21 カメラを回して

「千鈴、準備できた?」
「うん、大丈夫。へへ、久しぶりだと緊張するね」

 レンタルスペースで、カメラを構える。椅子に座った彼女は、自信ありげに親指を立てた。

「はい、皆さんこんにちは。今日もお芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです!」
「……よし、いけそうなら続けていいよ」
「クリスマスが近づいてきました! クリスマスの演劇と言えば、ミュージカル『スクルージ』が有名ですね。九二年初演ですけど、チャールズ・ディケンズの小説が原作の映画『クリスマス・キャロル』を元にしています。んんっ、有斗、一旦ストップ」
「カット。オッケー、録画止める」

 我慢してたのを吐き出すように小さく咳込んだ彼女は、両手で口を押さえて「ふしゅー」と深呼吸した。


 仲直りした日から、金曜と土曜を挟んだ、十二日の日曜日。今日は二人とも予定が空いていたので、動画撮影の後にデートをする。動画は一本だけにするつもりだったけど、前回途中で撮影をやめてしまったものが残っていたので、その続きも撮って二本アップすることにした。欲張って朝早くから始めたけど、千鈴は集合のときから「ちょっと早いクリスマスだね!」と意気込んでいる。

 といっても今撮っている場所は、クリスマス当日になってもそこまでカップルで賑わうことのなさそうな、都心から一時間離れた郊外の高尾駅。一つしかない改札から徒歩で十分のところにあるマンションの一室を利用した簡素なレンタルスペースだった。

 咳はしているけど、千鈴の喉の調子は前ほどは悪くない。彼女によると、「どうせすぐに手術だから、それまで症状が軽くなるよう、強めの薬をもらった」らしい。やや心配する俺を他所(よそ)に、彼女は「今日は普通に話せる!」と嬉しくて堪らないというように手で口を押さえて笑っていた。

「見て見て、有斗。今日はこれを飲もうと思って持ってきたの」
「げっ、コーヒーの炭酸って完全に地雷じゃん……」

 得意げに胸を張りながら、彼女は「スパークルコーヒー」と大きくラベルに書かれたペットボトルを好奇心に満ちた目で眺めている。

「ふふん、薬のおかげで強い炭酸も飲んでも痛くなくなったからさ、久しぶりに買っちゃった」
「久しぶりなら美味しいって分かってるヤツ買えば良かったのに」

 確かにそれもそうかも、と言って千鈴は笑う。 ざっくり首元の開いた白のニットセーターに、細い白ストライプの入った黒のロングスカート、以前履いてるときに褒めたムートンブーツ。触り心地が良さそうなセーターはちょっと大きめで、それが可愛さを上乗せしていた。


「それじゃ撮影再開するぞ。五秒前! 四、三……」
「さて、今日は久しぶりに演劇の練習でよく使う早口言葉をやってみたいと思います。『バナナの謎はまだ謎なのだぞ』 結構難しいですよね? ナ行って結構言いづらいので良い練習になります。グフッグフッ!」

 突然咳をする千鈴。でも、本人から合図がないうちは撮影は止めない。彼女がトークを再開するのを待つ。

「バナナが閉ざされた洋館で事件に巻き込まれてるのを想像するとちょっと面白いですよね。ん、有斗、ここまで」
「カット! 大丈夫、今のなら繋げられる」
「ホント! 良かった!」

 撮影の仕方も、これまでと少しだけ変えた。「普段の喋りをそのまま届けたい」というかねてからの千鈴の希望に沿うため、話の途中で調子が悪くなっても、彼女が「ここまでは通して喋りたい」と思う部分まで話してもらうことにした。さっきみたいなトラブルがあっても、編集のときにその部分だけ動画を切る。

 調子が良ければどこまでも話していいし、途中で咽ても千鈴が話したいならキリの良い所までやりきっていい。今の彼女が一番楽なやり方で撮ってあげたかった。

「……ということで、映像で見た舞台『きっと大丈夫、じゃない』の感想でした。ここで恒例の、私が特に印象に残った台詞を演じてみたいと思います」

 千鈴は、これまでと同じようにスッと立ち上がって肩の力を抜く。最近まで喉が痛くてほとんどできていなかった演技ができるようになった嬉しさが、きゅっと上がった眉と口角でよく分かった。

