この世は伝説上の山岳──天雲山(てんうんざん)にある仙界(せんかい)と地上にある人界に分かれているとされ、仙界には神に最も近い存在になった神通力(じんずうりき)を持つ仙人が住まうと信じられている。
白花舞うこの雪華国(せっかこく)にも古(いにしえ)より伝わるのが、医仙(いせん)の存在。あらゆる病を治し、人々を癒す神通力を会得(えとく)したその仙人は、疫病(えきびょう)が蔓延したかの国を救ったと史記(しき)にもたびたび記された。
そして、今世(こんせい)にも後宮の医仙と謳(うた)われる女人がいる。仙人でありながら後宮妃に据えられ、のちに皇后(こうごう)として皇帝(こうてい)の隣に立つ彼女の名は──。
「白蘭(びゃくらん)様、起きてますか!」
霧煙る早朝のことだった。高く険しい岩山──白龍山(はくりゅうざん)の崖の上に立つ茅葺(かやぶき)屋根の家の戸を誰かが騒々しく叩く。
ちょうど薬草取りに出かけようとしていたので、よかった。
すでに着替えを済ませていた私は、薬草を入れる腰籠をいったん調剤用の長机に置いて戸を開ける。
「どうしたんですか?」
ただ事ではない様子で立っていたのは、イノシシの毛皮を羽織った屈強な男たち。この家からほんの少しばかり離れた場所にある猪餐(ちょさん)村の狩猟民族──オヌフ民族の者たちだ。彼らはこの雪国では珍しい色黒で、頬に獣の血で猫の髭のような模様を描くのが習わしらしい。
もうかれこれ三年の付き合いになるのだが、私の紅の瞳と緩くうねりのある銀の長髪はこの世界で大層奇怪らしく、「おおっ」と両手を擦り合わせながら崇めてくる。
合わせ襟の着丈の長い白の深衣(しんい)と、襟と同じ淡藍(うすあい)色の帯。村長からの貰い物とはいえ、彼らが未だに私を病を治せる神通力を持った医仙だと信じているのは、このいかにもな服装のせいでもあるのだろう。
「狩りに出たらよお、こいつが山ん中に倒れてたんだ」
「なんとかしてやってくれねえか?」
彼らに抱えられた青年は硬く目を閉じて、ぐったりとしている。見たところ〝今の私の身体と同じ〟十八かそこらだろう。細身ながら身体つきはがっしりしていて、なにより思わず息を呑んでしまうほど品のある整った顔立ちをしていた。
「わかりました、こちらに寝かせてください」
寝台まで歩いていき、青年がすぐに横になれるよう布団をめくる。
私のところには主に村人たちが治療を求めてやってくるので、家の中にはちょっとした診療所のように寝台がいくつかと調剤台、薬棚などがある。全部、村の男たちが作ってくれたものだ。
さて、と改めて青年を診る。夜露のような艶のある黒髪は腰のあたりまであり、後ろの上半分を布紐で団子にまとめている。
黒の深衣と、襟や髪紐と同じ赤色の帯、銀糸で龍が刺繍された毛皮つきの足元まである黒の外套(がいとう)……高級品に特別目が利くわけではないが、どれも上質な生地が使われていることくらいはわかった。腰にも黄金装飾が施された長剣を差している。
立派な身なり……どこかの名家の子息とか?
北の果ての海に浮かぶ大陸、その全土を領地とする雪華国は年中雪が積もり、おまけに半分以上が山地だ。その数少ない平原にある都──華京(かきょう)を中心とし、この国は大河によって七つの州に仕切られるのだが、私がいるのは都から最も遠い冬州(とうしゅう)。名家の子息がふらっと訪れるような場所じゃない。
なんだかわけありそうな子だけど、この人が何者でも人命救助には関係ない。
「ねえ、あなた。私の声が聞こえてる?」
声をかければ、薄っすらと青年の瞼が開き、虚ろな金の瞳を彷徨わせる。
「……ああ……聞こえて、いる……」
よかった、呼びかけに反応あり。重い意識障害はなさそう。
「自分の状況を話せそう?」
「……歩いていたら……だんだんと頭が痛くなって……目眩と吐き気が……それで立っていられなくなった……」
青白い顔で乾燥した唇を一生懸命に動かし、青年は説明してくれた。
「あなた、普段は平らな土地で生活しているんじゃない?」
なんでわかるのか、と青年は弱々しく目を見張る。
「あなたが今苦しんでいるその症状は高山病(こうざんびょう)によるものよ。山の高いところでは空気が薄くなるから、身体がその環境についていけていないと起こるの」
「こうざん、びょう……初めて聞く、病だ……」
〝この世界〟では、まあそうよね。
私は苦笑いしながら、せっせと青年の帯を緩めて締めつけを楽にする。
もし今より意識状態が悪くなり、このまま眠ってしまったら、舌根が落ちて気道が狭くなってしまう可能性がある。私は気道を確保するため、顎が自然と上がるよう首の下に枕を置いて体勢を整えた。
すると青年はふうっと息をつき、苦しげな表情をいくらか和らげる。それにほっとしつつ、私は薬棚まで歩いていき、引き出しを開けた。
「その高山病ってのは、俺たちはかからねえんですか?」
