17 不調の中で

「千鈴、準備できたぞ」
「ん……ありがと」

 恵比寿のレンタルスペースで撮影用の椅子とカメラを準備して、彼女に声をかける。

 以前使った部屋には白い壁紙に花の写真のポスターが飾ってあったけど、ここはモノクロの空の写真が飾られていた。

 千鈴は、撮影のために端に寄せた椅子に座り、クッションのある背もたれに寄りかかって、いつものアクア色のケースから粉薬をゆっくりと吸っている。机の上には、大量ののど飴のゴミがまとまっていた。

「大丈夫か?」
「うん。聞き取りづらくなったらちゃんと有斗の判断で止めてね」
 喉に優しい常温のお茶のペットボトルを持って、撮影位置につく。

 十一月一八日、木曜の放課後。いつも通りの撮影。ただ、九月末に初めて撮った時とは、千鈴の状況はだいぶ変わっている。それも、悪い方に。

 調子が悪いと、彼女は時折ガラガラ声になるようになった。ちょっと風邪かな、というくらいの感じだし、学校では意図的に話すのを減らしているらしく、クラスメイトには気付かれていない。

 ただ、これまで通りカメラを回しっぱなしで撮影していると、興奮したときや長時間話した時に声がおかしくなってしまうことがある。お互いに分かっている変化なので、千鈴からも「あんまり無理しないように気をつけるよ」と言われ、彼女自身も頻繁に喉のケアをしながら臨んでいた。

「それじゃいくぞ」
「ねえ」

 三脚を左手で支えながら録画ボタンを押そうとすると、彼女が遮った。そして写真でも撮るかのように、首と手を動かして何ポーズか取り、キメ顔を見せる。

「どう?」
「……可愛いよ」

 それを聞いてむふーっと満足気に笑う。白のトレーナーに深緑のロングプリーツスカート。ゆったりした服装に似合うリラックスした表情を浮かべ「やろう!」と頷いた。

「五秒前! 四、三……」

 指を折りつつ心の中で一までカウントしてから、手でキューのサインを出す。その瞬間、彼女の表情は照明の光を吸いこんだかのようにパッと明るくなった。

「皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 最近チャンネル登録が五十人になって、すっごく嬉しいです。これからもたくさん、演劇について語っていきますからね!」

 動画を見ている人からしたら何も変わらない、いつもの挨拶。でも撮っている俺はつい、「終わり」を意識してしまう。「これからもたくさん」なんて、来年はどうなるんだろう。声が出なくなったら、このチャンネルも終了になるんだろうか。

 意識が未来に引っ張られ、今が疎かになっていく。無意識に三脚の持ち手に力を入れて下方向に傾きかけたカメラを、慌てて直した。

「今回は、この前母親と観に行ったお芝居について話そうと思います。パンフレットも買ってきたので……じゃん! これですね、井川十春(とはる)さん、花桐信二さん主演の『ようこそ病院城へ』 最近は劇団のお芝居見ることが多かったんですけど、久しぶりに大御所俳優さんの舞台を観ました。今回はこの作品の魅力をたっぷり語っていきたいと思います!」
 思います、のところで、千鈴はカメラに向かって指を差した。

「オッケー、ここでストップ」

 これまでならそのまま語るシーンまで撮影を続けていたけど、結構長く話したので、合図をしてカメラを止める。声も違和感はなかったし、トーク部分はそのまま使えそうだ。

「ちょっと休んで次のシーン撮ろう」
「うん、ありがと。あーあ、休み休み撮るのやだなあ。大好きな作品だったから一気に話したいのに」
「まあガマンしようよ。しんどい思いしながら話しでも楽しくないだろうし」
「分かってるけどさあ。ホントは今日、お気に入りの台詞も言いたかったんだけど、演技がツギハギになるのイヤだから諦めたし」

 口を尖らせる彼女は、のど飴を舐めながらマスクをして、木目の綺麗なダイニングテーブルに突っ伏すようにして休んだ。深呼吸の音が机に当たって大きく聞こえる。

 一月の手術まであと二ヶ月。確実に、彼女は病に蝕(むしば)まれていた。

 二分ほど待ってから、俺はカメラに右手を添えながら左手をパッと挙げた。

「それじゃ撮ります! 五秒前……」
「まずは『ようこそ病院城へ』のストーリーですね。井川さん演じる若い研修医が病院に入ってくるところから物語が始まります。花桐さんはその研修医を預かる外科医のリーダー役を演じてます。基本的には、研修医がひたむきに経験を積むシーンとか、医師を志したきっかけの回想を交えながら、一人前の医師を目指していくんです。正直言うと、ちょっとピュアすぎる印象はありました。医療現場のリアルな姿、というよりは主人公にだけ寄り添った成長物語に近い印象で、序盤は没入しきれなかった部分もあります」

