」

 早足でお会計を済ませ、高尾駅の南口前にあるカラオケ店に向かう。午後のデートは、千鈴が行きたいと話してくれたところに連れていくことになっていた。

「ホントにカラオケでいいのか?」
「うん、カラオケが良い。もう行けなくなるからさ」
「俺が歌うの聞いてるだけでもいいのに」

 そう冗談っぽく言ったものの、彼女はただ寂しそうに笑うので「ウソだよ」と誤魔化した。

「あ、あそこだ」
「よし、入ろう!」

 都心の方ではあまり馴染みのないチェーン店は、赤い看板に書かれた白抜きの店名が少し汚れていて古めかしさを感じる。
受付をして部屋に入ると、千鈴はいそいそとマイクを持ち、電源をつけて口に近づけた。

「さあ、喉が潰れるまで歌うよ! まずは有斗から!」
「先に入れるんじゃないのかよ!」

 撮影が終わった解放感とゆったりデートの幸福感が合わさって、テンションは一気にハイになる。お昼を食べる前に飲んだ薬が効いてきたのか、彼女の声は掠れることもガラガラになることもほとんどなく、俺は九月に動画を作り始めたときの彼女を思い出した。

 喉のこと、手術のこと、不安はたくさんあるけど、敢えて口にしない。変に歌詞に想いを込めたりせずに、歌いたい曲を好きに歌う。今だけはただの高校生カップルでいよう、という気持ちは、きっと二人とも一緒だった。

「ねえ、有斗。歌ってるところ撮って!」

 曲が始まる前、立ったままマイクを持ってピースをしながら、彼女は歯を零した。

「任せろ、全曲撮る!」

 すぐにビデオカメラを出して慌てて録画ボタンを押し、撮影しながら彼女にピントを合わせていく。

「♪いーつものー けーしきがー いーろーづくー ごぜんれいじー」

 体を揺らして、髪とスカートを(なび)かせて、千鈴は歌う。液晶越しに見ていたけど、なんだかそれじゃ勿体なくなって、カメラを胸の前で抱えたまま生の彼女に視線を向ける。見蕩れているうちにカメラ本体が斜めに傾いてしまい、「ちょっと、カメラ! テーブル映しちゃってる!」とツッコミを入れられて、結局三脚を立てて固定した。

「有斗」
「ん?」

 聴くのに夢中になっているうちに曲が終わってしまい、急いで曲を選んでいる俺を呼んだ彼女は、斜め上を向いて少し言い淀んだ後、「うりゃっ」と肩にグーパンチを二発当てた。

「楽しいね!」
「だな」

 好きな人に楽しいと言ってもらえる。それはたった一秒の最高の贈り物。

「あっ、これ私も歌いたい!」
「じゃあ上パートよろしく!」

 何曲歌っても飽きることはなくて、はしゃいでいる彼女を記録しながら、二人っきりのライブを堪能した。



 22 消えないように

「それじゃ、行きますか」
「おう。まずはケーブルカーだな」

 カラオケを出て駅前に戻ると、オブジェのように駅前に立っているアナログ時計は十五時を示していた。真っ昼間の明るさは褪せ、日の短くなった空は少しずつ夕暮れの準備を始めている。

 今日、千鈴が行きたいと言っていたもう一つの場所、山登り。高尾山に一緒に登る。

「へえ、ここから全部徒歩でもいけるんだね」
「百分以上かかるらしいけどな」
「うわっ、それはキツいかも」

 都心から離れたこの駅をデート場所に選んだのは、これが理由だった。標高は六百メートルとそんなに高くないうえに、駅前から出ているケーブルカーでショートカットすれば五十分で頂上まで着ける手軽さが人気らしい。

 俺も千鈴も初めて来たので、駅前でもらったガイドマップを見ながらキョロキョロ歩く。

「あった、ここだ」
「ちょうど来るっぽいね」

 ICカードをタッチする自動改札ではなく、木の枠で仕切られた有人の改札がとても新鮮に映る。切符を買って駅員さんに渡し、ホームに並んだ。

「あ、来た来た!」

 千鈴の声に呼ばれるように近づいてきた黄色い車体のケーブルカーは、百人は優に乗れそうな「小さい一両電車」という印象だった。山を登っていくためか、窓が車体に対して不自然に斜めになっているのが、どことなく未来の乗り物っぽさがあって面白い。

 紅葉も終わった寒い時期なので、乗る人も案外少なかった。着席すると、アナウンスとともにすぐに出発する。

「おー、結構急な坂だね!」
「日本屈指らしいよ。ジェットコースターの上がってるときみたいだよな」
「確かに!」

 窓に張り付いて外を眺めている千鈴が「急にグワーッて落ちたりして」とイタズラっぽく笑う。

 なるほど、コースの傾斜がこんなに急であれば、窓がここまで傾いているのも頷ける。おかげでいつも乗っている電車と同じように、車窓から自然を堪能することができた。

 線路の左右両方に何本もの木が立ち並んでいるその景色は、まるで山の神様にお願いしてここだけ空中に道を通してもらったかのよう。冬なので葉が落ちている木が多いが、生い茂る緑や一面の紅葉を想像するだけで、スマホで何枚も撮影する自分が目に浮かぶ。春から秋にかけていつも混んでいる理由が分かる気がした。

「やった、到着だね!」
「まだだっての。ここから一時間くらい歩くぞ」
「えー、だるいー」

 口を尖らせながら後をついてくる千鈴。「だんご」とのぼりが掲げられたお茶屋を通り過ぎ、なだらかな坂道を上がっていく。

「千鈴、スカートで寒くないの? タイツ履いてないんだろ?」
「大丈夫! 女子高生は『今が可愛さのピークだ』っていう自信を着込んでるから寒くないの」
「ぶはっ! なんだよそれ」

 日も落ち始めているけど、千鈴と話しているのが楽しくて、暗さも気温もあまり気にならない。
 行程も半分を超えると、舗装された箇所はなくなって山道になる。それでも険しすぎるということはなく、高校生の俺達には比較的楽なコースだった。

