かつては植物学の大規模な研究所であったが、今はノアの僅かな研究員のみが出入りしている建物。その静かな通路を私は黙って駆けていた。まるで独り言のように、トーヤが言う。
「ミナトさんが第八居住区筆頭になったことで、いよいよ余裕がなくなったのだろうね。チャイルドの情報や、船の航路に関わるプログラムの奪取及び破壊が相手の目的。それまでの時間稼ぎのために、ジルに端末を触らせないようにする必要がある」
「そのために、彼らはここへ来て、何らかの妨害措置を行う可能性が高いのね。……そのために、アサヒは」
 建物の出口が近づいて、私たちは足を止めた。移動通路がゆっくりと、人工太陽の照らす出口へと運び出す。
 外がどんな風になっているのか、内心とても怖かったのだが、相変わらずの静けさにほっとした。通路から降りて、トーヤと二人、周囲に気を配りながらも、何気なく立ち話をしている風を装う。
 そうして少しの時間が経ったときだった。
「あっ、マユ! 久しぶり〜」
 いつの日か聞いたものと全く同じ台詞を耳にして、思わず手に汗を握ってしまう。
「またこんなところでサボり〜?」
 明るい声で話しかけてきたのは、同い年だが二つ下の学年に籍を置くシオリだった。第一学年の一年間は同級生だったこともあり、数少ない同性の友人である。
「マユ、彼女は?」
 トーヤは何も知らない風に装って、私に問いかける。
「彼女はシオリよ。私と同じ年にカレッジに入学したの」
「そうか、君の友人なんだね。初めまして、俺は地質学の研究をしているニシムラという」
 爽やかに挨拶をするトーヤに、シオリは薄い茶色の瞳を輝かせながらぴょこんと頭を下げた。
「知ってます! トーヤ・ニシムラ先輩。以前、マユと同じ学年でしたよね? もう、マユったら。こんなに素敵な彼氏がいるなら、もっと早く教えてよね」
 ちらりとトーヤを見やると、何やら目で合図を送っている。そしてそれは、そういうことにしておけ、と言っているように見えた。
 こんなところに男女が二人でいるならば、それが一番自然なのだろう。ジルだって、トーヤと二人で医療センターに行っただけのことを、デートと呼んでいたのだから。
「ごめんね。恥ずかしくて、言えなかったのよ」
 そう答えると、隣のトーヤが明らかに、やってしまった! とでも言いそうな顔になっているのに気が付いた。
 え? 私、トーヤからの合図を逆の意味に受け取った?
「へぇ……本当に彼氏なんだ。くっだらない。恋愛なんて、時間の無駄でしかないわ。これからの時代、優れた遺伝子を残すために、子どもはみんな、あたしたちみたいに人工子宮で生まれるんだから」
 相手が数年来の友人で、私は冷静な判断を欠いていた。
「今後この世界に誕生する子は、みんなとても賢いの。それって、素晴らしい事だと思わない? 穀潰しで生きてる価値のない一般人がいない世界って、最高でしょ?」
 ふわふわの茶髪を揺らしながら、嬉しそうに笑うシオリ。彼女はこんなことを口にするような子だっただろうか。統一試験をパスできなかった者たちを、生きている価値がない人間だなんて。そんな酷いことを口にするような子である記憶はない。
「ねぇ、なんだか今日のシオリ、おかしいよ……?」
 私がそう言うと、今まで笑っていた顔が突如として険しくなる。
「は? おかしいのはあんたの方でしょ? いっつも意味わかんない昔のものばっか見てて。そのくせ、あたしよりずっと成績がいいなんて。本当に昔から、憎くて憎くて堪らなかったのよ!」
 あまりの剣幕に、二、三歩後ずさると、トーヤがしっかりと受け止めてくれた。