『何にもないよ。私には何もない。でもね、何も無いって知ってた。だから頑張れたんだ。一歩一歩進められたの』

 彼女のよく通る声がレンタルスペースに響き渡る。後ろ向きに聞こえるけど、それは日々懸命に過ごしている彼女らしい言葉だった。

「有斗、ちょっとだけ休憩。喉がイガイガする」
「おう、休もう休もう」

 机に向かい合って座り、休み時間に寝るときのようにお互いぐでーっと突っ伏す。

 彼女が無理せず撮影できるよう、予約は三時間取っておいた。

「暖房あんまり効いてないな」
「そうだね、手が冷たくなってきたよ。ほら」

 伸ばしてきた手を、こちらも腕を伸ばして繋ぐ。ゆっくりハグするかのように、指を絡めて握る。

「ふへへ、あーると」
「……ちーすず」
「あ、照れてる」
「照れてない」

 スマホも見ない、曲も聴かない、外に出ているわけでもなければ撮影もしていない。ただ「二人でいる」だけの時間。それがこんなに幸せなものだなんて、知らなかった。

「あのコーヒー炭酸、一口あげるからね」
「俺はまずブラックが苦手なんだっての」
「大丈夫、私もだから」
「じゃあなんで買ったんだよ」

 バカ話をして、彼女から貰ったのど飴を舐める。調子が戻ったら、ゆっくり撮影再開だ。

 ***

「一本目の動画、できたぞ」
「ホント? 見せて見せて」

 撮影が無事に終わり、駅前に一店だけあったファミレスで編集・投稿作業。やり方を変えたからか、撮影が順調に進んで二時間で終わったので、ちょっと早いお昼を食べながら千鈴のパソコンを借りて、彼女の買った動画用ソフトで編集した。俺のパソコンでやってもいいんだけど、彼女は動画制作の思い出として、作業した編集データも残したいらしい。

「有斗、ここのテロップさ、喋り始める前に表示されてるけどいいの?」
「喋ってる途中でテロップが出ると、急にテロップに視点移すことになるから、見る人にとってはちょっとストレスなんだよね。だったら始めから表示させておいた方が良いと思う」
「ふむふむ、勉強になるなあ」

 いつも使っているノートにペンを走らせる千鈴の横で、二本目の編集に入る。俺もかなり慣れてきたので、切り貼りから効果音入れまでかなりスムーズにでき、二本まとめてアップロードした。

「よし、投稿完了! ということで、ご褒美にこのポテトは俺が頂きます」
「あ! 一番長いやつ!」

 膨れる彼女と「ずるい!」「へへーん」と子どものようなケンカをしながら、残りのポテトを二人で平らげた。

「ふう、ごちそうさまでした。じゃあ、いきますか!」
「だな!」

 早足でお会計を済ませ、高尾駅の南口前にあるカラオケ店に向かう。午後のデートは、千鈴が行きたいと話してくれたところに連れていくことになっていた。

「ホントにカラオケでいいのか?」
「うん、カラオケが良い。もう行けなくなるからさ」
「俺が歌うの聞いてるだけでもいいのに」

 そう冗談っぽく言ったものの、彼女はただ寂しそうに笑うので「ウソだよ」と誤魔化した。

「あ、あそこだ」
「よし、入ろう!」

 都心の方ではあまり馴染みのないチェーン店は、赤い看板に書かれた白抜きの店名が少し汚れていて古めかしさを感じる。
受付をして部屋に入ると、千鈴はいそいそとマイクを持ち、電源をつけて口に近づけた。

「さあ、喉が潰れるまで歌うよ! まずは有斗から!」
「先に入れるんじゃないのかよ!」

 撮影が終わった解放感とゆったりデートの幸福感が合わさって、テンションは一気にハイになる。お昼を食べる前に飲んだ薬が効いてきたのか、彼女の声は掠れることもガラガラになることもほとんどなく、俺は九月に動画を作り始めたときの彼女を思い出した。

