5 残したくなって
七、八分の練習を終えると、季南は「よし」とノートをパタンと閉じ、ネイビーのボストンバッグから洋服ブランドのロゴの入ったビニール袋を取り出す。
「着替えちゃうね」
「ああ、やっぱりブレザーのまま撮るわけじゃないんだな」
「当たり前じゃん! 学校バレたら怖いし」
袋から私服のシャツやスカートをガサガサと出した後、彼女は困ったように眉を下げて、ジーッとこちらを見てくる。
「どした?」
「……出てってよう」
「あ、悪い!」
以前は男だけで撮っていたからみんなその場で着替えてたけど、女子だとそうもいかない。キッチンに行って、ワンルームとの境目のドアを閉める。
スマホを眺めていたものの、服が床に置かれるパサッという音が聞こえるたびにドキリとしてしまう。ドア一枚隔てた向こうでクラスメイトが着替えているかと思うと変な緊張が押し寄せてきて、慌てて更に奥のお風呂場へと逃げ込んだ。
「おーい、準備できたよ」
声を合図に、「おう」と平静を装って部屋に戻る。季南は体を何回か捻るようにして、俺に服の前後をお披露目する。
「どう、こんな感じで」
大きな花の絵をあしらったベージュのロングTシャツに、ベルトのついた黒のスカート。スカートは縁がチュールになっていて、暗い色なのにふんわりした印象に見える。
「変じゃないかな?」
「ああ、うん、良い、と思う」
「何よ、歯切れ悪いなあ」
「いや、悪い悪い。ホント、ホントに似合ってる」
俺だってクールにさらっと伝えるつもりだった。私服を見ただけで、こんな風に体が熱を持って動揺するなんて、思ってなかったから。
「じゃあ撮り始めるぞ」
「ちょっとちょっと!」
三脚に手を掛けた俺を、彼女は慌てて両手で制する。
「化粧直すからちょっと待ってて」
「あ、そっか、それも必要なのか」
前は男だけで撮ってたから、やっぱり勝手が違う。
「……別に今のままでもいいと思うけどな」
「わっ、ありがと。でもずっと残るものだしね。女子は大変なんだよー」
ポーチからコスメを取り出し、パフやブラシを使って整えていく。薄くルージュをひいた彼女の唇はいつもより艶っぽく見える。
やがて、鏡を見ていた彼女はクッと口角を上げ、「よし、オッケー!」と立ち上がる。そして、途中の水分補給用なのか、ミネラルウォーターを取り出して撮影用の椅子に座り、そのペットボトルを椅子の下に置いた。
「声が入らないようにカウントは途中から指だけでやるよ。そっちから言わない限り、カメラは回し続けるからな」
「ふふっ! うん、よろしく」
「なんだよ、テンション高いな」
「だってさ、こんな風に自分だけを撮ってもらうの、生まれて初めてだもん」
隠された財宝を探しにピラミッドに潜入するかのように、目を爛々と輝かせる彼女。興奮が緊張を凌駕して、撮影を待ちきれない様子でいた。
ガチガチになってなくて良かった。これならもう、すぐに始められそうだ。
「じゃあ行きます。五秒前! 四……」
録画ボタンを押した後、三から先は指だけ折って、カウントする。手がグーになってから数テンポ待って、季南は話し始めた。
「皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチョ、チャンネル……わーっ! ストップストップ!」
「早いな!」
いきなりのNGに思わずツッコミを入れ、おどけてその場でコケてみせた。
「大きな声出るかなって不安だったの。で、言えたら気が抜けちゃったみたい」
パチンと勢いよく両手を合わせて「ごめんね」と謝る彼女に「いやいや」と首を振る。
「こういうのが面白いんだろ?」
「うん、面白いね」
彼女は大好物のスイーツを前にカメラを向けられたかのように、上機嫌にピースして見せた。
「じゃあもっかい行くぞ。噛まないようにな。五秒前! 四……」
「はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました。えー、私は高校二年生なんですが、中学からずっと演劇をやっているので、この動画では演劇の練習方法や好きなお芝居などを紹介していきたいと思います。んと……そもそもなんでこのチャンネルを始めたかというと、自分のけん、経験が後輩の演劇部のみんなに役立てばいいなと思って……」
途中台詞を飛ばしたり噛んだりしつつも、自己紹介が終わる。季南が黙って二回頷いたのを見て「カット」と録画を止めると、彼女は深く息を吐きながら手足をだらんと伸ばした。
「緊張したあ」
「まあ始めはみんなそうだよ」
俺のフォローに、彼女は楽しそうに両膝をパンパンと叩いて歯を零す。
「でも楽しかった!」
そのハイビスカスみたいに真っ直ぐな笑顔も、演劇で練習した賜物だろうか。俺の瞼は、閉じる役目を忘れたらしい。大きく開いた瞳、熟した果物みたいに赤い唇、綺麗に並ぶ白い歯。彼女の表情を見ている間は、秒針が何倍もの遅さで動いているような、そんな感覚。
彼女からしたらいつもの表情かもしれないけど、俺の鼓動を一気に加速させるには十分だった。血液が一気に体中を駆け巡って摩擦熱が起こったかの如く、体温が上昇していく。
それは、クラスの誰も知らない秘密の作業をしていることに対する興奮だけでは説明がつかない。はっきりと分かる。彼女の笑顔に見蕩れたのだ。
そして、ここでやっぱりもう一人の自分が制しに来る。「彼女は自分の動画のために俺と組んでるだけだ、勘違いするなよ」と言い聞かせてくる。そう、俺にはまだ、この日々を楽しむ資格はない。冷静になって細く長く息を吐き、雑念を払う。
「じゃあ次の撮影に入るぞ」
「あ、ちょっと待って。ここから立たせてもらっていい? 演技したくて」
「え? そうなの?」
急に立ち上がって椅子の前に出た彼女を前に、三脚を動かし、カメラの位置を変えながら確認する。斜めから撮ると、背景も含めて上手く画角に入った。
「演技するなんて聞いてないけど」
「うん、今決めたんだ。なんか……やりたくなってさ」
「え、じゃあ練習もしてないの?」
「そう、ぶっつけ本番。うまくできるか心配だなあ!」
その返事に、むしろ俺の方が心配になってしまう。この場でいきなり演技するなんて、本当に撮影が成り立つのだろうか。
「お節介かもだけど、先にやることカッチリ決めてから撮った方が良くないか?」
「いいの。自分がやりたいことをそのまま出したいっていうか、用意した言葉じゃない方がいいなって」
穏やかに、それでも確かな意思を持って季南は答える。細かくカットを分けたくない、最低限の切り貼りしかしたくない、その場で決めたこともやっていきたい。徹頭徹尾、彼女は「そのままの自分を届ける」ことを意識している。それは、これまで自分がやってきた編集・投稿とは逆の考え方だった。
「じゃあ北沢君、お願い」
「お、おう」
指示されるがまま録画ボタンを押して合図した。
「それでは、挨拶代わりに、この前の文化祭でやった演劇の『リライト&リトライ』で、今にピッタリなシーンをやりたいと思います」
そう言うと、彼女はフッと目を閉じる。一回大きく深呼吸し、再び瞼を開けると、その表情は一五秒前の彼女とは全く違う凛々しいものになっていた。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
プロではないにせよ、役者の演技を間近で見るとやっぱりすごい。本当に彼女が、新しいことを始めたいという思いが伝わってくる。
「はい、いかがでしたでしょうか! あー緊張した!」
心の中で拍手しながら、この演劇のストーリーと文化祭での本番の裏話を話し続ける彼女を撮り続け、無事に撮影を終えた。
「はー、撮影ありがとう。北沢君、どうだった? 一回目にしてはほぼ完璧に出来た気がする!」
「……チャンネル登録お願いします」
「あーっ! 言うの忘れてた!」
かき氷を一気に食べた直後のように両手で頭を抱え、分かりやすく落ち込む季南。さっきの演技を目の当たりにしてから素の彼女を見ると、そのギャップが妙におかしかった。
「よし、じゃあ片付けして部屋を出よう。長くいると延長料金かかっちゃうからな」
「ねえ、北沢君パソコン持ってきてる? 編集ってどんな風にやるか、私も覚えたいから、どこかで作業見せてもらえない?」
「持ってきてるよ。それなら、カフェでも行くか」
そうだ、俺が撮影・編集するのも三、四回だけっていう約束だ。今のうちから少しずつ見て学んでもらおう。
