12 放課後、ドアの内側で

 週明け、十月十一日、月曜。全員が土日たっぷりエネルギーを充電したのか、十分間しかない二限の休み時間もクラス内は騒がしい。

「え、それ木澤の彼女? 見して見して!」
「マジで、めっちゃ美人じゃん!」

 他のヤツらと一緒に、友人のスマホに群がる。全員が顔と同じくらいスタイルを褒めて、「男子高生」が炸裂していた。

「千鈴、そのヘアゴム可愛いね!」
「えへへ、でしょ? モールのセールで買ったんだよね」

 よく通る、聞き馴染んだ声に気を引かれ、ちらと女子グループの方を見る。少し伸びた後ろ髪を、千鈴がハート付きのヘアゴムで縛っていた。彼女は時たま、あんな感じで結んでいる。

 土曜のカラパラのデートの後、夜も千鈴と通話した。親が近くにいないか気配を読み取りつつ、万が一、ドアを開けようとしても大丈夫なように鍵をかけてのおしゃべり。緊張したけど、それはそれで面白かった。

 そして、日曜夜も話した。特段喋りたいトピックがあるわけじゃないけど、喋りたい相手だから喋る。撮ってみたい演劇ガールの企画、新商品のお菓子、クラスの女子の噂、観たい映画、多すぎる英語の宿題。共通項が多いから話題には事欠かないし、もっともっと彼女を知りたくて、どんなことでも話したかった。千の鈴と書く名前の字の通り、鈴を奏でるように綺麗な彼女の声は電話越しでもとても素敵に聞こえた。

「季南、それ可愛いじゃん」
「お、田淵、ありがと。男子にも褒められるとはね」

 ふらふら歩いていた田淵が、千鈴に話しかける。割とイケメンだし、男女問わず普通に話せるので友達も多い。

「よく見ると季南の髪、綺麗だよね。色もいいし艶もある」
「はいはい、それ以上褒めても何にも出ないぞ」

 田淵が「マジだって」と言いながら彼女の髪に触れる。その瞬間、俺はグループの輪から抜けて、今まさに通りかかったかのように近づいた。

「おい田淵、女子の髪触るのはセクハラだぞ」
「いやいや有斗、髪はセーフだろ」
「ふっふっふ、それを決めるのは季南だぜ。さあ季南、嫌がるんだ!」
「わーセクハラー! ハラスメントですよー!」
「訴えられてるー!」

 一笑い取ってから、俺がさっきいた場所まで田淵を引っ張っていく。

「あっちで木澤の彼女の写真見てたんだよ」
「木澤の! すげー興味ある!」
 無事に遠ざけられて良かった。どう考えても嫉妬だったんだけど、モヤモヤしっぱなしでこの後も過ごすよりだいぶマシだった。


「有斗、お待たせ」
「おう」

 放課後、俺達が打合せするための集会室。いつも通り机を動かして話せる場所を作っていると、千鈴がドアをカラカラと引いて入ってきた。
 一つの長机に向かい合って座る。少し前までは二つくっつけて正方形に近い形にしていたけど、これが今の、俺達の距離。

「どうした? 何か楽しそうだな」
「んー? そう? そうかな?」
 秘密を早く喋りたい子どものように、彼女は両手を口に当てて揺れている。

「さっき、田淵が私のこと触ったから止めに来たんでしょ」
「……なんかやだった」
 図星だったので、ちょっとそっぽを向く。機嫌が悪くなったわけじゃない。思い出して気恥ずかしくなっただけ。

「うへへ、有斗はかわいいなあ」

 俺の頭をポンポンする千鈴。自分が随分子どもっぽく感じられてしまって、拗ねるようにそっぽを向いて「うっさい」と呟く。

「ありがとね、嬉しかった。はい、どうぞ」

 彼女の方を見ると、少し斜めを向いて、髪を触(さわ)れるようにしてくれている。何度かその髪を撫でると、むふーっと満足気に目をキュッと瞑って笑った。

 何だか今日は振り回されてばっかりだ。でもそれも、悪い気はしなかったり。

「よし、じゃあ次に撮る企画決めるぞ」
「はい、有斗先生! 私、考えてきました!」
 ピッと挙手する千鈴。小学一年生のように真っ直ぐ挙げているのが面白い。

「家で舞台の映像を見ながら食べるのにぴったりなお菓子を探すってどうかな? ほら、ポテトチップスとかだと手が汚れるし、おせんべいだと音がうるさいでしょ? あとは重いお芝居だと、甘ったるいチョコはなんとなく合わないとかさ」
「おっ、それ面白いな。当日タブレットとかで映像見ながら試してみるってことか」
「そうそう。色んな種類のお菓子を買っておいてね。で、途中でもちろん作品解説も入れて、興味ある人はどうぞって」