 やや辛口な評価だけど、コメントが細かいし、これまで十本の動画をアップしている彼女なので、信頼感はあるだろう。脳内で編集画面を開くと「ちょっと言い過ぎでは……(笑)」というテロップが浮かんだ。

「結構社会派なテーマも書く脚本家の方だったので、よくドラマでもあるような、病院内の政治とか腐敗みたいな話が、研修医の視点で描かれるのかと思ったんですけど全然違いましたね。でも、でもですよ! その分、人間ドラマとしての内容が素晴らしかったんです!」

 彼女がそうテンション高く叫んだとき、声の違和感に気付いた。多分彼女も感じたであろうその変化。何か喉に貼りついたものを無理やり出すかの如く、しゃがれている。

「患者に対する治療方針をめぐって先輩医師と口論になったり……んん……『もっと患者のために動きましょうよ!』って叫んだり……んふっ……そのドラマ的な部分が良かったです」

 声を整えようと何度か小さく咳払いをしたが、もはやそれで治る様子もなく、声がどんどんガラガラになっていく。彼女がギブアップする前に、俺は「カット」と口にした。

「うー、残念。ノッてたのになあ」

 パチンと指を鳴らして惜しがる千鈴。でもすべり台のように斜めにさがった眉を見れば、若干無理して明るく振る舞っていることはよく分かる。

「どうする? 今の部分から撮り直す?」
「ううん、どうせ直すなら脚本家の話の部分から撮ろうかな。あそこからちょっと喉危なかったしね」

 彼女は「ちょっと休憩するね」と言って、撮影で使わない椅子に座り、粉の薬を吸い始めた。


 こうして薬を使っている彼女を見るのはとても切ない。その頻度が少しずつ増えていくのを目の当たりにし、どうしようもないと知りつつ、なにかできることはないのか、このまま声が出なくなっていくのを見ているだけなのか、と思いを巡らせてしまう。そんなこと、千鈴本人が一番考えているはずなのに。

 いずれクラスでも事情を話すことになるのだろうか。みんなが興味や好奇心の混じった目で見るかも、と想像するだけで、自分勝手な怒りが湧いてくる。

 動画の中で病気のことを話してみたらどうか、とこの前千鈴に聞いた。もし言えば、彼女がちょっとくらい声が(かす)れても、誰も気にしなくなる。むしろ応援してくれる人がいるかもしれない。そんな思いで何の気なしに聞いたけど、彼女は「絶対言わないよ!」と即答だった。

「大した本数あげてないけどさ、これまで見てくれてた人もいるわけじゃん。だから、その人達に余計な心配かけたくないし、綺麗な声のまま見せたいなあって思って。それに、それバラしちゃったら『可哀想だから応援しよう』って目で見てくる人もいるかもしれないでしょ? それはすごくイヤだなって。せっかくたくさんの人にチャンネル登録してもらえるくらいしっかり活動してこれたから、ワガママかもしれないけど、ちゃんと普通の女子高生として見てもらいたいの」

 彼女の言葉を思い出しながら、のど飴を舐めつつノートに喋ることをまとめている様子を見つめる。撮影を順調に進められない中で、それでも必死に前に進もうとしている千鈴を、一番近くで支えたいと思った。

「よし! 有斗、撮影しよう!」
「オッケー、じゃあさっきと同じように座って」
 もう一度カメラを構える。綺麗な声の、君を映す。


「有斗、ありがと。今回もなんとかアップできたね」
「ああ、テンポも良かったし、編集しやすかったよ。千鈴のトークの為せる技だな」
「続けて喋れたら、もっと上手に話せたのになあ」

 編集作業を終えて、カフェの出口のドアをグッと押しながら答えた。投稿を終えた日の夜は達成感に包まれているけど、やっぱり彼女は不満そうだった。

「あーあ、こういう時にはストレス発散でめっちゃ辛いラーメンとか食べたくなる」
「今食べたらまた咽るぞ」
「手術終わったら、んんっ、たくさん食べるんだ」

 当たり前のように手を繋いで、空元気の籠る決意を掠れ声で口にする。その時に飲めても、それを俺に美味しいと肉声で伝えることはできない。その寂しさに、「楽しみだな」と出かかったその言葉を、喉の奥でもみ消す。

