1 放課後の呼び出し
「なあ直樹、ゲーセン行こうぜ!」
「月曜行ったばっかじゃん」
「俺は漫画の新刊見たいから本屋の方がいいな」
「ねえ、今リンク送ったMV、ヤバくない?」
「あ、これ見た! 分かる、イントロから泣けるよね」
三日前の日曜日、九月一九日に文化祭が終わって緊張感が緩んだせいか、帰りのショートホームルームが終わった後の教室はどこかフワフワした空気が漂っていた。
残暑も大分和らいでいて、下敷きをうちわ代わりにして扇いでいる人はいなくなったし、俺を含めた多くの生徒が「朝は意外と冷え込む」と衣替えを待たずにブレザーを着ている。
「有斗、文化祭の写真、今送ったぞ」
「おー、サンキュ」
チャットのグループトークに四枚の写真が送られてきた。「黒崎高校二年七組 大正浪漫喫茶」と大きく書かれた黒板の前に、俺を含む男子五人で、濃紺の袴に黒の羽織姿で立っている。
五月に体育祭、七月に修学旅行を終えているので、二年生もいよいよ受験生へと秒読みが始まりそう。今はそのちょうど谷間の時期。部活のないクラスメイトは、それぞれ自由な時間を謳歌していた。
俺もその中の一人。教室に残る必要はないけど、家に帰ってもやることはないので、なんとなく教室で過ごしている。
「なあ有斗、この動画見てみろよ」
「お、見るよ。リンク送って」
友達の水原がそう言って隣に来ながら、動画のリンクを送ってくれた。「【高学歴オンライン家庭教師】数列のシグマを徹底解説!」とタイトルの付けられたその動画は、最近始めたらしい女性YourTuberの投稿だった。モデルのように綺麗な女性が、白衣を着てホワイトボードをを使って解説している。高学歴は本当らしく、確かに説明も例題も分かりやすかった。
ただ、動画の作り方自体はまだ慣れてないらしい。雑談を切り貼りしてる部分は少し間延びしてるし、いきなりオープニングに入らない構成の方が視聴者の目を引き付けやすい。
「どう、結構分かりやすくない?」
「うん、普通に受験勉強で使えそうだな。あとこの人すっごく美人だけどタレント?」
「いや、普通の学生らしいよ。この調子で他の教科もやってほしいなあ」
「水原はこういう顔の女子好きだもんな」
動画のクオリティーの話は口に出さずに、バカ話に興じる。そのうち、他の友達も集まってきて、ワイワイと動画を見ながらの数列の復習が始まった。
こうして輪の中に入って騒いでいるのは楽しい。でも、こういうときには決まって、頭の中でもう一人の自分が顔を覗かせる。怒っているような、あるいはどこか嘲るような表情で、「君に幸せな学校生活を送る資格なんてないのに」と呟く。小さく、でもはっきりと聞こえる声で。
そして俺は、笑顔を抑えて帰り支度を始める。楽しい場所にいると決まってこうだ。こんなときは早く帰った方がいい。ベッドに寝転んで、一人で過ごそう。
「ねえ、北沢」
黒のリュックにペンケースを入れていると、頭上から不意に声をかけられる。座っている机の真正面に見える灰色のプリーツスカートからネイビーのブレザーへと目線を上げていくと、そこにはクラスメイトで中三でも同じクラスだった三橋咲乃が立っていた。
「三橋、何か用?」
「あのさ、チーちゃんが話があるんだって」
黒髪のセミロングを揺らして三橋が後ろを振り向くと、同じくクラスメイトの季南千鈴がひょいっと顔を出した。
「季南、どうしたの?」
これまで二人でまともに話したことなんて数回しかないであろう彼女は、次の言葉を探すよう「あー……」と小さく声を漏らした。直前まで友達とはしゃいでいたのか、学年色のエンジ色のネクタイが少し曲がっている。
やがて彼女は、周りを気にするようにチラチラと確認した後、俺の耳元に顔を寄せた。
「北沢君、ちょっとこの後、大丈夫?」
何の話なのか全く分からないけど、用事があるわけでもないから断る気にもならない。
「ん、別に大丈夫だけど」
「良かった、じゃあちょっと一緒に来てくれる?」
俺の答えに安堵したのか、彼女は柔らかく微笑んだ。
その笑顔に少し見蕩れつつ立ち上がり、俺は四月に一緒のクラスになってから初めて、彼女のことをまじまじと見る。
明るい茶色の髪は、首がギリギリ隠れないくらいのミディアムヘア。前髪は外にハネていて、隙間からちらっとおでこが見えている。目鼻立ちも整っているし、顔の輪郭もシャープで、クラスの男子が「可愛い」と言ってるのを何度も聞いたことがある。実際、笑いかけられた俺もドキッとしてしまった。
ハイテンションというわけではないものの快活な性格の季南は、クラスでも男女誰とでも仲良くやっている。彼女をいつも目で追っているから知っているというわけじゃない。演劇部で役者をやって鍛えているからか、彼女が話す声は教室でもよく聞こえるのだ。通るけど耳障りじゃない声を響かせて、友達と話したりはしゃいだりしているその姿は、さながら雪に喜んで吠えながら庭を駆け回る犬のようだった。
「なあ、季南、どこに行くんだ?」
「えっと、空いてる教室に行こうと思って」
二階の廊下を曲がり、屋外の渡り廊下で北校舎に向かいながら、俺の三歩前を歩く季南は頭の後ろで手を組んで返事をする。
と、突然、「そうそう」とこっちを振り返った。
「北沢有斗って語感いいよね!」
「そうか?」
「うん、アルトってのがいい。音楽のアルトから取ってるの?」
「ああ、うん、なんかそうらしい。父さんと母さん、合唱団かなんかで出会ったんだってさ」
中身のない雑談をしつつも、俺の頭の中では色々な想像が渦を巻いていた。
放課後、高校生の男女、空き教室。脳内で何回キーワードを検索しても、ヒットするのは「告白」だけ。でも、そんな期待は全くなくて、逆に何か文句でも言われるのでは、と不安を抱いてしまう。
なにしろ、彼女とはほとんど接点がない。元気で割と目立つ彼女は、この前の文化祭でも主要キャストの一人を演じていた、と見に行った友達が話していた。一方の俺は、そこそこ友達ともうまく付き合いながら、なるべく目立たないようにしている。文化祭のクラスの出し物では装飾チームで一緒になったけど、チームは十人もいたし、彼女と絡んだのも数回だけだ。
告白の訳がないし、他にどんな用事があるのか見当もつかなかった。
「あ、ここ空いてるみたい」
ずぶずぶと思考の深みに入っていた俺を現実に引き戻す、弾むような季南の声。三階の西端、「集会室」と書いてある部屋の引き戸をガラガラと開ける。長机や椅子の他に、パイプ椅子やホワイトボード、教卓が置いてあるその部屋は、集会室というよりほぼ備品置き場と化している。「鍵かければいいのにね。まあこんなの誰も盗まないだろうけど」と冗談っぽく口にしながら、彼女はパチンと電気を点けた。
「北沢君、 座る場所作るから手伝ってくれる?」
「あ、ああ」
彼女から指示されるがまま、天板同士を合わせるように反転して重ねられている長机をおろし、二台の長辺同士をくっつけて大きな机にする。続いて、折りたたんで重ねられていたパイプ椅子を取り出して手早くガシャガシャと開き、お互い向かい合わせに座った。
「あのさ……変な質問なんだけど、北沢君、今彼女いる?」
「え? あ、いや、いないけど」
突然彼女の有無を聞かれ、一瞬だけ「やっぱり告白なのかな」と思い、すぐにそれを打ち消す。そんな仲でもないし、万が一そうだったとして、自分なんかが受けていいはずがない。楽しい学校生活を送っていいはずがない。それでも彼女の言動一つ一つに心が右へ左へ揺らされ、なんだか落ち着かない。
そんな俺の動揺に気付いていない彼女は、喜色を湛えて両手をパンと合わせる。
「いないなら良かった。ちょっと相談しやすくなる」
ホッと安堵の表情を浮かべ、季南は胸を撫でおろす。そして、どんな相談が来るのか、なんて想像を巡らせる前に、季南千鈴は、続けて口を開いた。
「実は……私、YourTuberやってみたくて」
「……え?」
「友達から噂で聞いたんだけど、北沢君、前に何人かのグループでYourTuberやってて動画の撮影とか編集担当してたんでしょ? それで、少しだけ協力してもらえないかなって」
その質問に、さっきまで活発に体内を動いていた血液が瞬時に巡るのをやめたかのような感覚に陥る。一年前を、動画で同い年くらいの人たちをたくさん傷つけたことを思い出して、体が芯から冷たくなっていく。
「北沢君?」
思うように表情が作れず、呆然としている俺の顔を、季南が身を乗り出して下から覗き込んだ。
例えば、運命の歯車みたいなものがあるのだとしたら、俺と彼女の、大きさも歯形も全く違う歯車が、今ここに二つ並んでいる。噛み合うことのなさそうなそれは、コツンと音を立てながらぶつかった。
2 彼女のお願い
夏を過ぎて日が短くなったとはいえ、夕方前はまだまだ昼のように明るい集会室を、静寂が包む。離れた校庭から、俺のリアクションを急かすように運動部の甲高いホイッスルが小さく聞こえた。
「誰……から聞いたんだ、俺の動画の話」
「咲ちゃんだよ。部活の時にさ。中学三年のときに一緒だったんでしょ?」
「ああ、三橋も演劇部だったな。ごめん、自分からはその話言ってなかったから、ちょっと気になってさ」
「え、そうなの? ごめんね、他のみんなには言わないでおくから」
両手の平をパチンと合わせて頭を下げる。俺が口外してほしくないことを察してこんな風に気遣ってもらえるのは、内心とてもありがたかった。
「協力の件、どうかな? もちろん、動画の企画はちゃんと自分で考えるし、撮影や編集も少しずつ覚えていくからさ」
二人でほとんど話したこともないクラスメイトから動画の手伝いをお願いされる。藪から棒、とは正にこのことだった。
「それで彼女のこと訊いたのか」
「そうそう。もしいたら放課後一緒に作業するの、相手も嫌がるかもしれないと思って。私も相手いないからちょうどいいし」
なるほど、そこまで気を回したうえで、頼もうと考えてくれたのだろう。
でも。
「なんでYourTuberなんてやりたいの? お小遣い稼ぎ?」
敢えて放った意地の悪い質問に、「んん」と彼女は右手でおでこを押さえる。茶色の前髪が、返事に悩んでいるようにフッフッと左右に揺れた。
「そういうのじゃないの。ちょっと、どうしてもっていうか……」
その答えに、俺は彼女に聞こえないように溜息をついた。
色んな企画を動画にして、配信サイトであるYourTubeに投稿する、通称YourTuber。趣味でやっている人も多いけど、かなりの人気が出ると再生数に応じてお金が入るようになるので、子ども達にとっては「楽しそうな仕事!」と人気の職業になっている。お小遣い稼ぎや一攫千金を夢見て多くの人が参加しているので、普通の動画では抜きんでた人気を取ることは難しい。過激な企画も増えてきたし、「ダンス系」「大食い系」さらには「DIY系」「溶接系」など特定の分野で勝負するYourTuberも次々に出てきていた。
そんなYourTuberにどうしてもなりたい、というのはどんな理由なんだろう。クラスの女子と話しているときに話題に挙がったのだろうか。「千鈴やってみたら? 人気出るって!」などと焚きつけられて、やる気になったのだろうか。はたまた、SNSのフォロワーを増やすための作戦の一つだろうか。
いずれにせよ、そんなところだろう。手伝う気にはなれない。
「ごめん、せっかくだけどちょっと難しいかな。他の人を当たってくれない?」
「ああ、うん、そっか……」
季南は、持ち上げていた右手をどうしていいか分からなくなったのか、耳に当てて柔らかく撫でるようにゆっくり掻く。「他の人、探すの難しそうだな」と言いながら、困ったように眉を下げて無理のある笑顔を作った。
「どうしてもダメかな? 始めの頃だけでもいいの。すぐにやり方覚えて、全部自分で作れるようにするから」
「そんなに簡単なものじゃないけどね」
関わるのは嫌だ、というつもりで断っているのに、動画制作の作業を軽く見られるとつい食ってかかってしまう。自分の中でとっくにひしゃげている、それでも折れることのないプライドのようなものが、少し恨めしく思えた。
「……悪い、動画編集は当分やらないって決めてたから」
「ん……分かった、ありがと」
唇を内側に巻き込み、小さく頷いて頭を下げる彼女。少し残念そうだけど、ここまで言い切ったら諦めてもらえるだろう。
「ごめんな、帰ろうぜ」
先に一人でパイプ椅子を畳んで元の場所に戻し、リュックを背負う。そして長机も片付けようとした、その時だった。
ガシッ
右腕を強く掴まれる。
驚いて振り向くと、視線はすぐに季南の顔を捉えた。
口をキュッと結び、何度も瞬きをして、今にも泣きだしそう。まるで、一人ぼっちで誰かに助けてもらえるのを待っている河原の子犬のような、そんな表情だった。
「……お願い、北沢君」
消え入りそうな声で、彼女は三度目のお願いを口にした。
一体どんな事情があって、こんなに懇願してくるのだろうか。ここまで動画を投稿したい理由は何なんだろう。「人気者になりたい」「お金を稼ぎたい」という単純なものではなさそうだ。自分の中で一瞬芽生えた好奇心を必死に抑える。他のことなら全部ちゃんと相談に乗るのに、なんでよりによって動画なのか。
「いつかちゃんと説明するけど、急がないといけないの。だから、お願いします」
深々と頭を下げる季南を見て、心がざわりと揺れる。「このまま彼女を見捨ててしまって良いのか」という迷いが胸をよぎる。
「どんな動画を作りたいの?」
俺の声に飛びつくように、彼女は勢いよく顔をあげた。
「まだ決めてないけど、別に人に迷惑かけるような動画にはしないよ」
「そっか」
彼女がやりたい理由は全く分からないけど、数回手伝うくらいなら罰は当たらないだろうか、と自分に言い聞かせる。そのくらい、彼女の目には真剣さが宿っていた。
「……まあ、三、四回だけなら」
その返事に、彼女は目を見開く。喜びがありありと浮かびながらも、瞳は涙で潤んでいた。
「ホントに! ホントにやってくれるの?」
「ああ。でも俺が関わってることはナイショにしてほしい」
「うん。わかった! 北沢君、本当にありがとう!」
さっきまでガシッと握られていた腕を優しく掴み直され、ブンブンと振られる。同じ階の東側から聞こえる、祝福するかのようなトランペットのアンサンブル。
九月二二日、水曜日。こうして俺は、クラスメイトの季南千鈴の動画制作手伝うことになった。
3 作戦会議
翌日、二三日の木曜、昼休み。昨日より暖かく、お昼時の今はブレザーだと暑いくらいだった。光を貼り付けるように窓ガラスを照らす陽光が、廊下に白色のプリズムを作る。
弁当を食べ終えても微妙にお腹が足りず、購買部にパンを買いに向かっている廊下で、ブレザーのポケットのスマホが振動した。
それは、クラス替えの四月以降、全く音沙汰のなかった季南からのチャット。直前のやりとりは四月九日、向こうの『よろしくね~』に対して、俺が返した、『よろしく!』というメッセージとお辞儀しているパンダのスタンプで止まっている。
『放課後、昨日の集会室で作戦会議しよう!』
たったそれだけの文章だけど、少しドキッとしてしまい、心臓が早鐘を打つ。
『よろしく!』
約半年前と同じ返事、だけど今回は形式的な社交辞令じゃないのが、何だか嬉しい。
「ねえ、北沢」
「三橋、どした」
後ろから声をかけられる。季南に俺を紹介した張本人、三橋咲乃から背中を叩かれた。
「季南から聞いたよ。相談乗ってくれたんだって、ありがと」
「いや、困ってるみたいだったからな」
俺の顔を見て何か思い出したのか、三橋は「あっ」と小さく叫び、周りに聞いている人がいないか確認した。
「YourTuberやってたこと、ナイショにしてたんだね、ごめん」
「それは俺も口止めしてたわけじゃないし大丈夫だよ、悪かった」
三橋はホッとした表情を見せる。後ろで縛った黒髪が、体の動きに合わせて尻尾のように揺れた。
「なんか、おじいちゃんおばあちゃんに送るための動画を何本か作りたいって言ってたからさ。北沢のこと思い出して紹介したんだ」
「おじ……ああ、そうそう。どんな動画にするかこれから考えるんだ」
なるほど、恥ずかしかったのか、YourTuberのことは秘密にしているらしい。季南の意図を組んで秘密にしておいた。どうやら、本当のことを知っているのは俺だけらしい。
購買部では総菜パンを買うつもりだったのに、見た目の誘惑に負けて、上にもチョコがかかったチョココロネを買ってしまった。潰れないように抱えて戻る途中、通りすがりの男子に声をかけられる。
「よっ、アルト」
「おお、慶か。元気?」
俺とほぼ変わらないくらい、一七五センチくらいの背丈で、やや短めの黒髪をワックスで遊ばせている。上半分だけリムがある、シルバーカラーのメガネの奥で、眉をクッと上げているのが分かった。
「おう、もちろん。アルトは?」
「まあいつも通りだよ」
それなら良かった、と幼馴染の吉住慶は真っ白な歯をにいっと見せた。
「文化祭も終わったし、あとは受験まっしぐらだな」
「だな。土日に模試がたくさん入るかと思うとイヤになるぜ」
校舎二階、西側にある、北校舎と南校舎を結ぶ屋外の渡り廊下で、隣の慶が大げさに溜息をつく。下の中庭にあるベンチでは、女子が座って写真を撮り合いながら談笑していた。
「まあ慶は頭良いから焦って受験勉強始めないでも大丈夫だろうけど」
「いやいや、そんなことないって。理系合ってないんじゃないかって気がしてきたよ」
そう言って、理系の上位五人から落ちたことのない慶は謙遜する。二年の文理選択で別れてしまったのでもう同じクラスになることはないけど、話し方や笑い方は中学、いや、小学校五年の頃から変わっていない。
「……動画、また作るんだ」
俺の言葉に、彼は目を丸くする。俺の動画に纏(まつ)わる件をちゃんと知っている唯一の親友だけに、少なからず驚いたらしい。
やがて、不安を混ぜた声音で「そっか」と一言だけ返す。
「アルトが一人で作るのか?」
「いや、クラスの女子に頼まれた。季南千鈴って子なんだけど三橋経由で相談が来てさ」
「ああ、三橋がアルトの動画のこと覚えてて紹介したってことか」
察しの良い慶は、大まかな経緯を把握したらしい。
「お前が手貸すなんて意外だな」
「……真剣に頼まれたから、な」
正直、自分自身でもなぜ引き受けようと思ったのかよく分からない。でも、彼女の本気が伝わってきて、力になりたいと思ったのは間違いなかった。
「さて、そろそろ教室戻るよ。アルト、なんかあったらいつでも相談乗るからな」
「ああ、ありがとな」
廊下で手を振って別れ、俺はシャーペンの芯を買いに早足で購買部に向かった。
「まだ……来てないか」
放課後、季南とは別々のタイミングで教室を出る。下手に知り合いに会って「どこ行くの」と余計な詮索をされないよう、注意しながら北校舎に向かった。
こっそりと昨日の集会室に入ったものの、彼女はまだいない。こんな無人の部屋におよそ必要ないだろうと思える緑のカーテンとレースのカーテンを捲り、少しだけ窓を開けると、ちょうど良い温度の風が部屋に吹き込んだ。
「ふう」
パイプ椅子を開いて座り、深呼吸を一つ。この無人の部屋で二人きりになることに改めて緊張してしまう。季南と何か特別な関係になったわけでもないけど、「クラスメイトの女子と秘密を抱えている」ということに不思議な高揚感を覚えた。
でもそんなことを考えていると、いつも通り、頭の中にもう一人の自分が現れる。そして「他の人を傷つけた君が、幸せになっていいと思う?」と話しかけてきて、膨らんだ高揚感が破裂し、冷静になった心が萎んでいく。
そして、思い出したくないのに、二年前からの薄暗い過去に、記憶が遡っていく。
「う……ぐう……」
思い返して、胃が逆流するような気分になる。ひどいことをしたと、どうにかして罪を償わなくてはと、後悔を反芻して胸を押さえる。
そしてここで気付く。自覚がなかったものの、俺が季南のお願いを受けたのは、きっと罪滅ぼしのためなのだ。動画の罪だからこそ動画で償う、悪くない考えだ。俺はただ、彼女と友達っぽく接しながら、俺自身のために動画を作ればいい。
そんなことを考えながら机をおろして準備していると、後ろのドアがゆっくりと開き、季南がそっと顔を覗かせた。
「失礼しまーす……わっ、ごめんね、待たせた?」
「いや、俺も今来たところだよ」
友達と会って話しこんじゃってさ、という彼女の話を聞きながら、昨日と同じように広げたパイプ椅子に座るよう、顎で軽く促す。
備品だらけの空き教室。ホワイトボードや教卓に囲まれたこの狭いジャングルは今日から、二人の作戦部屋になった。生徒も先生も、この場所に来ることはほとんどないだろうし、万が一バレても「ちょっと内緒話してました」と言えば怒られるくらいで済むだろう。
「北沢君、今日からよろしくね」
「ああ、うん。よろしく」
明るい茶髪の前髪を右手に払いながら、季南は照れるように微笑んだ。こうして真正面から見るとやっぱり可愛い顔立ちだな、と少し見蕩れてしまう。
「おじいちゃんおばあちゃんに動画送るんだって?」
ややイタズラっぽく言ってみると、彼女は頬を掻きながら苦笑する。
「……咲ちゃんにはYourTuber始めるって言えなくてさ。だから演技してみたの。でも咲ちゃん、信じてくれたんだ、良かった。私の名演技のおかげでうまく騙せたわ」
自分で名演技、と言ってピースする姿に、思わず笑ってしまう。
「三橋も季南も、高校から役者始めたの?」
「ううん、私は中学からずっと演劇部だよ。咲ちゃんは高校からだけど、役者じゃなくて音声担当なんだ。舞台に合わせる音楽を選んで、本番で流す仕事ね」
