君の今日を、何度でも繰り返す。

沢多さんがくるりとこちらと身を翻す。
いつも笑っているはずの彼女の瞳からは、大粒の涙が流れていた。

スピーカーから流れてくるこの場にそぐわない陽気な音楽。
学校に照らされる彼女の髪が宙を舞う。
とっさに足に力を入れて、僕は非力すぎる手を伸ばした。


「──東山若葉くん。私は」
「待って」



「君のことが……、大好きでした」




けれど、それは哀しくも空を切る。




「沢多さんっ……ダメだッ!!!!」


彼女は切なく微笑んだまま、宙に浮かんだ。
僕は必死に走って手を伸ばした。喉を割くようにして漏れたのは、これまで出したこともないような声だった。

瞬きした次の瞬間には、彼女の姿が視界からなくなっていた。
聞こえてくるのは、キャンプファイヤーを楽しむ人々の笑い声と陽気な音楽。


へたり、と膝をついた。


「あああ……っ、そんなっ、」


いない。
沢多さんが、落ちた。
──…落ちた。

先ほどまで彼女が立っていた場所には、寂しげな風が吹いているだけ。
目の前が真っ白になった。
呼吸が乱れる。
震えが止まらない。

自分から身を投げ打って、笑って飛び降りた。
屋上から、なんで、落ちた?

助けられなかった。
助けられたはずだった。

なんで。どうして。なんで。

嘘だ。

嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。


「うっ、あああっ……!!」


涙をボロボロと流しながら何度もアスファルトを拳で叩いた。

なんでだ。
なんでだよ。
どうして沢多さんが。

何故、手が届かなかったんだ。
何故、彼女を知ろうとしなかったのか。
何よりも、自分自身にどうしようもなく腹が立った。
──僕はいったい、今まで彼女の何を見てきたんだ。


『──只今より後夜祭のメインイベント、フォークダンスのプログラムになります。参加されるみなさまは、キャンプファイヤーのそばへお集まりください』


ふざけるな。


返してくれ。
こんな後夜祭なんて、どうでもいいから。
彼女のいない世界なんて、どうでもいいから。




「沢多さんを、返せよ……ッ!!」


弱虫な僕を殴りたかった。
やるせなくて、悔しくて、悲しくて。

──好きなんだ。
好きなのに。
沢多さんに何も伝えられてない。

僕がいるんだ。
僕が、君を好きだって言えたら何かが変わったのだろうか。


「返せ!! 返せよっ、返せ返せ、返せ返せ返せ返せ、返せ、返せっ……、」


一緒に実行委員をした。
一緒に肝試しをした。
一緒に星空を見た。
一緒にアイスを半分コした。
一緒に、好きなものの話をした。

僕が知っているのは笑っている沢多さんだけだ。
どこかで泣いている彼女がいたのかもしれないのに、僕は、馬鹿だった。
どう足掻いたって取り返しがつかないことだというのに、この日、僕ははじめて身を焦がすほどに天に願ったんだ。

もし、僕が過去をやり直せるのなら。
何度辛い思いをしたとしても必ず僕が、──彼女を救ってみせるのに。



「……小僧。あの娘を助けたいと思うか?」
ポタリ、冷たいアスファルトに涙の染みが落ちた。
裏悲しい風に乗って、僕をただ静観するような、そんな闇に溶ける声が聞こえてきたんだ。

──なんだ?
僕以外はこの場所に誰もいないはずなのに。

ショックのあまり、幻聴が聞こえるようになってしまったのか。
今もこんなに、彼女の顔が脳裏をよぎって仕方がなかった。

こんな僕を羨ましいと言ってくれた。
格好いいと言ってくれた。
大好きだと言ってくれた。
だけれども、僕はこんなにも非力なのだ。嗚咽を漏らして、冷たい地面に丸くなっていることしかできない。

