「今日はありがとうございました」

 午後八時を過ぎた頃。斜め四十五度の綺麗なお辞儀をして、高柳君は帰っていった。

「すっごくいい子ねぇ」

 小さくなっていく後ろ姿を見つめながら、お母さんがしみじみと息を吐いた。お姉ちゃんはちょっと恥ずかしそうに体をくねらせた。

「野ばらも気に入ってくれた?」
「う、うん」

 ぼくがぎこちなく笑顔を作ると、お姉ちゃんは「よかった!」と飛び跳ねた。

「高柳君が野ばらに嫌われたらどうしようかと思ったよ」
「そんなことあるわけないよ。高柳君、いい人だもん」  
「そう言ってくれると嬉しい! 今日連れてきてよかったぁ」

 そう、高柳君はいい人なのだ。だったらぼくは、「おめでとう」と言ってあげなくちゃいけない。そう思うのに、ぼくの喉は全く開いてくれない。頬の筋肉が痛むのを感じて、ぼくは慌ててお姉ちゃんから顔を背けた。

「すみれ、先にシャワー浴びてきなさい」
「はーい」

 お母さんに急かされて、お姉ちゃんがスキップしながらお風呂場へ入っていく。お母さんは鼻歌を歌いながら、残りの洗い物をするためキッチンへと消えていった。
 一人になっても、ぼくは金縛りにあったかのように玄関から動けなかった。
 なんだか、体が重い。胃の辺りがキリキリする。ステーキを食べ過ぎたのかもしれない。右手でおなかを押さえたら、何故か目頭が熱くなった。呼吸が、うまくできなくなった。

 あ、だめだ。
 ぼく、今泣きそう。

 唇を噛み締めて俯いたら、足の甲に涙がぽとりと落ちた。