それから数日後。
 すっかり足の痛みが引いた頃合いで、王城からお呼びがかかり、フレイヤはローガンとともに登城することになった。

 なお、フレイヤはもう傷は完治したと言っていいのではないかと思っているのだが……。
 ローガンは「これは完治……いや、甘えるな。まだ薄く痕が残っている……」などと言って、まだ“けじめ”は続行中だ。

 フレイヤの方も、好きだからこそかえって踏ん切りがつかない気もして現状にほっとしている部分もあるのだが、もっと深く触れたいという思いもあるので複雑なところ。
 ともかく、夫婦仲は初々しくもようやく正常な形となり、2人は穏やかに幸せな休暇を過ごしている。


 ──さて、王城の応接室に通されてしばらく。

「……フレイヤ!」

 結婚以後初めて対面する姉・ソフィアは、入室するなりフレイヤを強く抱きしめた。

「心配したんだから……」
「……ごめんなさい」

 しばらくしてフレイヤを離したソフィアは、向かい側のソファに腰掛ける。

「あとでオウェイン殿下もいらっしゃるわ。それまでは私も、フレイヤとアデルブライト卿の誤解を解くお手伝いをするように、ですって」

 王城の侍女たちが紅茶を淹れ終えたところで、ソフィアは彼女たちに合図をして下がらせる。

「それで……何から話しましょうか。考えてみたら、フレイヤとじっくり話したことってあまりない気がして……なんだか気恥ずかしいわね」
「はい……」

 フレイヤは、姉とは2歳差で、弟のルパートは年子。
 嗜好の違いもあり、正直なところソフィアより弟と過ごした時間の方が断然長く、少し距離をおいていた節すらある。

 話題に悩み、誤解に関するものならばと思いついたのは1つだ。

「お姉様とローガン様は、いつも何をお話されていたのですか?」
「そうね……世間話みたいなものかしら」
「世間話……」

 世間話でローガンが照れるような要素があるのか。
 フレイヤが訝しげな顔をしていると、ソフィアはローガンに尋ねる。

「誤解があったのなら、もう少し具体的に言っても構わない?」
「……ああ」

 渋い顔でローガンが頷くと、ソフィアは笑いながら種明かしをした。

「たいていは、あなたの話よ。フレイヤ」
「えっ!」
「彼があなたに避けられて落ち込んでいたようだから、私が知る限りでのフレイヤの話をしていたの」
「そう、だったのですか……?」
「ええ。気になるなら花束でも持って話しかけに行けばいいじゃないって、何度も唆していたのよ? でも、私から見ても、あなたは彼を視界にも入れないようにしていたから……彼が“好きでもない男に花をもらっても迷惑だろう”って言うのを無理に後押しもできなくて」
「なるほど……」

 恋心を自覚し、あまり間を置かずして散ったと思い込んでいたので、ローガンのみならず家族や姉に想いを悟られないようにとフレイヤは徹底していた。

 臆病な自分がすれ違いの元凶に思えて少し凹むが、あのローガンの照れたような表情が自分に関わるものだったとわかっただけで、気分がふわふわしてくる。

「フレイヤは小さい頃、彼にべったりだったでしょう? だから根本的には嫌いではないだろうとは思っていたけれど、あなたの意に反した結婚になっているんじゃないかと心配ではあったから……幸せそうで本当によかった」

 優しい笑みを浮かべるソフィアに、フレイヤも「ありがとうございます、お姉様」と微笑んだ。


 その後、先日の夜会のようにラフな格好をした王太子が入室する。
 フレイヤは王太子について詳しく知らないが、彼はあまり堅苦しいのを好まないのかもしれないなと推察した。

「休暇中に呼び出して悪いな、ローガン」
「いえ。フレイヤにも知っておいてもらった方が、誤解がありませんので。ご機会をいただけて感謝いたします」
「ああ」

 鷹揚に頷いた王太子は、ソフィアの隣に腰掛けると、フレイヤを面白そうに眺める。

「フレイヤ夫人」
「はい」
「ローガンから報告を受けたが、フローレンス侯爵令嬢の件について調べていたそうだな」
「……はい」

 夜会の翌日、フレイヤはこれまでの行動とその裏にあった思考について、ローガンに洗いざらい話した。

 ローガンは「フレイヤの行動力を甘く見ていた……それでナイフまで持っていたのか」と頭を抱え、もう危ないことはしないように、何かあったら自分を頼るようにとそれはもう熱心に言い聞かせたものだ。

