10年前は今よりもトランスジェンダーに対する理解がなくて、物理的な距離は今よりも遠い障壁だった。

 あの頃の僕たちにとって、フランスと日本の距離は冥王星よりも遠いものに感じた。あの後、「犯行」に使われたスマートフォンは没収された。もし没収されなかったとしても、受験生にとって8時間の時差は致命的なすれ違いを生んだだろうから、結局同じことだったと思う。あんなに好きだったはずなのに、君とはあっけなく連絡が取れなくなった。

 人生最大の恋をしてから10年。君があの後、どんな恋愛をしたかは知らない。男の人と付き合う君は想像できないけれど、女の人と付き合っていたらそれは嫌だなって思う。

 僕は君以外の男の人を好きになることはなかった。君への未練を断ち切るために、恋人を作った。地元の管弦楽団の女の子。可愛い子だった。彼女もまた、恋人と別れた寂しさを埋めようとしていた。そんな関係は当然長続きしなかった。


 君の前でしか使わなかった一人称「ボク」も、家で普通に使うようになりぎこちなさもとれてきた。親にトランスジェンダーをカミングアウトしたあとは随分揉めたが、親もようやく「あなたの人生だから」と理解を示してくれるようになってきた。同性と付き合うことを理解してくれてほっとした。行動に関しては随分と寛容になったが、両親ともに心配性ゆえ、体にメスを入れることだけはやめてくれと頼み込まれた。

 両親がつけてくれたこの名前を元彼女に何度も呼ばれた。不思議と嫌悪感がなかったのは彼女がフランス人で「ヒメカ」に「プリンセスフラワー」なんて意味があると知らずに呼んでいたからというだけではないだろう。他でもない、女の子はおろか男友達でさえ名前で呼ぶことはなかった初恋の人が呼んでくれた名前だから。

 恋愛的な方面でのセクシャリティは未だによく分かっていない。でも、きっと君より素敵な男の人と出会うことは生涯二度と無い。君は男だからとかそんな理由ではなく、君だから、海藤栄介だから好きになった。

 君はSNSをしていなかったから、君の近況はネットの海を泳いでも知ることはできなかった。代わりに、母校の情報を拾った。僕たちが屋上をジャックして世界を壊そうとした年の入試倍率だけが異常に高かった。僕たちはあの日、あの場にいた誰かの鬱屈とした世界を壊せたのだろうか?


 君が登壇する姿がテレビに映った。今日12月10日は毎年ストックホルムコンサートホールで行われるノーベル賞の授賞式の日だ。今年10月の発表を聞いたときは驚いた。

「ノーベル生理学医学賞、エイスケ・カイドウ氏」

 君が君の世界を壊して、科学者になる未来を疑ったことはない。でも、てっきり化学賞か物理学賞のどちらかを取ると思っていた。だから驚いた、君の発明には。

 君が発明したのは、従来のホルモン剤に比べて遥かに副作用が少ない、体の性別を変える薬。性転換のみならず、婦人病等の治療分野でも効果が期待されているとニュースキャスターが報じた。血栓ができる心配がないというのは革新的なことらしい。そして、思春期以前に治療を開始しなければ抑えられなかった体の変化を、何歳から治療を開始しても元の状態に戻すことが可能になるそうだ。まるで時間を巻き戻すかのように。

 君は確かに作ってくれた。ボクにとっての、世界を壊すための爆薬を。何年経ってもやっぱり君は……君だけがボクの世界を壊してくれるヒーローだった。

 髪も背も少しずつ伸びた君はあの夏よりずっとかっこよくなっていた。薄手の手袋をして正装した君の瞳にはどこにも迷いがなかった。白い手袋を注視すると、左手の薬指の付け根がわずかに盛り上がっていた。それはちょうど手袋の下に指輪をしていると考えるとしっくりくるものだった。