「甘いのとしょっぱいの、両方の部門で選手権だな。予算(かさ)みそうなら、駄菓子限定とかにしてもいいかも。俺の好きな酢漬けイカとか音も出ないし優勝候補だな」
「あ、それもいいね、みんなマネしやすいし! 私、大好きだから笛ラムネは外せないね」
「なんで観劇に一番うるさそうなの持ってくるんだよ」

 ツッコミを入れながら、そして好きな駄菓子の話へと脱線する。脱線から企画が思いがけない面白い方向に転がっていく……なんてことはほとんどないんだけど、楽しいのでなかなか()められなくて、あっという間に五分、十分と過ぎていく。そしてどっちかが「違う違う、企画!」と軌道修正して、またふとしたタイミングで別の話題に移る。それを繰り返し、二人で笑いながら、企画を詰めていった。

「そうしたら、明後日の水曜に撮影でいいか?」
「うん、大丈夫。あとさ、有斗」

 千鈴は少し言い淀んだ後、表情を窺うように上目遣いで俺の方を見えた。

「安い編集ソフト買ってみたんだよね。だから今回はそれで編集してほしいんだけど……」
「え、買ったの? 別に俺がやるのに」
「ほら、横で操作見ながらたまに手伝ったりしてさ、いざという時に私もできるようになっておかないとじゃん。有斗がインフルエンザに(かか)ったりしたら全部自分で作らないとだし」
「縁起でもない予想するなよ」

 言いながら、中学のときにインフルエンザの高熱で一週間休んだことを思い出した。同時に、それが一月末の大流行シーズンであったことも。彼女は一月に手術と言っていたけど、具体的な日付は聞いていない。万が一そんな時期に俺が倒れたとして、彼女は自分の話してる姿を撮れるのだろうか。イヤな想像が一気に渦を巻き、俺は振り払うように頭をブンブンと動かした。

「ほら、このソフト買ったんだよ。編集画面とか、なんとなく有斗が使ってるものと似てたから」

 彼女はスマホで撮った「デジタルスタジオ」と書かれた大きい箱の写真を見せてくれた。俺が持っているソフトと同じように、中に入っているディスクでパソコンにインストールするのだろう。

「急に無理言っちゃってごめんね。パソコン持ってくるから、一緒に画面見ながら操作の確認できたらいいなって」
「おう、いいよ。撮影終わったらやろうぜ」
「ありがと!」

 最後に撮影場所のレンタルスペースを予約して、今日の打合せは終了。机も戻したし、あとは先生達に見られないように出て行くだけだ。

「ふふっ、YourTubeばっかりやってるとデートできないね」
「ん、あ、そうだな」

 ドアを開けて外に顔を出し、先生がいないか確認しながらデートの話をする千鈴。俺と目が合わない状態で言ったのは、大した問題と思ってないからなのか、照れてるのを隠すためなのか。後者ならいいな、なんてつい考えてしまう。

「じゃあ千鈴、電気消すぞ」
「外、誰もいないよ、だいじょう――」

 入口横の電気を消した俺と、振り向いた千鈴。ドアの前で、思いっきり近距離で目が合う。

 顔が変わったわけじゃないのに、ものすごく可愛く見える。少し前は別の顔がタイプだった気がするけど、彼女はあっという間に上書きしてしまったらしい。実際は二秒くらいのはずだけど、十数秒に感じられるくらい、じっと見つめていた。

 脈がどんどん速まる。自分が自分じゃないみたいに、熱を帯びてフワフワした気分になる。


 視線を彼女から逃さないまま、ガラガラと、ゆっくりドアをしめる。それは、誰にも見られないようにする配慮でもあり、彼女への無言の問いでもあった。

 千鈴は何も言わない。ずっと俺に目を合わせている。

「二人っきりですな、千鈴さん」
「そうですな、有斗さん」

 照れをごまかすように茶化したのを真似た彼女に、顔を近づける。ドアに後頭部を当てて痛くならないよう、綺麗な茶色の髪を手で押さえながら、俺達は静かにキスをした。



 13 夜のオムライス

 集会室でのナイショの一件の翌日、十月十二日の火曜日。自販機に行こうと廊下を歩きながら、スマホを開く。撮影がない日でも、昼休みにはこうしてついついチェックしてしまう。千鈴から何か来てたらと思うと、電源を入れながら嫌が応にも期待が高まり、廊下を弾む足取りで軽快に歩いていく。