「制服に着替え……はいいや。畳んで鞄にいれちゃおうっと」
無事に撮影が終わったからか、ベランダ横で上機嫌にいそいそと準備をしている季南。撮影が終わったことで俺もリラックスしていて、その後ろ姿に向かって何の気なしに問いかける。
「季南、これって演劇部の宣伝動画とかなの?」
「ううん、誰にも言ってないよ」
「……じゃあ、なんでYourTuberなんて始めるんだ?」
「え? あー……」
流れで聞いてしまった問いに彼女はすぐには答えず、カーテンをジッと見つめるようにしていたが、やがて俺に視線を合わせるのを拒むようにその青いカーテンを開けて窓の外を見る。蛍光灯に照らされ、茶色い髪に白い光が映った。
「演劇してるシーンとか、残したかったからさ」
「ああ、他の演劇やってる学生の参考になるようにって動画でも言ってたもんな。自分で見返すのにも使える? あ、でもそれならわざわざアップしないでもいいしな」
「あー……」
俺の方に向き直っていた彼女は、そこでまた視線を逸らして押し黙る。少し眉間にシワを寄せ、どう伝えようか、思い悩んでいる様子だった。
やがて、決心したように口をキュッと結ぶ。
「っていうより……さっきの台詞とか、言えなくなるんだよね」
「え?」
また少しだけ沈黙を挟み、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私、声帯を全部摘出するの。だから、自分の声を残そうと思ってさ」
6 彼女の「理由」
「北沢君、何飲む?」
「ん、いや、自分で買いに行くよ」
「いいからいいから、パソコンの準備してて」
結局カフェラテをお願いし、彼女がカウンターに向かっている間にパソコンを準備する。
レンタル会議室から歩いて五、六分のところにあるチェーンのカフェに来た。二階まである狭い店舗の一階は、ちょうど仕事が終わったのかスーツ姿の大人が三人レジに並んでいる。作業を横で見たいという季南の要望もあり、比較的窓側が空(す)いていたので窓側にある二人掛けの丸テーブルを二つ取って、隣同士で座った。
「はい、お待たせ。そう言えば北沢くん、ブラックコーヒーって飲める?」
「いや、苦いから得意じゃない」
子どもっぽいかな、と思いつつ反応を窺っていると、季南は「私も!」と自分用に買ったホットのキャラメルマキアートとスティックシュガーを、突き出すように俺に見せてニッと歯を零した。
「季南、お金幾らだった?」
「あ、いいよいいよ! 色々協力してもらってるから」
二往復ほど押し問答したものの、結局押し切られ、今回はご馳走になることにした。
「やっぱり編集はパソコンなんだあ」
「スマホのアプリもあるけど、こっちの方が細かい作業も自由にできるよ」
ビデオカメラをケーブルで繋いで、さっき撮った映像のデータをパソコンの中にコピーしながら、編集ソフトを立ち上げる。
「これ、無料ソフト?」
「いや、前に買ったんだ」
モニタに映った複雑な編集画面を、興味深そうに眺める季南。
彼女を見ながら、俺はさっきの部屋での会話を思い出していた。
■◇■
「…………え?」
声帯の摘出。その言葉をあまりにも唐突に告げられ、脳内に瞬時にイメージを結ぶことができない。
窓の外からこっちに向き直った季南の表情には、悲しみの色はない。噛んで失敗したときと同じように、少しだけバツが悪そうに微笑んでいる。
「難病らしいんだよね」
右手で包み込むように喉を押さえながら、彼女は口を開いた。
「男子でいう喉仏の近くに声帯があるんだけど、その下のところに腫瘍みたいなものがあるんだって」
「それって……ガンじゃないのか?」
腫瘍という単語からすぐに連想される病名を、俺はおそるおそる口に出してみる。音になって自分の耳で聞くと、余計にその病気が怖く感じられた。
「ううん、ガンとはちょっと違うみたい。確かに咽頭ガンっていうのもあるんだけど、ほとんどが男性みたいだし、たばこや飲酒が原因のことが多いんだって」
まるで他人事のように、何も気にしていない素振りで、彼女は外に出る準備を再開しながら話している。
「だから症例も少なくてさ。始めは化学療法、まあ薬で治そうとしたのね。修学旅行とか文化祭とかあるから、飲むだけならちょうどいいかなって思ってたんだけど、なんか夏に原因不明で急に悪化しちゃって。それで来年一月に摘出になっちゃったんだよね。一部の摘出ならガラガラ声は出るんだけど、全部だからさ」
残念だなあ、と彼女は呟く。悲しさや悔しさではなく、どちらかといえば諦めや自嘲を含んだトーンだった。
「それで、YourTuberやろうとしたのか?」
「うん。声、残しときたいって思ってさ。ただの自撮りとかじゃつまらないじゃない? バズって人気者になったりお金もらったりしたいわけじゃないけど、せっかくだから、話してる私を発信したいなって。だから台本読むのイヤだったの。普段通り話してる自分をそのまま届けたくてさ。ワガママ言ってごめんね」
「ああ、いや……」
謝ることないのに。そう言おうかどうか迷っているうちに、彼女は「行こ」と荷物を持って部屋を出て行ってしまった。
■◇■
「あ、撮ったやつだ!」
パソコンの中に取り込んださっきの動画を、編集ソフトで読み込んでいく。そのファイルを画面の下半分にドロップすると、編集ができるようになった。
「うわ、すごい。ここで映像を切ったりするの?」
「うん。例えばほら」
一本目の動画のトーク。その話と話の間の余白を切って、繋げてみせる。YourTuberの動画でよく見る、間髪容れない、テンポの良い喋りになった。
「今回は季南の注文もあるから、こんな風には編集しないけどな。あと、効果音とかテロップもここでつけられる」
「すごいすごい! 本物の動画作ってるみたい!」
「動画作ってるんだっての」
右隣の彼女の肩にツッコミを入れる仕草をすると、すかさず「ナイスツッコミ!」と合いの手が入る。
これまでと変わらないように振る舞う彼女があまりにも自然で、さっき聞いた話が冗談だったんじゃないかなと思うほど。それは、冗談であってほしいという俺の小さな願いでもあった。
「ねえねえ、なんか私に手伝えることない?」
「ううん、編集は分担してできるものじゃないからな」
「そっか……」
そう伝えると、彼女は残念そうに右頬に手を当てて、ふしゅーと溜息をついた。せっかくこんなにやる気になっているんだから、他に何かお願いできるものがあるといいんだけど。
「そうだ、ジングルとか効果音選んでくれない?」
「ジングルって……ベル?」
真顔で聞く季南に、「クリスマスにはまだ早いぞー」と両手をひらひらさせて返す。
「ラジオとかテレビで、コーナーの始めに流れたりする短い音楽あるだろ?」
「あ、あれジングルっていうんだ」
「自由に使える音源があるウェブサイト教えるから、そこから選んでよ。あと効果音もね」
「うん、分かった!」
チャットでURLを共有すると、気合い十分の彼女は「わっ、こんなサイトがあるんだ」と興奮気味にスマホをスワイプする。ジングルだけじゃなく、「ジャンッ!」「パフパフッ」「コケッ」といった効果音もたくさん載っているサイト。著作権フリーで自由に使えるので、YourTuber御用達のページになっている。
「季南のセンスで選んでいいぞ。今日撮ったの思い出して、ここでこれ流してほしいっていうのピックアップしてくれる?」
「了解!」
ビシッと敬礼した彼女は、ライトブラウンのサラサラヘアーを後ろに払ってから耳にイヤホンを嵌め、LとRの世界に閉じこもる。俺はその間に、動画の切り貼りを進めていった。
「……おお、これ演劇でも使えるな…………あ、これバラエティーっぽい」
感想を言いながらお気に入りの音をノートにメモしていく季南。新しいおもちゃをもらった子どものように目を輝かせながら、楽しそうに選んでいく。
十分くらい経っただろうか。スマホの液晶に釘付けになっている季南の顔の前に、スッスッと横にした手を翳(かざ)す。彼女はバッとイヤホンを取り、こっちを向いた。
「動画、繋ぐ作業は終わったぞ」
「ホント! 早い!」
パソコンに自分のイヤホンを挿し、右隣の彼女にも見えるように本体を斜めにして、イヤホンのLを渡す。
「一緒に見ようぜ」
「うん、ありがと」
Rを嵌めた俺と、Lを嵌めた彼女。体を寄せ合うようにして、編集ソフトの中で再生した。
『はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました』
まだ何も加えていない、余計な部分を削って繋げただけの五分弱の動画。見ている間、彼女はどこかソワソワしていた。
全て見終わると、彼女は両頬に手を当てて首をブンブン振る。
「うわー、自分が映ってるの見るのハズいねー!」
なるほど、だからあんなに体を揺らしてたのか。
「北沢君、もう一回流してみてもいいかな」
「ああ、カーソル動かして再生すれば普通の動画みたいに流れるよ」
季南は、俺のマウスを触っておそるおそるカーソルを動かし、もう一度再生する。
「……そっか、私こんな声なんだ。自分の声って、自分が普段聞いてるのと違うね」
「自分で思ってるより高いんだよね」
「確かに。ちょっと高いかも」
椅子をグッと前に引き、モニタに寄る彼女。距離が近くなって、俺は思わず重心を後ろにかける。
「……良い声、だと思うよ」
唐突に口にした誉め言葉に、季南は驚いたようにこちらを向いた。
「ホントに?」
「高さもボリュームもちょうどいいし、よく通る声だと思う。滑舌も良いから聞きとりやすいよ、さすが演劇部。前に自分達で作ってた時、女子に参加してもらったこともあったけど、高い声だとテロップ入れないと言葉が分かりづらいんだよね」
「そっか。それなら、嬉しいなあ」
「おう、動画にはピッタリの声だ」
「動画かーい!」
さっきのお返しとばかりに、今度は季南から肩にツッコミを寸止めされた。
こうして今喋ってる彼女の、この声がなくなるなんて、まだ全然信じられない。褒めない方がいいのか、と一瞬躊躇したけど、それでも正直な感想を伝えてあげたかった。良い動画になると期待させてあげたかった。
「季南、効果音決まった?」
「うん、結構良いの選べたと思う」
カフェの無料Wi‐Fiに繋ぎ、さっき彼女に教えた音源サイトを開く。
「じゃあダウンロードしていくから教えて」
「えっと、まず動画の始めの曲はね、『ジングル バラエティー』の『Happy Days』っていう曲が……」
彼女に教えられながら音源をパソコンにダウンロードしていき、二人で一緒に画面を見て本格的な編集作業を始める。ダウンロードしたジングルや効果音を動画の音声スペースに挿入し、季南の声と被らないように音量を調節していく。そこにさらに「演劇ガールって何?」「ちょっと噛んだ(笑)」とテロップを付けていった。
「このテロップ、ピンク色でいい?」
「うん。サイズ、もう少し大きくてもいいかな。私の頭と被らないくらいの位置に置いてくれる?」
「ここでトランペット来るよ来るよ……はい来た! これでタイミングどう?」
「ぴったり! ナイス北沢選手!」
「あ、待って。やっぱりちょっとここの効果音、もっと面白いものに変えたいかも」
「おう、じゃあ次の部分進めてるから、音探しておいて」
一昨年の今頃も、大きなモニタに映しながらワイワイと作業していたのを思い出しつつ、季南の希望を形にしていく。十秒、また十秒と編集が進んでいき、彼女が話していただけの動画は、音と文字に彩られたコンテンツへと変わっていった。
「おおっ、最後までいったね。編集ってこれで終わりなの?」
「うん、ほとんど終了だよ。でももう少しだけ時間ほしい」
頭から動画を見直して、少し間があるところ、彼女の声が聞こえづらいところを補正していく。一秒、あるいは一秒未満の単位で調整する世界。
せっかくの初動画、少しでもいい作品にしたかった。
「……できた」
達成感を肩に乗せ、その重さで両手をだらりと下げる。左側の大きな窓の外に目を向けると、太陽はすっかりビルの下に溶け、薄墨色の夜が街を覆い始めていた。
「おつかれさま、北沢君。ありがとね!」
「最後、一緒に見るぞ」
「うん」
二人で動画を確認する。「これでいいか?」と訊き、彼女が深く頷くのを見て、編集した五分の作品を動画ファイルに出力した。そしてYourTubeのログインページに移り、「はい」と彼女にキーボードを向ける。
「え、どしたの? これ、北沢君のアドレス?」
「いや、これ消して季南のアドレスとパスワード入れてよ。季南のアカウントでログインしないとダメだろ」
「あ、そっか。ふふっ、北沢君が変な演劇女子の動画アップしてることになっちゃう」
「笑いごとじゃないっての」
彼女は慣れない手つきでキーボードを叩き、エンターキーをタンッと軽快に押してから俺の手元にパソコンを寄せた。
「サンキュ」
出力したばかりのファイルを選択し、タイトルを入力しながらアップロードを待つ。
そして。
「よし、投稿完了!」
見慣れたYourTubeの画面で、一つの動画を再生した。
〈【YourTuberデビュー】演劇ガール いきなりカメラの前で初演技! その結果は……?〉
数分前に見たのとまったく同じものが、ブラウザから流れる。それは、この世界に極小の、でも唯一の、動画コンテンツを生み出した瞬間だった。
「わ、あ……すごい、すごい! 私にもできた!」
目を大きく見開いて興奮する季南。乗り出した体が丸いテーブルに当たり、彼女のマキアートのマグカップをトンッと揺らした。
「北沢君、ありがとう! ホントに嬉しい!」
両手で勢いよく俺の右手を握り、ブンブンと振る。カッコつけて「いいってことよ」なんて言おうとしたけど、彼女があまりにも嬉しそうな笑顔を咲かせていたので、俺も素直に「良かったな」と返した。
今日の作業はこれでひと段落。パソコンをリュックにしまっていると、集中しっぱなしで麻痺していた疲労感が一気に襲ってくる。
久しぶりにやる動画作りは、相変わらず大変だったけど、心地良い疲れだった。
「……ねえ、北沢君」
不意に、横にいる季南が声をかけてくる。彼女は、左右をサッと見て、近くに人が座っていないかを確認すると、小声で訊いてきた。
「私も秘密教えたからさ、もし良かったら北沢君の秘密も教えてよ。共有しあおう?」
「秘密? いや、俺はそんな、季南みたいな大きなのはないよ」
すると彼女は、真っ直ぐ俺を見つめて口を開いた。
「……なんで動画作るの止めちゃったの?」
瞬間、ぞわりと心が震えた。今の自分はどんな顔をしているだろうか。驚き、恐怖、悲しさ、全てがごっちゃになっているに違いない。
その表情を察してか、すぐに彼女は慌てた様子で両手を動かした。
「いや、その、無理に答えなくていいから。もちろん純粋に気にもなるんだけど、何ていうか……ほら、私の秘密、半分持ってくれたじゃない? だから、私も代わりに持ちたいなって思っただけなの」
「あ、そういうことか……」
好奇心だけだと思い込んだ自分を恥じる。同時に、彼女の気遣いに心が暖かくなる。俺に「大変なことを聞いてしまった」と余計なプレッシャーを感じさせないように、俺が話したがらない暗い内容も受け止めてくれようとしたのだろう。
これまでだったら、笑って誤魔化していたこと。でも、彼女が配慮しながら訊いてくれたことは伝わったし、何より俺も、彼女が大事な秘密を明かしてくれたのに俺が明かさないのは不公平かな、と感じていた。
だから、今度は俺の番。俺が勇気を出す番。手が震えているのを自覚して、右手で左手首をぎゅっと押さえる。
「……誰かの人生をめちゃくちゃにしちゃったから、かな」
人の少なくなったカフェで声のボリュームを気にしながら、俺は記憶を二年前に戻した。
7 俺の「理由」
中学二年生の頃から、今は別の高校に通う友達二人と三人組でYourTubeへの投稿を始めた。始めは、静止画に音声だけのラジオを投稿していたけど、途中から覆面で顔を隠した友人が話す、所謂YourTuberとしての活動に移行した。
名前は「なんかカッコよくね?」くらいのノリで【Flame(フレイム)】 一人が企画担当、一人が覆面の出演者、そして俺が撮影と編集担当と、バランスの良い役割分担だった。
最初は何のテーマも決まってなくて、新商品のジュースを紹介したり、激辛ラーメンに挑戦したりしていた。友達にも秘密にしていたから再生数もほとんど伸びなかったけど、何回か再生されてるのを見てるだけで嬉しかった。大騒ぎしながら企画を考えて、大笑いしながらカメラを回して、大はしゃぎしながら動画編集する、それだけで毎日面白かった。