「あ、標識みっけ!」
「いやー、なんだかんだ歩いたな」

 頂上に着いたのは十六時半少し過ぎ。ちょうど日の入りの時刻で、薄明の空はオレンジとネイビーのグラデーションになっている。

 疲れていたはずなのに、柵を見つけて競うように走る。他の登山客が少なかったので、景色を二人占めできた。

「うわっ、綺麗……」
「すごい……」

 こうやって感動するのはいつぶりだろうか。そうだ、あの観覧車の時以来だ。
 でも、あの時とは迫力が全く違う。ガラス張りでない、遥か下の光景でもない、すぐそこにある自然。澄んだ空の下、近くには木々の緑と茶色、遠くには日本一の高さを誇る山がくっきりと見える。消えかけの夕日を照明にして、ただただ、茫洋たる景色を眺めていた。

「よっし」

 そう小さく呟いた千鈴は、気合を入れるようにセーターの袖を軽く(まく)る。
 そして、開いた両手を口の左右に当て、思いっきり叫んだ。

「やっほー!」

 すぐに空が彼女の声真似をし、「やっほー」と返ってくる。

 近くにいた人が驚いてこっちを見ているけど、彼女は再び叫ぶ。

「私は! 季南! 千鈴だー!」

 急な大声でさすがに声が掠れたものの、誰の目も気にしない。自分の名前を大声で口にした。

「ほら、有斗も」
「えー、俺もかよ」

 いいじゃんいいじゃん、と腕を引っ張られる。この暗さなら顔も見えないだろう、というのが都合の良い言い訳になり、お腹から思いっきり「やっほー!」と叫んだ。

「私も一緒にやる! せーの、やっほー!」

 木霊が器用に、高低二種類の声を返してきた。

「へへ、これやりたかったんだよね」

 満足そうな笑みを浮かべる。そして、調子を探るように、俺の目をジッと見つめた。

「有斗」
「どした?」

 前髪を触りながら、彼女は口を開けたり閉じたり、唇を微かに舐めたりしている。それは、どう言おうか、言葉を探すように。

 そして。

「手術の日、決まったの」
「……そっか」

 さっきのカラオケの時も、何か言い淀んでいた。きっと、これを伝えたかったんだろう。

「十九日の日曜日」
「来週かよ。急だなあ」
「手術して二~三日は入院が必要だっていうからさ、金曜の終業式に間に合うように日程組んだんだ。ほら、その金曜ってクリスマスイブだし!」
「確かに。クリスマス病室は辛いもんな」

 深刻な話とは思えない、穏やかなトーン。覚悟を決めた彼女と、一緒にいると決めた俺。

「準備とかもあるから、動画も今日のが最後だね」
「そっか」

 正直、なんとなくそんな気がしてたけど、改めて言われるとやはりちょっと気落ちする。

「でも、今日のは良い出来だったと思うぞ」

 だよね、と言いながら、彼女が自分のスマホでYourTubeをチェックした。

「わっ、もう五十回再生だ! あとコメントも来てるよ! 『いつも楽しく見てます、演劇部の中学生です! バナナの早口言葉、初めて知ったのでうちの部でも今度やってみます』だって。参考にしてもらえるの幸せだなあ」

 嬉しそうにスワイプしている彼女を見る。華やかで綺麗な顔が、ぼんやりと液晶のライトに照らされていた。

「あ、演技にもコメントもらえてる……『雨のち雨の台詞もすごく感情籠ってて良かったです』って……やっぱりこれも嬉しいなあ」

 優しい目で画面を見る彼女は、本当に心から喜んでいる表情で、液晶を撫でていた。

「なあ。手術の後とか、お見舞い行けるのか?」
「ううん、ちょっと難しいと思う。安静第一だしね。スマホは見てもいいみたいだけど」
「じゃあ、で……たくさん連絡するかな」

 電話する、と言いかけてしまって、慌てて引っ込める。高校生でただの彼氏だと、お見舞いすら難しい。自分が子どもであることを痛感して、悔しくなる。

 迫るカウントダウン、会えないことの寂しさ、彼女との関係の不安。幾つもの後ろ向きな感情が流れ込み、心の中に靄(もや)がかかりそうだったので、すぐに眼前の風景に視線を移して落ち着かせる。間違いなく彼女の方が辛いはずで、俺だけ取り乱したくなかった。

「ねえ」
「ん?」

 空の紺色は徐々に濃さを増していき、天から夜が降りてくる。肩を叩かれ、彼女の方を振り向く。

「覚えておいてね、私のこ……こ…………え」

 暗がりの中で、声を詰まらせながら話す彼女の頬が、微かに光る。それが涙と分かるまで、そう時間はかからなかった。

「当たり前だろ」
「約束だよ、約束」

 指切りして、顔を寄せた。嗚咽もない、鼻も啜っていない。音だけでは泣いていると分からない。本当に、声と一緒に自然に出てきた涙なのだろう。

「覚えておいてね」

 もう一度、千鈴は繰り返す。返事の代わりに、腰に手を回す。景色に目もくれず、彼女を腕の中に閉じ込める。


「有斗」
「はい」

「あーると」
「はい」

「好き」
「おう」

「北沢有斗君」
「季南千鈴さん」

「有斗」
「はい」

 お互いの口に耳を寄せて、ただ、彼女の声を吸い込んだ。
 消えないように。忘れないように。



 23 やっぱり君は

 そこから先は、なんだかあっという間に平日が過ぎていった。

 十三日、月曜日。遂に彼女はクラスで病気のことを伝えた。泣いている友達、好奇心であれこれ訊く男子、色紙の準備を始めるリーダー格の女子。クラスが慌ただしく動き出す。千鈴と付き合っていることはナイショにしているので、俺も他の男子と同じように、クラスメイトの不躾な質問と用意していた彼女の答えを一緒に聞いていた。

「じゃあ、冬休みの宿題を出しておきますね」
「えー!」

 クラスの友達が声が出なくなる。そんな大きな事件があったって、授業は当たり前のように普通に進み、何も変わらない日常が過ぎていく。始めはそのことにイライラもしたけど、次第に慣れていった。世界はそうやって、すぐに誰かを取り残していく。だからこそ、その人を大事だと想う人が、隣で見守るのだ。