「あたしはこの星の未来を作る神の子どもなんだから! この世界はお父さまとあたしたちが再生するのよ! それを邪魔するのなら……、大人しく、消えてちょうだい」
 彼女は真っ直ぐに腕を伸ばすと、軽い音と共に、そこから何らかの衝撃が私の横を掠めていった。よく見ると、伸ばされた袖口から細い筒が見える。
「嘘でしょ……? シオリ、やめて」
 パシュンーー
 軽快な音と共に、右頬に焼けるような痛みを感じた。袖口に仕込んだ小さな銃のような物で、実弾ではなく光線のようなものを放っているのか。
 私があまりの衝撃に動けずにいると、隣をすり抜けたトーヤが一瞬の隙をついてシオリの鳩尾に拳を入れた。華奢な身体はそのまま倒れ込む。
 油断していた。とはいえ、私にとっては大切な友人である。精神的なダメージは凄まじかった。しかし私がこれから相手をするのは、皆、同時にカレッジに入学した同級生たちなのだ。
「ジルもなかなか難題を押し付けてくれるね。君にとっては相手が悪すぎる」
「まさかだったわ。完全に油断をしていた。でも、次は大丈夫。もう同じ過ちは犯さない」
 あんな、まるで洗脳されているかのような友人は、見るに耐えない。アベルは、ドクター・フジワラは、一見真っ当なことを掲げながら、人工子宮で生まれた子らを自分の手駒のように使っているのだ。
 どんな方法で生まれようが、知能に差があろうが、みんな必死にこの壊れた世界を生きていることに変わりはないのに。
 久しぶりだな、とトーヤが呟く。
「ちょっと君が現れるのは早すぎるんじゃないかな?」
 私も、正直なところもっと遅くに彼はやってくると思っていた。物語で例えるなら、最後の宿敵、のようなポジションで。しかし現実は物語のようには上手くはできていない。現れた赤毛頭に、いろんな感情が渦巻く。
「アサヒ……」
 名前を呼んでも、彼と目が合うことはなかった。故意に、私たちの拠点を知るために、彼は私にあのペンダントを贈ったのだ。
「久しぶりだな、トーヤ。……きっぱり諦めたつもりだったが、こうしてお前たちが並んでいるのをみるのは、なかなか堪える」
「諦める必要がどこにあるのかな? 彼女だって君を拒否したわけではない。ならば、その感情を持ち続けても構わないだろう?」
 アサヒの告白を断ったとはいえ、彼のことが嫌いというわけではない。トーヤの言うことは間違いではないのだが、それはアサヒの逆鱗に触れたらしい。
「なぜお前はそうやって余裕でいられるんだ! いつだってお前はそうだ。後から現れて、俺の大切なものを全部奪っていく」
「……どういう意味かな?」
 私を庇うように前に出て、アサヒとトーヤは直接睨み合った。
 二歳という歳の差は、幼い子どもにとっては大きなものだ。三人がまだ一緒に勉強していた頃は、アサヒの方がずっと小さくて幼い印象が強かった。しかし今は、身長こそトーヤの方が少し高いが、二人とも体格の良い青年になった。二人の迫力に、私は後ろに下がって萎縮してしまう。
「俺はマユと出会って、新しい世界を知った。一緒に過ごす日々は、本当に楽しくて、唯一の癒しだったんだ。だが、それは一年足らずしか続かなかった。……そう、突然現れたお前に、全てぶち壊されたからな」
「それは……まだほんの幼い頃の話かな? 俺は母が突然入院して途方に暮れていたところを、ハルナさんに拾ってもらったという印象しかない。君に何かをした記憶は一切ないんだが……」
 虚を衝かれたのか、トーヤは困ったように事実を答えるしかない。しかしその事実が更にアサヒの心情を煽ってしまう。
「幼い頃の俺にとって、マユと二人で過ごす時間は何よりも尊いものだった! だが、お前が来てからは、マユはお前の勉強も見るようになってしまった。俺への関心が薄れ、俺だけのマユではなくなってしまったんだ!」