なるほど、演劇も色々担当が分かれてるんだな。
「で、作戦会議って何するんだ? 季南が考えた企画案の中で、どれが簡単に撮れそうか考えてく?」
早速本題に入った俺に、彼女は「いやあ……」とわかりやすく目を逸らす。
「企画案って言っても、ねえ……」
「……ひょっとして季南、何も考えてないとか――」
「だってー!」
俺の推理を遮って、彼女は駄々をこねる小学生のように喚き始めた。
「企画って難しいじゃん! 全然浮かばないよ! いや、一応浮かぶことは浮かぶんだけど、『あれ、これってこの前見た動画と完全に一緒だ』ってなっちゃってさ」
「別に始めは一緒でもいいんじゃないか? あとからオリジナルの企画練ってやっていけば」
「ううん、それはそうなんだけどさ。折角だから『これは私だから作れた動画だ!』って自信持って言いたいっていうか……」
そう独り言のように呟きながら、彼女は餌を頬袋に詰めるハムスターのように小さく膨れた。
「でも、ちょっと参考にしようと思って人気のチャンネル検索したら、気付いたら五本くらい続けて見てるんだよね」
「そーれーは季南が悪い」
茶化しながら責めると、彼女はさらにもうひと膨れした後、プシュッと吹き出して笑った。
「北沢君に『企画は自分で考える』って言った手前、何か出そうとは思ってたんだけど……」
落ち込んだ表情を浮かべた後、チラリとこっちを見る。それは荷物を運ぶときに「こんなに重いもの持てないなあ」と女子が甘えてくるのに似ていた。
「はいはい、一緒に考えるぞ」
「やった! ありがと!」
ハイビスカスのように明るい笑顔をぱあっと咲かせる。屈託のない表情は、見ているこっちまで沈んでいた気分が上向く。彼女がクラスの色んな女子と仲良くやれている理由が分かる気がした。
「とりあえず、アイディア広げていくか。季南の好きな動画はどういうのだ?」
「んっとね、ジャンボパフェ食べたり、グミ百個買ってお皿に開けてみたりするのが楽しそうで好きかな」
「分かりやすいし、やってる画もインパクトあるもんな」
動画一覧のサムネイルだけで面白さが伝わるのは確かに強みだ。
「でもお金や時間がかかりすぎるから、高校生には向かないよ」
「そっか、そんなにお金ないからなあ」
季南は両手をひらひらさせる。「グミ百個でも一万くらいするもんな」と言うと、彼女は驚きと拒否の混じった「ひょえ」という不思議な叫び声をあげた。
「まあバズらせたいならそういうのやった方がいいけどな。SNSでも紹介されやすいし」
「だよね。でも再生数はそんなに気にしないからいいの」
「あれ、そうなのか」
だとすると、やっぱり分からなくなる。彼女は何のためにYourTuberを始めるのだろう。人気になるための手段じゃないのか。
「ううん、だとしたら、どんな企画がいいのかなあ?」
季南は長机にグッと身を乗り出して、俺に訊いてくる。
「そうだなあ……特に方向決まってないなら、始めはやっぱり自分の好きなことがいいよ。オススメの本紹介したり、好きなお菓子を食べて感想言ってみたり」
「好きなことかあ。何だろう、ファッション、は普通……音楽も別になあ……漫画も人並みだし、海外ドラマ……」
趣味を指折り数えていくのを聞きながら北向きの窓から外を眺めると、ぽつんとはぐれた雲が「のんびり考えるといいよ」と言うようにゆっくりと泳いでいる。
不意に、彼女は両手で自分の頭を押さえ、「うわー!」と嘆くように叫んだ。
「私って無個性だ!」
「…………ぶふっ」
「あ、笑った!」
堪えきれずに笑いながら机に戻った俺に、彼女はファウルの笛を吹くようなジェスチャーを見せた後、「ピピーッ!」と声に出して警告する。
「何、私の悩み、そんなにおかしい?」
少しいじけたような表情の季南が、上目遣いにこちらを見てくる。
彼女に興味を持たないつもりでいるのに、その仕草に心臓がドキリと反応してしまう。
「いやいや、学生のYourTuberってみんなその悩みに行き着くんだよ。季南もその通りになったからおかしくってさ」
「そうなの?」
「じゃあさ、文系の四クラス思い浮かべてみてよ。すっごく特殊なテーマで動画撮れそうな人、パッと思いつく?」
「んん……青木君が水泳でインターハイ行ってるから、泳ぎ方の動画とか撮れそうかな。あとは……ううん……」
彼女は腕を組んで、日本史の問題の答えを思い出すかのように考え込んだ。そう、俺も青木くらいしか浮かばない。
「な? 百人以上いたって一人とか二人なんだよ。でも、九九パーセントはみんな無個性ってわけじゃないだろ? 普通の人が多いってことだよ」
「……そっか……普通の女子……」
励ましたつもりはなかったけど、なんだか安堵しているようだ。思ったより落ち込んでいたのかもしれない。
「だから別に、『ちょっと好き』くらいでいいんだよ」
「ちょっと好き?」
「別に爆笑できるような動画ばっかり見たいわけじゃないだろ。もしさ、自分が好きな映画を同い年くらいの女子高生が紹介してたら気にならない? この子はどんな感想なんだろうって」
「あ、確かにちょっと気になるかも」
狙った通りの反応をくれた季南に、俺は思わず笑みを零す。
「それで良いんだよ。趣味が合うようなら他の動画も見てみようってなるからさ。まずはそうやって始めればいいよ」
「そっかそっか。すごいね、北沢君」
「すごい?」
唐突に褒め言葉を投げかけてきたので、意味を尋ねるように聞き返すと、胸元でピッと俺を指差す。
「なんか、YourTubeの先生みたい」
「そんな大したもんじゃないって。一時期ちょっとやってただけだよ」
「それでもすごいんだって!」
彼女は机を四本指でタンタンと叩く。賛同するように、茶色の髪の毛もふわりと縦に揺れた。
「短い期間だって、真剣にやらなきゃ今みたいに話せないと思う。北沢君が頑張ったときの知識で、今私が助かってるからさ」
「……なら良かったけどさ」
「うん、良かった」
にへへと頬を緩める季南。俺にとってはちっとも良い思い出じゃなくても、彼女にとって救いの手になっているかと思うと、不思議とそこまで悪い気はしなかった。
「さて、何にするかな。私の好きなもの……好きなもの……」
そして季南はまた考え始め、俺は邪魔しないように再び窓際に行く。昼と呼ぶには明るさが薄らいでいて、文化祭の準備をしていた一、二週間前と比べて、更に日が短くなっているのを感じた。
数分経ったころ、季南が「うん」と自分自身を納得させるように頷く。
「じゃあやっぱり、演劇がいいかな。ずっとやってきたことだし。演技したり朗読してみたり、好きな舞台の話してみたり。地味だしマイナーかなと思って案には入れなかったんだけど。北沢君、変かな?」
「いや、そんなことないよ。むしろ、マイナーな方が固定ファンがつくんじゃないかな。お菓子や漫画のこと話してる動画はたくさんあるけど、演劇って少ないだろうから、演劇好きな中高生が来てくれると思う」
「じゃあタイトルは『演劇ガール』で!」
「お、キャッチ―でいいな」
「他に北沢君、動画のアイディアある?」
俺は腕を組んで悩んだ末、昨日水原に見せてもらった「オンライン家庭教師」の動画を思い出した。
「もし勉強好きなら教科の解説動画とかもいいと思うぜ」
「そんなに好きじゃありませーん」
即却下と言わんばかりに、目をキュッと瞑って人差し指で小さくバッテンを作った。「テストも文系五十位くらいだしさあ……」と言った後、イタズラっぽい笑みを浮かべて俺に訊き返す。
「北沢君、どのくらいだったっけ?」
「俺は大体三、四十位だな」
「うわっ、負けた!」
バタリと机に突っ伏す季南。そのリアクションがいちいち可笑しくて、「勝った」と胸を張って見せる。
「よし、テーマ決定だね。北沢君、ありがと!」
小さく拍手する季南が、「あとは何を決めれば……」と言いたげな表情で視線を俺に向ける。
「次はもう撮影に入るから、季南は一番始めに放送する内容を考えておいて。こっちはカメラとかの準備進めておく」
「うん、分かった。あれ、そういえば動画ってどこで撮るの? この部屋……はまずいよね? 誰か来たら困るし、放送音とか入ったら学校名バレる可能性あるし」
矢庭に狼狽える彼女に、思わず中学時代の自分を重ねる。俺達も同じことで、あんな風に悩んだな。
「レンタルスペースってのがあってさ」
あの当時も検索で見つけてはしゃいだのを思い出しながら口を開いた。
「一時間千円、安いところだと六百円くらいで空いてる部屋を借りられて、撮影にも使えるんだよ。ネット予約して電子マネーで払えたりするから」
「へえ、そんなところがあるんだ。さすが経験者だね! 北沢君も昔使ってたの?」
「うん。まあ当時は中学生だったから、カラオケで済ませたりもしてたけどね」
来週の放課後を条件にレンタルスペースを予約することだけ決めて、今日のところは一旦お開きとなった。
季南は図書室に用があるらしく、先に学校を出て一人で最寄の桜上水駅に向かう。一軒家が建ち並ぶ細い通路を抜け、上水の暗渠に沿って広がる公園を横切ると、少しずつ賑やかな駅前が近づいてきた。
今日一日で結構季南と仲良くなった気がする。お互いの相性が良いのだろうか、波長が合うのだろうか。
そんなことを考えた自分自身を、首を激しく振って否定する。自分が特別なわけじゃない。動画が得意だから頼まれただけだし、誰とでもああやって距離を詰められるのが彼女の良いところなのだ。勘違いしそうになり、頭のてっぺんを中指でカリカリと掻いて気を紛らわせた後、駅の階段を一段飛ばしで上がった。
4 レンタルスペースにて
週の明けた九月二七日、月曜日の放課後。俺は撮影のために桜上水駅から電車で二十分弱の渋谷駅に来ていた。桜上水にもレンタルスペースはあったものの、他の生徒に見られるのは避けたかったので、オープン割引を行っていた渋谷の新しいスペースを予約した。都心に近い学校というのは、こういうときに便利だ。
「梨味なんて出てるのか。美味しそうだな」
季南が来るのを待ちながら、コンビニのジュースの棚で新商品の炭酸を眺め、小声で独り言を漏らす。
久しぶりの撮影はやっぱり少し緊張してしまい、こうして季南を待っている間も、唾を飲む音が何度も大きくゴクリと聞こえた。
不意にブーッとスマホが震える。さっき『これから撮影行ってくる』とチャットを送った吉住慶から返信が来ていた。
『そっか。オフショットだから、とか言って隠し撮りするなよ』
『お前は俺をどんなヤツだと思ってるんだ』
すかさずツッコミを入れると、向こうも打ってる途中だったのか間髪入れずに返信が届く。
『無理しないで、リラックスしろよ』
ジョーク混じりな気遣い。さすが、十歳からの付き合いだけある親友だ。
『おう、ありがとな』
返事を送ってスマホをズボンのポケットに入れ、ふと窓の外を見ると、手を振るブレザー姿の女子が目に飛び込んでくる。今日からYourTuberとしてデビューする、季南千鈴だった。
「お待たせ! 別に現地集合じゃなくても良かったのに」
「変に噂立っても困るだろ。二人で都心の方に行ったとか」
「へえ、北沢君、真面目だなあ」
からかい半分、本音半分くらいのトーンで彼女は目を丸くする。こっちは本音を言うわけには行かない。初めて行く場所だったから、迷わずに案内できるよう先に来て方向を確認しておいたなんて。
「じゃあ行くか。十分ちょっと歩くよ」
「分かった、ついていくね!」
繁華街で知られる渋谷も、ハチ公前からバスケットボール通りに向かうのではなく、東側に向かっていくとガラリと景色が変わる。大学生らしき姿はよく見るものの、銀行などのオフィスが並ぶビジネス街になり、歩道の両側に植えられたケヤキを眺めながら歩いていく。晩秋の十一月になるとケヤキにはイルミネーションが灯り、黄色い明かりが人で溢れるクリスマスを華やかに照らすのをふと思い出した。
「んっと……あった、ここだよ」
「おお、ホントだ」
大通りを外れ、サラリーマンが帰りに寄れそうな居酒屋と休憩時間に寄れそうなカフェの間を通ってしばらく歩くと、「レンタルスペース始めました」と看板の出されている建物が現れた。
「なんか……普通のマンションみたいだね」
「多分マンションとしても使ってるんだよ。住む人がいなくて空いてる部屋があったから、まとめてレンタルスペースにしたんだろうな。マンションなら防音もちゃんとしてるだろうし」
彼女を見てそう説明しながら、入口横のガラスに貼ってあるポスターを指差す。そこには大きな字で「防音」「商談や面接にも」と書かれていた。
「予約の時間だし、入ろうか」
「うん、行こう行こう」
エントランスの自動ドアが開くと、十メートル先にオートロックの玄関ドアが出迎える。その手前の左側に、「レンタル受付」と案内の出された窓口があり、中年のおじさんが座っていた。マンションの管理人さんが受付もやっているのだろう。
「ネットで予約した北沢ですけど」
「はーい、えっと……一時間半ですね。千二百円になります」
ICカードで払い、これから行く部屋の鍵を貰う。おじさんにオートロックを開けてもらって、エレベーターに乗り込んだ。知らないマンションのエレベーターにクラスの女子と一緒に乗るのは思った以上に緊張してしまい、黙って階数のボタンにジッと視線を合わせていた。
「あ、北沢君、着いたよ」
随分長く感じられた上昇が終わって、三階に着いた。真正面に見えた部屋に向かい、ウキウキしている季南に急かされるようにドアを開けた。
「おじゃましまーす」
「わっ、すごいすごい!」
テンション高く、季南はいそいそと靴を脱ぐ。
表向きは完全にマンションであるその部屋の中は、完全にただの会議室となっていた。白壁のワンルームには茶色の長机と椅子が四つ、そしてベランダからの陽光を塞ぐカーテンとエアコンがあるだけ。お風呂の湯舟やキッチンのコンロは撤去されていて、リビングとトイレだけの部屋になっている。
「それじゃ、机動かして準備していくぞ」
「うん!」
季南と一緒に、机と椅子三つを端にどける。残った椅子を壁に近い場所に配置し、彼女が座る場所を決めた。
「じゃあカメラを、と……」
ぼこっと膨らんだ黒のリュックから、カメラともう1つの布の袋を取り出すと、季南は体を屈めて興味深そうにそれを覗いた。
「ビデオカメラだ。スマホで撮るんじゃないのね」
「アウトレットで安かったから、買っちゃったんだよね。スマホと違ってカードに保存できるから、保管が楽なんだよね。それにさ、こっちの方が『動画撮ってる感』あるだろ?」
「分かる!」
歯を見せた口に手を当てて、季南はキシシと声をあげて笑う。形の整った眉、優しそうな目、綺麗なピンク色の唇。穏やかだけどよく通る声に、コロコロ変わる豊かな表情で、ついつい視線を奪われてしまう。
「北沢君、そっちの袋に入ってるのは何?」
「ああ、これだよ。リュックに入れるの大変だったぜ」
紐でキュッと結ばれた口を開き、三脚を出す。普通の状態では四十センチくらいだけど、ロックを外して足をグイグイ伸ばしていくと、一メートルを超える長さになった。
「わあ、なんか本物の撮影みたいだね!」
「本物の撮影だっての」
他愛もないやりとりをしながら、三脚にカメラをセッティングする。彼女がワクワクする気持ちもよく分かった。俺も撮り始めた頃は、この準備作業に毎回興奮していたから。あの時は、ただそれだけで、毎日が楽しかった。
「季南、ちょっとそこに座って。カメラを置く場所決めるから」
「分かった。こ、こうでいいかな」
壁の前に置いた椅子に座った季南は、カメラを向けられ、まだ撮影も始まってないけどやや緊張した面持ちになっている。
「なんだよ、演劇でもカメラに撮って演技チェックしたりするだろ?」
「こんな風に私一人に向けられることなんかないって! だからいざとなると恥ずかしい……」
「そっか。まあリラックスしながら撮っていこうぜ」
俺はファインダーを覗きながらカメラの高さや角度を合わせ、そんな彼女の表情を画面越しに捉えた。
不意に彼女は、後ろの壁をチラチラと振り返る。
「どうした?」
「んっと、大したことじゃないんだけど……なんかちょっと、ここで撮影すると殺風景かなって」
「……ふふん」
「あ、何その表情! 『そう言うのは分かってたぜ』みたいな感じ!」
「ふっふっふ、そう言うのは分かってたぜ」
軽くおどけながら、リュックに入れてきた筒状の商品をグッグッと引き出し、包装を外して曲がっているのと逆方向に開く。それは百均で買った、貼り合わせて使えるピンクの花柄の小さな壁紙だった。
「六枚買ってきた。これ組み合わせて貼れば、カメラに映るところだけは華やかになるぞ」
「さすが北沢君! YourTuberの師匠!」
「褒めすぎだっての。ほら、ここから貼るの手伝って」
持ってきたセロテープで、壁紙を一緒に貼っていった。文化祭のときも、装飾チームで何回か彼女とこうして一緒に作業したのを思い出す。あのときは、こんな関係になるとは思いもしなかった。
手早く貼り終え、無機質な白壁の一部がすっかり染まった後、もう一度季南に椅子に座ってもらう。カメラをチェックし直すと、画角に入る部分は全てパステルカラーのピンクになっていた。
「よし、カメラはオッケーだ。季南はしゃべることは整理できてる?」
「うん、大丈夫」
やや自慢げに、彼女は罫線の入った青色のノートをバッと開いて俺に見せる。そこには全体が斜め上に傾いている特徴的な字で、今日話す予定の内容がびっしりと書かれていた。
「すっごく準備してるな。そうしたら、今のうちにカットに分けておくか?」
「カット?」
「喋るシーンを細かいパーツに分けて、それごとに撮るんだ。一回で全部喋ろうとすると、トチったときに最初から全部撮り直しになっちゃうし、うまく切り貼りすれば動画のテンポも良くなるからな」
「そっか……分けるのか……」
そう言ったきり、彼女はノートに視線を落とし、悩み事があるかのように黙ってしまう。何を考え込んでいるのか気になって声をかけようとした途端、フッと顔を上げて俺の方を見た。
「あの、さ……これ、なるべく繋げて話したいんだけど」
「え、分けないってこと? NG出たら大変だけど……」
「それでいいの。よっぽどの失敗じゃなかったらそのまま使っていいし、間延びしてもいいから、そのままの私を撮りたいんだ。いいかな?」
「ああ、別に構わないよ」
コクコクと首を縦に振った。撮影する側からしたら、カメラを回し続けるだけで済むし、むしろ作業が楽になる。ただ、彼女がどんな動画を目指しているのかは全く分からなかった。どうせ投稿するなら完成度が高い方がいいし、ハイテンポな方が視聴者のウケも良い。喋っているのをそのまま使いたいなんて、まるで遠く離れた親戚に送るムービーレターのようだ。三橋に話していたのも強ちウソではなくて、おじいちゃんおばあちゃんにYourTubeのリンクを送って今の自分を見てもらうつもりなのだろうか。
まあでも、それならそれで、いずれ季南が一人で編集することになっても余計な作業がなくて楽だ。ひょっとしたら、彼女もそれを狙っているのかもしれない。
「じゃあ基本的にはカット分けとかしないで、長い尺で撮っていこう」
「ありがとね、ワガママ聞いてくれて。撮影、ちょっとだけ待ってて」
お礼を言って席を立った彼女は、部屋の隅に行って食い入るようにノートを見る。何か聞こえると思ったら、ぶつぶつと呟いていた。
「練習?」
「もう、聞かないでよ! 恥ずかしいなあ」
顔を赤くして、俺を追い払うようにノートをバサバサ動かす。もっと気楽にやるタイプかと思ったけど意外と真面目だなあ、と彼女を見つつ、俺はビデオの設定画面を操作してSDカードの容量を確認した。
5 残したくなって
七、八分の練習を終えると、季南は「よし」とノートをパタンと閉じ、ネイビーのボストンバッグから洋服ブランドのロゴの入ったビニール袋を取り出す。
「着替えちゃうね」
「ああ、やっぱりブレザーのまま撮るわけじゃないんだな」
「当たり前じゃん! 学校バレたら怖いし」
袋から私服のシャツやスカートをガサガサと出した後、彼女は困ったように眉を下げて、ジーッとこちらを見てくる。
「どした?」
「……出てってよう」
「あ、悪い!」
以前は男だけで撮っていたからみんなその場で着替えてたけど、女子だとそうもいかない。キッチンに行って、ワンルームとの境目のドアを閉める。
スマホを眺めていたものの、服が床に置かれるパサッという音が聞こえるたびにドキリとしてしまう。ドア一枚隔てた向こうでクラスメイトが着替えているかと思うと変な緊張が押し寄せてきて、慌てて更に奥のお風呂場へと逃げ込んだ。
「おーい、準備できたよ」
声を合図に、「おう」と平静を装って部屋に戻る。季南は体を何回か捻るようにして、俺に服の前後をお披露目する。
「どう、こんな感じで」
大きな花の絵をあしらったベージュのロングTシャツに、ベルトのついた黒のスカート。スカートは縁がチュールになっていて、暗い色なのにふんわりした印象に見える。
「変じゃないかな?」
「ああ、うん、良い、と思う」
「何よ、歯切れ悪いなあ」
「いや、悪い悪い。ホント、ホントに似合ってる」
俺だってクールにさらっと伝えるつもりだった。私服を見ただけで、こんな風に体が熱を持って動揺するなんて、思ってなかったから。
「じゃあ撮り始めるぞ」
「ちょっとちょっと!」
三脚に手を掛けた俺を、彼女は慌てて両手で制する。
「化粧直すからちょっと待ってて」
「あ、そっか、それも必要なのか」
前は男だけで撮ってたから、やっぱり勝手が違う。
