人類が地上を支配し始めてから、幾万の歴史の果て。
 どれだけ歴史を刻んでも、人々は戦争という無益な争いを止めることはなかった。
 戦の発端は、民族間紛争であったり、宗教の過激派テロであったりと、どれも些細なものだった。しかし、それらは次第に国を巻き込み、まるで国家間の科学技術を誇示するかのように、最新の化学兵器を用いた大規模で凄惨な世界戦争へと発展していった。
 そして、今から百三十七年前。
 とある国が秘密裏に開発していたバイオ兵器の誤爆により、地上世界が壊滅するという、人類にとって大きな転機を迎えることとなる。


 地上へと繋がる通路を下って居住区へと戻った私は、真っ直ぐカレッジへと向かう自動通路に乗った。この地下世界を照らす人工太陽もそれなりに明るく、薄暗い通路から出て暫くは目を細めてしまう。
 まだ人々が地上で生活していた頃から、地下の開発は進んでいた。世界で九ヶ所。特に人口の多い地域で大規模な開拓が行われており、いよいよ居住が可能になったちょうどその頃に、地上世界は壊滅したのだ。
 まさに急死に一生。生き残ったごく僅かな人々は、出来上がったばかりの地下都市へと逃げ、そして生活圏を整えた。そしてその九ヶ所のそれぞれが地上に実験地を持ち、地下に居住のための各施設と一つのカレッジを有している。
 居住区の最北に集められた研究施設群。ブレインたちは基本的に住居を持たず、研究室内の個人部屋に寝泊まりしていた。カレッジは研究施設群の中にあり、生徒は親元を離れて学生寮で生活する。都市の南側に設けられた一般人の生活区とは完全に隔離されていた。
「あっ、マユ! 久しぶり〜」
 正門で出くわしたのは同い年のシオリだった。飛び級や留年をすることなく順当に進級してきた彼女は、自分より二つ下の学年であるのだが、入学時は勿論同じ学年である。
 私は二年生飛ばして三年生になったため、実質彼女と共に過ごした時間は一年間だったが、カレッジにおいて女子生徒は圧倒的に少ないこともあって、いまだに友人関係は続いていた。
「あんたが来ないから、八年の教室、見てるだけでむさっくるしいたらありゃしなかったわぁ」
 正門から講義棟へ向かう幅広の自動通路の上、脆弱な筋力で抱きついてきた彼女の身体をしっかりと抱き止めた。
 昔から、女性の頭脳回路と理数系の学問は相入れないのだという。迷信にも近いと思っていたのだが、事実、頭脳テストをパスする女子は、世界的に数えても、毎年十数人ほどしかいないらしい。
 生き残った全人類が、満十二歳になる秋の頃、その試験は執り行われる。
 潜在的な知能指数の他、数学、化学、物理学などの知識を問うその試験によって、その人間の一生は決まるのだ。
 パスした僅かな人間だけが最高峰の教育を受ける権利を得、やがてこの星の運命を担うブレインとなる。その他大多数は、ブレインの完璧で安全で公平な管理の下、かつて日本の憲法が謳っていた、健康で文化的な最低限度の生活を保障されながら、平凡で退屈な人生を過ごすのである。
「八年の女子は私だけだからね。でも確か、シオリのところもそうだったでしょ?」
「そうよ! 折角女子が五人もパスしたのに、トモエとツムギは一つ、マユは二つスキップして。ヒナノなんて、もう卒業しちゃった。まるで取り残されたあたしが、出来損ないみたいで嫌なの」
 カレッジでは留年なんてよくあることで、最悪の場合ブレインになる資格を剥奪されることだって珍しくない中、順当に進級し続けているだけでも本来は十分なのだが。
「私だって、許されるならずっと学生でいたいよ」
 そう、小さく漏らして、シオリのふわふわの茶髪をぐりぐりと撫で回した。
 私たちの世代は、統一試験を受験する前から、世界中の注目を浴びていた。そして迎えた統一試験。第九区はこの制度が始まって以来最も多数の合格者を輩出する。そして後に、その合格者たちの大半は、他の居住区の合格者と比べても非常に優秀であることも判明した。
 ブレインによって結成されたときの政府による実験は、無事に成功を収めたのである。
「そんなにブレインになりたくないわけ?」
「ブレインが嫌なんじゃない。学生みたいに自由がなくなるのが嫌なだけ」
 自分で口にしながら、何とも酷い我儘だと思った。シオリも勿論そう感じたのだろう、堪え切れないとばかりに笑い出す。
「マユ、これだけ我儘を繰り返したのに、まだ足りないの? これ以上は、贅沢言っちゃだめだよ。あたしたちは、自分の一番したい研究に一生携わって生きていける。そんな自由とやり甲斐を、この頭で掴み取ったんだから」
 そうでしょ、と小首を傾げてから、お返しと言わんばかりに頭を捏ね回された。
「大丈夫。ちゃんと、わかってるから」
 でも、自分の学びたい分野が、この世界で無駄と見なされて、排除されているとしたら?
 知識を得ることを許されない世界。そんな世界で、私は研究者をしていく意味があるの?
 それも全部、幼稚な我儘に過ぎないのだけど。思い切り撫でられた反動で俯いた頭をそのままに、誰にも気取られないように、唇を噛み締めた。