 ***

「いやあ、意外とあっさりだったよね」
「その感想もだいぶあっさりだな」

 集会室で、千鈴は苦笑して見せる。備品だらけの、逢瀬には似付かわしくない教室。ファミレスやカフェで話してもいいけど、ここから始まった関係なので、すっかり二人のお気に入りの場所になっていた。

 火曜日、もう火曜日。寝て起きたら水曜日が来て、宿題をこなしたら木曜になって、焦ってるうちに金曜になって、出かけているうちに週末も過ぎて、あっという間に手術当日になってしまうのだろう。

 これまで撮ってきた動画を思い返す。アップした演劇ガールの動画は、三ヶ月で十三本。結構頻繁に撮影していたつもりだったけど、本数で見るとそんなに多くないのかもしれない。

「そうだ、有斗」
「んあ?」

 軽い呼びかけに同じく軽いテンションで返事した俺に、千鈴は小指を立てた右手を出した。

「離れないでね!」

 いつものノリのまま言うつもりだったであろう、その言葉。彼女の心の内は、精一杯の勇気を込めた震える指が雄弁に教えてくれた。

「……もちろん」
 小指を絡め、指切り。慰めでもその場しのぎでもない、本心だった。


「そろそろ帰るね。入院の準備とかあるし」
「ん」

 これまで当たり前のように夜までいられたのも、今はもうできない。でも、今生の別れでもないけど、やっぱりなるべく一緒にいたくて「送るよ」と言うと、千鈴はいつものようにむふーっと破顔した。

「電車、空いてるな」
「会社員の人少ないね。忘年会とかかなあ。あ、あのミステリー、めっちゃ面白いって愛弓(あゆみ)が言ってた」
「表紙が綺麗なやつだろ? 本屋でいっつも見る」

 電車の中で、他愛もない話をする。ついつい終わりを意識して「年が明けたらこうやって話すのもできないな」なんて考えてしまった後、「でも普通にチャットすればいいな」と思い直す。

 そんな中で、俺の視界は1つの中吊り広告、週刊誌の見出しを捉えた。

『きっかけは炎上! 命を絶った若者たち』

 煽り文が心を焼く。動機が激しくなりそうで、すぐに視線を斜め下、千鈴に戻す。塾の広告に載っていた理科の問題を凝視している彼女を見ながら、頭は冷静に一つのことを考え始めた。

 彼女の最寄り駅に着く。電車を降り、少し遠い階段に向かって歩く。
 目をキョロキョロさせながら、何を見るでもなく黙っている俺に気付いた彼女が、制服の袖を引っ張った。

「何考えてるの?」
「……前に投稿してた動画のこと」

 歩くスピードをゆっくりにして、彼女は「話聞くよ」と言わんばかりに俺の顔を凝視する。

「あの時から、俺はずっと『動画を作らない』っていうのが償いだと思ってたんだよね。傷付けちゃった人がいるから、もうそういう人を出さないようにすればいいと思ってた。でも、そうじゃない償いの仕方もあるなって思って」

 そう、それは、君が気付かせてくれたこと。

「俺は動画を作るスキルが身に付いたから、これからは誰かが幸せになる映像を作ればいいんじゃないかなって。卒業祝いとか誕生日とか、そういうときに使えるようなものを頼まれて作れば、それで誰か喜んでくれれば、それもありなんじゃないかなって考えてる」

 傷付いた人が戻るわけじゃない。消すことはできない。でも、他の誰かを笑顔にできるなら、動いてみてもいいのかもしれない。

「良いと思うよ。私も幸せになったし!」
 いとも簡単に肯定して、ぎゅっと腕を絡める。

「ありがとな」
 俺が二十分悩んでいたことに、たった三秒で正解をくれる。いつだって君には適わない。

「ここでいいよ、出るとお金かかっちゃうし」
 改札前で、千鈴は俺の腕を離した。

「ん、いや、でもさ」
 少しでも長く話していたい、という俺の気持ちを見透かしたうえで、彼女は「ダメだよ!」と止めるようなポーズで右の掌をこっちに向けた。

「お金は大事! 冬休みもデートするだろうし、ちゃんと貯めておいてもらわないと」
「……確かに!」

 カウントダウンばかり考えてしまう俺に、千鈴はいつも、手の届く少し先の未来を見せてくれる。

 きっと否定するだろうけど、やっぱり君は強い人なんだと思えた。



 24 手術と終わり

 千鈴と同じクラスで授業を受け、一緒に帰る日々。それを数日繰り返し、気が付くと土曜日。明日の昼は彼女の手術だけど、この週末に会う予定はない。それは当たり前で、入院の準備だってあるし、親戚だって激励に来てるかもしれない。何より、両親と過ごす時間が必要だろう。

 両親にとってはどれだけしんどい週末なのだろう。少し前に千鈴のお母さんを見たとき、少しやつれているように見えたのを思い出す。親の気持ちは、子どもの俺にはまるで計り知れなくて、でも思い浮かべるだけで胸の奥のでこぼこした部分を釘で引っ掻くような気分になる。

 三ヶ月付き合っただけの俺は、この週末は我慢。何をしたって千鈴のことが浮かんでしまうので、勉強や読書はすっぱり諦めて外出した。喧騒に紛れ、音楽を聴きながら本屋のコミックを眺める。

 千鈴は今日の昼過ぎから入院と聞いていたので、そろそろ病室に入っているだろう。彼女のことを考えて泣き喚いて過ごすことになるのでは、と自分自身を心配していたものの、拍子抜けするほど穏やかに、週末が過ぎていく。

 それでも連絡を絶つのは寂しい。電話は難しいと聞いていたので、「返事、暇なときでいいぞ」と前置きして、いつもと変わらないチャットのやりとり。

『これが泊まる個室だよ! 結構広いでしょ』
『ホントだ、俺の部屋より広いな。笑』
『病院食も美味しそう。低カロリーだし、痩せるかも!』
『おっ、いいね。次会うの楽しみにしてるわ』

 まるでちょっとした検査で入院するかのような軽いトーンで文字とスタンプをやりとりする。普段通りの彼女が愛おしく、一方でどんなに不安か想像もつかなかった。

「ただいまー」
「お帰り。ご飯どのくらい食べる?」
「あー……そんなに要らないや」

 家に帰ってすぐ、母親に力なく返事をして部屋でベッドに横になる。気力も集中力もなくうだうだ過ごしてしまって、母親に何度も呼ばれてようやく起き上がり、クイズ番組を見ながら遅めの夕飯を食べた。

