1 放課後の呼び出し

「なあ直樹、ゲーセン行こうぜ!」
「月曜行ったばっかじゃん」
「俺は漫画の新刊見たいから本屋の方がいいな」
「ねえ、今リンク送ったMV、ヤバくない?」
「あ、これ見た! 分かる、イントロから泣けるよね」

 三日前の日曜日、九月一九日に文化祭が終わって緊張感が緩んだせいか、帰りのショートホームルームが終わった後の教室はどこかフワフワした空気が漂っていた。

 残暑も大分和らいでいて、下敷きをうちわ代わりにして扇いでいる人はいなくなったし、俺を含めた多くの生徒が「朝は意外と冷え込む」と衣替えを待たずにブレザーを着ている。

有斗(あると)、文化祭の写真、今送ったぞ」
「おー、サンキュ」

 チャットのグループトークに四枚の写真が送られてきた。「黒崎高校二年七組 大正浪漫喫茶」と大きく書かれた黒板の前に、俺を含む男子五人で、濃紺の袴に黒の羽織姿で立っている。

 五月に体育祭、七月に修学旅行を終えているので、二年生もいよいよ受験生へと秒読みが始まりそう。今はそのちょうど谷間の時期。部活のないクラスメイトは、それぞれ自由な時間を謳歌していた。

 俺もその中の一人。教室に残る必要はないけど、家に帰ってもやることはないので、なんとなく教室で過ごしている。

「なあ有斗、この動画見てみろよ」
「お、見るよ。リンク送って」

 友達の水原がそう言って隣に来ながら、動画のリンクを送ってくれた。「【高学歴オンライン家庭教師】数列のシグマを徹底解説!」とタイトルの付けられたその動画は、最近始めたらしい女性YourTuberの投稿だった。モデルのように綺麗な女性が、白衣を着てホワイトボードをを使って解説している。高学歴は本当らしく、確かに説明も例題も分かりやすかった。

 ただ、動画の作り方自体はまだ慣れてないらしい。雑談を切り貼りしてる部分は少し間延びしてるし、いきなりオープニングに入らない構成の方が視聴者の目を引き付けやすい。

「どう、結構分かりやすくない?」
「うん、普通に受験勉強で使えそうだな。あとこの人すっごく美人だけどタレント?」
「いや、普通の学生らしいよ。この調子で他の教科もやってほしいなあ」
「水原はこういう顔の女子好きだもんな」

 動画のクオリティーの話は口に出さずに、バカ話に興じる。そのうち、他の友達も集まってきて、ワイワイと動画を見ながらの数列の復習が始まった。

 こうして輪の中に入って騒いでいるのは楽しい。でも、こういうときには決まって、頭の中でもう一人の自分が顔を覗かせる。怒っているような、あるいはどこか嘲るような表情で、「君に幸せな学校生活を送る資格なんてないのに」と呟く。小さく、でもはっきりと聞こえる声で。

 そして俺は、笑顔を抑えて帰り支度を始める。楽しい場所にいると決まってこうだ。こんなときは早く帰った方がいい。ベッドに寝転んで、一人で過ごそう。

「ねえ、北沢(きたざわ)

 黒のリュックにペンケースを入れていると、頭上から不意に声をかけられる。座っている机の真正面に見える灰色のプリーツスカートからネイビーのブレザーへと目線を上げていくと、そこにはクラスメイトで中三でも同じクラスだった三橋(みはし)咲乃(さきの)が立っていた。

「三橋、何か用?」
「あのさ、チーちゃんが話があるんだって」

 黒髪のセミロングを揺らして三橋が後ろを振り向くと、同じくクラスメイトの季南(きなみ)千鈴(ちすず)がひょいっと顔を出した。

「季南、どうしたの?」

 これまで二人でまともに話したことなんて数回しかないであろう彼女は、次の言葉を探すよう「あー……」と小さく声を漏らした。直前まで友達とはしゃいでいたのか、学年色のエンジ色のネクタイが少し曲がっている。
 やがて彼女は、周りを気にするようにチラチラと確認した後、俺の耳元に顔を寄せた。

「北沢君、ちょっとこの後、大丈夫?」

 何の話なのか全く分からないけど、用事があるわけでもないから断る気にもならない。

「ん、別に大丈夫だけど」
「良かった、じゃあちょっと一緒に来てくれる?」
 俺の答えに安堵したのか、彼女は柔らかく微笑んだ。


 その笑顔に少し見蕩れつつ立ち上がり、俺は四月に一緒のクラスになってから初めて、彼女のことをまじまじと見る。

 明るい茶色の髪は、首がギリギリ隠れないくらいのミディアムヘア。前髪は外にハネていて、隙間からちらっとおでこが見えている。目鼻立ちも整っているし、顔の輪郭もシャープで、クラスの男子が「可愛い」と言ってるのを何度も聞いたことがある。実際、笑いかけられた俺もドキッとしてしまった。

