付き合い始めてから彼は私を「ハル」と、私は彼のことを「シュンさん」と呼ぶようになった。


「思えば、漢字にして仕舞えば、僕達の名前は同じになるんだね」


底抜けに天気の良いある日のこと。柳川のほとりで二人握り飯を食べていると、シュンさんがぽつりとそんなことを言った。


「へ?」

「だってほら、ハルは春で、シュンも春だろう?」

「あぁ、言われてみれば!本当ですね」

「漢字にして仕舞えば僕たちは、同じ名前を呼び合っていることになるんだね」

「ふふふ...確かに、そうですね」


彼といると何気ない毎日が幸せだった。こんな風にただ隣にいるだけでもそうなのだ。楽なことばかりでなかった女学校生活も、シュンさんがいてくれたおかげで、どうにか最後まで乗り切ることができた。


彼は穏やかでおっとりとして見えて、存外鋭いところがある。私が悩みを抱えていると、どういうわけかあっという間に気づいてしまうのだ。背中を押され打ち明ければ、彼の穏やかな声はいつも物事の明るい方へと私を導いてくれた。その言葉に私の悩み事も心配事も、たちまち溶けていくのだから本当に不思議だ。彼は私が抱えていた生き辛さや不安を溶かしてくれるような優しさを持った人だった。


「明日はいよいよ卒業式か」

「はい、このえんじ色とももう、さようならなのですね」

「...せいせいするかい?」

「いいえ、なんだか名残惜しいです...とても」

「よかった」

「え?」

「君にとってこの一年の思い出が、良いものだったということかなと思えて」

「えぇ、もちろん。シュンさんのおかげです」


私がそう言うと、シュンさんは照れたように節目がちに笑った。二羽の鳥が仲睦まじげに空を飛んでゆく。ちゅんちゅんと鳴く声が、澄み渡る青によく映えていた。


「それでね」


心なしか緊張を含んだように聞こえた彼の声。隣を見れば彼の目が、私をひしと捉えていた。


「どう、されたのですか?」

「あのね」


彼の張り詰めた表情に、何だかこちらまで緊張してしまう。私は体ごと、彼の方へと向き直った。


「父と母がね、今度ハルの卒業をお祝いしたいと言っているのだけれど」

「え...」

「話したんだ、ハルのこと。女学校に通っていて、今度君が卒業するのだということも。そうしたら二人していたく喜んで会いたがってね...」


言葉を詰まらせながらそんなことを言う。俯いたまま、その目がちらとこちらを見た。


「...駄目、だろうか?」


思いもよらないことだった。けれどそんなの...


「そんな、駄目なわけがありません!」

「本当かい?」

「もちろんです」

「あぁ、よかった」


そんなお誘い、断るはずもなかった。それなのに大袈裟に胸を撫で下ろす彼。思わず頬が緩んでしまう。


「けれど緊張してしまいます。何を着てゆけば良いでしょうか?何か手土産も...」

「そんなに畏まることはないんだよ?二人で八百屋をやってる話好きな人達でね。爺ちゃんみたいに、陽気で気さくだから、心配しなくて大丈夫だよ」


手土産も特別なおめかしも、必要ないと彼は言った。けれど何もせずになどいられなくて、私は何度も何度も挨拶の言葉を練習したり、当日の服装に頭を悩ませながら約束の日を待った。


✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎


彼の言っていた通り、ご両親はとても気さくな方だった。玄関先で三つ指をついて礼をするようなことを想像していたというのに、彼が玄関の戸を開くや否や、中からお義父様とお義母様が雪崩出るように私を迎えてくださったのだ。


「あー、ハルちゃん!?君がハルちゃんかい?」

「まぁこんな可愛らしい子だなんて!」

「本当だねぇ、可愛いねぇ」

「ほらほら上がってハルちゃん!ハルちゃんだなんて、名前まで可愛いらしいわ!」


あれよあれよと手を引かれるままお邪魔した食卓には、所狭しと豪華な料理が並んでいた。隣でシュンさんが「騒がしくてごめんね」というように眉を下げる。それを含めてこの家の日常なのだろうと思い至って微笑ましくなった。ちゃぶ台を前に、お義父様とお義母様は並んで私の顔を覗き込むように話しかけてくださる。


「母さんたら、一週間も前から張り切ってしまってね?」

「あら!この人だって、ハルちゃんに食べさせるんだーって、一体何をしたと思う?庭に金柑の種を植えたのよ!?」

「ハルちゃん、金柑は好きかね?」

「は、はい!大好きです!」

「まったく、実がなるのなんて、いつになることやら...ねぇ?それよりハルちゃん!おばちゃんの料理、たんとお食べね」


とても温かな雰囲気で、和気藹々としたご両親だった。彼はそんな素敵な家庭で育ったのだ。お義父様とお義母様が賑やかしくお話しされるのを、彼は静かににこにこと見つめている。彼があまり口数の多い方でないこと、話を聞くのが上手な理由がわかってしまった気がして、なんだか微笑ましかった。

 
その日から度々、お二人は私を家へ招いてくださった。卒業して近くの学校で事務員をするようになった私は、日々働きながら休みの日には店やご実家に彼に会いに行く、そんな毎日を過ごすようになった。毎日が目まぐるしく、それでいて幸せだった。けれど一つだけ、彼のご家族にはとても良くしてもらっているのに、私はといえばお父様にも母様にも彼のことを切り出せずにいることが少し後ろめたく思えて、心に引っかかっていた。
 


