「え?」

 その日、ステージに立ったリセに違和感を覚えた。今日はこれまでで一番多い60万人ライブ。地の果てまで続くんじゃないかと思われるような群衆の海の中央で、彼女は歌声を響かせたのだが……

「おかしい」

 なんだ、この感じ。いつも通りの済んだ美しい歌声。アカペラで始まったソロから一変し軽快なビートが刻まれるパートに入る、軽やかなステップを踏んでダンスを披露す。これもいつも通りだ。60万の観客も歌姫のステージに釘付けになり、完成をあげている。そうだよ、何も問題ない。この会場で、違和感を持っているのは多分僕だけだ。

 そう僕だけが気づいてしまった。作った本人にしかわからないだろう、ごく僅かな本物の雨夜星リセとの差異に。

「まさか今歌ってるの、ボットか?」

 馬鹿な。誰がアレを動かした? 本物のリセはどうした? ここに来てないのか? なんで? いや、待ってくれ…………嘘だろ?

『テオ、ごめんね』

 不意に声だけが聞こえた。あたりを見回す。姿はない。声だけが直接僕の頭の中で響いた。

「リセなのか? 」

『テオ、ごめん』

 なんでだ、なんで謝る? やめてくれ……。

「テオさん」

 後ろから声をかけられた。いつの間にか姫堂氏が立っている。現実世界の彼と全く同じ姿のアバターは、いかにも生真面目なビジネスマンらしかった。

「残念だけど、妹はここまでです」
「ちょっと……何言ってるんですか?」
「音声だけ、この世界と繋いでいます。どうかお別れを」

 彼は押し殺したような声で、そう言った。

『テオ、本当にごめんなさい』

 リセの声はまた謝った。何でだよ。僕はそんな言葉欲しくない。

『ツアー、ファイナルまでやり遂げたかったけど、無理みたい……運命に追いつかれちゃった』
「まってくれ……僕は君に、まだ何もしてあげられてない!」

 僕は叫んだ。まだ僕は君に最高のステージを届けられていない。AIのためのデータ取りなんて建前でしかない。僕は彼女に人生最高の瞬間をステージの上で味わってほしかったのだ。
 姫堂氏の顔を盗み見る。彼には申し訳ないけど、やるしかない。僕は、最悪の自体に備えて準備していたAIの機能を使うことにした。涙をこらえ、鼻水をすすりながら実装した隠し機能。本当はこんなの使いたくなかったけど……。

「リセ、あのAIボットのIDはわかってるよな?」
『え……? うん……』
「番号をイメージしてくれ。今、回線をつなぐ」

 姫堂氏の顔色が変わった。

「テオさん、何をしたんですか?」
「AIボットの五感を、リセと共有させます。」
「なっ、やめてください!」
「大丈夫です、リセからの発信される脳波は届かない。一方通行ですので……」

 ボットの歌は大サビに入り、歓声がひときわ大きくなる。見えてるか、リセ? 本当は100万人のファンが集う、ツアーファイナルの景色を見せてあげたかったけど、しかたない。

自我あふれ(エゴバーフロー)はまだ完全に解明されていない現象です。たとえ一方通行でも、接続自体が危ないんだ!」

 姫堂氏は僕の胸ぐらをつかむ。眼には涙が浮かんでいた。

「こうして声だけ届けるのだって、本当は……それが五感全てなんて!」

 そのとき、姫堂氏を含めた周りの空間が突如ゆがんだ。あの時と、僕が原因不明のトラブルで強制的にログアウトさせられた時と同じ現象だ。エゴバーフローの前兆……。

「たのむ、やめてくれ!」

 数十万の観客。そしてReMage全域で配信される中継。その中心にいる雨夜星リセの自我が逆流したら……何が起きるか想像もつかない。

「これ以上、妹を苦しめないでくれ、妹を化け物にしないでくれ!」

 リセの兄は懇願する。それでも!

「味わわせてあげたいんです、一瞬でも良いから彼女に、この世界で生きていた意義を! それに……」

 それでも、僕には確信があった。

「君なら大丈夫だ。そうだろリセ!」

 ここはReMage。想いが形をなす世界。君の想いがこの世界を壊すような事は絶対にない。


『ありがとう』


 リセの短い、最期の言葉が頭の中に届く。そしてその次の瞬間。

「これは……」

 僕はステージに、いや会場全体に広がった景色に目を疑った。きっと観客たちはReMageならではの壮大な演出と思っただろう。それが何かは、僕だけが知っている。

「あの時、君もこれを見ていたのか……」

 静かな凪の海に日が落ちようとしている。西から伸びる夕暮れの陽光は、雲を山吹色に照らす。その雲の上から、プリズムのアーチが伸び東の空を貫く。それは、僕が現実世界で初めて美しいと感じた景色だった。さらに、ふわりと香気が鼻孔をくすぐる。ラヴェンダーの香り。昏睡状態の彼女がどうやってそれらを知覚していたのかはわからない。けどそんなこと知る必要はないと思った。

「おやすみ、リセ」

 僕の頬を雫が伝う。その時僕は、彼女が旅立ったことを感じ取った。