それからの五日間は、遠目に彼を見守りながら、時々私からメッセージを送る日々を過ごした。日曜に会うまでにできるだけ距離を縮めておきたかった。


『今日は何限から授業ですか?』


考えに考えた文面を打ち込んで読み直してやっとのことで送信ボタンを押すと、私は丘の上から彼のアパートに浮かぶ魂の色を眺めて返信を待った。
 

『三限から。ハルノさんは?』
 
 
メッセージが届くとスマートフォンに飛びつくように返信を読んだ。これでは現代で言うところのストーカーと呼ばれてしまっても仕方がないかもしれない。
 
 
『えーっと、二限からです!』

『え!?じゃあ今授業中!?』


いつもの桜の下、がばりと体を起こす。そうだ、二限といったらもう、とうに始まってしまっている時間なのだ。あぁどうしよう。授業中にメッセージを送るような、不真面目な子だと思われてしまったかもしれない。
五日の間、メッセージだけでもすでに何度かボロを出してしまっていた。必ずや正体を隠し通して、彼の人生でふっと通りすがって少し夢を叶える後押しをしてくれた、ただの通行人Aに徹しなくてはならないのに。だって私は彼の願いを叶えるためにここに来たのだから。そうはわかっていても、彼とやり取りをしていると、ついいつの間にかヒロインを夢見てしまう私がいた。
 

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待ちに待った日曜日は快晴だった。時間通り待ち合わせ場所に着いた時には、彼はもうすでに天使の像の前にいた。
思えばいつだってそうだった。シュンさんは決まって私より先に着いて、待っているような人だった。


「また待たせちゃった、すみません」


そう口に出してから、しまったと口を噤む。またやってしまった。タクさんと待ち合わせをしたのは今日が初めてなのに「また」だなんて。けれど緊張している様子の彼は、私の失言になんか全く気づいていないようだった。


「いや、全然。行こっか」


俯きがちにもごもごそう言うと、彼はそのまま歩き出した。





不思議な感覚がした。桜野駅は確かに初めて来る場所なのに。彼としての記憶の中に、この場所は何度も登場して、美術館での素敵な思い出とともに色褪せずに残っていた。彼の記憶を通して見た数々の絵を、これからこの目で見られるのだと思うと胸が躍った。


微妙な距離を保って歩く私達の間を、春風が吹き抜けてゆく。足元で桜の花びらが楽しげに踊っていた。
ふと隣を見れば、長い前髪から彼の綺麗な目が覗いた。それだけでドキドキしてしまうのだから、本当にどうしようもない。


「...あ、あの、えっと...ハルノさんの名前って、漢字でどう書くんですか?」


形のいい唇から声が溢れて初めて、自分が無言のまま歩いていたのだということに気づいた。
そうだ、二人でいるのだから、何か話をしないと。


「え?あ、春夏秋冬の春に、野原の野でハルノです」

「春の...野?」 


彼の長い指が、私の名前を宙でなぞる。


「はい!」

「やっぱり」


そう呟いてはにかんだ彼の横顔に、シュンさんの面影を見た。
やっぱり。そんなことを言われると、また期待してしまう自分がいた。私の名前に聞き覚えがあるんじゃないか、なんて。


「何がやっぱりなんですか?」


一抹の期待に心を震わせながらも平静を装って尋ねると、彼は一瞬私の目を見て再び照れたように俯いた。


「いや、なんかこう、そのまんまそんな感じだから、ハルノさん」

「...何ですかそれ!」


本当は、わかっていた。彼の記憶を持っている私が一番よくわかっている。彼は前世のことを一切覚えちゃいない。
勝手に期待した私が悪い。駄目だ、ちゃんと笑っていないと。そんなことに、気を取られてしまって、それがいけなかった。


「けどシュンさんも!...あっ」


勝手に舞い上がって、勝手に落ち込んで、それで思わず口を滑らせてしまった。シュンさんじゃなくてタクさん、これも何度だって練習したのに。
不自然に満ちる沈黙、今度こそは私の失言に気づいてしまった様子の彼が、こちらを覗き込んでいる。


「ハルノさん?」

「あ...シュン、さん...じゃなくて、タクさん...ですよね」


口を押さえても吐いてしまった言葉は戻らない。誤魔化さなくては、どうにか。


「あの、そう!タクさんのこと、シュンさんって呼んでいいですか?」

「え?」

「あだ名みたいな感じで!だってほら、さん付けで呼ぶと "沢山" で変な感じするので。だから...えっと、春だし、春夏春夏秋冬の春って書いて、シュン。ほら似合う!!」


流石に無理のあることを言っている自覚はあった。けれどこうでも言っておかなければ私のことだ、またうっかり彼のことを「シュンさん」と呼んでしまいそうで。
一瞬の静寂、背中に冷や汗が流れるのを感じた。もう駄目かと思った。けれど次の瞬間、凍りついた空気を彼の呆れたような声と笑顔が和ませてくれた。