「嫉妬、にしても目に余るな。どうしてそんなにも彼女に執着する? 君は施設でかなり良い待遇を受けていて、何不自由ない生活を送っていたはずだよ。全てを持っているものが、何も持たない俺なんかに、そこまで激しい嫉妬をするなんて」
 アサヒは一度言葉を飲み込む素振りを見せたが、耐えきれなかったのか、話を続ける。
「何不自由ない施設での暮らしが、俺を神の子だと讃えるその施設にいることが、苦痛だったんだ。そして、施設の中では落ちこぼれだった俺を、初めてただ普通の少年のように扱ってくれたマユの存在が、あまりにも大き過ぎた」
 私は初めから私自身のものであって、アサヒのものになったことなど一度もない。彼が私に、異様なほど執着するのは、恋愛感情以外の要因が大きいく占めていた。
「つまりアサヒは、神の子を讃えられることが嫌だったのね? それはつまり、アベルとその施設の考え方や在り方が嫌ということ。だから、私に縋ることで心の均衡を保っていたんでしょう?」
「……アベルを、心から、嫌だと思うことができればよかった。それならば、マユがトーヤに笑いかけても、ここまで醜く嫉妬し、執着することはなかっただろうな。自分でもわかっている」
 嫌だと思いながらも、完全に嫌とは思えない。それは自分の心が、自分で制御できないということを意味していた。
 すなわち彼は、心の向くままに行動し、自分の望むように生きることができないということなのか。
「……みんなから蔑まれていたのは、本当に俺が、仲間の中では不出来だったからだ。そして今でも、アベルの考え方は間違っていないと思っている」
 そうして彼は、私たちをしっかりと見つめて問いかけた。
「なぁ、トーヤ。マユ。お前たちは、人類を生み、守り、育んできた地球を、壊れた地球を再生するために尽力することが間違いだと、本当に言い切れるのか?」
 ジルと初めて出会い、カレッジで彼を真っ直ぐ見据えながら自分の考えを述べたアサヒの姿は記憶に新しい。
「いくら壊れて、滅んでしまっていても、俺はこの星を捨てることを許さない。人類の、生物たちの進化の軌跡が詰まったこの惑星を、俺は絶対に見捨てることはできない」
 それが、アサヒの選んだ選択肢で、私やトーヤが選んだ選択肢とは異なっていた。どちらの選択肢も間違ってはいない。それならば、あとは自分の信念を貫くことしかできない。
「私は自分が知りたいと思う知識を否定されるこの世界が、嫌いよ」
「大切な家族を失い。いつ自分がこの世界に適合出来なくなり、分厚い壁に囲まれた偽りの楽園に軟禁される。そんなことに怯えながら日々を過ごすことが、俺には不可能だったんだよ」
 臆病者だと、笑いたければ笑えばいい。と、トーヤが自嘲するように吐き捨てる。
 私たちがそれぞれの信念を曲げることはない。志は決して交わらないのならば、対立する他手立てはないのだ。先程のシオリのように、危害を加えてくるかもしれない。と、私達は身構えたのだが、アサヒは手を出してくる素振りはない。
 身体から力が抜け、だらりと両手が下がっているその姿は、今にも崩れ落ちそうに見える。そして、本当に力のない声で、彼は諦めたように言った。
「……俺たちは、我らが父であるドクター・フジワラ無しでは、この世に誕生することのできなかった存在。そして、俺を構成している遺伝子は、」
 悲しげな顔で、ぽつぽつと紡いでいた言葉が突然途絶え、その身体は地に落ちた。
「もうっ! これだから出来損ないって嫌いなの。余計なことを、ぺらぺらぺらぺら喋ってくれちゃって」
 崩れ落ちた身体の後方から、黒いヒールを高らかに響かせて現れたのは金髪で長身の女性。誰が見ても、到底私と同い年には見えないだろう。
