25 答え合わせ
一月十一日、火曜日。成人式の三連休が終わり、千鈴とあんまりやりとりできなかったな、と思いながら登校した俺を待っていたのは、担任からの報告だった。
「季南千鈴さんが……昨日亡くなりました」
担任である彼女も相当なショックを受けているのか、悲しさを押さえつけるようにやや事務的な口調で話す。しかし、奥底にある感情の揺らぎは隠せず、それは実際の体の振動になって、固く握って教卓に置かれた彼女の手を震わせていた。
「……北沢」
放課後、ぼんやりと椅子に座って、ただ意味もなく机の木目を見ていた俺に、三橋が話しかける。クラスのみんなも千鈴のことで色々言い合っていたけど、途中から出所不明な噂話も混ざってきて、俺から見たら騒ぎ立てる週刊誌のようにしか見えなかった。
「どした?」
顔も見ずに答える。
「大丈夫……?」
「……に見えるか?」
誰かを気遣ったり、強がったりする力もない。そのくらい許せよ、と思いながら誰も何の声も耳に入れたくなくなって、今更の昼寝のように机に突っ伏した。
そのままずっと伏していたかったけど、そういうわけにもいかない。仕方なく覚束ない足取りで廊下を歩いていると、俺を待つように慶が柱に寄りかかっていた。
「……また遊びに行こうぜ」
「…………いつかな」
とっくに話を聞いていたであろう彼の、敢えて触れない優しさが、今は逆にひりひりと心を撫でた。
彼女と歩いた駅までの帰り道。彼女と時間差で乗ってこっそりレンタルスペースに向かった電車。町のそこかしこに、千鈴との足跡が残っていて、悲しくて仕方ないはずなのに涙は出てこない。
心を占めるのは、虚無。何もかもどうでもいい。いつもなら出てくるもう一人の自分すら出てこない。ひたすらに呆然としたまま、からくり仕掛けのように歩く。足を動かせば体も動いてなんとか家まで帰れる。人間というのは便利な作りだ。
言葉数少なめに説明していた担任の言葉を思い出す。
千鈴が説明していた通り、喉の腫瘍は咽頭ガンと呼ばれる病ではなかった。ただし、悪性の腫瘍であるという意味ではガンと何ら変わりなく、転移することも一緒だった。若い方が進行が早く、全身に転移する点も。終業式に一緒に歩いていこうと約束したはずの彼女の命を、僅か二週間で奪ってしまった。
『演劇界の重鎮、逝く』
名前は知っているけど主演作を見たことはない俳優のニュースを電車の中吊りで目にし、勝手に彼女と重ねる。演劇という単語一つで、シンクロさせるには十分だった。
彼女とは終業式以来会っていなかった。病院で検査があってバタバタすると聞いていたし、手術を終えた年末年始なのでゆっくりさせてあげたかったので、俺の方から遠慮した。
LIMEの返信は、一昨日の九日で止まったままだ。その日のやりとりはちゃんと「またね」で終わっていたから何の違和感も覚えなかった。昨日送ったものには返事はなかったけど、九日に病院に行くと言っていたので忙しいのだろうと思っていた。
クラスメイトは皆、葬儀には参加できず、告別式だけらしい。「彼氏」なんてポジションは何の役にも立たないことを思い知らされる。これが動画なら、このシーンだけ、彼女の一昨日から今日までのデータを切り取ってしまいたい。八日までなら、彼女は元気でいるだろうか。俺と通話していたあの時も辛かった? お正月の通話のときは? 終業式の日から、既に転移は始まっていたのだろうか。あるいはひょっとして、ずっと前から、こうなることが分かっていた?
終わりのない思考を巡らせながら、家の最寄り駅で降りて家まで歩き、最後の力を振り絞って家のドアを開ける。
「おかえり! ご飯すぐ食べる?」
「ああ……今日は食べてきた……もう寝るわ」
食欲がないのを誤魔化したのは心配をかけさせないためじゃない。詮索されたくないから。
ベッドに倒れ込む。フレームで打った脛(すね)の痛みが、これが全て現実だと無情にもズキズキと知らせてくる。鉛のように重い体に、間もなく降りる夜の帳(とばり)の如く暗い心を宿して、その日は制服のまま昏々(こんこん)と眠った。
次の日は学校を休んだ。電車の中で風邪をもらったらしいと言えば、本当の理由には触れられずに休める。今が冬で良かった。
休んだからといって何をするでもない。フリースとジャージに着替えて、本当の病人だってもう少し動くだろうと思うほど、ひたすら横になって眠る。体を休めたい、心を休めたい、そしてそれ以上に、何も考えたくない。逃げ込み先は、夢の中だけだった。
それでも、寝続けることはできない。夕方には完全に目が冴えてしまい、横になったまま、千鈴を一昨日に置き去りにしていく時計の秒針をじっと見つめる。少しずつ頭が活動を始め、記憶を辿っていく。
今思い返すと、千鈴との会話の中にヒントがあったように思う。
一度彼女が爆発したとき「時間がないのに!」と頻りに叫んでいた。あれはもちろん声帯の摘出のこともあったんだろうけど、ここまで考えてのことだったのかもしれない。声が出なくなるまでに観覧車に乗りたいと言ってたのも、ひょっとしたら。
カラオケのときもそうだ。手術の後はカラオケに行かないという彼女に、「俺が歌うのを聞いてるだけでもいいぞ」と冗談っぽく言ったときに、彼女はとても寂しそうな表情を見せていた。あれもカラオケ自体に行けなくなる可能性があったからなのだろうか。
そういえば彼女のお母さんも随分やつれているように見えた。あの時、既にこうなる危険性があったのだとしたら……もはや想像を絶する心の痛みだったに違いない。
「あ……」
唐突に高尾山に登ったときのことを思い出し、声が漏れる。彼女と抱き合ったのときの言葉を、今でも鮮明に思い出すことができる。
『覚えておいてね、私のこ……こ…………え』
私の声、と、本当に彼女はそう言いたかったのだろうか。
私のこと、と、そう言いたかったのではないだろうか。
どれも確証はない。それでも、いつだって強がって、気遣ってくれたのだと感じる。