「締まりのない顔してるなあ、アルト」
「おわっ、慶か!」
 彼が急に声をかけてきたことに驚き、思わずバッと後ろに跳んでしまった。

「何だよ急に」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたんだよ、なんか浮かれてる感じだぞ?」

 不意に彼は、何か思いついたかのように眉をクッと上げ、続いて意地悪げな笑みを浮かべて右肘で俺を小突いた。

「まさか季南ってヤツと付き合い始めたとか?」
「あ……」

 図星で反応に困ったまま口を開けていると、慶の表情がみるみる驚きに代わり、俺と同じように口をパカッと開く。

「え、マジで?」
「……絶対言うなよ」

 彼は「もちろん」とコクンと頷いた。慶のこういうところは、中学の頃から信頼できる。

「おめでとうな。アルトの彼女は……中学二年のユミぽん以来じゃないか? あ、違うか、三年のときに二ヶ月だけユカと付き合ってたか」
「やーめーろ、過去を全部検索するな」

 これだから付き合いが長いってのは困りものだ。

「……ってことで、その帰りに付き合ったんだよ」
「ふうん、この週末にそんなことがあったのか」

 校舎二階、よく慶と話す、西側の屋外渡り廊下で、これまでの経緯を話す。自分の過去を曝け出したこと、それを受け止めてくれたことも、俺の過去の過ちを知っている彼には包み隠さず打ち明けられた。もちろん、千鈴の病気のことだけは秘密のまま。

「うん、そっか、うん」

 渡り廊下から教室の廊下に戻りながら何度か相槌を打った後、彼は柔らかい笑顔を湛える。

「良かったな。ちゃんとそういうところまで話してるなら、うまくやっていけると思うよ」

 購買部の向かいにある自販機でコーラを買った慶は、「めでたい!」といってその缶を俺の胸元に突き出した。

「お祝いの品だ! 安いけど!」
「……いつもありがとな」
 ひんやりと冷たいペットボトルを受け取ってお礼を言うと、彼は「昔からの仲だろ」と言って歯を零し、手を振って教室に戻っていった。

 プシュッと音を立ててキャップを開け、ぐびっと炭酸を流し込む。いつもはもっと甘ったるいのに、今日は何だかスッキリした味に感じられて、爽やかな気分になった。


「ねえ、北沢」

 続いて教室で声をかけてきたのは三橋だった。

「チーちゃんと何かあった?」
「えっ……」

 咄嗟の質問に、さらりと否定しなければいけないところを思わず正直なリアクションをしてしまう。

「な、なんで?」
「んー? いや、ワタシ達と話してるときも、よく北沢のこと見てるなって」
彼女の仕草の真似なのか、首をサッと動かして横を見るフリをすると、ポニーテールがポンッと跳ねた。やっぱり女子は鋭い。
「いや、えっと……」
「まあ答えなくていいよ」

 答えに窮していると、三橋は「なんとなく分かるから」と言いたげに首を振る。

「楽しそうで良かったな、と思ってさ。なんか、夏の練習のときすっごく塞ぎ込んでてね。それで文化祭終わったら、家の都合で部活休むなんて話になって。たぶん別の理由なんじゃないかなって、ちょっと心配してたんだよ」

 親友だから全部打ち明ける、ということではない。親友だからこそ、心配をかけまいと黙って、休みにしたのだろう。

 夏に手術の話が決まったと言っていた。その時期の彼女の落胆はどれほど大きかったのだろう。そして、俺や他のクラスメイトが気付かないほどそれを隠していたことも、彼女の気遣いが感じられた。

「チーちゃんのことよろしくね」
「……ああ、任せとけ」

 短く、でも力強く言うと、三橋は嬉しそうに俺の肩をポンと叩いて、「何の話―?」千鈴達がいるグループに戻っていった。

 ***

「やっほ、有斗!」
「走るな走るな、転ぶぞ」

 改札を出てすぐ、コンビニの前で待っていると、制服の千鈴が走ってきた。週の真ん中、十三日の水曜日。今日は撮影の日だ。

 学校の最寄り駅、桜上水から新宿経由でから乗り換え一回で三十分ほど電車に乗って、五反田駅に着いた。制服姿で一緒に電車に乗ると見つかって噂になりやすいので、これまでと同様、時間をズラして乗ってここまで来た。実際に付き合っているのでバレても特に問題はないんだけど、「内緒の関係って良いよね」と彼女が楽しげにしているので、しばらくは秘密の交際のままになりそうだ。

「私、五反田って初めて降りたよ」
「俺も。高校生だとそんなに用事ないよな」

 高級住宅街と副都心のちょうど間に位置するこの駅周辺には、幾つもの会社と大きな私立大のキャンパスの一つがあるらしい。駅ビルに買い物に来ている親子以外は、スーツの人と私服の学生ばかりが目に留まった。

