トーヤに送られて自宅に着いた頃には、既に日が傾きかけていた。地下世界を照らす人工太陽も、夜になれば西へと沈んでゆくように作られているのだ。
 脱ぎ捨てられた白衣は椅子に投げられ、ファスナーを下ろした紺色のスカートはそのまま床に丸い形状で落ちた。それを跨いで部屋の奥のベッドに向かう。
 朝起きたときに脱いでそのままにしてあった黒のショートパンツをとりあえず履くと、ワイシャツに皺がつくのも気にせず布団に飛び込んだ。
 頭の中がぐちゃぐちゃなる感覚は、久しぶりのものだった。まだ統一試験に合格する前。小さな脳味噌に、両親から膨大な知識を与えられ、それをどうにか自分のものにしようとするものの、たびたびパンクしていたあの頃の感覚とよく似ている。
 枕を抱き締めて、ベッドの上でごろんごろんと何度も転がる。頑張れ私の脳味噌。明日までにはいつもの私に戻れるように。
 しかし、そんなときに限って、滅多に鳴らない部屋のチャイムが鳴る。側に浮かび上がったディスプレイに映し出された外の光景に、小さく息を飲んだ。
 アサヒ君には、気をつけてほしいの。
 母の声が頭の中に響く。どうしてそんなことを言うのか、どれだけ考えても、理由がわからなかった。
 薄いブルーのワイシャツ、紺色のスラックス、そして長い白衣を羽織った姿は、カレッジの在学生である証。
「どうしたの? こんな時間に」
 アサヒには気をつけるんだ、絶対に気を許してはならない。
 トーヤもそう言っていたけど、やはり理由は教えてくれていない。どうしてみんなしてアサヒを悪者のように言うのだろう。
「マユのことが、ずっと気になっていた。あの日、ドクター・ジルに抱えられて姿を消して以来、カレッジにも顔を出していないだろう?」
 ドアを開けると安堵した表情になったアサヒ。私はどうしても、彼のことを悪者とは思えない。
「上がってもいいか? あの後何があったのか教えてほしい」
「脱ぎ散らかしてて酷い有様でもよければ」
 大丈夫。もし何か起こりそうになったとしても、彼は力で私に勝つことはできないのだ。
 部屋に入るなり、アサヒは呆れ返った目で私を見て、呆れ返ったように笑う。
「このスカートの脱ぎ方は……いや、突然来た俺が悪いんだ。わかっている。でも、本当に酷いな」
「だから言ったでしょ! 酷い有様だって」
 しばらく笑っていたアサヒが、笑いながらも鋭く見透かすように私を見る。
「久しぶりだな。こんなに頭がぐちゃぐちゃになっているお前を見るのは」
「あー……そうだよね。アサヒは何度も見てきてるか」
 私は再び、ベッドに飛び込むと枕に顔を埋めた。
 同じ幼馴染でも、トーヤと共に過ごしたのは合計で六年。アサヒと過ごした歳月はその倍以上なのだ。
「統一試験までの八年ちょっとと、カレッジで四年か。さすがにそれだけ一緒にいたら、些細な機微でも気がつくようになる」
「アサヒは何故か、アベルの子たちとはあまり一緒に居なかったもんね」
 人工子宮で生まれた三十余人の子どもたちは、施設で共同生活を送っていた。最高の教育を受け、衣食住には不便せず、満たされた生活を送っていたと、以前にシオリから聞いたことがある。
「施設の自由時間に探検していたら、ミナトさんに見つかって、そしてマユと出会った。昨日のことのように覚えている」
 居住するための建物とは区別された、研究所の立ち並ぶエリアに、彼らの住まう施設は作られていた。よって、自分たち以外には、近くに幼い子どもは住んでいない。四歳のアサヒが父に連れられて私と出会ったとき、心底嬉しそうな顔をしていたのを、私も忘れることはできない。
「自分は普通の子どもではない、選ばれし神の子だ、と施設では刷り込みのように教えられていたからな。自分たち以外の、年の近い、普通の子どもに出会えたのが嬉しかったんだ」