彼女の声がもう一度聴きたい。
もう一度、僕の名前を呼んでほしい。

自らの死を選択させてしまうだなんて、そんなの、悲しすぎるじゃないか──。


「うっ、ああっ…ああ」
「泣いてばかりでは、変わるものも変わらないぞ、愚か者め」
「……っ、え?」


また、冷たい夜の風に乗せて誰のものかも分からない声が聞こえてきた。
顔を上げて周囲を確認する。
僕の背後には1匹の黒猫が座っていた。


「もう一度云う。あの娘を助けたいか」
「ね……こ?」
「いかにも。小僧、猫が口をきくなんてあり得ないといった顔をしているな」


僕は、ショックのあたり頭がどうかしてしまったのかもしれない。
身を何度も擦ってみたが、妙に達観した声は猫の口の動きに合わせて聞こえてきた。しかも、この鈴の首輪は──どこかで。


「君は……」
「妾と貴様は、何もはじめて会ったわけではないだろう。今しがたそこから飛び降りた哀れな娘とともに、寺の境内にて戯れてやったはずだが? 妾はその辺を彷徨いているただの猫ではないというのに、不敬にも撫でくり回しおって」


寺の境内。
まさか、あの時の黒猫だというのか。

それにしても猫が口をきけるわけがない。
それなのに、何故僕には言葉が分かるんだ。


「愚かな人間は何故、簡単に死にたいと口にするのだろうな。己が人生はこれでおしまいだ、誰も味方はおらぬと諦めて、自ら命を絶つ者が耐えぬのだ」

膝をついて涙を流している僕のまわりを、黒猫は悠々と歩き回る。
月明かりに妖しく照らされているこの子の足もとをよく見て目を丸くする。
──…透けていたからだ。


「小僧よ。ここから飛び降りをしたとて、楽に死ねると思うか」
「……っ、やめて、沢多さん、はっ」
「このくらいの高さの建物から身を投げたとて、まず楽には死ねんだろうな。下に生えている木々にでもぶつかりさえすれば、意識など飛ばぬ。地面に叩きつけられた激痛は想像もできぬものだろう。一思いに殺してほしいともがき苦しみながら、地獄を味わって死んでゆくのだ」


とっさに耳を塞いだ。
あまりに辛すぎる内容だったからだ。
沢多さんが苦しんで死んでゆくところなんて考えたくもなかった。

それなのに、この黒猫はこんなショッキングな内容も淡々と口にする。
チリン、と浮世離れしている鈴が静かに鳴った。


「妾の散歩コースであるあの寺の境内にて会うた時にはすでに、娘にはひどい死相が出ておった。じゃから気になって貴様らの行く末をこうして見ておったのだが、なんとまあ人間というものはこうも非力なのだろうな」


──死相?
あの時から?

僕と肝試しをした時にはすでに、沢多さんは自ら命を絶ちたいと思っていたというのか。
いや、違う。そうじゃない。僕にできることがまだあるはずで。

「っ、うっ、はあっ」
「なんじゃ? 娘が目の前で飛び降りる様を目撃して、ただ腰を抜かして泣いておったというのに。急に立ちあがろうなどと」
「……っ、彼女を助け、ないとっ! まだ息があるかもしれないっ! 下に降りて、先生を呼んで、救急隊を……」
「──無駄だ、もう助からぬ。娘の命の灯火はもうまもなく完全に消え失せる。延命を施そうとも、再び眼を開けることはないだろう」
「そんなことっ……言わないで! 嫌だっ、彼女が死んでしまうなんてそんなのあんまりだっ…! 嫌だ嫌だ嫌だっ…!」
「そうメソメソと泣くでない。あの娘の魂は幸いにも、まだ冥界にはやってきてはおらぬ」
チリン。
月光によって足もとを透明にしている黒猫が僕の前でしっぽを振る。
闇世の中で輝く黄色の瞳が、すうと細められた。

──なんなんだ。
冥界?

僕は、いったい何と会話をして。


「まったく。300年ほど前であれば、黒猫は魔除けや幸福を引き寄せる縁起の良いものとされていたのだがな。近頃はただ散歩をしているだけだというのに、薄気味悪いものでも見るようにしてくるのだから世知辛くて仕方がないと思っていた」
「き、君は、いったい」
「──妾は結びの神。冥界にたどり着いていないものであれば、なんでも結び寄せることができる」


何故、君が僕の前に姿を現してくれたのか。
よほど哀れに感じたのかもしれない。
何もできない非力な僕を見ていられなくなったのかもしれない。

まるで幻覚を見ているようだ。
いや、沢多さんのことで混乱をして気が狂ったのかもしれなかったが、僕はこのおとぎ話のような黒猫の神様を食い入るように見つめてしまった。