「有斗、今日のレンタルスペース、安かったんだっけ?」
「ああ、三周年記念かなんかで、先着五名は一時間百円だった」
「すごい! いいところ見つけたね!」

 古めかしい居酒屋を何軒も通り過ぎ、目的地のマンションへ。やや歓楽街に近い場所で、高校生男女が行くには少し勇気がいる場所にある。終わって出るときは足早に駅の方まで戻ろうと決めて、エントランスに入った。

「わー、シンプル! ただの部屋って感じ!」

 部屋に入ると、真っ白な壁に洒落っ気のない大きな机が一つ、椅子が六つ。簡単な打合せができるようになっている、ただただ座って話すしかできない部屋だった。

「よし、今回はポスター持ってきたからな。これ貼って飾っていくぞ」
「それは有斗に任せる。私はカメラやるね」
「いや、斜めになったらカッコ悪いだろ、一緒に貼ってくれ」
「んもう、彼女使いが荒いなあ」

 口を尖らせている千鈴はしかし、どこか嬉しそうにポスターの片側を持つ。なんだか先月の文化祭の準備でも、こうやって色紙を二人で持った覚えがある。あの時はまだ、友達ですらない、ただのクラスメイトだったな。

「ねえ、有斗」
「ん?」
「文化祭の準備、思い出さない?」
 千鈴は楽しそうに聞く。こういうところの波長が合うのは嬉しい。

「金の折り紙で飾り付けしたヤツな」
「あ、そうそう! 私もそれ思い出したの!」
「千鈴、折り紙クシャってしちゃってな」
「あーれーはー結衣ちゃんの渡し方が悪かったんだよう!」

 セロテープを切りながら、彼女はブンブンと手を振って否定した。
 まだ一ヶ月前のこと。でも、随分前のことに感じられる。今はもう、呼び方も関係性も大きく変わっていた。

「準備完了! 有斗、カメラのセッティングやっていい?」
「うん、千鈴に任せるよ。俺は三脚やる」
 こうしてまた、彼女を映していく。彼女の声がまた一つ、映像になっていく。

 ***

「ふむふむ、このボタンで動画を切るのね。で、要らない部分を削除して、前の動画を繋げる……できた!」
「な? 動画を繋ぐだけなら結構簡単だろ?」

 五反田から少しだけ目黒方面に歩いて行った場所にある、大学生で賑わうチェーン店のカフェ。私服から着替え直した彼女と制服同士で横並びになり、編集の作業を進める。

 いつもと少し違うのは、開いているのが千鈴のノートパソコンだということ。彼女が新しく買った編集ソフトを見ながら隣で教えている。画面の構成は少し異なるものの、基本的な操作はそんなに変わらなかった。

「うん、普通に切り貼りするだけなら私もできる気がする」
「難しいのは繋ぎ方だな。暗転するとか次の映像にフワッと移り変わるとかね。あと、音とかテロップもコツがいるから少しずつ覚えていけばいいよ。色んな動画見てると、『こういうテロップの出し方いいな』とか参考になると思う」
「先生、困ったら教えてくださいね」
「うむ、何でも聞きなさい」

 両指を絡める形で手を組んでお願いする千鈴と、ふんぞり返る俺。数秒顔を見合わせて、どちらからともなくプッと吹き出す。こういう何でもない一コマがいちいち楽しくて、もっともっと作業していたくなる。

「じゃあここから先は俺がやるよ」

 千鈴のパソコンを借りて作業を進めていく。彼女は俺の操作を興味深そうに見ながら、いつも通りBGMやテロップの色などを選んでくれた。一緒に作っていくのももちろんだけど、撮った映像が少しずつ綺麗な「作品」になっていくのが本当に面白くて、動画を作り始めた頃に感じていた楽しさを久しぶりに噛み締めていた。

「よし、アップ完了!」
「有斗、ありがと!」

 投稿を無事に終え、カフェを出て駅に向かって歩く。まもなく十九時、ラグビーボールのような楕円の月が、街の喧騒もどこ吹く風、夜をしっとりと照らす。
 帰ったら二十時か、さすがにお腹減ったな——

「ねえ、有斗。もし時間あるなら、ご飯食べてかない?」
「え、あ、ご飯?」

 親に連絡するか、今日のおかず何て言ってたかな。そんなことを考える前に、口が「行こうぜ」と言っていた。
 千鈴と夜ご飯。後で怒られたとしても、家のことは完全に後回しだった。

「ホント? やったあ!」
 彼女はサプライズでプレゼントをもらった子どもみたいに真っ直ぐに喜ぶ。そして、俺の腕に両手を絡めてきた。

「夜デートだ!」
「……だな」

 どこの店に行くか、色々話し合ったはずなんだけど、舞い上がったのか緊張しすぎたのか、記憶が曖昧。気が付いたらオムライスの専門店に入って、二人でメニューを選んでいた。