村の男がびくびくしながら聞いてきたので、私は乾燥させた薬草の根をいくらか手に取り小さく笑った。
「私たちはこの環境に慣れてるので、大丈夫なんですよ。でも、ここよりさらに山を登る場合は注意が必要ですけど」
高山病は酸素が欠乏すると起こるため、血液中の酸素濃度を増やす薬草──『紅景天(こうけいてん)』が効く。可愛らしい紅い花を咲かせるのだが、使うのはその根や根茎だ。
高山に自生すると聞いたことがあったので、もしかしたら白龍山にもあるかもと探してみたら大量に群生していた。それを発見したときは、人目もはばからず小躍りしてしまいそうだった。
本当なら高山病だけでなく頭痛にも効果がある『五苓散(ごれいさん)』も調剤できるといいのだが、いかんせんここは辺境の山。血管を広げて血流を促してくれる沢瀉(たくしゃ)や猪苓(ちょれい)、めまいにも効く茯苓(ぶくりょう)、腸の働きを整えてくれる蒼朮(そうじゅつ)、鎮痛作用のある桂皮(けいひ)……どれも樹皮や根茎などから成るのだが、すべてを集めるのは難しい。
致し方ないので、私は乾燥させて刻んでおいた紅景天と桂皮を合わせたものを薄布に包み、鍋で煎じる。この人のように軽い高山病なら、これで症状は改善するだろう。
「さあ、これを飲んで」
私は青年の頭を抱き起し、今しがた出来上がった煎じ薬を飲ませる。その喉仏が上下に動くのを確認しながら、私はふうっと息をついた。
「よし、飲めたわね……あとは水をたくさん飲んで、しばらくは様子見よ」
高所の冷えた空気は乾燥していて、その中で運動をすると体内の水分が失われやすいのだ。
その身体を再び寝かせると、青年は「……感謝する」とお礼を口にして目を閉じた。私は青年に布団をかけながら、成り行きを見守っていた村の男たちのほうを向く。
「あとは私が診ますから、皆さんは戻ってください。朝の狩りの途中だったんでしょう? 収穫がなかったら、奥さんに怒られちゃいますよ」
冗談交じりにそう言えば、村の男たちは「がははっ」と豪快に笑った。
「違いねえ!」
「待っててくださいよ、白蘭様! うまい猪(いのしし)肉をお裾分けしますんで!」
彼らは狩猟民族なだけあって豪快かつ粗暴な者が多いが、はっきりとした性格をしていて親しみやすい。
「医仙の白蘭様には、いつも世話になってるからな」
医仙、その単語に反応するように、瞼を閉じていた青年の指がピクリと動いた気がした。皆が私を仙人と信じて疑っていないことに驚いたのだろう。
「白蘭様、またあとで!」
じゃあな、と手を上げて去っていく村の男たち。私は彼らに軽く手を振り返し、見送った。
私がここで医仙と呼ばれ、医者まがいのことをしている理由は話せば長くなる。なんせ十年やそこらではなく、〝前世〟まで遡って話さなければならないからだ。
白蘭になる前の私は白井(しろい)蘭(らん)という名前で、こことは別の世界、別の国──日本で生きていた。当時二十七歳だった私の仕事は看護師 。
連日起きている災害で全国的に医療施設の数が減り、どこの病院も内科や外科、産科や精神科……診療科関係なく患者を受け入れている状態だ。医療崩壊が迫る今、この仕事は過酷を極めている。
だからか、昼休みに病院の中庭にあるベンチに腰かけ、空を仰いで出る一声はいつも──。
『つっかれたー、梅酒飲みたい、ロックで』
『蘭、いつも同じこと言ってて飽きない? というか、いつも梅酒で飽きない?』
同期で親友の芽衣(めい)が私にコーヒーを差し出す。病院内に併設されているコーヒーチェーン店のものだ。
『ありがとう』
コーヒーを受け取ると、隣に芽衣が腰かける。
芽衣は薬剤師だ。働く部署が違うので、休憩を一緒にとれるのは珍しい。でも、お互いがそこにいてもいなくても、私たちは自然とここへ足が向いてしまう。
『一度はまった食べ物って、延々とリピートしちゃうのよね、私』
『それが梅酒ってのが色気ないよねえ。ま、その気持ちはわからないでもないけどさ』
むふふ、と気味の悪い笑みを浮かべた芽衣が後ろから一冊のノートを取り出した。私はまたか、と呆れる。
『えー、本日は凍瘡(とうそう)における軟膏の作り方について、討論したいと思います』
芽衣が広げたノートは、手作りの医学書だ。
『討論って……なんで私もやるみたいになってるの』
『なんだかんだ、いつも付き合ってくれてるじゃん、蘭。それにさ、この数年、地震、津波、火山噴火、豪雨による土砂災害……日本だけじゃなくて、外国でも大規模災害が頻発して、大きな被害が出てるでしょ?』
二週間ぶりに見た雨以外の貴重な曇り空を芽衣は憂うように見上げた。
『もし今災害が起きて、この地上になにもなくなってしまったとしたら? 薬もすでに調剤、梱包されたものが届くこの時代で、自分にできることは少ない。私は怖いんだよ、目の前で助けを求めてる人がいるのに、なにもできないことが』
もし今災害が起きて、この地上になにもなくなってしまったとしたら……か。