でもそこには、彼氏彼女の関係なのに秘密にされていたという怒りも湧いてきて、心の中は幼児のおもちゃ箱のようにぐちゃぐちゃになる。
「……寝よう」
誰に聞かせるわけでもなく独りごちる。何でもいい、千鈴がいないなら、もう何もかもどうでもいい。そう思いながら頭から毛布を被り、無理やり目を瞑って眠りに落ちていった。
夜、両親の寝支度の音で目を覚ます。時間は二一時で、カーテンを開けてみるとすっかり町は夜の静寂に包まれていた。
起き上がる気にはならなくて、とりあえずマナーモードを解除してスマホを触ってみる。LIMEにも大したメッセージは来てなくて、そんな大したことないニュースで彼女とのやりとりが下へ下へ追いやられることが嫌で、機械的にスワイプして消していく。
そして、ゲームもネットも、もちろんYourTubeも見る気にならなくて、何の気なしにメールボックスを開いた。
ポンッ
音とともにメールボックスが更新され、大量のメールが届く。色々なお知らせに混ざって一件、よく見ていた名前から九日にメールが届いていた。
『季南千鈴』
反射的に飛び起きる。なんで彼女が俺のアドレスを? ああ、そうだ。初めに俺のパソコンでYourTubeにログインしてもらうとき、俺のメールアドレスを見てたな。それを覚えてたんだろう。
「これは……?」
件名は「有斗へ」、本文にはYourTubeのリンクが一つだけ貼られている。
大きな画面で見ようと思い、机に座ってノートパソコンを開く。ずっと寝ていたせいか、体のバランスを取るのが難しい。
徐々に速くなっていく鼓動を落ち着かせながらURLをクリックする。それは、「1/9」と彼女が亡くなる前日の日付がタイトルになったYourTubeの動画だった。
26 使いきった私から君へ
「やっほ、有斗、見てる?」
映っているのは、カーディガン姿の季南千鈴だった。後ろのベッドを見るに、自分の部屋で撮っているらしい。いきなり俺の名前を出したので驚いたが、検索には引っかからず、リンクを知っている人しか見られない、限定公開になっているようだ。
「えっと、今は一月九日です。明日病院に行くんだけど……正直もうダメかもな、と思ってて。だから思い切って動画撮ってみたの。頑張って編集するよ。だからもし、私が普通に戻ってきたら、笑って一緒に見よう」
これは、死を悟った彼女からの、最期のビデオメッセージだ。一人でも編集できるように、ソフトを買っていたのかもしれない。
もうダメかも、のところで彼女は少しだけ寂しそうに眉尻を下げる。少しだけ痩せているけど、強い薬のおかげか喉の調子は完全に治っていて、九月や十月に撮ったときと同じだった。よく通る、澄んだ彼女の声。
「えっと……演技、ちゃんと騙せたかな? 実は声をかけたときから、体に転移しちゃうかもって話は聞いてて、少し覚悟はしてたんだ。でもね、有斗には言い出しづらくて、声が出なくなるって話で止めちゃったんだ。気付いてた? 気付かなかったなら、私の演技力が凄かったってことだよね!」
もうすぐ訪れる運命を知っているだろうに、あまりにも明るいトーンの彼女に驚いてしまう。そして、その明るさも、「騙せた私の勝ちね!」と笑うその元気も、全て強がりの裏返しであると知っていた。本当の彼女は、声を失うのが怖くて怖くてずっと震えているような子だから。
でもなるほど、この先の展開が読めた。こうやって明るいスタートにしておいて、ここからこれまでの思い出とかお礼とか、たくさん振り返って俺を泣かせにかかるんだ。動画の最後に「泣いた?」とか感想を聞かれるに違いない。
フッフッフ、お見通しだぞ。千鈴らしい作戦だけど、そうと分かれば対策はできる。感動的な言葉があっても、「これは罠だ!」と思えば、対抗意識で我慢できる。心の準備はバッチリだ。
「あ、先に言っておくと、この動画、別に泣かせる動画じゃなくて雑談だから!」
…………はい?
「こうやって動画撮るの、もうできないから、やってみようかなって。だから、有斗だけに送るラジオみたいなものだと思って、聞いててね!」
一人で納得したように、俺はコクコクと頷く。なんだ、違うのか、心配して損した。
「んー、何から話そうかな」
BGMに小さくボサノバが流れ、テロップは右上の「有斗へ」だけ。シンプルな編集な分、千鈴にばかり目が行く。
心配して損した。そう思ってたのに。
「これが自宅だよ〜。どう、女子の部屋、ドキドキする? えへへ」
「そういえばさ、山添先生の冬休みの宿題、ひどくない? 英文三十個も暗記って、アレ絶対連休明けにテストじゃんね!」
「有斗のところは初詣ってどうしてるのー? うちは元日に家族で行くって決まってるんだよね。よく漫画でさ、両思いの二人が年が変わる瞬間を初詣で迎えるシーンあるじゃん? あれ、ホントにあるのかなって思うよね。普通親が許さなくない?」
「あ、これ見て! 新しいカーディガン! ブラウン系なくてさ、買ってみたんだよね。さて、問題です、じゃじゃん! これ、幾らでしょう? 正解は……ドゥルルルルル……一五八〇円! セール最高!」
「最近、寝る前にこれ読んでるの。覚えてる? 少し前に電車で話してたミステリー! でも読み出すとすぐ眠くなっちゃってさー。全部読んだら有斗にも貸すね!」
彼女の言う通り、二十分間、本当にただの雑談だった。手術の話もなければ、転移を匂わせることすらない。彼女の日常を切り取っただけ。
編集も下手くそだ。初めて彼女が一人で編集したんだろう。切り替えが遅すぎて全体的に間延びしてるし、テロップも変なタイミングで出たり消えたりするから気になるし、BGMも思いっきり声に被ってるし。
でも何でだろうなあ。不思議だなあ。
「千鈴……ち……すず……うう……うああ…………」
頬が熱くて仕方がない。