「俺はオムハヤシにするかな」
「んん……私は……ホワイトシチューのオムライス……いや、オムハヤシも捨てがたい……ううん、でも……」
 メニューを強く握って唸っている千鈴に声をかける。

「半分こするか?」
 途端にバッと顔を上げて、目を輝かせる。

「いいの? じゃあホワイトシチュー!」
「オッケー。セットでジュースも付けようぜ。何にする?」
「ううん、ジンジャーエールにしようかな。炭酸強めのヤツね!」
「それは店に言ってくれ」

 千鈴と一緒に長い時間を過ごせることがただただ幸せで、彼女の病気のこともしばし忘れて、この瞬間を慈しむ。

「ねえねえ有斗、今週の土曜日なんだけどね」
「ん? 十六日か?」
 オムハヤシのソースをスプーンでかき集めていると、千鈴がポツリと日付を口にした。

「一日空いてるんだよね」
 それなら撮影するか、と聞こうとすると、彼女は顎に手を当てて斜め上を向き、嘆息してみせる。

「あーあ、誰か誘ってくれないかなあ」
 それは、甘えたな演技が光る、彼女らしいアピール。うん、いいさ、俺も乗っかってやるぜ。

「千鈴さ、今週土曜日、空いてるならどっか行かないか? 動画撮影抜きでさ」
 途端に彼女は、いつものようにむふーっと口元を緩め、「んっ!」と頷いた。

「どこ行きたいんだ? 安い席が空いてればお芝居でも見に行くか? 好きなのやってるか分からないけど」
「ううん、そういうんじゃなくていい」

 明るい茶色の前髪をスッと横に払いながら、普通のがいいな、と彼女は続ける。千鈴の視線に合わせて窓の外を見遣ると、大学生らしきカップルが歩いている。女子の方は、有名な雑貨屋のロゴの入った、ポーチ大の小さな袋を嬉しそうに揺らしていた。

「普通に映画見て、ハンバーガー食べて、ウィンドウショッピングしてさ。そういうのやりたい。有斗となら、きっとそれだけで楽しいから」

 彼女の言葉は本当に呪文みたいで。ただの音声なのに、いつも編集している波形のデータなのに、俺の体を熱くさせ、胸の中の鐘を軽やかにリンゴンと鳴らす。

 俺がどれだけ嬉しいか、彼女に伝える(すべ)はあるだろうか。すぐには思いつかないから、代わりにスマホを取り出して、「俺も、きっと楽しいと思うよ」の気持ちを画面で伝える。

「映画、見たいのある?」
「あ、ここ新しい映画館だよね? うーん、『君と星空の下で』ちょっと気になってたんだよなあ」

 髪が触れ合う間合いで小さい画面を覗き込み、見たい作品を探す。それは本当に普通の、高校二年生の青春だった。



 14 幸せな点呼

「悪い、遅れた!」

 地下鉄池袋駅の地下改札を出てすぐに左方向へ。比較的人が少ない円柱状の柱に背中を預けながら音楽を聴いていた千鈴は、パッとイヤホンを外す。

「んーん、私も今来たところ」
 言ってみたかったんだよね、と彼女は歯を見せて笑う。そして、目線を少しだけ上げて小さく叫び声をあげた。

「髪、ちょっと立ててる!」
「たまにはな」
 すました顔で答えたけど、思うようにキマらず、鏡に黒髪を映しながら一五分くらい格闘した結果、電車を一本逃したのは秘密だ。

「まずは映画だね。有斗、案内よろしくね!」
「おうよ、任せろ」
 彼女の数歩先を歩き、地上に上がる階段を昇り始めた。


 出かけると決めてからは木曜・金曜が信じられないスピードで過ぎていき、十月一六日の土曜日はあっという間にやってきた。過ごしやすい気温、雲一つない秋晴れの、絶好のデート日和。

 天候の恩恵に預かっているのは俺達だけじゃない。路線が幾つも交わるこの大きな駅の周りは、親子連れ、カップル、男子グループと、様々な人達でごった返している。大通りは歩行者天国になっていて、家電量販店やファミレスの入口はわいわいと賑わっていた。

「今日は撮影のこと考えなくていいから気が楽!」
「俺もカメラとかパソコンないから身軽だな」
「ホントだ! いいね、そのバッグ」

 カラパラのときとは別の、持ち手が付いたターコイズブルーのバッグ。細身だから物はあまり入らないけど色は気に入っていて、こういう特別な日に使う。

「私のバレッタと一緒の色だね」
「おっ、綺麗だなそれ」

 千鈴がベージュのバッグから出した三角形のバレッタも、同じターコイズ。それを見つつ、俺は彼女の服装をまじまじと見た。

 黒いセーター、グレーにチェック柄のフレアスカート。いつもは被っていない、もこもこの白いファーベレー帽が可愛い。ちゃんとオシャレしてきてくれているのが分かって、それだけで胸がいっぱいになった。