現代の医療は血圧計も自動で、水銀製のものを見ることは少なくなった。カルテや看護記録も電子で、手書きのものを使用したのは学生の頃に行った実習以来だ。
芽衣の言うような事態が起きたとき、豊富な医療機器に頼りきりの自分にできることは少ないだろう。最近、確かに自然災害が多いし、私もそんな懸念を抱かないことはない。
でも、私は芽衣ほど使命感を持って仕事はしていない。最初は誰かの役に立ちたいからついた 職業だけれど、実際は休みもないし、感染の危機に晒されてるし、忙しいから現場は常にピりついていて人間関係も劣悪で、白衣の天使なんて嘘だよと思う。
やりがいはあるけど、夢よりも現実のほうが浮き彫りになってきて、看護師を目指したときのあのキラキラした気持ちを忘れてしまった。そういう自分とは違って、夢への輝きを失わない彼女は純粋にすごいと思う。
『私は、なにもなくなっても、なにかできる医療者で在りたいの』
その曇りない思いに突き動かされて、芽衣は電気がない時代で自分が施せるだろう医療をノートに書き留めているのだ。それに、なんだかんだ私も参加させられている。
『……凍瘡、しもやけについて……だっけ、今日の討論内容は。エアコンとかヒーターがなかったら、家の中でも起こるわね』
私が討論にやる気になったと思ったのか、芽衣の顔がぱっと輝いた。
『そうなの! そこでびっくりしたのが、昔の人は靴下の爪先に唐辛子を入れることで、しもやけを防止してたんだって。唐辛子の辛さ成分が皮膚を刺激して血行をよくするから、エビデンス的には成り立ってると思わない?』
どうして、そこまで一生懸命になれるのか──。
生き生きと語る芽衣は本当に純粋でまっすぐで、毒気を抜かれてしまう。心から誰かを救いたいなんて言う白衣の天使もこの世にいるのかもしれない。そんなふうに彼女を見ていると考えを改めさせられる。
『そうかもだけど、唐辛子は刺激が強いから、皮膚の弱い人には向かないんじゃない? 薬以外で凍瘡を改善できるとしたら、マッサージで血行を促進するとかね。あとは痒みもあると思うから、皮膚を傷つけないように保湿もしないと』
『そうなんだよね。しもやけの痒みと腫れがひどい場合は、ステロイド軟膏が使えればいいんだけど、さすがにそれは難易度が高いから、植物の根や樹皮から作れる生薬(しょうやく)に目をつけてみたの』
生薬というのは植物や動物、鉱物などが持つ効能を組み合わせて作った薬のことで、漢方薬の原料だ。芽衣の手作りの医学書ノートには、薬用植物の種類や漢方薬の作り方などが書き留められている。
彼女はもっぱら〝もし明日、医療機器がない世界になってしまったら〟という妄想のもと、こうして薬学の原点である薬草と、看護の原点である人間の自然治癒力を引き出す関わりに着目して討論を重ねるのにはまっていた。
おかげで私も、生薬や漢方薬に詳しくなった。看護師も薬学は一通り修めるが、薬剤師には遠く及ばない。贅沢なことに、その専門家が先生なのだ。わかりやすいったらない。
『軟膏はミツロウと、人の肌によく馴染むように豚脂(とんし)を加えれば作れるの。そこに消炎、抗菌、肉芽(にくが)形成、解毒作用がある薬草を入れれば……はい、凍瘡に効く『紫雲膏(しうんこう)』の出来上がり』
『それなら機械がなくても作れる……うん、採用でいいんじゃない?』
芽衣は『よっしゃ』と言いながら、凍瘡処置のページの下の方に【M&R】のイニシャルを書き足した。使えると判断した治療法は採用の意味で、こうしてふたりのサインを入れるのがルールになっている……らしい。芽衣が勝手に決めたことだけれど。
ふたりでノートを覗き込んでいたら、ぽたっとしずくが落ちてきた。ふたりで顔を上げれば、雲の流れが速い。
『うわ……これまたドサーッと来そうだね』
心配そうに雨雲を見つめている芽衣に『そうだね』と相槌を打ったそばから、私の気分もどんよりする。
つい先日も集中豪雨による洪水で家族や家を失った人がたくさんいるとニュースでやっていた。復興が終わらないうちに次の災害に見舞われてしまうので、避難所暮らしを強いられている人の数が増えているのが社会問題になっているほどだ。
『本当に、この世界はどうなっちゃうんだろうね』
湿気を纏った生温かい風に、芽衣の呟きが攫われていく。そのとき、雨粒が大きくなって、ザーッと私たちを打ちつけた。
『最悪!』
思わず叫んだとき、芽衣が白衣を脱いで頭に被り、キメ顔でこちらを向く。
『入れよ、ハニー』
『イケメンか! というか、誘い方が古い!』
その中に遠慮なく入り、私たちは笑いながら雨の中を走る。こんな世界だけど、隣に彼女がいるだけで明るくなれた。
『白衣に防水機能がついてればなー』
『白衣を傘替わりに使う機会は、そうそうないと思うけど』
ぼやく芽衣にそう返しながら病院内に入ったとき、ガタガタと揺れを感じた。ふたりで足を止め、天井を見上げる。
地震?
