物心がつく頃から、私は人見知りが激しかった。
同い年の友達にも話しかけるので精一杯で、自分の周りにいる人に見下ろされているようで怖いと思った記憶がある。小学校に入っても友達ができなくて、一人で過ごしていた。
そんなある日、仲の良い友達だったかは定かではないが、ある女の子がクラスメイトの筆箱から、可愛らしい絵柄の鉛筆を勝手に持ち出して自分の筆箱へ入れているのを目撃した。キラキラしていて、クラスの中では持っているのが珍しい方だったと思う。
私が「人の物を盗っちゃダメなんだよ」と指摘したら、その子は突然大泣きしたのだ。
駆け付けた先生に彼女は「ひよりちゃんがダメって言った!」と言うと、先生は話も聞かず一方的に私を叱りつけた。
「日和さん、どうしてそんなこと言うの? お友達でしょう? ちゃんと謝ろうね」
「……どうして?」
人のものを盗ったのはその子なのに、どうして私が怒られないといけないの?
そう言うと、先生は顔を真っ赤にして声を荒げた。教室のど真ん中で、クラスメイトの目の前で。
先生が怒ればそれは正しいこと。――見せつけられた光景はまるで洗脳されているようで、その瞬間、クラスメイト全員が「お前が悪い」と決めつけた。
怒られたことよりも、一斉に向けられた冷たい視線が怖くて、その場から立ち去りたかった。でも先生に掴まれた腕は振り払うこともできず、ただ俯いたまま逃げられなかった。
――その日を境に、私は教室に入れなくなった。
教室の前まできたところで、途端に呼吸が苦しくなる。朝食べたものが一気に上がってくるような気がして、トイレに駆け込む毎日。
今までのことを全部両親に話したら「無理をするな」と言われ、学校に相談したうえで保健室登校するようになった。教室という空間が恐ろしいだけで、学校自体に通えたことは幸いだった。それでもクラスの子は皆、私を見て贔屓だと言う。
「学校が嫌なのは日和ちゃんだけじゃないじゃん」
「高田だけずるいよね」
「皆さんが思うことはあるだろうけど、日和さんも大変なの。一日でも教室に来られるように、皆で応援しましょうね。日和さん、何か一言ある?」
そう言った先生やクラスメイト全員の顔が、のっぺらぼうに見えた。このときの私は「お前らのせいだ!」と怒鳴っても良かったかもしれない。でもきっと先生は「私も頑張ります」とか「私のせいでごめんなさい」とか、不機嫌にさせた人への謝罪と弁明を求めていた気がした。
それが引き金となり、ある程度人が集まっている前で話すことどころか、人が集まる場所にいることさえも恐ろしく思うようになった。「お前の言うことは間違っている」と突きつけられているような気がして、話せる友達なんてろくにできず、特に思い出も作れないまま小学校を卒業した。
中学に入っても教室に入ることを躊躇い、保健室にいることが多くなった。担任の先生もすごく困っていたし、両親は呆れていた。「こんな子供に育てた覚えはない!」と叱られたっけ。
でも私、何かした?