「あ、じゃあこの席でお願いします」
 映画館について真っ直ぐカウンターに行き、二席分のチケットを買う。財布を取り出していると、横から千鈴が「私の分」と千円札を渡してくれた。

「飲み物とかどうする? 炭酸とか買う?」
 俺の提案に、千鈴は「買う!」と親指をピッと立てる。

「あとせっかくだからポップコーンも食べよっかな。有斗も食べる?」
「いいね、食べようぜ」
 列に並んで、モニターを見ながら味とサイズを選ぶ。男友達と来てたら多分買ってない。千鈴とだから、食べたい。

「良い席だね!」
 スクリーンの後方、やや左寄りの真ん中。個人的にはこのくらい後ろの方で見るのが好きだった。「君と星空の下で」は公開されてしばらく経っているからか、かなり空いている。今日の上映も、昼前のこの回とレイトショーだけだった。

「予告編って結構楽しみなんだよね。あれもこれも見たくならない?」
「分かる。行きたいのあったらまた来ようぜ」

 耳打ちするように話していると、館内が暗くなり、予告編が流れる。来年二月公開の作品の次は、来年四月公開の作品の紹介。さすが大ヒット映画の続編、随分前から宣伝を始めている。

 公開される頃には、隣にいる彼女は声を失っているのだろうか。映画館には来れる、一緒に見られるけど、感想をワイワイと話し合うことはできない。ハリボテのポジティブを(まと)っても、想像の及ばない不安がむき出しになって、頭をぐるぐると回る。

「これ、見たいな」

 呟きながら、彼女の手を握った。彼女がいなくなるわけじゃない。冬だって春だって、そばにいる。それが今の自分にとって唯一の救いだった。

「え、何?」
 少しだけ声が聞こえたのか、俺の方に顔を寄せてくる千鈴。

「いや、俺これが――」

 彼女の方を向く。てっきり耳を近づけているのかと思いきや、真っ直ぐにこっちを見ていた。

 目と目が合う。スクリーンの光で、唇が(ほの)かに照らされる。
 前後左右、人がいないことに感謝しながら、暗がりの中で静かに唇を重ねた。

「思ったよりテーマ深かったな」
「うん、すっごく感動した」
「千鈴めちゃくちゃ泣いてたじゃん」

 そうなんだよー、と彼女はハンカチで目尻を押さえる。注射をした後の園児のように、目を真っ赤にしていた。

「私、最近いっつもスマホで映画見てたけど、やっぱり映画館だと違うよね。音もすごいし」
「そうそう、臨場感あるよね」

 お昼のピークを越えている一三時半過ぎ、映画館を出て大通りまで戻る。気温がさらに上がったからか、池袋は映画を観る前より通行人が増えていて、賑わいの中で皆が各々の休日を謳歌していた。

「有斗、ご飯どうする?」
「んっとね、この近くだと候補は……ピザの食べ放題、玄米ヘルシー和食、新しくできたうどん屋とかかな」

 調べてきたお店を伝えると、彼女はふんふんと嬉しげに相槌を打つ。このままだと「どこでもいいよ」という流れになりそうだ。俺はスマホのロックを解除し、とっておきのサイトを見せる。

「あとは……こことか」
「わっ! わっ!」
 そのリアクションで一目瞭然。俺は千鈴にぐいっと腕を引っ張られ、目的地のビルまで案内させられた。


「そろそろ来るかなあ」
「千鈴、それちゃんと残しとけよ? これから口の中大変なことになるから」
「はいはい。有斗、お母さんみたい」

 フライドポテトにマヨネーズとケチャップをたっぷりとつけながら、千鈴は軽く膨れてみせる。

 飲食店が集まるビルの三階。夜はバーになるらしいけど、昼はカフェになっているレストラン。ランチメニューにはパスタやステーキの文字が並ぶ。
 そして、ランチタイム限定の目玉メニューも。

「お待たせしました、ジャンボパフェになります」
「うっわあ、すごい! ヤバい! 大きい! 写真撮りたい!」

 ありったけの誉め言葉を連呼しながら、スマホでパシャパシャと写真を撮る千鈴。

 高さ四十センチ、総重量二キロと紹介されていたジャンボパフェ。下から、コーヒーゼリー、コーンフレーク、チョコソース、フルーツポンチと層状に作られていて、奇を(てら)っていない「パフェの王道」といった作り。大粒いちごにバニラアイス、そしてこれでもかとたっぷり生クリームが盛られた壮観な頂上を眺めるだけでテンションが上がる。