 喉のこと、手術のこと、不安はたくさんあるけど、敢えて口にしない。変に歌詞に想いを込めたりせずに、歌いたい曲を好きに歌う。今だけはただの高校生カップルでいよう、という気持ちは、きっと二人とも一緒だった。

「ねえ、有斗。歌ってるところ撮って!」

 曲が始まる前、立ったままマイクを持ってピースをしながら、彼女は歯を零した。

「任せろ、全曲撮る!」

 すぐにビデオカメラを出して慌てて録画ボタンを押し、撮影しながら彼女にピントを合わせていく。

「♪いーつものー けーしきがー いーろーづくー ごぜんれいじー」

 体を揺らして、髪とスカートを(なび)かせて、千鈴は歌う。液晶越しに見ていたけど、なんだかそれじゃ勿体なくなって、カメラを胸の前で抱えたまま生の彼女に視線を向ける。見蕩れているうちにカメラ本体が斜めに傾いてしまい、「ちょっと、カメラ! テーブル映しちゃってる!」とツッコミを入れられて、結局三脚を立てて固定した。

「有斗」
「ん?」

 聴くのに夢中になっているうちに曲が終わってしまい、急いで曲を選んでいる俺を呼んだ彼女は、斜め上を向いて少し言い淀んだ後、「うりゃっ」と肩にグーパンチを二発当てた。

「楽しいね!」
「だな」

 好きな人に楽しいと言ってもらえる。それはたった一秒の最高の贈り物。

「あっ、これ私も歌いたい!」
「じゃあ上パートよろしく!」

 何曲歌っても飽きることはなくて、はしゃいでいる彼女を記録しながら、二人っきりのライブを堪能した。



 22 消えないように

「それじゃ、行きますか」
「おう。まずはケーブルカーだな」

 カラオケを出て駅前に戻ると、オブジェのように駅前に立っているアナログ時計は十五時を示していた。真っ昼間の明るさは褪せ、日の短くなった空は少しずつ夕暮れの準備を始めている。

 今日、千鈴が行きたいと言っていたもう一つの場所、山登り。高尾山に一緒に登る。

「へえ、ここから全部徒歩でもいけるんだね」
「百分以上かかるらしいけどな」
「うわっ、それはキツいかも」

 都心から離れたこの駅をデート場所に選んだのは、これが理由だった。標高は六百メートルとそんなに高くないうえに、駅前から出ているケーブルカーでショートカットすれば五十分で頂上まで着ける手軽さが人気らしい。

 俺も千鈴も初めて来たので、駅前でもらったガイドマップを見ながらキョロキョロ歩く。

「あった、ここだ」
「ちょうど来るっぽいね」

 ICカードをタッチする自動改札ではなく、木の枠で仕切られた有人の改札がとても新鮮に映る。切符を買って駅員さんに渡し、ホームに並んだ。

「あ、来た来た!」

 千鈴の声に呼ばれるように近づいてきた黄色い車体のケーブルカーは、百人は優に乗れそうな「小さい一両電車」という印象だった。山を登っていくためか、窓が車体に対して不自然に斜めになっているのが、どことなく未来の乗り物っぽさがあって面白い。

 紅葉も終わった寒い時期なので、乗る人も案外少なかった。着席すると、アナウンスとともにすぐに出発する。

「おー、結構急な坂だね!」
「日本屈指らしいよ。ジェットコースターの上がってるときみたいだよな」
「確かに!」

 窓に張り付いて外を眺めている千鈴が「急にグワーッて落ちたりして」とイタズラっぽく笑う。

 なるほど、コースの傾斜がこんなに急であれば、窓がここまで傾いているのも頷ける。おかげでいつも乗っている電車と同じように、車窓から自然を堪能することができた。

 線路の左右両方に何本もの木が立ち並んでいるその景色は、まるで山の神様にお願いしてここだけ空中に道を通してもらったかのよう。冬なので葉が落ちている木が多いが、生い茂る緑や一面の紅葉を想像するだけで、スマホで何枚も撮影する自分が目に浮かぶ。春から秋にかけていつも混んでいる理由が分かる気がした。

