3 作戦会議
翌日、二三日の木曜、昼休み。昨日より暖かく、お昼時の今はブレザーだと暑いくらいだった。光を貼り付けるように窓ガラスを照らす陽光が、廊下に白色のプリズムを作る。
弁当を食べ終えても微妙にお腹が足りず、購買部にパンを買いに向かっている廊下で、ブレザーのポケットのスマホが振動した。
それは、クラス替えの四月以降、全く音沙汰のなかった季南からのチャット。直前のやりとりは四月九日、向こうの『よろしくね~』に対して、俺が返した、『よろしく!』というメッセージとお辞儀しているパンダのスタンプで止まっている。
『放課後、昨日の集会室で作戦会議しよう!』
たったそれだけの文章だけど、少しドキッとしてしまい、心臓が早鐘を打つ。
『よろしく!』
約半年前と同じ返事、だけど今回は形式的な社交辞令じゃないのが、何だか嬉しい。
「ねえ、北沢」
「三橋、どした」
後ろから声をかけられる。季南に俺を紹介した張本人、三橋咲乃から背中を叩かれた。
「季南から聞いたよ。相談乗ってくれたんだって、ありがと」
「いや、困ってるみたいだったからな」
俺の顔を見て何か思い出したのか、三橋は「あっ」と小さく叫び、周りに聞いている人がいないか確認した。
「YourTuberやってたこと、ナイショにしてたんだね、ごめん」
「それは俺も口止めしてたわけじゃないし大丈夫だよ、悪かった」
三橋はホッとした表情を見せる。後ろで縛った黒髪が、体の動きに合わせて尻尾のように揺れた。
「なんか、おじいちゃんおばあちゃんに送るための動画を何本か作りたいって言ってたからさ。北沢のこと思い出して紹介したんだ」
「おじ……ああ、そうそう。どんな動画にするかこれから考えるんだ」
なるほど、恥ずかしかったのか、YourTuberのことは秘密にしているらしい。季南の意図を組んで秘密にしておいた。どうやら、本当のことを知っているのは俺だけらしい。
購買部では総菜パンを買うつもりだったのに、見た目の誘惑に負けて、上にもチョコがかかったチョココロネを買ってしまった。潰れないように抱えて戻る途中、通りすがりの男子に声をかけられる。
「よっ、アルト」
「おお、慶か。元気?」
俺とほぼ変わらないくらい、一七五センチくらいの背丈で、やや短めの黒髪をワックスで遊ばせている。上半分だけリムがある、シルバーカラーのメガネの奥で、眉をクッと上げているのが分かった。
「おう、もちろん。アルトは?」
「まあいつも通りだよ」
それなら良かった、と幼馴染の吉住慶は真っ白な歯をにいっと見せた。
「文化祭も終わったし、あとは受験まっしぐらだな」
「だな。土日に模試がたくさん入るかと思うとイヤになるぜ」
校舎二階、西側にある、北校舎と南校舎を結ぶ屋外の渡り廊下で、隣の慶が大げさに溜息をつく。下の中庭にあるベンチでは、女子が座って写真を撮り合いながら談笑していた。
「まあ慶は頭良いから焦って受験勉強始めないでも大丈夫だろうけど」
「いやいや、そんなことないって。理系合ってないんじゃないかって気がしてきたよ」
そう言って、理系の上位五人から落ちたことのない慶は謙遜する。二年の文理選択で別れてしまったのでもう同じクラスになることはないけど、話し方や笑い方は中学、いや、小学校五年の頃から変わっていない。
「……動画、また作るんだ」
俺の言葉に、彼は目を丸くする。俺の動画に纏(まつ)わる件をちゃんと知っている唯一の親友だけに、少なからず驚いたらしい。
やがて、不安を混ぜた声音で「そっか」と一言だけ返す。
「アルトが一人で作るのか?」
「いや、クラスの女子に頼まれた。季南千鈴って子なんだけど三橋経由で相談が来てさ」
「ああ、三橋がアルトの動画のこと覚えてて紹介したってことか」
察しの良い慶は、大まかな経緯を把握したらしい。
「お前が手貸すなんて意外だな」
「……真剣に頼まれたから、な」
正直、自分自身でもなぜ引き受けようと思ったのかよく分からない。でも、彼女の本気が伝わってきて、力になりたいと思ったのは間違いなかった。
「さて、そろそろ教室戻るよ。アルト、なんかあったらいつでも相談乗るからな」
「ああ、ありがとな」
廊下で手を振って別れ、俺はシャーペンの芯を買いに早足で購買部に向かった。
「まだ……来てないか」
放課後、季南とは別々のタイミングで教室を出る。下手に知り合いに会って「どこ行くの」と余計な詮索をされないよう、注意しながら北校舎に向かった。
こっそりと昨日の集会室に入ったものの、彼女はまだいない。こんな無人の部屋におよそ必要ないだろうと思える緑のカーテンとレースのカーテンを捲り、少しだけ窓を開けると、ちょうど良い温度の風が部屋に吹き込んだ。
「ふう」
パイプ椅子を開いて座り、深呼吸を一つ。この無人の部屋で二人きりになることに改めて緊張してしまう。季南と何か特別な関係になったわけでもないけど、「クラスメイトの女子と秘密を抱えている」ということに不思議な高揚感を覚えた。
でもそんなことを考えていると、いつも通り、頭の中にもう一人の自分が現れる。そして「他の人を傷つけた君が、幸せになっていいと思う?」と話しかけてきて、膨らんだ高揚感が破裂し、冷静になった心が萎んでいく。
そして、思い出したくないのに、二年前からの薄暗い過去に、記憶が遡っていく。
「う……ぐう……」
思い返して、胃が逆流するような気分になる。ひどいことをしたと、どうにかして罪を償わなくてはと、後悔を反芻して胸を押さえる。
そしてここで気付く。自覚がなかったものの、俺が季南のお願いを受けたのは、きっと罪滅ぼしのためなのだ。動画の罪だからこそ動画で償う、悪くない考えだ。俺はただ、彼女と友達っぽく接しながら、俺自身のために動画を作ればいい。
そんなことを考えながら机をおろして準備していると、後ろのドアがゆっくりと開き、季南がそっと顔を覗かせた。
「失礼しまーす……わっ、ごめんね、待たせた?」
「いや、俺も今来たところだよ」
友達と会って話しこんじゃってさ、という彼女の話を聞きながら、昨日と同じように広げたパイプ椅子に座るよう、顎で軽く促す。
備品だらけの空き教室。ホワイトボードや教卓に囲まれたこの狭いジャングルは今日から、二人の作戦部屋になった。生徒も先生も、この場所に来ることはほとんどないだろうし、万が一バレても「ちょっと内緒話してました」と言えば怒られるくらいで済むだろう。
「北沢君、今日からよろしくね」
「ああ、うん。よろしく」
明るい茶髪の前髪を右手に払いながら、季南は照れるように微笑んだ。こうして真正面から見るとやっぱり可愛い顔立ちだな、と少し見蕩れてしまう。
「おじいちゃんおばあちゃんに動画送るんだって?」
ややイタズラっぽく言ってみると、彼女は頬を掻きながら苦笑する。