頻繫に起こっているので、今回もすぐにおさまるだろう。そう思っていた次の瞬間、ドンッと身体が跳ね上った。
え──。
悲鳴をあげる間もなく、私はお腹から地面に叩きつけられるようにして落下した。うっと呻きつつ顔を上げれば、少し先にうつ伏せに倒れている芽衣を発見する。
『め……芽衣……っ』
そばに行こうとしたら、今まで聞いたことがない凄まじい地鳴りがした。
芽衣が顔を上げ、『ら……』と私の名前を呼ぼうとしたとき、病院は耳をつんざくような音を立てて──倒壊した。
それからしばらく意識を失っていた。遠くで雨の音がして、ぽたぽたと頬に冷たい水の感触。次第に突き刺すような痛みと圧迫感に襲われ、ゆっくりと瞼を開ける。
『う……ぁ……』
背中が重い、息ができない……っ。
落ちてきた天井に押し潰されたのだろう。生温かい血が身体を濡らし、床に赤い水溜りを作っている。まだ生きていること自体が奇跡だった。
『め、い……』
崩れた天井の隙間から微かに光が差し込み、彼女を照らしていた。
私は廊下に這いつくばったまま、手を伸ばす。芽衣は私の呼び声にぴくりと指を動かし、『うっ……』と苦しげな声を漏らしながら、こちらを見た。
『う……ら、ん……なに、これ……』
芽衣はしばし混乱している様子だったが、すぐに『蘭……っ』と我に返り、私のところまで這って来ようとする。でも、芽衣も瓦礫の下敷きになっていて、身動きがとれないようだった。
『っ……どうしよう、足がっ……』
『芽衣、大丈夫……きっと、救助が来るわ……だから、それまで……話を……しない? いつも、中庭で……してる、みたいに……』
私は自分に言い聞かせるように、『大丈夫』と繰り返す。それでも不安で手を伸ばすと、芽衣も腕を伸ばして握り返してくれた。
『そう、だね……なんだろう、すぐに思いつかないけど……この地震で、本当になっちゃった……かも、ね……医療機器がない、世界に……』
『今こそ、役立つわね……手作りの……あの医学書……』
ふふ、と力なく笑いながら、私たちは血でぬるりと滑る手を強く強く握る。
『……っ、蘭……もし、このまま世界が終わって……ドラマみたいに、違う時代に飛んじゃったり……新しい世界で生まれ変われちゃったり……したら、さ……』
『なに、言ってるの……世界は終わらないし、私たちはここで……生きて、いくんでしょう……?』
救助がいつ来るのか、世界がどう姿を変えてしまったのかもわからない。絶望が未来を信じさせてくれなくて、涙がこぼれた。
『それがいちばん、だけど……この先、どうなるかわからない、から……約束、しよう……』
芽衣も目に涙を溜めながら、指切りするように小指を絡ませてくる。
『どこにいくにしても……私たちふたりで……だよ。それで、たくさん助けるの……私たちなら、いろんな人を……治せる……』
『わかっ、わかった……っ』
嗚咽に邪魔されながら、私は何度も頷く。何回も小指を揺らす。
どんなにくだらなかろうが、理想でしかない夢物語だろうが、目の前にいる親友が生きる気力を失わずに済むなら、馬鹿みたいにがむしゃらに誰かを助けたっていい。
数秒後の自分がどうなっているのかもわからない中で、私たちはただ約束という希望に縋っていた。
そのとき、ゴオオオオッとまた地鳴りがした。地下にとてつもなく強大な魔物でも棲んでいるかのように、その唸り声はどんどん大きくなっていき、地面が激しく揺れだす。
『蘭っ、離さないで……っ』
『芽衣っ……絶対に離さない、離さない……っ』
硬く両手を握り合った瞬間、ドオオンッと天井が落ちてくる。
白井蘭の人生に幕が下ろされるその瞬間まで、私が感じていたのは……親友の手のぬくもりだった。
そうして気づいたら、私はこの雪華国に転生していた。
物心ついたときから転生前の記憶があったので、私の中身はやはり白井蘭のままだった。そのせいか、この世界の両親を自分の親だと思うことはできなかった。
両親も子供にしては言葉遣いが達者で、この世界の人が知らない知識を口にする私を気味悪がっていた。転生の影響なのかなんなのかは知らないが、両親とは似ても似つかない容姿で生まれたことも原因だろう。
いずれ捨てられるかもしれない。その懸念が現実になったのは十五歳になった頃だ。両親が私を妓楼(ぎろう)に売り飛ばす相談をしているのを聞いてしまった。どこぞの誰かの慰み者になるなんてまっぴらごめんだった私は、こっそり家を飛び出した。
私の看護技術はこの国では医術に相当するようで、私は治療を対価に宿を借りたり、食べ物を分けてもらったりして、できるだけ遠くへと逃げた。
そして、誰にも見つからない場所を探して辿り着いたのがこの白龍山だ。十五の少女がここまで見つからずに来られたのは、私が前世の記憶を持っていたからだろう。
でも、両親は前金を貰っていたのか、妓楼からの追手はすぐそこまで迫っていた。
宿では足がつくし、他に身を隠す場所もなく、事前に高山病予防になる薬草を摂取して山に逃げ込んだのだが、情けないことに地理がわからず私は遭難してしまった。
そんな私を助けてくれたのがオヌフ民族の族長だ。土地が空いていた村のそばに小屋まで建ててくれて、食べ物や衣服までお裾分けしてくれた。私に返せるものといったら医術しかないので、病にかかった村人たちを無償で治療して、助け合いながらなんとか生活してきた。
でも、ふとした瞬間に心がそれだけでは足りないのだと、片割れを探すように痛みを伝えてくる。どこに行くにしても、ふたりでと約束したのに、私の隣にあの子はいない。いないんだ、離れないようにと強く手を握っていたはずなのに……。
感傷に浸っているときだった。頬に温かい手が触れ、私は我に返る。目を瞬かせながら視線を落とせば、寝台に横たわっている青年がこちらを見上げていた。
そうだった、看病の途中だった。村の男たちが出て行ってから、私は青年の眠る寝台に腰かけて看病をしていたのだが、いつの間にか記憶の海に沈んでいたようだ。
「目が覚めたのね」
「雨の音が……聞こえて……」
「雨……」
吹雪対策で家の周りを覆っている葦(よし)の簾(すだれ)に、サーッと雨が当たる音がする。窓を見上げれば、朝なのに薄暗い。陰鬱で湿った空気が肌に纏わりつくのを感じた。
「お前の涙とともに……天も泣いた。それも医仙ゆえの力か?」
青年の指が私の濡れた頬を拭っていく。そこで初めて自分が泣いていたことに気づいた私は、ごまかすように笑って肩を竦めた。
「ああ、さっき村の人たちが話しているのを聞いたのね。ここの人たちは確かに私を医仙と呼ぶけれど、私にそんな力はないわ。あったとしても、雨なんて降らせない」
雨の日は決まって憂鬱になる。あの子を失ったこと、自分が生まれた世界が大きく姿を変えてしまったこと、日常が崩れ去ってしまったことを嫌でも思い出すから。
「……そうしてもらえると、助かる」
「え?」
「俺も……雨が……好きではない」
この人も、なんだ。
理由は聞かなかった。私なら、会ったばかりの人間に知られたくないと思うからだ。ただ、彼の傷が透けて見えた気がして、自分だけではないのだと少し心が軽くなった。
「……泣けるうちに、泣いておいたほうがいい。堕ちるところまで堕ちると……涙も、出なくなる」
それは……経験談?