 
 シオリと別れ、八学年の講義室の扉を潜ると、自席に座る。窓際の一番後ろは随分と前から私の指定席になっていた。
 そんな特等席に座るのも、もう何週間ぶりだろうか。前の方の座席から視線を感じて顔を上げると、私が講義に出ることがわかり、心底安堵したような顔のアサヒと目が合った。他にも、男子生徒たちからの視線を感じる。
 どうせ何も知らない生徒からは、こんなときだけ顔を出す狡い奴だと思われているのだろう。
 アサヒに懇願されたから来たのだ、などと、逐一説明をする気も起らない。他人にどう思われていても構わない。
 彼らのことは気にも留めず、机上にモニターを幾つか浮かべた。その中の一つのモニターに表示されたのは、今日のトップニュース。
 第九区の隣に位置する第八区。そこの筆頭ブレインが交代するらしい。後任は近々発表される予定とのことだが、最有力候補は。
 そこまで読んだところで、カレッジの中でも権力のある教授が講義室に訪れた。部屋は静まり返り、生徒たちは居住まいを正す。
「よし、全員揃っているな? もう配属先が決まっている者もいるだろうが、滅多にない機会だからな。よく話を聞くように」
 教授はそう言うと、扉の外に向かって頷いた。そしてゆっくりと講義室へと姿を見せる、鮮やかな金色の髪。
 その可能性は否定できなかった。でも、予想をしていたわけでもなくて。
 私は顔を上げたまま固まった。
「みなさん、はじめまして」
 綺麗な発音。だけど私や母のようなネイティブには少し劣る。
 何を考えているのか、眩しい金髪の青年は教卓の前に立つと、日本語で話し始めた。講義室がざわつく。部屋の外で控えていた何人もの教授たちが顔を見合わせている様子が目に入った。
 いくらここが選ばれた者だけが通うカレッジであっても。いや、科学者を養成するカレッジだからこそ、この場に日本語を話せる者はいない。
 ここにはブレインに不必要な学問は切り捨てる者しか存在しない。
 目立ちたくはなかったけれど、仕方なく立ち上がる。すると、金髪の青年はゆるりと笑みを浮かべる。
「先生。共通言語でお願いします。みんな、戸惑っていますから。それにここには、日本語が話せる者はいませんよ」
 敢えて、日本語で言うと、言葉の内容を雰囲気で察したのか、周囲からよく言ったと言わんばかりの視線を注がれた。
「目で見て確かめないと信じられない主義なんだ。申し訳ない」
 私にしか理解できない言葉で皆に謝罪をすると、彼は共通言語に切り替える。
「改めて。僕の名前はジルといいます」
 白衣の代わりにオーバーサイズの灰色のパーカーを纏ったジルは、どう見ても私たちと同世代の青年で、名高いブレインには見えない。だけど私は知っていた。彼の頭の中に詰まった、天才と謳われる私でさえ想像も及ばない、膨大で莫大なる知識を。
「さて。綺麗事を並べるのは好きじゃないから、単刀直入に言おう。僕は、君たちの中から有望な人材を見つけて引き抜くために、研究室の代表として、ここに訪れた」
 これまで同じような動機でカレッジを訪れたブレインたちは、ある程度自分の研究内容について講義をした後で、質疑応答や自己アピールの時間を設けていた。今までにない切り口で進めるジルに、生徒たちの顔に不安の色が滲んでゆく。
「僕の研究室、それから各居住区にある関連施設が行っている研究については、みんな、嫌と言うほど知っているね? 一番有名なのは、この地球が誇る最先端医学。僕たち以外で、その技術を持つ場所はない。その他にも、特に優秀な研究者たちが大勢集っている」
 彼の言う通り、その研究を知らない者はいない。それだけ著名な研究室だ、この学年でも彼の研究室に所属を望む者は多く、直属ではないものの傘下の研究室に既に配属が決まっている者もいた。
「しかし今日選ぶのは、研究所の中枢。この星の、人類の運命を握っている主力メンバーだ」
 途端、教室がざわついた。そして誰もが思っただろう。
 どうしてそんな重要な人選を行うのが、自分たちとさほど年の変わらない青年なのだろうか、と。しかしそれを聞く時間も、雰囲気もない。