「……咲ちゃんにはYourTuber始めるって言えなくてさ。だから演技してみたの。でも咲ちゃん、信じてくれたんだ、良かった。私の名演技のおかげでうまく騙せたわ」
自分で名演技、と言ってピースする姿に、思わず笑ってしまう。
「三橋も季南も、高校から役者始めたの?」
「ううん、私は中学からずっと演劇部だよ。咲ちゃんは高校からだけど、役者じゃなくて音声担当なんだ。舞台に合わせる音楽を選んで、本番で流す仕事ね」
なるほど、演劇も色々担当が分かれてるんだな。
「で、作戦会議って何するんだ? 季南が考えた企画案の中で、どれが簡単に撮れそうか考えてく?」
早速本題に入った俺に、彼女は「いやあ……」とわかりやすく目を逸らす。
「企画案って言っても、ねえ……」
「……ひょっとして季南、何も考えてないとか――」
「だってー!」
俺の推理を遮って、彼女は駄々をこねる小学生のように喚き始めた。
「企画って難しいじゃん! 全然浮かばないよ! いや、一応浮かぶことは浮かぶんだけど、『あれ、これってこの前見た動画と完全に一緒だ』ってなっちゃってさ」
「別に始めは一緒でもいいんじゃないか? あとからオリジナルの企画練ってやっていけば」
「ううん、それはそうなんだけどさ。折角だから『これは私だから作れた動画だ!』って自信持って言いたいっていうか……」
そう独り言のように呟きながら、彼女は餌を頬袋に詰めるハムスターのように小さく膨れた。
「でも、ちょっと参考にしようと思って人気のチャンネル検索したら、気付いたら五本くらい続けて見てるんだよね」
「そーれーは季南が悪い」
茶化しながら責めると、彼女はさらにもうひと膨れした後、プシュッと吹き出して笑った。
「北沢君に『企画は自分で考える』って言った手前、何か出そうとは思ってたんだけど……」
落ち込んだ表情を浮かべた後、チラリとこっちを見る。それは荷物を運ぶときに「こんなに重いもの持てないなあ」と女子が甘えてくるのに似ていた。
「はいはい、一緒に考えるぞ」
「やった! ありがと!」
ハイビスカスのように明るい笑顔をぱあっと咲かせる。屈託のない表情は、見ているこっちまで沈んでいた気分が上向く。彼女がクラスの色んな女子と仲良くやれている理由が分かる気がした。
「とりあえず、アイディア広げていくか。季南の好きな動画はどういうのだ?」
「んっとね、ジャンボパフェ食べたり、グミ百個買ってお皿に開けてみたりするのが楽しそうで好きかな」
「分かりやすいし、やってる画もインパクトあるもんな」
動画一覧のサムネイルだけで面白さが伝わるのは確かに強みだ。
「でもお金や時間がかかりすぎるから、高校生には向かないよ」
「そっか、そんなにお金ないからなあ」
季南は両手をひらひらさせる。「グミ百個でも一万くらいするもんな」と言うと、彼女は驚きと拒否の混じった「ひょえ」という不思議な叫び声をあげた。
「まあバズらせたいならそういうのやった方がいいけどな。SNSでも紹介されやすいし」
「だよね。でも再生数はそんなに気にしないからいいの」
「あれ、そうなのか」
だとすると、やっぱり分からなくなる。彼女は何のためにYourTuberを始めるのだろう。人気になるための手段じゃないのか。
「ううん、だとしたら、どんな企画がいいのかなあ?」
季南は長机にグッと身を乗り出して、俺に訊いてくる。
「そうだなあ……特に方向決まってないなら、始めはやっぱり自分の好きなことがいいよ。オススメの本紹介したり、好きなお菓子を食べて感想言ってみたり」
「好きなことかあ。何だろう、ファッション、は普通……音楽も別になあ……漫画も人並みだし、海外ドラマ……」
趣味を指折り数えていくのを聞きながら北向きの窓から外を眺めると、ぽつんとはぐれた雲が「のんびり考えるといいよ」と言うようにゆっくりと泳いでいる。
不意に、彼女は両手で自分の頭を押さえ、「うわー!」と嘆くように叫んだ。
「私って無個性だ!」
「…………ぶふっ」
「あ、笑った!」
堪えきれずに笑いながら机に戻った俺に、彼女はファウルの笛を吹くようなジェスチャーを見せた後、「ピピーッ!」と声に出して警告する。
「何、私の悩み、そんなにおかしい?」
少しいじけたような表情の季南が、上目遣いにこちらを見てくる。
彼女に興味を持たないつもりでいるのに、その仕草に心臓がドキリと反応してしまう。
「いやいや、学生のYourTuberってみんなその悩みに行き着くんだよ。季南もその通りになったからおかしくってさ」
「そうなの?」
「じゃあさ、文系の四クラス思い浮かべてみてよ。すっごく特殊なテーマで動画撮れそうな人、パッと思いつく?」
「んん……青木君が水泳でインターハイ行ってるから、泳ぎ方の動画とか撮れそうかな。あとは……ううん……」
彼女は腕を組んで、日本史の問題の答えを思い出すかのように考え込んだ。そう、俺も青木くらいしか浮かばない。
「な? 百人以上いたって一人とか二人なんだよ。でも、九九パーセントはみんな無個性ってわけじゃないだろ? 普通の人が多いってことだよ」
「……そっか……普通の女子……」
励ましたつもりはなかったけど、なんだか安堵しているようだ。思ったより落ち込んでいたのかもしれない。
「だから別に、『ちょっと好き』くらいでいいんだよ」
「ちょっと好き?」
「別に爆笑できるような動画ばっかり見たいわけじゃないだろ。もしさ、自分が好きな映画を同い年くらいの女子高生が紹介してたら気にならない? この子はどんな感想なんだろうって」
「あ、確かにちょっと気になるかも」
狙った通りの反応をくれた季南に、俺は思わず笑みを零す。
「それで良いんだよ。趣味が合うようなら他の動画も見てみようってなるからさ。まずはそうやって始めればいいよ」
「そっかそっか。すごいね、北沢君」
「すごい?」
唐突に褒め言葉を投げかけてきたので、意味を尋ねるように聞き返すと、胸元でピッと俺を指差す。
「なんか、YourTubeの先生みたい」
「そんな大したもんじゃないって。一時期ちょっとやってただけだよ」
「それでもすごいんだって!」
彼女は机を四本指でタンタンと叩く。賛同するように、茶色の髪の毛もふわりと縦に揺れた。
「短い期間だって、真剣にやらなきゃ今みたいに話せないと思う。北沢君が頑張ったときの知識で、今私が助かってるからさ」
「……なら良かったけどさ」
「うん、良かった」
にへへと頬を緩める季南。俺にとってはちっとも良い思い出じゃなくても、彼女にとって救いの手になっているかと思うと、不思議とそこまで悪い気はしなかった。
「さて、何にするかな。私の好きなもの……好きなもの……」