動画の長さを示すバーがどんどん右端に寄っていく。もう少ししたら、話している彼女とは、季南千鈴とはお別れ。もう彼女のことは見られない。季南千鈴は、もうどこにもいない。どこにも。
それが寂しい。寂しい。水槽の水が循環するように、寂寥感が心のあちこちを撫でていく。
そして、動画は最後の三分になった。
「じゃあ最後に、これまで動画でやってきた中で一番好きだった台詞を、もう一回届けます」
そう言って彼女はスッと立ち上がり、目を閉じる。瞼を開けると、カメラには気力を漲らせた瞳が映った。
ピンと背筋を伸ばす。彼女が大きく息を吸う音が聞こえる。
『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの。それは時間であれ、能力であれさ。人生でもらったものは使いきりたいし、たとえ使い切れなかったとしても、そういう覚悟でいたいな、とは思うんだ』
久しぶりに聞いたこの台詞。今思うと、なんて彼女にピッタリなんだろう。
十月の撮影で聞いたんだっけ。記憶が曖昧だ。もっと、もっと覚えておけば良かった。記憶に焼き付けておけば良かった。
「ねえ、有斗」
彼女は、優しい表情のまま、俺の名前を呼ぶ。何度も何度も呼ばれた、俺の名前。
「命も喉も、使い切ったかな! 演劇いっぱいできて良かった! YourTubeできて良かった! 有斗……好きだった! この三ヶ月間、楽しかったよ!」
そんなお礼言わなくていいのに。全部過去にしなくていいのに。
彼女の表情が少しだけ変わる。眉を変な形に下げて、口を曲げている。まるで、泣くのを我慢しているかのように。
「もし私のワガママ聞いてもらえるなら……動画、たくさん見て! 別に拡散しないでいいから。クラスの子にも教えなくていいからね。だから、だから……」
声が揺れる。大好きな声が、湿って揺れる。
「有斗に見てほしいなあ。もういられないから……もう一緒にいられないから!」
彼女の涙にシンクロするように、俺の頬がまた濡れる。
失ってから初めて気付くとか、失ってやっと分かったとか。そんな台詞も歌詞も、あんなに目にしていたのに、やっぱり俺はバカで、こんなに愛しいと、失って初めて分かるんだ。
「えへへ……ほら、泣く演技上手でしょ? そんなわけで、またね。演劇ガールでした!」
そこで動画は終わった。
「……演劇ガール関係ないだろっての」
泣きながら吹き出し、「……んっ!」と力を込めて、涙を止める。
演技じゃないことくらい、ちゃんと分かってる。
彼女が最期まで前を向いていたから。どれだけ心に暗がりがあっても、俺の前で笑ってくれていたから。
俺もそれに応えたい。彼女に恥じない自分で一緒に歩けるように、同じ方向を向きたい。
たった三ヶ月だけど、俺は季南千鈴の彼氏だったから。
「……よし」
散々泣き腫らしたからか、視界が急にはっきりしたような感覚。やりたいことが、フッと浮かんできた。
27 救われた僕から君へ
ノートパソコンを開き、ビデオカメラをケーブルで繋いだ。これまで撮った全てのデータを、パソコンに移していく。
一つ一つのデータを見ていった。YourTubeの動画一本ごとに、NGのデータやオフショットの映像が十分ちょっと。それに手術前のデートのカラオケで撮ったのが一時間。合計で大体四時間くらい、「撮っただけで使っていない映像」がある。
「やるか!」
時間は二二時。編集ソフトを開き、初めて投稿したときに使っていなかった動画ファイルの編集を始めた。
まずはNG集ってことでNGをまとめようかな。タイトル画像もつけよう。BGMは何がいいかな。ちょっとバラエティーっぽいフリー音源があったはず。千鈴が好きだったジングルも使いたいな。
噛んだところはテロップ。「コケッ」って効果音を入れて……あ、スタッフが笑ってるみたいな声も入れてみよう。
思いつくまま、どんどん編集を進めていく。カメラに眠っていた映像が、作品になっていく。
別に誰に公開するわけでもない。限定公開で、彼女のアカウントでアップしたい。
ちゃんとした動画は、世界中に届けた。いつでも見てもらえる。
だからこれは、誰に見てもらえなくてもいい。「俺は君の声を一つ残らず聞いたよ」と、伝わればいい。「君の声はこんなに素敵だって、俺は知っているよ」と、空の上で見ているはずの君にだけ響けばいい。
二十分間の未使用動画を使って編集するのに一時間弱かかっている。元ネタの動画ファイル、四時間分あるぞ。このペースだと軽く十時間かかるな、大丈夫か。
「画像やBGM使い回して……まあ朝までには」
無謀なことを口走りながら、カチカチとマウスを動かす。気の長い孤独な作業になりそうだけど、それもなんだか楽しくて、口元は自然と緩んだ。
「……ふう」
気が付くと長針はぐるりと何周か回っていて、下山を始めた短針はもうすぐ数字の一に着くというところ。カーテンを開けると冷気がヒヤリとやってくる。半月より少しだけ窪んだ月が、雲の合間を縫って柔らかい光を放っていた。
長時間集中して作業していると喉も渇いてくる。家に麦茶しかないことを思い出し、「ちょっとコンビニでも行くか」とこっそり家を抜け出し、チャリで五分。気分転換にもちょうどいい。
白色の明かりで眩しく照らされたドリンクの棚を、上から下まで蛇腹のように視線を動かして見ていく。
「どれにするか…………おっ」
目に留まったのは、一本の黒い飲み物だった。
家に帰ってきて、静かに蓋を開けて、おそるおそる口をつける。
「さてさて、お味は……ぐえっ」
苦さに思わず顔を顰めた。
彼女が一番最後に撮影していたときに飲んでいた「スパークルコーヒー」は、シュワシュワとした爽快感と不得意なブラックコーヒーの味がびっくりするほどマッチしない。大人はこれを好きこのんで飲むのだろうか。
千鈴が飲んでいるときに面白がってカメラを回していたことを思い出し、どんなリアクションをしていたか気になって見返す。画面の中では、彼女も緊張の面持ちでペットボトルを持っていた。
