彼女は本を閉じて、金文字の剥げかけた表紙をなぞった。

「思い出は輝いている……しかし、ね」

 エルダーリッチは不安定な浮遊踏み台の上で、俺に肩を寄せた。ふらつきそうになったけれど、腰に手を回して踏ん張った。それを見て、彼女は笑う。

「こんなに暖かくは、なかったよ」

 彼女は、俺の肩に頭を乗せて、続けた。

「それに、もう誰ひとりこの世にはいないんだ。アンデッドと化して、悪魔の森に楔を打った私とは違ってね。資料を読む限りは、みな行儀良く、行ってしまった。伝説だけを残して」

「寂しい、よな。君の気持ちがわかるだなんて、とても言えないけど」

 何百年も悪魔の森の大迷宮で過ごし、その間に仲間はみないなくなったのだ。彼女は世界に自分ひとりだけが取り残されたように感じていたことだろう。

「寂しくはないさ」

 エルダーリッチも、俺の肩に手を回した。

「寂しくないから、不安なんだ」

 今朝のハーブティーと、古い本の香りが、混じる。

「私は弟子なんて取らないつもりでいた。でも君を見て、君の判断力と実行力を見て、弟子にしようと決めた……いや、これは言い訳だな」

 長い髪が、俺の胸元に垂れている。

「でも、この言い訳のおかげで、私は寂しくないんだ。でもこの言い訳のおかげで、私は不安なんだよ」

 その言葉の響きがあまりにも切なくて、俺は出会って初めて、エルダーリッチの頭に手を伸ばした。髪に指を通して、梳いた。

「今も、不安なのか?」

「不安だとも」

 俺は自分の無力さが、歯痒かった。エルダーリッチは、続ける。

「私は悪魔の森に身を埋めたつもりでいた。でも再び世界に戻ってきた。こんなに暖かい場所にね。すると私は、貪欲になる自分を感じた。今も感じている。わかるかい?」

「……すまない」

 それをわかった気になっては、エルダーリッチに失礼だと思った。彼女は俺の肩の上で、首を振った。

「君の仲間が眩しい。でもそこに入っていくのが怖いんだ。だから師匠だなんて言って、君に接してる。だって、君はいつか……」

 彼女の手にある『英雄は去りぬ』が、震えていた。

「俺はいなくならないよ」

「ならきっと、私がいなくなる」