──それはこの世のものとは思えないほどに幽玄であったのだ。


「いつからか人は星空を見上げなくなった。街の明るさにばかり目移りをし、スマートフォンなどという文明機器ばかりを見下ろして、ろくに前方すら見ようとしない。そのような人間が多い中で、この世の神秘を未だに享受しようとする者がおるのだと思ってな」
「…っ、沢多さん、はっ、」
「──娘に会いたいか。声が聞きたいか。その後悔を、晴らしたいか」


チリン。
チリン。
静かな夜に、鈴の音が響く。
満月のような瞳が妖しく光った。


「会い、たいっ……。声が、聞きたくてしょうがないっ……、彼女を救って、1人じゃないと、言ってあげたい! どんなことをしても、傷みから、悲しみから、彼女を僕が守ってあげたいっ! 絶対に、死なせたくないっ…!」


大粒の涙がこぼれ落ちる。


"──東山くん"

沢多さん。


"君のことが、大好きでした"


沢多さん。

沢多さん。沢多さん。沢多さん。沢多さん。沢多さん。


──会いたい。

もう一度、君の笑顔が見たいんだ。
今度こそ好きだ、と言いたいんだ。



「よかろう。ではその願い、特別に妾が叶えてやる」


僕は、黒猫に強く願った。



チリン、チリン。
……チリン。


静かに鈴が鳴る。

徐々に視界が白く霞み、キャンプファイヤーの明かりが見えなくなっていく。
ともすれば、僕の手足が煌々と光り出した。

──…チリン。
音に合わせて僕の身体が宙に浮き、意識が曖昧になっていく感覚。
瞬きをしたその一瞬で、目の前に広がっている風景が無数に並んでいる鳥居へと変わっていった。

僕は宙に浮いたまま、その中を猛スピードで駆け抜けていく。
現実味のない光景を目にしていたとしても、僕はただひたすらに沢多さんのことだけを考えていた。


──会いたい。
会いたい。
会いたい会いたい会いたい。
会いたくて──仕方がない。


「東山若葉と沢多奈央の縁を──…今一度、結びなおそう」


視界がブラックアウトする。

チリン。
意識を飛ばすと同時に、鈴の音色が聞こえてきた。
「──はい、東山くんにも飴あげる」


賑やかな教室。
9月10日(水)日直:東山・沢多 と書かれた黒板。

白くかかったモヤが晴れていき、視界が鮮明になる。
遠くから聞こえてくる声に──ドクリ、と胸が跳ねた。


「聞いてる? ぼーっとしてどうしたの?」


僕の目の前には、眉を下げて困ったように笑っている少女がいた。
真っ白な夏服のセーラー服。
艶のある黒髪。
大きな宝石のような瞳。


「え、なになに。お化けでも見たような顔をしちゃって」

──沢多さん、だ。

沢多さん。
沢多さん、沢多さん。

沢多さん…!

動いている。
息をしている…!
それだけでカッと目頭が熱くなった。
そんな、まさかあり得ないと思う。だけど実際にあり得ないことが起きているのだ。

何がどうなっているのか分からない。夢を見ているのか? さっきのものがむしろ悪夢だったのか?
先ほどまで学校の屋上にいたはずなのに、何故、僕は真昼の学校の教室にいるんだ?
理解が追いついていないままだけれど、目の前にいる純白の彼女が偽りのもののようには見えなかった。


「……さわ、たさん、沢多さん」
「うん。私だけど。どうしたの東山くん」


口もとが震えた。
彼女の耳触りの良いクリアボイスが聞こえる。

空いている窓から吹き付けてくる風にのって、カーテンがヒラヒラと揺れていた。
窓際の席。
一面の空の青の中に浮かぶ積乱雲は、山々をはるかに超えて天高く伸びている。開いている窓の外から蝉の鳴き声が聞こえてきた。


「あははっ、お前マジやめろって!」
「スーパーサンダー、ラリアットォォ!」


ミーンミンミン。
……ミーンミンミン。

ふざけ合っている男子がガタン、と机にぶつかる。


「ちょっとぉー、男子ぃ? さっきからうるさーい!」
「あー? なんだようぜぇー」
「もう少し静かにできないの? これだから男子は……」
「そういう女子こそネチネチしてて無理なんだけど」