 ハイテンションというわけではないものの快活な性格の季南は、クラスでも男女誰とでも仲良くやっている。彼女をいつも目で追っているから知っているというわけじゃない。演劇部で役者をやって鍛えているからか、彼女が話す声は教室でもよく聞こえるのだ。通るけど耳障りじゃない声を響かせて、友達と話したりはしゃいだりしているその姿は、さながら雪に喜んで吠えながら庭を駆け回る犬のようだった。

「なあ、季南、どこに行くんだ?」
「えっと、空いてる教室に行こうと思って」

 二階の廊下を曲がり、屋外の渡り廊下で北校舎に向かいながら、俺の三歩前を歩く季南は頭の後ろで手を組んで返事をする。
と、突然、「そうそう」とこっちを振り返った。

「北沢有斗って語感いいよね!」
「そうか?」
「うん、アルトってのがいい。音楽のアルトから取ってるの?」
「ああ、うん、なんかそうらしい。父さんと母さん、合唱団かなんかで出会ったんだってさ」
 中身のない雑談をしつつも、俺の頭の中では色々な想像が渦を巻いていた。

 放課後、高校生の男女、空き教室。脳内で何回キーワードを検索しても、ヒットするのは「告白」だけ。でも、そんな期待は全くなくて、逆に何か文句でも言われるのでは、と不安を抱いてしまう。

 なにしろ、彼女とはほとんど接点がない。元気で割と目立つ彼女は、この前の文化祭でも主要キャストの一人を演じていた、と見に行った友達が話していた。一方の俺は、そこそこ友達ともうまく付き合いながら、なるべく目立たないようにしている。文化祭のクラスの出し物では装飾チームで一緒になったけど、チームは十人もいたし、彼女と絡んだのも数回だけだ。
 告白の訳がないし、他にどんな用事があるのか見当もつかなかった。

「あ、ここ空いてるみたい」

 ずぶずぶと思考の深みに入っていた俺を現実に引き戻す、弾むような季南の声。三階の西端、「集会室」と書いてある部屋の引き戸をガラガラと開ける。長机や椅子の他に、パイプ椅子やホワイトボード、教卓が置いてあるその部屋は、集会室というよりほぼ備品置き場と化している。「鍵かければいいのにね。まあこんなの誰も盗まないだろうけど」と冗談っぽく口にしながら、彼女はパチンと電気を点けた。

「北沢君、 座る場所作るから手伝ってくれる?」
「あ、ああ」

 彼女から指示されるがまま、天板同士を合わせるように反転して重ねられている長机をおろし、二台の長辺同士をくっつけて大きな机にする。続いて、折りたたんで重ねられていたパイプ椅子を取り出して手早くガシャガシャと開き、お互い向かい合わせに座った。

「あのさ……変な質問なんだけど、北沢君、今彼女いる?」
「え? あ、いや、いないけど」

 突然彼女の有無を聞かれ、一瞬だけ「やっぱり告白なのかな」と思い、すぐにそれを打ち消す。そんな仲でもないし、万が一そうだったとして、自分なんかが受けていいはずがない。楽しい学校生活を送っていいはずがない。それでも彼女の言動一つ一つに心が右へ左へ揺らされ、なんだか落ち着かない。
そんな俺の動揺に気付いていない彼女は、喜色を湛えて両手をパンと合わせる。

「いないなら良かった。ちょっと相談しやすくなる」

 ホッと安堵の表情を浮かべ、季南は胸を撫でおろす。そして、どんな相談が来るのか、なんて想像を巡らせる前に、季南千鈴は、続けて口を開いた。

「実は……私、YourTuberやってみたくて」
「……え?」
「友達から噂で聞いたんだけど、北沢君、前に何人かのグループでYourTuberやってて動画の撮影とか編集担当してたんでしょ? それで、少しだけ協力してもらえないかなって」

 その質問に、さっきまで活発に体内を動いていた血液が瞬時に巡るのをやめたかのような感覚に陥る。一年前を、動画で同い年くらいの人たちをたくさん傷つけたことを思い出して、体が芯から冷たくなっていく。

「北沢君?」

 思うように表情が作れず、呆然としている俺の顔を、季南が身を乗り出して下から覗き込んだ。

 例えば、運命の歯車みたいなものがあるのだとしたら、俺と彼女の、大きさも歯形も全く違う歯車が、今ここに二つ並んでいる。噛み合うことのなさそうなそれは、コツンと音を立てながらぶつかった。



 2 彼女のお願い

 夏を過ぎて日が短くなったとはいえ、夕方前はまだまだ昼のように明るい集会室を、静寂が包む。離れた校庭から、俺のリアクションを急かすように運動部の甲高いホイッスルが小さく聞こえた。

「誰……から聞いたんだ、俺の動画の話」
「咲ちゃんだよ。部活の時にさ。中学三年のときに一緒だったんでしょ?」
「ああ、三橋も演劇部だったな。ごめん、自分からはその話言ってなかったから、ちょっと気になってさ」
「え、そうなの? ごめんね、他のみんなには言わないでおくから」