「やった、到着だね!」
「まだだっての。ここから一時間くらい歩くぞ」
「えー、だるいー」

 口を尖らせながら後をついてくる千鈴。「だんご」とのぼりが掲げられたお茶屋を通り過ぎ、なだらかな坂道を上がっていく。

「千鈴、スカートで寒くないの? タイツ履いてないんだろ?」
「大丈夫! 女子高生は『今が可愛さのピークだ』っていう自信を着込んでるから寒くないの」
「ぶはっ! なんだよそれ」

 日も落ち始めているけど、千鈴と話しているのが楽しくて、暗さも気温もあまり気にならない。
 行程も半分を超えると、舗装された箇所はなくなって山道になる。それでも険しすぎるということはなく、高校生の俺達には比較的楽なコースだった。

「あ、標識みっけ!」
「いやー、なんだかんだ歩いたな」

 頂上に着いたのは十六時半少し過ぎ。ちょうど日の入りの時刻で、薄明の空はオレンジとネイビーのグラデーションになっている。

 疲れていたはずなのに、柵を見つけて競うように走る。他の登山客が少なかったので、景色を二人占めできた。

「うわっ、綺麗……」
「すごい……」

 こうやって感動するのはいつぶりだろうか。そうだ、あの観覧車の時以来だ。
 でも、あの時とは迫力が全く違う。ガラス張りでない、遥か下の光景でもない、すぐそこにある自然。澄んだ空の下、近くには木々の緑と茶色、遠くには日本一の高さを誇る山がくっきりと見える。消えかけの夕日を照明にして、ただただ、茫洋たる景色を眺めていた。

「よっし」

 そう小さく呟いた千鈴は、気合を入れるようにセーターの袖を軽く(まく)る。
 そして、開いた両手を口の左右に当て、思いっきり叫んだ。

「やっほー!」

 すぐに空が彼女の声真似をし、「やっほー」と返ってくる。

 近くにいた人が驚いてこっちを見ているけど、彼女は再び叫ぶ。

「私は! 季南! 千鈴だー!」

 急な大声でさすがに声が掠れたものの、誰の目も気にしない。自分の名前を大声で口にした。

「ほら、有斗も」
「えー、俺もかよ」

 いいじゃんいいじゃん、と腕を引っ張られる。この暗さなら顔も見えないだろう、というのが都合の良い言い訳になり、お腹から思いっきり「やっほー!」と叫んだ。

「私も一緒にやる! せーの、やっほー!」

 木霊が器用に、高低二種類の声を返してきた。

「へへ、これやりたかったんだよね」

 満足そうな笑みを浮かべる。そして、調子を探るように、俺の目をジッと見つめた。

「有斗」
「どした?」

 前髪を触りながら、彼女は口を開けたり閉じたり、唇を微かに舐めたりしている。それは、どう言おうか、言葉を探すように。

 そして。

「手術の日、決まったの」
「……そっか」

 さっきのカラオケの時も、何か言い淀んでいた。きっと、これを伝えたかったんだろう。

「十九日の日曜日」
「来週かよ。急だなあ」
「手術して二~三日は入院が必要だっていうからさ、金曜の終業式に間に合うように日程組んだんだ。ほら、その金曜ってクリスマスイブだし!」
「確かに。クリスマス病室は辛いもんな」

 深刻な話とは思えない、穏やかなトーン。覚悟を決めた彼女と、一緒にいると決めた俺。

「準備とかもあるから、動画も今日のが最後だね」
「そっか」

 正直、なんとなくそんな気がしてたけど、改めて言われるとやはりちょっと気落ちする。

「でも、今日のは良い出来だったと思うぞ」

 だよね、と言いながら、彼女が自分のスマホでYourTubeをチェックした。

「わっ、もう五十回再生だ! あとコメントも来てるよ! 『いつも楽しく見てます、演劇部の中学生です! バナナの早口言葉、初めて知ったのでうちの部でも今度やってみます』だって。参考にしてもらえるの幸せだなあ」