 離縁目的で半ば暴走していたことをからかわれないことから、王太子にその辺りのフレイヤの思考までは報告していないらしい。

「……さてと。これから君に話すことは、この件に関わったごく一部の人間しか知らない機密情報だ。そのことは心得ておいてくれ」
「はい、殿下」
「どこから話すか……まずは、私の婚約についてだな。アーデン侯爵家のフローレンス嬢と婚約が決まったが、実のところ、彼女はそれを全く望んでいなかった」
「……!」

 最初から驚きの情報に、フレイヤは目を見開いた。

「フローレンス嬢は、歴代アーデン侯爵家子女の中でも屈指の才を持っている。もちろん、王太子妃として文句の付け所もないが、彼女は学問の道を進むことを望んでいたんだ。私には嫌がる女性と結婚する趣味はないから、次の候補を探そうとしたが……そこで彼女から気になる話を聞いた。彼女が婚約者として選ばれた過程に、疑問があると。──ここまでで、何か質問は?」
「……殿下とフローレンス様のご婚約は、お2人とも特に希望されたわけではなかったのですか?」
「そうだな。父から、婚約者としてフローレンス嬢はどうかと尋ねられ、アーデン家であれば野心もなく、彼女自身の才覚も十分で問題はないだろうと受諾した」

 王族の結婚、それも将来国王となる王太子のものとなると考慮するべき点が多くて、恋だの愛だのより能力や生家についての方が重要そうだ。
 王太子がフローレンスとの婚約に至った経緯は、随分とドライなものだった。

「だが、フローレンス嬢は、彼女が筆頭候補になったのは作為的かもしれないと言う。その時点で証拠はなかったが、確かに可能性はあった。公爵家にも年が近く素養も十分な令嬢がいたが……その令嬢は途中で他国の王族からの縁談が舞い込み、私の婚約者候補からは外れたからだ」

 ほんの数年前のことなので、フレイヤもその件を記憶していた。
 建国から続く由緒正しき公爵家の令嬢が、近隣友好国の第三王子と結婚し、両国でそれなりに話題になっていたはずだ。

「私が真っ先に怪しんだのは、宰相のフォンティーヌ公爵だ。奴はそうとは悟られぬように、長年かけて少しずつ宰相の権限を強化していた。それに、あそこには3代続けて男子しかいない。そんな中で他の公爵家が王太子妃を輩出すれば、己の権力が相対的に弱まることを危惧したのではないかとな。加えて、他国の王族とも太い繋がりを持っていたから、かの縁談に関与したとしてもおかしくはない」

 王太子の話はおおむね納得できるのだが、フレイヤは同時に疑問も抱いて、微かに首をかしげた。

「腑に落ちぬという顔だな?」
「いえ……そこまでのお話に疑問はありません。しかし、フローレンス様を王太子妃にしようとしたのが宰相であれば、その彼女に毒を盛ったのは一体なぜかと思いまして」
「それは……言ってしまえば、私の方から奴が動くように仕掛けたからだな」
「えっ!」

 今度こそフレイヤは驚きの声をあげた。

「仕掛けたとは……」
「順を追って話そう。仮に、私とフローレンス嬢の婚約が宰相の画策によるものだった場合……彼女は、宰相が侯爵家に強く働きかける何かしらの手札を用意するか、既に持っていることを警戒していた。アーデン侯爵家は国政に直接深く関与しているわけではないが、貴族のみならず知識階級への影響力が計り知れない。宰相であろうと、操ることは困難だからな」

 それは、以前フレイヤも考えたことだった。
 アーデン侯爵家は操りづらいので、それよりはいくらか難易度が下がるレイヴァーン伯爵家のソフィアを王太子妃に据えた方が都合のいい人物がいるのではないかと。

 しかし、宰相がアーデン侯爵家にも働きかけられたなら、フローレンスを排除する理由がなくなる。
 彼女が王太子の婚約者のままで、宰相としては問題なかったはずだ。

 それがどうして毒殺未遂に繋がっていったのだろうか。

「婚約者を変えたところで、宰相に弱みを作ったり握ったりされては同じことの繰り返しだ。そもそも奴が黒幕かもわからなかったから、警戒と確認を兼ねて、大掛かりな罠を仕掛けつつ、調査をすることにした。その一環に、ソフィアとローガンの婚約話がある」

