彼が白血病であることを伝えると、お父様と母様は尚更私達の関係に反対された。それでも私は、彼の元へお見舞いに行くことを決してやめなかった。休日も家の人の目を盗んでは玄関を飛び出し、彼に会いに行った。
そんな毎日が続いてしばらくが経った頃、その日も見舞いへ向かう支度をしていると、「お父様からお話が」と母様に呼び止められた。言われるまま向かった食卓には、お父様が神妙な面持ちで座っていらした。その隣に母様がおかけになる。私も後に続いて二人の対面に座った。
「春野」
「はい、お父様」
「春野は、そんなにも...」
苦虫を噛み潰したような、まさにそんな表情をされていた。こんなお父様を見るのは初めてのことで、ひとりでに心臓の音が速まるのがわかった。何を言われるのだろうと身構える私の手には、汗が滲んでいた。
「そんなにもその男がいいのか?春吾郎という、その男でなくてはならないのか?」
どんな顔をされたとしても、何度聞かれようとも、その問いに対する答えは決まっている。
「はい。私がお慕い申し上げるのは、彼ただ一人です」
「春野。白血病がどのような病かわかっているのか?」
「はい、承知しております」
「医学も万能ではない。そんなにもお前が慕うその人がこの先、お前と同じように歳をとり、ともに老いることは叶わぬかもしれない。それでも...」
「お医者様にはもうあと一年ももたぬかもしれぬと言われています。それを承知の上で私は、それでも彼といたいのです。彼のおそばにいたいのです」
まっすぐと、お父様の目を見て申し上げれば、その瞳の奥がぐらりと揺れるのがわかった。痛々しく細められた目。お父様が彼とのことを反対していらっしゃるのはもう、彼の家柄だとかそんなことは問題ではないのだと、その時私は悟った。お父様は私のことを思って、このままゆけば私が傷つくのではと心配なさってそんなことをおっしゃるっているのだ。それはお父様が私を愛してくださっているから、隣で目に涙を浮かべている母様も同じ。そのことがひしひしと伝わってきた。そんな風に二人が教えてくださった愛を、私が命をかけて注ぎたい相手はもう、とうに決まっていた。
「私は、彼の最期の最後まで、看取り添い遂げる心の準備ができております」
私がはきとした声で言い切ると、お父様は深く息を吐かれた。そうしてすっくと立ち上がったかと思うと、無言のまま部屋を出て行かれた。戻ってきたお父様の手には大きな西瓜が抱えられていた。それを食卓に乗せ、丸ごとこちらへ押しやりながら、お父様は低くおっしゃった。
「果物なら喉が腫れても食べやすいだろう...持って行っておやりなさい」
その隣で母様は、ひとまわり小降りな西瓜を机にとんと置いた。
「西瓜の切り方、わかるかい?春野は本当に不器用なのだから...こんなに好いておいて西瓜も切れないのかと幻滅されてはいけない。これで練習してお行きなさい」
それから彼の病室で私達の家族と彼の家族が顔を合わせることもついに叶った。私達が共に生きることを、私の家族も、そしてもちろん彼のご家族も、許してくださった。
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季節ごとに色を変える庭を縁取る窓は、さながら一枚の絵画の様だった。なかなか外に出られない彼の病室が、そんな素敵な場所にあてがわれたことは、本当に幸運なことだったと思う。私達はたくさん話をしながら、窓枠の中で季節が移ろいゆくのを二人で眺めた。
「今日は、日差しがすごいですね」
「いつも西瓜をありがとうね。僕も少し、夏を味わうことができたような、そんな気分になれる」
「ふふふ、お父様ったら張り切ってしまって、うんと上等なのを準備なさるから」
「うちの庭の紅葉の葉が、一段と色づいて参りました」
「おぉ、押し葉かい。見事な赤だ。綺麗だねえ」
「シュンさん本を読まれるでしょう?どうぞ栞にお使いになって?」
「初雪ですね」
「あぁ、綺麗だ」
「けれど少し、桜が寒そうに見えますね」
「シュンさん、もうすぐ春ですよ」
「あぁ」
「桜の蕾が膨らんで参りました。見えますか?」
彼は日に日にやつれていった。段々と立ち上がる体力もなくなって、お風呂に入れなくなってしまった代わりに、私が毎日彼の体を濡れた手拭いで拭くようになっていた。広かった背中もすっかり痩せこけてしまって、見ているだけで辛いほどだった。
食べ物が受け付けなくなってきた彼でも口にできそうなものを探しては、病室に持っていくのが私の日課になっていった。
「いつか...ハルと、一緒に、あの酒屋を...継げたなら、どんなにか...」
ある日彼が窓の外を眺めながらそんなことを言った。彼の言う「いつか」は日を経るごとに弱々しく霞んでいった。けれど彼がそう言うのなら。
「えぇ、しましょう。きっとそうしましょう」
私は何度だってそう答えるのだ。彼がそう言うなら、そうする。なんだってする。だって握りしめた彼の手は変わらず大きくて温かかった。だから大丈夫、きっと大丈夫だ。
彼が外に出られないのならばと、外での出来事を私は毎日のように彼に話した。一言の返事でさえ、段々と力がなくなっていることに本当は気づいてしまっていた。けれど彼の前で弱気になることなどないように、彼といる時は笑顔で楽しい話だけをした。
「本当にもうすぐ桜が咲きそうですよ。団子屋の店主に伺いました。もう桜餅の準備はしてあるって」
「そう、かい」
「そうしたら私、たんまりと買って参りますから。けれどシュンさんは桜餅よりもわらび餅の方が食べやすいでしょうか?...どっちも買ってきましょうね」
「あぁ」
「また柳川で花見をしましょうね。賑やかな春も良いですが、季節が過ぎてしまっても河原に腰を下ろして」
「そう、だね...いつか」
いつまでも彼の温かな手を握って、優しいその目に映っていられると、何度も自分に言い聞かせた。そうしていないと、今にも泣き崩れてしまいそうだった。握り返してくる手の力の弱さに、何かを悟ってしまいそうで。
お医者様がおっしゃったという「長くて一年」が目前に迫っていた。彼が起きていられる時間は、日ごと短くなっていた。