 嬉しそうにスワイプしている彼女を見る。華やかで綺麗な顔が、ぼんやりと液晶のライトに照らされていた。

「あ、演技にもコメントもらえてる……『雨のち雨の台詞もすごく感情籠ってて良かったです』って……やっぱりこれも嬉しいなあ」

 優しい目で画面を見る彼女は、本当に心から喜んでいる表情で、液晶を撫でていた。

「なあ。手術の後とか、お見舞い行けるのか?」
「ううん、ちょっと難しいと思う。安静第一だしね。スマホは見てもいいみたいだけど」
「じゃあ、で……たくさん連絡するかな」

 電話する、と言いかけてしまって、慌てて引っ込める。高校生でただの彼氏だと、お見舞いすら難しい。自分が子どもであることを痛感して、悔しくなる。

 迫るカウントダウン、会えないことの寂しさ、彼女との関係の不安。幾つもの後ろ向きな感情が流れ込み、心の中に靄(もや)がかかりそうだったので、すぐに眼前の風景に視線を移して落ち着かせる。間違いなく彼女の方が辛いはずで、俺だけ取り乱したくなかった。

「ねえ」
「ん?」

 空の紺色は徐々に濃さを増していき、天から夜が降りてくる。肩を叩かれ、彼女の方を振り向く。

「覚えておいてね、私のこ……こ…………え」

 暗がりの中で、声を詰まらせながら話す彼女の頬が、微かに光る。それが涙と分かるまで、そう時間はかからなかった。

「当たり前だろ」
「約束だよ、約束」

 指切りして、顔を寄せた。嗚咽もない、鼻も啜っていない。音だけでは泣いていると分からない。本当に、声と一緒に自然に出てきた涙なのだろう。

「覚えておいてね」

 もう一度、千鈴は繰り返す。返事の代わりに、腰に手を回す。景色に目もくれず、彼女を腕の中に閉じ込める。


「有斗」
「はい」

「あーると」
「はい」

「好き」
「おう」

「北沢有斗君」
「季南千鈴さん」

「有斗」
「はい」

 お互いの口に耳を寄せて、ただ、彼女の声を吸い込んだ。
 消えないように。忘れないように。



 23 やっぱり君は

 そこから先は、なんだかあっという間に平日が過ぎていった。

 十三日、月曜日。遂に彼女はクラスで病気のことを伝えた。泣いている友達、好奇心であれこれ訊く男子、色紙の準備を始めるリーダー格の女子。クラスが慌ただしく動き出す。千鈴と付き合っていることはナイショにしているので、俺も他の男子と同じように、クラスメイトの不躾な質問と用意していた彼女の答えを一緒に聞いていた。

「じゃあ、冬休みの宿題を出しておきますね」
「えー!」

 クラスの友達が声が出なくなる。そんな大きな事件があったって、授業は当たり前のように普通に進み、何も変わらない日常が過ぎていく。始めはそのことにイライラもしたけど、次第に慣れていった。世界はそうやって、すぐに誰かを取り残していく。だからこそ、その人を大事だと想う人が、隣で見守るのだ。

 ***

「いやあ、意外とあっさりだったよね」
「その感想もだいぶあっさりだな」

 集会室で、千鈴は苦笑して見せる。備品だらけの、逢瀬には似付かわしくない教室。ファミレスやカフェで話してもいいけど、ここから始まった関係なので、すっかり二人のお気に入りの場所になっていた。

 火曜日、もう火曜日。寝て起きたら水曜日が来て、宿題をこなしたら木曜になって、焦ってるうちに金曜になって、出かけているうちに週末も過ぎて、あっという間に手術当日になってしまうのだろう。

 これまで撮ってきた動画を思い返す。アップした演劇ガールの動画は、三ヶ月で十三本。結構頻繁に撮影していたつもりだったけど、本数で見るとそんなに多くないのかもしれない。