「……別に今のままでもいいと思うけどな」
「わっ、ありがと。でもずっと残るものだしね。女子は大変なんだよー」
ポーチからコスメを取り出し、パフやブラシを使って整えていく。薄くルージュをひいた彼女の唇はいつもより艶っぽく見える。
やがて、鏡を見ていた彼女はクッと口角を上げ、「よし、オッケー!」と立ち上がる。そして、途中の水分補給用なのか、ミネラルウォーターを取り出して撮影用の椅子に座り、そのペットボトルを椅子の下に置いた。
「声が入らないようにカウントは途中から指だけでやるよ。そっちから言わない限り、カメラは回し続けるからな」
「ふふっ! うん、よろしく」
「なんだよ、テンション高いな」
「だってさ、こんな風に自分だけを撮ってもらうの、生まれて初めてだもん」
隠された財宝を探しにピラミッドに潜入するかのように、目を爛々と輝かせる彼女。興奮が緊張を凌駕して、撮影を待ちきれない様子でいた。
ガチガチになってなくて良かった。これならもう、すぐに始められそうだ。
「じゃあ行きます。五秒前! 四……」
録画ボタンを押した後、三から先は指だけ折って、カウントする。手がグーになってから数テンポ待って、季南は話し始めた。
「皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチョ、チャンネル……わーっ! ストップストップ!」
「早いな!」
いきなりのNGに思わずツッコミを入れ、おどけてその場でコケてみせた。
「大きな声出るかなって不安だったの。で、言えたら気が抜けちゃったみたい」
パチンと勢いよく両手を合わせて「ごめんね」と謝る彼女に「いやいや」と首を振る。
「こういうのが面白いんだろ?」
「うん、面白いね」
彼女は大好物のスイーツを前にカメラを向けられたかのように、上機嫌にピースして見せた。
「じゃあもっかい行くぞ。噛まないようにな。五秒前! 四……」
「はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました。えー、私は高校二年生なんですが、中学からずっと演劇をやっているので、この動画では演劇の練習方法や好きなお芝居などを紹介していきたいと思います。んと……そもそもなんでこのチャンネルを始めたかというと、自分のけん、経験が後輩の演劇部のみんなに役立てばいいなと思って……」
途中台詞を飛ばしたり噛んだりしつつも、自己紹介が終わる。季南が黙って二回頷いたのを見て「カット」と録画を止めると、彼女は深く息を吐きながら手足をだらんと伸ばした。
「緊張したあ」
「まあ始めはみんなそうだよ」
俺のフォローに、彼女は楽しそうに両膝をパンパンと叩いて歯を零す。
「でも楽しかった!」
そのハイビスカスみたいに真っ直ぐな笑顔も、演劇で練習した賜物だろうか。俺の瞼は、閉じる役目を忘れたらしい。大きく開いた瞳、熟した果物みたいに赤い唇、綺麗に並ぶ白い歯。彼女の表情を見ている間は、秒針が何倍もの遅さで動いているような、そんな感覚。
彼女からしたらいつもの表情かもしれないけど、俺の鼓動を一気に加速させるには十分だった。血液が一気に体中を駆け巡って摩擦熱が起こったかの如く、体温が上昇していく。
それは、クラスの誰も知らない秘密の作業をしていることに対する興奮だけでは説明がつかない。はっきりと分かる。彼女の笑顔に見蕩れたのだ。
そして、ここでやっぱりもう一人の自分が制しに来る。「彼女は自分の動画のために俺と組んでるだけだ、勘違いするなよ」と言い聞かせてくる。そう、俺にはまだ、この日々を楽しむ資格はない。冷静になって細く長く息を吐き、雑念を払う。
「じゃあ次の撮影に入るぞ」
「あ、ちょっと待って。ここから立たせてもらっていい? 演技したくて」
「え? そうなの?」
急に立ち上がって椅子の前に出た彼女を前に、三脚を動かし、カメラの位置を変えながら確認する。斜めから撮ると、背景も含めて上手く画角に入った。
「演技するなんて聞いてないけど」
「うん、今決めたんだ。なんか……やりたくなってさ」
「え、じゃあ練習もしてないの?」
「そう、ぶっつけ本番。うまくできるか心配だなあ!」
その返事に、むしろ俺の方が心配になってしまう。この場でいきなり演技するなんて、本当に撮影が成り立つのだろうか。
「お節介かもだけど、先にやることカッチリ決めてから撮った方が良くないか?」
「いいの。自分がやりたいことをそのまま出したいっていうか、用意した言葉じゃない方がいいなって」
穏やかに、それでも確かな意思を持って季南は答える。細かくカットを分けたくない、最低限の切り貼りしかしたくない、その場で決めたこともやっていきたい。徹頭徹尾、彼女は「そのままの自分を届ける」ことを意識している。それは、これまで自分がやってきた編集・投稿とは逆の考え方だった。
「じゃあ北沢君、お願い」
「お、おう」
指示されるがまま録画ボタンを押して合図した。
「それでは、挨拶代わりに、この前の文化祭でやった演劇の『リライト&リトライ』で、今にピッタリなシーンをやりたいと思います」
そう言うと、彼女はフッと目を閉じる。一回大きく深呼吸し、再び瞼を開けると、その表情は一五秒前の彼女とは全く違う凛々しいものになっていた。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
プロではないにせよ、役者の演技を間近で見るとやっぱりすごい。本当に彼女が、新しいことを始めたいという思いが伝わってくる。
「はい、いかがでしたでしょうか! あー緊張した!」
心の中で拍手しながら、この演劇のストーリーと文化祭での本番の裏話を話し続ける彼女を撮り続け、無事に撮影を終えた。
「はー、撮影ありがとう。北沢君、どうだった? 一回目にしてはほぼ完璧に出来た気がする!」
「……チャンネル登録お願いします」
「あーっ! 言うの忘れてた!」
かき氷を一気に食べた直後のように両手で頭を抱え、分かりやすく落ち込む季南。さっきの演技を目の当たりにしてから素の彼女を見ると、そのギャップが妙におかしかった。
「よし、じゃあ片付けして部屋を出よう。長くいると延長料金かかっちゃうからな」
「ねえ、北沢君パソコン持ってきてる? 編集ってどんな風にやるか、私も覚えたいから、どこかで作業見せてもらえない?」
「持ってきてるよ。それなら、カフェでも行くか」
そうだ、俺が撮影・編集するのも三、四回だけっていう約束だ。今のうちから少しずつ見て学んでもらおう。
「制服に着替え……はいいや。畳んで鞄にいれちゃおうっと」
無事に撮影が終わったからか、ベランダ横で上機嫌にいそいそと準備をしている季南。撮影が終わったことで俺もリラックスしていて、その後ろ姿に向かって何の気なしに問いかける。
「季南、これって演劇部の宣伝動画とかなの?」
「ううん、誰にも言ってないよ」
「……じゃあ、なんでYourTuberなんて始めるんだ?」
「え? あー……」
流れで聞いてしまった問いに彼女はすぐには答えず、カーテンをジッと見つめるようにしていたが、やがて俺に視線を合わせるのを拒むようにその青いカーテンを開けて窓の外を見る。蛍光灯に照らされ、茶色い髪に白い光が映った。
「演劇してるシーンとか、残したかったからさ」
「ああ、他の演劇やってる学生の参考になるようにって動画でも言ってたもんな。自分で見返すのにも使える? あ、でもそれならわざわざアップしないでもいいしな」
「あー……」
俺の方に向き直っていた彼女は、そこでまた視線を逸らして押し黙る。少し眉間にシワを寄せ、どう伝えようか、思い悩んでいる様子だった。
やがて、決心したように口をキュッと結ぶ。
「っていうより……さっきの台詞とか、言えなくなるんだよね」
「え?」
また少しだけ沈黙を挟み、彼女はゆっくりと口を開いた。
「私、声帯を全部摘出するの。だから、自分の声を残そうと思ってさ」
6 彼女の「理由」
「北沢君、何飲む?」
「ん、いや、自分で買いに行くよ」
「いいからいいから、パソコンの準備してて」
結局カフェラテをお願いし、彼女がカウンターに向かっている間にパソコンを準備する。
レンタル会議室から歩いて五、六分のところにあるチェーンのカフェに来た。二階まである狭い店舗の一階は、ちょうど仕事が終わったのかスーツ姿の大人が三人レジに並んでいる。作業を横で見たいという季南の要望もあり、比較的窓側が空(す)いていたので窓側にある二人掛けの丸テーブルを二つ取って、隣同士で座った。
「はい、お待たせ。そう言えば北沢くん、ブラックコーヒーって飲める?」
「いや、苦いから得意じゃない」
子どもっぽいかな、と思いつつ反応を窺っていると、季南は「私も!」と自分用に買ったホットのキャラメルマキアートとスティックシュガーを、突き出すように俺に見せてニッと歯を零した。
「季南、お金幾らだった?」
「あ、いいよいいよ! 色々協力してもらってるから」
二往復ほど押し問答したものの、結局押し切られ、今回はご馳走になることにした。
「やっぱり編集はパソコンなんだあ」
「スマホのアプリもあるけど、こっちの方が細かい作業も自由にできるよ」
ビデオカメラをケーブルで繋いで、さっき撮った映像のデータをパソコンの中にコピーしながら、編集ソフトを立ち上げる。
「これ、無料ソフト?」
「いや、前に買ったんだ」
モニタに映った複雑な編集画面を、興味深そうに眺める季南。
彼女を見ながら、俺はさっきの部屋での会話を思い出していた。
■◇■
「…………え?」
声帯の摘出。その言葉をあまりにも唐突に告げられ、脳内に瞬時にイメージを結ぶことができない。
窓の外からこっちに向き直った季南の表情には、悲しみの色はない。噛んで失敗したときと同じように、少しだけバツが悪そうに微笑んでいる。
「難病らしいんだよね」
右手で包み込むように喉を押さえながら、彼女は口を開いた。
「男子でいう喉仏の近くに声帯があるんだけど、その下のところに腫瘍みたいなものがあるんだって」
「それって……ガンじゃないのか?」
腫瘍という単語からすぐに連想される病名を、俺はおそるおそる口に出してみる。音になって自分の耳で聞くと、余計にその病気が怖く感じられた。
「ううん、ガンとはちょっと違うみたい。確かに咽頭ガンっていうのもあるんだけど、ほとんどが男性みたいだし、たばこや飲酒が原因のことが多いんだって」
まるで他人事のように、何も気にしていない素振りで、彼女は外に出る準備を再開しながら話している。
「だから症例も少なくてさ。始めは化学療法、まあ薬で治そうとしたのね。修学旅行とか文化祭とかあるから、飲むだけならちょうどいいかなって思ってたんだけど、なんか夏に原因不明で急に悪化しちゃって。それで来年一月に摘出になっちゃったんだよね。一部の摘出ならガラガラ声は出るんだけど、全部だからさ」
残念だなあ、と彼女は呟く。悲しさや悔しさではなく、どちらかといえば諦めや自嘲を含んだトーンだった。
「それで、YourTuberやろうとしたのか?」
「うん。声、残しときたいって思ってさ。ただの自撮りとかじゃつまらないじゃない? バズって人気者になったりお金もらったりしたいわけじゃないけど、せっかくだから、話してる私を発信したいなって。だから台本読むのイヤだったの。普段通り話してる自分をそのまま届けたくてさ。ワガママ言ってごめんね」
「ああ、いや……」
謝ることないのに。そう言おうかどうか迷っているうちに、彼女は「行こ」と荷物を持って部屋を出て行ってしまった。
■◇■
「あ、撮ったやつだ!」
パソコンの中に取り込んださっきの動画を、編集ソフトで読み込んでいく。そのファイルを画面の下半分にドロップすると、編集ができるようになった。
「うわ、すごい。ここで映像を切ったりするの?」
「うん。例えばほら」
一本目の動画のトーク。その話と話の間の余白を切って、繋げてみせる。YourTuberの動画でよく見る、間髪容れない、テンポの良い喋りになった。
「今回は季南の注文もあるから、こんな風には編集しないけどな。あと、効果音とかテロップもここでつけられる」
「すごいすごい! 本物の動画作ってるみたい!」
「動画作ってるんだっての」
右隣の彼女の肩にツッコミを入れる仕草をすると、すかさず「ナイスツッコミ!」と合いの手が入る。
これまでと変わらないように振る舞う彼女があまりにも自然で、さっき聞いた話が冗談だったんじゃないかなと思うほど。それは、冗談であってほしいという俺の小さな願いでもあった。
「ねえねえ、なんか私に手伝えることない?」
「ううん、編集は分担してできるものじゃないからな」
「そっか……」
そう伝えると、彼女は残念そうに右頬に手を当てて、ふしゅーと溜息をついた。せっかくこんなにやる気になっているんだから、他に何かお願いできるものがあるといいんだけど。
「そうだ、ジングルとか効果音選んでくれない?」
「ジングルって……ベル?」
真顔で聞く季南に、「クリスマスにはまだ早いぞー」と両手をひらひらさせて返す。
「ラジオとかテレビで、コーナーの始めに流れたりする短い音楽あるだろ?」
「あ、あれジングルっていうんだ」
「自由に使える音源があるウェブサイト教えるから、そこから選んでよ。あと効果音もね」
「うん、分かった!」
チャットでURLを共有すると、気合い十分の彼女は「わっ、こんなサイトがあるんだ」と興奮気味にスマホをスワイプする。ジングルだけじゃなく、「ジャンッ!」「パフパフッ」「コケッ」といった効果音もたくさん載っているサイト。著作権フリーで自由に使えるので、YourTuber御用達のページになっている。
「季南のセンスで選んでいいぞ。今日撮ったの思い出して、ここでこれ流してほしいっていうのピックアップしてくれる?」
「了解!」
ビシッと敬礼した彼女は、ライトブラウンのサラサラヘアーを後ろに払ってから耳にイヤホンを嵌め、LとRの世界に閉じこもる。俺はその間に、動画の切り貼りを進めていった。
「……おお、これ演劇でも使えるな…………あ、これバラエティーっぽい」
感想を言いながらお気に入りの音をノートにメモしていく季南。新しいおもちゃをもらった子どものように目を輝かせながら、楽しそうに選んでいく。
十分くらい経っただろうか。スマホの液晶に釘付けになっている季南の顔の前に、スッスッと横にした手を翳(かざ)す。彼女はバッとイヤホンを取り、こっちを向いた。
「動画、繋ぐ作業は終わったぞ」
「ホント! 早い!」
パソコンに自分のイヤホンを挿し、右隣の彼女にも見えるように本体を斜めにして、イヤホンのLを渡す。
「一緒に見ようぜ」
「うん、ありがと」
Rを嵌めた俺と、Lを嵌めた彼女。体を寄せ合うようにして、編集ソフトの中で再生した。
『はい、皆さん、はじめまして、演劇ガールです! 今日からこのチャンネルを始めました』
まだ何も加えていない、余計な部分を削って繋げただけの五分弱の動画。見ている間、彼女はどこかソワソワしていた。
全て見終わると、彼女は両頬に手を当てて首をブンブン振る。
「うわー、自分が映ってるの見るのハズいねー!」
なるほど、だからあんなに体を揺らしてたのか。
「北沢君、もう一回流してみてもいいかな」
「ああ、カーソル動かして再生すれば普通の動画みたいに流れるよ」
季南は、俺のマウスを触っておそるおそるカーソルを動かし、もう一度再生する。
「……そっか、私こんな声なんだ。自分の声って、自分が普段聞いてるのと違うね」
「自分で思ってるより高いんだよね」
「確かに。ちょっと高いかも」
椅子をグッと前に引き、モニタに寄る彼女。距離が近くなって、俺は思わず重心を後ろにかける。
「……良い声、だと思うよ」
唐突に口にした誉め言葉に、季南は驚いたようにこちらを向いた。
「ホントに?」
「高さもボリュームもちょうどいいし、よく通る声だと思う。滑舌も良いから聞きとりやすいよ、さすが演劇部。前に自分達で作ってた時、女子に参加してもらったこともあったけど、高い声だとテロップ入れないと言葉が分かりづらいんだよね」
「そっか。それなら、嬉しいなあ」
「おう、動画にはピッタリの声だ」
「動画かーい!」
さっきのお返しとばかりに、今度は季南から肩にツッコミを寸止めされた。
こうして今喋ってる彼女の、この声がなくなるなんて、まだ全然信じられない。褒めない方がいいのか、と一瞬躊躇したけど、それでも正直な感想を伝えてあげたかった。良い動画になると期待させてあげたかった。
「季南、効果音決まった?」
「うん、結構良いの選べたと思う」
カフェの無料Wi‐Fiに繋ぎ、さっき彼女に教えた音源サイトを開く。
「じゃあダウンロードしていくから教えて」
「えっと、まず動画の始めの曲はね、『ジングル バラエティー』の『Happy Days』っていう曲が……」
彼女に教えられながら音源をパソコンにダウンロードしていき、二人で一緒に画面を見て本格的な編集作業を始める。ダウンロードしたジングルや効果音を動画の音声スペースに挿入し、季南の声と被らないように音量を調節していく。そこにさらに「演劇ガールって何?」「ちょっと噛んだ(笑)」とテロップを付けていった。
「このテロップ、ピンク色でいい?」
「うん。サイズ、もう少し大きくてもいいかな。私の頭と被らないくらいの位置に置いてくれる?」
「ここでトランペット来るよ来るよ……はい来た! これでタイミングどう?」
「ぴったり! ナイス北沢選手!」
「あ、待って。やっぱりちょっとここの効果音、もっと面白いものに変えたいかも」
「おう、じゃあ次の部分進めてるから、音探しておいて」
一昨年の今頃も、大きなモニタに映しながらワイワイと作業していたのを思い出しつつ、季南の希望を形にしていく。十秒、また十秒と編集が進んでいき、彼女が話していただけの動画は、音と文字に彩られたコンテンツへと変わっていった。
「おおっ、最後までいったね。編集ってこれで終わりなの?」
「うん、ほとんど終了だよ。でももう少しだけ時間ほしい」
頭から動画を見直して、少し間があるところ、彼女の声が聞こえづらいところを補正していく。一秒、あるいは一秒未満の単位で調整する世界。
せっかくの初動画、少しでもいい作品にしたかった。
「……できた」
達成感を肩に乗せ、その重さで両手をだらりと下げる。左側の大きな窓の外に目を向けると、太陽はすっかりビルの下に溶け、薄墨色の夜が街を覆い始めていた。
「おつかれさま、北沢君。ありがとね!」
「最後、一緒に見るぞ」
「うん」
二人で動画を確認する。「これでいいか?」と訊き、彼女が深く頷くのを見て、編集した五分の作品を動画ファイルに出力した。そしてYourTubeのログインページに移り、「はい」と彼女にキーボードを向ける。
「え、どしたの? これ、北沢君のアドレス?」
「いや、これ消して季南のアドレスとパスワード入れてよ。季南のアカウントでログインしないとダメだろ」
「あ、そっか。ふふっ、北沢君が変な演劇女子の動画アップしてることになっちゃう」
「笑いごとじゃないっての」
彼女は慣れない手つきでキーボードを叩き、エンターキーをタンッと軽快に押してから俺の手元にパソコンを寄せた。
「サンキュ」
出力したばかりのファイルを選択し、タイトルを入力しながらアップロードを待つ。
そして。
「よし、投稿完了!」
見慣れたYourTubeの画面で、一つの動画を再生した。
〈【YourTuberデビュー】演劇ガール いきなりカメラの前で初演技! その結果は……?〉
数分前に見たのとまったく同じものが、ブラウザから流れる。それは、この世界に極小の、でも唯一の、動画コンテンツを生み出した瞬間だった。
「わ、あ……すごい、すごい! 私にもできた!」
目を大きく見開いて興奮する季南。乗り出した体が丸いテーブルに当たり、彼女のマキアートのマグカップをトンッと揺らした。
「北沢君、ありがとう! ホントに嬉しい!」
両手で勢いよく俺の右手を握り、ブンブンと振る。カッコつけて「いいってことよ」なんて言おうとしたけど、彼女があまりにも嬉しそうな笑顔を咲かせていたので、俺も素直に「良かったな」と返した。
今日の作業はこれでひと段落。パソコンをリュックにしまっていると、集中しっぱなしで麻痺していた疲労感が一気に襲ってくる。
久しぶりにやる動画作りは、相変わらず大変だったけど、心地良い疲れだった。
「……ねえ、北沢君」
不意に、横にいる季南が声をかけてくる。彼女は、左右をサッと見て、近くに人が座っていないかを確認すると、小声で訊いてきた。
「私も秘密教えたからさ、もし良かったら北沢君の秘密も教えてよ。共有しあおう?」
「秘密? いや、俺はそんな、季南みたいな大きなのはないよ」
すると彼女は、真っ直ぐ俺を見つめて口を開いた。
「……なんで動画作るの止めちゃったの?」
瞬間、ぞわりと心が震えた。今の自分はどんな顔をしているだろうか。驚き、恐怖、悲しさ、全てがごっちゃになっているに違いない。
その表情を察してか、すぐに彼女は慌てた様子で両手を動かした。
「いや、その、無理に答えなくていいから。もちろん純粋に気にもなるんだけど、何ていうか……ほら、私の秘密、半分持ってくれたじゃない? だから、私も代わりに持ちたいなって思っただけなの」
「あ、そういうことか……」
好奇心だけだと思い込んだ自分を恥じる。同時に、彼女の気遣いに心が暖かくなる。俺に「大変なことを聞いてしまった」と余計なプレッシャーを感じさせないように、俺が話したがらない暗い内容も受け止めてくれようとしたのだろう。