がらんとうの瞳をいくら覗き込んでも、その心は見えない。だから私も探らない。この人に踏み込めば、うっかり自分の傷にも触れてしまいそうだったから。
「私のことよりも、今はあなた自身のことを気にかけて。できる処置はしたけど、つらい症状はない?」
どれだけ時が経とうと、新しい人生を歩み始めようと、あの子や故郷、そこにいた家族を失った痛みや孤独感は消えない。言葉にするのはつらくて、私は話を逸らした。
「身体の怠さはあるが、だいぶ楽になった……」
私が話したくないと察してくれたのか、それとも単に気づかなかっただけなのか、青年は追及してこなかった。
「それはよかった。一日、二日で落ち着くとは思うけど、これ以上高い地点に登るのはやめたほうがいいわ。それから、ここで休んでいても症状が悪くなったら下山して」
寝台から立ち上がって、私は囲炉裏(いろり)に近づく。濡らした布で吊り土鍋の蓋を開け、瓢箪(ひょうたん)をふたつに割って作った皿に玉杓子(たまじゃくし)でお粥をよそった。
「連れの人はいないの? 下山するにしても、ひとりじゃ危ないわ」
青年は質問に答えなかった。いつもそうなのか、無表情で感情がさっぱり読み取れない。身なりがいいのも、若干口調が偉そうなのも、いいとこのご子息だからと考えるのが妥当だろう。そんな名家のご子息様がこんなところに来るなんて、わけあり以外の何者でもない。
もしかして、私と同じようにやむを得ない事情で逃げてきたの?
なにも話そうとしない青年に、私はふうっと息をつき、「わかったわ」と言いながら寝台へ戻る。
「好きなだけここにいていいから」
器を差し出せば、それを受け取りながら青年は真意を探るように見つめてきた。
「なあに? 親切にされることがそんなにおかしい? 顔に書いてあるわよ、なにか裏があるんじゃないかって」
からかうように言えば、青年はわずかに目を見張り、すぐに真顔に戻る。
「俺は……顔に出ていたか?」
「うん、弱ってるから余計に繕えなくなっているのね、きっと」
それと、看護師だった頃に培った観察力や洞察力のおかげでもある。
「俺は……あまり表情豊かなほうでは……ない」
うん、それは否定しない。
とは言えないので、とりあえず笑顔でごまかしておいた。
さて、どうしたものか。この様子だと、ご飯を食べてもらうのは難しそう。
まずは不信感を解いてもらうため、私は自分の身の上話をすることにした。
「私もね、ここの村の人たちに助けてもらったの。ほら私、こんな容姿でしょう? 両親から気味悪がられてて、妓楼に売られそうになったから逃げてきてね」
興味があるのかないのか、青年は相槌もなくじっとこちらを見つめている。
無反応……やっぱり、なにを考えているのかわかりづらい人だな。
「でも、追手がすぐそばまで来てて……山に逃げ込んだら遭難しちゃって。そんな私を村の人たちが助けてくれたの。だから私は、村の人たちにしてもらったことをあなたに返してるだけ」
にこりと笑いかけ、自分の分の食事をつぐと、私は再び青年のいる寝台に腰かけた。
「食欲ないかもしれないけど、それだけはお腹に入れて? 鶏肉に消化しやすい菘(すずな)と清白(すずしろ)、血行をよくする人参に胡麻と生姜が入ってるの。身体があったかくなると思うわ」
青年は思案するように器に視線を落とし、ゆっくりと匙を口に運んだ。ひとまず食べてくれたことにほっとしていると、青年は驚いたように器を見つめて固まる。
「ど、どうしたの? 不味かった?」
「いや……味がするな、と」
「うん? 調味料を入れ忘れるようなドジは踏んでないもの、当然でしょ。いっぱい食べて、たくさん休んで。それから、これからのことを考えましょう」
私は自分の器に入っている鶏肉を青年の器に入れ、笑って見せた。
青年は無償の親切心を信じられないのか、優しくされることに慣れていないのか、他になにかあるのか、やはり無言で私を凝視していた。
翌朝、私は家の前の薬草園にいた。こじんまりとしているが、三年かけて私が作ったものだ。ここで足りないものももちろんあるので、そういうときは山に取りに行く。
雪が積もった場所では普通、植物はその重みで枝や幹が折れ、葉が傷み、根が腐って育たない。でも、雪華国の植物はこの厳しい自然環境に順応してか、強い耐寒性と生命力を持って野生している。