そして季南はまた考え始め、俺は邪魔しないように再び窓際に行く。昼と呼ぶには明るさが薄らいでいて、文化祭の準備をしていた一、二週間前と比べて、更に日が短くなっているのを感じた。
数分経ったころ、季南が「うん」と自分自身を納得させるように頷く。
「じゃあやっぱり、演劇がいいかな。ずっとやってきたことだし。演技したり朗読してみたり、好きな舞台の話してみたり。地味だしマイナーかなと思って案には入れなかったんだけど。北沢君、変かな?」
「いや、そんなことないよ。むしろ、マイナーな方が固定ファンがつくんじゃないかな。お菓子や漫画のこと話してる動画はたくさんあるけど、演劇って少ないだろうから、演劇好きな中高生が来てくれると思う」
「じゃあタイトルは『演劇ガール』で!」
「お、キャッチ―でいいな」
「他に北沢君、動画のアイディアある?」
俺は腕を組んで悩んだ末、昨日水原に見せてもらった「オンライン家庭教師」の動画を思い出した。
「もし勉強好きなら教科の解説動画とかもいいと思うぜ」
「そんなに好きじゃありませーん」
即却下と言わんばかりに、目をキュッと瞑って人差し指で小さくバッテンを作った。「テストも文系五十位くらいだしさあ……」と言った後、イタズラっぽい笑みを浮かべて俺に訊き返す。
「北沢君、どのくらいだったっけ?」
「俺は大体三、四十位だな」
「うわっ、負けた!」
バタリと机に突っ伏す季南。そのリアクションがいちいち可笑しくて、「勝った」と胸を張って見せる。
「よし、テーマ決定だね。北沢君、ありがと!」
小さく拍手する季南が、「あとは何を決めれば……」と言いたげな表情で視線を俺に向ける。
「次はもう撮影に入るから、季南は一番始めに放送する内容を考えておいて。こっちはカメラとかの準備進めておく」
「うん、分かった。あれ、そういえば動画ってどこで撮るの? この部屋……はまずいよね? 誰か来たら困るし、放送音とか入ったら学校名バレる可能性あるし」
矢庭に狼狽える彼女に、思わず中学時代の自分を重ねる。俺達も同じことで、あんな風に悩んだな。
「レンタルスペースってのがあってさ」
あの当時も検索で見つけてはしゃいだのを思い出しながら口を開いた。
「一時間千円、安いところだと六百円くらいで空いてる部屋を借りられて、撮影にも使えるんだよ。ネット予約して電子マネーで払えたりするから」
「へえ、そんなところがあるんだ。さすが経験者だね! 北沢君も昔使ってたの?」
「うん。まあ当時は中学生だったから、カラオケで済ませたりもしてたけどね」
来週の放課後を条件にレンタルスペースを予約することだけ決めて、今日のところは一旦お開きとなった。
季南は図書室に用があるらしく、先に学校を出て一人で最寄の桜上水駅に向かう。一軒家が建ち並ぶ細い通路を抜け、上水の暗渠に沿って広がる公園を横切ると、少しずつ賑やかな駅前が近づいてきた。
今日一日で結構季南と仲良くなった気がする。お互いの相性が良いのだろうか、波長が合うのだろうか。
そんなことを考えた自分自身を、首を激しく振って否定する。自分が特別なわけじゃない。動画が得意だから頼まれただけだし、誰とでもああやって距離を詰められるのが彼女の良いところなのだ。勘違いしそうになり、頭のてっぺんを中指でカリカリと掻いて気を紛らわせた後、駅の階段を一段飛ばしで上がった。
4 レンタルスペースにて
週の明けた九月二七日、月曜日の放課後。俺は撮影のために桜上水駅から電車で二十分弱の渋谷駅に来ていた。桜上水にもレンタルスペースはあったものの、他の生徒に見られるのは避けたかったので、オープン割引を行っていた渋谷の新しいスペースを予約した。都心に近い学校というのは、こういうときに便利だ。
「梨味なんて出てるのか。美味しそうだな」
季南が来るのを待ちながら、コンビニのジュースの棚で新商品の炭酸を眺め、小声で独り言を漏らす。
久しぶりの撮影はやっぱり少し緊張してしまい、こうして季南を待っている間も、唾を飲む音が何度も大きくゴクリと聞こえた。
不意にブーッとスマホが震える。さっき『これから撮影行ってくる』とチャットを送った吉住慶から返信が来ていた。
『そっか。オフショットだから、とか言って隠し撮りするなよ』
『お前は俺をどんなヤツだと思ってるんだ』
すかさずツッコミを入れると、向こうも打ってる途中だったのか間髪入れずに返信が届く。
『無理しないで、リラックスしろよ』
ジョーク混じりな気遣い。さすが、十歳からの付き合いだけある親友だ。
『おう、ありがとな』
返事を送ってスマホをズボンのポケットに入れ、ふと窓の外を見ると、手を振るブレザー姿の女子が目に飛び込んでくる。今日からYourTuberとしてデビューする、季南千鈴だった。
「お待たせ! 別に現地集合じゃなくても良かったのに」
「変に噂立っても困るだろ。二人で都心の方に行ったとか」
「へえ、北沢君、真面目だなあ」
からかい半分、本音半分くらいのトーンで彼女は目を丸くする。こっちは本音を言うわけには行かない。初めて行く場所だったから、迷わずに案内できるよう先に来て方向を確認しておいたなんて。
「じゃあ行くか。十分ちょっと歩くよ」
「分かった、ついていくね!」
繁華街で知られる渋谷も、ハチ公前からバスケットボール通りに向かうのではなく、東側に向かっていくとガラリと景色が変わる。大学生らしき姿はよく見るものの、銀行などのオフィスが並ぶビジネス街になり、歩道の両側に植えられたケヤキを眺めながら歩いていく。晩秋の十一月になるとケヤキにはイルミネーションが灯り、黄色い明かりが人で溢れるクリスマスを華やかに照らすのをふと思い出した。
「んっと……あった、ここだよ」
「おお、ホントだ」
大通りを外れ、サラリーマンが帰りに寄れそうな居酒屋と休憩時間に寄れそうなカフェの間を通ってしばらく歩くと、「レンタルスペース始めました」と看板の出されている建物が現れた。
「なんか……普通のマンションみたいだね」
「多分マンションとしても使ってるんだよ。住む人がいなくて空いてる部屋があったから、まとめてレンタルスペースにしたんだろうな。マンションなら防音もちゃんとしてるだろうし」
彼女を見てそう説明しながら、入口横のガラスに貼ってあるポスターを指差す。そこには大きな字で「防音」「商談や面接にも」と書かれていた。
「予約の時間だし、入ろうか」
「うん、行こう行こう」
エントランスの自動ドアが開くと、十メートル先にオートロックの玄関ドアが出迎える。その手前の左側に、「レンタル受付」と案内の出された窓口があり、中年のおじさんが座っていた。マンションの管理人さんが受付もやっているのだろう。
「ネットで予約した北沢ですけど」
「はーい、えっと……一時間半ですね。千二百円になります」