「有斗、ん、またね」
「おう、また学校でな」

 改札で手を振って別れる。いつもと同じ挨拶のはずなのに、うまく喋れないもどかしさなのか、千鈴はやや苛立って見えた。



 18 爆発

「あー、ダメだ」
 ガラガラ声だなあ、と言いながら千鈴はノートをバサッと開いた。
 両隣の部屋は部活をやっていないため、その音が静寂の中で大きく響く。

「調子戻れ戻れ」

 真っ白なページに「もどれもどれ」とシャーペンで書き殴る。この前見た「喉が苦しい」と同様、罫線を無視して斜めに書かれたその文字は、彼女の心の叫びそのものだった。

 短い秋が間もなく終わりを告げそうな、十一月二四日、水曜日。木々の葉は次々と地面に落ち、紅葉(こうよう)を愛でる場所は頭上から足元へと変わった。生徒も教師も街行く人も、厚めのコートを出して間もなく来る冬に備えている。

 前回の撮影から一週間、千鈴の容態は相変わらず悪化している。声が掠れる回数も増え、クラスでも「ちょっと風邪で喉やられちゃってね」と誤魔化して話すようになった。

 ただ、俺はといえば、その状況に徐々に慣れつつあった。あまり心配すると、逆に彼女も気が立ってしまうかもしれないと思い、こっちからは極力触れないようにしている。

「それで、どうする、撮影。明日やるか?」
「ううん、明日は病院あるから、金曜日にしようかな」
 病院を理由に断られる。こんなこと、今までなかった。

「……病院明けで大丈夫なのか?」
「大丈夫だって、有斗。今までと変わらないよ」
「だな」

 そんなことはない。病院を理由に撮影をズラすなんて、九月にも十月にもなかったし、撮影に休憩が頻繁に入ることだってなかった。

 もう俺も彼女も、「今までと変わらない」というのが気休めだと知っていて、それでもその言葉に(すが)る。変わらないでいられるなら、本当はそう在りたいから。

 ***

「じゃあ千鈴、撮るよ。五秒前、四、三……」
「はい、皆さん、こんにちは! お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 寒くなってきましたね、風邪ひいてませんか? 寒いときに演劇の練習すると、手がかじかんで細かい表現ができなかったり……ごめん、ストップ」

 目を瞑って、硬い表情で首を振る彼女に、俺は頷きながらボタンを押して録画を止める。眩しいくらいの白い照明に照らされた部屋の外では、このスペースを予約している時間が刻一刻と過ぎていくことを警告するかのように、夕日が赤く燃えていた。

 二六日、金曜の放課後。今日は千鈴が夜に通院があるということで、彼女の家の隣駅、東急東横線の祐天寺駅にあるレンタルスペースで撮影している。しかし、冒頭の挨拶の時点で、喉既に喉の奥に何かが詰まったような声になり、いきなりNGとなった。

「もう一回やるね。ちょっと休む」

 バッグからアクア色の薬ケースを取り出し、吸入口をカチャリと開けて中に入っている粉を吸い込む。制服から着替えた私服は、太ももまであるブラウンのニットセーターに、タイツとムートンブーツで、可愛い格好に薬は不釣り合いだった。これまでは話し始めてしばらくは平気だったのに、今日は特に調子が悪いのかもしれない。

「じゃあもう一回いくぞ。五秒前、四、三……」
「皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです。いやあ、寒くなってきましたね。皆さんは風邪とかひいてま……グフッグフッ!」

 何も飲んでいないのに突然咽る。カメラを止めようとしたものの、右手でカメラを制す彼女はそのまま喋る気のようなので続行した。

「ね、私が体調悪いんじゃないかって話なんですけどね。寒いときに演劇の練習すると、手がかじかんで細かい表現ができなかったり……んんっ……体が縮こまって動きが小さくなってしまったりして、グフッ、大変だったりします。前に見学に行った私立の高校では部室にエアコンがついてて羨ましくなりました……んっ……では今日は滑舌の練習いってみましょう!」

 そこで撮影をストップした。綺麗な声のまま見てもらいたい、と言っていたけど、今回はとうとうそれを諦めたらしい。悔しいだろうけど仕方ない。「いつもの綺麗な声」のテイクを待っていたら、時間がどんどん過ぎてしまう。
千鈴は丸くした右手を口に当てて、しつこい風邪にかかっている人のようにコンコンと咳をしている。そしてアーティストがライブで曲の間に水を飲むような自然さで、すぐに薬を吸い込んだ。