「医仙」
しゃがんで竹ざるに摘んだ薬草を入れていると、後ろから青年がやってきた。
「まだ横になってなきゃ、無理は禁物よ」
立ち上がろうとしたら、それを手で制された。青年は私の隣に腰を落とし、手元を覗き込んでくる。
「それは?」
「これは多年草の『ムラサキ』。山の高い場所にある畑はひんやりしてて涼しいから、ムラサキの栽培に最適なの。この根を乾燥させたものを薬として使うのよ」
収穫したムラサキの根を見せれば、青年は興味深そうに眺め、腕まくりをした。
「……手伝う。看病の礼だ」
「え……でも、あまり外にいないほうがいいわ。病み上がりなんだし……」
「もう平気だ。お前の治療が効いたらしい」
頑として聞かない青年に根負けして、私は「そう? それじゃあ、お願い」と一緒にムラサキの根を収穫する。それから黙々と作業をしていたのだが、沈黙が気まずい。相手は口数が多そうな人ではないし、私が一方的に話しても鬱陶しいだろう。
「お前は……いくつだ」
やっと話したと思ったら……。
ムラサキの根についた雪を払い、淡々となんてことないように尋ねてくるが、いきなり女人にする質問じゃない。
「若く見えるが、いやに口調が大人びている」
「なるほど、私がおばさんみたいだと」
その能面を壊してみたい衝動に駆られ、ふざけて返せば、青年は渋い面持ちで動きを止めた。
「……お前は一回りも二回りも年上の男たちに頼りにされ、オヌフ民族のような屈強な男たちを恐れてもいない。それに少し……驚いた」
その言い訳じみた返答に、私はふふっと笑う。
「わかってるわ、あなたに悪気はないって。ただ、その無表情を崩してみたかったのよ。あなた、ちっとも笑わないから」
にっこりする私を青年は〝理解できない〟と言いたげに見ていた。
「だって、急に『お前はいくつだ』とか聞くんだもの。あなた、初めてのお見合いじゃないんだから」
青年の台詞の部分は真顔で声真似もしつつお届けした。すると、青年は少しばかりばつが悪そうに目を逸らす。
「……お前は、いつもそんななのか」
「そんなって?」
「……物怖じしないで人をからかう」
「物怖じしないって……オヌフ民族の人たちのことを言ってるなら、彼らを誤解してるわ。確かに狩猟民族なだけあって勇ましいけど、仲間思いでいい人たちよ。それと、私はだれかれ構わず人をからかってるわけじゃないわ。あなたのその眉間のしわを薄くできないものかと思っただけよ」
深いしわが刻まれた目の前の眉間を指でぐりぐりと押せば、青年は「おいっ」と微かに目を見張った。私の手首を掴んで阻止しようとする青年の額には、しっかり泥がついている。土いじりの最中だったのを失念していた。
「ぶっ……ごめんなさい、私のせいね……ふふっ」
疲弊の滲んだ顔で沈黙している青年の額を着物の袖で拭ってあげる。
「話が逸れたけど、私の年齢の話をしていたんだったわね。私は二十……十八よ」
つい、前世の年齢で答えそうになり、言い直す。精神年齢は前世の二十七歳なのだが、そんなことを話しても信じてもらえずに変人だと思われるか、村人たちのように仙女だと騒ぎ立てられるかのどちらかだ。でも、言い直したのがいけなかった。
「天雲山に住む仙人は不老不死らしいな」
青年の目がすっと細められ、なんでか探られているような気になる。
「わ……私が不老不死なら、しわに悩まなくて済むわね。寒いと肌が突っ張って、しかもカピカピになるもの」
両手で頬を押さえて笑みを作ると、青年は「あ」という顔になり、私から視線を逸らす。
「……今度は、お前の顔に泥がついている」
「……あ」
天然泥パックの出来上がり。
「これで喧嘩両成敗ね!」
「喧嘩……をした覚えはない」
「お互い様って意味よ」
青年は呆れ気味に息を吐き、まくっていた袖を伸ばすと、躊躇いがちに腕を伸ばしてくる。そして、不器用な手つきながら服の袖で私の顔をごしごしと拭いた。
「えっ、あなたの服が汚れるわよ!」
「別に構わない」
ぶっきらぼうに答える青年に、私はされるがままになっていた。
服よりも私の肌が汚れるほうが一大事だと思ってくれている……ってことよね?
気遣ってくれたんだろうけど、まったくそれが表情に出ないので戸惑ってしまう。
「こんなふうに、無意味な時間を過ごしたのは……初めてだ」
無意味って、それはひどくないかな?