「あなたは……ヒナノ?」
「久しぶりね、マユ。二年前は同じくらいの身長だったはずだけど、あなた少し縮んだ?」
 二年振りに会う彼女は、当時十六歳の頃と比べて明らかに身長も伸び、女性的にとても魅力的な体つきになっていた。
「変わったのはヒナノの方よ……。欧米人の遺伝子を受け継いでいるって聞いたことはあったけど……、本当に、物凄い美人になったわ」
「あら、それはありがと」
 そう言うと、ヒナノは私にウインクを飛ばした。時代が時代なら、映画のスターやモデルとして活躍していたかもしれない、そんなカリスマ性を、彼女は持っていた。
 彼女が優れていたのは、外見だけではない。桃の子どもたちの中でも、学力に優劣はある。アサヒが出来損ないとして蔑まれていたならば、ヒナノはトップの学力を誇り皆から大切にされていた。
「それで、ヒナノ。あなた、アサヒには何をしたの?」
 タイトスカートにヒール、長い白衣という、スタンダードなブレインの装いであるが、ヒナノが身に付けるだけで、不思議と艶っぽさを感じる。
「ただの麻酔よ。使っているのもごく弱い薬。出来損ないでも、一応、お父さまが創造した初めての子どもの内の1人だもの。手荒には扱えないわ」
 その手には、小さな電子端末が握られていた。おそらくそれが、麻酔薬を放つ道具なのだろう。
 倒れているアサヒを、ヒナノは蔑んだ目で見る。
「わたし、馬鹿な男って、本当に嫌い。虫唾が走るわ。反対に、マユみたいに頭の良い女性は本当に素敵! わたし、あなたのことがずっと昔から大好きなのよ」
「それは、あ、りがとう……」
 そんな告白をされても、返す言葉がなく、間抜けな礼を返す。
「わたし、ずっと前から思っていたの。わたしたちとマユって、本質は同じだと思わない? 偶然、産まれ方が違っただけで、選ばれた優秀な遺伝子を受け継いで生まれているのはマユも同じ。そう、マユも、わたしたち神の子と同じなのよ!」
「え、いや、それは……」
 私が優秀なブレインと優秀なブレインの間に生まれたことは、事実だ。昔は謙遜をしていた時期もあったが、むしろそれは厭味になることに気が付いてからは、素直に認めることにした。
 両親から受け継いだ遺伝子のお陰で、持って生まれた理解力や記憶力が他人より優れているということは、常々感じているし、感謝している。
 でも、私は神の子ではない。
「だから、わたしと一緒に行きましょ? あなたも仲間に入れてあげる。一緒に神の子として、この世界を作り直すのよ!」
 否定する隙もないほど捲し立てられて、私の手を取ったヒナノ。しかしその腕は、容赦なく叩き落とされた。
「それはできないな。彼女は神の子どもではない。紛れもなく、ドクター・ハヤセ夫妻の子どもだよ」
「あんたは確か、一つ下の学年だった、一般人生まれね。そもそもあんたとわたしたちは血統が違うんだから、図々しい真似はやめてもらえる?」
 叩かれた手を庇いつつ端末を取り、トーヤと向き合うヒナノだったが、突然顔色が変わる。
「何よこれ! 使えないじゃない!」
 その焦った表情と声は、演技で出せるものではないだろう。相手が丸腰ならば、こちらが圧倒的に有利だ。私は自分より背も高く、肉付きの良いヒナノの身体を押さえつけた。
 柔らかくて、魅力的で。そして、なんと脆弱な身体なんだろう。必死の形相で抵抗されても、何も感じない。
「マユ! こんなことをして、許されると思っているの?」
「ヒナノ。私は誰にも許しは請わないわ。私は誰にも許される必要性がないのだから」
 彼女が持っていた端末を奪うと、トーヤに投げる。