教室に居場所なんてなかった。だからどこにいたって私は一人で、周りの重圧に押しつぶされて、従った結果が今の私だ。
こんな惨めにいたぶった先生やクラスの子、両親が憎い。
それ以上に、何も出来ない自分が嫌いだった。
――そんなときに出会ったのが、アズだった。
何の気なしに動画サイトを開いたところ、有名な曲名の後に「歌ってみた」と記載されていた動画を誤ってタップしてしまったのがきっかけだった。
伴奏からしばらくして歌声が流れてきた中性的な声色。優しくも力強く訴える歌唱力の高さに、私は気付けば涙を流していた。
曲自体を自分が歌いやすいようにキーをいじったわけでもなく、本当に声を自由自在に扱っている。歌う人が違うだけでこんなにも捉え方が変わるなんてと感動すら覚えた。
それからアズについて調べていくうちに、正体を一向に明かさないことで「あの声は作り物だ! 曲によって声が変えられるなんて在り得ない!」と叩かれていることを知った。
『自分も人だから、生きていることが嫌いになる時もある。でももう一回、もう一回頑張ろうって思えば、案外自分が思っていることがアホらしく見えちゃうんだよね』
もう一回――それがアズの口癖だった。アズの力強くて儚げな歌声が乗ったあの歌がかけがえのない応援歌となったように、アズの言葉に私は救われたのだ。
それからの私は、自分でも考えられないほど前向きになった。公立高校に入れるように教科書や参考書、プリントを繰り返し解いた。必要最低限の授業は出席したけど、前に出て答えることも挙手もしなかったし、先生も考慮してくれた。テストの成績は上位にいるけど、授業に出ていないから内申点はかなり低い。
それでもなんとか今の高校に入学することができた。通信制も考えたけど、両親の意向で定時制に通うことになった。
でも体育館で行われた入学式は息苦しくて、ダメ元で用意した耳栓をして臨んだけど、人の多さに圧倒されてダウン。クラスメイトの顔は一人も覚えられなかった。
入学式後から数日間のオリエンテーションを終え、通常授業に移行して一ヵ月。耐え切れなくなって教室で過呼吸を起こしたのをきっかけに、私は保健室登校に切り替えた。
教室に行くのが怖い。話しかけられても答えられない。仲良くなんてフリしかできない。
人と接することが苦手で、人の多い場所にずっと居続けることができない私には、狭い空間にぎゅっと人が集まるライブ会場に足を運ぶことは難しい。
どれだけ楽曲を聴き込んでも、雑誌やCDを買っても、直接対面したいとはなぜか思えない。画面を隔てているだけで、遠くにいるアズを見ているだけで幸せだった。
遠い存在でも、アズが存在する事実こそが、私の生きる意味であり証だと言ってもいい。
スマホの小さな画面の向こうでアズがいるという事実だけで、私はこの世界に満足していた。
生きる意味があるからきっと、死ぬことを選ばないと思った。
*
――合同ライブまであと二ヵ月。大型連休を終えた久々の登校日は、教室近くまで足を向けたものの、やはり立ちすくんでしまい、逃げるようにその場を離れた。
保健室に行くと、養護教諭の芦名先生は何も聞かず「今日の分ね」とプリントが入ったクリアファイルを渡してきた。担任の先生から預かったものらしい。「来られたらおいで」と小さくメモも貼られている。毎日同じようにメモを置いていくけれど、教室に行けた試しはない。
いつものようにプリントをこなして芦名先生に採点してもらっている間、スマホのSNSをチェックする。ここ数日でアズのSNSを通じて出演アーティストが発表されている。よく生配信で絡んでいる歌い手から、楽曲提供をした著名人まで。人気のアイドルが単独で参戦することもあって、チケットの倍率は高そうだ。
「そういえば、ライブが決まったんだって?」
はい、と真っ赤になったプリントを渡しながら芦名先生は言う。苦手な化学の小テストは今までで一番点数が悪かった。
「アイドルのファンの子が興奮気味に廊下で話しているのを見かけたのよ。朝から元気で微笑ましかったけど」
「へぇ……」
「高田さんと話が合うんじゃない?」
「……無理ですよ」