「そうだ、有斗」
「んあ?」

 軽い呼びかけに同じく軽いテンションで返事した俺に、千鈴は小指を立てた右手を出した。

「離れないでね!」

 いつものノリのまま言うつもりだったであろう、その言葉。彼女の心の内は、精一杯の勇気を込めた震える指が雄弁に教えてくれた。

「……もちろん」
 小指を絡め、指切り。慰めでもその場しのぎでもない、本心だった。


「そろそろ帰るね。入院の準備とかあるし」
「ん」

 これまで当たり前のように夜までいられたのも、今はもうできない。でも、今生の別れでもないけど、やっぱりなるべく一緒にいたくて「送るよ」と言うと、千鈴はいつものようにむふーっと破顔した。

「電車、空いてるな」
「会社員の人少ないね。忘年会とかかなあ。あ、あのミステリー、めっちゃ面白いって愛弓(あゆみ)が言ってた」
「表紙が綺麗なやつだろ? 本屋でいっつも見る」

 電車の中で、他愛もない話をする。ついつい終わりを意識して「年が明けたらこうやって話すのもできないな」なんて考えてしまった後、「でも普通にチャットすればいいな」と思い直す。

 そんな中で、俺の視界は1つの中吊り広告、週刊誌の見出しを捉えた。

『きっかけは炎上! 命を絶った若者たち』

 煽り文が心を焼く。動機が激しくなりそうで、すぐに視線を斜め下、千鈴に戻す。塾の広告に載っていた理科の問題を凝視している彼女を見ながら、頭は冷静に一つのことを考え始めた。

 彼女の最寄り駅に着く。電車を降り、少し遠い階段に向かって歩く。
 目をキョロキョロさせながら、何を見るでもなく黙っている俺に気付いた彼女が、制服の袖を引っ張った。

「何考えてるの?」
「……前に投稿してた動画のこと」

 歩くスピードをゆっくりにして、彼女は「話聞くよ」と言わんばかりに俺の顔を凝視する。

「あの時から、俺はずっと『動画を作らない』っていうのが償いだと思ってたんだよね。傷付けちゃった人がいるから、もうそういう人を出さないようにすればいいと思ってた。でも、そうじゃない償いの仕方もあるなって思って」

 そう、それは、君が気付かせてくれたこと。

「俺は動画を作るスキルが身に付いたから、これからは誰かが幸せになる映像を作ればいいんじゃないかなって。卒業祝いとか誕生日とか、そういうときに使えるようなものを頼まれて作れば、それで誰か喜んでくれれば、それもありなんじゃないかなって考えてる」

 傷付いた人が戻るわけじゃない。消すことはできない。でも、他の誰かを笑顔にできるなら、動いてみてもいいのかもしれない。

「良いと思うよ。私も幸せになったし!」
 いとも簡単に肯定して、ぎゅっと腕を絡める。

「ありがとな」
 俺が二十分悩んでいたことに、たった三秒で正解をくれる。いつだって君には適わない。

「ここでいいよ、出るとお金かかっちゃうし」
 改札前で、千鈴は俺の腕を離した。

「ん、いや、でもさ」
 少しでも長く話していたい、という俺の気持ちを見透かしたうえで、彼女は「ダメだよ!」と止めるようなポーズで右の掌をこっちに向けた。

「お金は大事! 冬休みもデートするだろうし、ちゃんと貯めておいてもらわないと」
「……確かに!」

 カウントダウンばかり考えてしまう俺に、千鈴はいつも、手の届く少し先の未来を見せてくれる。

 きっと否定するだろうけど、やっぱり君は強い人なんだと思えた。



 24 手術と終わり

 千鈴と同じクラスで授業を受け、一緒に帰る日々。それを数日繰り返し、気が付くと土曜日。明日の昼は彼女の手術だけど、この週末に会う予定はない。それは当たり前で、入院の準備だってあるし、親戚だって激励に来てるかもしれない。何より、両親と過ごす時間が必要だろう。

