性別や年齢を問わず、ビスナントが演じる役にはどれも見応えがあったが。中でも特に好きなのは、『這い上がることを忘れない青年』の役だ。幼い頃借金に塗れ、金の重要性と挫折を嫌という程味わい、大人になるにつれ強欲さと勝利にしがみつく泥臭さと狡猾さを忘れることができなくなった醜い魂の男だ。現実世界にいたらまず知り合いにはなりたくない存在の方が、フィクションにおいては魅力的に映ることは多々ある。誰もが型に填まった平均値的な人間しかいないのは退屈だろう。その世界を物語にする意義はあるが、読者や観客には心理的負荷が有効だった。
「……」
 と、そんな小難しい理論を全て投げ捨て。完全にまっさらな心持のまま、俺はビスナントを眺めている。劇作家ではない一人の人間として、呑気にこの特等席に座っていた。
木製の床組みが軋む、カーテンの布地が優雅にゆらめく。長い歴史を紡いできた劇場がビスナントの立つ舞台を歓迎していた。機械仕掛けの精巧さにも、クラシックの優雅さにも、おとぎ話の穏やかさにも劣る中で。『輝き』だけは何よりも勝っていると思う。録画や録音の『記録』では得られない、ただ一瞬この目で見るその場にしか行われない一度きりの演技が。
 俺は昔から。
「ザスさん!」
「……」
「今の!今の演技どうでしたか?!」
 息一つ切れていないビスナントが遥か向こうの舞台で興奮したように笑っている。あれだけの長いシーンと台詞を演り終わり、『どうだ』と言わんばかりの満足げな表情で。これから俺が修正点を告げれば、少し不愉快そうに眉を顰め、それでも『次』までには完璧な状態に仕上げてくるんだろう。コイツ自身は不満な態度を隠そうとしているらしいがこちらから見ればすぐ分かる。その次がいつになるのかも知ったうえで。
 俺は感想を言おうとした。
唇が開く、だが体は椅子へ沈みこんだように重かった。立ち上がれない、声帯が震えない。互いの視線だけが幾重にも交差し、次の瞬間ビスナントは消えた。テレビのスイッチを突然切ったように呆気なく、まばたきの間で彼の姿はなくなっていた。
まるで最初から舞台上には誰もいなかったかのように、巨大な機器は一切動いておらず、床の板組は夜の冷たさを一定に保っている。この夢想を嘲笑うように。真夜中の劇場は厳かに瞳を閉じたままだった。
 数十分の演目を見ていた筈なのに時計の針は数分しか進んでいない。