ICカードで払い、これから行く部屋の鍵を貰う。おじさんにオートロックを開けてもらって、エレベーターに乗り込んだ。知らないマンションのエレベーターにクラスの女子と一緒に乗るのは思った以上に緊張してしまい、黙って階数のボタンにジッと視線を合わせていた。
「あ、北沢君、着いたよ」
随分長く感じられた上昇が終わって、三階に着いた。真正面に見えた部屋に向かい、ウキウキしている季南に急かされるようにドアを開けた。
「おじゃましまーす」
「わっ、すごいすごい!」
テンション高く、季南はいそいそと靴を脱ぐ。
表向きは完全にマンションであるその部屋の中は、完全にただの会議室となっていた。白壁のワンルームには茶色の長机と椅子が四つ、そしてベランダからの陽光を塞ぐカーテンとエアコンがあるだけ。お風呂の湯舟やキッチンのコンロは撤去されていて、リビングとトイレだけの部屋になっている。
「それじゃ、机動かして準備していくぞ」
「うん!」
季南と一緒に、机と椅子三つを端にどける。残った椅子を壁に近い場所に配置し、彼女が座る場所を決めた。
「じゃあカメラを、と……」
ぼこっと膨らんだ黒のリュックから、カメラともう1つの布の袋を取り出すと、季南は体を屈めて興味深そうにそれを覗いた。
「ビデオカメラだ。スマホで撮るんじゃないのね」
「アウトレットで安かったから、買っちゃったんだよね。スマホと違ってカードに保存できるから、保管が楽なんだよね。それにさ、こっちの方が『動画撮ってる感』あるだろ?」
「分かる!」
歯を見せた口に手を当てて、季南はキシシと声をあげて笑う。形の整った眉、優しそうな目、綺麗なピンク色の唇。穏やかだけどよく通る声に、コロコロ変わる豊かな表情で、ついつい視線を奪われてしまう。
「北沢君、そっちの袋に入ってるのは何?」
「ああ、これだよ。リュックに入れるの大変だったぜ」
紐でキュッと結ばれた口を開き、三脚を出す。普通の状態では四十センチくらいだけど、ロックを外して足をグイグイ伸ばしていくと、一メートルを超える長さになった。
「わあ、なんか本物の撮影みたいだね!」
「本物の撮影だっての」
他愛もないやりとりをしながら、三脚にカメラをセッティングする。彼女がワクワクする気持ちもよく分かった。俺も撮り始めた頃は、この準備作業に毎回興奮していたから。あの時は、ただそれだけで、毎日が楽しかった。
「季南、ちょっとそこに座って。カメラを置く場所決めるから」
「分かった。こ、こうでいいかな」
壁の前に置いた椅子に座った季南は、カメラを向けられ、まだ撮影も始まってないけどやや緊張した面持ちになっている。
「なんだよ、演劇でもカメラに撮って演技チェックしたりするだろ?」
「こんな風に私一人に向けられることなんかないって! だからいざとなると恥ずかしい……」
「そっか。まあリラックスしながら撮っていこうぜ」
俺はファインダーを覗きながらカメラの高さや角度を合わせ、そんな彼女の表情を画面越しに捉えた。
不意に彼女は、後ろの壁をチラチラと振り返る。
「どうした?」
「んっと、大したことじゃないんだけど……なんかちょっと、ここで撮影すると殺風景かなって」
「……ふふん」
「あ、何その表情! 『そう言うのは分かってたぜ』みたいな感じ!」
「ふっふっふ、そう言うのは分かってたぜ」
軽くおどけながら、リュックに入れてきた筒状の商品をグッグッと引き出し、包装を外して曲がっているのと逆方向に開く。それは百均で買った、貼り合わせて使えるピンクの花柄の小さな壁紙だった。
「六枚買ってきた。これ組み合わせて貼れば、カメラに映るところだけは華やかになるぞ」
「さすが北沢君! YourTuberの師匠!」
「褒めすぎだっての。ほら、ここから貼るの手伝って」
持ってきたセロテープで、壁紙を一緒に貼っていった。文化祭のときも、装飾チームで何回か彼女とこうして一緒に作業したのを思い出す。あのときは、こんな関係になるとは思いもしなかった。
手早く貼り終え、無機質な白壁の一部がすっかり染まった後、もう一度季南に椅子に座ってもらう。カメラをチェックし直すと、画角に入る部分は全てパステルカラーのピンクになっていた。
「よし、カメラはオッケーだ。季南はしゃべることは整理できてる?」
「うん、大丈夫」
やや自慢げに、彼女は罫線の入った青色のノートをバッと開いて俺に見せる。そこには全体が斜め上に傾いている特徴的な字で、今日話す予定の内容がびっしりと書かれていた。
「すっごく準備してるな。そうしたら、今のうちにカットに分けておくか?」
「カット?」
「喋るシーンを細かいパーツに分けて、それごとに撮るんだ。一回で全部喋ろうとすると、トチったときに最初から全部撮り直しになっちゃうし、うまく切り貼りすれば動画のテンポも良くなるからな」
「そっか……分けるのか……」
そう言ったきり、彼女はノートに視線を落とし、悩み事があるかのように黙ってしまう。何を考え込んでいるのか気になって声をかけようとした途端、フッと顔を上げて俺の方を見た。
「あの、さ……これ、なるべく繋げて話したいんだけど」
「え、分けないってこと? NG出たら大変だけど……」
「それでいいの。よっぽどの失敗じゃなかったらそのまま使っていいし、間延びしてもいいから、そのままの私を撮りたいんだ。いいかな?」
「ああ、別に構わないよ」
コクコクと首を縦に振った。撮影する側からしたら、カメラを回し続けるだけで済むし、むしろ作業が楽になる。ただ、彼女がどんな動画を目指しているのかは全く分からなかった。どうせ投稿するなら完成度が高い方がいいし、ハイテンポな方が視聴者のウケも良い。喋っているのをそのまま使いたいなんて、まるで遠く離れた親戚に送るムービーレターのようだ。三橋に話していたのも強ちウソではなくて、おじいちゃんおばあちゃんにYourTubeのリンクを送って今の自分を見てもらうつもりなのだろうか。
まあでも、それならそれで、いずれ季南が一人で編集することになっても余計な作業がなくて楽だ。ひょっとしたら、彼女もそれを狙っているのかもしれない。
「じゃあ基本的にはカット分けとかしないで、長い尺で撮っていこう」
「ありがとね、ワガママ聞いてくれて。撮影、ちょっとだけ待ってて」
お礼を言って席を立った彼女は、部屋の隅に行って食い入るようにノートを見る。何か聞こえると思ったら、ぶつぶつと呟いていた。
「練習?」
「もう、聞かないでよ! 恥ずかしいなあ」
顔を赤くして、俺を追い払うようにノートをバサバサ動かす。もっと気楽にやるタイプかと思ったけど意外と真面目だなあ、と彼女を見つつ、俺はビデオの設定画面を操作してSDカードの容量を確認した。