その人が好きなアイドルは、おそらくアズが以前楽曲を提供したグループだろう。当時は異例な組み合わせだと話題になり、生配信にもアイドルのファンが顔を出すことが多くなった。
それでも彼女らは「アズが作った楽曲を歌うアイドル」が好きなだけで、「アズ」そのものが好きなわけじゃない。私がその輪に入っていくことは難しいだろう。
「その子たち、ライブに応募するってさ。高田さんはどうするの?」
「……行かないよ」
行けないよ。チケットの倍率高いし、買っても転売ヤーが売り出すだろうし。
何より学校の教室にも入れない、人混みにいるだけで倒れそうになる私には、行く資格なんてない。
『普通に学校に通えるならねぇ』
いつかの母の言葉が重くのしかかった。
芦名先生が午後から会議に出るため、保健室から追い出されてしまった私は、プリントを持って少し離れた図書室に移動する。非常階段を登って図書室のあるフロアに着くと、大きく息を吐いた。
廊下に出ると、教室からは先生が世界史を熱弁している声が微かに聞こえてくる。チョークで黒板を引っ掻く音がなんだか懐かしく感じた。
どの教室も授業中でよかった。内心ホッと胸を撫で下ろして、足早に図書室に向かった。
司書の先生は居なかった。カウンターの奥にある倉庫で作業しているようで、「何かあったらベルを鳴らして」と書き置きされている。相変わらず室内は静かで、ひっそり誰かが息をひそめているのではと疑いたくなる。抱えるようにして持っていたプリントと鞄をぎゅっと持ち直して、図書室の奥にある机の椅子を引いた。
――たん、たん、たたん。
「……?」
ふと、本棚の奥から不思議な音が聞こえてきた。布の擦れる音――例えるならば、太腿を叩くような鈍く、弾んだ音だ。
誰かいるのだろうか、と荷物を置いて音のする方へそっと近付く。傍に行くにつれ、不思議な音が一定のリズムであの曲を叩いていることに気付いた。
「『Mr.パンプキンパイ』……?」
「……え?」
自分でも気付かないうちに零れた言葉と同時に音が止む。そして本棚の向こうから、そろっと顔を覗かせたのは、こげ茶色の髪をした男子生徒だった。首には有線のイヤフォンを下げていて揺れている。あまりにも唐突でお互い目を丸くして驚いた。
「ひ、ひと……!? 今授業中なんじゃ……、もしかして今の聞いてた?」
「あ、え、えっと……」
困惑しながら次々に訊いてくる彼に私は息が詰まりそうになった。
どこかで見たことがある顔だったけど、誰だったか思い出せない。同じクラスだっただろうか。鉢合わせしてしまったとはいえ、聞いていたの不味かったかな。
――いや、そんなことよりも。
「――っ、み、ミスパプ!」
「へ?」
「な、なんでミスパプを知っているの? しかもドラムパートが叩けるなんてありえない! あれはアズがハロウィン企画の生配信で一度しか出さなかった音源なの! 生配信の切り抜き厳禁で見かけたら全部通告して即削除されていたくらい、管理を徹底していたのに、どうしてあなたがそれを知っているの!?」
『Mr.パンプキンパイ』――通称『ミスパプ』はアズが二年前、ハロウィン企画題したと練習兼お遊びとして作られた楽曲だ。パンプキンパイに扮したお化けが子供たちを驚かせに行って失敗したものの、一緒にハロウィンを楽しむという、ちょっと間抜けで愉快な内容。「歌ってみた」動画を中心に投稿されていた時期だったから、初めて聞いたときに衝撃を受けたのを覚えている。だからこそ、誰もがミスパプの音源を欲しくて欲しくてたまらない。
「一度しか聴いたことないけど、あなたが叩いていたリズムは確かにミスパプだった! あの生配信で即興で友人が叩いてくれたって確かにアズは言ってたのをずっと覚えてる。だってアズが楽曲を作っていることすら驚きで感激したのに、友人と一緒って知った時はエモくて……あ」
ハッとして言葉を止めた。目の前で唖然としてこちらを見ている彼が引いているのが分かる。
初対面の相手に、宗教の如く熱弁した私はただの変人に見えるのかもしれない。思わず視線を落とすと、彼は顔を覗き込むようにして見てくる。
「君も観てたの? あの生配信」