『いただきます……ぐえ』
「ぶふっ!」
同じリアクションをしていたことが、なんだか無性に可笑しくて笑ってしまった。彼女も『やっぱりブラックはちょっと苦手!』と首を振っている。
ここまで似てるから、惹かれ合ったのかな。それとも、片方がもう片方に似たのかな。
どっちでもいい。似てるだけで、十分幸せだった。
「んじゃ、戻りますか!」
もう一口飲んでキャップを締め、右手の拳を左手に打ち付けた音を合図に再開する。やっぱり苦いけど、千鈴も同じものを飲んだかと思うと嬉しくなる。
「ここでこっちの動画も交ぜてみるかな……」
NGに加えて、本番撮影以外のオフショット動画も編集していく。楽しげに笑っている姿、真剣な表情、うまくいかなくて苛立っている様子、そういう彼女の全てが、声とともに記録されていた。
『皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日も見てくれてありがとう……今日も演劇大好きです……いや、今日も元気ですか……ちょっ、有斗君、練習は撮らなくていいの!』
十月の映像も、こうして見ると随分昔に思える。
映像を切り替えるときの特殊効果、コンマ単位で調整するテロップ、毎回変えるBGM。一つ一つに、千鈴への想いを込めながら、編集していった。
ねえ、千鈴。君は「有斗が動画のことを教えてくれて、自分を救ってくれた」なんて言ってたけど、それは逆だよ。救われたのは俺なんだ。
誰かを炎上させることにしか使っていなかった自分の力を、君のために使うことができた。君が「自分の声を、自分の命を使い切る」ことに活かすことができた。それが俺にとって、どれだけ嬉しいことだったか、君には想像もつかないだろう。
だからこそ、これからは他の人を幸せにするために動画を作ろう、なんて考えることもできた。全部、君のおかげなんだ。本当にありがとう。
そして、やっぱり君が好きだったな。声を失くした君とうまくやっていけるか不安になってたけど、それでも、それだけの理由で諦めてしまうには、離れてしまうには勿体ないくらい、君は素敵で大事な人だった。
だから悔しい。君と一緒にいられないことが、すごくすごく悔しくて寂しい。一緒にいてくれてありがとうって想いと、これからも一緒にいられなくて残念だって想いと。
その感謝と愛情を、もう面と向かって伝えられないし、本当に面と向かったら照れて上手く伝えられない気がするから、動画にして贈ろう。いつでも俺が見返せるように、いつでも君に見てもらえるように。これは、俺と君が全力で笑って泣いて過ごした三ヶ月間だから。
***
「くあっ……」
椅子の背もたれに寄りかかって体重をかける。画面とにらめっこを続けて固まった体を伸ばし、もはやすっかり炭酸の抜けたブラックコーヒーを一口飲んだ。
十三日の平日、木曜の午前六時半。覚醒した頭で仮眠も取らずに半日作業を続け、全ての動画を作り終えた。これまで公開している十三本の動画、そのそれぞれの撮影のNG・オフショットを一本ずつまとめた特別編と、テロップもつけて前後編に分けたカラオケの動画、合計十五本。彼女のアドレスを知っているのをいいことに、限定公開でアップロードする。
拡散しない限り誰も見られない。君の両親だって、君のアドレスとパスワードを知らなきゃ見られない。だからこれは、俺達二人だけの秘密。俺達しか知らない、付き合った証。
「おつかれ!」
自分に向かって叫び、そのままベッドに倒れ込む。酷使した目もしぱしぱするし、関節も痛い。うつ伏せはちょっと苦しいけど、全身が疲労に包まれていてで体を反転させるのも億劫。でも、それは心地良い疲れ。
前もこんなことあった気がするな。ああ、そうだ。中学の時に初めて動画を作ったときも、夜通し四苦八苦して、こんな感じだった。
あと三十分したら登校準備だ。どうせ大して寝られないだろう。でも今はこのままでいたい。君に両腕で包まれるような気分で、このマットレスに沈んでいたい。
色々な思い出に浸りながら、ストンと意識が消えるように十五分だけ眠りに落ちた。
眠い目を擦りながら学校へ行く。二日ぶりの学校だけど、まったく話題にも触れられないくらい、朝のホームルームから千鈴の話題ばかりだった。
「先生、クラスで何かできませんか?」
「告別式だけなんて寂しいです」
「ご両親に何か贈るとか、そういう形でもいいので」
一昨日、頭が真っ白だったときはみんな興味本位で千鈴の話をしているように思ったけど、今ならちゃんと分かる。誰もが、彼女のことを悼んでいた。
「あの、みんな季南さんの写真とか動画持ってるんで、それをご両親に送るのはどうですか?」
三橋の声が響く。他のクラスメイトが頷いているのが見える。
頭の中で、いつかの電車での千鈴との会話が蘇る。
『俺は動画を作るスキルが身に付いたから、これからは誰かが幸せになる映像を作ればいいんじゃないかなって。卒業祝いとか誕生日とか、そういうときに使えるようなものを頼まれて作れば、それで誰か喜んでくれれば、それもありなんじゃないかなって考えてる』
『良いと思うよ。私も幸せになったし!』
やるなら、今。動くなら、今。
「あの」
一斉にクラス中の視線が集まる。緊張で唾を飲む。
「みんな、動画とか写真、俺に送ってくれない? 俺、動画編集できるからさ。曲入れた動画にして、ご両親に渡そうよ。俺達もYourTubeで見られるようにするか」
「ホント? 北沢君、ありがとう!」
「送る送る!」
「ねえ、クラスのLIMEグループにアルバム作ってそこに追加していこうよ!」
すぐにスマホに大量の通知が来て、千鈴の写真や動画がどんどん集まってくる。愛しい君の色んな顔が見られる。
千鈴、やれるだけやってみるよ。せっかくの特技だから、使い切るんだ。命を使い切った君に、誇れるように。
空席を見つめる。「演劇ガールでした!」と、あの声で話して、笑ってる気がした。