翌日、二三日の木曜、昼休み。昨日より暖かく、お昼時の今はブレザーだと暑いくらいだった。光を貼り付けるように窓ガラスを照らす陽光が、廊下に白色のプリズムを作る。
弁当を食べ終えても微妙にお腹が足りず、購買部にパンを買いに向かっている廊下で、ブレザーのポケットのスマホが振動した。
それは、クラス替えの四月以降、全く音沙汰のなかった季南からのチャット。直前のやりとりは四月九日、向こうの『よろしくね~』に対して、俺が返した、『よろしく!』というメッセージとお辞儀しているパンダのスタンプで止まっている。
『放課後、昨日の集会室で作戦会議しよう!』
たったそれだけの文章だけど、少しドキッとしてしまい、心臓が早鐘を打つ。
『よろしく!』
約半年前と同じ返事、だけど今回は形式的な社交辞令じゃないのが、何だか嬉しい。
「ねえ、北沢」
「三橋、どした」
後ろから声をかけられる。季南に俺を紹介した張本人、三橋咲乃から背中を叩かれた。
「季南から聞いたよ。相談乗ってくれたんだって、ありがと」
「いや、困ってるみたいだったからな」
俺の顔を見て何か思い出したのか、三橋は「あっ」と小さく叫び、周りに聞いている人がいないか確認した。
「YourTuberやってたこと、ナイショにしてたんだね、ごめん」
「それは俺も口止めしてたわけじゃないし大丈夫だよ、悪かった」
三橋はホッとした表情を見せる。後ろで縛った黒髪が、体の動きに合わせて尻尾のように揺れた。
「なんか、おじいちゃんおばあちゃんに送るための動画を何本か作りたいって言ってたからさ。北沢のこと思い出して紹介したんだ」
「おじ……ああ、そうそう。どんな動画にするかこれから考えるんだ」
なるほど、恥ずかしかったのか、YourTuberのことは秘密にしているらしい。季南の意図を組んで秘密にしておいた。どうやら、本当のことを知っているのは俺だけらしい。
購買部では総菜パンを買うつもりだったのに、見た目の誘惑に負けて、上にもチョコがかかったチョココロネを買ってしまった。潰れないように抱えて戻る途中、通りすがりの男子に声をかけられる。
「よっ、アルト」
「おお、慶か。元気?」
俺とほぼ変わらないくらい、一七五センチくらいの背丈で、やや短めの黒髪をワックスで遊ばせている。上半分だけリムがある、シルバーカラーのメガネの奥で、眉をクッと上げているのが分かった。
「おう、もちろん。アルトは?」
「まあいつも通りだよ」
それなら良かった、と幼馴染の吉住慶は真っ白な歯をにいっと見せた。
「文化祭も終わったし、あとは受験まっしぐらだな」
「だな。土日に模試がたくさん入るかと思うとイヤになるぜ」
校舎二階、西側にある、北校舎と南校舎を結ぶ屋外の渡り廊下で、隣の慶が大げさに溜息をつく。下の中庭にあるベンチでは、女子が座って写真を撮り合いながら談笑していた。
「まあ慶は頭良いから焦って受験勉強始めないでも大丈夫だろうけど」
「いやいや、そんなことないって。理系合ってないんじゃないかって気がしてきたよ」
そう言って、理系の上位五人から落ちたことのない慶は謙遜する。二年の文理選択で別れてしまったのでもう同じクラスになることはないけど、話し方や笑い方は中学、いや、小学校五年の頃から変わっていない。
「……動画、また作るんだ」
俺の言葉に、彼は目を丸くする。俺の動画に纏(まつ)わる件をちゃんと知っている唯一の親友だけに、少なからず驚いたらしい。
やがて、不安を混ぜた声音で「そっか」と一言だけ返す。
「アルトが一人で作るのか?」
「いや、クラスの女子に頼まれた。季南千鈴って子なんだけど三橋経由で相談が来てさ」
「ああ、三橋がアルトの動画のこと覚えてて紹介したってことか」
察しの良い慶は、大まかな経緯を把握したらしい。
「お前が手貸すなんて意外だな」
「……真剣に頼まれたから、な」
正直、自分自身でもなぜ引き受けようと思ったのかよく分からない。でも、彼女の本気が伝わってきて、力になりたいと思ったのは間違いなかった。
「さて、そろそろ教室戻るよ。アルト、なんかあったらいつでも相談乗るからな」
「ああ、ありがとな」
廊下で手を振って別れ、俺はシャーペンの芯を買いに早足で購買部に向かった。
「まだ……来てないか」
放課後、季南とは別々のタイミングで教室を出る。下手に知り合いに会って「どこ行くの」と余計な詮索をされないよう、注意しながら北校舎に向かった。
こっそりと昨日の集会室に入ったものの、彼女はまだいない。こんな無人の部屋におよそ必要ないだろうと思える緑のカーテンとレースのカーテンを捲り、少しだけ窓を開けると、ちょうど良い温度の風が部屋に吹き込んだ。
「ふう」
パイプ椅子を開いて座り、深呼吸を一つ。この無人の部屋で二人きりになることに改めて緊張してしまう。季南と何か特別な関係になったわけでもないけど、「クラスメイトの女子と秘密を抱えている」ということに不思議な高揚感を覚えた。
でもそんなことを考えていると、いつも通り、頭の中にもう一人の自分が現れる。そして「他の人を傷つけた君が、幸せになっていいと思う?」と話しかけてきて、膨らんだ高揚感が破裂し、冷静になった心が萎んでいく。
そして、思い出したくないのに、二年前からの薄暗い過去に、記憶が遡っていく。
「う……ぐう……」
思い返して、胃が逆流するような気分になる。ひどいことをしたと、どうにかして罪を償わなくてはと、後悔を反芻して胸を押さえる。
そしてここで気付く。自覚がなかったものの、俺が季南のお願いを受けたのは、きっと罪滅ぼしのためなのだ。動画の罪だからこそ動画で償う、悪くない考えだ。俺はただ、彼女と友達っぽく接しながら、俺自身のために動画を作ればいい。
そんなことを考えながら机をおろして準備していると、後ろのドアがゆっくりと開き、季南がそっと顔を覗かせた。
「失礼しまーす……わっ、ごめんね、待たせた?」
「いや、俺も今来たところだよ」
友達と会って話しこんじゃってさ、という彼女の話を聞きながら、昨日と同じように広げたパイプ椅子に座るよう、顎で軽く促す。
備品だらけの空き教室。ホワイトボードや教卓に囲まれたこの狭いジャングルは今日から、二人の作戦部屋になった。生徒も先生も、この場所に来ることはほとんどないだろうし、万が一バレても「ちょっと内緒話してました」と言えば怒られるくらいで済むだろう。
「北沢君、今日からよろしくね」
「ああ、うん。よろしく」
明るい茶髪の前髪を右手に払いながら、季南は照れるように微笑んだ。こうして真正面から見るとやっぱり可愛い顔立ちだな、と少し見蕩れてしまう。
「おじいちゃんおばあちゃんに動画送るんだって?」
ややイタズラっぽく言ってみると、彼女は頬を掻きながら苦笑する。