「は、はい……」
「マジか……そっか!」
バシン!といきなり両腕を掴まれた。驚いて顔をあげると、満面の笑みを浮かべた彼が言う。
「やっと見つけた! ずーっと捜していたんだよ!」
「…………え?」
「クラスにアズのことを知っているヤツが誰もいなくてさ、ずっとずっと誰かと話したかったんだ! 君ってめっちゃ詳しいけど、いつからアズを知ってるの? この間のライブ発表の時、鼻歌歌ってたのが新しい楽曲の匂わせだったと思うんだけど君はどう思う?」
「え、えっと……」
「あ、ごめん! 俺、好きなものの話になると止まらなくなっちゃって……引いたよな?」
呆気をとられた、とはまさにこのことか。
彼が私にしたことは、紛れもなく私が誰かにアズについて話すときにする行動にそっくりだった。好きなものに対して話したいだけなのに、嫌に引かれ呆れられ、消えるように離れていく。周りの人はこんな面倒な気持ちだったんだろう。きっとそうだ。
だから彼が一瞬傷ついた顔をしたとき、私も胸の奥が痛んだ。
「――だ、だいじょうぶ。私も同じ、だから」
「同じ?」
「ろ、ろくに人と話せないのに、アズの話だけはできる。今までずっとそうで、いろんな人に呆れられてきた、から、だからその、あなたがこわくなったの、……わかるよ」
しどろもどろながら言うと、彼はまた一層目を輝かせた。この人、一体何なんだ。
「なんか、君となら仲良くできそう!」
「……え?」
「俺は二年一組二十八番の若槻蒼汰! 君は? 二年生?」
「……え、っと」
唐突な彼の自己紹介に圧倒されて、自分の名前を――学年はともかく、クラスと出席番号は吹っ飛んだ――一瞬忘れそうになる。まるで太陽みたいに圧倒的で、目が眩むほど眩しい。
「高田、日和……」
「高田か。ねぇ、アズが先週、歌い手のレソラさんに提供した楽曲聴いた?」
「……う、うん! すっごく爽やかで、ピアノがきれいだった! 多分アズが作曲するときに使ってるピアノじゃないかなって思うんだけど」
「やっぱり!? 俺もそうだと思ったんだよね! 提供しただけじゃなくて、演奏にも携わっているんだとしたら、熱いよなぁ……!」
それから授業終了のチャイムが鳴るまで、彼とアズが発表した最近の楽曲についてずっと語っていた。
彼が「次の授業は出ないと成績不味いから」と出て行った後に時計を見ると、一時間も話し込んでいたことに気付く。それと同時に、久々に沢山話したこともあって頬の筋肉が若干痛い。もしかしたら明日には筋肉痛になっているかもしれない。
「……変わった人だったな」
いつも憂鬱だった学校にいる時間が、たとえ一時間でも「楽しかった」と思う自分に内心驚いた。不思議と嫌だと思わなかったのは、きっと彼の明るさからだろうか。
次の授業のチャイムが図書室にも響いて、机に投げっぱなしにしたプリントを解き始める。いつもより気分がよかったのは、好きな国語の漢字の書き取りだったからかもしれない。
「そういえば、高田っていつもどこにいるの? 一通りの教室覗いても姿がなかったからさ」
「……えっと」
梅雨の時期になり、気圧の変動で頭痛を引き起こした生徒が出てきた。保健室にも訪れる生徒が多く、邪魔になると思い図書室に移動した私は、三週間ぶりに若槻蒼汰と遭遇した。この一時間で解くはずのプリントを放って話していると、突然彼が聞いてくる。
「ほ、保健室……」
「そうなんだ。じゃあ行けばよかったなー」
「え?」
「だって俺が保健室に顔出せば、高田とアズの話できるだろ? それに一回しか聴いたことがない曲の、しかもドラムパートをどうして聞き分けられるのかも知りたかったし!」
「そ、それは私も聞きたい! 楽譜も一切出てないのに、どうしてわかったの?」
私が聞き分けられるのは、ずっと同じ曲を何度も聴いたあと、一つの音に集中して聴き込むのを繰り返したものだ。ミスパプに関しては生配信のアーカイブが終了する直前まで、人差し指の指紋が消えるくらい何度も聞き直して覚えた。
私は楽器の類は何もできない。再現はいつも記憶の中しかない。だから彼が簡単に叩けたのが不思議で仕方がなかった。
