そのうちの一人が今回の『Pride』を書いたザス・グレイスミス監督だ、という噂があるのだ。根拠も何もない、本人にそんな事を聞く勇気があるほど親しい関係の者もいない。噂の候補者になっている理由を強いて挙げるなら、その事故死した役者が生きていた頃にザス監督も劇団にいた、という事ぐらいだ。そんな人間などこの演劇業界には大勢いる。他人にあまり興味のなさそうなザス監督に、噂が立つ方が珍しかった。
 だが、彼の書きあげた脚本に奇妙な点が一つだけあった。冒頭に必ず添付されている『登場人物』の項に不自然な空欄があるのだ、それも必ず主役名の真下。視線をもう少し下にすらせば、配役を勝ち取った劇団員の名が記されているのに。鈍感な俺でも『なんだこの空白?』と感じたことがあるぐらいには不自然だった。単なる誤植かと思いきや、次も、その次も。公演内容が変われど、台本の主役名の下は少しだけ空白が占めている。

―これ、何か意味あるんですか?

 一度、任期付きで採用したスタッフが畏れ多くも直接聞いたらしい。これも噂だが。
 監督の答えは『別に』とだけ。実際にこうやって答えたのかも怪しいが、ゴシップ好きの関係者は、『監督はあの死んだ役者を主役にしたかった。でも死者は舞台に立てないからせめて役名だけでも、ってあそこには空欄があるんだよ!』なんて興奮しながら話している。もちろん本人のいない場所で。
「そんなにすげぇ役者だったのか?」
「らしいよ。年齢的には俺と同い年だから、生きてたら今頃一緒に仕事してたかもしれないなあ」
「は?お前見た事ないのかよ。あんだけ『俺は事情知ってますー』みたいな顔して」
「そんな顔してない。まぁその人の名前だけなら知ってるけど、実際に演技を見たことはないんだよね。当時まだ駆け出しだったし、ちょいちょい稽古サボってたから」
「ほー」
「でも凄かったらしいよ?どんな劇作家も役者も観客も。その人の演技を見ただけで心が痺れて忘れられなくなる、って」
 まるで恋だ。もしくは恐喝に似た誘惑、アイスピックで氷を刺せば同じような感覚になるのかもしれない。
 溢れんばかりの才能と自信、若さ。会ったこともない亡霊にふつふつと言い様のない嫉妬心が芽生え始める。どう足掻いたって死者には敵わない。
「……なぁグラ―」
「またくだらないこと考えてるなら殴る」
「は?」