「調子悪い設定にしちゃった。これなら多少声掠れても平気だしね。まあホントに調子悪いんだけどさ」
「……あんまり無理するなよ」

 自虐を付け足す彼女に、そう返すのが精一杯。冗談として片付けたかったんだろうけど、彼女の顔はニコリともしていなかった。
「じゃあ有斗、続き撮ろう」
「……おう」

 こうして、今はもう行っていない演劇部でやっていた早口言葉の紹介に移っていく。体調不良の(てい)で多少の声の違和感はごまかしつつ、あまりにも掠れたり咳がひどかったりした場合にはNGにすることにした。

 そこまでハードルを下げたものの、やはり何回かNGが出る。とはいえ、俺から撮り直そうとはなかなか言い出せず、千鈴が心から残念そうな表情で「もう一回やる」と決めることが多かった。

 撮り直しになると、彼女は小さな舌打ちと大きな溜息を繰り返しながら休憩する。この空間に、これまでのような楽しい雰囲気や明るい笑顔はない。「ごめん、ミスった!」「ドンマイ!」といった弾んだ会話はなく、BGMでも流したいくらいだった。

 動画を投稿することは本来、千鈴が声を残すための手段だった。でも今は違う。彼女はどこか躍起になっていて、動画を出すことそのものが目的になっている。

 思うように進まない撮影。しかも少し前まで、何の問題もなく出来ていた撮影。想定と現実のギャップに不満を募らせる気持ちが、痛いほど伝わってくる。


 そして、感想のシーンで三回目の撮り直しをした時だった。

「なので、この『あいうえお いうえおあ うえおあい えおあいう おあいうえ』と一文字ずつずらしていく練習は……グフッグフッ! ガフッグフッ! 滑舌だけじゃなくて発声にも役立つ……ごめん有斗」

 猛烈に咳込んだ後、喉を枯らせたバンドボーカルのようなしゃがれ声になり、吐き捨てるように彼女は謝罪の言葉を口にした。

「カット。千鈴、ちょっと休んでから――」
「もうイヤ!」

 プツンと、千鈴の何かが切れた。壊れたロボットのように「イヤ! イヤ!」と繰り返す。苛立ちがコップに少しずつ溜まっていたのが、今回のNGでついに溢れ出してしまった、そんな感じだった。

「もう嫌だよ、全然うまくいかない! 毎回撮影も止まってばっかりだし、こんな声じゃ台詞の撮影だってできないじゃん! 時間がないのに! 自分の声なのに! 何にも思うようにならない!」

 ノートをバンバンと机に打ち付ける彼女。よほど悔しいのだろう、目の端に涙が滲んでいる。

「もう時間ないんだよ! 自分の声なのに! 大っ嫌い!」

 俺は必死で頭をフル回転させる。自分の言葉だとうまく想いをうまく伝えられない気がして、漫画や映画の台詞、曲の歌詞を思い出す。良いのがないか探したけど、それでも彼女にかける言葉が見つからない。そもそも発破をかければいいのか、励ませばいいのか、共感すればいいのか、何かちょっとでも間違ったら彼女を傷つけてしまう気がして、うまくまとまらない。「撮るのは今度に延期でもいいよ」なんて優しい言葉も浮かんだものの、余計ムキにさせてしまう気もした。

 せめて、彼女がゆっくり撮影をできるようにしよう。それでも無理なら仕方ない。俺は俺なりに、撮影のサポートをしっかりやらなきゃ。

 机の上にあった連絡先の紙を手に取り、一階の受付に電話をした。

「すみません、三〇五を使っている北沢ですけど、一時間延長で使うことできますか? ……はい、帰りに払います、ありがとうございます」

 電話を切って、千鈴に「延長できたよ」と報告する。

「空いてたからもう一時間使えるってさ。ゆっくりやろうぜ」
しかし、髪を掻きむしっていた彼女は、怒気を宿した目でこちらを見る。
「なに平然としてるの? こっちに気ばっかり遣って」

 落ちかけの夕日が、天から夜を引っ張ってくる。暗くなりつつある部屋で、俺にも入ってはいけないスイッチが入る。

「そりゃあ気遣うだろ。千鈴の撮影だし、ちゃんと撮れる環境用意するのも俺の役目だ」
「そうやってクールにやられるとちょっとイラっとする。もっと私に注意すればいいじゃん。叫んでも仕方ないだろって」
「叫びたいときだってあるだろ。俺が止める権利ないから」
「その言い方、何? 権利とか関係なくない?」

 彼女は、小さく咳をしながら、これまで見せたことのない目つきで俺を睨む。
ほら、ほら。分かっていたのに、自分の言い方が火に油を注いでると知っているのに、抑えることができない。俺の中に知らないうちに積もっていたらしいヘドロのような鬱屈が喉までせり上がって、言葉になるのを止められない。