これまでだったら、笑って誤魔化していたこと。でも、彼女が配慮しながら訊いてくれたことは伝わったし、何より俺も、彼女が大事な秘密を明かしてくれたのに俺が明かさないのは不公平かな、と感じていた。
だから、今度は俺の番。俺が勇気を出す番。手が震えているのを自覚して、右手で左手首をぎゅっと押さえる。
「……誰かの人生をめちゃくちゃにしちゃったから、かな」
人の少なくなったカフェで声のボリュームを気にしながら、俺は記憶を二年前に戻した。
7 俺の「理由」
中学二年生の頃から、今は別の高校に通う友達二人と三人組でYourTubeへの投稿を始めた。始めは、静止画に音声だけのラジオを投稿していたけど、途中から覆面で顔を隠した友人が話す、所謂YourTuberとしての活動に移行した。
名前は「なんかカッコよくね?」くらいのノリで【Flame(フレイム)】 一人が企画担当、一人が覆面の出演者、そして俺が撮影と編集担当と、バランスの良い役割分担だった。
最初は何のテーマも決まってなくて、新商品のジュースを紹介したり、激辛ラーメンに挑戦したりしていた。友達にも秘密にしていたから再生数もほとんど伸びなかったけど、何回か再生されてるのを見てるだけで嬉しかった。大騒ぎしながら企画を考えて、大笑いしながらカメラを回して、大はしゃぎしながら動画編集する、それだけで毎日面白かった。
でも中三の時に投稿した「バカ投稿中学生に同い年から一言モノ申す!」がたまたまヒットした。スーパーの商品でイタズラしている動画をSNSにアップした中学生に対して「お前のせいで俺達までバカな目で見られるんだよ!」と散々キレるだけの映像。
誰かが拡散してくれたのか、見るたびにカウンターは上がっていき、最終的には一万近い再生数になる。世の中に無数の動画がある中で、芸能人がやっても数千しか再生されないこともある中で、俺達の動画が一万回見られている。その数字が、俺達の基準と感覚をバグらせた。
勝ちパターンを掴んでからの動画は、ネットニュースやSNSから悪質な行為をしている中高生を探して、晒し上げる映像になった。
軽犯罪の画像をアップしている人、いじめ動画を投稿している人達を見つけ、動画の中でSNSのアカウントを映す。そして過去の投稿を遡って、罵倒しながらツッコミのテロップを流していく。
十回再生されて喜んでいた動画の再生数は、たまにヒットすると一万を超え、二万も夢じゃないような数字になる。コメント欄には「分かる!」「よく言ってくれました。こいつらホントに最悪」と共感に満ちた言葉が並ぶ。
どうしようもないヤツらがたくさんいるのに、SNSのネタとして済まされるなんて許せない。俺達がきっちり糾弾してやる。自分達が正義の使者であるように錯覚し、顔も知らない相手に罵詈雑言を浴びせていく。みんな、コイツらの悪事を知って広めてくれ。【Flame】に「炎上」の意味を被せたのは、ちょうどこの頃だった。
俺達の正義は止まらない、どころか、もっと反応が欲しくて過激な内容になっていく。
ネットの匿名掲示板に、「コイツの通ってる学校を特定したい」とSNSのネタを投げ込めば、それを見ている大人数の知識と分析力でどんどん絞り込まれていく。そして誰かが特定すると、皆が一斉に「学校に通報しよう」と言い出す。俺達は、自分達が火つけ役なのに、さも野次馬のように、動画の中で「ネット上で学校が特定されたらしいですよ」なんて話した。
別に通報したのは俺達じゃない。匿名で炎上して本人はのうのうと生活してるなんて看過されていいはずがないと、悪事を知った人達の制裁がくだったのだ。
動画を作るときには相変わらず笑ってたけど、それは投稿を始めたときの笑顔とは違っていたかもしれない。でもそんなことは気にならなかった。「正しいことをしている」と、「これが俺達のやりたかったことだ」と、本気で信じていたから。三人バラバラの高校に行ったけど、この活動を続けると決め、部活にも入らなかった。
自分達の内なる声と再生数とコメント欄に支えられ、俺達はどんどん成敗の遊びに興じていった。高校生に入って間もない、去年のあの日まで。
高一のゴールデンウィーク前の四月。あるSNSアカウントの個人情報を暴こうと掲示板を見ていたとき、ふと一つの書き込みが目に留まった。
『Flameの動画でも取り上げられてた、牛丼屋のバイトでやらかしたパンゴ君っていただろ? ここで学校特定されて通報されたのきっかけで、学校の二階から飛び降りたらしいぜwww アカウントも消してるwww』
慌ててニュースを探すと、幸い命に別状はなく、全治三ヶ月とのことだった。しかし、胸の中をフォークでざりざりと削られているような気分になり、恐怖が全身を埋め尽くした。そのきっかけを作ったのは、間違いなく俺達の動画だったから。
今回はたまたま掲示板で情報を見つけた。でも、俺達が知らないだけで、他にもいるかもしれない。友達を無くした人はいないか? いじめられた人はいないか? 不登校になったり学校を辞めたりした人は? 今回の彼みたいに飛び降りた人は?
動画で取り扱った一人ひとりを必死に調べて、最悪の事態に陥った人はいなそうだということは分かったけど、そんなことは何の足しにもならなかった。
自分達のやっていることの影響に、そこで初めて気付いた。それは成敗でも何でもなく、俺達自身が動画で叩いていた「いじめ」そのものだった。使命感で盛り上がっていた三人を待っていたのは飲み切れないほどの罪悪感で、晒した相手から「お前のせいだ」と責め立てられる夢を見たのは一度や二度ではなかった。
ゴールデンウィーク中にメンバー三人で集まり、動画を削除することに決め、その日でFlameは解散になった。こから方向転換する気にもならなかったし、例え平穏な企画を思い付いたとしても、何の謝罪も弁解も無しに平然と動画をアップし続ける気にはなれなかった。
三人とも高校は別だったので、そこから彼らとは全く連絡を取っていない。動画のことを友人達に吹聴していなかったのが唯一の救いで、俺がこの件に触れることは無くなった。
■◇■
「それだけ。バカな話だろ」
季南と目を合わせる勇気がなくて、すっかり黒で塗りつぶされた窓の外に顔を向ける。どんな表情をしていいか分からず、自嘲気味に眉を上げた。
話してみて、改めて自分の幼稚さに嫌気が差す。反省しているとはいえ、頼まれたとはいえ、本当に俺が動画なんて作っていいのかと考えてしまう。
「そっか」
まるでちょっとした雑談を聞いたかのように、季南は軽い相槌を打った。
呆れられないだろうか、軽蔑されないだろうか。ひどいことをしてもなお、自分のことがかわいいのだということを自覚して、ますます嫌になる。
相変わらず目を合わせられないでいると、彼女は「うん」と考えをまとめたかのように小さな声をあげる。
「ホントに大変だったね。教えてくれてありがと。じゃあ、今日は帰ろ!」
「え? あ、ああ……」
勢いよく立ち上がる彼女の横で、俺は安堵の息を漏らす。
無理に「大したことしてないよ」なんてフォローされても、しんどくなってしまっただろう。その辺りまで考えてリアクションしてくれた気がして、気遣いのある彼女の成熟した対応に心の中で精一杯感謝しながら、パソコンを閉じて片付けた。
大学生らしきカップルを避けながら店を出る。街はすっかり暗くなり、そこかしこにある看板の明かりが道路を照らしている。会社を出てきた人も混ざって、駅に向かう大きな人の流れができていた。
「季南、次回の撮影はどうする?」
「お、北沢君がやる気になってる」
「あの演技も良かったし、演劇の裏話も面白かったよ」
「やった、褒めてもらえると嬉しい」
次回の撮影日程を話してるうちに駅が見えてきた。「私こっちから帰るんだよね」と、俺が乗るのとは違う地下鉄のマークを指す。
「俺は向こうだから、またな」
「あ、あのさ!」
足早に去ろうとした俺を、季南はブラウンの手袋のはめた手で呼び止める。
「北沢君の話、絶対に誰にも言わないから。私のもナイショね」
「おう」
動画のこと、だけじゃなくて、もちろん病気のこともだろう。首肯すると、彼女はニヤリと、悪だくみをしている敵キャラのような笑みを浮かべた。
「ふっふっふ、秘密を共有しあった仲だから、呼び方も替えていいかな」
「は?」
「有斗君、でいい?」
「ああ、うん、別にいいけど」
そう言うと、彼女は「やった」とガッツポーズをきめる。
「実は呼んでみたいなあって思ってたんだよね。有斗(あると)って語感良いし!」
「お褒めに預かり、光栄です」
礼儀正しく一礼してみる。男友達がみんなアルト、アルトと呼ぶから慣れているし、俺自身も割と語感は気に入っていた。
「私も千鈴でいいよ。みんなもそう呼んでるしね」
「分かった」
彼女が乗る地下鉄に向かう昇り階段に着く。最後に彼女は、顔だけではなく、全身で振り向いた。
「今日は本当にありがと。楽しかった。またよろしくね、有斗君!」
「ん、またな……千鈴」
呼び慣れない名前を呼んで、そこで別れる。そのまま俺も真っ直ぐホームに向かって電車に乗り、運良く空いた座席に座った。少しだけ頭を空っぽにして、車内に流れる動画広告をボーッと見る。
今日一日が長く感じられた。色々ありすぎて、一番驚いたはずの彼女の病の告白も、一番緊張したはずの俺の過去の告白も、まるで夢の中の一部のように現実味がない。
ポケットに入れたスマホを見ることもないまま三十分ほど揺られ、家の最寄り駅で降りた。
「さむっ」
気温が一気に下がっていて、思わず手をこすり合わせる。空には雲のかかった月が出て、今日の大仕事を労っているよう。街灯もさながら編集の功績を讃えるスポットライト。
『私ね、決めたんだ。やりたいことにチャレンジするって。怖いよ、怖いに決まってる。でも、このまま何も変えないで、縮こまった私でいる方が、もっと怖いから』
いつもは音楽を聴くけど、今日は彼女の動画を再生して、声だけ聴きながら歩いた。
8 彼女の強さ
「ねえ、北沢」
「どした、三橋?」
初投稿から二日経った九月二九日、水曜日。休み時間に廊下にあるロッカーに日本史の資料集を取りに行くと、三橋から声をかけられた。
「この前話してたチーちゃんの動画、ちゃんと撮れてるの?」
チーちゃんとは千鈴のことだ。親友のことが気にかかるのだろう。
「ああ、この前集まって撮ったよ」
「そっか。話してるとチーちゃんが前より元気になってて嬉しいんだよね。北沢のおかげかな」
「俺はカメラ回してるだけだけどな」
でも、そうやって三橋達とも楽しくやれているなら、俺のサポートも少しは役に立っているのかもしれない。
「なんか急に演劇部もお休みすることになったみたいでさ、調子悪いのかなって心配してたから」
「……考えすぎだって。撮影のときピンピンしてたぞ? この前なんか、『おばあちゃんに見てもらうんだ』って言って文化祭でやったヤツの演技しててさ……」
本当のことは言えなくて、表情を変えずに嘘をつく。千鈴もこんな風に色んな人に誤魔化していると思うと、胸の奥が寒さに耐えるかのようにキュッと縮んで締め付けられた。
***
「そういえば有斗君、一本目のやつ、再生数が百回いったの!」
その日の放課後。一昨日も来たばかりの渋谷のカフェで、千鈴が小さく拍手をしながら報告してくれた。茜色の空が、彼女の明るい茶色を更に明るくオレンジに染め上げていく。
前回のレンタルスペースがまだ期間限定セールをやっていたので借りて撮影した後、編集のためにまたこの店に入った。前回と同じテーブルに座っているので、店員さんに変な高校生だと顔を覚えられていないかちょっと気になる。
「俺も一応チェックしてるから知ってる」
「え、そうなの!」
目を丸くする彼女に、「一緒に作ったんだし、そりゃ気になるよ」と苦笑で返した。
初投稿から一日開けてすぐさま二本目の撮影なので、割とタイトなスケジュールだけど、どうせなら見てくれた人の熱が冷めないうちに新作をアップしたかった。それは千鈴も一緒だったようで「早く次のやろうよ!」と急かされ、急遽今日の撮影になったというわけ。
ちなみに、今回は演劇部の発声トレーニングを紹介すると言って、急にその場に寝転がって腹筋を始めたので、俺は笑いを堪えながら、彼女に頼まれて一分間でやれた数を数えていた。
「なんかさ、アップする前は再生数なんて別にどうでもいいって思ってたんだけど、いざ数字が出ると欲が出ちゃうし、百回とかいくと嬉しいね」
「まあ確かにな、結構嬉しいかも」
「結構なんてもんじゃないよ!」
今回は撮影がスムーズに進んで退出時間まで余裕があったので、千鈴は制服に着替えた。肩のラインがズレてしまったブラウスを直しながら、ずいっと俺に顔を近づけてハイテンションに声を張る。やっぱり叫んでも聞き取りやすい声だ。
「だってさ、私が演技したり演劇トークしたりしてるだけの動画を百人が見てくれてるんだよ? 一人で何回も見てる人もいるかもしれないけど、それはそれで楽しんでくれてるってことだから嬉しいよね」
俺も三回見たぞ、と冗談交じりに言うと、千鈴は「私は五回!」と張り合ってきた。動画のページに行くと「再生数 百十三回」と表示されているので、俺達を除いても百回以上は再生されているようだ。
「それにコメントもついてるの! 『私も演劇やってますけど、リライト&リトライ、面白そうです! 次にやる作品の候補に加えます!』って。これってすごくない? 私が顔も知らない誰かに影響を与えることができたんだよ」
「ああ、分かる。そういうの、結構感動するよな」
初めて誰かに再生されたとき、初めて再生が十回、百回を超えたとき、初めてコメントがついたとき、共感してもらえたとき。俺も仲間と一緒にハイタッチして、コーラとスナックで乾杯した。
千鈴は、俺の後ろからその一連のできごとを追体験している。俺自身の、この喜びを共有できるのは幸運なことで、胸の奥がジンと熱くなった。
「季南、学校の誰かに見つかったりしてない?」
「うん、大丈夫、バレてないみたい。有斗君がうまくサムネ作ってくれたおかげかな」
動画をクリックするきっかけになるサムネイル。そこに千鈴の顔が堂々と載ってたら見つかってしまうかもしれないので、顔がギリギリ見えないようにした。千鈴が顔を出せば再生数が上がるだろうけど、彼女が望んでいるのはそんなことじゃないから。
自然なトーンで口にした「バレてないみたい」という言葉に、胸の奥を毛先の固いブラシで撫でられた気分になる。動画のことはもちろん、病気のことだって、彼女は誰にもバレてない。
こうして普通に喋っていて、痩せ細ってるわけでも、点滴の管を繋いでるわけでもない彼女は、四ヶ月後、一月には声が出なくなるという。事情を知っている俺ですらにわかには信じられないようなことが、他のクラスメイトに知られるわけがなかった。
千鈴は、強い。こんな状況で、こんな風に普通でいられるものだろうか。気丈に振る舞っているようにも見えず、驚嘆を通り越して感心してしまう。ひょっとしたら、それも彼女の「演技」なのかもしれないけど。
「でもさあ、やっぱり数字見てると欲が出ちゃうねー」
彼女はニシシと笑う。どうやら、もっとたくさんの人に見てもらいたいという気になっているらしい。
「まあ、私は体張ってまでは再生数稼ぎたくはないけどね」
「確かに、過激なことやりがちだからな。激辛の食べた後に演技してみた、とか」
「あー、ありそう。あとはコスプレして演技してみました、とか」
「……確かにな」
想像して頬が熱を持っているのが分かり、目線を逸らした。棚に並べられたタンブラーを見るふりして誤魔化したものの、多分すっかりバレているだろう。
「あ、赤くなってる! 和服着て、昔の人の役やったりするだけだよ。有斗君、今変なコスプレ考えてたでしょ?」
「うっせ」
千鈴に声をかけられてから、今日でちょうど一週間。これまでほとんど関わりのなかったクラスメイトとこんなに仲良くなるなんて、先週の自分には想像もつかないだろう。
「再生数増やすなら、なんか方向転換する? 女子高生が五十個の質問に答えてみました、みたいな特別企画とか、色々できるとは思うけど」
彼女は斜めを見上げながら「んー」とひとしきり唸った後、両方の手のひらを上に向けて肩をすくめてみせた。
「ううん、しない。やりたいことだけやりたいから」
「なんかいいな、今の。名言っぽい」
「お、ホント? でも演技ってテーマは縛りにして、企画っぽいことやりたいな。一つの台詞を色んな感情で言い分けしてみるとか……」
取り出したノートにペンを走らせる千鈴。ノートには他にも動画に関するメモがたくさん書いてあって、ただ「声を残す」ためのものではなく、楽しい趣味の一つになっていることが窺えた。
だからこそ、彼女の言葉が悲しく響くこともある。
「あーあ、ホントはずっと演劇やりたかったな」
ひょっとしたら治るかも、なんて根拠のない期待も持たせられない。かといって、話せない役者を目指してみたら、と無理やりポジティブな方向に持っていくのも違う気がして、何も言えなくなってしまう。困らせていることを向こうも知っていて、「ごめんね」と申し訳なさそうに謝った。
「じゃあ、俺の方で後半の編集進めておくよ。それ終わったら前回みたいに音選び頼むな」
「うん、任せて。新しいフリー音源サイト見つけたから、そこからも効果音とか探してみる」
こうしてまた夜まで作業し、「演劇ガール」二本目の動画をアップしたのだった。
***
「有斗、明日予定ある?」
金曜の昼休み。弁当をかき込んでいると、友人の水原が田邊と一緒にやってきた。
「いや、今のところないけど」
「じゃあ映画いこうぜ! 『ドラゴン・イン・ザ・ダーク』」
「あ、あれか、いいな!」
3Dじゃなくていいかな、逆に2Dの方がいいだろ、なんて議論しながら映画館の場所と上映時間を確認する。今日は予定があったから、明日で良かった。
今日から十月。通り過ぎるコンビニやSNSでも「ハロウィーン」の文字をたびたび見かけるようになった。まだ気温が高い日もあるけど、あと一、二週間もすれば本格的な秋が残暑を追い出すだろう。
ブレザーのポケットにしまったばかりのスマホがブブッと通知を告げる。ちらりと見て、チャットの中身を確認する。
「じゃあ有斗、集合時間とか夜相談しようぜ」
「おう、よろしくな」
明日は映像を見る側、今日は作る側だ。
「有斗君、ごめんね!」
放課後、月曜と水曜の撮影で使った渋谷の隣駅、恵比寿の西口バスターミナルで待っていると、彼女が風を切って走ってきた。
「今日話すこと整理し直してたら遅くなっちゃった。大丈夫?受付時間、間に合う?」
「ああ、近いから問題ないよ」
バスターミナルから大通りを渡って店が並ぶ通りを真っ直ぐ歩く。チェーン店と個人商店が入り混じるその通りは、都心とはいえ肩肘張らずに歩ける。奥まった道に入るとすぐに野良猫を見つけられそうな住宅街になるのも、賑わう繁華街とはまた違った気楽さがあった。
「こんなところにもレンタルスペースあるのね」
「マンションが数室空いてればどこでも出来るんだろうなあ」
スマホで地図を確認しつつ、千鈴の数歩先で「こっち」と指差しながら歩いた。
「うわ、なんかオシャレ!」
マンションの四階、ワンルームに入ってすぐ、千鈴が嬉しそうな声をあげる。
ここ二回で使った渋谷のレンタルスペースと同じような作りかと思いきや、内装は少し違っていた。白い壁紙に、接写した花の写真のポスターが何枚も飾ってある。木目の綺麗なダイニングテーブルのような机に、背もたれに柔らかいクッション材が使われている椅子が置かれ、「会議室にも使えます」と書かれていたものの、「誰かの家」という印象の方が強い。千鈴の家にお邪魔してしまったかのようで、やや緊張してしまう。
「これなら俺達で壁紙貼ったりしなくてもそのまま撮れそうだな」
「だね! 準備しよ!」
「じゃあ俺向こうで準備するから」
リュックを持ってキッチンの方へ出て行き、カメラと三脚を用意する。その間に、千鈴はリビングで制服から私服に着替える。三回目の撮影ともなると、、準備の手筈もスムーズになっていた。
「お待たせ」
呼ばれて部屋に入り直すと、彼女はすっかり普段着の女子高生に変身していた。白のTシャツにエンジ・ライトブラウン・白・黒のマルチストライプのスカートが鮮やかに映える。
「オシャレなスカートだな」
「んーん、実はこれワンピースなの」
「え、マジで?」
「ほら、ここ、くっついてるでしょ?」
腰のあたりを見せてもらうと、確かに上下一体になっている。「最近買ったんだ」と自慢げに言いながら、千鈴はレンガ色のジャケットを羽織った。
「似合う、かな?」
「ん、秋っぽくて良いと思うよ」
真正面から「似合う」と返すのが照れくさくて、少し言い換える。それでも彼女は上機嫌になり「ありがと」と小さくピースしてみせた。
「場所、この辺りで良いかな?」
「えっと……もう少し右だな」
飾られている花の写真のポスターが半分だけ入るように、座る場所とカメラの位置を合わせていく。彼女は座りながらノートをジッと見ているものの、初回のような緊張はなく、リラックスして臨んでいた。
「準備いいか?」
「うん、有斗君のタイミングで大丈夫」
ニッと口角を上げて、右手でオッケーマークを作る。それは、張り付いた笑顔ではない、自然なものだった。
「いきまーす! 五秒前、四、三……」
「はい、こんにちは! お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日は前回とは違う場所で撮影してます。見てください、ポスターが貼ってあって結構オシャレな部屋ですよね。うちもこういうポスター貼りたいなあ。季節によって桜とかヒマワリとか変えたりして。