でも中三の時に投稿した「バカ投稿中学生に同い年から一言モノ申す!」がたまたまヒットした。スーパーの商品でイタズラしている動画をSNSにアップした中学生に対して「お前のせいで俺達までバカな目で見られるんだよ!」と散々キレるだけの映像。
誰かが拡散してくれたのか、見るたびにカウンターは上がっていき、最終的には一万近い再生数になる。世の中に無数の動画がある中で、芸能人がやっても数千しか再生されないこともある中で、俺達の動画が一万回見られている。その数字が、俺達の基準と感覚をバグらせた。
勝ちパターンを掴んでからの動画は、ネットニュースやSNSから悪質な行為をしている中高生を探して、晒し上げる映像になった。
軽犯罪の画像をアップしている人、いじめ動画を投稿している人達を見つけ、動画の中でSNSのアカウントを映す。そして過去の投稿を遡って、罵倒しながらツッコミのテロップを流していく。
十回再生されて喜んでいた動画の再生数は、たまにヒットすると一万を超え、二万も夢じゃないような数字になる。コメント欄には「分かる!」「よく言ってくれました。こいつらホントに最悪」と共感に満ちた言葉が並ぶ。
どうしようもないヤツらがたくさんいるのに、SNSのネタとして済まされるなんて許せない。俺達がきっちり糾弾してやる。自分達が正義の使者であるように錯覚し、顔も知らない相手に罵詈雑言を浴びせていく。みんな、コイツらの悪事を知って広めてくれ。【Flame】に「炎上」の意味を被せたのは、ちょうどこの頃だった。
俺達の正義は止まらない、どころか、もっと反応が欲しくて過激な内容になっていく。
ネットの匿名掲示板に、「コイツの通ってる学校を特定したい」とSNSのネタを投げ込めば、それを見ている大人数の知識と分析力でどんどん絞り込まれていく。そして誰かが特定すると、皆が一斉に「学校に通報しよう」と言い出す。俺達は、自分達が火つけ役なのに、さも野次馬のように、動画の中で「ネット上で学校が特定されたらしいですよ」なんて話した。
別に通報したのは俺達じゃない。匿名で炎上して本人はのうのうと生活してるなんて看過されていいはずがないと、悪事を知った人達の制裁がくだったのだ。
動画を作るときには相変わらず笑ってたけど、それは投稿を始めたときの笑顔とは違っていたかもしれない。でもそんなことは気にならなかった。「正しいことをしている」と、「これが俺達のやりたかったことだ」と、本気で信じていたから。三人バラバラの高校に行ったけど、この活動を続けると決め、部活にも入らなかった。
自分達の内なる声と再生数とコメント欄に支えられ、俺達はどんどん成敗の遊びに興じていった。高校生に入って間もない、去年のあの日まで。
高一のゴールデンウィーク前の四月。あるSNSアカウントの個人情報を暴こうと掲示板を見ていたとき、ふと一つの書き込みが目に留まった。
『Flameの動画でも取り上げられてた、牛丼屋のバイトでやらかしたパンゴ君っていただろ? ここで学校特定されて通報されたのきっかけで、学校の二階から飛び降りたらしいぜwww アカウントも消してるwww』
慌ててニュースを探すと、幸い命に別状はなく、全治三ヶ月とのことだった。しかし、胸の中をフォークでざりざりと削られているような気分になり、恐怖が全身を埋め尽くした。そのきっかけを作ったのは、間違いなく俺達の動画だったから。
今回はたまたま掲示板で情報を見つけた。でも、俺達が知らないだけで、他にもいるかもしれない。友達を無くした人はいないか? いじめられた人はいないか? 不登校になったり学校を辞めたりした人は? 今回の彼みたいに飛び降りた人は?
動画で取り扱った一人ひとりを必死に調べて、最悪の事態に陥った人はいなそうだということは分かったけど、そんなことは何の足しにもならなかった。
自分達のやっていることの影響に、そこで初めて気付いた。それは成敗でも何でもなく、俺達自身が動画で叩いていた「いじめ」そのものだった。使命感で盛り上がっていた三人を待っていたのは飲み切れないほどの罪悪感で、晒した相手から「お前のせいだ」と責め立てられる夢を見たのは一度や二度ではなかった。
ゴールデンウィーク中にメンバー三人で集まり、動画を削除することに決め、その日でFlameは解散になった。こから方向転換する気にもならなかったし、例え平穏な企画を思い付いたとしても、何の謝罪も弁解も無しに平然と動画をアップし続ける気にはなれなかった。
三人とも高校は別だったので、そこから彼らとは全く連絡を取っていない。動画のことを友人達に吹聴していなかったのが唯一の救いで、俺がこの件に触れることは無くなった。
■◇■
「それだけ。バカな話だろ」
季南と目を合わせる勇気がなくて、すっかり黒で塗りつぶされた窓の外に顔を向ける。どんな表情をしていいか分からず、自嘲気味に眉を上げた。
話してみて、改めて自分の幼稚さに嫌気が差す。反省しているとはいえ、頼まれたとはいえ、本当に俺が動画なんて作っていいのかと考えてしまう。
「そっか」
まるでちょっとした雑談を聞いたかのように、季南は軽い相槌を打った。
呆れられないだろうか、軽蔑されないだろうか。ひどいことをしてもなお、自分のことがかわいいのだということを自覚して、ますます嫌になる。
相変わらず目を合わせられないでいると、彼女は「うん」と考えをまとめたかのように小さな声をあげる。
「ホントに大変だったね。教えてくれてありがと。じゃあ、今日は帰ろ!」
「え? あ、ああ……」
勢いよく立ち上がる彼女の横で、俺は安堵の息を漏らす。
無理に「大したことしてないよ」なんてフォローされても、しんどくなってしまっただろう。その辺りまで考えてリアクションしてくれた気がして、気遣いのある彼女の成熟した対応に心の中で精一杯感謝しながら、パソコンを閉じて片付けた。
大学生らしきカップルを避けながら店を出る。街はすっかり暗くなり、そこかしこにある看板の明かりが道路を照らしている。会社を出てきた人も混ざって、駅に向かう大きな人の流れができていた。
「季南、次回の撮影はどうする?」
「お、北沢君がやる気になってる」
「あの演技も良かったし、演劇の裏話も面白かったよ」
「やった、褒めてもらえると嬉しい」
次回の撮影日程を話してるうちに駅が見えてきた。「私こっちから帰るんだよね」と、俺が乗るのとは違う地下鉄のマークを指す。
「俺は向こうだから、またな」
「あ、あのさ!」
足早に去ろうとした俺を、季南はブラウンの手袋のはめた手で呼び止める。
「北沢君の話、絶対に誰にも言わないから。私のもナイショね」
「おう」
動画のこと、だけじゃなくて、もちろん病気のこともだろう。首肯すると、彼女はニヤリと、悪だくみをしている敵キャラのような笑みを浮かべた。
「ふっふっふ、秘密を共有しあった仲だから、呼び方も替えていいかな」
「は?」
「有斗君、でいい?」
「ああ、うん、別にいいけど」
そう言うと、彼女は「やった」とガッツポーズをきめる。
「実は呼んでみたいなあって思ってたんだよね。有斗(あると)って語感良いし!」
「お褒めに預かり、光栄です」
礼儀正しく一礼してみる。男友達がみんなアルト、アルトと呼ぶから慣れているし、俺自身も割と語感は気に入っていた。
「私も千鈴でいいよ。みんなもそう呼んでるしね」
「分かった」
彼女が乗る地下鉄に向かう昇り階段に着く。最後に彼女は、顔だけではなく、全身で振り向いた。
「今日は本当にありがと。楽しかった。またよろしくね、有斗君!」
「ん、またな……千鈴」
呼び慣れない名前を呼んで、そこで別れる。そのまま俺も真っ直ぐホームに向かって電車に乗り、運良く空いた座席に座った。少しだけ頭を空っぽにして、車内に流れる動画広告をボーッと見る。
今日一日が長く感じられた。色々ありすぎて、一番驚いたはずの彼女の病の告白も、一番緊張したはずの俺の過去の告白も、まるで夢の中の一部のように現実味がない。
ポケットに入れたスマホを見ることもないまま三十分ほど揺られ、家の最寄り駅で降りた。
「さむっ」
気温が一気に下がっていて、思わず手をこすり合わせる。空には雲のかかった月が出て、今日の大仕事を労っているよう。街灯もさながら編集の功績を讃えるスポットライト。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
いつもは音楽を聴くけど、今日は彼女の動画を再生して、声だけ聴きながら歩いた。