すると彼は困ったように頬をかいて視線を逸らした。
「俺はー……その、一度聞いたものは忘れないんだ。瞬間記憶能力の、音だけバージョン?」
「しゅんかん……?」
「要は、音だけなら一度聞いたらずーっと覚えてるってこと。それに俺は軽音部で、ドラム担当。せめて絶対音感だったよかったのになぁ」
そう言って彼は言葉を切った。横顔がやけに寂し気に見えたのは、それほどまでに良いものではないと示しているのだと思った。
「……一生、覚えてるってこと?」
「そうだね。小さい頃、家の近くで事故が遭ったんだけど、その時のブレーキ音とか叫び声、全部嫌でも覚えてる」
音は、目を閉じても耳さえあれば感じられる。人の笑い声や泣き声だけでなく、身の回りにある音すべてが彼にとって苦痛なのかもしれない。
「聴覚なんてなくなってしまえばいいって何度も思った。でもそれを捨てる勇気なんてどこにもなくて。だから気を紛らわすためにイヤフォンをして、いろんな音楽を漁っていたんだ。好きな曲だけを覚えておけば、急に嫌な音を思い出した時でもすぐ切り替えられると思ったから。……そこで俺はアズに辿り着いて、間違っていることに気付いた」
「間違っている?」
「アズの表現力の高さは君も知っているだろ? 音だけで人の気持ちは楽しくなって、悲しくなって、涙を誘う。それを音楽で表現するアーティストのなかでも、アズは人一倍身近にいる気がするんだ。聞き手に寄り添った声がなかったら、俺は今でも自分の手で聴覚を失う手立てを模索していたかもしれないし、ドラムの楽しさを知ることもなかったと思う。……だから俺は、この聴覚をひとつの個性として受け入れていこうって決めたんだ」
なんか気恥ずかしいな、と彼は視線を逸らす。
彼と会って話すのはこれで二度目なのに、どんなことでも話せてしまうのは、今ここにいる状況がお互いに似通っているからだと察したのだろう。
「……あなたも、アズに救われた人なんだね」
苦痛をしいられてきた中で正体不明のアズと出会い、自分の主観を変えようと前を向いた結果だ。特に彼は自分では制御することが難しいのに、それさえを自分のものにしている。
それなのに、私は――。
「高田も、アズに救われてここにいるんだろ?」
「……え?」
何もできていないと痛感してぎゅっと唇を噛むと、彼がそう言ってニカッと口元を緩めた。
「ねぇ、今日の放課後、俺のために空けてくんない?」
*
放課後、職員室に今日分のプリントを提出して図書室に向かうと、入口で彼が待っていた。暑いのか、ワイシャツを腕まくりしており、腕の血管がうっすらと見える。
「よかったー来てくれて」
「……え、と……うん」
曖昧な返事を返すと、彼はニッコリと笑って返した。詳しい話は聞いていないから、何をするのかわからなくて身構えた自分がいる。
ついてきて、と言われるがまま彼の後を追うと、今は使われていない自習室に着いた。そこには教卓の前にドラムセットがどんと構えており、威圧感を醸し出していた。
「俺の部活の相棒! ……って言っても、学校の備品で先輩からのおさがりなんだけどさ。高田に聴いて欲しくて!」
「聴くって」
何を?と問いかける前に、彼はいそいそとドラムの前に座った。そしてバチを持ってすう、と息を吸い込むと、慣れた手つきでドラムを叩き始めた。ドラムは両手の他に、楽器と繋がったペダルを使って両足でも演奏をする。それだけで器用なのが伝わってくる。
でもそれだけじゃなかった。
しばらく聴き入っていると、演奏しているのがアズの楽曲の一つであることが分かった。メドレーのように流れるがまま、図書室で叩いていたミスパプも同様に演奏されると、頭の中で生配信の時の記憶が蘇る。ここにギターやベース、ピアノが加わったらどれほど良かっただろう。
最後まで演奏をし終えると、彼は満足そうな顔をして立ち上がった。
「どうだった? ドラムだけのアズ楽曲メドレーは」
「すごかった……すごいよ! ほとんど楽譜がないものなのに、全部記憶だけで叩けるなんて! ミスパプのドラムが入った時、生配信の音源が聴こえた気がした!」
「まだまだだけど、そんなに褒めてくれるなら頑張ったかいがあったなぁ」