「……咲ちゃんにはYourTuber始めるって言えなくてさ。だから演技してみたの。でも咲ちゃん、信じてくれたんだ、良かった。私の名演技のおかげでうまく騙せたわ」
自分で名演技、と言ってピースする姿に、思わず笑ってしまう。
「三橋も季南も、高校から役者始めたの?」
「ううん、私は中学からずっと演劇部だよ。咲ちゃんは高校からだけど、役者じゃなくて音声担当なんだ。舞台に合わせる音楽を選んで、本番で流す仕事ね」
なるほど、演劇も色々担当が分かれてるんだな。
「で、作戦会議って何するんだ? 季南が考えた企画案の中で、どれが簡単に撮れそうか考えてく?」
早速本題に入った俺に、彼女は「いやあ……」とわかりやすく目を逸らす。
「企画案って言っても、ねえ……」
「……ひょっとして季南、何も考えてないとか――」
「だってー!」
俺の推理を遮って、彼女は駄々をこねる小学生のように喚き始めた。
「企画って難しいじゃん! 全然浮かばないよ! いや、一応浮かぶことは浮かぶんだけど、『あれ、これってこの前見た動画と完全に一緒だ』ってなっちゃってさ」
「別に始めは一緒でもいいんじゃないか? あとからオリジナルの企画練ってやっていけば」
「ううん、それはそうなんだけどさ。折角だから『これは私だから作れた動画だ!』って自信持って言いたいっていうか……」
そう独り言のように呟きながら、彼女は餌を頬袋に詰めるハムスターのように小さく膨れた。
「でも、ちょっと参考にしようと思って人気のチャンネル検索したら、気付いたら五本くらい続けて見てるんだよね」
「そーれーは季南が悪い」
茶化しながら責めると、彼女はさらにもうひと膨れした後、プシュッと吹き出して笑った。
「北沢君に『企画は自分で考える』って言った手前、何か出そうとは思ってたんだけど……」
落ち込んだ表情を浮かべた後、チラリとこっちを見る。それは荷物を運ぶときに「こんなに重いもの持てないなあ」と女子が甘えてくるのに似ていた。
「はいはい、一緒に考えるぞ」
「やった! ありがと!」
ハイビスカスのように明るい笑顔をぱあっと咲かせる。屈託のない表情は、見ているこっちまで沈んでいた気分が上向く。彼女がクラスの色んな女子と仲良くやれている理由が分かる気がした。
「とりあえず、アイディア広げていくか。季南の好きな動画はどういうのだ?」
「んっとね、ジャンボパフェ食べたり、グミ百個買ってお皿に開けてみたりするのが楽しそうで好きかな」
「分かりやすいし、やってる画もインパクトあるもんな」
動画一覧のサムネイルだけで面白さが伝わるのは確かに強みだ。
「でもお金や時間がかかりすぎるから、高校生には向かないよ」
「そっか、そんなにお金ないからなあ」
季南は両手をひらひらさせる。「グミ百個でも一万くらいするもんな」と言うと、彼女は驚きと拒否の混じった「ひょえ」という不思議な叫び声をあげた。
「まあバズらせたいならそういうのやった方がいいけどな。SNSでも紹介されやすいし」
「だよね。でも再生数はそんなに気にしないからいいの」
「あれ、そうなのか」
だとすると、やっぱり分からなくなる。彼女は何のためにYourTuberを始めるのだろう。人気になるための手段じゃないのか。
「ううん、だとしたら、どんな企画がいいのかなあ?」
季南は長机にグッと身を乗り出して、俺に訊いてくる。
「そうだなあ……特に方向決まってないなら、始めはやっぱり自分の好きなことがいいよ。オススメの本紹介したり、好きなお菓子を食べて感想言ってみたり」
「好きなことかあ。何だろう、ファッション、は普通……音楽も別になあ……漫画も人並みだし、海外ドラマ……」
趣味を指折り数えていくのを聞きながら北向きの窓から外を眺めると、ぽつんとはぐれた雲が「のんびり考えるといいよ」と言うようにゆっくりと泳いでいる。
不意に、彼女は両手で自分の頭を押さえ、「うわー!」と嘆くように叫んだ。
「私って無個性だ!」
「…………ぶふっ」
「あ、笑った!」
堪えきれずに笑いながら机に戻った俺に、彼女はファウルの笛を吹くようなジェスチャーを見せた後、「ピピーッ!」と声に出して警告する。
「何、私の悩み、そんなにおかしい?」
少しいじけたような表情の季南が、上目遣いにこちらを見てくる。
彼女に興味を持たないつもりでいるのに、その仕草に心臓がドキリと反応してしまう。
「いやいや、学生のYourTuberってみんなその悩みに行き着くんだよ。季南もその通りになったからおかしくってさ」
「そうなの?」
「じゃあさ、文系の四クラス思い浮かべてみてよ。すっごく特殊なテーマで動画撮れそうな人、パッと思いつく?」
「んん……青木君が水泳でインターハイ行ってるから、泳ぎ方の動画とか撮れそうかな。あとは……ううん……」
彼女は腕を組んで、日本史の問題の答えを思い出すかのように考え込んだ。そう、俺も青木くらいしか浮かばない。
「な? 百人以上いたって一人とか二人なんだよ。でも、九九パーセントはみんな無個性ってわけじゃないだろ? 普通の人が多いってことだよ」
「……そっか……普通の女子……」
励ましたつもりはなかったけど、なんだか安堵しているようだ。思ったより落ち込んでいたのかもしれない。
「だから別に、『ちょっと好き』くらいでいいんだよ」
「ちょっと好き?」
「別に爆笑できるような動画ばっかり見たいわけじゃないだろ。もしさ、自分が好きな映画を同い年くらいの女子高生が紹介してたら気にならない? この子はどんな感想なんだろうって」
「あ、確かにちょっと気になるかも」
狙った通りの反応をくれた季南に、俺は思わず笑みを零す。
「それで良いんだよ。趣味が合うようなら他の動画も見てみようってなるからさ。まずはそうやって始めればいいよ」
「そっかそっか。すごいね、北沢君」
「すごい?」
唐突に褒め言葉を投げかけてきたので、意味を尋ねるように聞き返すと、胸元でピッと俺を指差す。
「なんか、YourTubeの先生みたい」
「そんな大したもんじゃないって。一時期ちょっとやってただけだよ」
「それでもすごいんだって!」
彼女は机を四本指でタンタンと叩く。賛同するように、茶色の髪の毛もふわりと縦に揺れた。
「短い期間だって、真剣にやらなきゃ今みたいに話せないと思う。北沢君が頑張ったときの知識で、今私が助かってるからさ」
「……なら良かったけどさ」
「うん、良かった」
にへへと頬を緩める季南。俺にとってはちっとも良い思い出じゃなくても、彼女にとって救いの手になっているかと思うと、不思議とそこまで悪い気はしなかった。
「さて、何にするかな。私の好きなもの……好きなもの……」
