待ちに待った、テニスがオフの日の放課後。夕日が差し込む音楽室で、響也がピアノを奏でる。しかも、もう合唱コンクールは終わったから、響也が好きな曲を次々と弾いている。何度も色を変える音の海で、私は人魚になりたいと思った。いつ死んでもいいくらいに幸せだった。
「なあ、華音も弾けよ」
流行のアニメソングのピアノアレンジを演奏し終わった響也が唐突に言った。
「なんでいきなり?」
「だって、すごく弾きたそうにしてるじゃん」
「そんなことないよ。響也の聴いてる方が楽しい」
「本当に?俺さあ、実はずっと気にしてたんだよ。本当は華音が伴奏やりたかったんじゃないかって。俺、おいしいとこどりしちゃった感あるんじゃないかって」
「はあっ?なんで?」
思わず変な声が出た。どうしたらそういう発想になるのか本気で分からなかった。
「時々、指がピアノ弾く動きしてる。昨日も、ベンチで休憩してた時、エアピアノ弾いてたぜ。自分では気づいてないと思うけど。あれ、HEIWAの鐘?」
響也が無邪気に笑った。私はどうやら、自分が思っている以上に分かりやすいらしい。まさか響也に見られていたなんて全然気づかなかった。思った以上に無意識にやっていた。でも、響也は超がつくほどに鈍感だ。伴奏がやりたかったわけではない。私はただ響也との思い出の音をなぞっていただけだ。
「エアピアノしてた曲は合ってるけど、響也の前で弾くのはちょっと恥ずかしいよ」
「あー、じゃあこの間の賭けの何でも命令できる権ここで使っちまうか」
「私が何頼むつもりだったか教えろって言ったじゃん。そこで使ったじゃん」
「アレはそう言うのじゃないから。ちょっと心配だったから聞いただけ・・・・・・ってこれ水掛け論だな」
響也がピアノを離れて、音楽室の棚を漁る。教則本や楽譜がたくさん並んでいる。その中の一冊を手にして響也が笑った。
「間とって連弾やろうぜ。そっちのが楽しいじゃん」
ピアノ連弾用の楽譜集だった。
「パッヘルベルのカノンでいい?俺、好きなんだよね。弾ける?」
「弾ける。私も、好きだし」
私と同じ名前のその曲はピアノを習っていた頃、一番よく弾いていた。「カノン」を好きだなんて言われたらそういう意味じゃないのににやけてしまう。嬉しさが抑えきれない。響也には振り回されっぱなしだ。結局告白はできない意気地なしな私だけれど、意趣返しであえて主語を言わずに「好きだ」と言ってみる。
響也の隣に座った。今までで一番顔が近い。
「ねえ、ヘアワックス変えた?」
照れ隠しのつもりの発言は思いの外、気持ち悪かったかもしれない。ただ、この間のぎゅうぎゅう詰めの打ち上げで隣に座ったときとヘアワックスの香りが違ったから反射的に口をついた。
「すっげー。当たり。やっぱり女子って洞察力あるのな。そうそう、前使ってたのが切れて別のにしたんだよ」
女子だからとか洞察力とかじゃなくて、響也だから気づいたんだとは、まだ言えない。いつか、ずっとあなたを見つめていたと言える日が来るかもしれないし来ないかもしれない。
私たちはカノンを弾き始めた。誰にも邪魔されない二人だけの時間。私の音と響也の音が、すなわち私たちの世界が溶け合う。同じ主旋律を、少しずつ形を変えながら繰り返す。追いかけるように、時には追いかけられるように。
大人になることは、今は想像できない。高校生の私にとっては今が全てだ。この恋の行方は分からないし、想像することは怖い。ただ一つだけ分かるのは、どんな結末になろうと私は生涯この恋を忘れることはないと言うことだ。
ピアスを開けた女子大生になっても、どこかの町のOLになっても、白髪のおばあちゃんになっても、私はきっと二人で弾いたカノンの音色を思い出す。その音が少しでも幸せな記憶となるように、十七歳の私は昨日よりほんの少しだけ勇気を出す。
「ねえ、来週も一緒に弾こうよ」
「いいな、賛成」
頭がいいくせに鈍感な王子様はアイラブユーの和訳は「月が綺麗ですね」と「あたし死んでもいいわ」しか知らないようだ。でも、今は一緒にピアノを弾けるならそれでいい。
同じコミュニティで全部の世界を一緒に生きてきた。誰よりも長い時間を過ごした。でも、もっとほしいと思ってしまう。私の感覚すべてが響也を求めている。この夕焼けの色は何年たってもずっと恋の色だ。響也の制汗剤の香りを、ヘアワックスの香りもいつか記憶のスイッチになるのだと思う。響也の手のぬくもりも、真剣勝負の手のしびれも、一緒に寝転んだ秋のテニスコートの冷たさも私だけのものだ。そして、私たちは今日も二人でグレープ味のパピコを半分こする。私の五感は響也を世界そのものとして認識している。