「最先端技術を使って生まれた子に対しては、古典的というか宗教的な教え方よね。神の子って」
「……そうだな。研究室というより、あれは一つの宗教だ」
 アサヒが、宗教なんて。到底この世界を生きる為に必要のないことを口にするのは初めてで、枕から顔を上げて彼の顔を見つめる。
「比較対象がない不確かなものを、ただひたすらに信じるのは、幼い自分でも難しかった。だから、お前に会えたことで、俺は自分の考えや信念を確固たるものにできた」
「ただ施設が退屈だから、抜け出して遊びに来てるんだと思っていたのに。そんなややこしいことを考えてたのねぇ」
 アサヒの返事はない。私も黙って、珍しいけれどすっかり見慣れた赤茶色の目を見つめる。
「その信念も、どうやら貫き通せそうにないがな」
 きっといつか、我々人類は地上の世界を取り戻す。
 いくら壊れて、滅んでしまっていても、俺はこの星を捨てることを許さない。
 それは、彼が幼い頃から抱いていた夢。実現は難しいとわかっていながらも、今まで諦めることなく学を修めてきた。その信念が揺らぐ理由は一つしか思い浮かばない。
「……マユ。起きて、座ってくれないか?」
 掛ける言葉が見つからず黙っていた私に、アサヒは全く関係のないことを言う。首を傾げつつも、その言葉に導かれるがまま、足を下ろしてベッドに腰掛けた。
 ふわり。羽のように軽く抱き締められる。少し癖のある赤毛が頬を掠めてむず痒い。
「俺はずっと、マユのことが好きだった。だからずっと会いに行っていたし、カレッジだって同学年になれるように努力していた。だが、やはり言葉にしないと伝わらないな」
 私と同じで、学問にしが興味がないと思っていた彼の、突然の告白に心底驚いて、私は身動きが取れなくなる。
 私にはまだ、恋が何かすらわからないのに。それがわからなくて困っているのに。
 明らかに意図的で、挑発的に口付けの真似事をしてきたジルのときとは違う状況だった。私はその抱擁を受け入れることも拒否することもせず、ひたすら固まり続けている。
 かける言葉も見つからず、しばらく黙って大人しくしていると、明らかに不機嫌な低い声が耳元に響いた。
「……なんだ? この匂いは。男物の整髪料か?」
「整髪料の匂い?」
「ああ。俺はこれを知っている。……まさか、あいつ。トーヤか?」
 トーヤからそんな、特徴的な匂いがしていただろうか。確かに彼は身だしなみに気を遣っていて、髪も小綺麗に整えている。
「何故今になってあいつが出てくるんだ」
「変な勘違いしないで。トーヤは、ジルの研究所に先に配属になっていたの。私だって再会したときは驚いたんだから」
「だが、研究所が同じだからといって、こんなに匂いがうつるほど近づくようなことはないだろう?」
 私の肩に顔を埋めたまま、アサヒは抱き締める腕の力を僅かに強めた。
「アサヒも気付いた通り、今日は精神的にしんどいことがあったの。それで、心を落ち着けようとして、……思わず、その、……トーヤに抱きついたのよ」
 恋愛はよくわからないけれど、アサヒは恐らく、トーヤに嫉妬をしている。その気持ちを煽らないように、出来るだけオブラートに包んで伝えなければならないと思ったのだが、良い言い訳も思い浮かばず、結局ありのままを伝える。
 そして、予想していた通り、アサヒはそれを聞いて更に機嫌を損ねた。
「相手はいい年をした男なのに、どうしてそんなことができるんだ!」
「今のアサヒだって同じことしてるじゃない!」
「俺はずっと前から、十年以上前からお前のことが好きだった! 好きな人を抱き締めたいと思うのは普通の感情だろう? それなら、マユは? マユはあいつのことが好きなのかよ!」
 何も返すことができなかった。
 何なの? この世界は、もう既に愛や恋という概念が失われてしまったと思っていたのに。そしてアサヒならきっと、それは勉学に不必要なものと切り捨てる。それが私の知っている幼馴染のアサヒなのに。