 どの家庭も同じように時間は流れているはずなのに、我が家は平穏に包まれていて、千鈴は病室にいる。「不公平」だの「くじ運」といった言葉が浮かんでは消え、肉野菜炒めにかけた焼き肉のタレもどんどん味がしなくなっていった。

 部屋に戻り、再びベッドに倒れ込む。また千鈴に連絡しようか。まだ二一時過ぎだし、起きてるはず。でもあまりたくさん送ると俺も不安がっているのがバレて余計な気を遣わせるだろうか。ロックを解除しようとしては止(や)め、スマホもその度に飽き飽きしたようにパスワード画面を映し出す。

 その時。


 ブブッ ブブッ

 バイブが着信を告げる。画面に表示されたのは「季南千鈴」の名前だった。

「はい」
「もしもし、有斗? 今だいじょぶ?」
「ああ、うん、大丈夫」

 気のせいか、随分久しぶりに声を聞いた気がする。以前話していた強い薬を最後に飲んでいるのだろう、とても喉の手術を明日に控えているとは思えない綺麗な声だった。

「そんな長くは話せないから一言だけなんだけど」
「ああ、ううん。かけてきてくれて嬉しいよ、ありがとな」

 優しい声が耳にすうっと入ってくる。ちょうどいい温度の温泉に浸かったかのように、胸の辺りがじんわりと温かくなる。

「ねえ、有斗」
「うん? あ、ちょ、ちょっと待って!」
「へ? いいけど」

 何かを言いかけた彼女を制す。もうすぐ電話も切ることになる。俺が聞ける、彼女の最後の声になるかもしれない。声を残さなきゃ。アプリで録ればいいかな。通話相手の声って録音できるのかな。いっそスピーカーにしてパソコンで録音……

 そこまで考えて、やめた。録音したら、いつでも聞けると思ったら、彼女の声を全力で聞けない、受け止められない気がして。もうたくさん形にしたから、最後は俺の中に残す。

「ごめん、大丈夫」
「なになに気になるなあ」

 頬を緩めたような明るいトーンで笑った後、彼女はもう一度「有斗」と俺の名前を呼んだ。

「大好きだよ。手術、頑張ってくるね!」
 耳に当てたスマホから、声が聞こえる。「季南千鈴」が聞こえる。

「……うん、俺も千鈴のこと大好きだ。手術頑張れよ、教室で待ってるぞ!」
 いっぱい泣いた二人だから、今は泣かない。エールしかできない自分なりの、精一杯のエール。

「じゃあ、またね」
「おう、またな」
 別れを告げて、電話を切る。

 無事に終わりますように。またクラスで会えますように。ずっと一緒にいられますように。

 おでこに当てたスマホに願いを込めて、落とさないようポケットに入れる。

「……よし!」

 声を聞いたからか、気力が復活してきて、俺は明日やる予定だった宿題に手を付け始めた。

 ***

「いってきまーす!」
 勢いよく玄関を飛び出し、急ぐ必要もないのに駅に向かって走る。

 十二月二四日、金曜日。終業式で午前中解散というゆったりなスケジュールのはずなのに、早く目が覚めてしまい、七時二十分には桜上水駅に着いてしまった。そわそわしながら通学路を早歩きし、先生の車と同じくらいの時間に校門をくぐって、シューズロッカーで上履きに履き替える。

 今日は、千鈴が登校する予定。いつ来るか分からないけど、会えると思うだけで何も手に付かなくなる。今日授業がなくて良かった。

 手術当日、無事に成功したということだけチャットで報告をもらっていたけど、そこからは検査や親戚のお見舞いで忙しかったらしく、ほとんど連絡を取っていない。

 久しぶりに会うのが嬉しくもあり、どんな風に変わっているのか不安でもあった。

 ガラッ

 ドアを開ける。カーテンを全開にした窓から、光の粒をまき散らして、朝日が射しこんでいる。

 右から2列目、前から3番目。昨日まで空いていたその席に、季南千鈴が座っていた。

「よお、早いな!」
 こっちを向いた彼女は、いつものようにむふーっと口角を上げて手を振る。

「久しぶり」
(久しぶりだね)

 口をパクパクさせる千鈴。

(有斗、寂しかった?)
「寂しかったっての」

 肘で頭を小突くと、彼女はキュッと目を瞑って思いっきり笑った。

 口の動きで、何を言ってるかちゃんと分かる。
 それに、声もちゃんと分かる。たくさん聞いた声だから、脳内でちゃんと聞こえる。

 いつか声の記憶が色褪せても大丈夫。俺達には、たくさんの動画があるから。
 大丈夫。これなら、やっていける。


「なあ、次は何撮る?」
 首を傾げる彼女に、俺はビデオカメラを構える仕草をして見せた。

「演劇ガール、続けたいなら一緒にやろうぜ。全部テロップでもいいし、簡単な言葉ならこれまでの音声合成してもいいぞ。千鈴ボーカロイド、俺が作るよ」

 そう言うと、彼女は少し驚いたように、そしてちょっとだけ困ったように笑ってから、大きく頷いた。

(いいね、やる!)