 これまでの流れとは無関係に思える話が出てきて、フレイヤは目をまたたいた。

「夫から、姉との婚約は解消前提のものだったとは聞いておりますが……」
「ああ。その通りだ。3年前──私はレイヴァーン伯爵家へソフィアとの婚約を打診すると同時に、他の男と仮の婚約をするように頼んだ。フローレンス嬢との婚約を解消したり、結婚を先延ばしにしたりして宰相が私に他の令嬢を充てがおうと考えた際、ソフィアが除外されるようにな。そこで、仮初の婚約相手として名前が挙がったのが、ローガンというわけだ」

 ソフィアとローガンが婚約から何年も結婚しないことは少なからず不思議に思っていたが、その裏にこんな事実が隠されていたとは。

 そして、3年前からちょっと仲間外れにされていた感があって複雑さもあるけれど、15歳のフレイヤが知るにはあまりに事が大きく危険を孕む。当然の判断だ。

「そういうわけで、フローレンス嬢に婚約者を演じてもらいつつ、私は宰相について調べを進めていった。調べれば調べるほど怪しい点が出てくる。真っ黒だ。だが、奴は巧妙で証拠を残しておらず、あと一歩で証人や証拠を得られるという時には──ことごとく消された」

 “消された”の中に人も入っていることがわかり、フレイヤは背筋がぞっとするのを感じた。

 自分が一時でもそんな人物に捕まっていたのだと思うと、今になって恐ろしさが増してくる。

「過去数十年の様々な件で奴が真っ黒であることは疑いようもないが、結局、証拠は見つからず……。フローレンス嬢をいつまでも縛り付けておくわけにもいかない、宰相に目をつけられないよう仮で結んでもらったソフィアとローガンの婚約も、これ以上婚約期間が長引くと怪しまれる。そこで、こちらから積極的に動くことにした」

 王太子はそう言って綺麗に微笑むが、凄みがある。
 絵本の中の王子様はただキラキラしているだけだけれど、実際の王子様は、未来の為政者。こういう人物こそが真に王子様らしいのだろうなと思い、フレイヤは(大人になったわね、私……)とちょっぴり遠い目になった。

「先ほどの君の質問に戻ろう。仕掛けたとはどういうことか──私が王にアーデン侯爵家の陞爵(しょうしゃく)と、宰相の権限の一部を王太子に移すことを進言し、それを王が承認するつもりだという情報を奴の周辺に流したんだ」

 陞爵とは、爵位が上がることを指す。

 侯爵の上は公爵しかなく、アーデン侯爵家が陞爵したら公爵家。そうすると宰相であるフォンティーヌ公爵と階級的に対等で、仮に多少の弱みを握られたとしても太刀打ちしやすくなる。

 宰相の権力が削がれるならなおさらだ。

「それで、フローレンス様が毒に倒れられたのですね」
「……それは、正解であり不正解でもある」
「どういうことでしょうか……?」
「私は、賭け事を好まなくてな。攻めの手に出る前に、当然保険は用意しておいた。それがギデオンだ」

 ギデオンといえば、フォンティーヌ元公爵の嫡男だが──フレイヤが盗み聞きした話の中では、公爵からも弟からも随分ぞんざいな扱いを受けていた。

「ギデオンは奴の最初の妻の子なのだが、どうも奴は実子ではないと疑っていたようでな。冷遇し、後妻が産んだ次男のサムエルに家督を継がせる気らしかった。ギデオンをこちらへ引き込めないかと接触してみたところで……彼の方から助けを求められてな。このままでは遠からず消される、公爵家の悪事を暴く手伝いをするから、平民としてでも穏やかに生きられるよう情けをかけてもらえないかと」

 息子を息子とも、兄を兄とも思わぬようなあのやり取りの理由がわかり、そういうことだったのかとフレイヤは納得する。

 公爵家嫡男なのに、適齢期を過ぎても婚約すらしていなかったのは、始末した際に婚約者や妻の家から探られると面倒だからだろう。
 “遠からず消される”という彼の懸念は、ほぼ間違いなく正解だ。

「ギデオンからの情報で、奴がフローレンス嬢に毒を盛ろうとしていることがわかった。事前にわかっているからには当然彼女は毒など口にしていないが、毒に倒れたふりをしてもらった」
「なるほど……」

 先ほどの“正解であり不正解でもある”の意味を理解し、フレイヤは頷いた。
 となるとやはり、街で耳にした“書店にフローレンスがいた”という目撃情報は、彼女本人だったのだろう。

「フローレンス嬢には、身の安全のため面会謝絶としてアーデン侯爵家の屋敷にこもってもらい、おおよその証拠集めが済んだところでソフィアを王城に呼び寄せた。そこで、ソフィアとローガンの仮の婚約は役目を終えたというわけだ」

