三十二歳。いつの間にか三十路を超えてしまった。大学、大学院、社会人と質素に過ごしてきたが、特に取り上げることもないので割愛する。生き永らえたぼくの折れ線グラフは、順調に減速を続けている。よく墜落しないものだ。随分前にエンジンが故障しているのに、慣性力だけで飛んでいる。我ながらしぶとい。
十日前に親父が死んだ。軽やかに亡くなった。三途の川をスキップして渡っていったかと思うくらい、あっという間に死んだ。脳梗塞だった。その三年前に母はくも膜下出血で死んでいた。夫婦仲良しだったが、仲良く脳の同じような部位が詰まったり避けたりして死んだ。
長野の実家は改装工事が佳境を迎えていた。
埼玉にいる姉夫婦が、四月から実家に戻って家を継ぐことを決めた。なぜなら僕が地元に帰るのを拒絶したからだ。なんて献身的な姉夫婦だろうか。ただ、改装工事をするといっても、物持ちが良すぎる父は、全然物を捨てなかった。捨てないがために、工事をしない別館に荷物を詰め込んで、そこで二か月ほど暮らしていた。離れて暮らす子供三人は全く気づかなかったが、物が多すぎて足の踏み場もなかった。きっと入院患者以下の運動量で過ごしていただろう。ただでさえ血圧が高いのに、コンビニ弁当ばかりで血がドロドロになって、血管が詰まって死んだ。物を捨てなかったために、自分の人生を捨てることになったと、僕は解釈している。
葬式は我ながら頑張った。
長男として、最後の奉公だと思った。葬儀屋との調整を担い、運営を取り仕切った。お伽の席では、ヘルニア一歩手前の勢いで中腰になりながら、全員にお酌して回った。意外と仕事だと思えばなんとかなるものだ。得意先の脂ギッシュな社長より、親戚の薄らハゲのほうが接しやすい。久々に達成感のある仕事だった。
そして東京・東中野の寂れたアパートに帰ってきた日曜夕。僕は決意を固めていた。
あるプロジェクトを発足させる。プロジェクトと言えば聞こえがいいから、とりあえずプロジェクトとした。
本人には悪いが、親父が死んで、少しほっとした。気持ちが軽くなった。思えば、僕は親からの期待には応えたいという意識があった。周りがどうだろうと、親が悲しまないようにグレることはなかったし、勉強もそれなりにして大学に入った。嫌々ながら、大手の電機メーカーに就職した。