 これから大変なこともたくさんあるだろう。衝突もケンカもきっとある。
 お互いイヤになったり、君の言葉や態度に傷付くこともあったりするはずで。
 でも、どうせ傷付くなら、やっぱり相手は君がいい。
 大好きな、季南千鈴がいい。

「じゃあみんなが来るまでここで作戦会議するか。クリスマスの予定も決めなきゃだしな!」

 自分の机に鞄を置きに行こうとした俺の腕を、千鈴が引っ張った。
 そして、振り返った俺に向かって、大きくはっきりと、口を動かす。

「……俺もだよ」

 そう一言だけ返して、俺と彼女は、言葉も声も要らないキスをした。



大丈夫。これなら、やっていける。
一年は終わるけど、来年から千鈴との新しい日々が始まる。

そう思って、目の前で笑っている彼女と見ながら、寂しさと一緒に訪れた微かな、でも確かな喜びを噛みしめていた。噛みしめていた、のに。


 その終業式が、俺が彼女に会った最後の日で。


 彼女が亡くなったと聞いたのは、年明けの始業式だった。
 25 答え合わせ

 一月十一日、火曜日。成人式の三連休が終わり、千鈴とあんまりやりとりできなかったな、と思いながら登校した俺を待っていたのは、担任からの報告だった。

「季南千鈴さんが……昨日亡くなりました」

 担任である彼女も相当なショックを受けているのか、悲しさを押さえつけるようにやや事務的な口調で話す。しかし、奥底にある感情の揺らぎは隠せず、それは実際の体の振動になって、固く握って教卓に置かれた彼女の手を震わせていた。


「……北沢」

 放課後、ぼんやりと椅子に座って、ただ意味もなく机の木目を見ていた俺に、三橋が話しかける。クラスのみんなも千鈴のことで色々言い合っていたけど、途中から出所不明な噂話も混ざってきて、俺から見たら騒ぎ立てる週刊誌のようにしか見えなかった。

「どした?」
 顔も見ずに答える。

「大丈夫……?」
「……に見えるか?」

 誰かを気遣ったり、強がったりする力もない。そのくらい許せよ、と思いながら誰も何の声も耳に入れたくなくなって、今更の昼寝のように机に突っ伏した。

 そのままずっと伏していたかったけど、そういうわけにもいかない。仕方なく覚束ない足取りで廊下を歩いていると、俺を待つように慶が柱に寄りかかっていた。

「……また遊びに行こうぜ」
「…………いつかな」

 とっくに話を聞いていたであろう彼の、敢えて触れない優しさが、今は逆にひりひりと心を撫でた。

 彼女と歩いた駅までの帰り道。彼女と時間差で乗ってこっそりレンタルスペースに向かった電車。町のそこかしこに、千鈴との足跡が残っていて、悲しくて仕方ないはずなのに涙は出てこない。

 心を占めるのは、虚無。何もかもどうでもいい。いつもなら出てくるもう一人の自分すら出てこない。ひたすらに呆然としたまま、からくり仕掛けのように歩く。足を動かせば体も動いてなんとか家まで帰れる。人間というのは便利な作りだ。


 言葉数少なめに説明していた担任の言葉を思い出す。
 千鈴が説明していた通り、喉の腫瘍は咽頭ガンと呼ばれる病ではなかった。ただし、悪性の腫瘍であるという意味ではガンと何ら変わりなく、転移することも一緒だった。若い方が進行が早く、全身に転移する点も。終業式に一緒に歩いていこうと約束したはずの彼女の命を、僅か二週間で奪ってしまった。

『演劇界の重鎮、逝く』

 名前は知っているけど主演作を見たことはない俳優のニュースを電車の中吊りで目にし、勝手に彼女と重ねる。演劇という単語一つで、シンクロさせるには十分だった。

 彼女とは終業式以来会っていなかった。病院で検査があってバタバタすると聞いていたし、手術を終えた年末年始なのでゆっくりさせてあげたかったので、俺の方から遠慮した。

 LIMEの返信は、一昨日の九日で止まったままだ。その日のやりとりはちゃんと「またね」で終わっていたから何の違和感も覚えなかった。昨日送ったものには返事はなかったけど、九日に病院に行くと言っていたので忙しいのだろうと思っていた。

 クラスメイトは皆、葬儀には参加できず、告別式だけらしい。「彼氏」なんてポジションは何の役にも立たないことを思い知らされる。これが動画なら、このシーンだけ、彼女の一昨日から今日までのデータを切り取ってしまいたい。八日までなら、彼女は元気でいるだろうか。俺と通話していたあの時も辛かった? お正月の通話のときは? 終業式の日から、既に転移は始まっていたのだろうか。あるいはひょっとして、ずっと前から、こうなることが分かっていた?

 終わりのない思考を巡らせながら、家の最寄り駅で降りて家まで歩き、最後の力を振り絞って家のドアを開ける。

「おかえり! ご飯すぐ食べる?」
「ああ……今日は食べてきた……もう寝るわ」

 食欲がないのを誤魔化したのは心配をかけさせないためじゃない。詮索されたくないから。

 ベッドに倒れ込む。フレームで打った脛(すね)の痛みが、これが全て現実だと無情にもズキズキと知らせてくる。鉛のように重い体に、間もなく降りる夜の帳(とばり)の如く暗い心を宿して、その日は制服のまま昏々(こんこん)と眠った。


 次の日は学校を休んだ。電車の中で風邪をもらったらしいと言えば、本当の理由には触れられずに休める。今が冬で良かった。

 休んだからといって何をするでもない。フリースとジャージに着替えて、本当の病人だってもう少し動くだろうと思うほど、ひたすら横になって眠る。体を休めたい、心を休めたい、そしてそれ以上に、何も考えたくない。逃げ込み先は、夢の中だけだった。

 それでも、寝続けることはできない。夕方には完全に目が冴えてしまい、横になったまま、千鈴を一昨日に置き去りにしていく時計の秒針をじっと見つめる。少しずつ頭が活動を始め、記憶を辿っていく。
 今思い返すと、千鈴との会話の中にヒントがあったように思う。

 一度彼女が爆発したとき「時間がないのに!」と頻りに叫んでいた。あれはもちろん声帯の摘出のこともあったんだろうけど、ここまで考えてのことだったのかもしれない。声が出なくなるまでに観覧車に乗りたいと言ってたのも、ひょっとしたら。

 カラオケのときもそうだ。手術の後はカラオケに行かないという彼女に、「俺が歌うのを聞いてるだけでもいいぞ」と冗談っぽく言ったときに、彼女はとても寂しそうな表情を見せていた。あれもカラオケ自体に行けなくなる可能性があったからなのだろうか。