周囲のことなどどうでもよかった。
無我夢中で、飴を差し出していた彼女の手を取った。

──温かい。
ちゃんと、温かい。
生きている。
まだ、生きてくれている。


「東山くんっ、ちょっと、」
「──会い、たかったっ……」


もう離さない、とばかりにきつく手を握った。
ずっと手を握っていられれば、彼女がまた屋上から飛び降りることはないのだろうから。人前であろうとかまいやしなかった。


「ほっ、本当にどうしたの」
「会い、たかったっ……本当に、心から」
「えっ……と、あはは、大袈裟だなあ」
「願いが叶ったんだ。僕は、君との縁を再び手繰り寄せた」


そこでようやく、クラスメートたちの視線がこちらに集まってきた。

"え、東山何してるんだ?"
"奈央ちゃんの手ぇ握ってるよ!"
"いつも本ばっか読んでると思ったけど、ついにトチ狂ったか?"

どうでもいい。
なんとでも思え。
もう僕は後悔をしたくない。



「沢多奈央さん。──僕は君が、好きです」
声が震える。
涙が溢れてくる。
この言葉を伝えたくて仕方がなかった。

夢じゃない?
現実なのか?
目の前にいるのは、本当に沢多さんなのか?


「えっ!?」


──9月10日。
ひとつ、頭の中によぎった仮説は、黒猫の不思議な力によってどうやら僕が過去に飛ばされたのだということ。

そして目の前にいる君は、僕のことを大好きだと言ってくれた沢多さんではないのだろう。

僕がこれまで見てきた思い出の数々も、君は何一つ知らない。
一緒に見上げた星空の美しさも。
分けあったアイスの味も。
お互いの好きなものについて語り合った時間も。
目の前にいる君がそれらを知らなくてもかまわない。
とにかく、彼女が生きているだけで十分だと思った。


「なっ、何言ってるの急に。東山くん!」


思い切り動揺している沢多さんは、しきりに周りを見回す。
そうだよな、僕にとってはそうじゃなくても、今の沢多さんにとってはいきなりだよな。だけど、言わずにはいられなかった。
目頭が熱くなってしまってどうしようもないんだ。


「東山が沢多に告った!」
「普通にムリっしょ。奈央ちゃんだよ? 玉砕オツカレ〜」
「マジで陰キャラは何考えてるか分かんねぇわ。なあ、加藤?」
「……あ? ああ……」


いつまでも弱虫のままではいたくない。
地味で根暗であろうと、それがどうした。
以前の僕は身を縮こめて人と関わることを避けていた。
目立つことを避けていた。
あえて1人ぼっちになることを選んでいた。
ただ沢多さんに憧れているだけで、別世界にいる人なのだと決めつけて近づくことを諦めていた。
もうあんな思いをするのは御免なんだ。
もしも本当に僕が悔いた過去をやり直すチャンスを手にしたのなら、前の世界で踏み出せなかった一歩を、僕の意志で踏み出したい。



「皆にどう思われてもいい。僕は、僕だけは君のことが好きだから。それを忘れないでいてほしいんだ……!」


ヒュ〜〜〜〜、冷やかしの口笛が聞こえてくる。
目を丸くした沢多さんは、何かを言いかけてから口を閉じた。



「奈央ちゃんが東山くんみたいな地味メンを相手にするわけないのにねぇー。カワイソー」
「今時そんな暑苦しい告白する男子っているのー? ていうか僕だけは〜って、なにそれきもっ」


クラスの中心グループに属する中野さんたちがケラケラと笑っていた。
その中でただ1人、加藤くんはジッと僕のことを見てきている。



「──いったい何を騒いでいるんだー? 授業始めるから席につけー?」


そんな時、混沌の間を縫うようにして担任の田中先生が教室の中に入ってきた。
沢多さんは慌てて僕の手から自分のそれを引っこ抜くと、正面を向いて座り直してしまう。

さらりと流れる黒髪が目の前にある。
それだけで、また泣きそうになった。


彼女が目の前で屋上から飛び降りたのは、僕の中ではたった数分前の出来事だったから。

喉が枯れるほど泣いた感覚も残ってる。
胸の焦燥も、手のひらが空を切った絶望感も。
叫びたくなって、この世の不条理を憎んだ。


なんだってするから彼女を返して欲しかった。
──僕は本当に、あの黒猫の神様に縁を結んでもらったんだ。
「2学期は始まってるんだぞー? いつまでも夏休み気分でいるなよー?」