「……別に延長しただけで、撮れなかったら無理に撮らなくてもいいからさ」
「でも延長しただけでプレッシャーになるじゃん。私喉がこんな調子なのに」
「じゃあ千鈴は延長しない方が良かったのか? 時間切れで撮影終わっても? さっきの状態で『延長した方がいいか?』なんて聞いてもまともに答えられなかっただろ」

 それを聞いた彼女は、グッと顔を下に向けた。大好きだった茶色の髪で顔が隠れる。ギリ、と小さな歯ぎしりが聞こえる。

「なんで……そうやって物分かり良いような顔してんのよ。有斗、こっちのことなんか何にも分からないでしょ!」
「……分かるわけねえだろ!」

 思いっきり拒絶の言葉を投げつけられ、俺も一気に沸点まで達する。

「そりゃ俺だって分かりたいよ! でもどうやったって俺とお前は違うから、分かりっこない! 俺は大きな病気なんてかかったことないから、お前の気持ちなんか理解したくたってしきれないんだよ!」

 これ以上ないほどのドライな正論は、彼女の表情を怒りから哀しみに変えた。

「だよね。違うもんね。分からないよね」

 彼女は辛い気持ちを吐露しただけで、俺は彼女にとって一番楽な形で寄り添いたかっただけで。でも何かがズレてしまって、どこかで歪んでしまって、簡単には戻れない。この口論もどこかで手打ちにしようとしてるのに、感情はいとも簡単に理屈を飛び越える。

「いいよ、もう。放っておいて」
「……んだよそれ。撮影どうすんだよ」
「この状態で撮影? 仮にちゃんと声が出たとしたって、こんな精神状態でうまくいくはずないじゃん。さっきもたくさん怒鳴ったからどうせ声も出ないだろうし。あーあ、ホントに、なんで私がこんな目に遭うんだろ」

 彼女への想いと腹立たしさと、うまく振る舞えない自分自身への嘆きと。数多(あまた)の感情がない交ぜになって、思考はどんどん後ろ向きになり、彼女の言葉の続きを勝手に想像してしまう。絶対に、そんなことは思っていないはずなのに。

「何? なんか言いたいことあるなら言えば?」

 ダメだ、ダメだ。一番苦しいのは千鈴なんだから。「それ」を口にしたら、俺達の間にある溝が完全に浮き彫りになってしまう。言うな、言うな。
 でも、言って楽になりたい自分もいて、それを止めることができなかった。

「千鈴、俺が病気になれば良かったのに、って思ってるんだろ」
「……は?」
「自分なんかじゃなくて、俺みたいに匿名で炎上動画作ったりしてた悪人が代わりに病気になればいいって、思ったりしてんだろ」

 自分で自分を責めたいだけ。そのために、この口論を利用した。

「……有斗、そんな風に思ってたんだ」

 口から出た音は、もう取り消せない。千鈴を信用していたら絶対に出ないはずのこの言葉は、彼女の心を深く(えぐ)ったに違いなかった。

「……もういい」
「…………だよな」

 あの観覧車で、泣きそうになるほど救われたはずなのに、それでも時折、こうして自分を責めてしまう。

 そしてその結果、大事な人を傷つけてしまったことに、また自己嫌悪する。何も成長していない自分が、とてつもなく嫌いになる。

「今日は撮影中止しよう。一緒にいてイライラするなら、距離置いた方がいいだろ」
「……そうだね」
「データは俺のに移しておくよ。すぐ使うか分からないけど」

 仲良くないクラスメイトを手伝うかのような事務的な態度で、ビデオカメラのデータを彼女のパソコンにコピーする。ありがとうの言葉もない。

「……帰ろう」

 一時間分の無駄な延長金を精算し、エントランスを出る。撮影も途中だし編集もしていないからまだ空は夕暮れ。このくらいの暗さなら、送る必要もないだろう。一緒に駅まで行くのも気まずいだけだ。暗黙の了解で、俺は駅と反対側に向かって歩き出した。


 俺が悪い、俺が悪い、俺が悪い。何度も、何度も繰り返す。そばにいたいと、並んで歩きたいと、あんなに願っていたのに。

 振り返ってみたかったけど、向こうに振り返ってもらえなかったら、と思うと不安で、我慢して真っ直ぐ歩き、角を曲がる。「またね」のない挨拶は思った以上に寂しくて、俺は急いでイヤホンを耳に嵌め、スマホで好きな曲を流して静寂を埋めた。