 そういえば彼女のお母さんも随分やつれているように見えた。あの時、既にこうなる危険性があったのだとしたら……もはや想像を絶する心の痛みだったに違いない。

「あ……」

 唐突に高尾山に登ったときのことを思い出し、声が漏れる。彼女と抱き合ったのときの言葉を、今でも鮮明に思い出すことができる。

『覚えておいてね、私のこ……こ…………え』

 私の声、と、本当に彼女はそう言いたかったのだろうか。
 私のこと、と、そう言いたかったのではないだろうか。

 どれも確証はない。それでも、いつだって強がって、気遣ってくれたのだと感じる。

 でもそこには、彼氏彼女の関係なのに秘密にされていたという怒りも湧いてきて、心の中は幼児のおもちゃ箱のようにぐちゃぐちゃになる。

「……寝よう」

 誰に聞かせるわけでもなく独りごちる。何でもいい、千鈴がいないなら、もう何もかもどうでもいい。そう思いながら頭から毛布を被り、無理やり目を瞑って眠りに落ちていった。


 夜、両親の寝支度の音で目を覚ます。時間は二一時で、カーテンを開けてみるとすっかり町は夜の静寂に包まれていた。

 起き上がる気にはならなくて、とりあえずマナーモードを解除してスマホを触ってみる。LIMEにも大したメッセージは来てなくて、そんな大したことないニュースで彼女とのやりとりが下へ下へ追いやられることが嫌で、機械的にスワイプして消していく。

 そして、ゲームもネットも、もちろんYourTubeも見る気にならなくて、何の気なしにメールボックスを開いた。


 ポンッ


 音とともにメールボックスが更新され、大量のメールが届く。色々なお知らせに混ざって一件、よく見ていた名前から九日にメールが届いていた。

『季南千鈴』

 反射的に飛び起きる。なんで彼女が俺のアドレスを? ああ、そうだ。初めに俺のパソコンでYourTubeにログインしてもらうとき、俺のメールアドレスを見てたな。それを覚えてたんだろう。

「これは……?」

 件名は「有斗へ」、本文にはYourTubeのリンクが一つだけ貼られている。

 大きな画面で見ようと思い、机に座ってノートパソコンを開く。ずっと寝ていたせいか、体のバランスを取るのが難しい。
徐々に速くなっていく鼓動を落ち着かせながらURLをクリックする。それは、「1/9」と彼女が亡くなる前日の日付がタイトルになったYourTubeの動画だった。



 26 使いきった私から君へ

「やっほ、有斗、見てる?」

 映っているのは、カーディガン姿の季南千鈴だった。後ろのベッドを見るに、自分の部屋で撮っているらしい。いきなり俺の名前を出したので驚いたが、検索には引っかからず、リンクを知っている人しか見られない、限定公開になっているようだ。

「えっと、今は一月九日です。明日病院に行くんだけど……正直もうダメかもな、と思ってて。だから思い切って動画撮ってみたの。頑張って編集するよ。だからもし、私が普通に戻ってきたら、笑って一緒に見よう」

 これは、死を悟った彼女からの、最期のビデオメッセージだ。一人でも編集できるように、ソフトを買っていたのかもしれない。

 もうダメかも、のところで彼女は少しだけ寂しそうに眉尻を下げる。少しだけ痩せているけど、強い薬のおかげか喉の調子は完全に治っていて、九月や十月に撮ったときと同じだった。よく通る、澄んだ彼女の声。

「えっと……演技、ちゃんと騙せたかな? 実は声をかけたときから、体に転移しちゃうかもって話は聞いてて、少し覚悟はしてたんだ。でもね、有斗には言い出しづらくて、声が出なくなるって話で止めちゃったんだ。気付いてた? 気付かなかったなら、私の演技力が凄かったってことだよね!」

 もうすぐ訪れる運命を知っているだろうに、あまりにも明るいトーンの彼女に驚いてしまう。そして、その明るさも、「騙せた私の勝ちね!」と笑うその元気も、全て強がりの裏返しであると知っていた。本当の彼女は、声を失うのが怖くて怖くてずっと震えているような子だから。

 でもなるほど、この先の展開が読めた。こうやって明るいスタートにしておいて、ここからこれまでの思い出とかお礼とか、たくさん振り返って俺を泣かせにかかるんだ。動画の最後に「泣いた?」とか感想を聞かれるに違いない。

 フッフッフ、お見通しだぞ。千鈴らしい作戦だけど、そうと分かれば対策はできる。感動的な言葉があっても、「これは罠だ!」と思えば、対抗意識で我慢できる。心の準備はバッチリだ。

「あ、先に言っておくと、この動画、別に泣かせる動画じゃなくて雑談だから!」

 …………はい?

「こうやって動画撮るの、もうできないから、やってみようかなって。だから、有斗だけに送るラジオみたいなものだと思って、聞いててね!」

 一人で納得したように、俺はコクコクと頷く。なんだ、違うのか、心配して損した。

「んー、何から話そうかな」

 BGMに小さくボサノバが流れ、テロップは右上の「有斗へ」だけ。シンプルな編集な分、千鈴にばかり目が行く。


 心配して損した。そう思ってたのに。


「これが自宅だよ〜。どう、女子の部屋、ドキドキする? えへへ」


「そういえばさ、山添先生の冬休みの宿題、ひどくない? 英文三十個も暗記って、アレ絶対連休明けにテストじゃんね!」


「有斗のところは初詣ってどうしてるのー? うちは元日に家族で行くって決まってるんだよね。よく漫画でさ、両思いの二人が年が変わる瞬間を初詣で迎えるシーンあるじゃん? あれ、ホントにあるのかなって思うよね。普通親が許さなくない?」


「あ、これ見て! 新しいカーディガン! ブラウン系なくてさ、買ってみたんだよね。さて、問題です、じゃじゃん! これ、幾らでしょう? 正解は……ドゥルルルルル……一五八〇円! セール最高!」


「最近、寝る前にこれ読んでるの。覚えてる? 少し前に電車で話してたミステリー! でも読み出すとすぐ眠くなっちゃってさー。全部読んだら有斗にも貸すね!」


 彼女の言う通り、二十分間、本当にただの雑談だった。手術の話もなければ、転移を匂わせることすらない。彼女の日常を切り取っただけ。

 編集も下手くそだ。初めて彼女が一人で編集したんだろう。切り替えが遅すぎて全体的に間延びしてるし、テロップも変なタイミングで出たり消えたりするから気になるし、BGMも思いっきり声に被ってるし。