担任の田中先生が教壇に立つ様子を眺めながら、僕はひとつ深呼吸をした。


──まず、状況を整理しようと思う。
僕は黒猫の不思議な力によって、過去へと飛ばされた。
単に夢を見ているだけなのかと思ったけれど、きちんと味覚まであるようだったから、僕は本当に沢多さんがまだ生きている世界へと戻ってこれたんだと思う。

まさか。
こんなことが現実に起こりうるのか?
まるでファンタジー小説のようだ。


手に持っているモーモーミルクのキャンディーは、以前まったく同じシチュエーションで彼女から貰った。
こっそりと先生にバレないように口の中に放り込むと、彼女が好きだと言っていたまろやかな甘さが広がって泣きそうになった。


夢じゃない。
──本当に、過去に戻ってこれたんだ。


自らを結びの神だと言っていたあの黒猫は何者だったのか。
また、どこかから僕のことを見ているのだろうか。
2度目の世界では同じ過ちを繰り返したくない。もうただの傍観者でいることはしない。
自ら死を選ぶなんて残酷なことを、絶対に沢多さんにさせないから──。



「それでは、来月10月に行われる文化祭の実行委員を決めたいと思うが、立候補者はいるかな?」


担任の田中先生が教壇に立つ。
"文化祭実行委員"と書かれている黒板の文字を見て、ハッとした。

そうだ。
9月10日は文化祭の実行委員を決めた日だった。たしか、前の世界では立候補者が誰もいないくて、半端押しつけられるように日直である僕と沢多さんが任命されたのだった。

僕と沢多さんが仲良くなるきっかけでもあった文化祭実行委員。
当時の僕は人前に出る機会なんてそうそうなかったし、仕切る、なんてことにはもっぱら苦手意識を持っていたから心底やりたくないと思っていた。

あの時沢多さんは本当はどう思っていたのだろうか。
嫌なことを言わずにテキパキと司会進行を進めていく沢多さんのことを、ただすごいなあと眺めているだけだった。

思えば、こういうクラスのイベントがあるごとに沢多さんは何かしらの役割に任命されることがよくあったような気がする。
しっかりしている性格で、成績優秀者で、人望が厚い学校の模範生徒だから、と。

僕は、彼女のことを何も知らなかった。
勝手にそう解釈している他の人と一緒だったんだ。


「そんなのめんどいしムリムリ〜」
「加藤お前やれよ」
「はあ〜? 嫌だよ、お前やれよ」
「俺、平山を推薦しまぁ〜す」
「ちょっ、やめろよ! ふざけんな」


派手グループである中野さんや加藤くんたちが騒いでいる中で、僕は1人生唾を呑んだ。

行動を、変えなきゃ。
考え方を変えなきゃ。
勇気を、持たなきゃ。
怯えてなんていられない。
つまらない保身をしている場合ではない。

笑われてもいい。うまくできなくてもいい。
目の前で沢多さんが落ちていく姿を見る以外に、怖いものなんてないんだ。

これが彼女の心にどう響くのかは分からないけれど、同じことの繰り返しになることだけは避けたいから。


「なんだ、誰もやらないのか。じゃあ──」
「ぼ、僕が、やります」


ゆっくりと右手を上げると、教室の中にいる誰もが目を丸くした。
それもそうだ。
これまで大して目立ちもしなかった僕が急に立候補をするのだから。

沢多さんも僕のことを振り返って凝視している。
まさかこの僕が自分から手を挙げるなんて思っても見なかったんだろう。


「おお……東山くんか。ありがとう助かるよ」


決意を固めたのは良いのだけれど、全員の視線が集中することには未だにドギマギする。
というか、先ほど僕は勢いあまって沢多さんに告白をしてしまったのだった。
しまった、今頃になって緊張してきた。