 まるで、恋愛のわからない私がおかしいみたいじゃない。
「ねぇ。今日のアサヒ、変だよ。机上の学問が何より大切で、恋愛感情なんて不必要なものだから興味がない。それが私の知ってるアサヒなのに」
 沈黙が痛い。色々なことが起こりすぎて、今にも脳味噌が破裂してしまいそうだ。
「……仕方がないだろう! そうでもしないと、お前には追いつけないんだ。少しでも気を抜くと、すぐに手の届かないところに行ってしまう。アベルの愛し子に与えられた遺伝子は確かに優れたものかもしれない。だが、頭の優劣はそれだけでは決まらないんだ!」
 そう言って身体を離すアサヒは、今まで見たことがない程、痛々しい表情をしていた。
「ずっと夢見ていた。共に試験に合格し、共にカレッジに通い、そしてブレインになる。そのために、施設での授業と、ハルナさんからの指導の両方を必死で受けていたんだ。それなのに」
 アサヒはアベルの愛し子だから。優れた遺伝子を受け継いでいるから。私と同じでそれほど努力しなくとも簡単に学問を吸収することができる、なんて。そんなことはなかったのだ。
「愛や恋は過去のものになったと言うが、それは所詮上の人間が決めただけのことだ。人間の感情はそんな簡単にはできていない。俺はマユのことが好きだから、今まで努力し続けることができた」
 恋愛という概念は、私たちの中から消えてしまったのではない。
 私たちは幼い頃から、そういう風に教育されてきただけ。
 それなら私も、今から異性と接するたびに意識していれば、自然とその感情が湧いてくるのだろうか。
「でも、……ごめんなさい。私はまだ、愛や恋が何なのか、わからない」
「わかってる。あいつに抱きついたっていうのも、他意はないんだろう?」
「そう。温かくて気持ちがいいな、としか思わなかった。今、アサヒに抱き締められたときも、なんだか安心するなぁ、って。ただ、それだけなの」
 アサヒには悪いことをしたと思い、俯くと、上の方から長いため息が聞こえる。
「しかしあいつ。せっかく俺とマユが二人で勉強していた場所に突然現れ、カレッジでもマユと一年間一緒に過ごしたかと思えば、今度は同じ研究所だって?」
 ますます許せないな。トーヤも、ノアも。
 苦虫を噛み潰すような、小さな小さな呟きは、聞き間違いではなかったと思う。
 アサヒは、ノアの名を知っている?
 ノアの成そうとしている計画も、知っているの?
「アサヒ、あの……」
 私の声を遮るように、また距離が詰められた。頭を胸に抱かれたかと思うと、首の後ろでパチンと小さな金具のロックが掛かったような音がした。
「もう、俺には必要のないものだ。最後まで諦めはしないつもりだが、さすがに結果は覆らないだろう」
 細いステンレスの鎖に、小さな赤い石の付いたペンダントだった。ルビーより紅いそれは、アサヒの髪の色によく似ている。
「首元から時々見えていたチェーンは、これだったのね。出会ったときからずっと、肌身離さず付けていた大切な物じゃないの?」
「いや、もういいんだ。それより、思ったより長居をしてしまったな。さすがに女子生徒の部屋に遅くまで居るのを見つかるのは避けたい。そろそろ帰ろう」
 そう言ってアサヒは立ち上がる。
「これでよかったんだ。マユに想いを告げ、きっぱりと断られることで、俺は前へと進める。そんな鎖に縋る必要は、もう、ない」
 最後に私を見るその瞳は、とても悲しそうな色をしていた。私はその場から動くことができなくて、部屋から去っていくアサヒの背中を見つめることしかできない。
 アサヒ君には、気をつけてほしいの。
 私の頭の中には、母の声がいつまでもリフレインしていて、その日もまた、なかなか寝付くことができなかった。