「麻酔薬を放出するというプログラムが破壊されている。もうこいつは使えないね。それにしても早い。さすが年の功といったところかな」
 それはつまり、ハッキングの対応をしていたジルが、逆に相手のコンピューターのプログラムを破壊したということを意味するのだろう。
 私たちの役目もこれで済んだなら、これ以上誰早くここから立ち去りたい。もう誰にも会いたくない。会うのが怖い。
 私に身体を拘束されたヒナノが、ヒステリックに叫ぶ声が研究区域に響き渡った。
「あんたたち、わたしが誰だかわかっているの? お父さまの、この星を再生する神の、最高傑作であるわたしにこんなことをして。許されるはずがないのよ!」
「ーーそう。それがツカサ・フジワラがこの星に執着する本当の理由なんだね」
 私たちの後方から、大仕事を終えたばかりとは思えない涼しい顔をしたジルが、数名のノアの研究員と共に現れた。


 カレッジの入学式は、第九区では秋と呼ばれる季節に毎年執り行われる。おめでたい行事なんて、ほとんどなくなったこの世界では珍しく、華々しいイベントだ。
 十二歳という年齢で将来を左右する試験にパスし、希望に満ち溢れた少年少女たちは、在校生はもちろん、多くの科学者から祝福を受けながらその門をくぐるのだ。
 第九区では、毎年平均十名ほどがカレッジに入学する。しかし六年前に限っては、その人数は四十に近かった。内訳は、アベルの愛し子たち三十余名と、その他数名。私はもちろん、数少ないその他の一人である。
「入学式に参列したとき以来かな。こうして集まると、まるでここが第九区ではないのかと錯覚しそうになる光景だ」
「あの入学式は、さすがの私も驚いたわ。あらゆる髪色、目の色、肌の色があって、人類の多様性に改めて気付かされたもの」
 私たちが呑気に会話をしているのは、もう腹を括ったからだった。移動通路に乗ってゆっくりとこちらに向かってくる集団。それは、会いたくないと願っていた、私と共に入学した、元同級生のほぼ全員だった。
 私は数少ない学友の全てを敵に回したということになる。
 対するこちらは、私とトーヤ、ジルに加えて、駆け付けた三人の研究員の合計六人となっていた。その内の一人は、初めて会う名前も知らない壮年の男性だ。
 シオリ、アサヒ、ヒナノの三人は、ハオが持ってきた金属製の道具で後ろ手に拘束され、見張られていた。調理に関する道具や食器類の研究をしているはずの彼は、いずれこういうこともあるかもしれないとジルに頼まれ、それら拘束具を作っておいたのだという。
「使用することがないよう祈っていたのだがな」
 感情を表には出さず静かに憂いているハオを、隣でそっとシェンが慰めていた。
「この時代にこんなことが起こるものなんてねぇ。まるで西暦時代の喧嘩そのものだ。徒党を組んで、ボス同士が顔を突き合わせるなんて。ふふっ」
 笑いを堪えられないジルに、トーヤはため息を漏らす。
「俺は戦闘員としてノアに加入したわけではないんだよ、まったく……」
「この僕でさえ、戦闘要員が必要になるなんて想像できなかったんだよ? まぁでも、こちらが負ける確率は限りなくゼロに等しい。出来ることならもっと穏便に済ませたかった、ただそれだけだ」
 その自信はどこから来るのか。ジルが余裕の勝利宣言をしているうちに、色とりどりの集団が辿り着く。先頭に立つのは、父と同じぐらいの年齢の男性だ。ニュースなどはあまり目にしない私でも知っている。彼こそが、第九居住区筆頭ブレイン、ツカサ・フジワラその人であった。
「やぁツカサ。久しぶりだね! 十年ほど前に一区のカレッジで話したのを覚えているかな?」
 親しい友人に話し掛けるような口調のジルに、ドクター・フジワラは嫌悪の眼差しを向ける。