へへっと頬を赤らめる。教室に差し込んだ夕日が彼を照らして、さらに真っ赤に見えた。
「俺はアズみたいに上手くないし、誰かの心を動かすことは一生かかっても無理かもしれない。それでも高田がそう言ってくれるだけで満足だ」
「え……?」
「高田、怖いモンは怖いんだよ。でも飛びこむ勇気だって必要だ。案外、受け入れてくれる人は多いと俺は思う。何より高田にはアズがいる。アズの歌が背中を押してくれる。教室の近くまで行けるんだから、きっと入れる日だって来るさ」
彼は一体、誰から私の話を聞いたんだろう。
知っていて私に話しかけたのだとしたら、悪趣味だなって引いてしまうかもしれないけど、なぜか不思議と嫌な感じはしなかった。
「そ、それに! アズの楽曲が増えるたびに高田と共有したいっていうか……ええっと、なんていうか、その……」
「……うん、そうだね」
「え……?」
ああ、そっか。たった二回話しただけの相手でも、こんなに素直に受け入れられたのは、きっと私も話せる相手が欲しかったからだ。
「私も、若槻くんみたいに変われるかな」
「俺みたいにじゃなくていいよ。だって高田は高田だろ」
変わらなきゃ、何もできない。
数日後、いつもより少し早く起きてリビングに行くと、両親は目を丸くして驚いていた。
「珍しいわね、どうしたの?」
「おはよう。ご飯食べ終わったら行ってみようと思って」
「けどこの時間帯の電車は通勤ラッシュで混んでるぞ?」
「女性優先の車両なら結構空いてるから大丈夫だと思う」
不登校気味な娘が、いきなり普通に登校すると言い出したことに困惑している様子だった。
若槻くんに言われた日から、両親や先生と話をしてきた。一人で教科書とプリントを使った勉強なんてこの先いくらでもできるけど、せっかく全日制の高校に合格したのだから、教室で授業を受けたい。
人の視線は怖いし、大勢の中で息苦しくなるかもしれない。でも今頑張らなくちゃ、きっと私は前に進めない。
アズの歌に背中を押され、中学時代を頑張ったようにもう一度。
――ううん。もう一回、私は前に進みたい。
それでも心配性なのか、はたまた信用していないのか。いつもよりおどおどした様子の両親に、私は言う。
「私、大丈夫だよ」
朝食を食べ終えてろくに教科書も入っていないリュックといつも使っている青のヘッドフォンを持って家を出る。朝のスッキリとした空気が肺に入ってくると、不思議と気力が湧いてきた。
駅に着く少し前からヘッドフォンの音量を少しばかり大きくする。視界に入ってくる人混みから少しでも自分が意識を逸らすのだ。
予想していた通り、朝の通勤時間帯のみ、先頭車両が女性専用として解放されている。いつもより早いせいか、おかげで他の車両より人混みは少ない。いつ気持ち悪くなっても外に飛び出せるように、なるべく出入口に近い場所に立つ。
電車が動き出すと、外の風景が移り変わっていく。いつも見ている風景なのに、どこか新鮮に見えるのは時間帯が違うからだろう。電車が最寄り駅に着くと、足早に降りて改札を抜けた。一度でも立ち止まったらその場から動けなくなると思った。
学校に着いてまず向かったのは保健室だった。ちょうど芦名先生が来たばかりだったようで、机に鞄がどんと乗っていた。
「日和さん? おはよう」
「おはようございます。……その、今日は朝から、教室に行ってみようと思って……」
芦名先生は手を止めて私をじっと見る。「あなたじゃ無理でしょ」って言われるんじゃないかと不安が過ぎって不意にスカートを掴んだ。
しかし、先生は安堵したように微笑んだ。
「わかった。あなたならきっと大丈夫よ。でも無理はしないでね。私も担任の先生も、日和さんの味方だから」
「……ありがとうございます」
芦名先生はいつも寄り添ってくれる。アズのことを聞いてくれたのは先生が初めてだった。
「さて、じゃあどうする? 教室まで一緒に行く?」
「いえ、自分で……あ」
「どうしたの?」
「……自分の席が、わかんない、です」
教室に入った後、クラスの誰かに聞く方が良いのかもしれないけど、そこまで私ができるかは正直自信がない。そこまで考えていなかった。