 一通り話し終えて、王太子はふぅ、と息をつき、紅茶を飲み始める。
 あとを引き継いだのはソフィアだった。

「それで、解消後すぐ、フレイヤを捕まえに動いたのよね」
「……ああ」
「まさか、あんなに結婚を急ぐとは思わなかったわ」

 くすくすとソフィアが笑い、ローガンが憮然とした表情で「十分待たされたからな」と呟く。

「フレイヤ夫人。どうかローガンを許してやってくれ。君には事情が伏せられていたし、姉の婚約者から好意を示されても不誠実だと思われ嫌われるだけだろうと、ローガンが身動きできなかったのは無理もない。すべては私の命令に由来する。……ローガンも、悪かったな」
「いえ……。それでも、婚約から心を通わせることはできたはずでした。こじれたのは、私の責任ですので」
「それはそうだな」
「ええ」
「…………」

 王太子とソフィアから次々に頷かれ、ローガンは渋い顔をして沈黙する。
 フレイヤは小さく笑ってしまった。


 ややこしい裏事情の話は終わり、それからはしばらく雑談の時間になる。

 実のところソフィアは3年前から王太子妃になることがほぼ決まっていて教育もおおよそ終わっているため、今は割とのんびり過ごせているらしい。
 来年には国内外から来賓を招いて盛大に挙式するそうで、フレイヤも今から楽しみだった。


 帰りの馬車の中。
 軽快に走る馬の蹄の音を聞きながら、ローガンとフレイヤは並んで静かに座っていた。

 フレイヤがちらりとローガンの横顔を見上げると、視線に気づいたのか、彼の薄青の瞳が向けられる。

「どうした?」
「あの……ローガン様。私の傷もすっかり良くなりましたので──」
「そうか!? ……いや、無理はしなくていい。俺は焦らない。フレイヤを大事にすると決めたんだ」
「……?」

 なんだか話がずれている気がして首を傾げたフレイヤは、やがて、ローガンが何を考えたのか察し、慌てて訂正する。

「そうではなくて……以前誘っていただいたように、一緒に遠乗りに行けないかなぁと思ったのです」
「……! すまない……」

 2人して少し頬を赤くして馬車に揺られることしばらく。
 ローガンが「行こう」と頷き、フレイヤは微笑んだ。

「……なぁ、フレイヤ」
「なんでしょう?」
「あの夜からずっと考えていたのだが……婚姻の儀をやり直さないか?」
「えっ!」

 思いがけない提案に、フレイヤはローガンを凝視する。
 彼は真剣な表情で、フレイヤの手をそっと握った。

「あの日のフレイヤは本当に美しかった。でも……浮かない顔をしていて、俺は後悔したんだ。父同士の強い望みを利用する形で結婚を急ぎ、俺のすべてをもって幸せにする覚悟だったが、肝心のフレイヤの気持ちを蔑ろにしていたと」
「ローガン様、そんなことは……。私の方こそすみません。思い違いをして、辛気臭い顔で式に望んでしまって。私が笑顔ならローガン様も──」
「いや、浮かない表情のフレイヤですらあまりに美しく愛しくて、あの日の俺も険しい顔をしていただろう。笑顔だったなら余計に酷かったはずだ」
「ああ……それもそうでした……」

 ローガンの表情が険しくなるタイミングの件については、既にフレイヤも把握している。

 あの日、馬車から降りたフレイヤを見てローガンが渋い顔になり目を逸したのは、「くっ、愛しい……!」の意だったというわけだ。

 ちなみに、この問題は今も継続している。
 騎士としてだらしのない顔を晒すわけには……という意識が強く働いているようで、本人もなかなか変えられないらしい。

 しかしもう誤解することはないし、そこも含めて愛しく感じるので、フレイヤとしても治らなくてもいいかなと思い始めていた。

「それで……どうだろうか」
「……嬉しいです。やりましょう、ぜひ」
「ああ」

 少しぎこちなくも微笑んだローガンは、優しくフレイヤを抱き寄せる。

「帰ったら侍女たちにさっそく準備を頼んでおきます」
「ああ。俺は主教に連絡を取っておく」
「はい。……そういえば私、あの時はローガン様をきちんと見られなかったのでした。改めて見ることができるのも嬉しいです」
「……俺もだ。今思うともったいないことをしたな。今度はよく見せてくれ」
「もちろんです」

 遠乗りや式のやり直しから、なんてことのない穏やかな日常まで。

 これからの日々が楽しみで仕方なくて、フレイヤは頬を緩めながら、愛しい人の腕の温もりに包まれるのだった。