〈了〉
一月十一日、火曜日。成人式の三連休が終わり、千鈴とあんまりやりとりできなかったな、と思いながら登校した俺を待っていたのは、担任からの報告だった。
「季南千鈴さんが……昨日亡くなりました」
担任である彼女も相当なショックを受けているのか、悲しさを押さえつけるようにやや事務的な口調で話す。しかし、奥底にある感情の揺らぎは隠せず、それは実際の体の振動になって、固く握って教卓に置かれた彼女の手を震わせていた。
「……北沢」
放課後、ぼんやりと椅子に座って、ただ意味もなく机の木目を見ていた俺に、三橋が話しかける。クラスのみんなも千鈴のことで色々言い合っていたけど、途中から出所不明な噂話も混ざってきて、俺から見たら騒ぎ立てる週刊誌のようにしか見えなかった。
「どした?」
顔も見ずに答える。
「大丈夫……?」
「……に見えるか?」
誰かを気遣ったり、強がったりする力もない。そのくらい許せよ、と思いながら誰も何の声も耳に入れたくなくなって、今更の昼寝のように机に突っ伏した。
そのままずっと伏していたかったけど、そういうわけにもいかない。仕方なく覚束ない足取りで廊下を歩いていると、俺を待つように慶が柱に寄りかかっていた。
「……また遊びに行こうぜ」
「…………いつかな」
とっくに話を聞いていたであろう彼の、敢えて触れない優しさが、今は逆にひりひりと心を撫でた。
彼女と歩いた駅までの帰り道。彼女と時間差で乗ってこっそりレンタルスペースに向かった電車。町のそこかしこに、千鈴との足跡が残っていて、悲しくて仕方ないはずなのに涙は出てこない。
心を占めるのは、虚無。何もかもどうでもいい。いつもなら出てくるもう一人の自分すら出てこない。ひたすらに呆然としたまま、からくり仕掛けのように歩く。足を動かせば体も動いてなんとか家まで帰れる。人間というのは便利な作りだ。
言葉数少なめに説明していた担任の言葉を思い出す。
千鈴が説明していた通り、喉の腫瘍は咽頭ガンと呼ばれる病ではなかった。ただし、悪性の腫瘍であるという意味ではガンと何ら変わりなく、転移することも一緒だった。若い方が進行が早く、全身に転移する点も。終業式に一緒に歩いていこうと約束したはずの彼女の命を、僅か二週間で奪ってしまった。
『演劇界の重鎮、逝く』
名前は知っているけど主演作を見たことはない俳優のニュースを電車の中吊りで目にし、勝手に彼女と重ねる。演劇という単語一つで、シンクロさせるには十分だった。
彼女とは終業式以来会っていなかった。病院で検査があってバタバタすると聞いていたし、手術を終えた年末年始なのでゆっくりさせてあげたかったので、俺の方から遠慮した。
LIMEの返信は、一昨日の九日で止まったままだ。その日のやりとりはちゃんと「またね」で終わっていたから何の違和感も覚えなかった。昨日送ったものには返事はなかったけど、九日に病院に行くと言っていたので忙しいのだろうと思っていた。
クラスメイトは皆、葬儀には参加できず、告別式だけらしい。「彼氏」なんてポジションは何の役にも立たないことを思い知らされる。これが動画なら、このシーンだけ、彼女の一昨日から今日までのデータを切り取ってしまいたい。八日までなら、彼女は元気でいるだろうか。俺と通話していたあの時も辛かった? お正月の通話のときは? 終業式の日から、既に転移は始まっていたのだろうか。あるいはひょっとして、ずっと前から、こうなることが分かっていた?
終わりのない思考を巡らせながら、家の最寄り駅で降りて家まで歩き、最後の力を振り絞って家のドアを開ける。
「おかえり! ご飯すぐ食べる?」
「ああ……今日は食べてきた……もう寝るわ」
食欲がないのを誤魔化したのは心配をかけさせないためじゃない。詮索されたくないから。
ベッドに倒れ込む。フレームで打った脛(すね)の痛みが、これが全て現実だと無情にもズキズキと知らせてくる。鉛のように重い体に、間もなく降りる夜の帳(とばり)の如く暗い心を宿して、その日は制服のまま昏々(こんこん)と眠った。
次の日は学校を休んだ。電車の中で風邪をもらったらしいと言えば、本当の理由には触れられずに休める。今が冬で良かった。
休んだからといって何をするでもない。フリースとジャージに着替えて、本当の病人だってもう少し動くだろうと思うほど、ひたすら横になって眠る。体を休めたい、心を休めたい、そしてそれ以上に、何も考えたくない。逃げ込み先は、夢の中だけだった。
それでも、寝続けることはできない。夕方には完全に目が冴えてしまい、横になったまま、千鈴を一昨日に置き去りにしていく時計の秒針をじっと見つめる。少しずつ頭が活動を始め、記憶を辿っていく。
今思い返すと、千鈴との会話の中にヒントがあったように思う。
一度彼女が爆発したとき「時間がないのに!」と頻りに叫んでいた。あれはもちろん声帯の摘出のこともあったんだろうけど、ここまで考えてのことだったのかもしれない。声が出なくなるまでに観覧車に乗りたいと言ってたのも、ひょっとしたら。
カラオケのときもそうだ。手術の後はカラオケに行かないという彼女に、「俺が歌うのを聞いてるだけでもいいぞ」と冗談っぽく言ったときに、彼女はとても寂しそうな表情を見せていた。あれもカラオケ自体に行けなくなる可能性があったからなのだろうか。
そういえば彼女のお母さんも随分やつれているように見えた。あの時、既にこうなる危険性があったのだとしたら……もはや想像を絶する心の痛みだったに違いない。
「あ……」
唐突に高尾山に登ったときのことを思い出し、声が漏れる。彼女と抱き合ったのときの言葉を、今でも鮮明に思い出すことができる。
『覚えておいてね、私のこ……こ…………え』
私の声、と、本当に彼女はそう言いたかったのだろうか。
私のこと、と、そう言いたかったのではないだろうか。
どれも確証はない。それでも、いつだって強がって、気遣ってくれたのだと感じる。