そんな私もついに、彼のことを家族に話す日が来た。それは私が二十になった日の夜のことだった。家でお父様と母様と夕飯を食べているとお父様が突然、縁談の話を持ち出されたのだ。私の、縁談の話を。お父様には古くから仲の良い友人がいらして、その方には私と同い年の息子がいるのだと。その彼と結婚してはどうかと、そんなことを突然おっしゃったのだ。お互いの子どもが成人したら話を進めようと、兼ねてからそう示し合わせていたらしかった。


「酒蔵の息子でな、家柄も申し分ない。どうだ?そろそろ仕事を辞めて...」


格好も進学先も就職先も、これまでお父様のおっしゃることに反いたことは一度たりとてなかった。これまでお父様がおっしゃったことで、間違っていると思ったことは一つだってなかったから。特に何の抵抗もなく、言われた通りの道を歩んできたと思う。そんな私がお父様に初めて楯突くことになるのだ。食卓の上、握りしめた手が震えた。けれどこれだけは、どうしたって譲れなかった。


「...お父様」

「なに、どうした春野」
 
「私には、お慕い申し上げている方が...」


震える声でそう告白すると、途端お父様の眉が険しく釣り上がるのがわかった。
 

「なに?一体どこの男なのだね」

「...母様はきっとご存知かと思います。いつもお酒を買いに行く酒屋の息子さんで」

「あぁ、お爺さんの...お孫さんかい?」

「えぇ」

「なに、酒屋の孫だ!?」


お父様が勢いよくついた手に、机上の皿が音を立てた。


「春野、私は酒蔵の息子を紹介しようというのだ。ただの酒屋の男と酒蔵の跡を継ぐ者では格が違うのだぞ?」


覚悟をしていたことだった。家柄同士で婚姻関係が結ばれるこの時代。彼の家と私の家では、身分にかなりの差異があることは最初からわかりきっていた。だから私は今日の今日までそのことから目を背け、お父様と母様に彼とのことを話せずにいたのだ。けれどもうここまできて仕舞えば、正々堂々と向き合う他なかった。


「お父様。私は林春吾郎さん、その方と一緒になりたいのです。彼の仕事が何であろうと、身分がどうであろうと、関係がありません。それにお相手が稼いでくださらずとも、私には立派な仕事がございます」


食卓に静寂が満ちた。お父様はその日、それきり押し黙ってしまわれた。私は黙々と目の前の食事を平らげるしかなかった。


女の私を高等学校まで通わせてくれたお父様だ。時代の先をゆく柔軟な考えを持ち合わせておられるやもしれないと、少し期待をしていた所もあった。けれどそれは勘違いだったのだろうか?
私を女学校に通わせたのもただ、私に箔をつけるためだったのだろうか?星川女学校卒の娘、それを良家の子息と結婚させるための。その晩、私は一人静かに枕を濡らした。その日の出来事を彼にどう話そうか、どうすれば彼と一緒にいられるか、そのことだけを考えながら。


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それから三日ほど経ったある日のことだった。あれ以来重い沈黙が続いていた食卓で、お父様が口火を切った。


「その春吾郎とかいう男を、今度うちに連れて来なさい」





私と彼が出会って季節が四回巡って少し通り過ぎた頃だった。私はその日仕事が終わると、まっすぐに彼の店へと向かった。話があるのだと告げると、彼は早めに店仕舞いをしてくれた。


今年ももう花見の季節という頃。二人足を運んだ柳川のほとりは、花を愛でる人々で賑わっていた。重い話をするには、これくらい賑やかな場所の方が空気が紛れる気がして丁度良い。桜の木の下、私達はいつものように腰を下ろした。


「シュンさん...」

「うん。どうしたんだい?」


私が悩みを打ち明けようとすれば、いつもこうやって優しく顔を覗き込んで話を聞いてくれる彼だった。そんな優しい彼と、この先一緒に居られないかもしれないと思うと、それだけで涙が出そうだった。


「お父様が...私に縁談をしろとおっしゃったのです」


恐る恐る口にした台詞。賑わう花見客達の中で、私達の間にだけ静けさが満ちた。数瞬の沈黙ののち、彼が静かに口を開いた。


「...そうか。それで、ハルはその縁談を受けるのかい?」


隣には覚悟を決めているような彼の横顔。彼の膝の上で、その手がひしと強く握り締められていた。


「確かに家柄を考えれば、僕と君は釣り合わない。それはわかりきっていたことだ。君の将来を考えれば...」

「お断りしていただくよう、お父様に頼み込みました」


込み上げようとする涙を堪えながら一息に言ってしまうと、彼が驚いたようにその目を見開いた。


「ハル...」

「けれど。そうしたら、お父様が...」

「うん」

「お父様がシュンさんをうちに連れてきなさいと...」


はらりと二人の間、桜が舞って落ちた。それでも私達はまっすぐにお互いだけを見つめていた。
もしも断られてしまったら...そんなことを言う父親に会うのは嫌だと言われてしまったら...そんな不安に震えていた手を、彼がそっと握ってくれた。


「わかった」

「シュンさん」

「任せておいて。君のお父様に気に入られるよう精一杯頑張るよ」

「本当ですか?お父様に会ってくださるんですか?」

「もちろんだよ。ハルさえ望んでくれるのならば、僕はどこまででも君と一緒いたい。そのためなら何だってしよう」


その言葉が心強くて愛おしくて、私はやっぱり、この人と添い遂げたいのだと強く感じた。彼なら大丈夫、そう思えた。私達なら。





彼と出会ってから、私はずっと幸せだった。きっと彼も、そう感じてくれていたと思う。突き抜けるような幸せではなくても、じんわりと温かな木漏れ日に包まれるような幸せに満ちた毎日。私達にはそれが似合っていると思ったし、それが好きだった。


彼といられるなら、私はどの季節も、どんな場所も、どんな時代でも幸せでいられる...それだけは紛うことなく確かだと、私は自信を持って言うことができた。