そして季南はまた考え始め、俺は邪魔しないように再び窓際に行く。昼と呼ぶには明るさが薄らいでいて、文化祭の準備をしていた一、二週間前と比べて、更に日が短くなっているのを感じた。
数分経ったころ、季南が「うん」と自分自身を納得させるように頷く。
「じゃあやっぱり、演劇がいいかな。ずっとやってきたことだし。演技したり朗読してみたり、好きな舞台の話してみたり。地味だしマイナーかなと思って案には入れなかったんだけど。北沢君、変かな?」
「いや、そんなことないよ。むしろ、マイナーな方が固定ファンがつくんじゃないかな。お菓子や漫画のこと話してる動画はたくさんあるけど、演劇って少ないだろうから、演劇好きな中高生が来てくれると思う」
「じゃあタイトルは『演劇ガール』で!」
「お、キャッチ―でいいな」
「他に北沢君、動画のアイディアある?」
俺は腕を組んで悩んだ末、昨日水原に見せてもらった「オンライン家庭教師」の動画を思い出した。
「もし勉強好きなら教科の解説動画とかもいいと思うぜ」
「そんなに好きじゃありませーん」
即却下と言わんばかりに、目をキュッと瞑って人差し指で小さくバッテンを作った。「テストも文系五十位くらいだしさあ……」と言った後、イタズラっぽい笑みを浮かべて俺に訊き返す。
「北沢君、どのくらいだったっけ?」
「俺は大体三、四十位だな」
「うわっ、負けた!」
バタリと机に突っ伏す季南。そのリアクションがいちいち可笑しくて、「勝った」と胸を張って見せる。
「よし、テーマ決定だね。北沢君、ありがと!」
小さく拍手する季南が、「あとは何を決めれば……」と言いたげな表情で視線を俺に向ける。
「次はもう撮影に入るから、季南は一番始めに放送する内容を考えておいて。こっちはカメラとかの準備進めておく」
「うん、分かった。あれ、そういえば動画ってどこで撮るの? この部屋……はまずいよね? 誰か来たら困るし、放送音とか入ったら学校名バレる可能性あるし」
矢庭に狼狽える彼女に、思わず中学時代の自分を重ねる。俺達も同じことで、あんな風に悩んだな。
「レンタルスペースってのがあってさ」
あの当時も検索で見つけてはしゃいだのを思い出しながら口を開いた。
「一時間千円、安いところだと六百円くらいで空いてる部屋を借りられて、撮影にも使えるんだよ。ネット予約して電子マネーで払えたりするから」
「へえ、そんなところがあるんだ。さすが経験者だね! 北沢君も昔使ってたの?」
「うん。まあ当時は中学生だったから、カラオケで済ませたりもしてたけどね」
来週の放課後を条件にレンタルスペースを予約することだけ決めて、今日のところは一旦お開きとなった。
季南は図書室に用があるらしく、先に学校を出て一人で最寄の桜上水駅に向かう。一軒家が建ち並ぶ細い通路を抜け、上水の暗渠に沿って広がる公園を横切ると、少しずつ賑やかな駅前が近づいてきた。
今日一日で結構季南と仲良くなった気がする。お互いの相性が良いのだろうか、波長が合うのだろうか。
そんなことを考えた自分自身を、首を激しく振って否定する。自分が特別なわけじゃない。動画が得意だから頼まれただけだし、誰とでもああやって距離を詰められるのが彼女の良いところなのだ。勘違いしそうになり、頭のてっぺんを中指でカリカリと掻いて気を紛らわせた後、駅の階段を一段飛ばしで上がった。
4 レンタルスペースにて
週の明けた九月二七日、月曜日の放課後。俺は撮影のために桜上水駅から電車で二十分弱の渋谷駅に来ていた。桜上水にもレンタルスペースはあったものの、他の生徒に見られるのは避けたかったので、オープン割引を行っていた渋谷の新しいスペースを予約した。都心に近い学校というのは、こういうときに便利だ。
「梨味なんて出てるのか。美味しそうだな」
季南が来るのを待ちながら、コンビニのジュースの棚で新商品の炭酸を眺め、小声で独り言を漏らす。
久しぶりの撮影はやっぱり少し緊張してしまい、こうして季南を待っている間も、唾を飲む音が何度も大きくゴクリと聞こえた。
不意にブーッとスマホが震える。さっき『これから撮影行ってくる』とチャットを送った吉住慶から返信が来ていた。
『そっか。オフショットだから、とか言って隠し撮りするなよ』
『お前は俺をどんなヤツだと思ってるんだ』
すかさずツッコミを入れると、向こうも打ってる途中だったのか間髪入れずに返信が届く。
『無理しないで、リラックスしろよ』
ジョーク混じりな気遣い。さすが、十歳からの付き合いだけある親友だ。
『おう、ありがとな』
返事を送ってスマホをズボンのポケットに入れ、ふと窓の外を見ると、手を振るブレザー姿の女子が目に飛び込んでくる。今日からYourTuberとしてデビューする、季南千鈴だった。
「お待たせ! 別に現地集合じゃなくても良かったのに」
「変に噂立っても困るだろ。二人で都心の方に行ったとか」
「へえ、北沢君、真面目だなあ」
からかい半分、本音半分くらいのトーンで彼女は目を丸くする。こっちは本音を言うわけには行かない。初めて行く場所だったから、迷わずに案内できるよう先に来て方向を確認しておいたなんて。
「じゃあ行くか。十分ちょっと歩くよ」
「分かった、ついていくね!」
繁華街で知られる渋谷も、ハチ公前からバスケットボール通りに向かうのではなく、東側に向かっていくとガラリと景色が変わる。大学生らしき姿はよく見るものの、銀行などのオフィスが並ぶビジネス街になり、歩道の両側に植えられたケヤキを眺めながら歩いていく。晩秋の十一月になるとケヤキにはイルミネーションが灯り、黄色い明かりが人で溢れるクリスマスを華やかに照らすのをふと思い出した。
「んっと……あった、ここだよ」
「おお、ホントだ」
大通りを外れ、サラリーマンが帰りに寄れそうな居酒屋と休憩時間に寄れそうなカフェの間を通ってしばらく歩くと、「レンタルスペース始めました」と看板の出されている建物が現れた。
「なんか……普通のマンションみたいだね」
「多分マンションとしても使ってるんだよ。住む人がいなくて空いてる部屋があったから、まとめてレンタルスペースにしたんだろうな。マンションなら防音もちゃんとしてるだろうし」
彼女を見てそう説明しながら、入口横のガラスに貼ってあるポスターを指差す。そこには大きな字で「防音」「商談や面接にも」と書かれていた。
「予約の時間だし、入ろうか」
「うん、行こう行こう」
エントランスの自動ドアが開くと、十メートル先にオートロックの玄関ドアが出迎える。その手前の左側に、「レンタル受付」と案内の出された窓口があり、中年のおじさんが座っていた。マンションの管理人さんが受付もやっているのだろう。
「ネットで予約した北沢ですけど」
「はーい、えっと……一時間半ですね。千二百円になります」