でもそこには、彼氏彼女の関係なのに秘密にされていたという怒りも湧いてきて、心の中は幼児のおもちゃ箱のようにぐちゃぐちゃになる。
「……寝よう」
誰に聞かせるわけでもなく独りごちる。何でもいい、千鈴がいないなら、もう何もかもどうでもいい。そう思いながら頭から毛布を被り、無理やり目を瞑って眠りに落ちていった。
夜、両親の寝支度の音で目を覚ます。時間は二一時で、カーテンを開けてみるとすっかり町は夜の静寂に包まれていた。
起き上がる気にはならなくて、とりあえずマナーモードを解除してスマホを触ってみる。LIMEにも大したメッセージは来てなくて、そんな大したことないニュースで彼女とのやりとりが下へ下へ追いやられることが嫌で、機械的にスワイプして消していく。
そして、ゲームもネットも、もちろんYourTubeも見る気にならなくて、何の気なしにメールボックスを開いた。
ポンッ
音とともにメールボックスが更新され、大量のメールが届く。色々なお知らせに混ざって一件、よく見ていた名前から九日にメールが届いていた。
『季南千鈴』
反射的に飛び起きる。なんで彼女が俺のアドレスを? ああ、そうだ。初めに俺のパソコンでYourTubeにログインしてもらうとき、俺のメールアドレスを見てたな。それを覚えてたんだろう。
「これは……?」
件名は「有斗へ」、本文にはYourTubeのリンクが一つだけ貼られている。
大きな画面で見ようと思い、机に座ってノートパソコンを開く。ずっと寝ていたせいか、体のバランスを取るのが難しい。
徐々に速くなっていく鼓動を落ち着かせながらURLをクリックする。それは、「1/9」と彼女が亡くなる前日の日付がタイトルになったYourTubeの動画だった。
26 使いきった私から君へ
「やっほ、有斗、見てる?」
映っているのは、カーディガン姿の季南千鈴だった。後ろのベッドを見るに、自分の部屋で撮っているらしい。いきなり俺の名前を出したので驚いたが、検索には引っかからず、リンクを知っている人しか見られない、限定公開になっているようだ。
「えっと、今は一月九日です。明日病院に行くんだけど……正直もうダメかもな、と思ってて。だから思い切って動画撮ってみたの。頑張って編集するよ。だからもし、私が普通に戻ってきたら、笑って一緒に見よう」
これは、死を悟った彼女からの、最期のビデオメッセージだ。一人でも編集できるように、ソフトを買っていたのかもしれない。
もうダメかも、のところで彼女は少しだけ寂しそうに眉尻を下げる。少しだけ痩せているけど、強い薬のおかげか喉の調子は完全に治っていて、九月や十月に撮ったときと同じだった。よく通る、澄んだ彼女の声。
「えっと……演技、ちゃんと騙せたかな? 実は声をかけたときから、体に転移しちゃうかもって話は聞いてて、少し覚悟はしてたんだ。でもね、有斗には言い出しづらくて、声が出なくなるって話で止めちゃったんだ。気付いてた? 気付かなかったなら、私の演技力が凄かったってことだよね!」
もうすぐ訪れる運命を知っているだろうに、あまりにも明るいトーンの彼女に驚いてしまう。そして、その明るさも、「騙せた私の勝ちね!」と笑うその元気も、全て強がりの裏返しであると知っていた。本当の彼女は、声を失うのが怖くて怖くてずっと震えているような子だから。
でもなるほど、この先の展開が読めた。こうやって明るいスタートにしておいて、ここからこれまでの思い出とかお礼とか、たくさん振り返って俺を泣かせにかかるんだ。動画の最後に「泣いた?」とか感想を聞かれるに違いない。
フッフッフ、お見通しだぞ。千鈴らしい作戦だけど、そうと分かれば対策はできる。感動的な言葉があっても、「これは罠だ!」と思えば、対抗意識で我慢できる。心の準備はバッチリだ。
「あ、先に言っておくと、この動画、別に泣かせる動画じゃなくて雑談だから!」
…………はい?
「こうやって動画撮るの、もうできないから、やってみようかなって。だから、有斗だけに送るラジオみたいなものだと思って、聞いててね!」
一人で納得したように、俺はコクコクと頷く。なんだ、違うのか、心配して損した。
「んー、何から話そうかな」
BGMに小さくボサノバが流れ、テロップは右上の「有斗へ」だけ。シンプルな編集な分、千鈴にばかり目が行く。
心配して損した。そう思ってたのに。
「これが自宅だよ〜。どう、女子の部屋、ドキドキする? えへへ」
「そういえばさ、山添先生の冬休みの宿題、ひどくない? 英文三十個も暗記って、アレ絶対連休明けにテストじゃんね!」
「有斗のところは初詣ってどうしてるのー? うちは元日に家族で行くって決まってるんだよね。よく漫画でさ、両思いの二人が年が変わる瞬間を初詣で迎えるシーンあるじゃん? あれ、ホントにあるのかなって思うよね。普通親が許さなくない?」
「あ、これ見て! 新しいカーディガン! ブラウン系なくてさ、買ってみたんだよね。さて、問題です、じゃじゃん! これ、幾らでしょう? 正解は……ドゥルルルルル……一五八〇円! セール最高!」
「最近、寝る前にこれ読んでるの。覚えてる? 少し前に電車で話してたミステリー! でも読み出すとすぐ眠くなっちゃってさー。全部読んだら有斗にも貸すね!」
彼女の言う通り、二十分間、本当にただの雑談だった。手術の話もなければ、転移を匂わせることすらない。彼女の日常を切り取っただけ。
編集も下手くそだ。初めて彼女が一人で編集したんだろう。切り替えが遅すぎて全体的に間延びしてるし、テロップも変なタイミングで出たり消えたりするから気になるし、BGMも思いっきり声に被ってるし。
でも何でだろうなあ。不思議だなあ。
「千鈴……ち……すず……うう……うああ…………」
頬が熱くて仕方がない。
動画の長さを示すバーがどんどん右端に寄っていく。もう少ししたら、話している彼女とは、季南千鈴とはお別れ。もう彼女のことは見られない。季南千鈴は、もうどこにもいない。どこにも。