私は、今日も明日も、響也が好きだ。青春ってなんだろう。世界ってなんだろう。そんな疑問を抱いていた頃があった。今の私にとってのすべての答えは、響也だ。
fin
「なあ、華音も弾けよ」
流行のアニメソングのピアノアレンジを演奏し終わった響也が唐突に言った。
「なんでいきなり?」
「だって、すごく弾きたそうにしてるじゃん」
「そんなことないよ。響也の聴いてる方が楽しい」
「本当に?俺さあ、実はずっと気にしてたんだよ。本当は華音が伴奏やりたかったんじゃないかって。俺、おいしいとこどりしちゃった感あるんじゃないかって」
「はあっ?なんで?」
思わず変な声が出た。どうしたらそういう発想になるのか本気で分からなかった。
「時々、指がピアノ弾く動きしてる。昨日も、ベンチで休憩してた時、エアピアノ弾いてたぜ。自分では気づいてないと思うけど。あれ、HEIWAの鐘?」
響也が無邪気に笑った。私はどうやら、自分が思っている以上に分かりやすいらしい。まさか響也に見られていたなんて全然気づかなかった。思った以上に無意識にやっていた。でも、響也は超がつくほどに鈍感だ。伴奏がやりたかったわけではない。私はただ響也との思い出の音をなぞっていただけだ。
「エアピアノしてた曲は合ってるけど、響也の前で弾くのはちょっと恥ずかしいよ」
「あー、じゃあこの間の賭けの何でも命令できる権ここで使っちまうか」
「私が何頼むつもりだったか教えろって言ったじゃん。そこで使ったじゃん」
「アレはそう言うのじゃないから。ちょっと心配だったから聞いただけ・・・・・・ってこれ水掛け論だな」
響也がピアノを離れて、音楽室の棚を漁る。教則本や楽譜がたくさん並んでいる。その中の一冊を手にして響也が笑った。
「間とって連弾やろうぜ。そっちのが楽しいじゃん」
ピアノ連弾用の楽譜集だった。
「パッヘルベルのカノンでいい?俺、好きなんだよね。弾ける?」
「弾ける。私も、好きだし」
私と同じ名前のその曲はピアノを習っていた頃、一番よく弾いていた。「カノン」を好きだなんて言われたらそういう意味じゃないのににやけてしまう。嬉しさが抑えきれない。響也には振り回されっぱなしだ。結局告白はできない意気地なしな私だけれど、意趣返しであえて主語を言わずに「好きだ」と言ってみる。
響也の隣に座った。今までで一番顔が近い。
「ねえ、ヘアワックス変えた?」
照れ隠しのつもりの発言は思いの外、気持ち悪かったかもしれない。ただ、この間のぎゅうぎゅう詰めの打ち上げで隣に座ったときとヘアワックスの香りが違ったから反射的に口をついた。
「すっげー。当たり。やっぱり女子って洞察力あるのな。そうそう、前使ってたのが切れて別のにしたんだよ」
女子だからとか洞察力とかじゃなくて、響也だから気づいたんだとは、まだ言えない。いつか、ずっとあなたを見つめていたと言える日が来るかもしれないし来ないかもしれない。
私たちはカノンを弾き始めた。誰にも邪魔されない二人だけの時間。私の音と響也の音が、すなわち私たちの世界が溶け合う。同じ主旋律を、少しずつ形を変えながら繰り返す。追いかけるように、時には追いかけられるように。
大人になることは、今は想像できない。高校生の私にとっては今が全てだ。この恋の行方は分からないし、想像することは怖い。ただ一つだけ分かるのは、どんな結末になろうと私は生涯この恋を忘れることはないと言うことだ。
ピアスを開けた女子大生になっても、どこかの町のOLになっても、白髪のおばあちゃんになっても、私はきっと二人で弾いたカノンの音色を思い出す。その音が少しでも幸せな記憶となるように、十七歳の私は昨日よりほんの少しだけ勇気を出す。
「ねえ、来週も一緒に弾こうよ」
「いいな、賛成」
頭がいいくせに鈍感な王子様はアイラブユーの和訳は「月が綺麗ですね」と「あたし死んでもいいわ」しか知らないようだ。でも、今は一緒にピアノを弾けるならそれでいい。
同じコミュニティで全部の世界を一緒に生きてきた。誰よりも長い時間を過ごした。でも、もっとほしいと思ってしまう。私の感覚すべてが響也を求めている。この夕焼けの色は何年たってもずっと恋の色だ。響也の制汗剤の香りを、ヘアワックスの香りもいつか記憶のスイッチになるのだと思う。響也の手のぬくもりも、真剣勝負の手のしびれも、一緒に寝転んだ秋のテニスコートの冷たさも私だけのものだ。そして、私たちは今日も二人でグレープ味のパピコを半分こする。私の五感は響也を世界そのものとして認識している。
私は、今日も明日も、響也が好きだ。青春ってなんだろう。世界ってなんだろう。そんな疑問を抱いていた頃があった。今の私にとってのすべての答えは、響也だ。
fin