「……覚えていますよ。貴方ほど容姿の整った、まるで仏人形のような人物は、第一区でも珍しいですからね」
 当時のジルは、カレッジの一生徒に扮して彼と接触を図ったと言っていた。十年前の一生徒を覚えているなんて、やはりジルの容姿はそれだけ稀有なものなのか、とぼんやり思う。
「しかし、こうして十年も変わらぬ姿を見るのは本当に、不気味なものですな。ああ、おぞましい」
「いいんだよ、僕はおぞましい存在で。それでいい。忌み嫌われようが、憎まれようが、怖がられようが。好意を持たれるよりも、嫌われる方が有り難い」
「確かに。ノアの計画を、最後まで遂行するにあたっては、それが好ましいでしょうなぁ」
 最後まで、と、その部分を強調して頷く。ドクター・フジワラは、ノアの計画についてかなり詳しく知っているような口ぶりである。
 私は直感で思う。ノアの計画には私には知らされていないことがまだまだあり、その私が知らない部分まで、彼は知っているのではないか、と。
「しかし、それをされては困るのですよ。貴方に壮大な夢があるのと同様、私も大きな理想を掲げていますから」
「建前だけは綺麗事で、それだけ聞くと、君の考えに賛同する者も一定数は存在するだろうね」
「綺麗事とは、なんと失礼な。この母なる地球を、壊れた地球を再生させるために尽力することこそが私の夢。何一つおかしなことなどないでしょう!」
 唸るようにそう言うと、後ろにいた青年たちが前へと出る。同じように、トーヤとジルが、私を庇うかのようにして前へ進み出た。
「あなたは今後も人工子宮を使い、優れた知能を持つ人間を増産していくのだろう。その際には彼らの遺伝子を操作し、施設では宗教的な教育で洗脳し、自分の言いなりになる駒にする」
 トーヤも、今までの皆の言葉から、彼の本当の計画を見抜いていた。ジルもその言葉に続く。
「君は、新たに生まれた人間たちを統べる神になりたいんだろう? それがアベルの、ドクター・ツカサ・フジワラの本当の計画だよね」
 自分の目論みをあらわにされても表情一つ変えないドクター・フジワラ。しかし、トーヤとジルによって有無を言わさず後ろに隠された私に気が付いたのか、目が合った瞬間、ジルに浴びせたものより数倍も強い憎しみや怒りの籠った目で、私を睨みつけた。
「その目鼻立ち。娘、お前はまさか、早瀬湊と伊藤榛奈の娘か」
 彼の口から出たのは、流暢な日本語だった。
 両親共に世界的に広く名が知られているが、母の旧姓が出てきたことにはさすがに驚く。ここにいる者で日本語を理解することができるのは、私と彼だけ。そう思って、聞かれたくない話をするために、彼は言語を日本語に切り替えたのだ。
 まさか西洋人の外見をしているジルが理解できるなんて、考えもせずに。
「どうしてあなたが、母の旧姓を知ってるの? ブレインとして功績を挙げた頃には既に、父と結婚して早瀬の姓になっていたはずなのに」
「やはりお前は榛奈の子、か。わたしはカレッジで彼らと同じ学年だった。八年の間、三人でこの星の未来についてよく話し合っていたんだよ」
 周囲の者たちは、私たちをただ黙って見守っていた。どちらかが行動を起こせば、すぐに対応できるように細心の注意を払いながら。
「これほど美しい日本語を聞くのは、学生の頃以来だ。それは、榛奈から教わったのか?」
「ええ。母の家系、伊藤家は、日本語を絶やさず受け継いでいきたいと考えているから。早瀬の家も純粋な日系だから会話程度は出来るけど、それでも父により正しい言葉を教えたのは母だと聞いているわ」
 そうか、と、ドクター・フジワラは、藤原司は頷く。