それが寂しい。寂しい。水槽の水が循環するように、寂寥感が心のあちこちを撫でていく。
そして、動画は最後の三分になった。
「じゃあ最後に、これまで動画でやってきた中で一番好きだった台詞を、もう一回届けます」
そう言って彼女はスッと立ち上がり、目を閉じる。瞼を開けると、カメラには気力を漲らせた瞳が映った。
ピンと背筋を伸ばす。彼女が大きく息を吸う音が聞こえる。
『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの。それは時間であれ、能力であれさ。人生でもらったものは使いきりたいし、たとえ使い切れなかったとしても、そういう覚悟でいたいな、とは思うんだ』
久しぶりに聞いたこの台詞。今思うと、なんて彼女にピッタリなんだろう。
十月の撮影で聞いたんだっけ。記憶が曖昧だ。もっと、もっと覚えておけば良かった。記憶に焼き付けておけば良かった。
「ねえ、有斗」
彼女は、優しい表情のまま、俺の名前を呼ぶ。何度も何度も呼ばれた、俺の名前。
「命も喉も、使い切ったかな! 演劇いっぱいできて良かった! YourTubeできて良かった! 有斗……好きだった! この三ヶ月間、楽しかったよ!」
そんなお礼言わなくていいのに。全部過去にしなくていいのに。
彼女の表情が少しだけ変わる。眉を変な形に下げて、口を曲げている。まるで、泣くのを我慢しているかのように。
「もし私のワガママ聞いてもらえるなら……動画、たくさん見て! 別に拡散しないでいいから。クラスの子にも教えなくていいからね。だから、だから……」
声が揺れる。大好きな声が、湿って揺れる。
「有斗に見てほしいなあ。もういられないから……もう一緒にいられないから!」
彼女の涙にシンクロするように、俺の頬がまた濡れる。
失ってから初めて気付くとか、失ってやっと分かったとか。そんな台詞も歌詞も、あんなに目にしていたのに、やっぱり俺はバカで、こんなに愛しいと、失って初めて分かるんだ。
「えへへ……ほら、泣く演技上手でしょ? そんなわけで、またね。演劇ガールでした!」
そこで動画は終わった。
「……演劇ガール関係ないだろっての」
泣きながら吹き出し、「……んっ!」と力を込めて、涙を止める。
演技じゃないことくらい、ちゃんと分かってる。
彼女が最期まで前を向いていたから。どれだけ心に暗がりがあっても、俺の前で笑ってくれていたから。
俺もそれに応えたい。彼女に恥じない自分で一緒に歩けるように、同じ方向を向きたい。
たった三ヶ月だけど、俺は季南千鈴の彼氏だったから。
「……よし」
散々泣き腫らしたからか、視界が急にはっきりしたような感覚。やりたいことが、フッと浮かんできた。
27 救われた僕から君へ
ノートパソコンを開き、ビデオカメラをケーブルで繋いだ。これまで撮った全てのデータを、パソコンに移していく。
一つ一つのデータを見ていった。YourTubeの動画一本ごとに、NGのデータやオフショットの映像が十分ちょっと。それに手術前のデートのカラオケで撮ったのが一時間。合計で大体四時間くらい、「撮っただけで使っていない映像」がある。
「やるか!」
時間は二二時。編集ソフトを開き、初めて投稿したときに使っていなかった動画ファイルの編集を始めた。
まずはNG集ってことでNGをまとめようかな。タイトル画像もつけよう。BGMは何がいいかな。ちょっとバラエティーっぽいフリー音源があったはず。千鈴が好きだったジングルも使いたいな。
噛んだところはテロップ。「コケッ」って効果音を入れて……あ、スタッフが笑ってるみたいな声も入れてみよう。
思いつくまま、どんどん編集を進めていく。カメラに眠っていた映像が、作品になっていく。
別に誰に公開するわけでもない。限定公開で、彼女のアカウントでアップしたい。
ちゃんとした動画は、世界中に届けた。いつでも見てもらえる。
だからこれは、誰に見てもらえなくてもいい。「俺は君の声を一つ残らず聞いたよ」と、伝わればいい。「君の声はこんなに素敵だって、俺は知っているよ」と、空の上で見ているはずの君にだけ響けばいい。
二十分間の未使用動画を使って編集するのに一時間弱かかっている。元ネタの動画ファイル、四時間分あるぞ。このペースだと軽く十時間かかるな、大丈夫か。
「画像やBGM使い回して……まあ朝までには」
無謀なことを口走りながら、カチカチとマウスを動かす。気の長い孤独な作業になりそうだけど、それもなんだか楽しくて、口元は自然と緩んだ。
「……ふう」
気が付くと長針はぐるりと何周か回っていて、下山を始めた短針はもうすぐ数字の一に着くというところ。カーテンを開けると冷気がヒヤリとやってくる。半月より少しだけ窪んだ月が、雲の合間を縫って柔らかい光を放っていた。
長時間集中して作業していると喉も渇いてくる。家に麦茶しかないことを思い出し、「ちょっとコンビニでも行くか」とこっそり家を抜け出し、チャリで五分。気分転換にもちょうどいい。
白色の明かりで眩しく照らされたドリンクの棚を、上から下まで蛇腹のように視線を動かして見ていく。
「どれにするか…………おっ」
目に留まったのは、一本の黒い飲み物だった。
家に帰ってきて、静かに蓋を開けて、おそるおそる口をつける。
「さてさて、お味は……ぐえっ」
苦さに思わず顔を顰めた。
彼女が一番最後に撮影していたときに飲んでいた「スパークルコーヒー」は、シュワシュワとした爽快感と不得意なブラックコーヒーの味がびっくりするほどマッチしない。大人はこれを好きこのんで飲むのだろうか。
千鈴が飲んでいるときに面白がってカメラを回していたことを思い出し、どんなリアクションをしていたか気になって見返す。画面の中では、彼女も緊張の面持ちでペットボトルを持っていた。