さて、演劇関連のチャンネルということで、最近知った演劇ネタを一つ。舞台照明で、上空からの斜めの光を交差させることを『ぶっちがい』って言うんですけど、これ、漢字だと打つに違うって書いて、『打っ違い』って書くのを初めて知ったんですよね。十字形にななめに交差させることを指すみたいで、『角度を違えて打つ』って考えるとなるほど意味は通るなって思いました」
身振り手振りを交えながら、つっかえずに淀みなく話していく。話す内容は事前に教えてもらっていないので初めて聞く内容だけど、結構面白い。動画というかラジオっぽい感じで、声のトーンも話すスピードもちょうどいいので、ついつい聞き入ってしまう。
「それでは今日は、最近見返した大好きなお芝居の脚本を持ってきたので、今の自分の心境にピッタリなシーンを朗読してみたいと思います。劇団ジョーカーさんの『不完全な少女の完全燃焼』、どんな話かは後で話すんですけど、終盤のシーンの台詞を聞いてください」
椅子から立ち上がってカメラに近づき、これですよー、と脚本の題字を映す彼女。カメラ越しとはいえ、こんなにアップで顔を見ると胸のポンプがドクドクと動き、一気に脈拍が上がっていく。座り直してページを捲っている様子も、ファインダーの中でずっと覗いていた。
『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの。それは時間であれ、能力であれさ。人生でもらったものは使いきりたいし、たとえ使い切れなかったとしても、そういう覚悟でいたいな、とは思うんだ』
朗読を聞きながら、俺はまっすぐに彼女のことを考えていた。
千鈴は、こんな状況でも、大好きな演劇と向き合いながら懸命に前を向いている。俺がこの動画を作り始めて日々楽しいと思えているのは、久しぶりに動画に触れたからじゃない。千鈴と一緒にいるからだ。
この想いの正体に、心はとっくに気付いているはずなのに、それ以上を求められない。「自分なんかが恋愛する資格なんて」と去年までの自分が暗い目で睨んできて、そこでおしまい。そもそも向こうだって動画を作るために俺の手を借りてるだけだ、と上手い言い訳を作っては、感情に蓋をしてしまう。
そして、全く別の感情を呼び起こすことで、頭を切り替える。
クラスでも楽しそうにおしゃべりしていて、カメラの前でもこんなに流暢に話したり朗読したりできる彼女が、声を奪われる。もし本当なのだとしたら、神様ってヤツに怒髪天を衝きたいほどの怒りが湧く。
なんで彼女だったのか。もっと、もっと他にいなかったのか。声を奪ったって良さそうな人間が、それだけのことをされても仕方ない人間が、世界中に溢れているはずなのに。
逆宝くじ、悪魔のルーレット。まだ十日くらいしか一緒にいないけど、季南千鈴にそれが当たったことを恨めしく思っていた。
「それでは、皆さん、また次回お会いしましょう。演劇ガールでした!」
数秒間手を振っているのを見ながら、録画ボタンを止める。俺はさっきのモヤモヤを脳からゴミ箱につっこみ、「オッケーです!」と叫んだ。
9 外へのお誘い
「よし、撮影終了」
「わー、お疲れ様です! 有斗君、今日もありがとう」
千鈴が制服に着替え直した後、レンタルスペースを出て、編集できる場所を探す。近くにあったカフェは生憎満席だったので、そこから数分歩いたところにあったファミレスのソファテーブル席に座った。
「有斗君、ドリンクバー取ってこようか?」
「ああ、うん、適当に炭酸ほしいな」
「任せて!」
喜んでマシンに小走りしていく千鈴を見ながら、パソコンの準備をする。手早くカメラを繋いで撮影したデータを移していると、彼女はグラスを二つ持っていそいそと戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「これ、何だ……? あ、え、美味い!」
驚いた俺に、千鈴は得意げに鼻を擦ってみせる。さすが演劇部、こういう芝居がかった仕草もお手の物だ。
「最近ハマってるドリンクバーのミックスなの。白ブドウの炭酸にジンジャーエール混ぜて、最後にレモンティーに使うレモンのポーション入れるんだ」
「スッキリしててめっちゃ美味いなこれ!」
「でしょー! 普通のブドウの炭酸でも作ったことあるんだけど、ちょっと甘すぎちゃうんだよね。あと、レモンポーションをもう少し減らすと……」
部活でよく来ていたからだろうか、ブレンドの豆知識を嬉々として話してくれる。どんどん溢れてくる彼女の言葉を、もっと聞いていたくなる。
「……本当に、声、出せなくなるのか」
思わず、口をついて出た問いかけ。目の前でこんなに明るく喋っている彼女の数ヶ月後を、とても想像できない。
「ん、そうみたい。残念だなあ」
前と同じように、他人事のように彼女は言った。顔をやや強張らせて口を変な方向に曲げた苦笑は、自分で決めたことではない運命を淡々と受け入れる準備をしているかのよう。自分で訊いたくせに、俺は返す言葉に迷って「そっか……」と相槌を打ち、二人の間を泥のように重たい空気が流れる。
「っと、ごめんごめん、編集しないとだよね」
沈黙を破ったのは、千鈴の言葉とパンと両手を合わせる音だった。
「有斗君、編集の仕方もちゃんと覚えたいから画面見せながら作業してもらえないかな?」
「え、ああ、いいけど」
向かい合って座っているので、彼女に見えるようにパソコンを横にしながら編集を始める。
といっても、完全に真ん中に置いてしまうとうまく作業できず、やや斜めで俺の方に傾けているので、どうしても彼女には見えづらかった。
「えっと、今のは動画を一部分だけ切ったの?」
「ああ、ここの部分だけスピード速くしようと思ってさ。ほら、よくあるだろ? チャカチャカチャカって動きが早回しになるやつ」
「あ、あるある!」
「途中で出てきた、通学路にいる犬の話、千鈴はカットしていいって言ってたけど、ここだけ再生速度を速めて『脱線中』とかテロップ入れたらいいかなって」
「なるほど、そういう使い方もあるのか! ねえ、もう一度やり方見せてくれない?」
手早くノートにメモを取った後、向かいの席からちょっと辛そうな体勢でぐっと身を乗り出している。
「……隣来る?」
「え、いいの?」
「見にくいだろ、それだと」
そう言うと千鈴は、おやつを出された子どものようにぱあっと微笑んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて!」
俺のリュックを彼女がいる場所に置いてもらい、千鈴は俺の左隣に移動してきた。ファミレスに男女二人で来て隣同士なんて、カップルでもやらないんじゃないかと思うと気恥ずかしくなる。ミルクチョコレート色の髪からアールグレイの紅茶のような香りがふわりと漂い、俺は自分が汗をかいてないか不安になりながら、説明を続けた。
「で、ここでこうやってテロップを被せる。テロップをくるくるって回転させながら出すこともできるけど、アニメーション付けすぎるとダサいし、見てる人も気が散っちゃうからオススメはしないかな」
「うん、確かに普通に出した方が良さそうね。有斗君さ、二、三行あるテロップを順番に出すにはどうすればいいの?」
「それぞれの行を別々のテロップとして作って順番に登場させるしかないな。一行目の三秒後に二文目とか」
「ふむふむ、なるほどね」
シャーペンの墨色で塗り潰されたページを捲り、またメモを書き足していく。よく見るとページの上部に「撮影・編集」とタイトルが記されていた。
彼女が俺の視線に気付く。淀みのない澄んだ目を俺に向け、ノートを持ち上げて見せてくれた。
「お願いするの、今日で終わりのつもりだからさ。ほら、もともと三回か四回の予定だったでしょ?」
「ああ、そっか」
三、四回だけならいいよ、と確かにそういう約束だった。今日で、彼女との撮影も終わり。
「私ちょっと調べたんだけど、有斗君が使ってるソフトって結構高いんだね! 安いのもあるけど、どれも似てるのかな?」
「うん、動画の切り貼りしたり、音やテロップ入れたりするのはどれでもできると思うよ。高いとCGとか入れられたりするんだけど、普通の動画なら要らないしね」
「そかそか、分かった。じゃあまずは安いの買って試してみようっと」
意気込む千鈴だけど、その表情には少しだけ不安が見え隠れする。その後も彼女からの質問に答えながら編集を終え、三本目の「演劇ガール」動画をアップロードした。
「有斗君、今回もありがと! 最後にさ、撮影の注意について聞いてもいい?」
「撮影か……スマホで撮るのか?」
「うん、スマホ用の三脚買って、まずはそこからかな」
「分かった。三脚あれば動画がブレることはないけど、ずっと同じ構図で撮ると見てる方も飽きちゃうから、一本の動画の中でもカメラ置く場所をズラしてアングル変えたり、アップで撮ったりした方がいいよ。あと、部屋でやる場合は明るさとピントに注意ね。休日の昼間に撮影して窓の外の光にピント合ったりすると、思いっきり暗い部屋に見えちゃうから」
「そっかそっか。一人でやるときは私が座った状態でカメラのチェックできないから、一回テストで録画してみた方がいいんだね」
シャッシャッとシャーペンが紙に擦れる音を響かせる千鈴。何度も見ている、少し右上に傾いた綺麗な文字が次々と生まれていく。
この質疑応答が終わったら、彼女とはまた、ただのクラスメイト。せいぜい動画をたまに見て、感想を送るだけの関係になるだろう。
多分、それでいい。動画の作成をするだけの友人なんておかしいし、今以上の関係なんて望まない。
「良かった、これで一人でできるかも! また何かあったら教室で少し教えてもらうかもしれないけど。ありがとね、有斗君!」
パソコンをしまう俺の隣で、千鈴は席を立ちながら挨拶する。
その瞬間、俺は「千鈴」と名前を呼んでいた。
「俺、もう少し手伝うよ」
「え?」
バッと顔を上げて、驚いた表情を見せる千鈴。深くお辞儀する彼女を見ていたら、その言葉が自然と口をついて出ていた。
「いや、でも……」
「いいから。なんだかんだ、撮影とか編集楽しいしさ」
このままだと彼女が下手な動画を作ることになるかもしれない、という罪悪感や責任感で言ったわけじゃない。撮影や編集が面白いというのももちろん本当だったけど、「動画の作成をするだけの友人」でも良いと思えた。彼女が声が出せなくなるまで、近くで支えたいと思った。
「だから、またどっかで次の打合せするぞ」
立ったまま遠慮がちに体を縮こめていた彼女も、嬉しそうに口元を緩める。
「……じゃあ、お願いしようかな。もう一回お言葉に甘えて!」
「おう、良い動画作っていこうぜ」
握手もハイタッチもないけど、お互いの決意は伝わる。もう少し、このタッグで一緒にやっていく。
「そしたらさ、実はちょっと諦めてた企画があるんだけど、有斗君がいるならやってみたいな」
「お、何だよ。言ってみ?」
向かいに座り直した千鈴は、俺がそう訊いた途端、「んんー」と小さく唸り、祈るようにして合わせた手を何度も擦る。顔もどこか赤いし、視線もキョロキョロ左右に動いていて、やや挙動不審だった。
「あのさ、カラフル・パラディーゾあるでしょ?」
「カラパラ……って、あのテーマパークだろ」
「好きな女性の舞台役者さんがあそこでキャラクターとお芝居するんだって。それ観に行っての様子を撮りたいんだけど……」
「…………へ?」
それは、屋外での企画だった。
10 デート、みたいなもの
「ったく……」
去ってしまった夏を惜しむように空が泣いている八日金曜の放課後。傘は持ってきたものの、下は普通の靴で来てしまったので、独り言で不満を漏らす。
ネイビーの傘を揺らしながら1階の廊下を歩いてシューズロッカーに行くと、ちょうど帰ろうと靴を履いている吉住慶と会った。
「よっ、アルト」
「慶、今帰り?」
「うん。たまには一緒に帰ろうぜ」
ワックスをつけた短髪をいじりながら笑う慶に、「おう」と頷いて急いで靴を履く。
小学校・中学校も一緒の学区だったので、ここから駅まで歩くのも、電車で降りる駅も、降りた後にファーストフード店がある交差点まで歩く帰路も全く一緒だった。
「イヤな雨だよな、降らないって言ってたのに。晴れてほしいよ」
「だよな。晴れてほしいぜ」
シトシトと地面を濡らす雨の中、俺が愚痴ると、慶も同調した。俺の左肩の位置にある、曲線の急な慶の青い傘が歩くたびに揺れ傾き、俺の肩にワイシャツの肩に水滴をトトトッと落としそうになる。
「はあ、アルトさ、こんなときにテレポートが使えたらなあって思わない? 歩かないで乗る電車のホームまですぐ移動できるのに」
「……お前さ、テレポートするなら直接家帰ればいいじゃん」
「ダメだよ、そんな遠くまでの瞬間移動はズルいだろ! 日本テレポート協会が黙ってない」
「どういう法律と団体なんだそれは」
くだらないやり取りを続けてにやりと笑う。普段頻繁に話してるわけじゃないのにこうしてすぐにお互いの調子が合うのは、小学校からの幼馴染ならではだろう。
「季南さん、だっけ? YourTube、順調なのか?」
聞きあぐねていたかのように、彼はゆっくりと傘を持ち上げて、俺に視線を向けた。
「ああ、うん。千鈴が色々企画考えてくるから、ネタには困らないでやってるしな」
「おっ、名前呼びしてる。あっやしいんだ!」
「バカ、そんなんじゃないっての」
目を思いっきり見開いて、好奇心たっぷりの表情で慶は俺の腕を肘でつついた後、「順調なら良かった」と安堵の溜息をつく。気にかけてもらっているのが心苦しくもあり、嬉しくもあった。
「……なあ」
リラックスした今の状態で話題に出した方が良いと思い、慶に呼びかける。彼は上しかリムのないメガネの右端を雨粒で濡らしながらも、いつも通り「なんでも聞くぞ」というトーンで「ん?」と真正面を見ながら答えた。
「もし、もしだよ。よくあるドラマみたいに、仲の良い子が不治の病になったとしたら、もうそんなに長くないとしたら、どうする?」
唐突で突飛な質問に、慶は目を丸くする。「何だよ、急にどうしたんだよ!」などと茶化されるかと思ったけど、彼は傘を持っていない右手であごを押さえ、少し考え込んでから「そうだなあ……」と俺に向き直った。
「ベタかもしれないけど、俺だったらその人と思い出を作るかな。忘れないように」
「そうだよな。向こうのこと忘れないようにしたいもんな」
「ううん、違う」
前髪を濡らしたピッと払いながら、慶は俺の返事を打ち消す。
「こっちじゃなくて、相手が忘れないように。自分の体と心をギリギリまで使い切ったって、後悔なく思ってもらえるように、一緒に思い出を作るんだよ」
「……そっか。ありがとな」
「何だよ、変なヤツだな」
慶の言葉がストンと腹落ちする。お礼を伝えると、照れ隠しなのか「相談料」と言って右手のひらを俺に向けた。
不意に千鈴の顔が浮かんだ。生死に関わるわけじゃないけど、治らない病、声を失う病。
千鈴の声は、動画で残る。だから彼女にも、楽しいことを話して、たくさん演じたと、記憶に残るような日々を過ごしてほしいと願う。
「んで、次はいつ撮影なんだ?」
「あ……週明けだな」
明日、と言いかけてやめた。週末にも撮っていると話したら、さっきの冷やかしがまた加速しそうだったから。
「そっかそっか。やっば、雨強くなってきた。家帰る頃には靴がグショグショだな」
アルファルトにぶつかるように勢いを増した雨音とふくれ気味に嘆く慶の声を聞きながら、俺はもう一度「早く晴れてほしいぜ」と呟く。
明日の撮影場所はいつものレンタルスペースではなく、カラフル・パラディーゾだから。
***
十月九日、土曜、朝七時前。部屋にあるタンスと小さいクローゼットを三往復して、着ていく洋服を決めた。
「変じゃない……よな」
姿見に映る、いつもより気合いを入れた服装。普段つけないワックスをちょっとだけつけて髪を遊ばせてみた自分に言い聞かせる独り言。
今日はいよいよ、千鈴とテーマパークで撮影する日だ。
「行ってきます」
両親にどこに行くんだと詮索されないうちに玄関を飛び出す。いつも背負ってるリュックの代わりに肩から提げているバッグが楽しげに揺れる。
道路は乾いていて、昨夜十時まで降っていた雨の痕跡はない。天候も気を利かせてくれたらしく、気温も寒すぎず、雲もほとんどない快晴だった。
動画自体は三日前の水曜にも撮ったので今日が五本目の動画。でも、会議室で撮るのとは全然違う。
だって、これって、その、デートみたいなものじゃないか。高校に入ってから女子と二人で出かけたことがあっただろうか。多分、初めてだと思う。
「うしっ!」
気合いが声の塊になる。久しぶりすぎて緊張と興奮が同時に押し寄せ、駅に向かって走る速度はどんどん速くなっていった。
『降りた。ホームで待ってる』
『分かった! 私も今駅に向かってる!』
チャットを送って、ベンチに座って待つ。目的地はここから電車で五十分。直接現地集合でもいいけど、どうせなら行きに撮影のことも話そうということで、彼女の最寄り駅で降りて合流することになっていた。
スマホに目を向けるが、SNSもネットの記事も「彼女がやってくるのを見逃したくないな」と思うと大して頭に入ってこない。結局、連絡が来たらいつでも気付けるようにスマホを手に握りしめ、上の改札階から繋がっているエスカレーターをずっと見つめる。
やがて、一人のよく見知った女子がカンカンとそのエスカレーターを駆け下りてきた。
「やっほー、お待たせ」
結構走ってきたのか、千鈴は屈伸するような姿勢で膝に手を当てて肩で息をする。
「そんな無理に急がなくてもいいのに」
「いやいや……どうせなら開園前から行ってたいし!」
快速間に合うでしょ、と電光掲示板を見上げた彼女は、平日の教室と変わらない笑顔を見せた。
ホームに並んで電車を待ちながら、ちらと横を見て千鈴の服装をチェックする。
真ん中に英語がプリントされた長袖の白Tシャツに小花柄のネイビーのロングスカート、その上からベージュのダッフルコート。コートの袖はキュッと絞れるようになっているのがオシャレだ。
「有斗君もダッフルコートだ、お揃いだね」
「まあ俺のは普通の袖だけどな」
着ているグレーのコートの袖をパシパシ叩く千鈴。「トグルって手袋してても留められるのがいいよね」なんて話をしているうちに電車が来て、彼女に続いて乗り込んだ。
「どのくらいで乗り換え?」
「三十分くらいだな」
ちょうど二席空いていたので、隣同士で座る。車内には親子連れやカップルが多く、何組かは俺達と同じ場所に向かうんだろうと想像できた。
「あ、見て、入試の問題ある! えっと、五個の球が入っていて……」
塾の広告に載っていた中学入試の算数の問題を一緒に見る。問題を読んでいると、横の彼女の顔がだんだん渋くなってきた。
「……何これ、難しすぎない? こんなの算数じゃなくて数学でしょ……」
「千鈴、数学苦手なんだっけ?」
「いや、公式の応用とかなら別に問題ないけど、こういうシンプルに『数字力』みたいなのは苦手かな……有斗君、あれ分かる?」
脳内で少し考える。頭の中で球に数字を振り、ガラガラと動かす。
「問一は簡単だよな。偶数と五をかけたら十の倍数になるだろ? どっちかの箱には必ず偶数の球が入るんだから、そっちは十の倍数になって三点入るってことだ」
きょとんとしていた彼女は、やがて新たな定理を思いついたの如く目を輝かせた。
「確かに! 有斗君すごい! 天才!」
「おだてるなおだてるな、何も出ないぞ。んなことよりさ、あの漫画持ってる?」
「ちょっと待って、問二以降は?」
「面倒なことはやらない主義だぜ。あの漫画、面白いぞ」
「『完全犯罪のカノジョ』でしょ? 面白いよね!」
漫画の広告、車内動画のグルメ情報とミニクイズ、軽くケンカしながら駅を降りたカップル、そして千鈴が今年見に行ったミュージカル。話題は次々に移り、途切れることはない。
実は電車に乗る前は、少しだけ不安もあった。普段は「YourTube」を共通の話題として話している俺達が、普通に話すことができるだろうか。クラスメイトの話を引っ張りだしても話題が尽きてしまって、お互い気まずいままスマホを眺めるだけになったらどうしようかと考えていた。
でも実際はそんなことはなくて。快活な千鈴の性格にも助けられて、乗っている時間が短いと思うほどに、幾らでも話せる。彼女の好きな音楽、漫画、テレビ、お菓子、ゲーム、家での過ごし方、寝る時間、片付けが苦手なこと、次々と新しい千鈴の一面を知っていくにつれ、綺麗な果実の皮をゆっくり剥いているようなドキドキ感を覚えた。
そして心の中で幸福を膨らませた俺は、ふと我に返ってゆっくりと深呼吸する。目の前の彼女は、俺を男子として見ているんじゃなくて、動画の撮影・編集担当として見ている。他に編集できるヤツがいたら、そいつが今の俺に代わっていただけた。そう思っておけば傷付かないし、万が一男子として見ていてくれたからといって、きっと何がどうなるわけでもない。
「到着!」
一回乗り換えを挟んで最寄り駅に着くと、千鈴はいそいそと広い改札を出て「わあ!」と興奮の声を漏らした。目的地はここから歩ける距離にあり、この構内にもたくさんの看板が出ている。大勢の人の流れに沿うように駅を出て、ペデストリアンデッキを進んでいく。
「カラパラ、めっちゃ久しぶりなんだよね。有斗君は?」
「俺もだな。二年ぶりくらい」