 両親にとってはどれだけしんどい週末なのだろう。少し前に千鈴のお母さんを見たとき、少しやつれているように見えたのを思い出す。親の気持ちは、子どもの俺にはまるで計り知れなくて、でも思い浮かべるだけで胸の奥のでこぼこした部分を釘で引っ掻くような気分になる。

 三ヶ月付き合っただけの俺は、この週末は我慢。何をしたって千鈴のことが浮かんでしまうので、勉強や読書はすっぱり諦めて外出した。喧騒に紛れ、音楽を聴きながら本屋のコミックを眺める。

 千鈴は今日の昼過ぎから入院と聞いていたので、そろそろ病室に入っているだろう。彼女のことを考えて泣き喚いて過ごすことになるのでは、と自分自身を心配していたものの、拍子抜けするほど穏やかに、週末が過ぎていく。

 それでも連絡を絶つのは寂しい。電話は難しいと聞いていたので、「返事、暇なときでいいぞ」と前置きして、いつもと変わらないチャットのやりとり。

『これが泊まる個室だよ! 結構広いでしょ』
『ホントだ、俺の部屋より広いな。笑』
『病院食も美味しそう。低カロリーだし、痩せるかも!』
『おっ、いいね。次会うの楽しみにしてるわ』

 まるでちょっとした検査で入院するかのような軽いトーンで文字とスタンプをやりとりする。普段通りの彼女が愛おしく、一方でどんなに不安か想像もつかなかった。

「ただいまー」
「お帰り。ご飯どのくらい食べる?」
「あー……そんなに要らないや」

 家に帰ってすぐ、母親に力なく返事をして部屋でベッドに横になる。気力も集中力もなくうだうだ過ごしてしまって、母親に何度も呼ばれてようやく起き上がり、クイズ番組を見ながら遅めの夕飯を食べた。

 どの家庭も同じように時間は流れているはずなのに、我が家は平穏に包まれていて、千鈴は病室にいる。「不公平」だの「くじ運」といった言葉が浮かんでは消え、肉野菜炒めにかけた焼き肉のタレもどんどん味がしなくなっていった。

 部屋に戻り、再びベッドに倒れ込む。また千鈴に連絡しようか。まだ二一時過ぎだし、起きてるはず。でもあまりたくさん送ると俺も不安がっているのがバレて余計な気を遣わせるだろうか。ロックを解除しようとしては止(や)め、スマホもその度に飽き飽きしたようにパスワード画面を映し出す。

 その時。


 ブブッ ブブッ

 バイブが着信を告げる。画面に表示されたのは「季南千鈴」の名前だった。

「はい」
「もしもし、有斗? 今だいじょぶ?」
「ああ、うん、大丈夫」

 気のせいか、随分久しぶりに声を聞いた気がする。以前話していた強い薬を最後に飲んでいるのだろう、とても喉の手術を明日に控えているとは思えない綺麗な声だった。

「そんな長くは話せないから一言だけなんだけど」
「ああ、ううん。かけてきてくれて嬉しいよ、ありがとな」

 優しい声が耳にすうっと入ってくる。ちょうどいい温度の温泉に浸かったかのように、胸の辺りがじんわりと温かくなる。

「ねえ、有斗」
「うん? あ、ちょ、ちょっと待って!」
「へ? いいけど」

 何かを言いかけた彼女を制す。もうすぐ電話も切ることになる。俺が聞ける、彼女の最後の声になるかもしれない。声を残さなきゃ。アプリで録ればいいかな。通話相手の声って録音できるのかな。いっそスピーカーにしてパソコンで録音……