『いただきます……ぐえ』
「ぶふっ!」
同じリアクションをしていたことが、なんだか無性に可笑しくて笑ってしまった。彼女も『やっぱりブラックはちょっと苦手!』と首を振っている。
ここまで似てるから、惹かれ合ったのかな。それとも、片方がもう片方に似たのかな。
どっちでもいい。似てるだけで、十分幸せだった。
「んじゃ、戻りますか!」
もう一口飲んでキャップを締め、右手の拳を左手に打ち付けた音を合図に再開する。やっぱり苦いけど、千鈴も同じものを飲んだかと思うと嬉しくなる。
「ここでこっちの動画も交ぜてみるかな……」
NGに加えて、本番撮影以外のオフショット動画も編集していく。楽しげに笑っている姿、真剣な表情、うまくいかなくて苛立っている様子、そういう彼女の全てが、声とともに記録されていた。
『皆さん、こんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日も見てくれてありがとう……今日も演劇大好きです……いや、今日も元気ですか……ちょっ、有斗君、練習は撮らなくていいの!』
十月の映像も、こうして見ると随分昔に思える。
映像を切り替えるときの特殊効果、コンマ単位で調整するテロップ、毎回変えるBGM。一つ一つに、千鈴への想いを込めながら、編集していった。
ねえ、千鈴。君は「有斗が動画のことを教えてくれて、自分を救ってくれた」なんて言ってたけど、それは逆だよ。救われたのは俺なんだ。
誰かを炎上させることにしか使っていなかった自分の力を、君のために使うことができた。君が「自分の声を、自分の命を使い切る」ことに活かすことができた。それが俺にとって、どれだけ嬉しいことだったか、君には想像もつかないだろう。
だからこそ、これからは他の人を幸せにするために動画を作ろう、なんて考えることもできた。全部、君のおかげなんだ。本当にありがとう。
そして、やっぱり君が好きだったな。声を失くした君とうまくやっていけるか不安になってたけど、それでも、それだけの理由で諦めてしまうには、離れてしまうには勿体ないくらい、君は素敵で大事な人だった。
だから悔しい。君と一緒にいられないことが、すごくすごく悔しくて寂しい。一緒にいてくれてありがとうって想いと、これからも一緒にいられなくて残念だって想いと。
その感謝と愛情を、もう面と向かって伝えられないし、本当に面と向かったら照れて上手く伝えられない気がするから、動画にして贈ろう。いつでも俺が見返せるように、いつでも君に見てもらえるように。これは、俺と君が全力で笑って泣いて過ごした三ヶ月間だから。
***
「くあっ……」
椅子の背もたれに寄りかかって体重をかける。画面とにらめっこを続けて固まった体を伸ばし、もはやすっかり炭酸の抜けたブラックコーヒーを一口飲んだ。
十三日の平日、木曜の午前六時半。覚醒した頭で仮眠も取らずに半日作業を続け、全ての動画を作り終えた。これまで公開している十三本の動画、そのそれぞれの撮影のNG・オフショットを一本ずつまとめた特別編と、テロップもつけて前後編に分けたカラオケの動画、合計十五本。彼女のアドレスを知っているのをいいことに、限定公開でアップロードする。
拡散しない限り誰も見られない。君の両親だって、君のアドレスとパスワードを知らなきゃ見られない。だからこれは、俺達二人だけの秘密。俺達しか知らない、付き合った証。
「おつかれ!」
自分に向かって叫び、そのままベッドに倒れ込む。酷使した目もしぱしぱするし、関節も痛い。うつ伏せはちょっと苦しいけど、全身が疲労に包まれていてで体を反転させるのも億劫。でも、それは心地良い疲れ。
前もこんなことあった気がするな。ああ、そうだ。中学の時に初めて動画を作ったときも、夜通し四苦八苦して、こんな感じだった。
あと三十分したら登校準備だ。どうせ大して寝られないだろう。でも今はこのままでいたい。君に両腕で包まれるような気分で、このマットレスに沈んでいたい。
色々な思い出に浸りながら、ストンと意識が消えるように十五分だけ眠りに落ちた。
眠い目を擦りながら学校へ行く。二日ぶりの学校だけど、まったく話題にも触れられないくらい、朝のホームルームから千鈴の話題ばかりだった。
「先生、クラスで何かできませんか?」
「告別式だけなんて寂しいです」
「ご両親に何か贈るとか、そういう形でもいいので」
一昨日、頭が真っ白だったときはみんな興味本位で千鈴の話をしているように思ったけど、今ならちゃんと分かる。誰もが、彼女のことを悼んでいた。
「あの、みんな季南さんの写真とか動画持ってるんで、それをご両親に送るのはどうですか?」
三橋の声が響く。他のクラスメイトが頷いているのが見える。
頭の中で、いつかの電車での千鈴との会話が蘇る。
『俺は動画を作るスキルが身に付いたから、これからは誰かが幸せになる映像を作ればいいんじゃないかなって。卒業祝いとか誕生日とか、そういうときに使えるようなものを頼まれて作れば、それで誰か喜んでくれれば、それもありなんじゃないかなって考えてる』
『良いと思うよ。私も幸せになったし!』
やるなら、今。動くなら、今。
「あの」
一斉にクラス中の視線が集まる。緊張で唾を飲む。
「みんな、動画とか写真、俺に送ってくれない? 俺、動画編集できるからさ。曲入れた動画にして、ご両親に渡そうよ。俺達もYourTubeで見られるようにするか」
「ホント? 北沢君、ありがとう!」
「送る送る!」
「ねえ、クラスのLIMEグループにアルバム作ってそこに追加していこうよ!」
すぐにスマホに大量の通知が来て、千鈴の写真や動画がどんどん集まってくる。愛しい君の色んな顔が見られる。
千鈴、やれるだけやってみるよ。せっかくの特技だから、使い切るんだ。命を使い切った君に、誇れるように。
空席を見つめる。「演劇ガールでした!」と、あの声で話して、笑ってる気がした。
〈了〉