どんなアトラクションがあったっけ、と二人で記憶を探りながら、遠くに見える観覧車を目印に歩いていった。
カラフル・パラディーゾはまだ出来て十五年くらいの比較的新しい屋外テーマパーク。絶叫系のコースターから、ただ鳥が上下に動くだけの子ども向けの乗り物まで、バランスよくアトラクションがある。敷地はやや狭いけど都心からアクセスの良い場所なので、親子で休日に遊びに来たり、カップルで程よい遠出のデートをしたりするのにはちょうどいい場所だった。
「パスポートは……あそこか」
駆け足で先に売り場に並び、千鈴が後から隣に合流した。開園より結構前に着いたので、そんなに並ばずに入園できそうだ。
料金は……ふむふむ、男女ペアだとカップル割があるんだな。ここは男子らしくスマートにきめたい。
「はい、次の方、どうぞ」
「えっと、カ、カップル割を一つ、あ、一組」
「はい、カップル割ですね」
緊張で思いっきり噛んだ。大失敗。くそう、千鈴の前で、ちょっと恥ずかしい。
「はい、千鈴、パスポート」
「ありがと! 開園までもう少しだね」
その場で二十分弱待っていると、遂にゲート前の大きな時計が九時を指す。アナウンスの後に開園となった。ドッと寄せる人の波に押されながら、ゲートをくぐって園内へ入る。レストランとギフトショップが並ぶ通りを抜けると、幾つものアトラクションが俺達を迎えてくれた。
「よし、まずは何から乗ろっか!」
「ちーすーずーさん、お目当てのショーの確認と撮影が先だぜ」
「あ、そうだった。普通に遊びに来たつもりになってた!」
間違えたのがおかしくて堪らないというように、彼女は吹き出す。そして入口のゲートでもらった紙のマップを見ながら、目指す場所を指差した。
「ここ! ここのレストランの横のステージだよ。えっと、初回は……十時半だね。その前に撮影もしたいし、良い席で待ちたいからもう行こ!」
「おわっ」
俺の腕を引っ張って走り始める千鈴。ぽっかりと浮かんでいる二つの徒雲が、忙しなく動く俺達を見物するようにゆったりと風に揺れていた。
「ここかあ。ふふっ、ステージ楽しみだな」
ログハウスのような見た目のレストランの横に、数人が乗って簡単なショーができそうなステージが組まれている。まだ開始まで一時間以上あり、陣取って待っている人はいなかった。
「千鈴の好きな女優さんがパラディーとかに混ざってショーするのか? ヒーローショーみたいな感じ?」
パンフレットに乗っていたショーの案内を見ながら訊いてみる。パラディーはこの園、カラフル・パラディーゾのメインキャラクターだ。
「ううん、そこまで子ども向けじゃないみたい。何人か俳優さん出てきてちゃんとラブストーリーの演技するんだって。で、その途中でパラディーが出てくるみたいな」
「なんかすごいシュールだなそれ……」
だよね、と彼女は口に手を当てて笑う。ショーの案内のページに載っている写真の女性が、千鈴の好きな若手女優らしい。テレビでは見たことがないので、舞台中心に活動しているのだろう。
「あ、ねえねえ、有斗君。あれ、SNSで見た期間限定のドリンクだよ。ちょっと気になるな」
「よし、これで撮影頑張れるなら俺が買ってやろう」
「え、ホント? 有斗君、ありがと!」
エラそうな芝居をすると、彼女もまた演技がかって両手の指を絡めて組み、歓呼した。こういうシーンで男子の気が大きくなるというのは本当らしい。財布の残金など確認せず、カッコつけてしまう。
「お待たせしました、タピオカザクロスカッシュになります」
「有斗君、ホントに嬉しい! ありがとね!」
千鈴はスキップのように跳ねて歩きながら一口だけストローで啜っている。透明なプラスチックの容器に入ったそれは、深い赤色の液体にタピオカがゴロゴロと沈んでいて、炭酸の泡が中で小さく浮かんでは弾けている。色鮮やかで組合せも面白いので、SNSで人気になるのも納得の商品だった。
「じゃあ千鈴、先に演劇ガールの撮影する?」
「うん、先に『これから行ってきます』って感じで撮って、ショー観た後にもう一回感想を撮ればいいよね?」
「ああ、ショーは撮れないからな」
ショーを観た後に、観てないことにして前半部分を撮ってもいいんだろうけど、「ありのままの自分を届けたい」と言っていた彼女はそんなことはしないだろう。
「……あれ?」
ふと、何かを探すのかように、千鈴がキョロキョロと辺りを見回す。
「そういえば、撮る場所ってどうしよう?」
「あっ、確かに……」
外の撮影も過去に何回かやってきたのに、肝心なところを見落としていた。彼女の横で歩きながらスマホで撮るならまだしも、ある程度距離を取ってカメラを回し「こんにちは! 演劇ガールです!」なんて挨拶をしていたら、間違いなくギャラリーが寄ってきてしまう。衆目を集めることは、俺も彼女も望んでいないことだった。
「どこでやるかなあ。あのベンチ……は目立つよな。アトラクションの裏とかでこっそり撮れる場所があれば……」
「いや、なんかそれはそれで、ちょっと恥ずかしい……」
顔をイチゴみたいな赤に染める千鈴。人目につかないところで男女二人で撮影しているのを想像した俺は、「ちゃんとした場所がいいよな!」と慌てて打ち消した。
「そうしたら、レストランで座って撮るか。ちょっとBGMとかうるさいかもしれないけど、それも外の撮影の醍醐味ってことで」
「レストランもちょっと人目がなあ…………あ、ねえ、有斗君、あれは?」
彼女が斜め上、遮るもののない高い空を指差す。その先にあったのは、虹色カラーのゴンドラが幾つも回っている、大きな観覧車だった。
「なるほど、乗りながら撮影ってことか」
「揺れる、かな?」
黙って考え込んでいた俺に、千鈴が不安そうに聞いてきたので「あ、いや、やってみようぜ」と慌てて返す。正直、撮影ができそうかどうかよりも、「女子と2人っきりで観覧車に乗る」ということで頭がいっぱいになっていた。
「私、カラパラの観覧車乗るの初めてだから楽しみ!」
「そっか、俺もだ」
同調してみたものの、俺の場合はカラパラに限らず、これまで女子と観覧車に乗った覚えがない。どうやら人生初らしい、と頭が理解すると、隣の千鈴に聞こえそうなくらい、鼓動が加速していった。
「結構並ぶねえ」
スマホでカラパラのサイトを調べながら、体を右に傾けて列の先を覗く千鈴の呟きを聞く。
「絶叫系除いたら一番人気のアトラクションらしいからな。それより一周一八分だってさ。ちゃんと話すこと考えておけよ」
「げっ、短い! カラパラの思い出とか話そうと思ってたのに」
ちょっとずつ列を進めながら、彼女は下を向いてぶつぶつと練習し始める。至って真剣な表情だけど、漏れ聞こえる声が「お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです!」なんて内容で、そのギャップが面白かった。
「次の方、どうぞ。頭上に注意しながらお入りください」
スタッフのお姉さんに案内され、バッグから出したカメラと三脚を腕に抱えて赤のゴンドラに乗る。向かい合って二人ずつ、四人は座れそうな大きめのゴンドラ。風もそこまで激しくないので、揺れも少ない。
うん、これなら撮れそうだ。すぐに三脚とカメラをセッティングして、向かいの彼女にレンズを合わせた。撮影モードになると、さっきまでの緊張も解ける。この瞬間は「撮影者」と「YourTuber」の関係でいられる。
「有斗君、撮れそう?」
「大丈夫。そっちは?」
「ん、いける」
最小限の会話。それは、お互い撮影に慣れてきた証でもあった。
「基本はいつもみたいに回しっぱなしにしてるけど、途中でちょっとカメラ動かして外の景色映すからね。じゃあ演劇ガール、張り切っていきましょう! 五秒前! 四,三……」
「皆さんこんにちは。お芝居、楽しんでますか? 演劇ガールです! 今日はなんと初めての屋外ロケです! カラフル・パラディーゾ、通称カラパラにやってきました!」
わー、と自分で盛り上げながら小さく拍手をする。他の人の動画も見て研究しているのだろう。大分喋り方が板についてきた。
「早速脱線しちゃうんですけど、まずはさっき買った、ここでしか飲めない炭酸ジュースを飲んでみたいと思います。期間限定、ザクロタピュヨカ……有斗君ごめん!」
「カット! ち・す・ず・さーん!」
商品名を思いっきり噛んだ彼女に、すかさずツッコミを入れる。「ごめんね!」と思いっきり両手を合わせて謝る彼女、「最初からいくよー!」と仕切り直す俺。時間がない中でも、この空間はなんだか楽しくて、二人ではしゃぎながら撮影を続けた。
11 こんな風に始まる恋が
「というわけで、これから剣崎栞さんが出ているショーを見てきたいと思います。その前に、栞さんのこれまでの舞台の中で一番好きな台詞を演じてみますね! 観覧車の中なので動きまではできないですけど……『ハイド&シークァーサー』より」
作品名を口にして、彼女は目を閉じる。すうっと深呼吸して目を開くと、その表情は希望に満ち満ちたエネルギー溢れるものになった。
『自分に嫌気がさして、閉じこもってたの。でも、そのままだと世界って本当に何も変わらないから。ううん、違う。世界は変わらないから、自分を変えなきゃいけない。だから私は、たくさん自分に強く当たった分、今度は世界に体当たりできる自分になるの』
言い終えると、また彼女は深呼吸して元に戻り、「いかがでしたか?」と言って作品の解説に入る。やはり演技というのはすごい。色んな人格を宿すことができる。でも、普段の彼女と演技の彼女が違い過ぎて、それは即ち、彼女が台詞の通りにポジティブに振り切れていないことを示してした。
「では、ショーを観てから感想動画撮りますね。まずは一旦ここまで、演劇ガールでした!」
地上間近の観覧車の中。彼女が数秒間手を振るのを待ってから「オッケーです」と録画を止める。
「千鈴お疲れ」
「有斗君もお疲れ」
三脚とカメラを急いで片付ける。バッグのチャックを閉めて一息ついていると、横のドアがガコンと開いた。
「はーい、ありがとうございましたー!」
さっきのお姉さんが出迎えてくれる。あっという間の一周一八分だった。
「いやあ、本気出したら短時間でもできるもんだな。画面揺れもそんなになかったと思う」
「『多少ブレがあります』って注意つけておけばいいもんね。それにしても観覧車……あーっ!」
突然叫び出した千鈴。続いてガックリと肩を落とす。
「どした?」
「全然外の景色見られなかった! せっかくだったのに!」
「……ぶはっ! 確かに!」
そんな余裕なんて一ミリもなかったもんな。
「もう、笑いごとじゃないよ! 初めて男子と乗った観覧車なのに!」
「お、マジか。俺もだよ、初めて女子と乗った」
「二人で呑気に撮影なんかしてる場合じゃなかったよー!」
「でも観覧車で撮影するの提案したの誰だっけ?」
「私だけどさー!」
千鈴は溜息をつく。彼女も乗ったことがなかったというのがちょっと驚きで、でもそんな「異性と初めて観覧車」という青春を二人とも動画の撮影で塗り潰してしまったのが面白くて、目が合った彼女と一緒に苦笑いした。
「よし、まずはショーを観よう。千鈴、終わった後は近くで撮るか?」
「うん、感想は短くていいと思うし、早く感動を伝えたいからどこかあんまり人目に付かないところでパッと撮りたいな」
そのままステージの前で場所取りをして、ショーを観る。彼女の話していた通り、基本的にはコメディありのラブストーリーがメインのお芝居で、歌やダンスがない分、俺も気恥ずかしさを感じることなく観劇できた。途中で「キャラクターに変えられた人間」という設定でパラディー達が出てきたのも、なかなか面白い設定だった。
「ねえ、有斗君、さっきの見た? 今の栞さんの諦めたときの言い方、すっごく上手だったよね! 後ろの人にはほとんど見えないのに、ちゃんと表情作ってるのもプロだなあ!」
千鈴はと言えば、すっかりこのショー、否、栞さんに夢中になっている。二十代前半くらいの若い女優さんだけど、確かに引き込まれるようなオーラを放っていて、舞台に引っ張りだこだという千鈴の解説も頷けた。
ちなみにその後奥まった休憩スペースで木製ベンチに座りながら撮った感想動画の彼女のテンションは凄まじく、「すごい」と「カッコいい」をそれぞれ七回ずつは繰り返していたと思う。ともあれ、これで今日の撮影は無事に終了、まだお昼前の十一時半だ。
「有斗君、これからどうする?」
「んー、帰って編集かな」
「えっ?」
冗談で言った一言に、びっくりするくらいの反射神経でこちらを振り向く。茶髪の髪がフッと揺れて、隠れていた左耳が露わになった。
「んなわけないだろ。せっかく来たんだし、お金がもったいない。次何乗るか決めようぜ。」
「……だよね! もう、有斗君いじわるだなあ」
「先にお昼の場所決めようぜ」
お金がもったいないなんて下世話な建前を口にしたのは、素直になれなかったから。せっかく来たから二人でもう少し遊びたいなんて、真正面からは言えそうになかった。
そして、まるでデートみたいな数時間が始まる。
「有斗君、絶叫系は大丈夫?」
「ああ、うん。問題ないぜ」
「じゃあまずはアレだね!」
「……ちょっと有斗君、大丈夫? ベンチで休む?」
「うぐ、気持ち悪……まさかあんなに急角度で落ちるなんて……」
「まったく、絶叫大好きYourTuberだったら失格だよ」
「そんなのにはならないよ……」
***
「次はどうする?」
「私、あれ……乗りたいかも」
「メリーゴーラウンドか!」
「高校生で変かな?」
「誰が見てるわけでもないし、いいんじゃない? 良かったら撮らせてよ、動画で一瞬使ったりしたら面白そうだ」
「ええっ、なんか恥ずかしい!」
***
「楽しかった! 次は……メリーゴーラウンドときたら、やっぱりコーヒーカップだよね。知ってた? カラパラのは自分達で回るスピード調整できるんだよ」
「へえ、そうなんだ。俺の三半規管に挑む気だな」
「それそれそれそれー! 回せ回せー!」
「ぎゃああああああああああ! 千鈴、ストップ、ストップストップ!」
***
「あ、パラディーだ! 踊ってる、可愛い!」
「さっきのショーでも思ったけど、着ぐるみにしては動きが俊敏だよな」
「ね、ね、スタッフの人に写真撮ってもらおうよ」
「じゃあ二人で挟もう。千鈴はそっちね」
***
元気な千鈴についていく形でアトラクションを回り、一緒にビッグサイズのハンバーガーを食べる。お土産ショップのパラディー帽子を被って遊び、またアトラクションに乗る。
まるでデートみたいな過ごし方だな、と思っていたけど、多分そうじゃない。
これは、デートそのものだった。
「あーもう夕方だね」
一七時近くなり、園内に西日が射しこむ。陽光が彼女の左半身を照らし、頬をオレンジ色に照らした。
「そろそろ帰らないと」
「じゃあ最後に何か乗る?」
んー、とあごに指を当てながら辺りを見渡していた千鈴は、動きを止めて口角を上げる。
「あれ!」
彼女が指したのは、観覧車だった。
「朝はちゃんと景色見られなかったからさ。いいかな?」
「もちろん。よし、並ぼう」
午前中はカメラを準備しながら並んだ観覧車に、今度は何も用意せずに向かう。撮影ではなく、外を眺めるために、景色を目に焼き付けるために、ゴンドラに乗りこんだ。
「うっ……わあ……」
「すごいな……」
昇っていくゴンドラの中で窓に顔を近づけて、二人揃って言葉を失う。沈みかけの太陽、その光に包まれるビルと街、夜の支度を始めた紫色の上空。ただただ鮮やかな色に包まれた世界は、綺麗とか、美しいとか、そういう言葉すらちゃちに思えた。
「有斗君、今日、ありがとね」
「ああ、うん。俺も楽しかったから」
眼下に広がる、雄大な絵画のような風景に見蕩れていると、横の彼女は子どもがガラスに絵を描く時のように、はあっと大きく息を吹きかけた。
「声が出なくなるまでに来たいなって思ってたから。だから嬉しいの」
その言葉に、心は鉛が入ったかと思うほどズシリと重くなる。何と返事してあげればいいのか、たくさんの言葉が脳内を巡るうちに、人生経験の少ない自分に彼女を導くようなことは言えないのだと気付かされる。
「……色んなところに行こうよ」
「え?」
やがて口から出てきたのは、慰めでも激励でもなく、提案だった。
「前に動画の中で演技してたじゃん。『ワタシね、この世界で与えられたものは、使い切った方がいいって思ってるの』って。体もらったんだしさ、使い切ろうぜ。あ、もちろん……声が出なくなっても色んなところには行けるんだけど、その、喉が大丈夫なうちの方がきっと千鈴も、もっと楽しいというか……」
最後の方はしどろもどろになってしまった。ダラダラと長く、カッコ悪い返事だけど、伝わっただろうか。
「……ありがと。なんか、うん、もちろん『演劇ガール』で声のあるときの私の姿を動画で残すのが一番やりたいことなんだけど、他のところにも行きたいな」
そう返事をした千鈴は、俺の方を見て優しい笑みを見せた。
「有斗君、優しいね」
その表情に、体はバカ正直に反応して、鼓動が高鳴る。目を瞑るのも惜しくて、瞬きが極端に少なくなる。
熱を持った体でしかし、頭だけは悲しいほどに冷静で、いつものようにもう一人の自分が脳内に現れる。諦めと嘲りを混ぜたような目つきで、「君は幸せな学校生活なんて送っていいの?」と呟きを漏らし、体の内側に響く。
だから、俺の返事は至極そっけないものになった。
「……優しくなんかないよ」
あれだけ彼女の顔を見ていたかったのに、こうして病気にもめげずに必至に生きている彼女を目の当たりにすると、自分がとても惨めに思えて、逃げるように視線を逸らしてしまう。
「何の役にも立たない動画作って。役に立たないどころか人を傷つける動画だよ。分別もつかないで、そんな人として最低なことを去年までやってたんだよ。俺は優しくなんかないし、優しい言葉をかけてもらっていい人間じゃないんだ。今手伝ってるのだって、罪滅ぼしみたいなものでさ」
わざと自分を傷つけるようなことを口にする。言葉にしてみて、改めて自分の幼稚さに嫌気が差して、自嘲気味に眉を上げる。反省しているとはいえ、頼まれたとはいえ、俺が動画なんて作っていいのかとやっぱり考えてしまう。
そして、虚勢も張れないボロボロの心の中で、「千鈴にどう思われるだろう」という不安が居座っていた。
彼女も何も言わずに、時折ガコンガコンと音がするゴンドラは静寂に包まれる。暗がりが少しずつ広がる空、観覧車はまだ上昇を続けている。早く終わってほしい。気まずくて、長い間一緒にはいられない。
更に時間が経って観覧車がてっぺんまで来たとき、千鈴が俺の方を見ているのが気配で分かった。
「……罪滅ぼしなんて思わなくていいよ。有斗君はやっぱり優しいもん」
どんな非難も罵倒も覚悟しよう、と考えていた俺に彼女が投げかけたのは、予想とは違う肯定の言葉だった。
「そんなこと……」
「人を傷つける動画を作っちゃってたかもしれないけどさ、そこから一年半くらいずっと後悔して、反省してる。反省の期間がどのくらいの長さならいいかなんて分からない。でもね、少なくとも私は、有斗君が今こうして私を手伝ってくれてることで救われてるよ」
「いや、救うなんて大袈裟なものじゃな――」
「ううん、救ってくれてるよ」
俺の言葉を遮って、彼女がこちらにグッと顔を寄せた。重心が傾き、観覧車がぐらりと揺れる。
「声が出なくなる私の今の声を残してくれてる。私はこんな声でこんな話し方だったんだよって、みんなに紹介できる動画がもう四本も出来上がってるの。それがすごく嬉しい。有斗君たちが標的にしちゃった人数に対して自分一人じゃ釣り合わないと思うけど……それでもね、辛い思い出があることを知らなくて無理やりお願いしたのに、引き受けてくれて本当に感謝してるんだ。そういうところ、すごく優しくて素敵だと思う。ありがとうね」
「……こっちこそ」
もう、一言返すだけで精いっぱいだった。
彼女の一言で、俺のささくれ立っていた心は温泉にでも浸かったかのように落ち着いた。潤って溢れてきた水分が、上へ上へと昇り、目から零れそうになる。
許されることじゃないと分かっていた。ずっとずっと責め続けていた。でもきっと、心のどこかで俺は、「大丈夫だよ」と誰かに言ってほしかったのだと思う。それで何もかもが許されるわけじゃないと知りつつも、苦しみを理解してくれる人を待っていた。
言葉ってすごい。俺達が相手を刺すために使っていたその道具で、二年ぶりくらいに気持ちが安らいでいる。
千鈴がいて良かったと、千鈴を撮る役が俺で良かったと、そんな風に思える。
ずっと蓋をしていたその感情の正体を、もう無視することはできなかった。
「はい、ありがとうございました!」
地上に着き、こっちの事情を知らないお姉さんが、元気にガコッと入口を開けてくれた。
沈みかけの夕日。もう少ししたら光は消え、空は暗く暗く、夜で塗りつぶされるのだろう。
「じゃあ帰るか」
「うん、帰ろ」
ゲートに向かって歩き出す。引き留めるように、向かい風が吹いた。
「寒くなってきたな」
「ね、冬本番って感じ」
手袋持ってきてたかな、と脳内でバッグの中を確認する。目線を下に落としたので、左を歩く彼女の右手が空いていることに気付いた。
予定外のことを急に口にしたら、うまく伝えられない気がする。
だから、言葉には頼らないようにして、手を近づけたい。
「…………っ」
そんな風に想いを伝えて良いのか、動かしそうになった腕を止めた。
いいのか。俺がこんなことをしていいのだろうか。拒絶されたら? 変な目で見られたら? もう動画には関わらないでと言われたら?