 でも何でだろうなあ。不思議だなあ。

「千鈴……ち……すず……うう……うああ…………」

 頬が熱くて仕方がない。


 動画の長さを示すバーがどんどん右端に寄っていく。もう少ししたら、話している彼女とは、季南千鈴とはお別れ。もう彼女のことは見られない。季南千鈴は、もうどこにもいない。どこにも。

 それが寂しい。寂しい。水槽の水が循環するように、寂寥感が心のあちこちを撫でていく。

 そして、動画は最後の三分になった。


「じゃあ最後に、これまで動画でやってきた中で一番好きだった台詞を、もう一回届けます」

 そう言って彼女はスッと立ち上がり、目を閉じる。瞼を開けると、カメラには気力を(みなぎ)らせた瞳が映った。

 ピンと背筋を伸ばす。彼女が大きく息を吸う音が聞こえる。

『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの。それは時間であれ、能力であれさ。人生でもらったものは使いきりたいし、たとえ使い切れなかったとしても、そういう覚悟でいたいな、とは思うんだ』

 久しぶりに聞いたこの台詞。今思うと、なんて彼女にピッタリなんだろう。

 十月の撮影で聞いたんだっけ。記憶が曖昧だ。もっと、もっと覚えておけば良かった。記憶に焼き付けておけば良かった。

「ねえ、有斗」

 彼女は、優しい表情のまま、俺の名前を呼ぶ。何度も何度も呼ばれた、俺の名前。

「命も喉も、使い切ったかな! 演劇いっぱいできて良かった! YourTubeできて良かった! 有斗……好きだった! この三ヶ月間、楽しかったよ!」

 そんなお礼言わなくていいのに。全部過去にしなくていいのに。

 彼女の表情が少しだけ変わる。眉を変な形に下げて、口を曲げている。まるで、泣くのを我慢しているかのように。

「もし私のワガママ聞いてもらえるなら……動画、たくさん見て! 別に拡散しないでいいから。クラスの子にも教えなくていいからね。だから、だから……」

 声が揺れる。大好きな声が、湿って揺れる。

「有斗に見てほしいなあ。もういられないから……もう一緒にいられないから!」
 彼女の涙にシンクロするように、俺の頬がまた濡れる。

 失ってから初めて気付くとか、失ってやっと分かったとか。そんな台詞も歌詞も、あんなに目にしていたのに、やっぱり俺はバカで、こんなに愛しいと、失って初めて分かるんだ。

「えへへ……ほら、泣く演技上手でしょ? そんなわけで、またね。演劇ガールでした!」

 そこで動画は終わった。

「……演劇ガール関係ないだろっての」
 泣きながら吹き出し、「……んっ!」と力を込めて、涙を止める。
 演技じゃないことくらい、ちゃんと分かってる。

 彼女が最期まで前を向いていたから。どれだけ心に暗がりがあっても、俺の前で笑ってくれていたから。

 俺もそれに応えたい。彼女に恥じない自分で一緒に歩けるように、同じ方向を向きたい。

 たった三ヶ月だけど、俺は季南千鈴の彼氏だったから。

「……よし」

 散々泣き腫らしたからか、視界が急にはっきりしたような感覚。やりたいことが、フッと浮かんできた。



 27 救われた僕から君へ

 ノートパソコンを開き、ビデオカメラをケーブルで繋いだ。これまで撮った全てのデータを、パソコンに移していく。

 一つ一つのデータを見ていった。YourTubeの動画一本ごとに、NGのデータやオフショットの映像が十分ちょっと。それに手術前のデートのカラオケで撮ったのが一時間。合計で大体四時間くらい、「撮っただけで使っていない映像」がある。

「やるか!」

 時間は二二時。編集ソフトを開き、初めて投稿したときに使っていなかった動画ファイルの編集を始めた。

 まずはNG集ってことでNGをまとめようかな。タイトル画像もつけよう。BGMは何がいいかな。ちょっとバラエティーっぽいフリー音源があったはず。千鈴が好きだったジングルも使いたいな。

 噛んだところはテロップ。「コケッ」って効果音を入れて……あ、スタッフが笑ってるみたいな声も入れてみよう。

 思いつくまま、どんどん編集を進めていく。カメラに眠っていた映像が、作品になっていく。


 別に誰に公開するわけでもない。限定公開で、彼女のアカウントでアップしたい。

 ちゃんとした動画は、世界中に届けた。いつでも見てもらえる。

 だからこれは、誰に見てもらえなくてもいい。「俺は君の声を一つ残らず聞いたよ」と、伝わればいい。「君の声はこんなに素敵だって、俺は知っているよ」と、空の上で見ているはずの君にだけ響けばいい。


 二十分間の未使用動画を使って編集するのに一時間弱かかっている。元ネタの動画ファイル、四時間分あるぞ。このペースだと軽く十時間かかるな、大丈夫か。

「画像やBGM使い回して……まあ朝までには」

 無謀なことを口走りながら、カチカチとマウスを動かす。気の長い孤独な作業になりそうだけど、それもなんだか楽しくて、口元は自然と緩んだ。



「……ふう」

 気が付くと長針はぐるりと何周か回っていて、下山を始めた短針はもうすぐ数字の一に着くというところ。カーテンを開けると冷気がヒヤリとやってくる。半月より少しだけ窪んだ月が、雲の合間を縫って柔らかい光を放っていた。

 長時間集中して作業していると喉も渇いてくる。家に麦茶しかないことを思い出し、「ちょっとコンビニでも行くか」とこっそり家を抜け出し、チャリで五分。気分転換にもちょうどいい。

 白色の明かりで眩しく照らされたドリンクの棚を、上から下まで蛇腹のように視線を動かして見ていく。

「どれにするか…………おっ」

 目に留まったのは、一本の黒い飲み物だった。
 
 家に帰ってきて、静かに蓋を開けて、おそるおそる口をつける。

「さてさて、お味は……ぐえっ」

 苦さに思わず顔を(しか)めた。

 彼女が一番最後に撮影していたときに飲んでいた「スパークルコーヒー」は、シュワシュワとした爽快感と不得意なブラックコーヒーの味がびっくりするほどマッチしない。大人はこれを好きこのんで飲むのだろうか。

