食事を終えて、お茶でひと息ついていると、雪乃が部屋に入ってきた。
「奥様」
未だ慣れない柚子に対する『奥様』という呼び方。
玲夜と結婚したことで名実ともにこの屋敷の女主人となった柚子は、使用人たちのこれまでの呼び方が奥様へと変わっていた。
なんとも言えないむずがゆさを覚え、最初呼びかけられた時には挙動不審になってしまい、使用人たちから微笑ましげな眼差しで見られ、それが余計に恥ずかしかった。
とは言え、使用人たちからの呼び方以外でなにか変わったところはなく、周りの態度も玲夜の溺愛っぷりも相変わらず。
正直言うと結婚したという実感があまりなかったりする。
もちろん式をした記憶は鮮明に残っているのだが、元より結婚しているのと変わりない生活を送っていたので仕方ないとも言える。
なにか結婚したと実感できるものが欲しいなと思う今日この頃。
思いつくものとしたら新婚旅行が一番に頭に浮かぶ。
残念ながら柚子と玲夜は新婚旅行に行けていない。
そんな暇が玲夜にないからである。
もしふたりきりで旅行に行けたら新婚気分を味わえるかもしれない。
そう思うも、今ですら休みが取れないほど忙しい玲夜に旅行に行く時間が取れるはずもなく……。
結婚したなら旅行には行きたいと思っていたのをずっと我慢していたが、考え始めると行きたくて仕方なくなってきた。
式の翌日も出社してしまい新婚旅行はどうするのかと言い出せずにいたが、一度駄目もとでお願いしてみようか。
いや、忙しい玲夜を自分の我が儘で煩わせるわけにはいかないと、柚子は自分を律する。
玲夜と結婚できただけで十分幸せなのだから。
どうも最近の自分は多くを望みすぎている気がする。
それだけ玲夜に甘えているということなのだろうが、それがいいのか悪いのかは判断に困るところだ。
「どうした、柚子?」
無意識のうちに玲夜を凝視していた柚子ははっと我に返り、ぶんぶんと首を横に振った。
「なんでもない! それより、雪乃さん。なにか用事ですか?」
無理やり意識を雪乃へと向けると、雪乃から手紙を渡される。
「今朝こちらが届いておりました」
「手紙?」
誰だろうかと宛先を探すが封筒のどこにも差出人の名前はなく、代わりに撫子の花と狐の絵が描かれていた。
不思議に思い封を開けるて中を見るが、そこには日時と参加か不参加かという文字のみ書かれた便箋が一枚入っている。
「これだけ?」
もう一度封筒の中を確認すると狐の形の折り紙が出てきた。
「狐の折り紙……?」
それ以外のものを探してみるが、やはり他にはなにも入っていない。
差出人も日時の意味も分からず、柚子は首をかしげる。
「どゆこと?」
「柚子、少し見せてくれ」
「うん。はい」
玲夜に手紙を渡せば、封筒と中に入っていた便箋に目を通すとすぐに返ってきた。
疑問符を浮かべる柚子とは違い、玲夜は心当たりがあるようで小さく笑う。
「なるほど。とうとう柚子にも来たか」
「玲夜はこの手紙がなんなのか知ってるの? 差出人もないし、普通に怖いんだけど」
「そう言うな。狐と撫子の花で思い浮かぶ人がひとりいるだろ?」
「狐と撫子?」
そう言われてもそんな人に覚えはないと言おうとして柚子はあっと声をあげる。
「妖狐のご当主!」
どうやら正解だったようで、玲夜がこくりと頷く。
「えっ、でもどうして妖狐のご当主から手紙が?」
妖狐の当主、狐雪撫子。
何度かあやかしの宴やパーティーなどで挨拶をしたことはあるが、特別親しい間柄というわけではない。
そもそも撫子自体があまり人の集まるところに姿を見せないのだから、親しくなりようがない。
日時の意味も不明だ。すると、玲夜がまた柚子に分からない単語を発する。
「花茶会のお誘いだろう」
「花茶会?」
柚子には聞いたことがないものだ。
「あやかしに嫁いできた人間の花嫁を集めて定期的に開かれる女だけの茶会だ。妖狐の当主と母さんが主催者でな」
「沙良様……じゃなくて、お義母様も?」
「ああ。あやかしに嫁いだ花嫁のために、母さんと妖狐の当主が始めたものだ。人間があやかしに嫁いでくるのはいろいろと気苦労も多いだろうから相談できる場が必要だと言ってな」
玲夜はわずかに苦い顔をする。
「他家の花嫁のことなど気にする必要はないだろうにと他人事でいたのに、まさか俺にも関わってくるとは当時は思わなかったな。きっと柚子が正式に俺の妻となったから花茶会の案内状を送ってきたのだろう」
「ということは、他にも花嫁の人が参加するの?」
「ああ。よほどの理由がない限りは主催者と花嫁だけの茶会だ。まあ、あやかし界すべての花嫁が呼ばれるわけではなく、毎回顔ぶれが違うらしいがな。問題なのは花嫁の夫でも閉め出される」
「じゃあ、玲夜は一緒に来られないの?」
「そうだ」
それを聞いて激しく不安になる。
それというのも、これまでいくつかのパーティーに参加はしたが、そのどれも玲夜が常にそばにいてくれた。
柚子ひとりで社交することは一度もなかったのだ。
「玲夜がいなくてちゃんとできるかな……」
自分のせいで鬼龍院の名を貶めてしまうことを柚子は気にしている。