ICカードで払い、これから行く部屋の鍵を貰う。おじさんにオートロックを開けてもらって、エレベーターに乗り込んだ。知らないマンションのエレベーターにクラスの女子と一緒に乗るのは思った以上に緊張してしまい、黙って階数のボタンにジッと視線を合わせていた。
「あ、北沢君、着いたよ」
随分長く感じられた上昇が終わって、三階に着いた。真正面に見えた部屋に向かい、ウキウキしている季南に急かされるようにドアを開けた。
「おじゃましまーす」
「わっ、すごいすごい!」
テンション高く、季南はいそいそと靴を脱ぐ。
表向きは完全にマンションであるその部屋の中は、完全にただの会議室となっていた。白壁のワンルームには茶色の長机と椅子が四つ、そしてベランダからの陽光を塞ぐカーテンとエアコンがあるだけ。お風呂の湯舟やキッチンのコンロは撤去されていて、リビングとトイレだけの部屋になっている。
「それじゃ、机動かして準備していくぞ」
「うん!」
季南と一緒に、机と椅子三つを端にどける。残った椅子を壁に近い場所に配置し、彼女が座る場所を決めた。
「じゃあカメラを、と……」
ぼこっと膨らんだ黒のリュックから、カメラともう1つの布の袋を取り出すと、季南は体を屈めて興味深そうにそれを覗いた。
「ビデオカメラだ。スマホで撮るんじゃないのね」
「アウトレットで安かったから、買っちゃったんだよね。スマホと違ってカードに保存できるから、保管が楽なんだよね。それにさ、こっちの方が『動画撮ってる感』あるだろ?」
「分かる!」
歯を見せた口に手を当てて、季南はキシシと声をあげて笑う。形の整った眉、優しそうな目、綺麗なピンク色の唇。穏やかだけどよく通る声に、コロコロ変わる豊かな表情で、ついつい視線を奪われてしまう。
「北沢君、そっちの袋に入ってるのは何?」
「ああ、これだよ。リュックに入れるの大変だったぜ」
紐でキュッと結ばれた口を開き、三脚を出す。普通の状態では四十センチくらいだけど、ロックを外して足をグイグイ伸ばしていくと、一メートルを超える長さになった。
「わあ、なんか本物の撮影みたいだね!」
「本物の撮影だっての」
他愛もないやりとりをしながら、三脚にカメラをセッティングする。彼女がワクワクする気持ちもよく分かった。俺も撮り始めた頃は、この準備作業に毎回興奮していたから。あの時は、ただそれだけで、毎日が楽しかった。
「季南、ちょっとそこに座って。カメラを置く場所決めるから」
「分かった。こ、こうでいいかな」
壁の前に置いた椅子に座った季南は、カメラを向けられ、まだ撮影も始まってないけどやや緊張した面持ちになっている。
「なんだよ、演劇でもカメラに撮って演技チェックしたりするだろ?」
「こんな風に私一人に向けられることなんかないって! だからいざとなると恥ずかしい……」
「そっか。まあリラックスしながら撮っていこうぜ」
俺はファインダーを覗きながらカメラの高さや角度を合わせ、そんな彼女の表情を画面越しに捉えた。
不意に彼女は、後ろの壁をチラチラと振り返る。
「どうした?」
「んっと、大したことじゃないんだけど……なんかちょっと、ここで撮影すると殺風景かなって」
「……ふふん」
「あ、何その表情! 『そう言うのは分かってたぜ』みたいな感じ!」
「ふっふっふ、そう言うのは分かってたぜ」
軽くおどけながら、リュックに入れてきた筒状の商品をグッグッと引き出し、包装を外して曲がっているのと逆方向に開く。それは百均で買った、貼り合わせて使えるピンクの花柄の小さな壁紙だった。
「六枚買ってきた。これ組み合わせて貼れば、カメラに映るところだけは華やかになるぞ」
「さすが北沢君! YourTuberの師匠!」
「褒めすぎだっての。ほら、ここから貼るの手伝って」
持ってきたセロテープで、壁紙を一緒に貼っていった。文化祭のときも、装飾チームで何回か彼女とこうして一緒に作業したのを思い出す。あのときは、こんな関係になるとは思いもしなかった。
手早く貼り終え、無機質な白壁の一部がすっかり染まった後、もう一度季南に椅子に座ってもらう。カメラをチェックし直すと、画角に入る部分は全てパステルカラーのピンクになっていた。
「よし、カメラはオッケーだ。季南はしゃべることは整理できてる?」
「うん、大丈夫」
やや自慢げに、彼女は罫線の入った青色のノートをバッと開いて俺に見せる。そこには全体が斜め上に傾いている特徴的な字で、今日話す予定の内容がびっしりと書かれていた。
「すっごく準備してるな。そうしたら、今のうちにカットに分けておくか?」
「カット?」
「喋るシーンを細かいパーツに分けて、それごとに撮るんだ。一回で全部喋ろうとすると、トチったときに最初から全部撮り直しになっちゃうし、うまく切り貼りすれば動画のテンポも良くなるからな」
「そっか……分けるのか……」
そう言ったきり、彼女はノートに視線を落とし、悩み事があるかのように黙ってしまう。何を考え込んでいるのか気になって声をかけようとした途端、フッと顔を上げて俺の方を見た。
「あの、さ……これ、なるべく繋げて話したいんだけど」
「え、分けないってこと? NG出たら大変だけど……」
「それでいいの。よっぽどの失敗じゃなかったらそのまま使っていいし、間延びしてもいいから、そのままの私を撮りたいんだ。いいかな?」
「ああ、別に構わないよ」
コクコクと首を縦に振った。撮影する側からしたら、カメラを回し続けるだけで済むし、むしろ作業が楽になる。ただ、彼女がどんな動画を目指しているのかは全く分からなかった。どうせ投稿するなら完成度が高い方がいいし、ハイテンポな方が視聴者のウケも良い。喋っているのをそのまま使いたいなんて、まるで遠く離れた親戚に送るムービーレターのようだ。三橋に話していたのも強ちウソではなくて、おじいちゃんおばあちゃんにYourTubeのリンクを送って今の自分を見てもらうつもりなのだろうか。
まあでも、それならそれで、いずれ季南が一人で編集することになっても余計な作業がなくて楽だ。ひょっとしたら、彼女もそれを狙っているのかもしれない。
「じゃあ基本的にはカット分けとかしないで、長い尺で撮っていこう」
「ありがとね、ワガママ聞いてくれて。撮影、ちょっとだけ待ってて」
お礼を言って席を立った彼女は、部屋の隅に行って食い入るようにノートを見る。何か聞こえると思ったら、ぶつぶつと呟いていた。
「練習?」
「もう、聞かないでよ! 恥ずかしいなあ」
顔を赤くして、俺を追い払うようにノートをバサバサ動かす。もっと気楽にやるタイプかと思ったけど意外と真面目だなあ、と彼女を見つつ、俺はビデオの設定画面を操作してSDカードの容量を確認した。