 両手の平をパチンと合わせて頭を下げる。俺が口外してほしくないことを察してこんな風に気遣ってもらえるのは、内心とてもありがたかった。

「協力の件、どうかな? もちろん、動画の企画はちゃんと自分で考えるし、撮影や編集も少しずつ覚えていくからさ」

 二人でほとんど話したこともないクラスメイトから動画の手伝いをお願いされる。藪から棒、とは正にこのことだった。

「それで彼女のこと訊いたのか」
「そうそう。もしいたら放課後一緒に作業するの、相手も嫌がるかもしれないと思って。私も相手いないからちょうどいいし」

 なるほど、そこまで気を回したうえで、頼もうと考えてくれたのだろう。
 でも。

「なんでYourTuberなんてやりたいの? お小遣い稼ぎ?」

 敢えて放った意地の悪い質問に、「んん」と彼女は右手でおでこを押さえる。茶色の前髪が、返事に悩んでいるようにフッフッと左右に揺れた。

「そういうのじゃないの。ちょっと、どうしてもっていうか……」

 その答えに、俺は彼女に聞こえないように溜息をついた。
 色んな企画を動画にして、配信サイトであるYourTubeに投稿する、通称YourTuber。趣味でやっている人も多いけど、かなりの人気が出ると再生数に応じてお金が入るようになるので、子ども達にとっては「楽しそうな仕事!」と人気の職業になっている。お小遣い稼ぎや一攫千金を夢見て多くの人が参加しているので、普通の動画では抜きんでた人気を取ることは難しい。過激な企画も増えてきたし、「ダンス系」「大食い系」さらには「DIY系」「溶接系」など特定の分野で勝負するYourTuberも次々に出てきていた。

 そんなYourTuberにどうしてもなりたい、というのはどんな理由なんだろう。クラスの女子と話しているときに話題に挙がったのだろうか。「千鈴やってみたら? 人気出るって!」などと焚きつけられて、やる気になったのだろうか。はたまた、SNSのフォロワーを増やすための作戦の一つだろうか。
 いずれにせよ、そんなところだろう。手伝う気にはなれない。

「ごめん、せっかくだけどちょっと難しいかな。他の人を当たってくれない?」
「ああ、うん、そっか……」

 季南は、持ち上げていた右手をどうしていいか分からなくなったのか、耳に当てて柔らかく撫でるようにゆっくり掻く。「他の人、探すの難しそうだな」と言いながら、困ったように眉を下げて無理のある笑顔を作った。

「どうしてもダメかな? 始めの頃だけでもいいの。すぐにやり方覚えて、全部自分で作れるようにするから」
「そんなに簡単なものじゃないけどね」

 関わるのは嫌だ、というつもりで断っているのに、動画制作の作業を軽く見られるとつい食ってかかってしまう。自分の中でとっくにひしゃげている、それでも折れることのないプライドのようなものが、少し恨めしく思えた。

「……悪い、動画編集は当分やらないって決めてたから」
「ん……分かった、ありがと」

 唇を内側に巻き込み、小さく頷いて頭を下げる彼女。少し残念そうだけど、ここまで言い切ったら諦めてもらえるだろう。

「ごめんな、帰ろうぜ」

 先に一人でパイプ椅子を畳んで元の場所に戻し、リュックを背負う。そして長机も片付けようとした、その時だった。

 ガシッ

 右腕を強く掴まれる。
 驚いて振り向くと、視線はすぐに季南の顔を捉えた。

 口をキュッと結び、何度も瞬きをして、今にも泣きだしそう。まるで、一人ぼっちで誰かに助けてもらえるのを待っている河原の子犬のような、そんな表情だった。

「……お願い、北沢君」

 消え入りそうな声で、彼女は三度目のお願いを口にした。
 一体どんな事情があって、こんなに懇願してくるのだろうか。ここまで動画を投稿したい理由は何なんだろう。「人気者になりたい」「お金を稼ぎたい」という単純なものではなさそうだ。自分の中で一瞬芽生えた好奇心を必死に抑える。他のことなら全部ちゃんと相談に乗るのに、なんでよりによって動画なのか。

「いつかちゃんと説明するけど、急がないといけないの。だから、お願いします」

 深々と頭を下げる季南を見て、心がざわりと揺れる。「このまま彼女を見捨ててしまって良いのか」という迷いが胸をよぎる。

「どんな動画を作りたいの?」
 俺の声に飛びつくように、彼女は勢いよく顔をあげた。

「まだ決めてないけど、別に人に迷惑かけるような動画にはしないよ」
「そっか」
 彼女がやりたい理由は全く分からないけど、数回手伝うくらいなら罰は当たらないだろうか、と自分に言い聞かせる。そのくらい、彼女の目には真剣さが宿っていた。

「……まあ、三、四回だけなら」

 その返事に、彼女は目を見開く。喜びがありありと浮かびながらも、瞳は涙で潤んでいた。
「ホントに! ホントにやってくれるの?」
「ああ。でも俺が関わってることはナイショにしてほしい」
「うん。わかった! 北沢君、本当にありがとう!」

 さっきまでガシッと握られていた腕を優しく掴み直され、ブンブンと振られる。同じ階の東側から聞こえる、祝福するかのようなトランペットのアンサンブル。

 九月二二日、水曜日。こうして俺は、クラスメイトの季南千鈴の動画制作手伝うことになった。