七、八分の練習を終えると、季南は「よし」とノートをパタンと閉じ、ネイビーのボストンバッグから洋服ブランドのロゴの入ったビニール袋を取り出す。
「着替えちゃうね」
「ああ、やっぱりブレザーのまま撮るわけじゃないんだな」
「当たり前じゃん! 学校バレたら怖いし」
袋から私服のシャツやスカートをガサガサと出した後、彼女は困ったように眉を下げて、ジーッとこちらを見てくる。
「どした?」
「……出てってよう」
「あ、悪い!」
以前は男だけで撮っていたからみんなその場で着替えてたけど、女子だとそうもいかない。キッチンに行って、ワンルームとの境目のドアを閉める。
スマホを眺めていたものの、服が床に置かれるパサッという音が聞こえるたびにドキリとしてしまう。ドア一枚隔てた向こうでクラスメイトが着替えているかと思うと変な緊張が押し寄せてきて、慌てて更に奥のお風呂場へと逃げ込んだ。
「おーい、準備できたよ」
声を合図に、「おう」と平静を装って部屋に戻る。季南は体を何回か捻るようにして、俺に服の前後をお披露目する。
「どう、こんな感じで」
大きな花の絵をあしらったベージュのロングTシャツに、ベルトのついた黒のスカート。スカートは縁がチュールになっていて、暗い色なのにふんわりした印象に見える。
「変じゃないかな?」
「ああ、うん、良い、と思う」
「何よ、歯切れ悪いなあ」
「いや、悪い悪い。ホント、ホントに似合ってる」
俺だってクールにさらっと伝えるつもりだった。私服を見ただけで、こんな風に体が熱を持って動揺するなんて、思ってなかったから。
「じゃあ撮り始めるぞ」
「ちょっとちょっと!」
三脚に手を掛けた俺を、彼女は慌てて両手で制する。
「化粧直すからちょっと待ってて」
「あ、そっか、それも必要なのか」
前は男だけで撮ってたから、やっぱり勝手が違う。
「……別に今のままでもいいと思うけどな」
「わっ、ありがと。でもずっと残るものだしね。女子は大変なんだよー」
ポーチからコスメを取り出し、パフやブラシを使って整えていく。薄くルージュをひいた彼女の唇はいつもより艶っぽく見える。
やがて、鏡を見ていた彼女はクッと口角を上げ、「よし、オッケー!」と立ち上がる。そして、途中の水分補給用なのか、ミネラルウォーターを取り出して撮影用の椅子に座り、そのペットボトルを椅子の下に置いた。
「声が入らないようにカウントは途中から指だけでやるよ。そっちから言わない限り、カメラは回し続けるからな」
「ふふっ! うん、よろしく」
「なんだよ、テンション高いな」
「だってさ、こんな風に自分だけを撮ってもらうの、生まれて初めてだもん」
隠された財宝を探しにピラミッドに潜入するかのように、目を爛々と輝かせる彼女。興奮が緊張を凌駕して、撮影を待ちきれない様子でいた。
ガチガチになってなくて良かった。これならもう、すぐに始められそうだ。
「じゃあ行きます。五秒前! 四……」
録画ボタンを押した後、三から先は指だけ折って、カウントする。手がグーになってから数テンポ待って、季南は話し始めた。
「皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチョ、チャンネル……わーっ! ストップストップ!」
「早いな!」
いきなりのNGに思わずツッコミを入れ、おどけてその場でコケてみせた。
「大きな声出るかなって不安だったの。で、言えたら気が抜けちゃったみたい」
パチンと勢いよく両手を合わせて「ごめんね」と謝る彼女に「いやいや」と首を振る。
「こういうのが面白いんだろ?」
「うん、面白いね」
彼女は大好物のスイーツを前にカメラを向けられたかのように、上機嫌にピースして見せた。
「じゃあもっかい行くぞ。噛まないようにな。五秒前! 四……」
「はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました。えー、私は高校二年生なんですが、中学からずっと演劇をやっているので、この動画では演劇の練習方法や好きなお芝居などを紹介していきたいと思います。んと……そもそもなんでこのチャンネルを始めたかというと、自分のけん、経験が後輩の演劇部のみんなに役立てばいいなと思って……」
途中台詞を飛ばしたり噛んだりしつつも、自己紹介が終わる。季南が黙って二回頷いたのを見て「カット」と録画を止めると、彼女は深く息を吐きながら手足をだらんと伸ばした。
「緊張したあ」
「まあ始めはみんなそうだよ」
俺のフォローに、彼女は楽しそうに両膝をパンパンと叩いて歯を零す。
「でも楽しかった!」
そのハイビスカスみたいに真っ直ぐな笑顔も、演劇で練習した賜物だろうか。俺の瞼は、閉じる役目を忘れたらしい。大きく開いた瞳、熟した果物みたいに赤い唇、綺麗に並ぶ白い歯。彼女の表情を見ている間は、秒針が何倍もの遅さで動いているような、そんな感覚。
彼女からしたらいつもの表情かもしれないけど、俺の鼓動を一気に加速させるには十分だった。血液が一気に体中を駆け巡って摩擦熱が起こったかの如く、体温が上昇していく。
それは、クラスの誰も知らない秘密の作業をしていることに対する興奮だけでは説明がつかない。はっきりと分かる。彼女の笑顔に見蕩れたのだ。
そして、ここでやっぱりもう一人の自分が制しに来る。「彼女は自分の動画のために俺と組んでるだけだ、勘違いするなよ」と言い聞かせてくる。そう、俺にはまだ、この日々を楽しむ資格はない。冷静になって細く長く息を吐き、雑念を払う。
「じゃあ次の撮影に入るぞ」
「あ、ちょっと待って。ここから立たせてもらっていい? 演技したくて」
「え? そうなの?」
急に立ち上がって椅子の前に出た彼女を前に、三脚を動かし、カメラの位置を変えながら確認する。斜めから撮ると、背景も含めて上手く画角に入った。
「演技するなんて聞いてないけど」
「うん、今決めたんだ。なんか……やりたくなってさ」
「え、じゃあ練習もしてないの?」
「そう、ぶっつけ本番。うまくできるか心配だなあ!」
その返事に、むしろ俺の方が心配になってしまう。この場でいきなり演技するなんて、本当に撮影が成り立つのだろうか。
「お節介かもだけど、先にやることカッチリ決めてから撮った方が良くないか?」
「いいの。自分がやりたいことをそのまま出したいっていうか、用意した言葉じゃない方がいいなって」
穏やかに、それでも確かな意思を持って季南は答える。細かくカットを分けたくない、最低限の切り貼りしかしたくない、その場で決めたこともやっていきたい。徹頭徹尾、彼女は「そのままの自分を届ける」ことを意識している。それは、これまで自分がやってきた編集・投稿とは逆の考え方だった。
「じゃあ北沢君、お願い」
「お、おう」
指示されるがまま録画ボタンを押して合図した。
「それでは、挨拶代わりに、この前の文化祭でやった演劇の『リライト&リトライ』で、今にピッタリなシーンをやりたいと思います」
そう言うと、彼女はフッと目を閉じる。一回大きく深呼吸し、再び瞼を開けると、その表情は一五秒前の彼女とは全く違う凛々しいものになっていた。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
プロではないにせよ、役者の演技を間近で見るとやっぱりすごい。本当に彼女が、新しいことを始めたいという思いが伝わってくる。
「はい、いかがでしたでしょうか! あー緊張した!」
心の中で拍手しながら、この演劇のストーリーと文化祭での本番の裏話を話し続ける彼女を撮り続け、無事に撮影を終えた。
「はー、撮影ありがとう。北沢君、どうだった? 一回目にしてはほぼ完璧に出来た気がする!」
「……チャンネル登録お願いします」
「あーっ! 言うの忘れてた!」
かき氷を一気に食べた直後のように両手で頭を抱え、分かりやすく落ち込む季南。さっきの演技を目の当たりにしてから素の彼女を見ると、そのギャップが妙におかしかった。
「よし、じゃあ片付けして部屋を出よう。長くいると延長料金かかっちゃうからな」
「ねえ、北沢君パソコン持ってきてる? 編集ってどんな風にやるか、私も覚えたいから、どこかで作業見せてもらえない?」
「持ってきてるよ。それなら、カフェでも行くか」
そうだ、俺が撮影・編集するのも三、四回だけっていう約束だ。今のうちから少しずつ見て学んでもらおう。