勝率の低い賭けに、不安ばかりが募る。
でも、それでも。
この二年間、ずっと自分は、自分を否定することで過ごしてきた。あんなことをした自分が幸せになっていいはずがないと思っていた。もう何も要らないと、要らないから許してほしいと、そうやって世界と繋がるドアを閉じて生きてきた。
さっきの千鈴の演技を思い出す。
『そのままだと世界って本当に何も変わらないから。ううん、違う。世界は変わらないから、自分を変えなきゃいけない。だから私は、たくさん自分に強く当たった分、今度は世界に体当たりできる自分になるの』
もし違う世界を見たいと望むのなら、何かを変えないといけない。どこかで踏み出さないといけない。もし踏み出すなら、勇気を出すなら、その相手は季南千鈴が良かった。
スッと、左手で彼女の手を柔らかく握った。振りほどいてもいいよ、と逃げ道を残すように。
温もりが伝わってくる。千鈴の体温を感じる。
「…………あっ」
千鈴は驚いたようにこっちを見た。俺は目を合わせるのが恥ずかしくて、まっすぐ前を見る。
彼女は、手を振りほどかなかった。優しく握り返してくれた。
「まだちゃんと喋って二週間ちょっとしか経ってないのにな」
俺がそう言うと、彼女は「関係ないよ」とゆっくり首を振る。
「時間なんて別にいいじゃん。お互い、秘密を握った仲だしね」
「……だな」
そうだな。関係ないよな。こんなふうに始まる恋が、あったっていい。
胸の中にあるのは、短い中でもゆっくり、確かに募っていった想いだから。
「千鈴」
「うん?」
「好き、だと思う」
結局口にしてしまった。飾りも捻りもない、たった一言の気持ち。彼女と一緒にいたいという、ただそれだけ。
数秒目が合った後、彼女は空いている左手を自分の頬に当て、「ふふっ」と幸せそうな声をあげた。
「私も。有斗く……有斗のこと、好きだなって思うよ」
「……そっか」
熱が逃げないように、指と指を絡めて、しっかり手を繋ぐ。
十月九日。こうして俺達は、恋人になった。
12 放課後、ドアの内側で
週明け、十月十一日、月曜。全員が土日たっぷりエネルギーを充電したのか、十分間しかない二限の休み時間もクラス内は騒がしい。
「え、それ木澤の彼女? 見して見して!」
「マジで、めっちゃ美人じゃん!」
他のヤツらと一緒に、友人のスマホに群がる。全員が顔と同じくらいスタイルを褒めて、「男子高生」が炸裂していた。
「千鈴、そのヘアゴム可愛いね!」
「えへへ、でしょ? モールのセールで買ったんだよね」
よく通る、聞き馴染んだ声に気を引かれ、ちらと女子グループの方を見る。少し伸びた後ろ髪を、千鈴がハート付きのヘアゴムで縛っていた。彼女は時たま、あんな感じで結んでいる。
土曜のカラパラのデートの後、夜も千鈴と通話した。親が近くにいないか気配を読み取りつつ、万が一、ドアを開けようとしても大丈夫なように鍵をかけてのおしゃべり。緊張したけど、それはそれで面白かった。
そして、日曜夜も話した。特段喋りたいトピックがあるわけじゃないけど、喋りたい相手だから喋る。撮ってみたい演劇ガールの企画、新商品のお菓子、クラスの女子の噂、観たい映画、多すぎる英語の宿題。共通項が多いから話題には事欠かないし、もっともっと彼女を知りたくて、どんなことでも話したかった。千の鈴と書く名前の字の通り、鈴を奏でるように綺麗な彼女の声は電話越しでもとても素敵に聞こえた。
「季南、それ可愛いじゃん」
「お、田淵、ありがと。男子にも褒められるとはね」
ふらふら歩いていた田淵が、千鈴に話しかける。割とイケメンだし、男女問わず普通に話せるので友達も多い。
「よく見ると季南の髪、綺麗だよね。色もいいし艶もある」
「はいはい、それ以上褒めても何にも出ないぞ」
田淵が「マジだって」と言いながら彼女の髪に触れる。その瞬間、俺はグループの輪から抜けて、今まさに通りかかったかのように近づいた。
「おい田淵、女子の髪触るのはセクハラだぞ」
「いやいや有斗、髪はセーフだろ」
「ふっふっふ、それを決めるのは季南だぜ。さあ季南、嫌がるんだ!」
「わーセクハラー! ハラスメントですよー!」
「訴えられてるー!」
一笑い取ってから、俺がさっきいた場所まで田淵を引っ張っていく。
「あっちで木澤の彼女の写真見てたんだよ」
「木澤の! すげー興味ある!」
無事に遠ざけられて良かった。どう考えても嫉妬だったんだけど、モヤモヤしっぱなしでこの後も過ごすよりだいぶマシだった。
「有斗、お待たせ」
「おう」
放課後、俺達が打合せするための集会室。いつも通り机を動かして話せる場所を作っていると、千鈴がドアをカラカラと引いて入ってきた。
一つの長机に向かい合って座る。少し前までは二つくっつけて正方形に近い形にしていたけど、これが今の、俺達の距離。
「どうした? 何か楽しそうだな」
「んー? そう? そうかな?」
秘密を早く喋りたい子どものように、彼女は両手を口に当てて揺れている。
「さっき、田淵が私のこと触ったから止めに来たんでしょ」
「……なんかやだった」
図星だったので、ちょっとそっぽを向く。機嫌が悪くなったわけじゃない。思い出して気恥ずかしくなっただけ。
「うへへ、有斗はかわいいなあ」
俺の頭をポンポンする千鈴。自分が随分子どもっぽく感じられてしまって、拗ねるようにそっぽを向いて「うっさい」と呟く。
「ありがとね、嬉しかった。はい、どうぞ」
彼女の方を見ると、少し斜めを向いて、髪を触(さわ)れるようにしてくれている。何度かその髪を撫でると、むふーっと満足気に目をキュッと瞑って笑った。
何だか今日は振り回されてばっかりだ。でもそれも、悪い気はしなかったり。
「よし、じゃあ次に撮る企画決めるぞ」
「はい、有斗先生! 私、考えてきました!」
ピッと挙手する千鈴。小学一年生のように真っ直ぐ挙げているのが面白い。
「家で舞台の映像を見ながら食べるのにぴったりなお菓子を探すってどうかな? ほら、ポテトチップスとかだと手が汚れるし、おせんべいだと音がうるさいでしょ? あとは重いお芝居だと、甘ったるいチョコはなんとなく合わないとかさ」
「おっ、それ面白いな。当日タブレットとかで映像見ながら試してみるってことか」
「そうそう。色んな種類のお菓子を買っておいてね。で、途中でもちろん作品解説も入れて、興味ある人はどうぞって」
「甘いのとしょっぱいの、両方の部門で選手権だな。予算嵩みそうなら、駄菓子限定とかにしてもいいかも。俺の好きな酢漬けイカとか音も出ないし優勝候補だな」
「あ、それもいいね、みんなマネしやすいし! 私、大好きだから笛ラムネは外せないね」
「なんで観劇に一番うるさそうなの持ってくるんだよ」
ツッコミを入れながら、そして好きな駄菓子の話へと脱線する。脱線から企画が思いがけない面白い方向に転がっていく……なんてことはほとんどないんだけど、楽しいのでなかなか止められなくて、あっという間に五分、十分と過ぎていく。そしてどっちかが「違う違う、企画!」と軌道修正して、またふとしたタイミングで別の話題に移る。それを繰り返し、二人で笑いながら、企画を詰めていった。
「そうしたら、明後日の水曜に撮影でいいか?」
「うん、大丈夫。あとさ、有斗」
千鈴は少し言い淀んだ後、表情を窺うように上目遣いで俺の方を見えた。
「安い編集ソフト買ってみたんだよね。だから今回はそれで編集してほしいんだけど……」
「え、買ったの? 別に俺がやるのに」
「ほら、横で操作見ながらたまに手伝ったりしてさ、いざという時に私もできるようになっておかないとじゃん。有斗がインフルエンザに罹ったりしたら全部自分で作らないとだし」
「縁起でもない予想するなよ」
言いながら、中学のときにインフルエンザの高熱で一週間休んだことを思い出した。同時に、それが一月末の大流行シーズンであったことも。彼女は一月に手術と言っていたけど、具体的な日付は聞いていない。万が一そんな時期に俺が倒れたとして、彼女は自分の話してる姿を撮れるのだろうか。イヤな想像が一気に渦を巻き、俺は振り払うように頭をブンブンと動かした。
「ほら、このソフト買ったんだよ。編集画面とか、なんとなく有斗が使ってるものと似てたから」
彼女はスマホで撮った「デジタルスタジオ」と書かれた大きい箱の写真を見せてくれた。俺が持っているソフトと同じように、中に入っているディスクでパソコンにインストールするのだろう。
「急に無理言っちゃってごめんね。パソコン持ってくるから、一緒に画面見ながら操作の確認できたらいいなって」
「おう、いいよ。撮影終わったらやろうぜ」
「ありがと!」
最後に撮影場所のレンタルスペースを予約して、今日の打合せは終了。机も戻したし、あとは先生達に見られないように出て行くだけだ。
「ふふっ、YourTubeばっかりやってるとデートできないね」
「ん、あ、そうだな」
ドアを開けて外に顔を出し、先生がいないか確認しながらデートの話をする千鈴。俺と目が合わない状態で言ったのは、大した問題と思ってないからなのか、照れてるのを隠すためなのか。後者ならいいな、なんてつい考えてしまう。
「じゃあ千鈴、電気消すぞ」
「外、誰もいないよ、だいじょう――」
入口横の電気を消した俺と、振り向いた千鈴。ドアの前で、思いっきり近距離で目が合う。
顔が変わったわけじゃないのに、ものすごく可愛く見える。少し前は別の顔がタイプだった気がするけど、彼女はあっという間に上書きしてしまったらしい。実際は二秒くらいのはずだけど、十数秒に感じられるくらい、じっと見つめていた。
脈がどんどん速まる。自分が自分じゃないみたいに、熱を帯びてフワフワした気分になる。
視線を彼女から逃さないまま、ガラガラと、ゆっくりドアをしめる。それは、誰にも見られないようにする配慮でもあり、彼女への無言の問いでもあった。
千鈴は何も言わない。ずっと俺に目を合わせている。
「二人っきりですな、千鈴さん」
「そうですな、有斗さん」
照れをごまかすように茶化したのを真似た彼女に、顔を近づける。ドアに後頭部を当てて痛くならないよう、綺麗な茶色の髪を手で押さえながら、俺達は静かにキスをした。
13 夜のオムライス
集会室でのナイショの一件の翌日、十月十二日の火曜日。自販機に行こうと廊下を歩きながら、スマホを開く。撮影がない日でも、昼休みにはこうしてついついチェックしてしまう。千鈴から何か来てたらと思うと、電源を入れながら嫌が応にも期待が高まり、廊下を弾む足取りで軽快に歩いていく。
「締まりのない顔してるなあ、アルト」
「おわっ、慶か!」
彼が急に声をかけてきたことに驚き、思わずバッと後ろに跳んでしまった。
「何だよ急に」
「それはこっちの台詞だよ。どうしたんだよ、なんか浮かれてる感じだぞ?」
不意に彼は、何か思いついたかのように眉をクッと上げ、続いて意地悪げな笑みを浮かべて右肘で俺を小突いた。
「まさか季南ってヤツと付き合い始めたとか?」
「あ……」
図星で反応に困ったまま口を開けていると、慶の表情がみるみる驚きに代わり、俺と同じように口をパカッと開く。
「え、マジで?」
「……絶対言うなよ」
彼は「もちろん」とコクンと頷いた。慶のこういうところは、中学の頃から信頼できる。
「おめでとうな。アルトの彼女は……中学二年のユミぽん以来じゃないか? あ、違うか、三年のときに二ヶ月だけユカと付き合ってたか」
「やーめーろ、過去を全部検索するな」
これだから付き合いが長いってのは困りものだ。
「……ってことで、その帰りに付き合ったんだよ」
「ふうん、この週末にそんなことがあったのか」
校舎二階、よく慶と話す、西側の屋外渡り廊下で、これまでの経緯を話す。自分の過去を曝け出したこと、それを受け止めてくれたことも、俺の過去の過ちを知っている彼には包み隠さず打ち明けられた。もちろん、千鈴の病気のことだけは秘密のまま。
「うん、そっか、うん」
渡り廊下から教室の廊下に戻りながら何度か相槌を打った後、彼は柔らかい笑顔を湛える。
「良かったな。ちゃんとそういうところまで話してるなら、うまくやっていけると思うよ」
購買部の向かいにある自販機でコーラを買った慶は、「めでたい!」といってその缶を俺の胸元に突き出した。
「お祝いの品だ! 安いけど!」
「……いつもありがとな」
ひんやりと冷たいペットボトルを受け取ってお礼を言うと、彼は「昔からの仲だろ」と言って歯を零し、手を振って教室に戻っていった。
プシュッと音を立ててキャップを開け、ぐびっと炭酸を流し込む。いつもはもっと甘ったるいのに、今日は何だかスッキリした味に感じられて、爽やかな気分になった。
「ねえ、北沢」
続いて教室で声をかけてきたのは三橋だった。
「チーちゃんと何かあった?」
「えっ……」
咄嗟の質問に、さらりと否定しなければいけないところを思わず正直なリアクションをしてしまう。
「な、なんで?」
「んー? いや、ワタシ達と話してるときも、よく北沢のこと見てるなって」
彼女の仕草の真似なのか、首をサッと動かして横を見るフリをすると、ポニーテールがポンッと跳ねた。やっぱり女子は鋭い。
「いや、えっと……」
「まあ答えなくていいよ」
答えに窮していると、三橋は「なんとなく分かるから」と言いたげに首を振る。
「楽しそうで良かったな、と思ってさ。なんか、夏の練習のときすっごく塞ぎ込んでてね。それで文化祭終わったら、家の都合で部活休むなんて話になって。たぶん別の理由なんじゃないかなって、ちょっと心配してたんだよ」
親友だから全部打ち明ける、ということではない。親友だからこそ、心配をかけまいと黙って、休みにしたのだろう。
夏に手術の話が決まったと言っていた。その時期の彼女の落胆はどれほど大きかったのだろう。そして、俺や他のクラスメイトが気付かないほどそれを隠していたことも、彼女の気遣いが感じられた。
「チーちゃんのことよろしくね」
「……ああ、任せとけ」
短く、でも力強く言うと、三橋は嬉しそうに俺の肩をポンと叩いて、「何の話―?」千鈴達がいるグループに戻っていった。
***
「やっほ、有斗!」
「走るな走るな、転ぶぞ」
改札を出てすぐ、コンビニの前で待っていると、制服の千鈴が走ってきた。週の真ん中、十三日の水曜日。今日は撮影の日だ。
学校の最寄り駅、桜上水から新宿経由でから乗り換え一回で三十分ほど電車に乗って、五反田駅に着いた。制服姿で一緒に電車に乗ると見つかって噂になりやすいので、これまでと同様、時間をズラして乗ってここまで来た。実際に付き合っているのでバレても特に問題はないんだけど、「内緒の関係って良いよね」と彼女が楽しげにしているので、しばらくは秘密の交際のままになりそうだ。
「私、五反田って初めて降りたよ」
「俺も。高校生だとそんなに用事ないよな」
高級住宅街と副都心のちょうど間に位置するこの駅周辺には、幾つもの会社と大きな私立大のキャンパスの一つがあるらしい。駅ビルに買い物に来ている親子以外は、スーツの人と私服の学生ばかりが目に留まった。
「有斗、今日のレンタルスペース、安かったんだっけ?」
「ああ、三周年記念かなんかで、先着五名は一時間百円だった」
「すごい! いいところ見つけたね!」
古めかしい居酒屋を何軒も通り過ぎ、目的地のマンションへ。やや歓楽街に近い場所で、高校生男女が行くには少し勇気がいる場所にある。終わって出るときは足早に駅の方まで戻ろうと決めて、エントランスに入った。
「わー、シンプル! ただの部屋って感じ!」
部屋に入ると、真っ白な壁に洒落っ気のない大きな机が一つ、椅子が六つ。簡単な打合せができるようになっている、ただただ座って話すしかできない部屋だった。
「よし、今回はポスター持ってきたからな。これ貼って飾っていくぞ」
「それは有斗に任せる。私はカメラやるね」
「いや、斜めになったらカッコ悪いだろ、一緒に貼ってくれ」
「んもう、彼女使いが荒いなあ」
口を尖らせている千鈴はしかし、どこか嬉しそうにポスターの片側を持つ。なんだか先月の文化祭の準備でも、こうやって色紙を二人で持った覚えがある。あの時はまだ、友達ですらない、ただのクラスメイトだったな。
「ねえ、有斗」
「ん?」
「文化祭の準備、思い出さない?」
千鈴は楽しそうに聞く。こういうところの波長が合うのは嬉しい。
「金の折り紙で飾り付けしたヤツな」
「あ、そうそう! 私もそれ思い出したの!」
「千鈴、折り紙クシャってしちゃってな」
「あーれーはー結衣ちゃんの渡し方が悪かったんだよう!」
セロテープを切りながら、彼女はブンブンと手を振って否定した。
まだ一ヶ月前のこと。でも、随分前のことに感じられる。今はもう、呼び方も関係性も大きく変わっていた。
「準備完了! 有斗、カメラのセッティングやっていい?」
「うん、千鈴に任せるよ。俺は三脚やる」
こうしてまた、彼女を映していく。彼女の声がまた一つ、映像になっていく。
***
「ふむふむ、このボタンで動画を切るのね。で、要らない部分を削除して、前の動画を繋げる……できた!」
「な? 動画を繋ぐだけなら結構簡単だろ?」
五反田から少しだけ目黒方面に歩いて行った場所にある、大学生で賑わうチェーン店のカフェ。私服から着替え直した彼女と制服同士で横並びになり、編集の作業を進める。
いつもと少し違うのは、開いているのが千鈴のノートパソコンだということ。彼女が新しく買った編集ソフトを見ながら隣で教えている。画面の構成は少し異なるものの、基本的な操作はそんなに変わらなかった。
「うん、普通に切り貼りするだけなら私もできる気がする」
「難しいのは繋ぎ方だな。暗転するとか次の映像にフワッと移り変わるとかね。あと、音とかテロップもコツがいるから少しずつ覚えていけばいいよ。色んな動画見てると、『こういうテロップの出し方いいな』とか参考になると思う」
「先生、困ったら教えてくださいね」
「うむ、何でも聞きなさい」
両指を絡める形で手を組んでお願いする千鈴と、ふんぞり返る俺。数秒顔を見合わせて、どちらからともなくプッと吹き出す。こういう何でもない一コマがいちいち楽しくて、もっともっと作業していたくなる。
「じゃあここから先は俺がやるよ」
千鈴のパソコンを借りて作業を進めていく。彼女は俺の操作を興味深そうに見ながら、いつも通りBGMやテロップの色などを選んでくれた。一緒に作っていくのももちろんだけど、撮った映像が少しずつ綺麗な「作品」になっていくのが本当に面白くて、動画を作り始めた頃に感じていた楽しさを久しぶりに噛み締めていた。