「藤原の家も、早瀬と似たようなものだな。だからわたしのこの日本語も、榛奈から教わったのだ。彼女からは本当に多くのものを与えてもらったよ。賢く、美しく、そして時にあどけなく。本当に魅力的な女性だった」
 そう語る表情は、どこか遠い日のことを見ていて。きっと彼は、母に特別な感情を抱いていたのだろう。
「榛奈。どうしてお前は湊を選んだんだ? ……わたしはね、生まれたお前を見たときに初めて、こんな世界を根底から変えてやろうと決心したのだよ」
「……私が、原因なの?」
「ああそうだ。婚姻なんていう制度がなければ!妊娠出産を全て機械に任せていれば! 榛奈は誰のものにもならなかった! 産まれた娘を見る彼女の顔は、まさに母親の顔で。わたしが欲しくてたまらなかった、恋焦がれた榛奈ではなくなってしまっていたんだよ!」
 そんな一つの感情で、彼はブレインとしてのし上がり、この世界の制度を変えたのか。愛や恋の存在しない世界に。人間は人工的に作られる世界に。
 そして最終的には、その子どもたちを使い、新たな世界の頂点に君臨するということか。
「ママが今のあなたを見たら、何て言うでしょうね」
 顔にかかった髪を払いながら、冷ややかな目で彼を見る。長く伸びた黒髪を払う仕草は、母の癖と同じだった。昔を知る人は、今の私と母の若い頃がそっくりだという。ドクター・フジワラもそう感じたのか、突如平常心を失った。
「は、榛奈? やめるんだ、そんな目でわたしを見るな!」
「私は早瀬真由。早瀬湊と早瀬榛奈の娘。ママとは別の人間よ」
 ジルは、自分のことを狂っていると言っていたけれど。彼、藤原司も、とっくの昔に狂っていたのだろう。
 この壊れた世界が、人間たちをどんどん狂わせてゆく。
「違う。榛奈、ではない。お前は、湊の娘。お前さえいなければ」
 震える声でドクター・フジワラが取り出したのは、綺麗に磨かれた刃渡り十センチ程の刃物だった。人工太陽の光を反射して銀色の光が煌めく。
「マユ・ハヤセ。わたしはあなたを。あなたの家族を許しません」
 共通言語に戻したのは、引き連れている彼の子どもたちにも理解できるように。電子機器の類は使えなくなる可能性があることを見越して、わざわざ刃物を所持していたのだろう。
 ジルの言う通り、物語で読んだ西暦時代の喧嘩そのものね。
「マユ!」
 ジルの声が聞こえると同時に私は思い切り突き飛ばされて地に転がる。鈍い音と焼け焦げた匂いが鼻をついた。
 慌てて起き上がると、ジルの肩から細く煙が上がっている。ドクター・フジワラの両隣に控えていた、元同級生のワタルとヤマトが手にしているのは、コンピューターの制御を受けない、火薬を使用した拳銃だ。
「ジル!」
「君たちアベルが、西暦時代の武器を持っていることが不思議だったんだけど。今なら合点がいくよ。学生時代にミナトと仲が良かったということは、西暦時代の話も彼と色々話しているんだろう? ツカサ?」
 肩に穴が開いていても、出血も痛がる素振りもしない。そんなジルの発言に、ドクター・フジワラは狼狽した。
「なっ、貴様、小娘との会話を、日本語を理解していたのか!」
「僕は君が知っているよりも、ずっとずっと長く生きているからねぇ」
 私だけにしかわからないと思っていた自身の過去の話を、ジルに聞かれていたことが、彼の羞恥心を煽ったのだろう。顔がどんどん赤くなり、ぷるぷると震えだす。
 そして銀色の刃物を手に、一心不乱に駆け出した。
 プツ。
「ーーおやすみ。いい夢を」
 彼を身体ごと受け止めたジルは、その首に注射針を打ち込んでいた。ジルの脇腹には深々と刃物が突き刺さっているものの、血液は一滴も流れない。
 改めて、この人は、ジルコニアは、人間ではなく造り物なのだと思い知らされた。