 千鈴が飲んでいるときに面白がってカメラを回していたことを思い出し、どんなリアクションをしていたか気になって見返す。画面の中では、彼女も緊張の面持ちでペットボトルを持っていた。

『いただきます……ぐえ』
「ぶふっ!」

 同じリアクションをしていたことが、なんだか無性に可笑しくて笑ってしまった。彼女も『やっぱりブラックはちょっと苦手!』と首を振っている。

 ここまで似てるから、惹かれ合ったのかな。それとも、片方がもう片方に似たのかな。

 どっちでもいい。似てるだけで、十分幸せだった。

「んじゃ、戻りますか!」

 もう一口飲んでキャップを締め、右手の拳を左手に打ち付けた音を合図に再開する。やっぱり苦いけど、千鈴も同じものを飲んだかと思うと嬉しくなる。

「ここでこっちの動画も交ぜてみるかな……」
 NGに加えて、本番撮影以外のオフショット動画も編集していく。楽しげに笑っている姿、真剣な表情、うまくいかなくて苛立っている様子、そういう彼女の全てが、声とともに記録されていた。

『皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日も見てくれてありがとう……今日も演劇大好きです……いや、今日も元気ですか……ちょっ、有斗君、練習は撮らなくていいの!』

 十月の映像も、こうして見ると随分昔に思える。

 映像を切り替えるときの特殊効果、コンマ単位で調整するテロップ、毎回変えるBGM。一つ一つに、千鈴への想いを込めながら、編集していった。



 ねえ、千鈴。君は「有斗が動画のことを教えてくれて、自分を救ってくれた」なんて言ってたけど、それは逆だよ。救われたのは俺なんだ。
 
 誰かを炎上させることにしか使っていなかった自分の力を、君のために使うことができた。君が「自分の声を、自分の命を使い切る」ことに活かすことができた。それが俺にとって、どれだけ嬉しいことだったか、君には想像もつかないだろう。

 だからこそ、これからは他の人を幸せにするために動画を作ろう、なんて考えることもできた。全部、君のおかげなんだ。本当にありがとう。

 そして、やっぱり君が好きだったな。声を失くした君とうまくやっていけるか不安になってたけど、それでも、それだけの理由で諦めてしまうには、離れてしまうには勿体ないくらい、君は素敵で大事な人だった。

 だから悔しい。君と一緒にいられないことが、すごくすごく悔しくて寂しい。一緒にいてくれてありがとうって想いと、これからも一緒にいられなくて残念だって想いと。

 その感謝と愛情を、もう面と向かって伝えられないし、本当に面と向かったら照れて上手く伝えられない気がするから、動画にして贈ろう。いつでも俺が見返せるように、いつでも君に見てもらえるように。これは、俺と君が全力で笑って泣いて過ごした三ヶ月間だから。

 ***

「くあっ……」

 椅子の背もたれに寄りかかって体重をかける。画面とにらめっこを続けて固まった体を伸ばし、もはやすっかり炭酸の抜けたブラックコーヒーを一口飲んだ。

 十三日の平日、木曜の午前六時半。覚醒した頭で仮眠も取らずに半日作業を続け、全ての動画を作り終えた。これまで公開している十三本の動画、そのそれぞれの撮影のNG・オフショットを一本ずつまとめた特別編と、テロップもつけて前後編に分けたカラオケの動画、合計十五本。彼女のアドレスを知っているのをいいことに、限定公開でアップロードする。

 拡散しない限り誰も見られない。君の両親だって、君のアドレスとパスワードを知らなきゃ見られない。だからこれは、俺達二人だけの秘密。俺達しか知らない、付き合った証。

「おつかれ!」

 自分に向かって叫び、そのままベッドに倒れ込む。酷使した目もしぱしぱするし、関節も痛い。うつ伏せはちょっと苦しいけど、全身が疲労に包まれていてで体を反転させるのも億劫。でも、それは心地良い疲れ。

 前もこんなことあった気がするな。ああ、そうだ。中学の時に初めて動画を作ったときも、夜通し四苦八苦して、こんな感じだった。

 あと三十分したら登校準備だ。どうせ大して寝られないだろう。でも今はこのままでいたい。君に両腕で包まれるような気分で、このマットレスに沈んでいたい。

 色々な思い出に浸りながら、ストンと意識が消えるように十五分だけ眠りに落ちた。



 眠い目を擦りながら学校へ行く。二日ぶりの学校だけど、まったく話題にも触れられないくらい、朝のホームルームから千鈴の話題ばかりだった。

「先生、クラスで何かできませんか?」
「告別式だけなんて寂しいです」
「ご両親に何か贈るとか、そういう形でもいいので」

 一昨日、頭が真っ白だったときはみんな興味本位で千鈴の話をしているように思ったけど、今ならちゃんと分かる。誰もが、彼女のことを悼んでいた。

「あの、みんな季南さんの写真とか動画持ってるんで、それをご両親に送るのはどうですか?」
 三橋の声が響く。他のクラスメイトが頷いているのが見える。

 頭の中で、いつかの電車での千鈴との会話が蘇る。

『俺は動画を作るスキルが身に付いたから、これからは誰かが幸せになる映像を作ればいいんじゃないかなって。卒業祝いとか誕生日とか、そういうときに使えるようなものを頼まれて作れば、それで誰か喜んでくれれば、それもありなんじゃないかなって考えてる』
『良いと思うよ。私も幸せになったし!』
 
 やるなら、今。動くなら、今。

「あの」
 一斉にクラス中の視線が集まる。緊張で唾を飲む。

「みんな、動画とか写真、俺に送ってくれない? 俺、動画編集できるからさ。曲入れた動画にして、ご両親に渡そうよ。俺達もYourTubeで見られるようにするか」

「ホント? 北沢君、ありがとう!」
「送る送る!」
「ねえ、クラスのLIMEグループにアルバム作ってそこに追加していこうよ!」

 すぐにスマホに大量の通知が来て、千鈴の写真や動画がどんどん集まってくる。愛しい君の色んな顔が見られる。


 千鈴、やれるだけやってみるよ。せっかくの特技だから、使い切るんだ。命を使い切った君に、誇れるように。


 空席を見つめる。「演劇ガールでした!」と、あの声で話して、笑ってる気がした。

 〈了〉

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