「僕はね、君たちがここを卒業してブレインになったら、何をしたいか。それを教えてほしいんだよね。……じゃあ、そっちの端から順にいこうか」
 一番遠い席からでも、唐突に指された男子生徒の両肩が跳ね上がるのが目に入る。
「僕の研究室に興味がないなら、素直に自分のやりたいことを言ってくれればそれでいいから。気楽にいこう」
 そうして、生徒たちは順に、己が掲げるブレインとしての在り方や信念を話し始めた。
 私の番は最後か。頬杖をついて眺めていると、並んだ黒い頭の中にちらほらと数人、鮮やかな毛色がやけに目立って見えた。
 約半分の生徒が話し終える。中には彼、ジルの研究室に入りたいと熱く語る者もいたが、ジルは人形のように表情一つ変えることはなかった。
「はい。じゃあ、次の人」
 いつになく緊張した面持ちで立ち上がったのは、アサヒだった。ジルが僅かに表情を崩したのは多分、稀有なヤマトの外見に驚いたからではなく、私と共に地上にいたのを見ていたからだろう。
「俺は、大気化学の研究に邁進していきます。きっと……、きっといつか、我々人類は地上の世界を取り戻す」
 よく通る声だった。
「いくら壊れて、滅んでしまっていても、俺はこの星を捨てることを許さない」
 その凛とした言葉を聞いて、幼い頃からずっと、彼はこの夢を語っていたことを思い出す。この星の大気は生命が芽吹くことが不可能な程に汚染されていて。地上被験地に出向くたびに、自分の夢がどれだけ難しいものかを思い知らされると項垂れていたのはカレッジに入学して間も無くの頃だっただろうか。
 今まで生徒の発言内容には一度も言及することのなかったジルが、僅かに低い声色で問いかけた。
「……そう。君は、壊れた地球が何よりも大切だと。そう、言うんだね? 極右派のアベル」
 その声に、怒りや他の負の感情は感じなかったのだけど、何故か背筋が粟立つ。
「はい。人類の、生物たちの進化の軌跡が詰まったこの惑星を、俺は絶対に見捨てられません」
 はっきりと、そう言い放ったアサヒの顔を見ることは叶わなかったけれど、きっと彼は目を逸らすことなくジルを見つめていたのだろう。
 暫くの沈黙を破ったのは、柔らかなジルの声だった。
「わかった、ありがとう。座っていいよ。じゃあ次の人ね」
 何事もなかったかのように微笑む顔からは、何の感情も読み取ることができない。アサヒは黙って一礼すると、静かに席に着いた。
 それからは、アサヒのときのようなやり取りもなく、生徒たちの回答が繰り返されていった。もうすぐ全ての生徒が答え終わり、順番は私に回ってくる。
 どこの研究室の配属になるか。そんなものは、試験をパスしたときから決めているし、決まっていた私にとって、こんなものは無駄でしかない。
「はい、じゃあ次。彼女で最後だね」
 青い目に見つめられて立ち上がると、自嘲気味に答える。
「私は植物学です。第八区にある植物学の研究所。そこの所長が私の父親で、副所長が母親ですから」
 生まれながらにして決まっていた将来を、憂いたことはない。私自身、植物が好きだから、いつも花を見に行っている。
「それは君が希望していること?」 
「ええ。親のコネとはいえ、あんなに大きな研究室に入れるなんて、恵まれていると思います」
 ふぅん、と、ジルは納得いかないような顔をする。
「じゃあ君は、さっきの赤毛の彼のように、この壊れた地球が大切で。それを守りたいと。枯れた大地に緑の木々を芽吹かせたいと願う?」
「……まさか」
 なるほど。質問の意図をやっと理解した。私は、カインともアベルとも違う。
「私はエデン・ロストを許さない」
「それは史実か、或いは旧約聖書の楽園喪失か。ここは敢えて聞かないでおくとするよ」

 必要のない知識を得ることが許されない世界を、私は許さない。

 知識を得たがために楽園を追われたアダムとイブ。
 知識を得すぎたがために地上から追われた人類。

 エデン・ロスト。この世界の人々は、百三十七年前に起きた地上世界の崩壊を、そう呼んでいる。