 そこまで考えて、やめた。録音したら、いつでも聞けると思ったら、彼女の声を全力で聞けない、受け止められない気がして。もうたくさん形にしたから、最後は俺の中に残す。

「ごめん、大丈夫」
「なになに気になるなあ」

 頬を緩めたような明るいトーンで笑った後、彼女はもう一度「有斗」と俺の名前を呼んだ。

「大好きだよ。手術、頑張ってくるね!」
 耳に当てたスマホから、声が聞こえる。「季南千鈴」が聞こえる。

「……うん、俺も千鈴のこと大好きだ。手術頑張れよ、教室で待ってるぞ!」
 いっぱい泣いた二人だから、今は泣かない。エールしかできない自分なりの、精一杯のエール。

「じゃあ、またね」
「おう、またな」
 別れを告げて、電話を切る。

 無事に終わりますように。またクラスで会えますように。ずっと一緒にいられますように。

 おでこに当てたスマホに願いを込めて、落とさないようポケットに入れる。

「……よし!」

 声を聞いたからか、気力が復活してきて、俺は明日やる予定だった宿題に手を付け始めた。

 ***

「いってきまーす!」
 勢いよく玄関を飛び出し、急ぐ必要もないのに駅に向かって走る。

 十二月二四日、金曜日。終業式で午前中解散というゆったりなスケジュールのはずなのに、早く目が覚めてしまい、七時二十分には桜上水駅に着いてしまった。そわそわしながら通学路を早歩きし、先生の車と同じくらいの時間に校門をくぐって、シューズロッカーで上履きに履き替える。

 今日は、千鈴が登校する予定。いつ来るか分からないけど、会えると思うだけで何も手に付かなくなる。今日授業がなくて良かった。

 手術当日、無事に成功したということだけチャットで報告をもらっていたけど、そこからは検査や親戚のお見舞いで忙しかったらしく、ほとんど連絡を取っていない。

 久しぶりに会うのが嬉しくもあり、どんな風に変わっているのか不安でもあった。

 ガラッ

 ドアを開ける。カーテンを全開にした窓から、光の粒をまき散らして、朝日が射しこんでいる。

 右から2列目、前から3番目。昨日まで空いていたその席に、季南千鈴が座っていた。

「よお、早いな!」
 こっちを向いた彼女は、いつものようにむふーっと口角を上げて手を振る。

「久しぶり」
(久しぶりだね)

 口をパクパクさせる千鈴。

(有斗、寂しかった?)
「寂しかったっての」

 肘で頭を小突くと、彼女はキュッと目を瞑って思いっきり笑った。

 口の動きで、何を言ってるかちゃんと分かる。
 それに、声もちゃんと分かる。たくさん聞いた声だから、脳内でちゃんと聞こえる。

 いつか声の記憶が色褪せても大丈夫。俺達には、たくさんの動画があるから。
 大丈夫。これなら、やっていける。


「なあ、次は何撮る?」
 首を傾げる彼女に、俺はビデオカメラを構える仕草をして見せた。

「演劇ガール、続けたいなら一緒にやろうぜ。全部テロップでもいいし、簡単な言葉ならこれまでの音声合成してもいいぞ。千鈴ボーカロイド、俺が作るよ」

 そう言うと、彼女は少し驚いたように、そしてちょっとだけ困ったように笑ってから、大きく頷いた。

(いいね、やる!)

 これから大変なこともたくさんあるだろう。衝突もケンカもきっとある。
 お互いイヤになったり、君の言葉や態度に傷付くこともあったりするはずで。
 でも、どうせ傷付くなら、やっぱり相手は君がいい。
 大好きな、季南千鈴がいい。

「じゃあみんなが来るまでここで作戦会議するか。クリスマスの予定も決めなきゃだしな!」

 自分の机に鞄を置きに行こうとした俺の腕を、千鈴が引っ張った。
 そして、振り返った俺に向かって、大きくはっきりと、口を動かす。

「……俺もだよ」

 そう一言だけ返して、俺と彼女は、言葉も声も要らないキスをした。



大丈夫。これなら、やっていける。
一年は終わるけど、来年から千鈴との新しい日々が始まる。

そう思って、目の前で笑っている彼女と見ながら、寂しさと一緒に訪れた微かな、でも確かな喜びを噛みしめていた。噛みしめていた、のに。


 その終業式が、俺が彼女に会った最後の日で。


 彼女が亡くなったと聞いたのは、年明けの始業式だった。