「じゃあ僕、季節ごとに名前が変わるんですか!?」

「あー、えっと...そういうことに、なる...かもしれません!」

「そんな理不尽な!」


初めて、笑ってくれた。彼の笑顔が見られた。
安心するのと同時に場違いに高鳴ってしまう心に、自分の単純さを呪う。


「む、無断で私の絵を描いた仕返しです」

「でも出演料払いましたし!喜んでくれたじゃないですか」

「あ、そっか!その節はどうも!お礼に今度映画館奢らせてください、シュンさん!」





二人で話すのはとっても楽しかった。姿形が変われども、彼はやっぱり彼なのだ。私達は昔桜の木の下でしたように、たくさんおしゃべりをした。楽しい。そう思っているのが、私だけでなければいいなと思う。


桜野美術館は、彼の記憶で見たそのまま荘厳に佇んでいた。押し問答の末、結局彼が払ってくれてしまったチケットを入口でもぎってもらう。こんなことになるならば、「もらった」なんていうていでチケットを前もって出しておくんだった。そんな後悔も、一歩絵画エリアに足を踏み入れればあっけなく消し飛んでしまった。
かつての彼が、数年前までの彼が何度も通って心動かされた絵画達が、そこに並んでいた。前世の私よりも古い絵から、私より若い絵まで、ずらりと並んだ額縁が淡くライトに照らされている。

 
「どうしてこのシーンを描こうと思ったんでしょうね?」

「表情じゃないかな?」

「この女の子の?」

「うん。多分それを描きたかったんじゃないかな。とか言って、全然違うかもしれないけど」

「ふふふ、あまりにお腹が空いてて、彼女が持ってるパンが印象に残っただけ、かもしれませんしね」


絵を描きたい、そのきっかけに私がなれたなら、どんなにか良いだろうと思う。

 
「なんかこの男の人、シュンさんに雰囲気似てませんか?」

「そうですか?」

「うんうん。もしかしたら生まれ変わりとかかも」

「え...僕、前世はオランダ人だったんですか?」

「うーん、前々世くらいなら、有り得そうです」


私達に前世があるのだから、きっとその前だってあるはずだった。彼の前世のまた前世がオランダ人だったとして、私はその頃一体どこにいたのだろう。この額縁の中、同じ画角に収まることができていたのなら素敵なのに。

 
「この色、好きです」

「ハルノさんっぽい色ですね」

「え?そうですか?」

「うん。ハルノさんはなんか、淡いピンクとか黄色って感じがします」

「シュンさんはそうだな...こんな感じの色使いなイメージです。この梨とりんごの絵みたいな」


実際、シュンさんの魂の色はこんな色をしている。暖かく、芯には力強いものがあって、それでいて優しい。
 

「ハルノさん、お腹空きました?」


彼のそんな冗談に言い返そうと思ったのに、タイミング悪く鳴ったお腹の音に何も言えなくなってしまう。時刻は昼をとうに過ぎていた。
美術館を出ると、私達は約束通りにあのタイ料理屋さんへと向かった。



 
 
「シュンさんと、たったの数日でこんな風にパッタイを分け合う仲になるだなんて、思ってもみなかった」


タイ料理屋さんの淡くあたたかな照明に照らされながら、私達は向かい合って今同じものを口にしようとしている。それだけで、なんだか感慨深かった。
 

「それは僕の台詞だよ。こんな風に女の子に誘われたのも、初めてだしさ」

「そうなんですか?」


しらじらしくそんなことを言っておきながら、本当は知っている。彼の過去の全てを、私は知ってしまっている。なんだか少し悪いことをしている気になる。
 

「うん、最初は怪しい壺でも売りつけられるんじゃないかって思ってた」

「ふふふ...いや、私大学に知り合いもいなくて。友達がほしいなって思ってたんです」

「あぁ、そういえば、ハルノさんって何学部なの?」

「え!?」

 
思ってもみなかった質問に、つい素っ頓狂な声が出てしまった。できるならば嘘なんてつきたくはないけれど、天使でいるということは本当を吐いていては隣にいられないということだから。

 
「あぁいや、あそこで出会ったから勝手に同じ大学だと思ってたんだけど、違った?」

「あ、えっと...うん。私も、一年生」

「だよね。いや、あれから見かけないけど、何学部なのかなと思って」

「あー、えっと...美術、学部?」

「え?うちは美術学部なんてないじゃない」


ほら、やってしまった。自分が嘘が下手だということは、嫌というほどにわかっていた。私は小皿を引き寄せて、トレーの中からスプーンを取り出して握った。彼がパッタイを取り分けてくれたから、私もカオマンガイを取り分けるついでに話題を変えてしまおうと思って。

 
「シュンさんも、カオマンガイ食べますよね!」

「え?あぁ、ちょっともらおうかな」

「じゃあ、カオマンの部分、多めで」

「カオマンの部分?何それ!」

「だってほら、パッタイのパッの部分たくさんもらっちゃったので」

「具の部分ってこと?」

「そうそう、大体そんな感じです」





こうして私はシュンさんと数十年ぶりのデートをした。二人向かい合い話すうちに、私は一時自分が天使だということも忘れて心から彼との時間を楽しんだ。