「制服に着替え……はいいや。畳んで鞄にいれちゃおうっと」
無事に撮影が終わったからか、ベランダ横で上機嫌にいそいそと準備をしている季南。撮影が終わったことで俺もリラックスしていて、その後ろ姿に向かって何の気なしに問いかける。
「季南、これって演劇部の宣伝動画とかなの?」
「ううん、誰にも言ってないよ」
「……じゃあ、なんでYourTuberなんて始めるんだ?」
「え? あー……」
流れで聞いてしまった問いに彼女はすぐには答えず、カーテンをジッと見つめるようにしていたが、やがて俺に視線を合わせるのを拒むようにその青いカーテンを開けて窓の外を見る。蛍光灯に照らされ、茶色い髪に白い光が映った。
「演劇してるシーンとか、残したかったからさ」
「ああ、他の演劇やってる学生の参考になるようにって動画でも言ってたもんな。自分で見返すのにも使える? あ、でもそれならわざわざアップしないでもいいしな」
「あー……」
俺の方に向き直っていた彼女は、そこでまた視線を逸らして押し黙る。少し眉間にシワを寄せ、どう伝えようか、思い悩んでいる様子だった。
やがて、決心したように口をキュッと結ぶ。
「っていうより……さっきの台詞とか、言えなくなるんだよね」
「え?」
また少しだけ沈黙を挟み、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私、声帯を全部摘出するの。だから、自分の声を残そうと思ってさ」
6 彼女の「理由」
「北沢君、何飲む?」
「ん、いや、自分で買いに行くよ」
「いいからいいから、パソコンの準備してて」
結局カフェラテをお願いし、彼女がカウンターに向かっている間にパソコンを準備する。
レンタル会議室から歩いて五、六分のところにあるチェーンのカフェに来た。二階まである狭い店舗の一階は、ちょうど仕事が終わったのかスーツ姿の大人が三人レジに並んでいる。作業を横で見たいという季南の要望もあり、比較的窓側が空(す)いていたので窓側にある二人掛けの丸テーブルを二つ取って、隣同士で座った。
「はい、お待たせ。そう言えば北沢くん、ブラックコーヒーって飲める?」
「いや、苦いから得意じゃない」
子どもっぽいかな、と思いつつ反応を窺っていると、季南は「私も!」と自分用に買ったホットのキャラメルマキアートとスティックシュガーを、突き出すように俺に見せてニッと歯を零した。
「季南、お金幾らだった?」
「あ、いいよいいよ! 色々協力してもらってるから」
二往復ほど押し問答したものの、結局押し切られ、今回はご馳走になることにした。
「やっぱり編集はパソコンなんだあ」
「スマホのアプリもあるけど、こっちの方が細かい作業も自由にできるよ」
ビデオカメラをケーブルで繋いで、さっき撮った映像のデータをパソコンの中にコピーしながら、編集ソフトを立ち上げる。
「これ、無料ソフト?」
「いや、前に買ったんだ」
モニタに映った複雑な編集画面を、興味深そうに眺める季南。
彼女を見ながら、俺はさっきの部屋での会話を思い出していた。
■◇■
「…………え?」
声帯の摘出。その言葉をあまりにも唐突に告げられ、脳内に瞬時にイメージを結ぶことができない。
窓の外からこっちに向き直った季南の表情には、悲しみの色はない。噛んで失敗したときと同じように、少しだけバツが悪そうに微笑んでいる。
「難病らしいんだよね」
右手で包み込むように喉を押さえながら、彼女は口を開いた。
「男子でいう喉仏の近くに声帯があるんだけど、その下のところに腫瘍みたいなものがあるんだって」
「それって……ガンじゃないのか?」
腫瘍という単語からすぐに連想される病名を、俺はおそるおそる口に出してみる。音になって自分の耳で聞くと、余計にその病気が怖く感じられた。
「ううん、ガンとはちょっと違うみたい。確かに咽頭ガンっていうのもあるんだけど、ほとんどが男性みたいだし、たばこや飲酒が原因のことが多いんだって」
まるで他人事のように、何も気にしていない素振りで、彼女は外に出る準備を再開しながら話している。
「だから症例も少なくてさ。始めは化学療法、まあ薬で治そうとしたのね。修学旅行とか文化祭とかあるから、飲むだけならちょうどいいかなって思ってたんだけど、なんか夏に原因不明で急に悪化しちゃって。それで来年一月に摘出になっちゃったんだよね。一部の摘出ならガラガラ声は出るんだけど、全部だからさ」
残念だなあ、と彼女は呟く。悲しさや悔しさではなく、どちらかといえば諦めや自嘲を含んだトーンだった。
「それで、YourTuberやろうとしたのか?」
「うん。声、残しときたいって思ってさ。ただの自撮りとかじゃつまらないじゃない? バズって人気者になったりお金もらったりしたいわけじゃないけど、せっかくだから、話してる私を発信したいなって。だから台本読むのイヤだったの。普段通り話してる自分をそのまま届けたくてさ。ワガママ言ってごめんね」
「ああ、いや……」
謝ることないのに。そう言おうかどうか迷っているうちに、彼女は「行こ」と荷物を持って部屋を出て行ってしまった。
■◇■
「あ、撮ったやつだ!」
パソコンの中に取り込んださっきの動画を、編集ソフトで読み込んでいく。そのファイルを画面の下半分にドロップすると、編集ができるようになった。
「うわ、すごい。ここで映像を切ったりするの?」
「うん。例えばほら」
一本目の動画のトーク。その話と話の間の余白を切って、繋げてみせる。YourTuberの動画でよく見る、間髪容れない、テンポの良い喋りになった。
「今回は季南の注文もあるから、こんな風には編集しないけどな。あと、効果音とかテロップもここでつけられる」
「すごいすごい! 本物の動画作ってるみたい!」
「動画作ってるんだっての」
右隣の彼女の肩にツッコミを入れる仕草をすると、すかさず「ナイスツッコミ!」と合いの手が入る。
これまでと変わらないように振る舞う彼女があまりにも自然で、さっき聞いた話が冗談だったんじゃないかなと思うほど。それは、冗談であってほしいという俺の小さな願いでもあった。
「ねえねえ、なんか私に手伝えることない?」
「ううん、編集は分担してできるものじゃないからな」
「そっか……」
そう伝えると、彼女は残念そうに右頬に手を当てて、ふしゅーと溜息をついた。せっかくこんなにやる気になっているんだから、他に何かお願いできるものがあるといいんだけど。
「そうだ、ジングルとか効果音選んでくれない?」
「ジングルって……ベル?」
真顔で聞く季南に、「クリスマスにはまだ早いぞー」と両手をひらひらさせて返す。
「ラジオとかテレビで、コーナーの始めに流れたりする短い音楽あるだろ?」
「あ、あれジングルっていうんだ」
「自由に使える音源があるウェブサイト教えるから、そこから選んでよ。あと効果音もね」
「うん、分かった!」
チャットでURLを共有すると、気合い十分の彼女は「わっ、こんなサイトがあるんだ」と興奮気味にスマホをスワイプする。ジングルだけじゃなく、「ジャンッ!」「パフパフッ」「コケッ」といった効果音もたくさん載っているサイト。著作権フリーで自由に使えるので、YourTuber御用達のページになっている。
「季南のセンスで選んでいいぞ。今日撮ったの思い出して、ここでこれ流してほしいっていうのピックアップしてくれる?」
「了解!」
ビシッと敬礼した彼女は、ライトブラウンのサラサラヘアーを後ろに払ってから耳にイヤホンを嵌め、LとRの世界に閉じこもる。俺はその間に、動画の切り貼りを進めていった。
「……おお、これ演劇でも使えるな…………あ、これバラエティーっぽい」
感想を言いながらお気に入りの音をノートにメモしていく季南。新しいおもちゃをもらった子どものように目を輝かせながら、楽しそうに選んでいく。
十分くらい経っただろうか。スマホの液晶に釘付けになっている季南の顔の前に、スッスッと横にした手を翳(かざ)す。彼女はバッとイヤホンを取り、こっちを向いた。
「動画、繋ぐ作業は終わったぞ」
「ホント! 早い!」
パソコンに自分のイヤホンを挿し、右隣の彼女にも見えるように本体を斜めにして、イヤホンのLを渡す。
「一緒に見ようぜ」
「うん、ありがと」
Rを嵌めた俺と、Lを嵌めた彼女。体を寄せ合うようにして、編集ソフトの中で再生した。
『はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました』
まだ何も加えていない、余計な部分を削って繋げただけの五分弱の動画。見ている間、彼女はどこかソワソワしていた。
全て見終わると、彼女は両頬に手を当てて首をブンブン振る。
「うわー、自分が映ってるの見るのハズいねー!」
なるほど、だからあんなに体を揺らしてたのか。
「北沢君、もう一回流してみてもいいかな」
「ああ、カーソル動かして再生すれば普通の動画みたいに流れるよ」
季南は、俺のマウスを触っておそるおそるカーソルを動かし、もう一度再生する。
「……そっか、私こんな声なんだ。自分の声って、自分が普段聞いてるのと違うね」
「自分で思ってるより高いんだよね」
「確かに。ちょっと高いかも」
椅子をグッと前に引き、モニタに寄る彼女。距離が近くなって、俺は思わず重心を後ろにかける。
「……良い声、だと思うよ」
唐突に口にした誉め言葉に、季南は驚いたようにこちらを向いた。
「ホントに?」
「高さもボリュームもちょうどいいし、よく通る声だと思う。滑舌も良いから聞きとりやすいよ、さすが演劇部。前に自分達で作ってた時、女子に参加してもらったこともあったけど、高い声だとテロップ入れないと言葉が分かりづらいんだよね」
「そっか。それなら、嬉しいなあ」
「おう、動画にはピッタリの声だ」
「動画かーい!」
さっきのお返しとばかりに、今度は季南から肩にツッコミを寸止めされた。
こうして今喋ってる彼女の、この声がなくなるなんて、まだ全然信じられない。褒めない方がいいのか、と一瞬躊躇したけど、それでも正直な感想を伝えてあげたかった。良い動画になると期待させてあげたかった。
「季南、効果音決まった?」
「うん、結構良いの選べたと思う」
カフェの無料Wi‐Fiに繋ぎ、さっき彼女に教えた音源サイトを開く。
「じゃあダウンロードしていくから教えて」
「えっと、まず動画の始めの曲はね、『ジングル バラエティー』の『Happy Days』っていう曲が……」
彼女に教えられながら音源をパソコンにダウンロードしていき、二人で一緒に画面を見て本格的な編集作業を始める。ダウンロードしたジングルや効果音を動画の音声スペースに挿入し、季南の声と被らないように音量を調節していく。そこにさらに「演劇ガールって何?」「ちょっと噛んだ(笑)」とテロップを付けていった。
「このテロップ、ピンク色でいい?」
「うん。サイズ、もう少し大きくてもいいかな。私の頭と被らないくらいの位置に置いてくれる?」
「ここでトランペット来るよ来るよ……はい来た! これでタイミングどう?」
「ぴったり! ナイス北沢選手!」
「あ、待って。やっぱりちょっとここの効果音、もっと面白いものに変えたいかも」
「おう、じゃあ次の部分進めてるから、音探しておいて」
一昨年の今頃も、大きなモニタに映しながらワイワイと作業していたのを思い出しつつ、季南の希望を形にしていく。十秒、また十秒と編集が進んでいき、彼女が話していただけの動画は、音と文字に彩られたコンテンツへと変わっていった。
「おおっ、最後までいったね。編集ってこれで終わりなの?」
「うん、ほとんど終了だよ。でももう少しだけ時間ほしい」
頭から動画を見直して、少し間があるところ、彼女の声が聞こえづらいところを補正していく。一秒、あるいは一秒未満の単位で調整する世界。
せっかくの初動画、少しでもいい作品にしたかった。
「……できた」
達成感を肩に乗せ、その重さで両手をだらりと下げる。左側の大きな窓の外に目を向けると、太陽はすっかりビルの下に溶け、薄墨色の夜が街を覆い始めていた。
「おつかれさま、北沢君。ありがとね!」
「最後、一緒に見るぞ」
「うん」
二人で動画を確認する。「これでいいか?」と訊き、彼女が深く頷くのを見て、編集した五分の作品を動画ファイルに出力した。そしてYourTubeのログインページに移り、「はい」と彼女にキーボードを向ける。
「え、どしたの? これ、北沢君のアドレス?」
「いや、これ消して季南のアドレスとパスワード入れてよ。季南のアカウントでログインしないとダメだろ」
「あ、そっか。ふふっ、北沢君が変な演劇女子の動画アップしてることになっちゃう」
「笑いごとじゃないっての」
彼女は慣れない手つきでキーボードを叩き、エンターキーをタンッと軽快に押してから俺の手元にパソコンを寄せた。
「サンキュ」
出力したばかりのファイルを選択し、タイトルを入力しながらアップロードを待つ。
そして。
「よし、投稿完了!」
見慣れたYourTubeの画面で、一つの動画を再生した。
〈【YourTuberデビュー】演劇ガール いきなりカメラの前で初演技! その結果は……?〉
数分前に見たのとまったく同じものが、ブラウザから流れる。それは、この世界に極小の、でも唯一の、動画コンテンツを生み出した瞬間だった。
「わ、あ……すごい、すごい! 私にもできた!」
目を大きく見開いて興奮する季南。乗り出した体が丸いテーブルに当たり、彼女のマキアートのマグカップをトンッと揺らした。
「北沢君、ありがとう! ホントに嬉しい!」
両手で勢いよく俺の右手を握り、ブンブンと振る。カッコつけて「いいってことよ」なんて言おうとしたけど、彼女があまりにも嬉しそうな笑顔を咲かせていたので、俺も素直に「良かったな」と返した。
今日の作業はこれでひと段落。パソコンをリュックにしまっていると、集中しっぱなしで麻痺していた疲労感が一気に襲ってくる。
久しぶりにやる動画作りは、相変わらず大変だったけど、心地良い疲れだった。
「……ねえ、北沢君」
不意に、横にいる季南が声をかけてくる。彼女は、左右をサッと見て、近くに人が座っていないかを確認すると、小声で訊いてきた。
「私も秘密教えたからさ、もし良かったら北沢君の秘密も教えてよ。共有しあおう?」
「秘密? いや、俺はそんな、季南みたいな大きなのはないよ」
すると彼女は、真っ直ぐ俺を見つめて口を開いた。
「……なんで動画作るの止めちゃったの?」
瞬間、ぞわりと心が震えた。今の自分はどんな顔をしているだろうか。驚き、恐怖、悲しさ、全てがごっちゃになっているに違いない。
その表情を察してか、すぐに彼女は慌てた様子で両手を動かした。
「いや、その、無理に答えなくていいから。もちろん純粋に気にもなるんだけど、何ていうか……ほら、私の秘密、半分持ってくれたじゃない? だから、私も代わりに持ちたいなって思っただけなの」
「あ、そういうことか……」
好奇心だけだと思い込んだ自分を恥じる。同時に、彼女の気遣いに心が暖かくなる。俺に「大変なことを聞いてしまった」と余計なプレッシャーを感じさせないように、俺が話したがらない暗い内容も受け止めてくれようとしたのだろう。
これまでだったら、笑って誤魔化していたこと。でも、彼女が配慮しながら訊いてくれたことは伝わったし、何より俺も、彼女が大事な秘密を明かしてくれたのに俺が明かさないのは不公平かな、と感じていた。
だから、今度は俺の番。俺が勇気を出す番。手が震えているのを自覚して、右手で左手首をぎゅっと押さえる。
「……誰かの人生をめちゃくちゃにしちゃったから、かな」
人の少なくなったカフェで声のボリュームを気にしながら、俺は記憶を二年前に戻した。
7 俺の「理由」
中学二年生の頃から、今は別の高校に通う友達二人と三人組でYourTubeへの投稿を始めた。始めは、静止画に音声だけのラジオを投稿していたけど、途中から覆面で顔を隠した友人が話す、所謂YourTuberとしての活動に移行した。
名前は「なんかカッコよくね?」くらいのノリで【Flame(フレイム)】 一人が企画担当、一人が覆面の出演者、そして俺が撮影と編集担当と、バランスの良い役割分担だった。
最初は何のテーマも決まってなくて、新商品のジュースを紹介したり、激辛ラーメンに挑戦したりしていた。友達にも秘密にしていたから再生数もほとんど伸びなかったけど、何回か再生されてるのを見てるだけで嬉しかった。大騒ぎしながら企画を考えて、大笑いしながらカメラを回して、大はしゃぎしながら動画編集する、それだけで毎日面白かった。