しかも相手は玲夜ですら礼節を重んじる妖狐の当主で、彼女が主催する茶会だというのだから、柚子の緊張度もうなぎ登りだ。
「そう気負わずとも気楽な茶会らしい。母さんが発案者のひとりという時点で、小難しい腹の内を探り合うような集まりになることはないだろう」
それは沙良に対してかなり失礼だが、柚子は思わず納得してしまった。
沙良が花嫁のために始めたものなら、本当に花嫁のことを思って開催しているだろうと。
「場所は妖狐の当主の屋敷だ。気が乗らないなら俺からうまく断っておくがどうする?」
「うーん……」
玲夜が一緒ではないことに不安と心細さがあるが、花嫁だけの茶会というものに興味もあった。
「お義母様もいるの?」
「ああ。主催者のひとりだからな。それに、毎回桜子を手伝い人として連れていっているらしい」
それは柚子にとっては嬉しい情報だ。
いつもそれとなく柚子をサポートしてくれる桜子がいるのは心強い。
「じゃあ、行ってみようかな。お義母様と桜子さんがいるなら安心だし」
「そうか。なら、その狐の折り紙に参加すると答えてみろ」
「えっ、折り紙に向かって?」
「ああ」
戸惑いながら手にした狐の折り紙に向かって「参加します」と告げる。
すると、折り紙が一瞬で形を変え、手のひらサイズの子狐になった。
柚子は驚きのあまり声が出ない。
ハクハクと口を開閉している間に、柚子の手に乗っていた狐は手から飛び下りて歩いて行き、スッと姿を消した。
その様子に驚いているのは柚子だけ。
玲夜も、そしてその場にいた雪乃を始めとした使用人たちも当然のような顔で見ている。
「なななな、なに、今の!?」
ひとり動揺する柚子に、周りは生暖かい目を向けており、玲夜もクスリと笑った。
「妖狐の当主の妖術だ。見るのは初めてか?」
「ようじゅつ……」
すぐに理解するのは難しかったが、玲夜に「子鬼のようなものだ」と説明され、すんなりと受け入れられた。
「なるほど」
柚子はテレビに夢中の子鬼に目を向ける。
子鬼は玲夜の霊力にとって生み出された使役獣。
まあ、今は霊獣三匹分の霊力を分け与えられたせいで、普通の使役獣と言っていいのか分からないぐらいに強いが。
恐らく先ほどの狐も同じように霊力によって生み出されたものなのだろう。
「さすが、あやかしの当主」
柚子の常識の範疇を軽く超えてくる。
「今ので参加するって伝えられたの?」
「ああ。先ほどの狐が当主に伝えるだろう。後はその紙に書かれている日に当主の屋敷に行けばいい」
「そっか」
納得したところで柚子は大事なことに気付く。
「服装は? なに着ていけばいいの!」
「なんでもいいだろ」
「よくないよ! 洋装なの? 和装なの?」
鬼の当主夫人と妖狐の当主の茶会に普段着でいけるはずがない。
きちんとしたフォーマルな服を用意しなければならないが、和装か洋装かでも変わってくる。
柚子の記憶の限りでは撫子はいつも和装だったが、沙良は和装だったり洋装だったりと様々だ。
どちらに合わせるべきなのか、初めて花茶会に呼ばれた柚子が判断できるはずもない。
悩む柚子に玲夜が助言する。
「後で桜子に聞いてみたらどうだ?」
「そうか、桜子さん!」
花茶会に手伝いで参加しているというなら、場の雰囲気もよく知っていることだろう。
なんと頼りになるのだろうか。
「後で電話してみる」
「ああ」
ようやく話もまとまったところで、玲夜が腕時計に視線を落とすと、面倒くさそうにため息をついて立ち上がった。
「残念ながら時間だ」
「そっか……」
新婚なのに一緒にいられないもどかしさに気落ちする。
しかし、我が儘と言ったところでどうにかなる問題でもない。
玲夜を玄関まで見送る。
「いってらっしゃい。頑張ってね」
「ああ、いってくる」
そのまま出ていくのかと思えば、玲夜はなにやら考え事をするようにじっと柚子を見つめる。
「……柚子、今の仕事がひと段落いったら……」
「いったら?」
玲夜はなにかを言おうとして、途中で止めた。
「いや、なんでもない。それよりも学校の準備はできているのか?」
「うん。ばっちり」
「そうか」
玲夜は今にも舌打ちしそうな不愉快げな顔で眉をひそめる。
「そんな不機嫌な顔しないでよ。玲夜も納得してくれたことでしょう?」
「納得はしてない。今からでもやめたいなら遅くないと思っている」
「また、そういうことを」
柚子は苦笑する。
なんだかんだありながら料理学校に行くことを許してくれたと思っていたが、やはり自分の目の届かないところで柚子が活動しているのは気に食わないようだ。
それでも無理に止めたりはしないし、学費も柚子が自分で払うつもりだったのに、玲夜が払うと言って聞かなかった。
柚子が学校に行くのを嫌がってはいても、柚子の生活に関わるすべてに手を出さずにはいられないようだ。
玲夜なりの葛藤がそこにはあるのだろう。
最初こそ支払いを拒んでいた柚子も、玲夜に甘えることにした。
「まあ、その話はまた今度だ」
学校の話になると平行線を辿るのは目に見えているので、早々に切り上げると、玲夜は柚子の頬にキスをしてから出社していった。