私は結局、休職することを決意した。

 身体的にも精神的にも無理して仕事をすることの虚しさに気付くことができたし、私の看病疲れもあって両親が同時に風邪を引いてダウンするなど、その影響は私以外にも及んでおり、仕事どころではなかった。

「もし辞めることになってもさ、送別会してやるよ~カラオケでも行こうぜ~」

 そう電話で言ってくれる神山慎二の能天気さに救われた。
 私は神山慎二とどうしても歌いたい歌があった。
 結局その夢は叶わなかったが……

 一連の事が問題になり、私は本社の人に確認したい事があると呼び出され……
 肩を固定した状態のまま面接で色々な質問がされた。

 私はその頃には一連の私への嫌がらせは、先輩の嫉妬によるものだと気付いていた。
 本社の人達も、そのことに薄々気付いているようだった。

「……それで……神山くんは、あなたをよく助けてくれたのよね?」

(『はい』と言ったらどうなるんだろう? もし私が正直に言ってしまったら……)

 走馬灯のように考えが巡る。

(本社にそのことがバレたら……美妃先輩と神山慎二の邪魔をすることになるのかな?)

(それってなんか嫌だな……人の不幸を願う人には…………美妃先輩みたいな人には……なりたくない)

「……………………いいえ……」

 それまで聞かれたことに対して全部正直に話をしてきたが、一つだけ嘘をついた。

 身を引き裂かれる思いというのは、こういうことかと実感した。

 初めてできた本当の弟みたいな存在が……大切な存在が目の前で消えてしまった。

 その後、本社に正しい報告書が出され、労災認定がされるようになったが……

 私は退職を決意した。

 私には、もう居場所がないと思った。

 色々な書類を出したり荷物を回収しなくてはいけないため、久し振りに職場に行かなければならなくなった。

 そして、あの送別会に呼ばれた。

 帰りの電車の中、「今までありがとうございました!」という神山慎二の声だけが耳に残っている。

 私は分かっていた。

 何も渡さずに解散となるのは余りにも可哀想……となるから(ねぎら)いの言葉を先輩に言わされているのだろうということを……

 私の後に神山慎二や美妃先輩も面接を受けているから、私がした発言は耳に入っているはずだ。
 彼には私が悪魔のような存在に思えただろう。

 建前を言わされる役、最後まで嫌な女に餞別代わりに労いの言葉を言わされる役……
 きっと嫌だったに違いない。

 それでも、その言葉に……あの大きな声には何かが込められている気がした。

「今までありがとうございました!」

(いつか篠田先生に言った言葉と同じだ……結局私は言えなかったな……神山慎二に一番言いたかった言葉を……)

(偶然にも同じ誕生日の二人にちゃんと、『誕生日おめでとう』も言いたかったな……)


 家に帰るとテレビで高校生の時にやっていた、あるアニメ映画が放送していた。

 私は今まで見たことがなかったので、その映画の最後の真実に感動し、エンディング曲を聞きながらボロボロ泣いていた。
 そして高校生の時の夢や今までの色々な事を思い出した。

「本物の先輩……ありがとう」

「大切なことを思い出させてくれて……」

「私、頑張るよ……今までの私を支えてくれた人達……それと……これから出会えるかもしれない誰かのために」

 私は夜空を見上げて誓った。

 それからあっという間に時間が過ぎていったが、美妃先輩のことや事故のこと、送別会のことはあまり思い出したくないトラウマになった。

 特に公開処刑のような送別会は……
 みんなが目を伏せる中で聞いた、あの声を思い出すと胸が苦しくなるから……

 結局、神山慎二も退職し、美妃先輩はどこかの部署に異動したと風の噂で聞いた。

 上がらなかった左腕は、治療の甲斐あって上がるようになり……
 私は労災の最後の書類を提出するために、久し振りにデイサービスの事務所を訪れた。

「……優歌(ゆか)……ちゃん?……」

「ハルちゃん久し振り~! 退職したって聞いて驚いたよ……」

 昔、相談員になりたての頃、事務を担当していた笑顔がかわいくて優しい、私の友達で同期の大好きな女の子……
 優歌ちゃんは今回の人事異動で再び戻ってきたらしい。

「これ作ったの!」

「???……あり……がとう…………」

 帰りがけにコルクボードを渡された。

 今までにデイサービスで撮った写真がたくさん貼ってあるA4サイズのコルクボード……

 上の方に「○年間ありがとうございます。今までお疲れ様でした」というメッセージ。
 下の方には、わざわざ色画用紙を切って何枚も張り合わせて作ってくれた、私の似顔絵入りの……

 細かい事情を知らずに作ってくれた、その写真入りコルクボードは私にとって複雑でつらくて……でもありがたくて……

 帰り道、今までの頑張りが報われた気がして溢れそうになる涙を何度も我慢した。
 電車の中で泣いていたら完全に不審者だ。

 家の玄関に入った途端、私は声を上げて泣いた。

(優歌ちゃん……ありがとう……名前の通りなんて優しいんだろう……)

 大学の友達の優里(ゆり)ちゃんといい、優しいという漢字が入った名前の子は、みんな優しい気がする。

(そうだ! 将来子供が出来たら名前に『優』の字を入れよう!)
(私がつけられるはずだった『明希(あき)』と合わせて『優希(ゆき)』とか素敵だな……)

 そんなことを考えていたら、孝次から久し振りに電話がかかってきた。

「正社員での就職決まったよ……これで堂々とお前に会いに行ける」

「本当?……本当なの?……よかった……今までよく頑張ったね……おめでとう」

「約束しただろ? 俺がずっとそばにいるって……俺はいつでもお前の味方だからな!」

 孝次とは遠距離になってからも定期的に電話をしたり、私達の誕生月には一緒に思い出のテーマパークでお祝いしたりと付き合いはずっと続いていたが……

 私が仕事で身体を壊して電話をする元気も、出る元気もなくて塞ぎ込むことが続いた頃……
 孝次は「何度電話をかけても出ないから」と大学時代に住んでいたアパートに再び戻ってきてくれた。

 そしてアルバイトとして大学の近くの施設で急遽働き始め、正社員での就職を目指して頑張っていた。
 自分の食費も大変なのに、わざわざ「俺が電話する」と言ってくれて落ち込んでいた私を何度も励ましてくれた。

 私は沢山の優しい歌と、「今までありがとう」という孝次の次に大好きな声と、「お前の味方だ」という孝次の声に前に進む勇気をもらい……心の中にもう一度頑張ろうという希望が生まれた。

 まずは、初心に戻るため、髪を学生の時のようなショートカットに戻し……次の職場を探すために就職活動をスタートした。

 そして…………