そう突っ込もうと思ったのだが、青年があまりにも思いつめた様子で言うので飲み込んだ。
「で、その無意味な時間を過ごした感想は?」
「……悪くない」
ひと言感想文ね。
私は苦笑いしながらも、胸のあたりがぽかぽかと温かくなるのを感じていた。
きっと、彼はこんな平凡な日常とはかけ離れた世界にいたのかもしれない。そこから逃げてきて、ここに辿り着いたのか、なにひとつ私は知らないけれど……。
「その悪くないと思えたものは、大事にしないとね」
どういう意味だと、青年の眼差しが問いかけている。
「この広い世界で、大切だと思えるものを見つけるのは難しい。そして、それを得られたとしても、大切なものを失うのは簡単よ。どんなに強く握りしめていても、瞬きをした瞬間にこの手をすり抜けていることもあるわ」
自分の手を見つめて思い出すのは、繋いでいたはずのあの子の手の感触と温もり。自分で言っていて気づいた。私もまた、この世界で悪くないと思えたものを大事にしないといけないのだと。
「大事にしたくても……できないときは、どうすればいい」
青年の手が私の手首を掴む。その手は自分から触れてきたくせに震えていて、力が込もっていた。なんとなしにされた質問でないことは明らかだったので、私も言葉を選びながら真剣に答える。
「そのときは……その大事なものを忘れずにいる。そばに置いておけるに越したことはないけど、そうできなかったら覚えておくわ。大事だと思った気持ちを」
「……それで満足できるのか」
「できないよ? でも、それを思い出したとき、きっとつらいだけじゃなくて……私を励ましてくれると思うから」
抽象的な話だ。でも、私たちはそれぞれ大事なものを思い浮かべ、なにかの答えを探そうとしていた。
「……そうか」
青年は苦しげに眉間を寄せ、私から手を離した。
「ねえ、大丈──」
思い詰めているように見えて、『大丈夫?』と尋ねようとしたとき、「白蘭様~!」と子供の声がした。振り返りながら立ち上がれば、村の男の子が走ってくる。
「白蘭様っ、父ちゃんが……ぐすっ、父ちゃんが狩りの途中で転んで、鎌で足を切っちまったんだ! 助けて!」
私は服で手の泥を拭き取ると、泣きじゃくる男の子の頭をくしゃりと撫でた。
「泣かない、泣かない。お父さんのために、今できることをやろう」
男の子は目元をごしごしと拭い、私を強い眼差しで見上げてくる。
「わかった、僕も手伝う!」
私は「よし!」と返して、家から処置道具や薬草が入った治療箱を持ってくると、青年を振り返った。
「あなたは適当に家でくつろいでいて」
「……俺も行こう」
「え? でも、あなたは休んでいたほうが……」
「急を要するのだろう。手は多いほうがいい」
「……それも、そうね。わかったわ、無理はしないで」
昨日の今日で無理はしてほしくないのだが、そばにいないときに体調が悪化しても困る。それなら一緒にいたほうがいい。
苦渋の選択ではあるが、彼も連れて坂を下りたところにある村まで走る。
「お待たせしました……!」
村の井戸の前に男の子の父親は座っていた。彼の前に膝をつき、すぐに下衣をまくり上げて傷口を確認すると、ざっくりと縦に大きく切れている。
「……っ」
血を見た瞬間、青年が目を背けた。
「……? 血が苦手なの? それなら下がっていて」
中には失神してしまう人もいるので、珍しいことではない。私たちを囲うように立っていた村人たちも、痛々しい傷から顔を背けている。
「いや……問題ない」
「でも、気分が悪くなったらすぐに言ってね」
青年は頷く。問題ないって顔ではなかったが、今は男の子の父親の治療が先だ。
「お酒と洗浄用にぬるいお湯を用意してくれますか? 冷たい水だと痛みが増すので、人肌程度のものをお願いします。それから清潔な布と、この釣り針と糸を熱い湯で熱してきてください」
両手で傷口を圧迫止血しながら指示を出すと、負傷した父親の妻や村の女たちが「わかったよ!」と言って、私の釣り針と糸を手に走っていく。
「ぐうっ……白蘭様、俺は……どうなっちまうんですか……?」
「出血はそれほど傷が深くなければ自然に止まります。でも、傷が皮下組織……つまり深いと、簡単には止血できません。こうなると止血剤を用いての圧迫止血、もしくは縫合による止血が必要になります」
そこへ「お待ちどお!」と、村の女たちが酒壺をいくつかと、ぬるま湯が入った桶をたくさん持ってくる。私は一緒についてきた青年と男の子を振り返った。
「この人の身体をしっかり押さえて──って、ねえ! あなた、本当に大丈夫?」
言われた通りに身体を押さえる男の子の隣で、青年は「うっ」と頭を押さえてよろめく。その場に座り込み、「ぜえー、はあーっ」と荒い呼吸を繰り返していた。
「発作みたいな……っ、ものだ……」
なにかを追い払うように頭を振った青年は、苦しそうにながらも負傷した父親の身体を押さえる。彼が気がかりだったが、私はまず負傷した父親を診ることに集中した。
「お湯をかけますね。沁(し)み ますよ──」
村の男は「ううっ」と痛みにうめいたが、桶でしっかり傷口を洗浄していく。
傷口の汚染状況によっては、全身の筋肉にけいれんが生じる破傷風(はしょうふう)などの感染症を引き起こす。破傷風の菌は土壌や動物の糞便、錆(さび)の中にいるので、汚れが残ったままの鎌から感染する可能性が大いにある。そのため、洗浄をして傷口についた砂や汚れを落とすことがなにより大事なのだ。
「砂に石……うん、異物はもう傷口内に残ってないわね。でもこれ……」