「東山くん、急にどうしたんだろうね?」
「こういうのやるキャラじゃないよねどう見ても」
「沢多に急に告るわ、慣れないポジションに立候補するわ、頭おかしくなったんじゃね?」
「絶対そうだよ〜。マジになってださいわあ」
めちゃくちゃ笑われている。
これでは、僕が皆の笑いものになっているだけではないのか?
結果的に沢多さんにも迷惑をかけることになってしまったし、何も変わっていないのではないか。

チクチクと刺さるような視線は、何も行動をしていなければわざわざ受けなくて済んだものだ。
過去の僕は、そんな風に自分だけを守って生きてきたことを後悔した。
昨日と何も変わらない明日がずっと続く世界を望んでいたんだ。

あえて1人ぼっちになって殻に閉じこもっているだけの弱虫な僕。
何もできなかった、とただ嘆くのはもう懲り懲りだ。

痛くても、苦しくても、怖くても、一歩踏み込まないと、変わるものも変わらない。
そこにはきっと、これまでの僕が見えなかったものがあるはずだと思った。


「こらー、お前たちうるさいぞー。せっかく東山くんが立候補してくれたんだから、感謝をしたらどうなんだ」
「……はぁーい」
「じゃあ、もう1名だが……誰かやりたい子はいるかな。いなかったら公平な手段で決めるしかないなあ」


先生が周囲を見回して立候補者を募るけれど、それもそうだ。
僕と一緒に実行委員をやりたいと思う人なんていないだろう。
ただ空回ってしまっただけだったのかも、と肩を落としていたら、目の前に座っている沢多さんの右手がすう、と伸びていったのが見えた。

──え。


「おお、沢多さん! やってくれるのかな?」
「はい。よろしくお願いします」


え。

なんでだ?
なんで、沢多さんが手を挙げてくれた?

何度も瞬きをして彼女を凝視してしまう。以前は彼女から実行委員の立候補をすることはなかったはずだ。
それなのに、何故──。


「どういうこと? 公開告白をしてきた東山くんと実行委員やるのかな?」
「いやいや、責任感が強い沢多さんだし、それは関係ないんじゃないの」
「だよねぇ〜。なんかさっきの東山くんの様子変だったしねぇ。相手にはしないよね、普通に」


教室の中が明らかにざわついている。

──本当にいいの?
沢多さんの気持ちを考えずに一方的に好きだ、と伝えてしまったことが冷やかしの対象になってしまったようだ。
嫌な思いをさせてしまったのかもしれないと気を揉んでいたけれど、これはどういうことなのだろう。


「他に希望者がいないようだったら、東山くんと沢多さんにお願いしようと思うが、それで構わないな?」


ジッと沢多さんの見つめる。
風にのって艶やかな黒髪が揺れているだけで、表情は確認できなかった。

けれど、僕の行動によって過去に起きていたはずの出来事が塗り替えられている。
これが良いのか悪いのかは分からない。

僕は、彼女の心の闇を作り上げた原因が何であったのかを知りたい。
知るためには、これまでに自分から踏み込むことができなかった場所まで行かないと。


「実行委員を、させていただきます、東山、若葉です。よろしく、お願いします」


──決心したはずなのに、やはり人前に立つことは慣れない。
視線が右往左往するし、緊張で口がうまく回らない。胸がドキドキする。

先生に代わって教壇に立った僕と沢多さんは、皆の前で自己紹介をする。
苦手意識のあるものを克服しようとするのはこんなにも大変なんだ。
皆の視線がチクチクと刺さる感覚。
喋りたい内容は浮かんでいるのにうまく口に出てきてくれない。

だけど、ギュッと拳を握った。
「さっそく催し物を何にするか決めようと思うから、20分まで各自考えてみてくださーい」


それに比べて沢多さんは通常運転だった。
口下手な僕とは違ってテキパキと司会進行をしている。
これでは、結果的に何も変わっていないのではないかというくらいには、僕が過去に見てきたとおりに進んでしまっていた。