「千鈴、器持って。撮るよ」
「ホント? じゃあお願い!」

 顔の横に器を持ってくる。「冷たい! 早く!」と文句を言いながら、彼女の声はワクワクに満ちていた。その後に「有斗も!」と言われ、俺も持つことに。店員さんに見られるのが、ちょっとだけ恥ずかしい。

「よし、では撮影も終わったところで……バトル開始! いただきます!」
「いただきます! 私生クリームから攻める!」

 取り皿もついてきたけど、崩してお皿に乗せるなんてもったいない。互いにスプーンで上から掬い、ダイレクトに口に運んでいく。クリームに飽きたら、中を掘っていってアイスやフルーツを楽しむ。カラフルなダンジョンを、協力して攻略していった。

「口の中が甘いー!」
「おい千鈴、いちごばっかり食べるな! 酸味は貴重なんだぞ!」
「しばらく有斗はクリーム担当ね、私はコーンフレーク担当」
「なんて甘くないのばっかり担当するんだよ!」
 大騒ぎして、大笑いする。週末のお昼も、千鈴と一緒ならイベントに変わる。

「いいの買えたか?」
「うん、満足!」

 最後の方はお互い「なんでこんな目に……」と愚痴をこぼしながらパフェを攻略した後は、近くのビルに入ってウィンドウショッピング。普段歩くことのない、レディースのフロアを一緒に見て回った。ひそかに憧れていた試着室の「これどう?」もやってみたけど、正直女子のファッションはよく分からなくて、「似合うよ」しか言えなかった。でも、本当に似合ってたんだから仕方ない。

「さてと、次はどうするかな……」

 時間は一五時半。池袋には幾らでも店があるから、お茶してもいいし、雑貨の店や本やを何軒かはしごすることもできる。

「あ、ねえ、せっかくだからあそこ!」
「…………え?」
 千鈴は指差した先にあったのは、チェーンのカラオケ店だった。

「いや、でも、その……」
 普通に歌えるのか、喉に負担かかるんじゃないか、悪化しないのか。色んなことが頭を巡ってしどろもどろになってしまう。

「大丈夫だよ」
 彼女は、俺を諭すような口調になる。強めの風が吹いて、帽子のファーの毛先が細かく揺れた。

「無理はしない。それに……年明けたらどのみち歌えなくなっちゃうから」
「……じゃあ入るか!」
「ん!」

 俺も千鈴も、駆け足で入口に入っていく。
結末の分かり切った、後戻りできない筋書き。それを蒸し返してしんみりしないようにしよう、デートらしく過ごそうという暗黙の了解が、俺達に明るさを取り戻させた。

「じゃあ私からいきます!」
「お、広橋カナデじゃん。キー高っ」
「へっへっへ、歌だと声変わるんだよ~」

 ハイトーンで、それでいて透き通った彼女の声を聞く。次の曲なんか選ばずに、歌っている彼女を目に焼き付け、その声を耳に閉じ込める。

 あと何回見られるかとか、そんな悲観的なものじゃない。ただただ、綺麗だな、好きだな、という無垢な想いで、俺の頭の中に彼女を録画していった。

「よし、次は有斗!」
「じゃあ……これ!」
「あ、いいね、Robot Limitedだ!」

 二番でもう一本のマイクを渡して一緒に歌う。一曲終わるたびに、帰りたくない気持ちが初雪のように積もり、堪らず三十分延長したのだった。


「はー、楽しかった!」
 地下鉄の副都心線に揺られながら、千鈴は吊革を支えに満足そうに伸びをした。一八時を過ぎ、車内は帰る人で混み合っている。「今日は友達と遊ぶので遅くなる」と家に伝えてあるので、彼女を送って帰ることにした。

「千鈴の家の方、結構混むんだな。うちは休日のこの時間なら絶対座れる」
「住宅街だし、路線が一本しかないからねー」

 彼女と俺の家は電車で一時間弱離れているから、簡単に会える距離じゃない。多くの生徒が自転車で通学しているという高校の話を聞くと、今は羨ましくもなる。

「ここで降りまーす」

 彼女に案内され、学芸大学前で下車する。改札を出ると、すぐ目の前にスーパーが出迎えてくれた。

 ここが千鈴が住んでる街か。兄弟はいないと聞いているから、ここで家族3人で暮らし……あれ、ちょっと待って。気軽に「送るよ」なんて言ったけど、両親が生活してるってことだよね? まずい、見つかったらどうしよう……なんて挨拶すればいいんだ? 千鈴とはどういう関係だって説明する? 彼氏って言っていいのか? 友達にする? いや、帰りに送りに来てるのに、さすがに無理があるか……?