洗浄してようやく傷口がはっきり見えたのだが、皮膚の最も深い層まで至っている。そこは太い血管も通っているので、血がなかなか止まらないのはそのせいだろう。
「もしかして、単純に鎌で切ったんじゃなくて、足に刺さったのを引き抜いたのでは?」
「ああ、刺さったままじゃ身動きがとれねえんで、抜いちまったんですが、まずかったですかね?」
なんてことを……。
彼らが狩猟道具や農具で怪我をするのは日常茶飯事なので、そういったときの応急処置は一通り教えたはずだった。でも、豪快な狩猟民族の彼らはそういった細かいことを気にしない。
「まずは止血薬で圧迫止血してみましょう。それで血が止まらなければ縫合します」
傷口の圧迫を青年に頼み、私は止血や抗菌、化膿を防ぐ作用のある蓬(よもぎ)や金銀花(きんぎんか)、童氏老鸛草(どうしろうかんそう)を薬研ですり潰す。
「お酒を手にかけてくれる?」
青年にそう頼み、手指消毒をしたあと、その汁を傷口に擦り込んで上から布で圧迫した。皆がその様子を固唾を飲みながら眺めている。
「……っ、止まりませんね。縫合に切り替えます」
私は治療箱から黒い煎餅の形をした薬を取り出す。
「それはなんだ?」
謎の黒い物体を目の当たりにした青年は、不気味そうにしながら尋ねてきた。
「『蟾酥(せんそ)』というの。ヒキガエルの目の後ろをしごくと出てくる分泌物で、それを集めて乾燥させたものよ。塗ったところの感覚を鈍らせて、痛みを感じにくくするの」
私は蟾酥を傷口に塗布しながら説明する。
古来より局所麻酔作用のある生薬の一種として珍重されてきたと、あの子から教わった。あの子が私にくれた薬学の知識が、私に生かすための力をくれている。
「でも、完全に痛みを取り除けるわけではないから、お父さんには頑張ってもらわないとですが……」
男の子の父親を見れば、「お、俺も男だ! 耐えて見せる!」と青い顔をしているものの勇ましく答えた。
私は笑みを返しつつ頷き、湯で手を洗う。村の女たちが煮沸消毒してくれた釣り針と植物の亜麻から作られた糸を持ち、手と一緒にさらに酒でも消毒をした。
「いきます。しっかり押さえていてくださいね」
青年と男の子に身体を押さえさえ、私は傷を縫う。縫合は看護師の分野ではないので前世では経験はなかったが、ここではできないなんて言っていられない。
ここへ来るまでの三年間、前世で医者がしていたように、見よう見まねで何度も傷を縫ってきた。まともな麻酔薬がない中での処置は怖いけれど、私は傷口を塞ぐことだけに集中する。それが私の看護と、あの子の薬学でたくさんの人を助ける。その約束に繫がっているから。
それから数刻ほどして、やっと縫合が終わった。血も止まり、私はふうっと額の汗を拭いながら治療箱の蓋を閉める。
「念のため、抗菌作用のある紫雲膏を塗っておきますね。熱が出たり、傷口が赤くなったりしたらすぐに教えてください。ばい菌──じゃなくて、よくない気が入り込んでしまっているので」
この世界の人たちは、病が菌やウイルスなどによって起こることを知らない。原因不明の病はだいたいが呪い扱いだし、身体の不調は悪い気が入り込んだからだと思っている。だからこそ、医仙などという神様的な存在を本気で信じられるのだろう。
「わかったぜ……ありがとうございます、白蘭様……」
「それから再々言ってますが、刃物が刺さったときは絶対に抜いちゃいけません。余計に傷を広げて出血が酷くなることもあるんですよ?」
咎めるように男の子の父親を見れば、𠮟られた子供のように肩を窄める。様子を見守っていた村人たちからは「まーた、始まったねえ」「白蘭様のお説教は猪餐村の名物になりつつあるなあ」と笑いが起こった。
「一、二週間くらいで抜糸しますから、それまでは無茶しないでくださいね」
「わかりましたって。だから白蘭様、そんな怖い顔しないでくださいよお~」
泣き言をこぼしている男の子の父親に、私は「もう」と苦笑いする。そのとき、ふと青年と村人の会話が耳に入ってきた。
「ここでは顔が腫れる疫病が蔓延していると聞いた。だが、皆元気なようだな」
「そりゃあ、ひと月前くらいの話だねえ。白蘭様はその病にかからないとかで、うつるのを恐れずに私らの治療をしてくれたんだよ」
「病にかからない?」
眉を顰める青年に、私は「少し語弊があるわ」と口を挟みつつ肩を竦めた。
「この村に流行っていたのは、おたふく風邪よ。一度かかると免疫がついて、二度とかからないの」
私は十歳のときにかかり、自ら治療した。おたふく風邪のウイルスに効く薬は現代日本にもないので、身体が消耗しないように薬や冷罨法で熱を下げたり、痛みを取り除いたり、症状に合わせて苦痛を和らげ、人の回復力を高めるのが基本的な治療法だ。ただ、この世界は基本的に衛生状態が悪いので、どんな病も重症化しやすい。
「仙人の知恵か」
真顔だけれど、たぶん感心している青年に、私は苦い笑みを返す。
決して私が仙人だからではなく、現代日本では医者でなくとも知っているような知識だ。でも、その知識がここでは神の御業(みわざ)かのようにとられてしまう。それほど、医療が発展していないのだ。
おまけにこの世界には仙人伝説が多く残っている。おかげで私は白龍山に辿り着くまでに治療した人たちから、行く先々で病を治せる不老不死の医仙だと騒がれた。少女の見た目で医術を施せたからだ。もはや訂正しても、私が普通の人間であることのほうが信じてもらえない気がするので、聞き流している自分がいる。