「東山くん、板書頼める?」
「あっ……うん。分かった」
「ありがとう。助かる」


チョークを1本手に取る。
──ああ、これでは本当に何もかも一緒だな。

ここにいるのはなんでもそつなくこなす完璧な沢多さんだ。
覚えているかぎりではこの時の僕は、クラスの決めごとをただ傍観して、決定事項の板書をしているだけだった。

何かしないと。
僕も、何か何か何か……。


「東山くんは文化祭、何したい?」
「えっ?」

考えを必死に巡らせていたら、急に沢多さんが声をかけてきた。
びっくりして肩を震わせてしまう。

──というか、人前でいきなり告白をされたんだ。
むしろ気持ち悪がっているかもしれない、と唇を噛んだが、沢多さんは僕が思っているような表情は浮かべていなかった。


「あの、僕」
「ん?」
「ごめん、さっき急に……その、好きだ、なんて言っちゃったから」
「あ、ああ……あはは。あれね、びっくりしちゃった」
「皆がいる前で、迷惑だったよね。ごめん」
「なんで謝るの? びっくりしたけど、嬉しかったのに」


──嬉しい?

予想もしていない返しだった。

気持ち悪い、ではなく嬉しい?
パチパチと瞬きをする僕の前で、沢多さんは笑っていた。
本気にしていない?
それともこういうのは慣れているのかな。


「皆がいる前で告白だなんて、ちょっとロマンチックで本当は憧れてたの。実際にされるのは、恥ずかしかったけど」
「……ロマンチック」
「東山くんって思いがけず大胆な人なんだね」


教卓で頬杖をついている沢多さんは、クスリと笑って目じりを下げた。
一気に顔が熱くなる。
思えば、女子に告白なんてしたことはないのだ。
このあとってどうするんだ?
好きだと伝えたら、あとは何をすればいいのかも検討がつかない。


「あっ、えっと、ああああ、あのっ、一応、言っておくけどさっきのは冗談じゃないというか、あっ、でも、だからどうってわけでもなくて、できればその……僕と友達になっていただけると嬉しい、です」


しどろもどろに口を開くと、沢多さんは眉を下げて僕を見ている。


「うん、もちろん。私も東山くんがどんな人なのか、もっともっと知りたいな」


──う、わあ。
心臓が暴れて苦しい。
なによりも沢多さんが笑っていることが嬉しい。
勇気を出してみてよかった。
行動してみてはじめて、彼女が嫌がってはいないということが分かったのだ。


「それでね、クラスの出し物の話なんだけど、東山くんは何がやりたい?」


もうすでに泣きそうになりながらもなんとか堪えた。
すると、沢多さんは前の世界と同じ内容を質問してきたのだ。


あの時──沢多さんはどうしてお化け屋敷がやりたかったんだろう。


「私はね──」
「お化け屋敷が、やりたいかな」
「……え? 私もそれがやりたいって思ってた! 奇遇だね東山くん」
「あ、う、うん。そうだね、びっくりだよ」


本当は君が何をやりたいのかを知っていたとは到底言えなかったけれど。
「ね。それで私、お化け役がやりたいなって思ってるんだー」


ポツポツと漏らす内容は、前の世界でも聞いたものと同じだ。

当時の僕は、へえそうなんだと受け入れることしかしなかった。
どうして?なんで?と踏み込むことはしなかったんだ。
それを今は猛烈に後悔している。


「うーらーめーしーやーって、みんなのこと驚かすの」
「沢多さんは、どうしてお化け役がやりたいの?」

ほんの少し前まで、僕は本の中の文字だけを目で追っていたような人間だった。
高校3年目にしてようやくまともにできた、クラスメートとの会話。


「なんでって、んー。スカッとするじゃん?」
「スカッと……かあ」
「尻もちついて皆が震えて絶叫してるところ、見たいなーなんて」


ふわり、あの時と同じぬるい風が吹き付けてくる。
窓の外に広がっている積乱雲。
人形のような彼女の横顔を僕は以前も見たことがあった。

彼女は結局、お化け屋敷をすることができなくてどう思ったのかな。
そういえば、クラスの投票でホストクラブとお化け屋敷であんなに票が割れてしまったのはどうしてだったのだろう。


「はは、絶叫って……」
「わりと本気なんだけどな」
「でもいいね。楽しそう」
「でしょ!」
「沢多さんでもスカッとしたいことかあるなんて、意外だな」
「そうかな。普通にあるよ。例えばね、テスト前はストレスが溜まるでしょ? 大会の前は緊張するでしょ? 受験勉強しないといけないな、とかいろいろ」
「僕と同じだ」
「そうなの、同じなの。東山くんってずっと本ばかり読んでる人なのかと思ったけれど、なんか面白い人なんだね」