でも中三の時に投稿した「バカ投稿中学生に同い年から一言モノ申す!」がたまたまヒットした。スーパーの商品でイタズラしている動画をSNSにアップした中学生に対して「お前のせいで俺達までバカな目で見られるんだよ!」と散々キレるだけの映像。
誰かが拡散してくれたのか、見るたびにカウンターは上がっていき、最終的には一万近い再生数になる。世の中に無数の動画がある中で、芸能人がやっても数千しか再生されないこともある中で、俺達の動画が一万回見られている。その数字が、俺達の基準と感覚をバグらせた。
勝ちパターンを掴んでからの動画は、ネットニュースやSNSから悪質な行為をしている中高生を探して、晒し上げる映像になった。
軽犯罪の画像をアップしている人、いじめ動画を投稿している人達を見つけ、動画の中でSNSのアカウントを映す。そして過去の投稿を遡って、罵倒しながらツッコミのテロップを流していく。
十回再生されて喜んでいた動画の再生数は、たまにヒットすると一万を超え、二万も夢じゃないような数字になる。コメント欄には「分かる!」「よく言ってくれました。こいつらホントに最悪」と共感に満ちた言葉が並ぶ。
どうしようもないヤツらがたくさんいるのに、SNSのネタとして済まされるなんて許せない。俺達がきっちり糾弾してやる。自分達が正義の使者であるように錯覚し、顔も知らない相手に罵詈雑言を浴びせていく。みんな、コイツらの悪事を知って広めてくれ。【Flame】に「炎上」の意味を被せたのは、ちょうどこの頃だった。
俺達の正義は止まらない、どころか、もっと反応が欲しくて過激な内容になっていく。
ネットの匿名掲示板に、「コイツの通ってる学校を特定したい」とSNSのネタを投げ込めば、それを見ている大人数の知識と分析力でどんどん絞り込まれていく。そして誰かが特定すると、皆が一斉に「学校に通報しよう」と言い出す。俺達は、自分達が火つけ役なのに、さも野次馬のように、動画の中で「ネット上で学校が特定されたらしいですよ」なんて話した。
別に通報したのは俺達じゃない。匿名で炎上して本人はのうのうと生活してるなんて看過されていいはずがないと、悪事を知った人達の制裁がくだったのだ。
動画を作るときには相変わらず笑ってたけど、それは投稿を始めたときの笑顔とは違っていたかもしれない。でもそんなことは気にならなかった。「正しいことをしている」と、「これが俺達のやりたかったことだ」と、本気で信じていたから。三人バラバラの高校に行ったけど、この活動を続けると決め、部活にも入らなかった。
自分達の内なる声と再生数とコメント欄に支えられ、俺達はどんどん成敗の遊びに興じていった。高校生に入って間もない、去年のあの日まで。
高一のゴールデンウィーク前の四月。あるSNSアカウントの個人情報を暴こうと掲示板を見ていたとき、ふと一つの書き込みが目に留まった。
『Flameの動画でも取り上げられてた、牛丼屋のバイトでやらかしたパンゴ君っていただろ? ここで学校特定されて通報されたのきっかけで、学校の二階から飛び降りたらしいぜwww アカウントも消してるwww』
慌ててニュースを探すと、幸い命に別状はなく、全治三ヶ月とのことだった。しかし、胸の中をフォークでざりざりと削られているような気分になり、恐怖が全身を埋め尽くした。そのきっかけを作ったのは、間違いなく俺達の動画だったから。
今回はたまたま掲示板で情報を見つけた。でも、俺達が知らないだけで、他にもいるかもしれない。友達を無くした人はいないか? いじめられた人はいないか? 不登校になったり学校を辞めたりした人は? 今回の彼みたいに飛び降りた人は?
動画で取り扱った一人ひとりを必死に調べて、最悪の事態に陥った人はいなそうだということは分かったけど、そんなことは何の足しにもならなかった。
自分達のやっていることの影響に、そこで初めて気付いた。それは成敗でも何でもなく、俺達自身が動画で叩いていた「いじめ」そのものだった。使命感で盛り上がっていた三人を待っていたのは飲み切れないほどの罪悪感で、晒した相手から「お前のせいだ」と責め立てられる夢を見たのは一度や二度ではなかった。
ゴールデンウィーク中にメンバー三人で集まり、動画を削除することに決め、その日でFlameは解散になった。こから方向転換する気にもならなかったし、例え平穏な企画を思い付いたとしても、何の謝罪も弁解も無しに平然と動画をアップし続ける気にはなれなかった。
三人とも高校は別だったので、そこから彼らとは全く連絡を取っていない。動画のことを友人達に吹聴していなかったのが唯一の救いで、俺がこの件に触れることは無くなった。
■◇■
「それだけ。バカな話だろ」
季南と目を合わせる勇気がなくて、すっかり黒で塗りつぶされた窓の外に顔を向ける。どんな表情をしていいか分からず、自嘲気味に眉を上げた。
話してみて、改めて自分の幼稚さに嫌気が差す。反省しているとはいえ、頼まれたとはいえ、本当に俺が動画なんて作っていいのかと考えてしまう。
「そっか」
まるでちょっとした雑談を聞いたかのように、季南は軽い相槌を打った。
呆れられないだろうか、軽蔑されないだろうか。ひどいことをしてもなお、自分のことがかわいいのだということを自覚して、ますます嫌になる。
相変わらず目を合わせられないでいると、彼女は「うん」と考えをまとめたかのように小さな声をあげる。
「ホントに大変だったね。教えてくれてありがと。じゃあ、今日は帰ろ!」
「え? あ、ああ……」
勢いよく立ち上がる彼女の横で、俺は安堵の息を漏らす。
無理に「大したことしてないよ」なんてフォローされても、しんどくなってしまっただろう。その辺りまで考えてリアクションしてくれた気がして、気遣いのある彼女の成熟した対応に心の中で精一杯感謝しながら、パソコンを閉じて片付けた。
大学生らしきカップルを避けながら店を出る。街はすっかり暗くなり、そこかしこにある看板の明かりが道路を照らしている。会社を出てきた人も混ざって、駅に向かう大きな人の流れができていた。
「季南、次回の撮影はどうする?」
「お、北沢君がやる気になってる」
「あの演技も良かったし、演劇の裏話も面白かったよ」
「やった、褒めてもらえると嬉しい」
次回の撮影日程を話してるうちに駅が見えてきた。「私こっちから帰るんだよね」と、俺が乗るのとは違う地下鉄のマークを指す。
「俺は向こうだから、またな」
「あ、あのさ!」
足早に去ろうとした俺を、季南はブラウンの手袋のはめた手で呼び止める。
「北沢君の話、絶対に誰にも言わないから。私のもナイショね」
「おう」
動画のこと、だけじゃなくて、もちろん病気のこともだろう。首肯すると、彼女はニヤリと、悪だくみをしている敵キャラのような笑みを浮かべた。
「ふっふっふ、秘密を共有しあった仲だから、呼び方も替えていいかな」
「は?」
「有斗君、でいい?」
「ああ、うん、別にいいけど」
そう言うと、彼女は「やった」とガッツポーズをきめる。
「実は呼んでみたいなあって思ってたんだよね。有斗(あると)って語感良いし!」
「お褒めに預かり、光栄です」
礼儀正しく一礼してみる。男友達がみんなアルト、アルトと呼ぶから慣れているし、俺自身も割と語感は気に入っていた。
「私も千鈴でいいよ。みんなもそう呼んでるしね」
「分かった」
彼女が乗る地下鉄に向かう昇り階段に着く。最後に彼女は、顔だけではなく、全身で振り向いた。
「今日は本当にありがと。楽しかった。またよろしくね、有斗君!」
「ん、またな……千鈴」
呼び慣れない名前を呼んで、そこで別れる。そのまま俺も真っ直ぐホームに向かって電車に乗り、運良く空いた座席に座った。少しだけ頭を空っぽにして、車内に流れる動画広告をボーッと見る。
今日一日が長く感じられた。色々ありすぎて、一番驚いたはずの彼女の病の告白も、一番緊張したはずの俺の過去の告白も、まるで夢の中の一部のように現実味がない。
ポケットに入れたスマホを見ることもないまま三十分ほど揺られ、家の最寄り駅で降りた。
「さむっ」
気温が一気に下がっていて、思わず手をこすり合わせる。空には雲のかかった月が出て、今日の大仕事を労っているよう。街灯もさながら編集の功績を讃えるスポットライト。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
いつもは音楽を聴くけど、今日は彼女の動画を再生して、声だけ聴きながら歩いた。