「よし、アップ完了!」
「有斗、ありがと!」
投稿を無事に終え、カフェを出て駅に向かって歩く。まもなく十九時、ラグビーボールのような楕円の月が、街の喧騒もどこ吹く風、夜をしっとりと照らす。
帰ったら二十時か、さすがにお腹減ったな——
「ねえ、有斗。もし時間あるなら、ご飯食べてかない?」
「え、あ、ご飯?」
親に連絡するか、今日のおかず何て言ってたかな。そんなことを考える前に、口が「行こうぜ」と言っていた。
千鈴と夜ご飯。後で怒られたとしても、家のことは完全に後回しだった。
「ホント? やったあ!」
彼女はサプライズでプレゼントをもらった子どもみたいに真っ直ぐに喜ぶ。そして、俺の腕に両手を絡めてきた。
「夜デートだ!」
「……だな」
どこの店に行くか、色々話し合ったはずなんだけど、舞い上がったのか緊張しすぎたのか、記憶が曖昧。気が付いたらオムライスの専門店に入って、二人でメニューを選んでいた。
「俺はオムハヤシにするかな」
「んん……私は……ホワイトシチューのオムライス……いや、オムハヤシも捨てがたい……ううん、でも……」
メニューを強く握って唸っている千鈴に声をかける。
「半分こするか?」
途端にバッと顔を上げて、目を輝かせる。
「いいの? じゃあホワイトシチュー!」
「オッケー。セットでジュースも付けようぜ。何にする?」
「ううん、ジンジャーエールにしようかな。炭酸強めのヤツね!」
「それは店に言ってくれ」
千鈴と一緒に長い時間を過ごせることがただただ幸せで、彼女の病気のこともしばし忘れて、この瞬間を慈しむ。
「ねえねえ有斗、今週の土曜日なんだけどね」
「ん? 十六日か?」
オムハヤシのソースをスプーンでかき集めていると、千鈴がポツリと日付を口にした。
「一日空いてるんだよね」
それなら撮影するか、と聞こうとすると、彼女は顎に手を当てて斜め上を向き、嘆息してみせる。
「あーあ、誰か誘ってくれないかなあ」
それは、甘えたな演技が光る、彼女らしいアピール。うん、いいさ、俺も乗っかってやるぜ。
「千鈴さ、今週土曜日、空いてるならどっか行かないか? 動画撮影抜きでさ」
途端に彼女は、いつものようにむふーっと口元を緩め、「んっ!」と頷いた。
「どこ行きたいんだ? 安い席が空いてればお芝居でも見に行くか? 好きなのやってるか分からないけど」
「ううん、そういうんじゃなくていい」
明るい茶色の前髪をスッと横に払いながら、普通のがいいな、と彼女は続ける。千鈴の視線に合わせて窓の外を見遣ると、大学生らしきカップルが歩いている。女子の方は、有名な雑貨屋のロゴの入った、ポーチ大の小さな袋を嬉しそうに揺らしていた。
「普通に映画見て、ハンバーガー食べて、ウィンドウショッピングしてさ。そういうのやりたい。有斗となら、きっとそれだけで楽しいから」
彼女の言葉は本当に呪文みたいで。ただの音声なのに、いつも編集している波形のデータなのに、俺の体を熱くさせ、胸の中の鐘を軽やかにリンゴンと鳴らす。
俺がどれだけ嬉しいか、彼女に伝える術はあるだろうか。すぐには思いつかないから、代わりにスマホを取り出して、「俺も、きっと楽しいと思うよ」の気持ちを画面で伝える。
「映画、見たいのある?」
「あ、ここ新しい映画館だよね? うーん、『君と星空の下で』ちょっと気になってたんだよなあ」
髪が触れ合う間合いで小さい画面を覗き込み、見たい作品を探す。それは本当に普通の、高校二年生の青春だった。
14 幸せな点呼
「悪い、遅れた!」
地下鉄池袋駅の地下改札を出てすぐに左方向へ。比較的人が少ない円柱状の柱に背中を預けながら音楽を聴いていた千鈴は、パッとイヤホンを外す。
「んーん、私も今来たところ」
言ってみたかったんだよね、と彼女は歯を見せて笑う。そして、目線を少しだけ上げて小さく叫び声をあげた。
「髪、ちょっと立ててる!」
「たまにはな」
すました顔で答えたけど、思うようにキマらず、鏡に黒髪を映しながら一五分くらい格闘した結果、電車を一本逃したのは秘密だ。
「まずは映画だね。有斗、案内よろしくね!」
「おうよ、任せろ」
彼女の数歩先を歩き、地上に上がる階段を昇り始めた。
出かけると決めてからは木曜・金曜が信じられないスピードで過ぎていき、十月一六日の土曜日はあっという間にやってきた。過ごしやすい気温、雲一つない秋晴れの、絶好のデート日和。
天候の恩恵に預かっているのは俺達だけじゃない。路線が幾つも交わるこの大きな駅の周りは、親子連れ、カップル、男子グループと、様々な人達でごった返している。大通りは歩行者天国になっていて、家電量販店やファミレスの入口はわいわいと賑わっていた。
「今日は撮影のこと考えなくていいから気が楽!」
「俺もカメラとかパソコンないから身軽だな」
「ホントだ! いいね、そのバッグ」
カラパラのときとは別の、持ち手が付いたターコイズブルーのバッグ。細身だから物はあまり入らないけど色は気に入っていて、こういう特別な日に使う。
「私のバレッタと一緒の色だね」
「おっ、綺麗だなそれ」
千鈴がベージュのバッグから出した三角形のバレッタも、同じターコイズ。それを見つつ、俺は彼女の服装をまじまじと見た。
黒いセーター、グレーにチェック柄のフレアスカート。いつもは被っていない、もこもこの白いファーベレー帽が可愛い。ちゃんとオシャレしてきてくれているのが分かって、それだけで胸がいっぱいになった。
「あ、じゃあこの席でお願いします」
映画館について真っ直ぐカウンターに行き、二席分のチケットを買う。財布を取り出していると、横から千鈴が「私の分」と千円札を渡してくれた。
「飲み物とかどうする? 炭酸とか買う?」
俺の提案に、千鈴は「買う!」と親指をピッと立てる。
「あとせっかくだからポップコーンも食べよっかな。有斗も食べる?」
「いいね、食べようぜ」
列に並んで、モニターを見ながら味とサイズを選ぶ。男友達と来てたら多分買ってない。千鈴とだから、食べたい。
「良い席だね!」
スクリーンの後方、やや左寄りの真ん中。個人的にはこのくらい後ろの方で見るのが好きだった。「君と星空の下で」は公開されてしばらく経っているからか、かなり空いている。今日の上映も、昼前のこの回とレイトショーだけだった。
「予告編って結構楽しみなんだよね。あれもこれも見たくならない?」
「分かる。行きたいのあったらまた来ようぜ」
耳打ちするように話していると、館内が暗くなり、予告編が流れる。来年二月公開の作品の次は、来年四月公開の作品の紹介。さすが大ヒット映画の続編、随分前から宣伝を始めている。
公開される頃には、隣にいる彼女は声を失っているのだろうか。映画館には来れる、一緒に見られるけど、感想をワイワイと話し合うことはできない。ハリボテのポジティブを纏っても、想像の及ばない不安がむき出しになって、頭をぐるぐると回る。
「これ、見たいな」
呟きながら、彼女の手を握った。彼女がいなくなるわけじゃない。冬だって春だって、そばにいる。それが今の自分にとって唯一の救いだった。
「え、何?」
少しだけ声が聞こえたのか、俺の方に顔を寄せてくる千鈴。
「いや、俺これが――」
彼女の方を向く。てっきり耳を近づけているのかと思いきや、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目と目が合う。スクリーンの光で、唇が仄かに照らされる。
前後左右、人がいないことに感謝しながら、暗がりの中で静かに唇を重ねた。
「思ったよりテーマ深かったな」
「うん、すっごく感動した」
「千鈴めちゃくちゃ泣いてたじゃん」
そうなんだよー、と彼女はハンカチで目尻を押さえる。注射をした後の園児のように、目を真っ赤にしていた。
「私、最近いっつもスマホで映画見てたけど、やっぱり映画館だと違うよね。音もすごいし」
「そうそう、臨場感あるよね」
お昼のピークを越えている一三時半過ぎ、映画館を出て大通りまで戻る。気温がさらに上がったからか、池袋は映画を観る前より通行人が増えていて、賑わいの中で皆が各々の休日を謳歌していた。
「有斗、ご飯どうする?」
「んっとね、この近くだと候補は……ピザの食べ放題、玄米ヘルシー和食、新しくできたうどん屋とかかな」
調べてきたお店を伝えると、彼女はふんふんと嬉しげに相槌を打つ。このままだと「どこでもいいよ」という流れになりそうだ。俺はスマホのロックを解除し、とっておきのサイトを見せる。
「あとは……こことか」
「わっ! わっ!」
そのリアクションで一目瞭然。俺は千鈴にぐいっと腕を引っ張られ、目的地のビルまで案内させられた。
「そろそろ来るかなあ」
「千鈴、それちゃんと残しとけよ? これから口の中大変なことになるから」
「はいはい。有斗、お母さんみたい」
フライドポテトにマヨネーズとケチャップをたっぷりとつけながら、千鈴は軽く膨れてみせる。
飲食店が集まるビルの三階。夜はバーになるらしいけど、昼はカフェになっているレストラン。ランチメニューにはパスタやステーキの文字が並ぶ。
そして、ランチタイム限定の目玉メニューも。
「お待たせしました、ジャンボパフェになります」
「うっわあ、すごい! ヤバい! 大きい! 写真撮りたい!」
ありったけの誉め言葉を連呼しながら、スマホでパシャパシャと写真を撮る千鈴。
高さ四十センチ、総重量二キロと紹介されていたジャンボパフェ。下から、コーヒーゼリー、コーンフレーク、チョコソース、フルーツポンチと層状に作られていて、奇を衒っていない「パフェの王道」といった作り。大粒いちごにバニラアイス、そしてこれでもかとたっぷり生クリームが盛られた壮観な頂上を眺めるだけでテンションが上がる。
「千鈴、器持って。撮るよ」
「ホント? じゃあお願い!」
顔の横に器を持ってくる。「冷たい! 早く!」と文句を言いながら、彼女の声はワクワクに満ちていた。その後に「有斗も!」と言われ、俺も持つことに。店員さんに見られるのが、ちょっとだけ恥ずかしい。
「よし、では撮影も終わったところで……バトル開始! いただきます!」
「いただきます! 私生クリームから攻める!」
取り皿もついてきたけど、崩してお皿に乗せるなんてもったいない。互いにスプーンで上から掬い、ダイレクトに口に運んでいく。クリームに飽きたら、中を掘っていってアイスやフルーツを楽しむ。カラフルなダンジョンを、協力して攻略していった。
「口の中が甘いー!」
「おい千鈴、いちごばっかり食べるな! 酸味は貴重なんだぞ!」
「しばらく有斗はクリーム担当ね、私はコーンフレーク担当」
「なんて甘くないのばっかり担当するんだよ!」
大騒ぎして、大笑いする。週末のお昼も、千鈴と一緒ならイベントに変わる。
「いいの買えたか?」
「うん、満足!」
最後の方はお互い「なんでこんな目に……」と愚痴をこぼしながらパフェを攻略した後は、近くのビルに入ってウィンドウショッピング。普段歩くことのない、レディースのフロアを一緒に見て回った。ひそかに憧れていた試着室の「これどう?」もやってみたけど、正直女子のファッションはよく分からなくて、「似合うよ」しか言えなかった。でも、本当に似合ってたんだから仕方ない。
「さてと、次はどうするかな……」
時間は一五時半。池袋には幾らでも店があるから、お茶してもいいし、雑貨の店や本やを何軒かはしごすることもできる。
「あ、ねえ、せっかくだからあそこ!」
「…………え?」
千鈴は指差した先にあったのは、チェーンのカラオケ店だった。
「いや、でも、その……」
普通に歌えるのか、喉に負担かかるんじゃないか、悪化しないのか。色んなことが頭を巡ってしどろもどろになってしまう。
「大丈夫だよ」
彼女は、俺を諭すような口調になる。強めの風が吹いて、帽子のファーの毛先が細かく揺れた。
「無理はしない。それに……年明けたらどのみち歌えなくなっちゃうから」
「……じゃあ入るか!」
「ん!」
俺も千鈴も、駆け足で入口に入っていく。
結末の分かり切った、後戻りできない筋書き。それを蒸し返してしんみりしないようにしよう、デートらしく過ごそうという暗黙の了解が、俺達に明るさを取り戻させた。
「じゃあ私からいきます!」
「お、広橋カナデじゃん。キー高っ」
「へっへっへ、歌だと声変わるんだよ~」
ハイトーンで、それでいて透き通った彼女の声を聞く。次の曲なんか選ばずに、歌っている彼女を目に焼き付け、その声を耳に閉じ込める。
あと何回見られるかとか、そんな悲観的なものじゃない。ただただ、綺麗だな、好きだな、という無垢な想いで、俺の頭の中に彼女を録画していった。
「よし、次は有斗!」
「じゃあ……これ!」
「あ、いいね、Robot Limitedだ!」
二番でもう一本のマイクを渡して一緒に歌う。一曲終わるたびに、帰りたくない気持ちが初雪のように積もり、堪らず三十分延長したのだった。
「はー、楽しかった!」
地下鉄の副都心線に揺られながら、千鈴は吊革を支えに満足そうに伸びをした。一八時を過ぎ、車内は帰る人で混み合っている。「今日は友達と遊ぶので遅くなる」と家に伝えてあるので、彼女を送って帰ることにした。
「千鈴の家の方、結構混むんだな。うちは休日のこの時間なら絶対座れる」
「住宅街だし、路線が一本しかないからねー」
彼女と俺の家は電車で一時間弱離れているから、簡単に会える距離じゃない。多くの生徒が自転車で通学しているという高校の話を聞くと、今は羨ましくもなる。
「ここで降りまーす」
彼女に案内され、学芸大学前で下車する。改札を出ると、すぐ目の前にスーパーが出迎えてくれた。
ここが千鈴が住んでる街か。兄弟はいないと聞いているから、ここで家族3人で暮らし……あれ、ちょっと待って。気軽に「送るよ」なんて言ったけど、両親が生活してるってことだよね? まずい、見つかったらどうしよう……なんて挨拶すればいいんだ? 千鈴とはどういう関係だって説明する? 彼氏って言っていいのか? 友達にする? いや、帰りに送りに来てるのに、さすがに無理があるか……?
「どしたの、有斗? 怖い顔してる」
覗き込んできた千鈴に、苦笑いで唇を掻きながら答える。
「いや……千鈴のお父さんやお母さんと鉢合わせしたら気まずいなって……」
一瞬きょとんとした彼女は、ブッと勢いよく吹きだした。
「有斗、心配性だなあ! ないない、この時間なら家にいるよ」
会いそうなら送りなんて断るし、と言って、俺の左手を掴む。手のひらの体温を確かめ合うように擦ったあと、簡単に離れないよう指を絡めた。
「もう冬だねー」
長く息を吐く千鈴。寒すぎもせず、息も白くならない、まだまだ秋の真ん中、でも、彼女にとっては今年の秋や冬は短すぎるのかもしれない。街灯のない通りで見上げる雲のない空、アンドロメダだけがやけにくっきりと見えた。
「ここのコンビニにいる店員さん、めちゃくちゃせっかちでさ。買ったものすっごい勢いで袋に入れるんだよ。だからサンドイッチとか買うと軽くつぶれてるの!」
「一人でタイムトライアルでもしてるのかな」
くだらない話が楽しいし、寒くないし、このままずっと一緒に歩いてたいけど、そうもいかない。
「ねえ、有斗。家の前まで来てくれるの?」
「え? あ? うん、そのつもりだけど」
すると彼女は、近くの人気のない公園を指差した。
「ありがと。もうすぐ家だからさ。今のうちに挨拶しよ」
「ん」
ザッザッと砂を蹴って、公園の中に入る。月の柔らかい明かりと街灯に照らさせ、遊具が俺達を見守るように静かに眠っていた。名残惜しくて、包み込むように抱きしめた。
「有斗、今日はありがとね。また行こ?」
「もちろん」
彼女のおでこに顔を載せる。半径三十センチの、ぬくもりがぶつかる距離の会話。
「千鈴」
「……ふふっ、有斗」
用もないのに名前を呼んで、意味もないのに呼び返される。それは、世界で一番幸福な点呼。
そして喋るのもまどろっこしくなって、別に言葉なんて要らなくなって、キスで伝える。
「それじゃ、行こっか」
そうして公園を出て、手を繋がずに少し歩き始めた、まさにそのタイミングで、一台の自転車が止まった。
「あら、千鈴」
「お、母さん!」
「あ、え、ちょっ」
動揺した千鈴が素っ頓狂な声を出し、俺は言葉にならない叫びをあげる。自転車から降りた千鈴のお母さんは、カゴにエコバッグを乗せていた。パーマを当てた黒髪を後ろで縛り、厚手のシャツに長めのスカートという格好の彼女は、頬がこけていたものの目元や鼻の形は千鈴によく似ていた。
あ、危なかった……もう少しタイミングがズレてたら、公園でハグしているのを見られるところだった……。
いや、そんなことを考えている場合じゃない。ちゃんと挨拶しないと。さっきは「友達で通るか?」なんて思ってたけど、やっぱりきちんと言おう。
「こんばんは。千鈴さんとお付き合いしています、北沢有斗です。よろしくお願いします」
姿勢を正して一礼すると、お母さんは俺よりも深々と頭を下げたので、少し戸惑ってしまった。。
「千鈴がいつもお世話になってます。本当に……ありがとうございます」
「いえ、そんな、俺は――」
「ちょっとお母さん、大げさ過ぎだって!」
どう答えようか迷っていた俺の返事を千鈴が遮る。それは、俺にも自分の母親にも気を遣っているようだった。
「北沢君、千鈴のこと、色々遊びに連れて行ってあげてね」
「もう、お母さんってば!」
二人のやりとりを聞きながら、つい千鈴のお母さんの気持ちになってしまう。
自分の子どもの声が無くなるというのは、どれだけ辛いのだろう。当たり前にあったものが当たり前でなくなってしまう。自分の父母に置き換えて想像するだけで心に穴が空きそうになるほど寂しいのだ。子どもともなれば、その寂寥感は何倍も大きいのだと思う。
「有斗、じゃあここで。またね」
「おう、またな」
こうして、初めての動画を撮らないデートは終わった。最後に少しだけしんみりしたけど、千鈴と一緒にいる間はずっと楽しかった。帰り道も、家に帰ってからも、あれこれ思い返して自然と顔が綻んでしまう。
俺達なら何の問題もない。この先に千鈴のちょっとした困難があっても関係なく、乗り越えていける。
そう、思っていた。