「どしたの、有斗? 怖い顔してる」
 覗き込んできた千鈴に、苦笑いで唇を掻きながら答える。

「いや……千鈴のお父さんやお母さんと鉢合わせしたら気まずいなって……」
 一瞬きょとんとした彼女は、ブッと勢いよく吹きだした。

「有斗、心配性だなあ! ないない、この時間なら家にいるよ」
 会いそうなら送りなんて断るし、と言って、俺の左手を掴む。手のひらの体温を確かめ合うように()ったあと、簡単に離れないよう指を絡めた。

「もう冬だねー」

 長く息を吐く千鈴。寒すぎもせず、息も白くならない、まだまだ秋の真ん中、でも、彼女にとっては今年の秋や冬は短すぎるのかもしれない。街灯のない通りで見上げる雲のない空、アンドロメダだけがやけにくっきりと見えた。

「ここのコンビニにいる店員さん、めちゃくちゃせっかちでさ。買ったものすっごい勢いで袋に入れるんだよ。だからサンドイッチとか買うと軽くつぶれてるの!」
「一人でタイムトライアルでもしてるのかな」

 くだらない話が楽しいし、寒くないし、このままずっと一緒に歩いてたいけど、そうもいかない。

「ねえ、有斗。家の前まで来てくれるの?」
「え? あ? うん、そのつもりだけど」

 すると彼女は、近くの人気(ひとけ)のない公園を指差した。

「ありがと。もうすぐ家だからさ。今のうちに挨拶しよ」
「ん」

 ザッザッと砂を蹴って、公園の中に入る。月の柔らかい明かりと街灯に照らさせ、遊具が俺達を見守るように静かに眠っていた。名残惜しくて、包み込むように抱きしめた。

「有斗、今日はありがとね。また行こ?」
「もちろん」

 彼女のおでこに顔を載せる。半径三十センチの、ぬくもりがぶつかる距離の会話。

「千鈴」
「……ふふっ、有斗」

 用もないのに名前を呼んで、意味もないのに呼び返される。それは、世界で一番幸福な点呼。

 そして喋るのもまどろっこしくなって、別に言葉なんて要らなくなって、キスで伝える。

「それじゃ、行こっか」

 そうして公園を出て、手を繋がずに少し歩き始めた、まさにそのタイミングで、一台の自転車が止まった。

「あら、千鈴」
「お、母さん!」
「あ、え、ちょっ」

 動揺した千鈴が素っ頓狂な声を出し、俺は言葉にならない叫びをあげる。自転車から降りた千鈴のお母さんは、カゴにエコバッグを乗せていた。パーマを当てた黒髪を後ろで縛り、厚手のシャツに長めのスカートという格好の彼女は、頬がこけていたものの目元や鼻の形は千鈴によく似ていた。

 あ、危なかった……もう少しタイミングがズレてたら、公園でハグしているのを見られるところだった……。

 いや、そんなことを考えている場合じゃない。ちゃんと挨拶しないと。さっきは「友達で通るか?」なんて思ってたけど、やっぱりきちんと言おう。
「こんばんは。千鈴さんとお付き合いしています、北沢有斗です。よろしくお願いします」

 姿勢を正して一礼すると、お母さんは俺よりも深々と頭を下げたので、少し戸惑ってしまった。。

「千鈴がいつもお世話になってます。本当に……ありがとうございます」
「いえ、そんな、俺は――」
「ちょっとお母さん、大げさ過ぎだって!」

 どう答えようか迷っていた俺の返事を千鈴が遮る。それは、俺にも自分の母親にも気を遣っているようだった。

「北沢君、千鈴のこと、色々遊びに連れて行ってあげてね」
「もう、お母さんってば!」

 二人のやりとりを聞きながら、つい千鈴のお母さんの気持ちになってしまう。
 自分の子どもの声が無くなるというのは、どれだけ辛いのだろう。当たり前にあったものが当たり前でなくなってしまう。自分の父母に置き換えて想像するだけで心に穴が空きそうになるほど寂しいのだ。子どもともなれば、その寂寥感は何倍も大きいのだと思う。

「有斗、じゃあここで。またね」
「おう、またな」

 こうして、初めての動画を撮らないデートは終わった。最後に少しだけしんみりしたけど、千鈴と一緒にいる間はずっと楽しかった。帰り道も、家に帰ってからも、あれこれ思い返して自然と顔が綻んでしまう。

 俺達なら何の問題もない。この先に千鈴のちょっとした困難があっても関係なく、乗り越えていける。

 そう、思っていた。